フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月31日 (火)

『POSSE』11号「〈3・11〉が揺るがした労働」

Hyoshi11 『POSSE』11号が届きました。特集は左の表紙の通り「〈3・11〉が揺るがした労働」です。

http://www.npoposse.jp/magazine/new.html

代表の今野晴貴さんが「現代労働問題の縮図としての原発」を書いています。原発被曝労働の本質を、「安全と危険の境界が存在しない」「死を前提とする」労働ととらえ、それを成り立たせているのが下請構造による危険の下への押しつけであり、こうした差別と隠蔽の構造に対し、共通基準の構築へと向かうべきだと論じています。

これは多くの文科系労働研究者に共通だとおもうのですが、過労死・過労自殺といったわかりやすい話以外の安全衛生問題は、理工系のある程度の知識を要求する技術的テーマであることから、特定の人以外はどうしても敬遠しがちで、わたし自身、電離放射線障害防止規則というのがあることは『労働法全書』に載っているので昔から知っているけれども、具体的な中身を始めから読んだのは、今回原発事故直後に突然緊急作業時の被曝限度を引き上げると報じられて、それはいったい何のことだ?と慌てて取り出したのが初めてです。多分、多くの人がそうなのではないかと思います。

ここで紹介されている電離放射線の労災認定基準はこれですが、

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/09/dl/s0909-11c.pdf

これは1976年の通達なので、シーベルトじゃなくてまだレムという単位を使っていますが、確かに白血病について、0.5レム(=5ミリシーベルト)×(電離放射線被ばくを受ける業務に従事した年数)を「相当量」として、業務上の疾病として取り扱うと書いてありますね。

これはもちろん労災認定基準なのですが、今回引き上げられた250ミリシーベルトという安全衛生基準との落差は大きいものがあります。もちろん、電離則の本則は5年で100ミリシーベルト、1年で50ミリシーベルトであり、妊娠する可能性がないものを除く女性は3か月で5ミリシーベルトとかなり厳しい基準なのですが、それにしても白血病を発症したら労災認定される可能性のある被曝量の50倍までOKにしてしまったのか、という驚きは改めて感じます。

『新しい雇用社会のビジョンを描く』21世紀政策研究所

21seiki 先週金曜日に海老原嗣生さんと一緒にお話しをさせていただいた日本経団連の21世紀政策研究所のHPに、昨日『新しい雇用社会のビジョンを描く-競争力と安定:企業と働く人の共生をめざして』という大部の報告書がアップされました。

http://www.21ppi.org/pdf/thesis/110530_01.pdf

まず目次を、

エグゼクティブ・サマリー

第1章 企業の人事管理の変化と労働政策上の課題(佐藤 博樹)

第2章 創造性の誘発という視点からみた労働・雇用政策への示唆(細川 浩昭)

第3章 労働市場の機能強化と今後の雇用安定(阿部 正浩)

第4章 雇用政策の視点-競争力とセキュリティ(大内 伸哉)

第5章 新しい社会経済システムの構想(駒村 康平)

寄稿1 日本の強みの維持・強化の観点から(逢見 直人)

寄稿2 活力ある日本社会を実現し、世界市場に貢献し牽引するビジネス活動を支えるイノベーティブな人財が活躍できる「ワーク・ライフ・インテグレーション」社会の実現(坪田 國矢)

この面子を見ただけで、読みたくなる報告書でしょう?

とりあえず、エグゼクティブサマリーからいくつか引用。

第1章の佐藤博樹先生は、「長期継続雇用内部育成型人材」(コア人材)を縮小し、「外部労働市場依存型人材」を拡大するについて、

>第2 に、今後拡大することが確実視される「外部労働市場依存型人材活用」は、中期の継続雇用を前提に短期の人的資源投資を行い、「ジョブ型雇用」などキャリアの展開範囲は限定され、かつキャリアの上限が低い「中期活用型」と、労働サービス需要の短期の変動に対応するための「短期活用型」の2 つから構成され、いずれも企業特殊的熟練(関係特殊的熟練)ではなく、特定のジョブ固有のスキルが求められるものである。

と述べています。この「中期活用型」は、本文では「中期的な構造的な変動を想定した活用であり、そうした事態が生じない限りでは継続的な活用を想定しており、結果的に中期的な活用となるもの」と書かれており、わたくしのいう「ジョブ型正社員」に対応するのでしょう。

第3章の阿部さんは、

>労働者の生産性を高めるためには、スキルには関係特殊性(企業特殊的熟練)が重要であるとの企業の誤解を解消し、外部労働市場における職業教育訓練を充実させることが必要である。

>今後は汎用的な幅の広い職業能力ではなく、ジョブ固有の専門的な熟練の育成が求められる。

>マッチング機能をより高めるためには、労働者の専門性を明確にし、労働者も企業も職務や職種を通じてマッチングを行うような環境を整えていく必要がある。・・・今後は、関係特殊的熟練の重要性が低下し、人口が減少に転じる時代になるとジョブ型の雇用管理が機能することになろう。

>日本的雇用慣行とそれを支えてきた雇用政策もまたその優位性が失われていることになるため、その再編が急務となる。

等と、かなりジョブ型労働市場とそれに対応したジョブ型雇用政策への明確な指向を示しています。

第4章の大内さんは、かなり具体的な労働法政策論なので、細かくコメントし出すときりがないので(かつ、わたくしにもそれぞれ一家言どころか百家言くらいある項目なので)、ここでは解雇規制、有期雇用、エンプロイアビリィティ、労働時間規制(とりわけホワエグ)、労働者の範囲といったテーマが書かれていますよ、と紹介するにとどめておきます。

第5章の駒村さんは、阿部さんと近い立ち位置で、

>雇用システムでは、職種別労働市場、いわゆる「ジョブ型」労働市場の構築が求められる。たとえば、労使団体が、職務内容・資格制度・技能、キャリア・ラダーを明確にし、職種別のベンチマークとなる賃金を決めることで、職種内で広義の同一労働同一賃金が達成可能になろう。

という観点から、社会保障、教育、処遇、さらには財政に至るさまざまな領域について議論を展開しています。

2011年5月30日 (月)

『<若者の現在>政治』

Wakamono_seiji 小谷敏/土井隆義/芳賀学/浅野智彦 編『<若者の現在>政治』(日本図書センター)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.nihontosho.co.jp/2011/05/post-195.html

>若者を覆う閉塞感・生きづらさや「右翼」「左翼」の図式にこだわる若者の潜在的な心理を解き明かし、社会を変える力・未来への希望を探求する!

これは、『<若者の現在>労働』の姉妹編で、も一つ「文化」と合わせて3部作になるようです。

労働編については、編者でもある小谷敏さんの論文を取り上げましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-01f6.html(「怠ける権利」より「ふつうに働く権利」を)

今回もまず小谷さんの「若者は再び政治化するか」について。今回も、まことに同感できる文章が書かれています。「権利意識の希薄さ」という一節から。

>犯罪の増加が後期近代の特徴であった。しかし、この国では犯罪が目立って増えるということはなかった。「失われた10年」以降、増加したものは自殺と鬱病である。窮境に置かれた人々が他者ではなく、自分を強く責めることが、この国の特徴である。

>M.ブリントンは、1日20時間(!)に近い長時間労働に耐えきれず、会社を辞めていった若者の事例を報告している。若者と同じ職場の先輩は過労自殺をしていた。彼はその会社を責めるのではなく、過酷な境遇に絶えることの出来なかった自分のふがいなさを責め、また自殺した先輩までをも責めた。・・・

>1日20時間に及ぶ労働が、法令違反であることは明らかである。この若者は、労働者としての基本的権利に関する知識をまったく欠落させていたというほかはない。わたしは、偏差値のとても高い大学を卒業した若者が、就職した先で長時間労働を強いられていたときに、「残業手当や有給休暇は権利としてもらえるのですね。知りませんでした」と言っていたのを聞いて驚いたことがある。・・・・・・

そう、いわんとしていることにはまことに同感するのです。ただ、「労働者としての基本的権利に関する知識」が・・・。いや、わたくしもまさに労働法教育の重要性を何回も説いてきた側の人間です。しかし、その知るべき「労働者としての基本的権利」が、今現在の日本においてどのようなものであるのか。

そう、現在の日本の労働基準法を前提とする限り、「1日20時間に及ぶ労働が、法令違反であることは明らか」ではないのです。労働時間規制自体は実は青天井であって、36協定と残業代規制があるだけ。1ヶ月100時間を超える時間外労働は過労死の危険性があると言っているのは労災認定基準であって、労働時間の物理的規制は存在しない。そこに問題があるわけですが、あまり問題だという人はいないのです。

そういう問題意識自体が、このように若者の労働法知識の欠如を嘆く言説においても見られないというところに、実は大きな問題を感じる面もあるのです。

本書は「政治」と題していますが、今野晴貴さんの「格差問題をめぐる若者たちの政治的実践 ―「異議申し立て」から参加へ―」は、POSSE代表として多くの労働相談に関わってきただけに、労働論としても充実した内容になっています。いちいち引用していくと大部分引用しなくてはいけなくなるので、基本的には実物でお読み下さいということにしておいて、特に「若者の諦念と解雇規範解体の実態」という一節から、

>こうした諦念がもっとも深刻な形で現れているのが若者の離職率の上昇と「自己都合退職」化である。違法行為に直面した場合、自ら辞めるしかないというのだ。・・・

>さらに自己都合退職化を推し進めている要因は、労働者が違法行為に絶えかねているからだけではない。離職に関連する相談で最も多いパターンは「自己都合で退職させられそうなのだが、これを何とか出来ないか」というものだ。

>結局、実際に裁判や団体交渉で争うことによってしか、市場を規制する規範は生成されてこない。判例のレベルで影響力を持ち続けている正社員の解雇規範も、争わなければ実態をなさない。また、争わないことで「自己都合で辞める若者が多い」ということが社会の合意になってしまうと、規範をめぐる言説自体が後退していってしまう

このあたりはわたしも、裁判所に行かないレベルの紛争の実態を見ていると痛感することではあります。

さて、せっかく「政治」の巻なので、もっと「政治」っぽいのはないかといえば、やはり萱野稔人さんの「あえて左翼とナショナリズムを擁護する?」。

ここで萱野さんが強調しているのは、左翼が反ナショナリズムだなんていうのは全共闘以来のほんの2,30年くらいの伝統に過ぎないということです。このあたり、わたしの「リベサヨ」論と半分くらい重なる感じです。

萱野さんが許せないのは、ナショナリズムを道徳的に批判してこと足れりとする左翼やリベラル知識人。

>ナショナリズムに訴えるぐらいなら国内労働市場を完全に開放した方がいいと主張する左翼なんて、まさにその典型だ。そこでは、自らの心情的な立場を清廉潔白にしようとするあまり、結果に責任を持つという政治の本質が完全に抑圧されているのである。

いや、まさにそう。

萱野さんとは、POSSEの座談会で意気投合した仲ですが、この論文も同感するところの多いものでした。

萱野さんとならんで高原基彰さんの「「若者の右傾化」論の背景と新しいナショナリズム論―戦後日本の左右対立と東アジア地政学の同時変容という視点から―」も、すでに書かれたものの要約のようなところもありますが、是非読まれるべきです。高原さんとは、一度ある編集者の方と一緒に心ゆくまで歓談したことがありますが、その時の会話を思い出しました。

「キャッシュ・フォー・ワーク・プログラム」 @『労基旬報』

『労基旬報』 5月25日号の「人事考現学」に、「キャッシュ・フォー・ワーク・プログラム」 を書きました。労働関係者への紹介という感じで。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo110525.html

>去る3月11日に東日本大震災が発生し、東北太平洋岸の多くで津波による壊滅的な被害がもたらされた。政府も緊急に「「日本はひとつ」しごとプロジェクト」をまとめるなど、迅速な動きを見せているが、ここでは最近震災雇用対策としてネット上で提唱され、注目を集めつつあるキャッシュ・フォー・ワーク(CFW)プログラムを紹介したい。ネット上で一つの政策提案が立ち上がっていく構図が浮かび上がってくるからである。
 震災直後にこの概念を提唱したのは、関西大学社会安全学部准教授で公共政策(防災・減災・危機管理)・地域経済復興が専門の永松伸吾氏である。彼は震災直後の被災地を現地調査し、3月13日にブログ「減災雑感」で、「これまでの災害対応と同じ事をやっていてはだめだと実感した」と述べ、「やがてやってくる復旧・復興期に備え、少ない資源で最大の効果を上げる被災地支援策」として、「被災者を復旧・復興事業に雇用して、賃金を支払うことで被災者の自立支援につなげる方法」であるCash for Work (CFW) プログラムを提案した。
 これを読んださまざまな方面の人々が賛意を表し、具体的な実現に向けた意見交換や議論を行うネットワークとしてCFW-Japanが立ち上がり、3月25日にCFW提案書(永松私案)がまとめられた。そしてこれと同時に、賛同者がネット上のメディアで発信を始める。3月28日に教育社会学者の本田由紀氏が朝日新聞のネットメディア「WebRonza」で「震災復興にCFWを活かそう」を書いたのを皮切りに、29日には永松氏本人が日経ビジネスオンラインに「今回の震災復興は従来のやり方が通用しない」を、4月3日には経済学者の飯田泰之氏がシノドスジャーナルに「ハーフボランティアとしての日本版CFW」を発表した。また、労働史研究者の金子良事氏も「CFW(Cash-for-Work)構想の先にあるもの:復興から地域振興へ」でさらに突っ込んだ議論を行っている。
 この議論が興味深いのは、これが雇用対策の歴史では戦前から戦後まで行われた経験のある失業対策事業と通じるものでありながら、それとはいったん切れた知的世界から提唱されており、それゆえに労働専門家が陥りがちな失業対策事業への偏見からも自由に議論が展開されているというところである。震災復興対策は日本の総力を挙げたプロジェクトとなるが、今後このCFWプログラムの発想がどのように採り入れられていくか、注目に値する。

2011年5月29日 (日)

「フクシマ50のヒーロー」を誰が守るのか@宮本光晴

201106 水曜日に、わたくしの文章だけアップした『ビジネス・レーバー・トレンド』6月号の東日本大震災特集ですが、もうひとり福島原発作業員の問題を取り上げた宮本光晴さんの標題の文章から、いくつかの一節を引用しておきます。

どう見ても、こちらの文章の方が魂が入っていますね。

>・・・しかし彼らをヒーローと賞賛すれば済むわけではない。いかに「決死」の作業であったとしても、安全基準を無視していいわけではない。・・・・・・自衛隊のヘリコプターから散水するという素人考えの作戦に対しては、防衛大臣が危険であると抵抗し、かつ出動した隊員にはイラクでの作戦と同様の特別手当が与えられたそうだ。しかし民間企業の従業員には安全の盾となる声は聞こえてこない。・・・・・・・これはもう労働基準監督署の出番である。あるいは組合の出番のはずだ。しかし福島原発の作業員を守る声は一向に聞こえてこない。

