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2011年5月 8日 (日)

職業的意義の強調が教育を追いつめる?

少し前ですが、橋口昌治さんが「rodokoyo」というついーとで、職場の人権研究会の報告という形で興味深いことをメモ書きされていたので引用。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61787580164882433

>今日の研究会ではやはり職業教育が論点に。キャリア教育への批判は共有されていたものの、教育一般に対して否定的に語る山田さんに対し、熊沢さんは「職業教育の否定まで言うのは違う。それは山田さんの否定する「教育」に含まれるのか?」と反論。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61788637033021440

>山田さんのスタンスは、「学校教育で「お前はダメだ」と否定され続けてきた子らに、なお教育をするな」といったもの。それを長年定時制の先生をされてきた方が言うのだから、矛盾というものを超えた「味」が出てくる。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61788934904086528

>「仲間さえいれば、どんな仕事でも続けられる」という山田さんの言葉は響く。しかし、職場での仲間作りが本当に難しくなっているのが現状。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61789829758857216

>自分は、職業教育重視の流れは肯定するが、現在の労働現場の惨状を考えると、職業的意義を強調することは教育を追いつめることになるのではないか、といったことを、あまりうまくまとめられずに述べた。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61790835326459904

>生徒が職業に就けること、よい職業人生を送れるようにすることに教育の意義が収斂してしまった場合、教育の無力に直面してしまうのではないか、という危惧を、大げさかもしれないが、持っている。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61792269774225408

>学校、特に大学なんて就職するために行くようなところである。ある研究者は、大学は会社に行くための通り道だからその交通費=学費は会社が払うべきだと嘯いていた。自分は大学は関所であり、教授は通行税をとって研究をしていると思っている。企業が大卒を採用するから研究ができているのだ。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61793711004200960

>「大学は就職予備校ではない」というのはウソだが、教養とか言って何となくそれが誤摩化せているのは、企業が採用基準を明確にせず「人柄」とか「コミュニケーション能力」を重視してくれているからである。だから大学にも何かできているような雰囲気が(まだ)保たれている。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61794567581732864

>キャリア教育も「生き方」みたいな感じでゴマカシが効く(らしい)。でも職業的意義をもっと高めろとなると、そのゴマカシが効かなくなる。本田さんは誤摩化すな、ということなんだろうけど、それは教育実践の問題ではなく、やはり労働現場/労働市場の問題。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61795178268213250

>教育の職業的意義を高める教育実践ってどんなんだろう?という問いの立て方は教育を追いつめる。教育の職業的意義を高められる労働市場ってどんなんだろう?という問いを立てた方がいいというのが自分の考え。ただこちらもしんどいのはしんどい。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61798101274464256

>出口のない話のついでにさらに先行きの暗い話をすると、企業が採用基準を明確にしたり、大学が教育の職業的意義を高めたり、大学の機能が研究、教養、人材育成などに分化したり、つまり今の就職議論で「これが正解?」みたいな話が進むと、研究職の就職先はさらに減ると予測されます。

もちろん、教育の職業的意義を問題にするかしないか自体、教育の側がどうこうできる問題ではなく、一義的には労働市場の側の問題。「うちで鍛えるからレリバンスなんか要らへん」言うとるのに無理に「いや、役に立ちまっせ」と押しつけたところで、買ってもらえないだけ。その意味では、イレリバントな教育こそが合理的。

とはいえ、そのことを奇貨として、会社への通り道に関所を作って通行税を取っていながら、「教養とか何とか言って誤魔化し」て、(もしそうでなければもっと少なくしかなかったであろう)自分らの雇用機会を人為的に創出してきたこともまた紛れもない事実。その意味では、少なくとも幇助犯ではあるし、それが良いと言ってきたなら教唆犯でもある。

上記最後のついーとがはしなくも述べているように、そして拙著の中でもややあからさまに述べているように、職業レリバントな教育に向かえば向かうほど、

>卒業生が大学で身につけた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされる時に、これはなかなか難しい課題です。

