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2011年5月 7日 (土)

労働の法社会学をめぐる川村・野川ついーと

昨日のわたくしの「磯田進「日本の労働関係の特質-法社会学的研究」@『東洋文化』」というエントリから、POSSEの川村さんと野川先生がついった上でやりとりをされています。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66677544170168320

>【hamachanブログ】卒論を生ける法で書いたこともあり、企業社会成立前の50年代に労働の無限定性を指摘していた磯田論文が興味深い。「身分的性格」というと「である」関係のようだが、これがどのような意味で近代の所産であるのか考えてみたい。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66679120775491584

>(1)労働基準法の父と言われる末弘厳太郎先生は、第二次大戦終了直後の時点で、労働契約を「身分設定契約」と理解すべきであると主張しておられます。もちろん、その趣旨は「企業の権力を認める」のではなく、逆に「だから労働者は保護されるべき」という色合いが濃い。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66679738281893888

>(2)このような考え方は、戦後労働法学を席巻した「従属労働論」にも反映していますね。従属労働を余儀なくされる労働者を、とにかく可能な限り保護する法制度、法解釈こそが正しい、ということになって、労働法を精緻な議論の場から乖離させてしまったことは否めません。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66680377909055488

>(3)労働法を、憲法を頂点とする日本の法体系のもとにきちんと位置付けながら、その固有の意義や独自性を明確にしていくという作業は、1980年代頃からようやく始まり、今なお続いています。かつての磯田先生のお考えも、こうした文脈を参考にして検討してみてください。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705112743161856

>(1)ありがとうございます。自分の勉強不足が原因なのですが、「文脈」がわかることですっきりしました。ただ、労働法学というよりも社会学的な関心でして、これまでメンバーシップ・擬似的共同体・社畜(!)と言われてきた関係は一体何だったのかという疑問があります。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705254821015552

>(2)日本は法の出番の無い構造だと言われていて、その原因が「擬似的共同性」に求められることは多いと思います。しかし擬似的共同体の外部にいる「周辺的正社員/義務だけ正社員」の問題を考えると、法に出番を与えなかった構造はそれだけなのかな、という疑問です。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705387390369792

>(3)この点、「従属労働論」と同じく、社会学でも身分や共同性というマジックワードが精緻な議論を阻んできたのかな、と思うのですが、磯田論文は明らかにメンバーシップとは異なる意味での「身分的性格」を析出しているので、吟味の余地があるのではと思いました。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705596904259584

>(4)しかし社会学的には優れて重要に思われる磯田論文の「身分的性格」が、法律学の体系に入ると「従属労働論」へ吸い込まれていきそうなので、整理の難しさを感じています。そのズレを整理するのが法社会学の役割だと思うのですが。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66712861728178176

>野村正實「雇用不安」(岩新)に詳述されている「全部雇用」の概念が参考になりますよ。一般均衡理論を前提とした「完全雇用」ではなく、不満があってもとにかく雇用が確保されている状態。縁辺労働力とされた女性や高齢者を含めた雇用社会の在り方は法化を阻害しました。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66710146922975233

>職場の生ける法の分析はなぜ少ないのだろう。法社会学はかつては農村・漁村のフィールドワークが主流。近代法が善(保護)なのか悪(支配)なのかという論争はあれど、権利闘争の帰結であり場であるという視点は弱かったのではないか。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66713801306816512

>「なぜ職場における『生ける法』の分析はなかったのか」自体が、POSSEのよい特集テーマになりうるでしょう。従属労働論を支えたマルクス主義の功罪や身分契約説の果たした具体的機能、そしてこれからの労働者の権利意識がどう定着すべきかも論点になるでしょうから。

いろんな方向に議論が展開できる予感がしますが、とりあえずわたしにとっては、拙著『新しい労働社会』の中で、

>企業規模が小さければ小さいほど、企業の中に用意される職務の数は少なくなりますし、職場も一カ所だけということが普通になります。そうすると、いかにメンバーシップ契約だといっても、実際には企業規模によって職務や場所は限定されることになり、事実上限定された雇用契約に近くなります。つまり、企業規模が小さいほど事実上ジョブ型に近づくわけです。

とやや安直に書いたことについて、一定程度考え直す必要があるだろうということがあります。もちろん、

>その意味では、企業規模が小さくなればなるほど正社員といっても非正規労働者とあまり変わらないという面もあります。近年「名ばかり正社員」という言葉がはやりつつありますが、もともと零細企業の正社員は大企業の正社員と比べれば「名ばかり」であったのです。

というのは、現実の中小零細企業の職場の紛争の実体を踏まえるとまさにそうなのですが、とはいえそれを「事実上ジョブ型に近づく」と表現するのはやはりかなりミスリーディングなのだろうと思うようになりました。

このあたりを熟考する必要があるなあ、というのが一つ。

もう一つは、そういう中小零細企業の労働関係が示す、ジョブ型ではないけれどもある意味で大企業型メンバーシップよりも遥かに「近代的」に見えるいくつもの性質をどう捉えるべきか。

このあたりはまだまだ脳みその中で未成熟な思考の断片なので、このくらいに。

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