>・・・では福島のヒーローにはどのような賞賛と報償が向けられているのか。賞賛と報償どころか、現実の「決死」の作業は東電の関連会社や協力会社に任されている。それらの従業員が正社員か非正規社員かを詮索することはやめるとしても、ヒーローとしての処遇からほど遠いことは容易に想像できる。今からでも遅くない。東電、東芝、日立の正社員にも関連会社の非正規社員にも、「決死」の作業の結果には、全て国家が責任を持つことを表明すべきである。東電に降りかかるのは「決死」の作業の重圧であり、それはさらに関連会社に降りかかり、そしてこの重圧があと数ヶ月は続くのであれば、現場の作業員を守る力は国家にしかない。しかしその声は政府からは一向に聞こえてこない。いや東電の責任を叫び、重圧をかけることしか眼中にないようだ。

>・・・・・・この有様を見て「日本は無能」と嘲る論調が韓国でも中国でも強まっているとのことであるが、それに抗弁する手だてはない。・・・忍耐強い国民であると世界から賞賛されることはほどほどにして、日本の復興はこの屈辱の認識から始める以外にないのである

最後のパラグラフになると、ほとんど憂国の叫びに近い感じです。

(参考)

わたくしの文章は:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/blt-ff2b.html(東日本大震災の労働法政策@『BLT』)

「キャリア段位」への連合意見

日本版NVQ、いわゆる「キャリア段位」について検討している政府の「実践キャリア・アップ戦略推進チーム」の「専門タスク・フォース」の5月18日の会合に、「実践キャリア・アップ戦略 基本方針」が提示され、メンバーである連合の團野副事務局長が意見を出しています。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kinkyukoyou/suisinteam/TFdai5/siryou3.pdf

これは、團野さんの色合いが濃く出ていますが、労働組合の立場からの外部労働市場政策をどう構想するかという課題に対する一つの答えとして、是非よく検討されるべき文書だと思います。

個人的には、一昨年から昨年にかけて、このあたりの議論に若干関わっていたりもしたもので・・・。

>○ 実践キャリア・アップ戦略は、これまで以上に「キャリア」「能力」を評価する社会を念頭においている。近年、産業構造の変化、技術革新の進展や労働者の就業意識・就業形態の多様化に伴い、企業内で通用する能力から、企業を超えて通用する能力が問われるようになってきている。介護職場など、技能・技術を有しているにもかかわらず、その能力が社会的にあまり評価されず、処遇も低いといった実態にある職種もある。そういった労働市場の変化という視点からも、キャリア段位制度の普及・促進を行っていく必要があ
ると考える。

○ しかしながら、日本においては「内部労働市場」と「外部労働市場」とでは、その雇用のされ方も、人材活用、賃金システムも大きく異なる。非正規労働者のウェイトが急速に高まり、基幹労働力として活用される機会が増加し、同じ職場に正規労働者と非正規労働者が一緒に働き、表面上は、ほぼ同じような職務を遂行しているといったケースが多くなってくると、それらの異なる市場をつなぐための、企業の枠を超えた職種別のものさしが必要となってきている。

○ 連合としては、「大くくりの職種別賃金」、例えば自動車総合組み立ての35 歳勤続17 年とか、総合スーパー30 歳勤続12 年とかの業種を代表する基幹労働者のポイント賃金を「代表銘柄(業種別賃金水準)」として設定し、これを「時間あたり賃金表示」とすることで、企業別労働組合中心の賃金決定方式下における横断賃金、すなわち「日本的職種別賃金」をつくっていこうと考えている。

○ 一方、キャリア段位制度が整備されれば、資格が存在するところの職種別市場の形成が可能となると思われる。まずは、介護、保育、農林水産、環境・エネルギー、観光など新たな成長分野を中心に政府が考案している「キャリア段位」制度を導入・普及する必要がある。そのためにも、「キャリア段位」の策定にあたっては、仕事の中味と能力、賃金・処遇の水準が連動したものにすることが重要である。資格と賃金を連動させ、公表することで「この資格で、このレベルであれば、このくらいの賃金であって当然」といった資格別の賃金水準を、ある程度幅をもったかたちで示し、そのことで社会的相場をつくっていくことが可能であると考える。

最近はやらない労働史なんかやった人にとっては、その昔、日経連や政府が同一労働同一賃金原則に基づく職務給を唱道していた頃に、当時の労働組合側から「年齢別ポイント賃金」とか「横断賃率」とかいった議論が提起されていたことを、懐かしく思い出すかも知れません。「それはなんのこっちゃ」という人の方が圧倒的大部分でしょうけど。

典型的な日本型システムの問題点

木村幹さんが、一昨日から福島原発の海水注入問題についてついった上でするどい発言を続けています。木村さん自身「典型的な日本型システムの問題点」と、今回の問題構造を浮き彫りにしています。

http://twitter.com/#!/kankimura

>善し悪しはともかくとして、現場は本社も政府も無視して、現場の判断で動いていた、ということか。

>もしも、現場が権限を与えられていないにも拘らず、政府や本社のコントロールを離れて動いていたとしたら、仮に結果オーライだとしても、どうだろう。勿論、本社や政府が「現場の判断を優先する」という決定をしていたなら、何の問題もないのだが。

>で、組織の論理としては、当然こうなる。QT 日経「福島第1原発・吉田所長の処分検討 東電副社長」

>この先の展開を予測するのは容易かも知れない。本社の意向を無視して、注水を継続した所長を擁護する動きがあちこちから上がり、寧ろ、東電本社が批判される。

>日本人はこういう「無能な本部を無視して、現場が現場の判断で行動する」という話が、大好きだ。一昔前の「踊る大走査線」しかり、大昔の「太陽にほえろ」しかり、今の「相棒」しかり。しかし、それはそれで極めて不安定なシステムなのだ、ということを忘れがち。

>しかし、これで政府が現場の独断を支持したら、滑稽なことになるな。政治主導所の話ではない。

>勿論、根本的な問題は、日本の多くのシステムでは、責任の所在が不明確なこと。というより、誰が責任を取るべきかが、考えられてさえいない。だから、危機時に明確な決定が出来ず、現場にフラストレーションが、貯まる。また、現場の方も責任の取り方をあまり考えずに暴走する。

>その意味で福島第一の事故とその後の混乱話は、典型的な日本型システムの問題点を露呈した形。

そう、日本社会を褒めそやす議論がはびこるようになる前に、これまた嫌になるくらい繰り返されていた日本社会の悪弊の議論の定番のような話の凄まじいデジャビュ感。

丸山真男から山本七平まで、同じテーマの変奏曲が繰り返されていたことも、今となってはかなり忘れられているわけだが。

このあと、青島君と室井さんとか、ドラマ話になっていくので省略し、本日のついったに行きます。

>「現場」の件について、一つだけ追加しておくと、「本部の指示を無視して現場が暴走」した結果として何か重大なことが起こった場合、組織そのものの責任を問えなくなってしまう。保障その他の問題を考えても、現場の責任者が「俺が責任を取る」と言っても取りきれるものではない。

>つまり、現場が全部やった、ことにすれば、組織やそのトップの責任が大きく軽減されてしまう。その点は考えてみないといけない。

>つまり、「トップが無能だから」という理由での現場の暴走は、結果としてその「無能なトップ」を守る役割を果たすことになる。「ずるいトップ」なら、そういう「暴走したい現場」を利用して、自らの地位を守ってしまうだろう。そして、それはひょっとすると、「今」起こっていることかも知れない。

>例えば、こんなことを考えてみる。官邸は海水注入について混乱した議論をしており、他方、現場は継続を主張している。官邸のいう事を尊重すれば、処理が失敗するかも知れず、そもそも現場がいう事を聞くとも限らない。

>官邸に明々白々に反旗を翻せば、その後の支援が受けづらくなるし、何よりも自分たちが責任を一手に被らなければならない。この場合の日本的解決法の一つが、自分達は官邸の意向を汲んで指示を出したが、それが徹底され無かった、というもの。結果さえよければ、誰も泥を被らないで住む。

>先の解決方法は、全員の責任をぼやかす事により、失敗のリスクを現場に押し付け、丸く収めようとするもの。更に失敗しても、「現場はベストを尽くした」という言説を上手く乗っければ、失敗しても、リスクを最小限にできる。が、これは本来の解決方法ではないはず。

> 当然の事ながら、この場合、官邸と現場の間にいる人間のすべき事は、現場の声を最大限、官邸に届ける事。それにより、官邸にベストの判断を行わせると共に、その決定の責任を負わせる。しかし、今の方向は、明らかに、結果がよかったのだから構わないのだ、という方向に向かっている。

>最大の問題は、結果オーライなら無問責、の場合には、モラルハザードの問題が起こりやすくなる事。つまり、誰も自分の言葉に責任を取らなくなるし、自らの意見を相手に真剣に伝えようという努力を行わなくなる。

>勿論、それでも懸命に仕事をする人はいるだろうけど、そういう個人の資質に頼ったシステムはやがて破綻する蓋然性が高い。

>そう、それは誰も責任を取ろうとする人がいない状況の中、ずるずると戦争に踏み込んで行った、あの話、と同じ構造なのだ。

そう、「なぜずるずると戦争に踏み込んでいったのだろうか?」という痛切な思いから戦後まさに戦時の意思決定の姿を目の当たりに見た人々が繰り返し指摘し続けてきたあの悪弊が、まさに同じ形で今目の前で進みつつあることの恐ろしさを、もっと多くの人が意識すべきだと思う。

関東軍は最初から悪役面で登場してくるわけではないのだ。

(追記)

早速多くのはてぶやついったでコメントされていますが、実はこのケースについては

>非常時に適切なレベルの独断専行は必要。ナンセンス

>メルトダウンという非常時の吉田所長の対応と、謀略としての関東軍、石原莞爾の行動を同列に論ずるのはどうかとも思いますが。

という見解に反対ではありません。

だからこそ、怖いのです

はじめは、まさに何も分かっちゃいないトンデモな幹部と、その下で必死に事態をマネージする現場の勇士たち。

無知なくせに権限を振り回すトップの判断ミスの責任を押しつけられ、時に更迭されながら、黙々と自らの任務に邁進する現場の勇士たち。

その構図が紛う事なき現実であるからこそ、

だからこそ、怖いのです

こんな非常時に組織論を振り回すのか、愚かな!と、誰もが思うようになったとき、組織はもはやその体をなさなくなっています。

それがやがて関東軍を生み出す培養土となっていくのです。

そして、現場に責任を押しつけてきた後ろめたいトップは、暴走する現場にストップをかけるどころか、「以後、国民政府を対手とせず」などと、現場がかえってびっくりするような火に油を注ぐ無責任に突っ走っていきます。

ということで、改めて昭和史を読み直そう。

2011年5月28日 (土)

原発作業員の労働環境調査 厚労省立ち入り

本日の朝日の記事ですが、ネット上にはアップされていないようです。

>福島第一原子力発電所で、ずさんな放射線管理のために、大量に被ばくする作業員が相次いだことを受け、厚生労働省は27日、労働環境を調べるため、同発電所内へ立ち入り調査に入った。東電や協力会社などに、行政指導に当たる是正勧告を出すことを視野に調べを進める方針だ。

>同発電所では・・・・・・・・・なども発覚している。

>厚労省はこれらの事案が、労働安全衛生法に違反する疑いがあると見ている

ということで、震災から2ヶ月半にしてついに監督指導にはいることになったようです。

人によっては遅すぎる!という批判もあるかも知れませんが、国民の意識が自分たちの健康被害ばかりに集中している時期から、現に原発の中で黙々と作業している人々に向かうのに時間がかかったということでもあるのかも知れません。

実は、去る水曜日の「労働法政策」の授業は、労災と安全衛生がテーマだったのですが、例年通り制度の枠組みと過労死・過労自殺関係の話に終始して、電離放射線関係の話は出来ませんでした。このあたりは技術屋さんの担当分野だということもあり、ほとんどまともに勉強していないのですが、少し前に問題になったアスベストの話なども含め、ある程度きちんと勉強しておくべきだなあ、と痛感。

2011年5月27日 (金)

福島第一原発で常時医師を配置する体制が整いました

本日、厚生労働省につい先日設置されたばかりの福島第一原発作業員健康管理等対策推進室から、「福島第一原発で常時医師を配置する体制が整いました」という発表がありました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001dnaj.html

>このたび、別紙のとおり、(独)労働者健康福祉機構(※1)に対し、福島第一原発の労働者の健康管理に従事する医師の派遣について、協力を要請した結果、常時医師を配置する体制が整いましたので、報告いたします。

○  現在、東京電力株式会社福島第一原子力発電所(以下、「福島第一原発」という。)においては、事故の収束に向け、多くの労働者の方に従事いただいております。
○  こうした労働者の健康管理に当たっては、作業の特殊性にかんがみ、緊急時に医師が速やかに対応できる体制を構築する等の特段の対応が必要です。
○  このたび、福島第一原発において、常時医師を配置する体制を整備する観点から、(独)労働者健康福祉機構(※1)に、医師の派遣を要請いたしました。
○  これまでの産業医科大学から派遣されている医師(※2)に加えて、労災病院の医師が配置されることにより、福島第一原発内において、24時間体制の労働者の健康管理が可能となります

日本の明日が懸かっているとも言える福島原発の作業員たちの健康を守るために、労災病院の医師たちにも動員がかかりました。

その要請書を見ると、

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001dnaj-att/2r9852000001dnc9.pdf

場所 福島第一原発
(福島県双葉郡大熊町大字夫沢字北原22番地)

2 期間 当面の間

3 その他
・ 交通費、宿泊費等の実費及び報酬は東京電力株式会社が負担すること。
・ 業務内容等の詳細については、東京電力株式会社と調整すること

期間は「当面の間」で、業務内容の詳細は東電と要調整という、つまりお金は東電が出すということ以外は現場で臨機応変に、ということですね。まあ、そうとしか言いようがないのでしょうが。

日本経団連で海老原嗣生さんと初対面

本日、日本経団連21世紀政策研究所の「グローバルJAPAN特別委員会」に呼ばれて、お話ししてきました。

わたくしの話は「労働の歴史から現代の課題を考える」といういつもの話ですが、わたくしと一緒に呼ばれていたのが、今をときめく海老原嗣生さん。「都市伝説を排して、本当の雇用論を」というタイトルのもと、海老原節を存分に聴かせていました。

