磯田進「日本の労働関係の特質-法社会学的研究」@『東洋文化』
東大図書館の書庫の奧から、1950年に刊行された『東洋文化』第1巻第1号を発掘してコピーしてきました。これに、当時東大の社研に来たばかりの磯田進さんが標題の論文を載せています。
戦後日本においては、労働法学と法社会学というのは遠くて近いようでやっぱり遠い関係で、とくに終戦直後の時期の法社会学が得意としていた「生ける法」という観点からの研究は、意外に乏しいのです。藤田若雄さんの研究は極めて法社会学的なセンスが溢れているとはいえ、やはりちょっと違うところがあるし、多くの労働法学者の関心が集団的労使関係の、それも労働基本権に集中し、団結権とかスト権とかばかり論じられているところでは、そういう労働組合もあまりないような中小企業の個別労働関係に着目した研究というのはほとんど見当たりません。
逆に、労働法や労働問題の研究者でない人々のほうがそういう問題に対する問題意識は結構あったりするのですが、労働関係という思考枠組みがないために、なんだか妙に文化論的な方向に行ってしまって、使いものになりにくい傾向があります。
その後、労働法学の関心が個別労働関係に移っていっても、もっぱら緻密な法解釈学的研究ばかりに集中し、日本の個別労働関係の性質論には向かわなかったし、いっぽう日本文化論、日本人論にシフトしてやがて妙に日本礼賛論的に狂い咲きした流れも、その後しぼんでしまっていまや古本屋の店先で一山いくらで投げ売りされています。
ところが、現実の個別労働関係紛争をじっくりと見ていると、実はこういう忘れ去れてしまった労働関係に対する法社会学的議論こそが重要ではないかという思いが湧いてくるのですね。そういう問題意識に対応する研究がないのかと探していくと、今から60年以上前のこの論文にぶちあたったわけです。
>資本主義的な労働関係は、理念的に考えれば、労働力の売買関係に他ならない。すなわち、労働者が彼の労働力を売って、その対価たる賃金を資本家から受け取るという関係に他ならない。・・・ところで、現実に日本に存在している労働関係は、資本主義的労働関係の理念型に果たして一致するのであろうか。
ここで磯田さんは、労働組合が威勢よく活躍しているような職場ではなく、女中さんの労働関係とか、徒弟の年季奉公とか、赤穂の製塩労働者とか、はては博打打ちの親分子分関係などの例を次々に繰り出しながら、
>以上の例の示すように、労働者によって提供される労働が、分量的に、あるいは内容的に、無限定であるということ-少なくとも、そうした傾向を持っているということ-が日本の多くの労働関係の一つの特徴として指摘されうる。
>賃金の面から見ても、日本の労働関係においては-特にその厚生的なものにおいて然りだが-、賃金は売り渡される労働力の対価だ、という意識が希薄である。
>以上数例に通じてあらわれているところは、それぞれの場合において段階的な差異はあれ、賃金の数量的な不確定性と、質的・内容的な不確定性、又恣意性とである。
>このような現象は、日本の労働関係が、その本質において、典型的な市民法的契約関係とは異なった-あるいは、それから多かれ少なかれずれた-性格のものであることを物語っていると考えられる。そこで、その性格の違いあるいはずれはなんであるかといえば、私は、それは日本の労働関係の身分的性格ということに他ならないと考える。
と論じていきます。なんだかごく当たり前の、よく聞く話のような気がしますが、労働法学の世界ではこういう認識枠組みは決して一般的ではありませんでした。むしろ、プロレーバー的議論は、労働関係を契約関係として見るよりは、ある種の身分関係として、正確に言えば経営者側の恣意性を否定し、労働組合の権限を強調するような形での「民主的」な身分関係を強調してきたのではないかと思われます。
そうすると、そういう強い組合が経営者を抑えているような職場では経営者の『恣意性』が抑え込まれているので一見労使対等性が実現しているように見えますが、それは決して市民法的契約関係としての私的対等性ではなく、身分的性格に基づく労働の無限定性や賃金の非対価性は脈々と息づいていますし、そうでない職場では結局元に戻って、労働が無限定であるだけではなく、磯田さんが摘出していた恣意性がそのまま生き残っていて、契約で何も決まっていないのに「オレの言うことが聞けないならクビだ」という世界となるわけです。
このあたり、もう一度じっくりと検討されるべき値打ちがあるように思われます。
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はじめまして。
「若者と雇用」、および労判の巻頭言を読ませていただき、今こそまさに、このような「生ける法」の観点からの分析が必要なのだろうと痛感しました(恥ずかしながら日本の雇用終了は読んでいませんでしたので今取り寄せています)。
私のつたない理解では、戦前~戦後の労働法社会学が念頭においてきたそれはもっぱら労働運動の規範性を高め、それを解釈に昇華することであり、身分的隷属に関しては、議論としては日本的雇用慣行の中に埋没して姿を消していったと説明されています(石田眞先生の論文等)。
しかし実際の企業社会では、就業規則でも労働協約でも捉えきれていない、身分的隷属の色濃く残る「不文律」がまだまだ支配しており、だからこそ法の厳格化や周知徹底だけでは労働法違反もなくならないし、世間に名だたる某有名大学で、労働法の大家が有期雇用の雇止めの脱法に頭をひねらざるをえない状況が起こるのではないかと(後者は冗談ですが)感じております。
投稿: namekonbu | 2013年11月 5日 (火) 15時19分