から、学問分野ごとの利害対立が顕在化する可能性もあります。

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コメント

大卒=エリートなんて実態は少なくとも80年代くらいにはなくなっているのだから、大卒労働者を労働者階級として形成していくことは資本の論理からいっても当然のことで、これまではそれがたまたま日本型雇用の特殊性であんまり教育に求めていなかっただけの話でしょ。
そういう現実に対して労働者の側も職能意識を持つことで、まずはその現実を受け止める力を持ちましょうと言うのが本田先生のご意見であるとするなら、それは全うな良識的な金八先生的な日教組的な反応であると思います。
問題は「学生」運動や自称「非正規」労働運動の「活動」家の側の意識にあるのではないでしょうか(そんな人々が現在も存在しているかどうかは知りませんが)?
賃労働者が賃労働者としての自己を確立することを推進することと階級意識を形成すること、そして何よりも一人の人間として生きていくことを支援し、共にそれを運動として形成していくこと。現在の非正規労働運動に意味があるとしたらまさにこのような分野での活動なのではないでしょうか?
フリーターだからプラプラしていれば良くて、後は敵の出方論で良いというなら既存の労働運動の限界は突破出来ません。自由と生存などは資本主義社会では肯定されています。ただし自己責任でですけどね。空気的に許されない雰囲気なのかもしれませんが、そんなの若さがゆえにで、寄せ場労働者のようにそのうち世の中に相手にされなくなるだけですから時間の問題ですよ。世の中は非情です。それは資本の論理が強くなればなるほどそうなります。ですがお涙頂戴でひっくり返せるほど階級社会は甘くないです。
片方においては現実に職能や職能意識、それに階級意識は必要なんですから労働組合や自称「左派」はバンバン推進するべきです。それと同時に一人の人間として労働市場と企業社会の荒波から自分を防衛し、一人の人間として安心して生活するための労働組合を組織する、またはそのような組織に組合を再編するべきです。運動や闘争や学習会だけが労働組合ではありません。働く者のコミュニティーでもあります。当然働いている人、働いていない人、働けない人、もっと働きたい人、の間での意見の対立は出るかもしれませんが、その調整は必要なことだと思います。
労働組合が職能主義を推進することが、労働組合が労働者を労働市場の競争に駆り立てることとイコールではありません。労働組合の機能と役割をむしろしっかりと吟味するべき良い機会だと思います。
労働組合は政策的には労働者の職能と職能意識を推進もする。しかし労働組合は存在的には失業者、労働嫌悪者の意思や存在をも無条件に肯定する存在なのであり、両者には本質的な矛盾は存在しません。矛盾が存在するとしたらそれは活動家ならびに労働者の頭の中でであって、そこにあるのは運動の政治主義的利用主義か個人的な利用主義のいずれかでしょう。そのような傾向を包摂しながらほぐしていくことがこれからの階級闘争には必須だと思います。
一人一人の人間のための階級闘争と、そのための労働組合運動。人民運動としての階級闘争が市民社会の安定性に寄与するという図式がイメージ出来るなら、今はとっても美味しい季節だと思うのですが。。
情勢はだんだん煮詰まっていると思いますのでもう少しピッチを上げていただければと思います。私には不可能でしたが現役の方なら。。
長文&方針丸投げ失礼しました。

拙いメモ書きにご注目いただき、ありがとうございます。

改めて読み返すと「教育を追いつめる」という話と「研究(者のある部分)を追いつめる」という話が最終的には混じってしまっていますね。ただどちらもありうる問題であり、大学の役割という観点からも総合的に取り組まれるべき課題だと感じています。

> だけの話でしょ。

話としてまとめれば「だけの話」なのですが、それによって生じている諸々の問題や、なかなか解決の糸口が見いだせていない状況を考えると「だけの話」ではすまされないように思われます。