さて、実は、わたくし、海老原さんとはこれが初対面だったのですね。本ブログでも何回も御著書を取り上げさせていただいており、なんだか古くからのおつきあいのような気もしますが、実物同士のご対面は今日が初めてでありました。

実物は、本から想像するよりもさらにエネルギッシュでありました。

本ブログで海老原さんの著書を取り上げたエントリは以下の通りです。

もしお手元に海老原さんの本があれば、改めて目を通してみられてはいかがでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-db85.html(海老原嗣生『学歴の耐えられない軽さ』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/1011-0cd3.html(『面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-65ac.html(海老原嗣生『課長になったらクビにはならない』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-1cc8.html(海老原嗣生『「若者はかわいそう」論のウソ』扶桑社新書)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-1861.html(海老原嗣生『もっと本気でグローバル経営』)

JAM労組が工業高校・中小向け技能継承事業

昨日の日刊工業新聞から、

http://www.nikkan.co.jp/mono/hito/1105/hd110526-01.html(工業高校・中小向け技能継承事業が復活-厚労省、労組JAMに委託)

>熟練技能者が工業高校の生徒や中小企業の若手社員に技能を教える技能継承事業が復活する。この制度は政府の事業仕分けで2010年3月末で廃止されたが、11年度予算の「ものづくり立国の推進事業」で厚生労働省枠の新規事業として盛り込まれ、同省がモノづくり企業の労働組合団体JAMに委託した。国が労働組合に事業委託するのは異例だが、生徒・社員の技能向上を図りたい工業高校や中小企業は“復活”を歓迎している

およそ労働を目の仇にしているとしか思えない「事業仕分け」ですが、必要なものはこうして徐々に「復活」してきています。

>ただ、JAMへの委託費は約1300万円と大幅に絞り込まれた。受託したJAMの河野和治会長は「モノづくりに技能継承は欠かせない。赤字事業だがハラをくくってやる」とし、オークマ、島津製作所、コマツ、TDK、NTNなど大手や中小の労組が加盟するJAMが年間予算と同額の資金を捻出、総額2600万円の事業規模とした。近く正式決定する

JAMは昔の全金同盟や全国金属など中小メタル系の系譜を引く産別で、こういう企業内完結型ではない外部労働市場とのつながりをもった政策への関心の高いところです。

>JAMは本部内に「熟練技能継承推進室」を設置、高度熟練技能者派遣調整と工業高校や職業訓練学校、中小企業との支援調整を行うコーディネーターをさいたま市、大阪市、名古屋市の3カ所に置いた。

 今年度の実技指導は延べ400日を計画しているが、すでに旧制度を利用していた埼玉県立大宮工業高校、岐阜県立大垣工業高校など全国20校以上から派遣申し込みがあり、「すでに3分の2は埋まっている」(同)という

JAMのHPを見ると、

http://www.jam-union.or.jp/mono/jykrenn-ginoshya_haken/jykrenn-ginoshya_haken.html

>しかし、多くの工業高校に活用され、評価されてきたこの事業は、諸般の事情から2009年度をもって廃止されてしまった。

民主党を支持する立場のゆえか、「事業仕分け」が「諸般の事情」とボカシがかかっていますが、

>JAMは、この事態を深刻に受け止め、事業の復活に向け政府・民主党や厚生労働省に働きかける一方、労働運動の新しい分野として捉え、自ら技能継承事業に取り組む事を決断した

と、JAMが積極的に復活に動いたことを明らかにしています。

>これまで労働組合の「産業政策」とは、一企業の労使では解決できない産業に関わる課題について、政策を検討した上で国や自治体に要請する事が中心であった。
 今回の取り組みは、自らが望む政策を自らが主体的に取り組むという事で、JAMにとっても大きなチャレンジであり、事前の工業高校等への調査では、この事業に大きな期待が表明されている

これまでの企業別組合とその連合体としての産別という枠組みを超えた取り組みとして、さらにこれまで口先以上のものではなかった労組の職業訓練政策への本気の取り組みとして、今後の展開が注目されます。

2011年5月26日 (木)

福島原発 作業員の胸中は・・・@東京新聞

本日の東京新聞の24-25面に「こちら特報部」として、標記の特集記事が載っています。福島原発に全国から集められた作業員たちの宿泊場所になっているいわき市湯本温泉のルポです。

ネット上にはアップされていないのですが、作業員の発言だけでもいくつか引用しておきます。いろいろな読み取りようがあるとは思いますが、これが彼らの率直な思いであることだけは間違いないのですから。

>「テレビで「頑張って」なんて言ってっけど、これ以上、何を頑張れっていうの。できることはやってるって」と腹立たしく感じている。

>「原発反対を言うのは簡単だあ。だけど、福島からの電気は関東に送られていたことを忘れてほしくねえ。それなのに福島県から避難した子どもがいじめられたなんて話を聞くと悔しくてしょうがない」と唇を噛んだ。

浜岡から来た作業員は

>「いくら人手が足りないと言っても、ずぶの素人にはやらせられないだろ」

>「浜岡で働いていた作業員の半数は働き場がなくなるんじゃないか。停止するのは勝手だけど、俺らの生活はどうしてくれるんだ」と語気を強めた。

本職はとび職という男性は

>「俺もなんかやらなきゃって思っていた」という。

>「原発に呼ばれたときは、よし来たと思ったね。金の問題じゃないよ」

自宅が浪江町にある男性は、

>「仕事があるだけ、まだまし」と思っている。ことさら明るく振る舞っているようにも見える。

同じく浪江町から避難してきた青年は、

>「俺はもともと原発には反対だった。恩恵を受けたことはないし。事故が収束したって、一旦汚染された土地になんか誰も住みたくないよ。家は東電に買い上げてもらうしかない」と憤った。

>それを聞いた男性は「気持ちは分かるが、きれいごとだけでは食べていけない。ここらへんで生きていこうと思えば、原発に頼るしかない」と寂しそうに笑った

JILPT労働政策フォーラム「若者問題への接近」のご案内

JILPTと日本学術会議共催の労働政策フォーラム「若者問題への接近」の3回目の案内がアップされたので、こちらでも宣伝しておきます。

http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20110709/info/index.htm

例によってコーディネータは小杉礼子さんですが、堀有喜衣さんが先日まとめた報告書にもとづき「「若者統合型社会的企業」の可能性と課題」を報告。

パネリストとして注目は、神奈川県立田奈高等学校教諭の吉田美穂さんです。「高校生の現実を踏まえたキャリア教育・労働法教育とキャリア支援センター」というテーマ。

あと、北海道大学大学院教育学研究院教授の宮崎隆志さんと、横浜市こども青少年局青少年部青少年育成課担当係長の関口昌幸さんがパネリスト、宮本みち子さんがコメンテータ。

吉田美穂さんの取り組みについては、本ブログで何回か取り上げてきたのですが、だいぶ時間も経ったので、改めて紹介しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-6f0e.html(神奈川県立田奈高校の労働教育)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-da89.html(バイトの悩み 学校お助け)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-eb6d.html(『現代の理論』特集記事から)

地震学者のためいき

今朝の朝日から

http://www.asahi.com/international/update/0525/TKY201105250590.html(「安全宣言で地震被害拡大」学者7人起訴 イタリア地裁)

>2009年4月に309人の犠牲者を出したイタリア中部のラクイラ地震で、地震学者が直前に「安全宣言」を出したために被害が広がったとして、ラクイラ地裁の予審判事は25日、学者7人を過失致死罪で起訴した。地震予知失敗の刑事責任が問われる、世界でも異例の裁判となる。

 起訴された国立地球物理学火山学研究所(INGV)のエンゾ・ボスキ所長ら7人は、地震発生6日前の同年3月31日、政府の災害対策機関の幹部やラクイラ市長らと災害対策委員会を開いた。ラクイラで半年間にわたって続いていた微震について検討したが、避難勧告は見送られた。

俺も「可能性はゼロではない」と言っとけば良かった・・・、

と後悔しているかどうかは定かではありませんが。

2011年5月25日 (水)

ベーシックインカム論者には2種類あって・・・

権丈先生たら、先日の公務員初任研修で、隣の教室で何をからかっていたんですかぁ。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/main.html

>そう言えば、5月9日の国家公務員初任研修で、こういうシーンが。

  • 「先生は、ベーシックインカムはご専門ではないと思いますが、どう思われますか?」
  • 「専門じゃないし、専門家にもなりたくないですけどね。
    ところで、ひとり1万円を国民全員に配ったらいくらになると思いますか?」
  • 「1兆2千億円ですか」
  • 「そう。でっ、君は、ベーシックインカムにひとりにいくら必要だと思う?」
  • 「10万円は必要かと」
  • 「ということは、一ヶ月で12兆円必要ですね。それを12ヶ月配ったら?」
  • 「えっとぉ、144兆円」
  • 「今年の税収は? それに、さっき話したけど、生活保護費はいくら? そのうち医療扶助なんかを外した現金給付はどれだけだったっけ? さっき、Sickoを少しみたけど、あそこで描かれていた医療問題って、ベーシックインカムを配っておくだけで解決する?」
  • 「・・・・・・・」
  • 「ベーシックインカムなんて、まじめに考えてあげる必要がどこにあるんだろうね。。。」

と言って、マーシャルのcool heads but warm heartsの話をして、ベーシックインカムを言っている人には2種類あって、cool head and cool heart派とwarm head and warm heart派でね・・・と延々と遊んできた次第。warm head and warm heart派が空想的社会保障論者に属するわけだけど、僕の言う意味でのポピュリズム政党にとっては、彼らの利用価値はそれはそれは高い高い。。。その結果の悲喜劇が、今の状況さ。でもまぁ、国民が選んだ政治なんだから、国民はとにかく甘受するしかあるまいよ。いったん権力を与えたら、そう簡単に剥奪できない――法律はそういうふうに作られていることをよ~く学ぶ、今はそういう機会かもな、2度と同じ失敗をしないように

つまり、空想的社会保障論者が「warm head and warm heart派」だとすると、わたくしがいう「捨て扶持派」が「cool head and cool heart派」ということですね。

いい言葉覚えたな。

(参考)

http://www.joho.or.jp/report/report/2010/1011report/p30.pdf(ベーシックインカムで社会問題は解決?)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/basicincome.html『日本の論点2010』「ベーシックインカム論の落とし穴」)

東日本大震災の労働法政策@『BLT』

201106 JILPTの『ビジネス・レーバー・トレンド』6月号が刊行されました。

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2011/06/index.htm

特集は「震災の影響と復興に向けた課題―いま何をなし、これから何をなすべきか―」です。

この手の特集の場合、BLTがよくやるのが有識者アンケートってやつですが、今回も次の方々に1ページずつ「東日本大震災が経済社会に与える影響と必要な対策」というテーマについて書かせています。

猪木武徳 国際日本文化研究センター所長
熊野英生 第一生命経済研究所首席エコノミスト
佐野陽子 嘉悦大学名誉学長
中沢孝夫 福井県立大学特任教授
濱口桂一郎  JILPT統括研究員
宮本光晴  専修大学経済学部教授
森茂起  甲南大学文学部教授
加藤丈夫 富士電機株式会社特別顧問
玄田有史 東京大学社会科学研究所教授
髙木剛  国際労働財団理事長(前連合会長)
萩原泰治  神戸大学大学院経済学研究科教授
堀田力  さわやか福祉財団理事長/弁護士
森一夫  日本経済新聞社特別編集委員
森永卓郎  獨協大学経済学部教授

不肖わたくしも、「有識者」というにはいささかですが、名を連ねております。

さて、この14人の書いた内容は、きれいに12対2に分かれました。

12人の有識者は、まあ当然のことですが、雇用政策、経済政策を中心に見識を披露しておられます。

残りの二人、宮本光晴さんと不肖わたくしは、あえて雇用対策ではなく、福島原発の作業員のことを取り上げています。実は、原発作業の問題を取り上げるのはわたくしだけだろうと内心思っていたのですが、宮本さんが「「フクシマ50のヒーロー」を誰が守るのか」というずっと格好いいタイトルで決めてしまいました。中身も、宮本さんのエッセイの方が数段いい出来ですが、まだ中身はJILPTのHPにアップされておりませんので、ここでは、わたくしの書いた方の文章を上げておきます。

>去る3月11日、東北地方太平洋沖を震源地とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、これが東北・関東の太平洋岸に数十メートルを超える津波となって襲いかかり、沿岸の市町村をほぼ壊滅させ、おそらく2万人を超える犠牲者を出した。さらにこの津波により東京電力福島第一原子力発電所で炉心溶融が発生し、周辺への放射能汚染や電力不足による計画停電など、首都圏経済に大きな影響を与えつつある。

 雇用労働政策で対応すべき課題は山のようにある。今回は「震災復興と雇用政策」という共通テーマであるので、被災者の就労支援や雇用創出対策への意見が主に求められていると思われるが、それらについては他の論者から的確な意見を述べていただけると考え、あえて別の論点をいくつか指摘しておきたい。

 福島第一原発の事故以来、東京電力とその協力企業の労働者が高い放射線量の中で必死に事態の解決に邁進していることは、「勇敢な50人」という言葉とともに世界に発信されている。その一方で、震災直後の3月14日に電離放射線障害防止規則の特例省令で、緊急作業時の被曝線量の上限を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げた。もともと通常時の上限は5年間で100ミリシーベルト、1年間で50ミリシーベルトである。今回のような緊急事態への特例として、男性と妊娠可能性のない女性についてその作業中100ミリシーベルトとされていたのが、あっさり250ミリシーベルトとなった。

 いうまでもなく、緊急事態には通常の規制を超えて危険な作業を誰かがやらなければならない。自衛官、警官、消防士といった本来の任務そのものに生命・身体的危険が伴う職業だけでなく、これはあらゆる職業に共通する責務であろう。とはいえ、もともと緊急事態を想定していたはずの上限が、現実に緊急事態が起きると次々に書き換えられていくというのは、「想定外」の一言で済まされる問題ではないように思われる。

 とりわけ懸念されるのは、これが事故を起こした(と厳密な意味で言えるかどうかも大問題だが)東京電力や原子力関係者に対する「お前らが悪いからだ」「お前らが責任を取れ」という現在の日本社会を覆いつつある「空気」によって、無限定的に正当化されていってしまうのではないか、ということである。首相自ら東電本社に乗り込んで「撤退などありえない。覚悟を決めて下さい」と檄を飛ばし、誰も疑問を呈さない。原発作業員を診察した医師によれば、自ら被災し、肉親や友人を亡くした作業員たちが、劣悪な労働環境の中で、しかも「『加害会社に勤めている』との負い目を抱え、声を上げられていない」という。

 今までも100ミリシーベルト前後の被曝量で労災認定された労働者が10人いるという。緊急時にリスクは取らなければならないが、リスクはある確率で現実化していく。その「覚悟」はあるのだろうか。

