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2011年6月13日 (月)

「犬も食わない池田-濱口論争を整理」されました

左のトラックバックにあるように、「ニュースの社会科学的な裏側」ブログにおいて、「犬も食わない池田-濱口論争を整理」されました。

http://www.anlyznews.com/2011/06/blog-post_13.html

冷静かつ客観的立場からはそう見えるであろうと思われるような整理がされており、概ね納得いたします。

>濱口氏は労働問題の定性的研究で業績がある研究者で、池田氏は評論家として著名な人物であると言うのが、私の印象だ。緻密な議論が必要な研究者と、愉快な語り口が必要な評論家で、同じ問題を論争すると、こういう結果になりがちなのは分かる

わたくしにとって、耳が痛かったのは、最後のパラグラフにおける「3法則」のような形の批判をすることへの批判です。やや長いですが、まことに真摯な批判でありますので、そのまま引用いたします。

3. 濱口桂一郎氏を批判する

濱口氏が「池田信夫氏の3法則」で、池田氏の議論の姿勢を批判している。内容はともかく、濱口氏の立場の人が、このような批判をする事は感心しない。

池田氏を批判する意義は、池田信夫氏ブログの読者に、専門的見地から社会問題を考えるための資料を提供するチャンスを提供することだ。池田氏に自身のエントリーを修正させる事は、過去の事例から見る限りは、期待できない。

大抵の第三者は、肩書きではなく内容で評価するため、同レベルで人格批判を行っていると、内容の批判が目立たなくなる問題がある。それでは批判エントリーの意義が無くなるので、池田氏の主張への批判に集中するべきだ。

濱口氏のブログは専門家が一般人へ情報を提供している貴重なブログだと思う。内容的に毎日読む人が多いとは思わないが、完全に娯楽として読まれているブログと違って、真摯に情報を欲している人がアクセスしているはずだ。濱口氏には、そういう人に情報発信を続けて欲しいので、あえて濱口氏の池田氏批判を批判したい

わたくし自身では、必ずしも単なる人格批判ではなく、(それと密接につながりますが)「議論の仕方」批判(「この人の議論の仕方には気をつけろよ」)であったつもりではあるのですが、とはいえ、ほとんど人格批判に見えるような書き方であったことも事実ですし、それなるがゆえに、池田信夫氏に心酔する方々から攻撃を受けることにもなったのであろうと考えれば、このご批判はまことに身に沁むものがあります。

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コメント

3法則のうち、第3法則について疑問というか最近ちょっと混乱しているのですが…、
意見を検証するときに相手の属性や所属って関係ないのですかね…。

たとえば、訴訟法とかでは裁判官の忌避の規定があったりしますよね。
会社でも監査役や会計監査人は一定の利害関係にある人は選任できなかったりしますよね。

これって、話の中身よりも属性を問題にしているということじゃないですか。

属性が大事でないなら、ILOとか労政審とか労働委員会とかの三者構成ってなんなんでしょう。

労働者の代表とか使用者の代表とかの属性にこだわらず、すばらしい労働社会をつくるためにすばらしい議論をできる人たちで構成すればよいのでは。

>日之人さま
>労働者の代表とか使用者の代表とかの属性にこだわらず、すばらしい労働社会をつくるためにすばらしい議論をできる人たちで構成すればよいのでは。

「使用者にとって」素晴らしい労働社会

「労働者にとって」素晴らしい労働社会

往々にして乖離するものだ、という経験則が共有されていたからこそ現状のようなルールが制定されたというのは、てっきり常識だとばかり思っておりました。

そもそも、穏やかな話し合いだけで労働者側の要望を受け入れてくれる寛容な使用者が珍しくないのなら、どうして労働組合なんてものが発生したんでしょうね?