> そういう現実に対して労働者の側も職能意識を持つことで、まずはその現実を受け止める力を持ちましょう

私も『働くときの完全装備』という教材集を共著で出させていただいておりますように、基本的に「職業教育重視の流れは肯定」しています。ただし
>生徒が職業に就けること、よい職業人生を送れるようにすることに教育の意義が収斂してしまった場合、教育の無力に直面してしまうのではないか、という危惧を、大げさかもしれないが、持っている。
わけです。

> しかし労働組合は存在的には失業者、労働嫌悪者の意思や存在をも無条件に肯定する存在なのであり、両者には本質的な矛盾は存在しません。矛盾が存在するとしたらそれは活動家ならびに労働者の頭の中でであって、そこにあるのは運動の政治主義的利用主義か個人的な利用主義のいずれかでしょう。

このあたりは拙著『若者の労働運動』を読まれての感想でしょうか。問題意識が重なる部分があるのに、もしそのように読まれてしまっているのであれば、自分の書き方に問題があったのでしょうが、とても残念です。

>大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。

これは大学の教養課程が廃止されたときに、すでに起こったことですね。さらに大きな影響が予測されますね。

橋口様
ご返信ありがとうございます。

橋口様が言論活動やユニオンぼちぼちなどの活動を通じて「労働組合は存在的には失業者、労働嫌悪者の意思や存在をも無条件に肯定する」活動をされていることは重々承知でございます。恐らく私の書き方がまずかったのでしょう。
私が主張したかったことは、「教育の無力」に対する橋口氏の立ち位置が全然なっとらん!ということです。
「教育の無力」で言われる教育とは公教育もしくはそれに準ずるものであると思いますが、少なくとも日本の教育は公民(フランスでは市民、日本も過去には臣民を育成しましたが)を育てるものではなく、実質的に学歴主義的労働市場を形成するために機能してきたのが実態ではなかったのでしょうか?
教育の現実をそのように前提しつつ、しかし意識的に運動を形成していくことで支配階級の側ではなく労働者階級の側に立つことが出来ると主張された方もおりました(昨年亡くなられましたが)が、それは今は昔もう60年も前のことで、学生が一部の「エリート」と称されていた時代のことです。
今必要なのは学生的な何か、教育や学校的な理想主義的なものを大切にする共同性を労働に差延することではなく、労働運動のなかに如何に過去の教育や学校的な理想主義的ななにかを大切にする共同性を包摂するところにあると思います。
この辺の微妙な部分について橋口氏は、まだまだ学生主義的な、教育主義的な側面に立っているのではないかと思います。
問題は左翼的に言えば、如何にして労働者本隊論と学生先駆性論を突破する地平を形成するかということですが、左翼的に問題を構成するとだいたい頓挫するのでやめます。
ただこの現状を放置しておいても資本の論理に高学歴ワーキングプアーはおろかフリータさえも「綺麗に掃除」されかねないと思います。
私は一見して怒っているように見えると思うのですが、せっかくユニオンぼちぼちで活動されているのだから、まさにこれまでの学生運動や学校教育で追求しようとした理想の共同性を行う主観的、そして客観的な条件がまさに今この時代の非正規労働運動で成熟しつつあるのだから、自分達こそがそれらの理念を労働者階級の事業として引き受けていくんだと宣言してしまえば良いのに何故しないんだ!というおせっかいからの発言なのです。
分かるでしょ?
どうかプレカリアートだのマルチチュードなどといった中途半端にいかがわしい言葉を使うのではなく、正真正銘のいかがわしい概念プロレタリアートの真髄を発揮してください。
そうです。高学歴フリーターや非正規労働者は、まさにプロレタリアートの真髄なのです。没落中産階級としての高学歴フリーターとワーキングプアによる学労同盟が理念主義的な側面と現実主義的な側面を兼ね備えた現代的なプロレタリアートを形成することが出来るのです。
主体の立場を研究、教育ではなく労働組合活動家の視点に立てば見えてくると思います。
「研究職は活動資金のため」くらいに開き直ればもっと良いのに。
これからも活動&研究頑張ってください。
尊敬と連帯と同志愛を込めて。

長文失礼しました。

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