 原発事故は電力不足という形で一般労働社会にもさまざまな労働問題を生み出していく可能性がある。以下、思いつくままにいくつか指摘しておきたい。夏季の冷房用空調設備が電力消費の相当部分を占めることは周知の事実だが、これも労働法と無関係ではない。事務所衛生基準規則は事業者に、事務室の気温が17度以上28度以下となるよう努力義務を課している。努力義務とはいえ、これを遵守せよと政府が言うべきなのか、という問題が早晩出てこよう。原発作業員には被曝上限を引き上げておいて、電力消費者の側は「快適な職場」を享受するのか、という倫理的問題も孕みうる。そうすると、1日の電力消費量の平準化のために、サマータイムの導入とか、さらには深夜勤務への転換といった方策が論じられることになる。さらに、会社に出勤することなく在宅勤務で対応しようという声も出てきている。しかし、あまり節電効果のなさそうなサマータイムを除けば、労働契約の根幹に関わる変更をもたらすもので、一律に行えるものではない。

 既に被災地では会社そのものが消失した事例も多く、そうでなくても多くの失業は誰の目にもやむを得ない事由によるものであるが、被災地以外でも今後電力不足や生産連関の途絶のために雇用を終了せざるを得ない事案が相当数発生することが予想される。もちろん、「日本はひとつ」しごとプロジェクトにおいても、被災地だけでなく一定の関係のある会社も雇用調整助成金の対象とされているが、無制限に対象を広げればモラルハザードを惹起する上に、財源ももたない。とはいえ、会社が直接被災したわけではないのに電力不足で首を切られる労働者はすぐには納得できないだろう。こうした震災を原因とする個別労使紛争の多発も予期しておく必要がある

その他の方々のエッセイは本誌でお読み下さい。

2011年5月24日 (火)

原子力損害賠償紛争審査会における連合の意見

文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会が4月から開かれていますが、昨日5月23日、連合の代表が出席して「福島原発事故による雇用・労働に関する損害について」意見を述べたようです。

今のところ資料だけがアップされています。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kaihatu/016/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2011/05/23/1306259_12_1.pdf

総論は後に回して、まず本ブログでも注目してきている放射線被曝に係る安全衛生・労災関係から

>今回の復旧作業において、この被曝線量限度に近づいたため、今後、労働者が緊急作業終了後に放射線業務に従事できなくなった場合、解雇や配置転換による所得の減少の恐れがある。このような解雇は社会的な相当性を欠き、許されるべきものではないが、このような場合の所得補償は原子力賠償の対象とすべきである

東電社員ではない多重下請の労働者になると、「許されるべきではない」といっても雇止めされてしまうことがいくらでもあり得ますからね。

この関係で、総論の冒頭では、

>・・・・・この際、継続的契約である期間の定めのない雇用だけでなく、期間の定めのある雇用においても、この事故を契機に契約期間満了となった雇止めについても一定の損害評価を行うべきである

と述べています。

労働災害の関係ではかなり詳しく取り上げています。まず、チェルノブイリや原爆症を引いて、晩発性の健康障害のリスクがあることを述べた後、

>労働災害に関する原賠法の賠償については、時効期間及び起算点について、晩発性の健康障害のリスクを考慮に入れるべきである

と、また労災認定との関係について、

>放射線被曝による健康障害に関する過去の裁判例においては、労災認定がなされたにもかかわらず、原賠法による損害賠償訴訟において相当因果関係が否定されたものもある。このような結論は妥当性を欠くため、労災認定がなされた場合には、原則として原賠法による賠償相当とすることや、労災認定がなされない場合でも原賠法により部分的賠償の対象となることを示すべきである。・・

等と、さらに、

>本件事故による放射線被曝による疾病及び身体障害については、広く労災補償の対象とすることが必要であるとともに、事業者がその労災補償に上乗せして補償した部分(上積み補償)は、事業者の損害と認めるべきである

とも述べています。

総論に戻って、そもそも労災保険と原賠法による損害賠償の分担について、

>・・・被害者救済の観点から、労災保険による補償を広く行うべきことはもちろんだが、事業主負担による労災保険制度の性格や保険事故発生要因との関係なども考慮し、労災保険財政の毀損部分への補填措置として、労災保険勘定から支出した労災保険給付や未払賃金立替払い制度からの支出額の一定部分につき、原子力事業者に求償すべきである。

と、談話レベルを2~3クラスほど下げると「てめえらのせいで労災保険の金が足りなくなるんだから差し出せ、コラ」という趣旨のことも述べています。

も一度総論の冒頭に戻ると、雇止めも含める話の前に、大前提として

>労働者に対しては、逸失利益として、本件事故が起きなければ得られていたであろう賃金等の補償が必要である。・・・

で、雇止めの話に続いて、

>加えて、労働者は元の職場にいつ戻れるのか分からないとの不安を抱え、・・・精神的損害についても十分な考慮が必要である。

と精神的損害に言及し、さらに被曝労働者に及ぶという、いささか文脈が錯綜してますな。

>原子力発電所内で放射線被曝のリスクを抱えて働いている労働者や放射線量が比較的高い地域で復旧対応や公共サービスに従事せざるを得ない(公務労働者を含む)の精神的損害も、十分に考慮するべきである

そういう公務員の給与も一律に10~5%カットするのかという話は、この審査会の所管事項ではないので特に言及されてはいません。前線で体張ってるのは自衛官だけではないわけですが。

実務的に重要なのが立証責任の問題です。

>例えば、就労不能等における賃金等の損害について、沿岸部の労働者や事業所において津波により賃金明細や賃金台帳を喪失した場合・・・など、逸失利益を算定する際の賃金額を証明できない場合もある。

>・・・その資料さえもないときは、最低補償の基準を示し、その基準による補償の確保を図ることが必要である

損害の範囲については、

>本件事故そのものや本件事故後の避難指示等を理由とした損害だけでなく、食品加工業や観光業のキャンセル、中国や欧州を中心に工業製品の輸入拒否などの風評被害や、サプライ・チェーンの断絶による損害についても、合理的な範囲内で補償の対象とすべきである

いや、これは「合理的」の判断基準がむずかしいでしょうけど。

2011年5月23日 (月)

国家公務員の月給10~5%削減 震災財源で政労合意

ということで、まずは連合系の組合とは合意に達したようです。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011052301000763.html

>国家公務員の給与削減をめぐる労使交渉で、政府と連合系の公務員労働組合連絡会は23日、月給を役職に応じて10~5%、ボーナスは一律10%をそれぞれカットすることで合意した。7月分給与から減額し、2013年度までの時限措置。捻出できる財源は年間二千数百億円で、東日本大震災の復興に充てる。

労使交渉は全労連系団体との間では難航しているが、25日に予定されている協議でなお理解を得られなくても、給与削減に向けた関連法案を来週にも今国会に提出する。成立すれば1948年の人事院勧告制度の創設以来初めて、勧告に基づかず給与が削減される。

これで、来月国会に提出される予定の法案を待たずして、人事院勧告抜きに、政労交渉で賃金決定するという既成事実が作られたわけです。

連合系組合が給与削減を呑んだのは、もちろん、これが

>連絡会とは、民間との給与格差を人事院が是正勧告する方式を廃止し、給与を労使交渉で決める協約締結権を公務員に付与することも合意した。

昨日書いた「自律的労使関係制度」の第一歩になるからで、戦略的譲歩というやつですかね。

一方で、こちらの組合は

http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10900903333.html(国家公務員給与カットは民間給与カットの連鎖へ-公務員バッシングのツケは結局国民が負うことになる)

と語っていて、それはその限りではそれは正しい面があるのですが、公務員バッシングと労働基本権回復の同床異夢が生み出す公務員制度改革という曰く言い難い代物を論じるにはややシンプルすぎる視点とも申せましょう。

本来有しているはずの労働基本権を剥奪されていることの代償としての人事院勧告があるお蔭でやたらな給与削減をされないで済んでいることを褒め讃えるべきなのか、という、なかなかに難しい論点であるわけです。

これは飯田泰之さんの言説の(党派を超えた)正しさと読むべき

被災地で日夜復興に取り組む地方公務員マシナリさんが、ふと一服に記した随想といった趣ですが、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-452.html誰のための復興?

まずリフレ派随一の良心派飯田泰之さんの書物からの引用:

>万年○○派の評論家は潜在的顧客の頭数を増やすように行動するのではなく、安定的で強力な自分の支持者、信者の獲得を目標にしています。万年○○派の評論家は、同じコールドリーダーでも占い師より新興宗教の教祖に近い技法を駆使していると言ってよいかもしれません。
 顧客の「心に沿う」議論を基本に据えることで、彼らの心を引きつけたならば、続いて行われるのはストックスピールによる信頼の強化です。

>そして経済評論家、中でも万年○○派の真骨頂は予言の的中にあります。・・・・・さらには「不況のダメージを小さくするためには、構造改革の成果が、内外の投資家から信頼されなければならない」「不況から脱出するためには、粛々と構造改革を進める必要がある」といった留保条件をつけておくとさらによいでしょう。これならば、少なくともはずれることはありません。「構造改革徹底指数」のような、構造改革の進展そのものを表す客観的な指標はありません。したがって、景気が回復したら「構造改革がしっかりと行われた」、回復しなければ「不十分だった」と言えばよいのです

>しかし、「構造改革っぽいものは何となくよい」という考えが定着してしまうと、個別の政策に対して論理的な検証を行う論者は、その分析が構造改革の一部に抵触するという意味で歓迎されず、決して受け入れられることはないのです。

次に、より劣悪な「りふれは」の言説:

>だからこそ私たちは「このままでは震災恐慌がくるぞ!」と、声を大にして訴えます。そのことで、結局恐慌が起こらなかったとしても、私たちはそれが誤った警告だとは思いません。なぜなら、私たちが警告を発しなければ、本当にまた日本は、大きな人災である、経済2次、3次被害を受けることになりかねないからです

>震災でお亡くなりになられた方々に思いを馳せながら、「震災恐慌がくる!」――。
そう叫びながらも、日本に恐慌がこないことを、そのために、正しい経済復興策がとられることを、そして、日本中が負った震災による心の傷が癒えることを心から願って。
私たちは先人の知恵を借りながら、「震災恐慌がくる!」――そう、声を大にして叫びます。

こうして、一切編集の労を執ることなく、それぞれの言説をただ並べるだけで、百万言を費やすよりも雄弁に事態の実相を物語ってくれるのですから、まったく付け加えることはありません。

ただ、あえて余計なひと言を付け加えるならば、これはいかなる意味でも「リフレーション政策論者」全般に対する皮肉や揶揄のために用いられるべきものではなく、とりわけその良心派の代表である飯田泰之さんの真摯さをからかうために用いられるべきものではなく、もっぱらそのもっとも卑小かつ劣悪な部分に対する的確な評価のためにのみ用いられるべきだということです。

日夜復興対策に取り組まれているマシナリさんが、この小文のためにどこぞから妙な誹謗を受けたりすることのないようにその点については強調しておきます。

2011年5月22日 (日)

公務員給与削減は公務員制度改革への第一歩?

ここのところ話題になっていた(人によってはとんちんかんな反応も含めて)国家公務員給与の削減の話は、もちろん復興財源に充てるという大義名分で出てきたものではありますが、

http://www.yomiuri.co.jp/job/news/20110502-OYT8T00625.htm?from=nwlb(国家公務員給与、1割引き下げ方針…復興財源に)

>政府は30日、国家公務員給与を1割前後引き下げる方針を固めた。

>東日本大震災の復興財源確保の一環で、実現すれば約3000億円の人件費削減となる。5月の連休明けにも公務員労働組合に提示し、交渉を始める。政府は、関連する給与法改正法案などを今の通常国会に提出する方針だ。人事院勧告を経ずに給与改定が行われれば、1948年の人事院発足以来初めてとなる。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110513-OYT1T00306.htm?from=nwlb(国家公務員給与、1割削減へ…政府方針)

>片山総務相は13日の閣議後の記者会見で、国家公務員給与について、「2013年度まで1割カットを基本とし、交渉を始めたい」と述べ、1割削減する方針を表明した。

>政府は、同日午後から公務員労働組合との交渉を開始し、通常国会に関連法案の提出を目指す。

>現在、公務員は、労働協約締結権など労働基本権が制約されており、公務員の給与改定は、人事院勧告を受けて行われることを基本としている。削減には、労組側の反発も予想される。

http://www.yomiuri.co.jp/job/news/20110518-OYT8T00294.htm(課長補佐以下は減額緩和…国家公務員給与)

>政府は17日、国家公務員給与10%削減に向けた「一般職国家公務員の給与減額支給措置要綱案」を、関係する労働組合に提示した。

要綱案は、国家公務員を役職で3段階に分け、俸給月額について本省課長補佐・係長相当職は8%減、係員は5%減とする内容。若年層の減収対策を求める労組に一定の配慮を示し、それぞれ削減幅を圧縮した。

削減期間は課・室長相当職以上の10%減と併せ、2013年度までの3年間とし、東日本大震災の復興財源にも充てる予定だ。

政府は同日、日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)、国公関連労働組合連合会(国公連合)との2回目の交渉で要綱案を示したが、労組側は「引き下げ理由が不明確」などとし、反対姿勢を崩していない

先月「国家公務員制度改革基本法等に基づく改革の全体像」なる文書が国家公務員制度改革推進本部で決定されたことを、あまり多くの方はご存じないのかも知れませんが、今回の公務員給与削減を巡る一連の推移は、ある意味でこの改革案で言う「自律的労使関係制度」なるものを、出来る前に実質的に先取りしてどんどん実施してしまっているという面があるように思われます。

その「全体像」はこれですが、

http://www.gyoukaku.go.jp/koumuin/sankou/06.pdf

>① 非現業国家公務員に協約締結権を付与することとし、団体交渉の対象事項、当事者及び手続、団体協約の効力、中央労働委員会によるあっせん、調停、仲裁の手続等を定めることとする。このため、「国家公務員の労働関係に関する法律」(仮称。主な内容については、別紙2参照)を新たに制定する。

② 人事行政に責任を持つ使用者機関として国家公務員の制度に関する事務その他の人事行政に関する事務等を担う公務員庁を設置する。このため、「公務員庁設置法」(仮称。主な内容については、別紙3参照)を新たに制定する。

③ 協約締結権の付与及び使用者機関の設置に伴い、人事院勧告制度及び人事院を廃止する。一方、人事行政の公正の確保等の事務を担う第三者機関として、人事公正委員会(仮称。以下同じ。)を設置する。これらを含め、自律的労使関係制度の措置に伴う所要の措置を講ずるため、国家公務員法(昭和22年法律第120号)等を改正する(主な内容については、別紙1の3参照)。