>鬼木さま
つまり、議論の中身自体よりも、まずは議論の相手の属性や所属が大事である。

ということですか。

>日之人さま
>つまり、議論の中身自体よりも、まずは議論の相手の属性や所属が大事である。
ということですか。

例えば、現代における労使交渉が、「労働者側」「使用者側」からそれぞれ代表を出して議論する形にルールが定められているのは、それなりの積み重ねや裏付けがあってのことだ、と指摘したまでです。

そういった飽くまで制度的な側面と、個別的な議論の場で属人的な要素をフレームアップさせるしか能がない不作法者の話は、それぞれ別個に扱うべきかと存じます。
労使交渉のルールは法的な裏付けがあるにせよ、個人対個人の議論などは、ルールというよりマナーの問題なのでは?

私としては、議論の中身も議論の相手の属性もどっちも大事だよなあとなんとなーく考えていたところです。

それを、鬼木様なりに整理すると、
「原則的に議論の中身が大事である。例外的にそれなりの積み重ねや裏付けがあって法的制度的に決められたものに関しては議論の相手の属性も大事である。」
という感じでしょうか。

ただ、日常の話し合いの場面でも「お前にそんなこという資格あんのかよ」と思うことってそんなにめずらしいことではないかと。
「お前にそんなこという資格あんのかよ」というセリフはマナー違反の醜い言動であることが多いと思いますが、そうでない場面もあるように思います。

立場が異なるものは利害関係が対立することがままあり、そのため属性が人の意見を決定する側面は確かにあります。だから医療保険における中医協のように、属性の異なるもの同士(中医協なら医療提供側、支払い側、公益)で話し合いをして妥協点を見出す手続きがしばしば必要になる。
しかし池田信夫が尊敬するミルトン・フリードマンは、官は市場の洗礼を受けていないから最小化すべきで、民は市場の洗礼を受けているから、とにかく民にまかせればすべてうまくいくという単純な二元論を提唱した。でも、これは二つの意味で間違っている。ひとつは、市場は必ずしも個人の利益と社会の利益を一致させる方向に働かせないこと。例えばリーマンショック後のアメリカで、投資銀行の連中が政府と癒着して、自分たちの救済のために大量の税金を使わせておきながら、ほとんど何の責任も取っていないことなど。
もうひとつは、ある属性の人から発する意見は自らの属性の利益を極大化するものであることが多いが、必ずしも他の属性の人の利益を損なうものではないこと。例えば日本医師会は予防接種の公的な負担を拡大するよう国に求めるキャンペーンを行っていた。なぜかというと、日本医師会は開業医の利益団体だから、予防接種を行う機会が増えれば、予防接種は主に開業医が行うものであるため会員の収入拡大に結びつくから。でも予防接種の機会拡大は国民の公衆衛生向上に資するものであり、自分たちの利益のために行っているからといってキャンペーンそのものを否定することはできない。
結局個々の政策の評価は意見を発した人の属性に関係なく、その政策に社会的な公正さがあるかどうかを詳細に評価することによってしかできない。それを行わずにまず属性を批判するのは、議論の内容では勝てないけれど自分の信者には論争で勝ったように見せかけるためのごまかしと判断されても仕方ないでしょう。

参考:フリードマン的批判とは?――制度への理解に自信のない者とエセ研究者がよく使うお手軽な手段
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare260.pdf

>それはひとえに官不信という思想性の問題である。

>制度や政策効果を正しく理解できていない人は、窮すれば窮するほど、フリードマンのように、制度本体の評価、政策評価とは関係のない批判を展開することになる。

>世の中困ったことに、性格の悪い奴らが利己的に行動した結果、しばしば国民の厚生を高める政策が展開されていたりもするわけで、行動主体の善悪で政策効果を評価することはできないんだよね。

「議論の中身」VS「相手の属性」、思考実験のテーマとしては興味深いですが、持ち出された例が「第3法則」というのがどうしようも無いです。

「第3法則」とは、つまり、「議論の中身」からは逃げて、ひたすら「相手の属性」を批判するという、どうしようもない例(まるで子どものケンカ)なので。

いつぞやか、hamachan さんの書かれた本の書評を池田氏が書かれたことがありますが、これなど感動ものでした。内容についての言及は一切なく、属性批判に始終するという、これを「書評」と呼んで良いものかと思われるようなシロモノでしたので。

これが「議論の中身」の伴った「属性批判」ならば、まだ議論の対象になりえたのでしょうけど。

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