今回、まさに人事院勧告をすっ飛ばして、使用者機関としての(公務員庁の前身の)総務省が労働組合と(現時点では「団体」交渉ではない)「交渉」をして、賃金を決めてしまおうとしているわけで、これが実現すれば(おそらく実現するでしょうが)法律が出来る前にすでにその路線に従った既成事実が出来てしまっていることになるわけです。

そうすると、現にもうやっていることを改めて確認する法改正ということになり、思った以上に通りやすくなるのかも知れません。

ざっと見渡しても、そういう観点からこの給与削減問題を論じている人はあまり見当たらないようなので、ひと言コメントしてみました。

大澤真幸「福島第一原発の現場労働者を」が良いこと言ってる

大澤真幸さんというのは、社会学者の中でもなにやら抽象的なことを言ってる印象が強くて、わたくしはやや敬して遠ざけていた感がありますが、今回のこれは珍しく大変良いことを言ってると思います(五十嵐泰正さんのつぶやき経由http://twitter.com/#!/yas_igarashi/status/71863673605464064)。

http://asahi2nd.blogspot.com/2011/05/2-250-pkopko-cash-for-work-jco-jco-2000.html(福島第一原発の現場労働者を支援しよう)

>今、日本で、いや世界で最も重要な仕事、最も多くの人の最も基本的な運命を左右する仕事は、東京電力福島第一原子力発電所にある。日本の運命は、福島第一原発の労働者の働きにかかっていると言って、過言ではない。したがって、われわれ全員が、日本人はもちろんのこと世界中の人々が、福島原発の労働者を支援してもよい立場にある。・・・

>福島原発の労働者たちの士気は、目下のところ、非常に高いと聞いている。おそらくその通りであろう。・・・

>とはいえ、福島第一原発の日本の労働者の士気の高さも、いつまでも続くとは限らない。最終的な廃炉までのプロセスを考えると、まだ長い道のりが、何年間もかかる道のりが残っている。その間に、徐々に人々の福島原発への関心も低下してくるだろう。マスコミからの注目も、だんだん受けられなくなるだろう。そうなれば、労働者たちの士気の低下は、なかなか避けられない

>しかし、その仕事の重要性、それがもたらしうる危険の大きさを考えると、廃炉までの長い過程のどの瞬間においても、労働者たちに気を抜いてもらっては困るのである。その上、必要な労働者の数は半端ではない。一人の労働者は、積算被曝線量が一定の値(250ミリシーベルト)を超えると、もうそれ以上は原発で働くことができないので、新しい労働者を補充しなくてはならない。こうしたことを考えると、必要となる労働者ののべ人数は、気が遠くなるほどである。彼ら全員に、最後まで高い士気をもって働いてもらわないと、われわれが困ることになる。このことを念頭に、福島第一原発の労働者の支援のことを考えなくてはならない。・・・

>福島第一原発の労働者の報酬として適当な額、少なくとも目標として設定されるべき金額は、被災地や戦地で働くときの自衛隊員が受け取る金額ではないだろうか。現在の福島原発の労働者の仕事は、その困難さ、その危険度、そして他の人々の生命や安全への影響の程度や範囲を考慮にいれた重要度、そのいずれの観点で考えても、津波の被災地で働く自衛隊員の労働、海外の紛争地での自衛隊のPKO活動に勝るとも劣らない。自衛隊員は、過酷な被災地や海外PKOにおいては、通常の給料に加えて、特別な手当をもらっているだろう。福島原発の労働者も、それとほぼ同額の賃金を受け取ってしかるべきである。

>待遇として考慮に入れるべきことは、賃金だけではない。たとえば、労働者たちの食事や宿舎はどうであろうか。・・・・・・

かなり長めの文章なので、詳しくはリンク先をお読み下さい。こういう真っ当な発言が(ネット上も含めた)論壇で活躍する人々からは殆ど発せられず、自分の経済政策を主張するためだけの火事場ドロボー的議論ばかりが交わされるのは悲しいものがあります。

2011年5月21日 (土)

『POSSE』11号は「〈3・11〉が揺るがした労働」

Hyoshi11 POSSEのHPに雑誌『POSSE』11号の宣伝が載っているようなので、こちらでも紹介。もっとも、発売は5月末だそうです。

http://www.npoposse.jp/magazine/new.html

高橋哲哉(東京大学教授)
「フクシマの犠牲と「人間の責任」」

震災・〈フクシマ50〉の「犠牲の論理」
福島出身の哲学者が原発の差別構造と「責任」を問う

木下武男(昭和女子大学特任教授)
「東電の暴走と企業主義的統合――労使癒着によるチェック機能の喪失」

産業別労組の敗北から「会社人間」の誕生へ――
原発推進の背景には、日本の「労働運動ゼロ地帯」があった

岡田知弘(京都大学大学院教授)
「「創造的復興」が地域社会を破壊する」

原発・電力・復興・防災政策、「災害ファシズム」……
循環可能な地域経済をつくるための転換を

樋口健二(フォト・ジャーナリスト)
「原発が葬り続けた被曝労働者たち」

原発事故の復旧作業で注目される原発労働者。……
しかし、原発は日常的に彼らを被曝させていた――

仁平典宏(法政大学准教授)
「被災者支援から問い直す「新しい公共」」

NPO、ボランティアの役割と限界
公的セクターとの相補関係による「支援」こそ必要

斎藤幸平(ベルリン自由大学大学院生)
「ドイツの反原発運動とユニオニズム」

政権を原発撤退に転換させたドイツの脱原発運動――
労働組合は被曝労働やエネルギー政策にどう取り組むのか

今野晴貴(NPO法人POSSE代表)
「現代労働問題の縮図としての原発――差別の批判から、社会的基準の構築へ」
派遣労働や過労死に通じる構図
不明確なリスクを社会化せよ

川村遼平(NPO法人POSSE事務局長)
「震災が露呈した「ブラック企業」
「震災だから」が正当化する非正規雇用の「便乗解雇」」

「被災者じゃないから我慢」?
泣き寝入りさせられる若者たち

本誌編集部
「震災が露呈した「ブラック企業」
会社の責任は問われない? 計画停電下の理不尽な命令」

這ってでも出社しろ?
「自宅待機」命令で欠勤扱い?

増田正幸(弁護士)
「震災が露呈した「ブラック企業」
復旧・復興と過労死――阪神・淡路大震災の教訓に学ぶ」

震災後の労働で予想される過労死を防ぐには?
阪神・淡路大震災での事例を振り返る

本誌編集部
「逃げられない家族へ、無関心なあなたへ」
福島出身のPOSSEスタッフによる
原発事故下の実家に向けたエッセイ

仙台POSSEスタッフ
「被災地からの報告――地震・津波の被害状況と復興の展望」
自らも被災した仙台POSSEスタッフによる
震災直後の被災の報告、そして復旧・復興に向けた見通し

本誌編集部
「原発から労働・貧困問題を考えるためのブックガイド」
震災後の労働で予想される過労死を防ぐには?
震災直後の被災の報告、そして復旧・復興に向けた見通し

本橋哲也(東京経済大学教授)
「労働と思想11 シェイクスピア演劇と労働の力学――「以降」の思想のために」

「近代ヨーロッパ」の揺籃期に描かれた「労働」の変容
「野蛮」な「詩」はいかに現実と向き合い、希望を語りうるのか

萬井隆令(龍谷大学名誉教授)
「連載 実践的労働法入門 震災を口実に解雇されたり、危険な労働を命令されたら?」


熊沢誠(研究会「職場の人権」代表)
「連載 われらの時代の働きかた 就職の「成功度」を規定するもの」


後藤和智(同人サークル「後藤和智Offline」代表)
「連載 検証・格差論 「「雇用のミスマッチ」――過去に何が語られてきたか」


川村遼平(POSSE事務局長)
「連載 労働相談ダイアリー 〈3・11〉の二次災害、どう乗り切るか」

言うまでもなく全てまだ未読ですが、震災から2ヶ月で、これだけまとめたのは立派。

ちなみに、もうすぐ出るJILPTの『ビジネス・レーバー・トレンド』6月号でも震災特集があり、わたくしも1ページほどの小文を寄せています。

矢野栄二・井上まり子『非正規雇用と労働者の健康』労働科学研究所

さて、昨日は、第84回日本産業衛生学会/日本学術会議市民公開講座「雇用労働と安全衛生に関わる諸システムの再構築を-働く人の健康で安全な生活のために-」というシンポジウムに参加してきましたが、

http://jsoh84.umin.jp/jsoh84_program-open_sympo_title.pdf

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/84-a078.html

(追記)

昨日のシンポのわたくしの発言部分を起こしていただいておりますので、ご参考までに。なお、質疑の最後の消費税のところはあんまり自信のないまま適当に誤魔化して答えたところなので、ホントは歴史の闇に葬りたかったのですが・・・。

http://liberation.paslog.jp/article/2005872.html

その場で、座長の矢野栄二さんと井上まり子さんから、出たばかりの『非正規雇用と労働者の健康』を手渡しで戴きました。ありがとうございます。

この本、奥付けでは5月25日発行となっていて、ネット上で見る限り、まだ出版されてはいないようです。ですから、左に表紙の画像を貼ることもできませんが、いくつか紹介したいと思います。

目次を、各章の執筆者とともに示すと、

はじめに   矢野栄二・井上まり子

第1部 非正規雇用がもたらす健康への影響-現場からの声

1 派遣ユニオンから 関根秀一郎

2 派遣労働者から 飯島美世子

3 NPOから 湯浅誠

第2部 法学・経済学・社会学から見る非正規雇用者の健康

1 法学 脇田滋

2 経済学 奥西好夫

3 社会学 杉田稔

第3部 非正規雇用の背景

1 非正規雇用の制度的背景 井上まり子

第4部 非正規雇用は健康を悪化させるのか?-データ分析による検証

1 国民生活基礎調査の分析 鶴ヶ野しのぶ・錦谷まりこ

2 非正規雇用と健康管理 飯島純夫

3 非正規雇用労働者の健康管理の実態とニーズ-派遣労働者 巽あさみ

4 雇用形態多様化と心の健康 丸山総一郎・瀬戸昌子

5 助成の健康と就業の関係 錦谷まり子

6 外国人労働者における労災・職業病発生の実態 毛利一平・吉川徹・酒井一博

7 請負事業者の安全衛生管理に対する元方事業者の貢献 森晃爾

8 失業と健康 石竹達也

第5部 非正規雇用と労働者の健康に関するQ&A 矢野栄二

わたくし的には、一番興味深かったのは第3部の井上さんの章で、終戦直後以来の労働力調査における「就業上の地位」と「雇用形態」の分類の変遷の表は、そうだったのか!でした。

第1部の現場の声もよくできているし、第2部の脇田さんの「法学」も奥西さんの「経済学」も的確な分析でいいのですが、そのあとの杉田さんの「社会学」というのがいただけない。

せっかく頂いた本の一部を批判するのは気が引けますが、これはやはりきちんと言っておくべきだと思うので。

冒頭、いきなりこういう文章から始まります。

>2.3.1 日本の歴史と伝統

日本の先史時代から縄文人と弥生人の戦争ではない平和的共存共栄路線による和合の歴史・伝統は、他人を信頼し正直に行動し信用を獲得する長期戦略そのものである。その数百年後に、聖徳太子は十七条憲法で「和を以て貴しとなす」と記して、平和共存共栄路線を国是とした。・・・・・・・

>このように、日本では、戦争による支配・被支配の階級がなく、諸外国と比較すると平等・一枚岩な社会で、談合・系列などという経済システムは長期戦略として成功してきた。また、諸外国と異なり、一部の集団・個人が、権力、経済力や権威などのいわゆる美味なものを独占する社会ではなかった。

なんだかすごいデジャビュ全開ですが、こういうトンデモ系の歴史認識に立脚して、

>2.3.2日本の歴史と伝統の否定による破局

とか、

>2.3.3新自由主義の害毒

とか、

>2.3.4新自由主義採用による破局のリスク

とか、

>2.3.5問題解決:低賃金労働者の収入上昇による健康度上昇

といわれても、いや、確かに新自由主義が害毒をもたらしたのは確かだし、低賃金労働者の収入上昇がその健康の増進に結びつくことも確かなのですが、全体の話の流れについていけないのはわたしだけではないと思うのですが。

最後の締めの文章が、やはりこれです。

>日本再生の道は、新自由主義からの決別と日本の歴史・伝統による安全・安心をキー・ワードとしての経済運営で、そのことの世界への発信も重要である。各国固有の歴史・文化・伝統をよりどころの差別化を国家戦略に転換するようになろう。これは、真の日本回帰である

十年前に新自由主義の輝ける旗手だった中谷巌氏が、「転向」して似たようなことを口走りだしたことに対しては、本ブログでかつてかなり手厳しく批判したことがありますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-3779.html(中谷巌氏の転向と回心)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-2350.html(中谷巌氏の「回心」再論)

別に転向したからというだけでなく、言ってる中身も相当にトンデモ化してしまっていたわけで、この杉田さんの文章には、似たような味わいが感じられるのです。

voiceなきexitの世界

某氏のつぶやきから

http://twitter.com/#!/joshigeyuki/status/71197452845318145

>残業きつい→辞めればいい。人間関係最悪→辞めればいい。上司のパワハラ→辞めればいい。希望の仕事じゃない→辞めればいい。すべての労働問題は、辞めることで解決できる。「辞められる」ってことは、労働者にとって最強の武器だ。

だから、不満があっても声を上げる必要はない。

だから、ひどい目にあっても抗議する必要はない。

だから、どんな仕打ちにあっても文句を言う必要はない。

voiceなきexitの世界。

労働組合が諸悪の根源という人にいかにもふさわしい発言ではある。

辞めたあとどうやって生きていくのかまでは語らないのが玉に瑕だが。

もう少し賢い人は、辞めたあとどうしてくれるんだ?という疑問に、ベーシックインカムなんかを提示してくれるかも知れない。

だから安心して辞めればいい。あとはベーシックインカムがちゃんと面倒見てくれるから。

それで余計な紛争をしないでおいてもらえるのなら、単なる捨て扶持よりももう少し効率的な活用法ではあろう。

ただ、世の中を少しなりとも住みよいものにしてきたのは、「辞めればいい」じゃなくて「辞めずに声を上げてきた」人々であることは、歴史が語るとおりなんだが。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_3c8e.html(フリードマンとハーシュマンと離脱と発言)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-142e.html(山垣真浩「解雇規制の必要性」)

(追記)

ベーシックインカム メールニュース編集長の「nozuem」さんから、

http://twitter.com/#!/nozuem/status/71717855120474112

>ベーシックインカムは「辞める」という選択肢だけでなく、労使交渉や内部告発をする上で大きな力や様々な選択肢を個人に与えると思います。

というコメントを戴いています。

もちろん、そういう面もあると思います。上記は、城氏のつぶやきからやや強引にベーシックインカム論に揶揄的な言い方に引き付けすぎている感はあります。

ただ、ベーシックインカムがあるから戦える、というvoice増進効果の側面よりも、ベーシックインカムがあるから戦わずにさっさと逃げられるというexit促進効果側面の方が、現代の風潮的にはより強く出ているような気はします。nozuemさんがそうだという意味ではありませんが。

(再追記)

城繁幸氏が、本気でexitこそが労働者のための最善の道だと考えているのであれば、労働組合を罵りまくる前に、まず真っ先に戦うべき相手がここにいますが・・・、

http://twitter.com/#!/roubenshiomi/status/72029575609196544

>過労死ライン以上働かされ耐えられず退職を申し出たら「損害賠償請求するぞ」と脅され、退職したら本当に2千万円の損賠請求訴訟を起こされた事件の証人尋問準備中。意味不明な会社側の証拠を解読したところ、「従業員モチベーション低下数値」という非論理的な数字を損害主張したものだった。脱力・・

http://twitter.com/#!/roubenshiomi/status/72029892719546368

>しかし、法律家は論理的思考が命なのに、この事件の会社側代理人はこんなものをそのまま証拠に出して弁護士として恥ずかしくないのだろうか・・・

exitするにも、必死の思いでvoiceを上げなければならない現実もまたあるわけで。

こういうときにこそ、その昔の学生援護会のCMではないですが、「職業選択の自由~、あはは~ん」と唄ってもらいたいものですね。

女子高生クラブは労働基準法違反

いや別に、メイド喫茶で労働基準法を勉強したからというわけではないのですが・・・、

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011051801000297.html(「女子高生クラブ」摘発 労基法違反容疑で逮捕)

>女子高生を雇って下着姿を客にのぞき見させたとして、神奈川県警は18日、労働基準法違反(年少者の危険有害業務の就業制限)の疑いで、横浜市の「横浜マンボー」を経営する会社員丹能貴光容疑者(37)を逮捕、同市中区の店舗を家宅捜索した。

 同店は、HPで店の少女は全員が女子高生と宣伝しており、雑誌やインターネット上などで「女子高生見学クラブ」と呼ばれていた。

 県警によると、同店は少女を従業員として雇い、マジックミラー越しに客に下着姿を見せた疑いがある。県警は4月25日にも家宅捜索していた。

 県警は、風営法や児童福祉法違反容疑での立件も検討したが、営業内容が風営法違反などに当たらないとして、労基法を適用した

風俗営業法にも児童福祉法にも引っかからないものが労働基準法には違反するということです。

念のため、法律のお勉強を。

労働基準法

(危険有害業務の就業制限)
第六十二条  
使用者は、満十八才に満たない者に、運転中の機械若しくは動力伝導装置の危険な部分の掃除、注油、検査若しくは修繕をさせ、運転中の機械若しくは動力伝導装置にベルト若しくはロープの取付け若しくは取りはずしをさせ、動力によるクレーンの運転をさせ、その他厚生労働省令で定める危険な業務に就かせ、又は厚生労働省令で定める重量物を取り扱う業務に就かせてはならない
○2  使用者は、満十八才に満たない者を、毒劇薬、毒劇物その他有害な原料若しくは材料又は爆発性、発火性若しくは引火性の原料若しくは材料を取り扱う業務、著しくじんあい若しくは粉末を飛散し、若しくは有害ガス若しくは有害放射線を発散する場所又は高温若しくは高圧の場所における業務その他安全、衛生又は福祉に有害な場所における業務に就かせてはならない。
○3  前項に規定する業務の範囲は、厚生労働省令で定める

年少者労働基準規則

(年少者の就業制限の業務の範囲)
第八条  法第六十二条第一項の厚生労働省令で定める危険な業務及び同条第二項の規定により満十八歳に満たない者を就かせてはならない業務は、次の各号に掲げるものとする。ただし、第四十一号に掲げる業務は、保健師助産師看護師法 (昭和二十三年法律第二百三号)により免許を受けた者及び同法 による保健師、助産師、看護師又は准看護師の養成中の者については、この限りでない。
四十四  酒席に侍する業務
四十五  
特殊の遊興的接客業における業務

ふむ、「特殊の遊興的接客業」に当たるわけですか。

2011年5月20日 (金)

原子力発電所の事故対応等における労働安全衛生対策強化に関する要請

20110520_205908_s 本日、連合は、官邸、厚生労働省、文部科学省に対し、原子力発電所の事故対応等における労働安全衛生対策強化に関する要請」を行ったとのことです。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/rengonews/2011/20110520_1305893116.html

写真は、團野副事務局長が福山官房副長官に渡しているところですね。

要請書はこちらですが、

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/rengonews/data/20110520_yousei_kantei.pdf

いずれも重要な項目なので、省略せずにそのままコピペしておきます。

まず基本認識

>3月11日の東日本大震災に伴い発生した、福島第一原子力発電所の事故後、現場では労働者が懸命の復旧作業にあたっています。こうした労働者が、国民の生命を守るために、いわば「決死の覚悟」で作業にあたっていることに、多くの国民が賛辞を送っております。しかし、作業にあたる労働者の使命感や覚悟にまかせるだけで済ませて良い問題ではありません。政府の責任として、こうした労働者自身の命と健康も、同じく守らなければなりません。また、福島第一原子力発電所の半径20㎞圏内の警戒区域および計画的避難区域においても、ライフライン整備や公共サービス業務に携わる労働者が存在しています。

これらの業務は原子力発電所事故の一日も早い収束と地域の復旧・復興のためにも最優先の課題ではありますが、同時に、その業務に携わる労働者の安全衛生対策には万全を期することが不可欠です。

東京電力の「福島第1原発事故収束に向けた工程表」によれば、事故の収束に向けては数ヶ月間にわたる長期間の作業の必要性が見込まれており、被ばく対策をはじめとした労働安全衛生対策の強化は喫緊の課題です。

連合は、復旧作業等にあたるすべての労働者の命と健康を守る観点から、以下のとおり労働安全衛生対策の強化を求めます。

具体的な各項目は、

1. 福島第一原子力発電所の事故対応に従事するすべての労働者への労働安全衛生対策の強化

(1) 発電所内で作業にあたるすべての労働者の安全確保は、第一義的には事業者および原子力事業者が行うべきものであるが、未曾有の事態であり、国の責任として、救急医療体制の整備など、必要な役割を果たす。

(2) 発電所内で作業にあたるすべての労働者の被ばく線量については、電離放射線障害防止規則(電離則)に則って管理を徹底するよう指導を強化する。特に、内部被ばく防止策とホールボディカウンターによる管理を徹底するよう指導・監督する。また、国としても十分な数のホールボディカウンターの確保に向け支援する。

(3) 作業にあたる労働者の過労防止のため、交替要員の確保など、当該企業が必要な措置をとるよう、指導・監督する。

(4) 電離則に規定された安全衛生教育を、作業にあたるすべての労働者に徹底させる。また、今回に限った措置として、緊急作業時における実効線量の限度を100mSv から250mSv に引き上げたことに対応し、電離則に定められた教育の内容および時間数を拡充する。

(5) 放射線被ばくについては、長期的な健康管理が必要であるため、離職後を含めて長期的に被ばく線量を管理できるデータベースを早急に構築し、これに基づいて健康管理を実施する。

(6) 作業にあたるすべての労働者に対して、熱中症対策や作業環境の改善などの健康管理体制を確立するとともに、メンタルヘルス対策にも万全を期すよう指導する。また、国としても必要な援助を行う。

(7) 被ばく線量の限度との関係で、一定期間原発業務に従事できなくなる労働者に対する、解雇などの不利益な取り扱いがないよう、当該企業への指導を徹底し、企業による配置転換、職業訓練や転職支援に対して、必要に応じて国としての助成を行う。

いずれも重要ですが、最後の(7)は狭義の安全衛生対策だけでは及ばない部分であるとともに、ここがしっかりしていないと「仕事ができなくなったらまずいだろうから放射線量を少ないことにしておいた方が良いだろう」という話になりかねないところです。

2. 警戒区域、計画的避難区域およびその周辺で働くことを余儀なくされた労働者に対する労働者への安全衛生対策を強化する

(1) 一定の放射線量を超える環境下で働く労働者に対しては、保護具の装着、被ばく線量の管理、上限の設定、健康診断の義務づけなど、電離放射線障害防止規則を準用する。

(2) 上記以外の場合であっても、周辺区域で働く労働者の安全確保のために必要な措置を定めたガイドラインを示す。

これ、例の飯舘村の工場とかを想定しているんでしょうか。雇用機会と安全衛生との関係が悩ましいところです。

3. 原発事故収束までに長期間を要し、多数の労働者が働くことが予想されるため、放射線量や健康への影響などについて、政府として一元化された正確な情報の開示を行う。

4. 文部科学省の「放射線審議会」に労働災害の専門家を委員に加えるとともに、今回の事故に対応するための措置として、労働政策審議会労働安全衛生分科会の下に特別の「部会」を設置して定期的に開催し、状況報告と対策を議論できるようにする。

これに対する回答は、連合HPによると、

福山官房副長官は「官邸としても、関係省庁と連携ししっかり取り組んでいきたい」との発言があった。

また、林文部科学大臣政務官は「労働環境はもちろん、正確な情報発信は大変重要。関係省庁で連携の上、一元的かつ一体的に取り組んでいきたい」との発言があった。

小林厚生労働大臣政務官は「労働者の安全は最優先であり、できることはやっていきたい」と述べ、本日付で「福島第一原発作業員健康管理等対策推進室」を立ち上げ、政府としても作業員の健康管理対策等の推進に向け全力を挙げて取り組むとの発言があった


とのことです。

2011年5月19日 (木)

シンポジウム「働き方の近未来」

財団法人労働科学研究所の創立90周年記念特別企画の一環として、「働き方の近未来―何が問われているのか」というシンポジウムが開かれます。わたくしもパネラーとして参加します。

http://www.isl.or.jp/service/90thkinen.html

【開催日時】 7月1日(金)-7月2日(土) 宿泊型
【会場】国立女性教育会館  埼玉県比企郡嵐山町菅谷728

■講演 「生物多様性と豊かな労働」
  鷲谷 いづみ(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)
■シンポジウム(1) 『働き方の近未来―何が問われているのか』
「女性の参画・活用と働き方の“標準”の転換」 
 竹信 三恵子(和光大学現代人間学部教授)
「新しい労働社会をめざす改革の方向」
 濱口 桂一郎(労働政策研究・研修機構統括研究員)
「人間らしい労働と働き方の制度設計」
 井谷   徹(元ILO労働者保護局長)

ということで、この3月で朝日新聞を辞められた竹信さんも出ます。

ところで、「創立90周年」って、1921年(大正10年)創立です。この研究所、実は労働問題に関心のある人にとっては大変由緒ある団体なのです。

労研の歴史はここに詳しく書かれていますので、是非お読み下さい。

http://www.isl.or.jp/outline/history.html

>(財)労働科学研究所のルーツは、大原社会問題研究所(大原社研)にある。大原社研は、1919年2月に倉敷紡績社長・大原孫三郎氏により設立(正式開所は1920年7月)され、労働科学研究所の初代所長暉峻義等は、その一員として医学的労働研究部門を担当していた。その後、暉峻は大原の依頼により倉敷紡績万寿工場内に新しく専門研究所を創設し、生理学、心理学、医学、衛生学等の方法によって労働に関する基礎的な研究を行うことになった。これが大原社研から独立した倉敷労働科学研究所で1921年7月1日のことである。

>当時の紡績工場で働く女性労働者の労働条件、労働環境は大原孫三郎の工場であっても、なお劣悪であり、長時間・深夜労働、粉じんや高熱、高湿の作業環境といった悪条件のもとで、心身の消耗、ひいては結核等によって女性労働者が死亡する「女工哀史」の時代が続いていた。大原は、このような労働及び労働者の状態改善を科学的方法で実現しようとし、気鋭の医学者暉峻に研究所設立を依頼した。

大原孫三郎の遺産の一つなのですね。

鉱山保安と原子力保安

菅首相が、原子力安全・保安院を経済産業省から切り離すことを検討しているようですが、

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110518-OYT1T00961.htm(首相、保安院切り離し検討…送電と発電の分離も)

>原子力行政は「根本的に見直す」とし、原子力を推進する立場の経済産業省と、安全規制を担う原子力安全・保安院を分離する方向で検討するとした。

産業振興役の行政と安全規制役の行政とは当然利害が反するはずですが、それを同じ組織に担わせてきたことが事故の原因だ、という話は、なんだかすごいデジャビュを感じます。

実をいうと、原子力安全・保安院という組織には「鉱山保安課」という原子力とは何の関係もない部局もあるんですね。

http://www.meti.go.jp/intro/data/akikou32_1j.html

これは、かつて商工省から通商産業省に設置されていた鉱山保安局の名残りなのですが、これについて終戦直後の時期に新設の労働省との間で所管争いがあったのです。

拙著『労働法政策』の「安全衛生法政策」より、

>なお、この時、鉱山保安行政についても労働基準法制定時にはいったん労働省の所管とされながら、労働安全衛生規則制定時に商工省との話し合いがつかず同規則を適用しないという除外規定が設けられ、その後政治的な紆余曲折を経て、1948年12月の閣議で「石炭増産の必要上、商工大臣が一元的に所管すること」とされてしまい、1949年5月の鉱山保安法で、鉱山保安に関しては労働基準法が適用されないこととなった。このため、当初労働基準局に置かれた鉱山課も廃止され、以後、鉱山のみは生産が安全衛生に優先する行政体制となった。ただし、鉱山保安法に危害防止に関し労働大臣の通商産業大臣への、労働基準局長の鉱山保安局長への勧告権が辛うじて規定された。ちなみに1960年代には数百人の命を奪う炭鉱大事故が続発し、労働基準局長から鉱山保安局長に対し計6回に渉り勧告が行われた。

工場であろうが建設現場であろうが鉱山であろうが、当該産業振興を一生懸命する行政部局が同時に安全規制をやっていいはずはないのですが、この時は「石炭増産の必要上」という理由で生産が安全に優先されたわけですね。

その時の生産優先の政治判断による組織の名残が、もはや日本に炭鉱は一つもなくなった今、それに取って代わった石油にさらに代替するという触れ込みであった原子力行政機関の中にひっそりと生き残っていたということに、何とも歴史の流れの中の不易流行をしみじみと感じます。

職業訓練で雇用を生み出せ@NHKクロ現

Photo30421 本日夜7時半より、NHKのクローズアップ現代で、「職業訓練で雇用を生み出せ」が放送されるとのことです。

http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/yotei/index.cgi

>東日本大震災は多くの人から職を奪った。従来から失業率の高止まりに悩んでいた日本は、かつてない危機に立っている。そこで今、長期的な雇用回復、復興への道の一つとして期待されているのが「職業訓練」だ。欧州では職業訓練に力を入れることで好調な経済を維持している国が少なくない。例えばデンマーク。国・企業・労組が一体となって失業者を訓練(education)し、環境分野などの成長産業に移動(mobility)させる“モビケーション”という戦略が、産業の新陳代謝を活発にしている。これに対して日本では、職業訓練と生活費の支給がセットで受けられるという新たな制度に受講者が集まっているが、肝心の雇用の回復にはなかなかつながっていない。職業訓練という「生活安定への処方箋」が、日本でも有効な切り札にできるのか、そのために何が必要なのかをさぐる。

出演は北大の宮本太郎先生です。

私もちらりと関わっているのですが、番組で放送されるかどうかは分かりません。

三柴丈典『産業医が法廷に立つ日』

1185 三柴丈典さんから、近著『産業医が法廷に立つ日 ―判例分析からみた産業医の行為規範―』(労働調査会)をお送りいただきました。前著の『裁判所は産業ストレスをどう考えたか』に続き、今回もありがとうございます。

http://www.chosakai.co.jp/purchase/books/syousai/1185.html

>産業医が事件の当事者となったもの、事件に深く関与したもの等、産業医に関する裁判例のうち主要なものを判例データベースから抽出し、その傾向について分析・解説した書。該当する18件の裁判例から、産業医に求められる法的な行為規範を探っている。産業医、産業保健職、これらを活用する企業関係者には不可欠となる生きた法知識を提供

産業医が事件の当事者となった例、産業医が事件の当事者とほぼ同レベルで事件に深く関与した例、事件との関係はさほど深くないが、判決本文に「産業医」の文言が5か所以上登場した例の3レベルに分けて、裁判例が詳しく紹介、分析されています。

先日取りまとめた個別労働紛争処理事案の分析の中でも、メンタルヘルス関係事案では産業医が当事者に近い形で登場してくる例がいくつかあり、産業医の立ち位置というものについて考えさせられます。

まあ、収録されている裁判例からすると、「産業医が法廷に立つ日」というのはやや誇大広告気味ではありますが、産業医の在り方が法廷で問題とされるという意味では既に「法廷に立」っているのかも知れません。

昔、総評という大きい組合があったんだ・・・(遠い目)

金子良事さんのつぶやき・・・。にいちいち反応するな、といわれそうですが・・・、

http://twitter.com/#!/ryojikaneko/status/70759781916356608

>【緩募】今日は総評の資料を整理していて、当たり前だけど、総評は戦後の労働運動で重要な位置を占めていたんだなと再確認。誰か一緒に総評を勉強しようという人いませんか?興味があったら、リプライください

http://twitter.com/#!/ryojikaneko/status/70889160466104321

>最低ラインとして昔、総評という大きい組合があったんだ、ということを忘れなられない程度には啓蒙したいものである。

こいつ、何をいってやがんだ・・・という反応が脊髄から飛び出しかけた方は、そろそろ加齢臭が漂っている恐れがありますので注意しましょう。

若手どころか中堅クラスの労働研究者であっても、個人のライフヒストリーからすれば、そろそろそういう感想がでておかしくないのです。

わたし自身の金子さんとの世代差を忘れたことによる失態の例:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-817f.html(職業訓練の社会的地位について)

>我々は自分が幼かった頃の時代精神を意外に忘れきっているものです。最近何回も書いていますが、1960年に書かれた国民所得倍増計画を読むと、その素朴なまでの近代主義的志向は、1970年代以降の知的世界を知っている人間には驚くほどのショックを与えます。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-166.html(濱口先生の若干の誤解、あるいは実業教育と職業訓練の関係)

>濱口先生は最後の段落で微妙に誤解されている。そこにジェネレーションギャップを感じた(笑)。私の場合、忘れているのではなく、そもそも知らない。1978年生まれなので。私にとっては1960年代も明治時代も同じく歴史の中の出来事。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-399e.html(おっしゃるとおり!)

>いやおっしゃるとおり!

>1978年生まれの金子良事さんに、

・・・・・・・

はなんぼなんでもないですわな。誰が幼かった頃やて?

所得倍増計画も63年経済審答申も「明治」ですわな。

心の底から堕落しきっている

今朝の朝日から、

http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY201105180413.html(カーティス教授、菅首相にも谷垣総裁にも苦言)

>日本政治に詳しい米コロンビア大学のジェラルド・カーティス教授が18日、東京都内で講演し、菅直人首相と自民党の谷垣禎一総裁の政治姿勢にそれぞれ苦言を呈した。

 カーティス氏は4月下旬、菅首相と谷垣氏に個別に面会した。講演では、菅政権の震災対応を「会議が多すぎ、政治のリーダーシップが見えない。菅首相は権限をどう委任するかが、わかっていない」と批判。谷垣氏には「菅首相がダメだと言う必要はない。それは国民がいずれ判断することだ。むしろ建設的な提言をすべきだ」と伝えたという。

 カーティス氏はさらに「日本は社会がしっかりしているから、政治が貧困なままでいられる。日本の政治家は国民に甘えている」と日本政治の現状を嘆いた。

今まで言われ尽くしていることですが、こうして言われると改めて心に沁みます。

同じ今朝の紙面に、五百旗頭防大校長(復興会議議長)のインタビューが載っていますが、復興案をまとめる責任者としてより痛切に、

>災害の問題については、国民的観点から政略を入れずに協力してもらいたい。対抗して権力を奪い合うことばかりがテーゼになってしまった国は堕落している、と歴史学者、政治学者として思う。

と語っています。

わたしもまったくそう思いますが、それ以上に、「対抗して権力を奪い合うことばかりをテーゼに」するよう、経済政策を建前に振りかざしながら、政治家に政略を焚き付け、煽り、唆すことばかりに専念している、一部経済学者及び経済学者もどきの人々は、心の底から堕落しきっていると思います。

2011年5月18日 (水)

海老原嗣生『もっと本気でグローバル経営』

9784492532867 海老原嗣生さんから『もっと本気でグローバル経営 海外進出の正しいステップ』(東洋経済)をお送りいただきました。ありがとうございます。

海老原さんの言いたいことは「はじめに」に書かれているので、コアの部分を引用しますね。

>さて、では日本企業が海外で戦って勝ち抜くためには、どのような経営戦略が求められるか。多くのビジネス誌を読めば、以下のような論調を目の当たりにする。

(i)海外の優秀な人材を積極的に活用し、

(ii)世界の進んだマネジメント手法を取り入れ、

(iii)日本型を脱し、世界に通用する先端経営に近づく

では、①②を求め、(i)~(iii)を標榜した企業たちはどうなっていくか。

わたしの見てきた限り、その殆どは早晩海外進出に失敗し、熟慮の末やり直すか、または撤退するのどちらかとなっている。

なぜだろう?

それは、一番大切なものを忘れているからだ、とわたしは考えている

こういう風に書かれると、それはいったい何だ?と読み進めたくなりますね。

>金髪碧眼の端正な顔立ちをしたそのフランス人CEOは、トヨタの作業服を着て工場を巡っている。そして、油まみれの現場作業員と歓談し、また職長やライン長のような工場内管理職と口泡とばして議論をする。そんなトヨタでは当たり前の風景がそこには描かれていた。・・・

>なぜ、このCEOはこんな日常を送っているのか?

その理由を考えることが、この本の出発点である。

そう、トヨタ欧州はヨーロッパにあるが、それはヨーロッパの会社ではなく、あくまでもトヨタなのだ。そこで働く人々は、ドイツ人でもなければフランス人でもなく、トヨタ人である。

トヨタにはトヨタの強みがあるから日本で成功した。それは最先端でも標準でもなく、トヨタ型の強さだった。ならば、世界に出ても、トヨタの強さを再現すべき。

そんな当たり前のことを、忘れている企業が多くはないか?

まあ、もちろん、それはトヨタだからできることという面もあるのでしょうが。

>・・・国内では、自社の特性を生かして勝ってきた経営者が、こと海外進出に限っては、その特性の再現に力を入れないという過ちを犯す。

この本は、そこに一つの解を示したい

まあ、55ページ以下に出てくるバンガロール工場立ち上げの話を読むと、

>延べ500人のトヨタ本社社員が現地に赴き、常時200人が滞在を続け、2年間、トヨタの熟練社員多数の中で、新参の現地インド人が手取り足取り指導されて育てば、トヨタスタイルが自然と彼らに浸透してゆく

のはよく分かります。なかなかそこまで徹底してやれる企業はないのでしょうけど。

序章 ある縫製工場の典型的な失敗
第1章 海外進出の正しいステップ
第2章 本気の海外進出を惑わす諸問題の傾向と対策
第3章 超大手企業のグローバル化を解剖する
第4章 本格進出した「ステージ4」企業の将来像
第5章 日本国内のグローバル化
特別付録 そこが知りたい! グローバル化の基礎知識

池田信夫氏にも送っているようなので、彼がどういう書評をするか興味深いところがあります。

http://twitter.com/#!/ikedanob/status/70440759182110720

セクハラと労災

昨日、厚労省の精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会第4回セクシュアルハラスメント事案に係る分科会が開催され、その資料がアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001c396.html

昨日の資料で興味深いのは、心理的負荷の強度の修正の目安(案)が提示されていることです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001c396-att/2r9852000001c3d6.pdf

現在、セクシュアルハラスメントについては平均的な心理的負荷の強度がⅡとされているのですが、これをもう少し細かく分類して強度をⅠからⅢまでに分布させようというものです。

まず、強姦や本人の意思を抑圧してのわいせつ行為などはそれだけで負荷を「強」と判断できる「特別な出来事」に改めます。胸や尻への身体接触あるいは性的な発言でも反復継続の程度等を要素としてⅢ(強)に修正しますが、これらでも単発のものはⅡのままで、逆に「○○ちゃん」とか職場に水着ポスターなどはⅠ(弱)に修正するという案です。

前回(3月)のヒアリングでは、セクハラ被害者(の声を代弁するユニオンの人)やカウンセラーや弁護士の人がいろいろと語っていますので、それらが参考にされているように思われます。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r98520000013krp.html

その議事録はこれです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001bklc.html

野田進編『判例労働法入門第2版』

L14424 野田進先生編の『判例労働法入門第2版』(有斐閣)をお送りいただきました。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641144248

執筆者は、野田先生を始め、山下昇、有田謙司、柳澤武、笠木映里といった若手から中堅の皆さんです。

>労働法の学習に欠かせない判例知識の習得を体系的理解の流れに位置づけられるよう,解説の随所で重要判例の「事実」「判旨」を抜粋するスタイルを採用。初版の好評に応え,新判例を盛り込んで改訂する。初学者から法科大学院生まで。

取り上げられている判例は、だいたい定番のものですが、たまに「えっ、このテーマにこの判例ですか」と意外なのがあったりします。

第1編 基本構造
 第1章 労働法の課題と役割
 第2章 労働法上の当事者
 第3章 労働紛争の解決
【主な判例】高知放送事件,CBC管弦楽団事件 等
第2編 労働契約
 第4章 雇用へのアクセス
 第5章 労働契約の締結
 第6章 多様な労働契約
 第7章 労働契約上の権利・義務
 第8章 労働契約と就業規則
 第9章 懲 戒
 第10章 人事異動・配転・出向
 第11章 労働契約の変更
 第12章 労働契約の維持
 第13章 解 雇
 第14章 退職とその法律関係
【主な判例】三菱樹脂事件,パスコ事件,秋北バス事件,りそな企業年金基金事件 等
第3編 人権と平等
 第15章 労働者の自由と人権
 第16章 雇用平等
【主な判例】関西電力事件,丸子警報機事件 等
第4編 労働条件
 第17章 賃 金
 第18章 労働時間
 第19章 休憩・休日と年次有給休暇
 第20章 妊産婦等・年少者
 第21章 労働安全衛生と労災補償
【主な判例】ノースウエスト航空事件,時事通信社事件,東朋学園事件 等
第5編 労使関係
 第22章 労働組合
 第23章 団体交渉
 第24章 労働協約
 第25章 団体行動
 第26章 不当労働行為
【主な判例】エッソ石油事件,日産自動車事件 等

2011年5月17日 (火)

女は風俗、男は原発

20243210511thumb208xauto20239 昨日発売の『週刊ダイヤモンド』はでかでかと「原発」特集ですが、

http://www.diamond.co.jp/magazine/20243052111.html

その中に、ジャーナリストの窪田順生さんの「大量の放射線を浴びながら低賃金 原発労働者たちの悲惨な現実」という見開き2ページの記事が載っています。

>「もうこの店で飲むのも最後かもな。福島ではかなり危ない場所に行かされるから」

>「やばい場所には東電社員は行かず、高い放射線を食うのはいつもオレたち。それが原発の常識だよ」

というあたりは、まだ先日の『東洋経済』の記事と似たようなトーンですが、読み進んでいくとだんだんさらにやばくなってきます。

>例えば、ある原発から孫請けしている建設会社が、広域暴力団のフロント企業だというのは地元では有名な話だが、電力会社は知ってか知らずか問題視していない。

>「問題視どころかむしろ重宝している。裏社会は“後がない人々”を原発に送り込める独自のルートを持っているから」

これでもそうとうにやばいですが、その先はいよいよ・・・

>そして、もう一つのルートが多重債務者だ。貸金業法改正によって、正規の業者から融資を受けられなくなった人が、いわゆるヤミ金から斡旋されて作業員になるケースもあるという。

>「女は風俗、男は原発というのが昔からの常識。元金にもよるけど、利子を引かれて元に残るのは5000円とか。一杯飲んでタバコ買ったら終わり。だからなかなか辞めない。でもよく働くよ、最近の多重債務者は。ほかに貸してくれるところがないからだろう」

ちなみに2003年改正まで、職業安定法には兼業禁止規定がありました。もとをたどると戦前の職業紹介法に由来し、料理店業・飲食店業・旅館業・古物商・質屋業・貸金業・両替業等と職業紹介事業との兼業は禁止されていたのです。「借りた金を返せねえのなら、体で返してもらおうか」という世界が現実にあったからですが、改正時にはそういう現実が遠いものに感じられるようになっていたのでしょう。

福島原発に指導票

同じく『労働新聞』5月16日号から、「福島原発に指導票 厚労省 健康維持対策に全力も」という記事を紹介しておきます。こういう地味な日常的な監督指導ベースの話は、こういう労働業界紙でもなければなかなか報じられませんし。

>厚生労働省は、震災に見舞われた福島第1原子力発電所で作業する労働者の安全衛生、健康維持に力を注いでいる。これまでに東京電力本社の担当者を呼び出して、緊急作業に従事した労働者の臨時健康診断を指示したほか、福島労働局では、労働者被曝事故に対する指導票を交付した。

>・・・3月16日には、福島労働局が同発電所の責任者に、また厚労省本省は東京電力本社担当者を呼び出して、放射線量限度引き上げについて説明するとともに、緊急作業に従事した労働者への臨時の健康診断実施を指示した。

3月24日に発生した労働者3人の被曝事故に際しては、福島労働局が同発電所に対し、安全衛生管理体制確立後に作業を再開するよう口頭指導したほか、指導票交付による文書指導も実施した。

その後、労働者の個人被曝線量の測定と被曝限度の管理徹底を指導するとともに、従事期間が1か月を超えた労働者などに対して、原則1か月以内の臨時の健康診断実施を要請している。現在、労働者の放射線量計の使用状況も調査中である

新聞や雑誌の報道では、いかに現場の被曝管理がいい加減かという記事が多く報じられているだけに、こういう監督指導ベースの記事は重要です。

連合が休息時間の検討へ

『労働新聞』5月16日号に、「“休息時間”検討へ 連合 7月以降、2年以内に」という記事が載っています。

>連合がまとめた“政策・制度 要求と提言」原案のうちの「雇用・労働政策」の項では、「休息時間(勤務間隔)規制の導入に向けた検討」が始めて盛り込まれた。

>・・・労働時間短縮の有効な手段として最近日本でも注目されており、(EUと)同様の制度を産業全般に普及させることが可能か否かを含め、連合レベルでの検討に着手する。

一昨年から取り組んでいる情報労連に加え、今春闘で始めて製造業で協定した三菱重工について紹介した後、

>・・・原案に異論の声は上がらず、6月の中央委員会で正式に確認し、7月以降、2年以内に着手する

と、述べています。

わたくしがホワイトカラーエグゼンプションの議論に対して細々と唱えだしてから4年間で、着々と認識が深まっているように見えます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sekaiexemption.html(「ホワイトカラーエグゼンプションの虚構と真実」 『世界』2007年3月号)

>「労働時間の長短ではなく成果や能力などにより評価されることがふさわしい労働者」であっても、健康確保のために、睡眠不足に由来する疲労の蓄積を防止しなければならず、そのために在社時間や拘束時間はきちんと規制されなければならない。この大原則から出発して、どのような制度の在り方が考えられるだろうか。

>私は、在社時間や拘束時間の上限という形よりも、それ以外の時間、すなわち会社に拘束されていない時間--休息期間の下限を定める方がよりその目的にそぐうと考える。上述の2005年労働安全衛生法改正のもとになった検討会の議事録においては、和田攻座長から、6時間以上睡眠をとった場合は、医学的には脳・心臓疾患のリスクはほとんどないが、5時間未満だと脳・心臓疾患の増加が医学的に証明されているという説明がなされている。毎日6時間以上睡眠時間がとれるようにするためには、それに最低限の日常生活に必要不可欠な数時間をプラスした一定時間の休息期間を確保することが最低ラインというべきであろう。

EUの労働時間指令において最も重要な概念は「休息期間」という概念である。そこでは、労働者は24時間ごとに少なくとも継続11時間の休息期間をとる権利を有する。通常は拘束時間の上限は13時間ということになるが、仮に仕事が大変忙しくてある日は夜中の2時まで働いたとすれば、その翌朝は早くても午後1時に出勤ということになる。睡眠時間や心身を休める時間を確保することが重要なのである。

 これはホワイトカラーエグゼンプションの対象となる管理職の手前の人だけの話ではない。これまで労働時間規制が適用除外されてきた管理職も含めて、休息期間を確保することが現在の労働時間法政策の最も重要な課題であるはずである

2011年5月16日 (月)

日本労働法学会第121回大会@沖縄大学

昨日、那覇市の沖縄大学で日本労働法学会第121回大会が開かれ、出席してきました。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/jlla/contents-taikai/121taikai.html

わたくしが傍聴したのは、個別報告では、

テーマ:「ドイツにおける解雇の金銭解決制度の史的形成と現代的展開」
報告者:山本陽大(同志社大学大学院)
司会:土田道夫(同志社大学)
テーマ:「ドイツの変更解約告知制度」
報告者:金井幸子(愛知大学)
司会:和田肇(名古屋大学)

ミニシンポジウムでは、

①「個人請負・委託就業者の法的保護-労働契約法および労働組合法の適用問題を含む」
司会・問題提起:鎌田耕一(東洋大学)
報告者:川田知子(亜細亜大学)、橋本陽子(学習院大学)
コメント:中窪裕也(一橋大学)

でした。

到着した土曜日の午後、首里城に行ってみたら、大会出席者がぞろぞろぞろ・・・。

夜は泡盛を痛飲しながら夜中まで。

今日は大雨。

大会の中身については、ミニシンポで川田さんの報告に一つ質問を出しました。

2011年5月13日 (金)

メンバーシップ型判例法理がジョブ型労働者を苦しめる

先日本ブログで取り上げた件について、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-b1db.html(気がついたら原発作業)

厚生労働大臣が業界に要請しましたが、

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105130173.html(原発で作業「求人時に明示を」 厚労相が業界に要請へ)

>大阪市で求職した男性労働者が、求人内容とは異なる東京電力福島第一原子力発電所敷地内での作業に従事させられていた問題を受け、細川律夫厚生労働相は13日の閣議後会見で、東京電力や業界団体に対し、求人内容を適切に明示するよう要請する方針を示した。

いうまでもなく、労働条件明示義務は労働基準法が定める極めて重要な基準のはずですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-2df0.html(メンバーシップ型新卒採用に労働条件明示義務はない件について)

>制定時には当然のようにジョブ型雇用契約を前提として設けられたこの規定は、日本の裁判所によって、メンバーシップ型の新卒採用には原則適用しないとされています。

>こういうふうに、労働実定法は世界共通のジョブ型を前提として規定していながら、判例法理は現実のメンバーシップ型に適応した形で進化してきた点が、日本の労働法制を理解する上で最も重要なポイントなのです

もちろん、判例法理が語っているのは、新卒採用のような典型的なメンバーシップ型採用についての話であって、福島原発の作業にあいりんの労働者を募集するような典型的なジョブ型求人の場合に適用されるべきものではありませんが、さはさりながら、メンバーシップ型を前提とした判例法理が正義として確立しすぎているために、ジョブ型労働者にとってはとんでもない事態であっても、「そんなの、求人票をがちがちいうもんじゃねえよww」というメンバーシップ型の常識が現実世界では優先してしまい、こういう事態をもたらす一つの要因になるのではないかと思われます。

>第十五条  使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。この場合において、賃金及び労働時間に関する事項その他の厚生労働省令で定める事項については、厚生労働省令で定める方法により明示しなければならない。

2  前項の規定によつて明示された労働条件が事実と相違する場合においては、労働者は、即時に労働契約を解除することができる。
3  前項の場合、就業のために住居を変更した労働者が、契約解除の日から十四日以内に帰郷する場合においては、使用者は、必要な旅費を負担しなければならない

という規定がひしひしとした現実性を持った世界と、なんだか別の世界のことのように思えるメンバーシップ型の世界の乖離が、改めて感じられる次第です。

公務員初任行政研修全体討議

本日、月曜日の講義を受けて、わたくしから提示した3つのテーマについて6班に分かれて研修生たちによる報告と討議がありました。

わたくしが与えた課題は次の3つです。

1:「所得保障の前提として、働ける人にはまず働いてもらうべきだ」という意見と「働く働かないにかかわらず生きていける所得を保障すべきだ」という意見についてどう考えるか?

2:「学校は専門技術的な教育よりも普遍性のある基礎教育を重視すべきだ」という意見と「学校はもっと社会に出てから役に立つ専門技術教育を重視すべきだ」という意見についてどう考えるか?

3:「正社員の雇用保護を緩和すべきだ」という意見と「緩和すべきでない」という意見、「正規と非正規の格差は早急に是正すべきだ」という意見と「拙速に介入すべきでない」という意見についてどう考えるか?

最後に総合講評ということで、研修生の皆さんに述べた言葉は、気がつくと昨年同じ場で喋ったものとほとんど同じでした。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-2a45.html

>皆さんは大変厳しい状態におかれている。政治主導だと言って、公務員は政治家が決めたことを粛々と実行すればいい、よけいなことを考えるなというような傾向もある。けれど、それがうまくいかなくなったときに、どうにかしなければいけないのは皆さんだ。政治家じゃない。マスコミでもない。学者でもない。

よけいなことを言うな、考えるな、といっていた政治家が困った困ったどうしよう、と言いだしたときに、ちゃんと筋道の立った、さまざまな利害関係を考慮した、現実可能性のある選択肢をきちんと提示することのできる力量のある者は、残念ながら皆さん以外にはない。日本は民間シンクタンクが膨大な有能な政策人材を擁し、選挙のたびに役所に入ったり出たりする国ではない。知った風な口をきく評論家に、複雑な応用問題を解ける実力のある人はほとんどいない。

かつては、若手官僚は忙しいといいながら、長い拘束時間の中にそれなりに余裕もあって、その中で目の前の課題から離れた大きなテーマを考えたり、口泡とばして議論するという傾向があった。最近は業務量が半端じゃなく増えてしまい、そういう余裕がだんだんなくなってきて、いざというときに取り出せる部分が縮小しているような気がする。置かれた状況が厳しい中ではあるけれど、マニフェストが行き詰まったときにきちんと政策を提示できる能力を育ててほしい。皆さん以外にその任に堪えうる人々は残念ながらいないのだから。

さて、今回の研修が3グループに分かれ、私と権丈先生が講師ということは先日書きましたが、もうお一人は桐蔭横浜大学の河合幹雄先生で、お話ししていて、日本学術会議の大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会の「法学分野の参照基準検討分科会」というのに参加されているということを知りました。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/hougaku-kousei.pdf

昨年公表された「回答」を踏まえて、各学問分野ごとに参照基準を作ろうということになっていて、そのトップバッターとして法学が選ばれたようです。この構成員名簿を見ると、労働法から浅倉むつ子、吾郷眞一のお二人が入っているようです。

2011年5月12日 (木)

「世代間公平」と「共助」

本日、官邸の社会保障改革に関する集中検討会議に、厚生労働省の「社会保障制度改革の方向性と具体策」が提示されました。副題は「「世代間公平」と「共助」を柱とする持続可能性の高い社会保障制度」です。

http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/syakaihosyou/syutyukento/dai6/siryou3-2.pdf

最初に経緯、背景、それに東日本大震災の課題が書かれていますが、ここではまず何より社会保障制度改革の基本的方向を。

第一の柱は「全世代対応型・未来への投資」と称して、「世代間公平」を打ち出しています。

>社会保障を社会の持続可能性の維持、未来への投資として位置づけ、直接的な受益者である高齢世代のみならず、現役世代や将来世代にも配意した全世代対応型の社会保障制度への転換を進めなくてはならない。とりわけ、人々の相互連帯、「共助」を基礎として、あらゆる世代が信頼感と納得感を得ることができる社会保障制度を構築することが急務である

その軸は「雇用を通じた参加保障(一人ひとりの自立支援)」です。

>参加保障・包括的支援の理念に基づき、若年者、女性及び高齢者を中心に「雇用の拡大」と「働きがいのある人間らしい仕事(ディーセント・ワーク)」を実現する。特に、全世代対応型の社会保障への転換の観点から、「現役世代の基礎」であり「将来の中核」でもある若者の自立支援の強化に取り組む。

ようやく日本でも、社会保障制度改革の一丁目一番地は雇用を通じた参加保障だというコモンセンスに到達しつつあります。

それに続く一丁目二番地は「子ども・子育て支援の強化」です。

>仕事と子育ての両立支援、共働き型家族も含めた多様な世帯に対応した制度設計など、現役世代の「家族形成」を支援する。

この一丁目一番地の雇用を通じた参加と同じことの表と裏の関係にあるのが、第二の柱の「参加保障・包括的支援(全ての人が参加できる社会)」です。ここでのキーワードは「共助」です。

>「共助」の枠組の強化により、社会の分断や二極化をもたらす貧困・格差やその再生産を防止・解消し、社会全体で支え、支えられる社会保障制度の構築、人々が「居場所」と「活躍の場」のある社会の構築を目指す。

具体的には、社会保険から生活保護に至る3層のセーフティネットについて、次のように書かれています。

まず二丁目一番地の社会保険。非正規労働者への社会保険適用拡大は当然として、

>職業やライフスタイルに関係なくすべての人が同じ制度に加入し、所得が同じなら同じ保険料、同じ給付となる一元的所得比例年金の制度の構築に向け検討する。

>そのためには、社会保障・税に関わる番号制度の導入、税と社会保険料を一体徴収する機関としての歳入庁の創設などの環境整備が必要である。

と、かなり抜本的な提起をしています。

二丁目二番地は現在国会で審議中の求職者支援法案だけでなく、パーソナルサポートなども含めたもう少し広い概念として「第2のセーフティネット」という言葉を使っているようです。

>第1のセーフティネットでは支えきれない様々な生活上の困難を多重的・同時的に抱える個人・家族に対して、個々人の事情に即した横断的・継続的支援を行い、自立へと導く体制を構築する(アウトリーチ型支援、NPO等も含めた様々な支援機関を包含した包括的なネットワーク型支援への展開)。

二丁目三番地の生活保護については「最後のセーフティネットの適正化」と、「適正化」という言葉を使っていて、運動家方面の方々からは疑念を持ってみられるかも知れません。

三番目の柱は「普遍主義、分権的・多元的なサービス供給体制」で、もちろんその中心は「安心で良質な医療・介護の提供ネットワーク」ですが、ここで特に注目しておきたいのは、三丁目三番地に「住宅政策」が上がっていることです。

>従来の供給量重視の住宅政策は国土交通省(旧建設省)中心で行われてきたが、社会構造・人口構造の変化を踏まえたこれからの住宅政策は機能・質重視に転換する必要があり、サービス付き高齢者住宅など、社会保障的視点を重視した体制としていくことも検討課題。

これは、分かる人は分かる、けっこう大きな意味を持つ文章ですね。戦前の体制下では、住宅政策というのは内務省社会局が社会政策の観点から行っていたわけですが、戦後建設省が作られてからは、社会政策の一環という観点は薄れていってしまっていました。

これは数十年ぶりに、住宅政策は社会保障の一環だぞ、と宣言しようとしているようにも見えます。うしろの方の各論では「住まいのセーフティネット」という表現もありますね。

第4の柱は「安心に基づく活力」と題して、経済成長との好循環を強調しています。

ここで、各論に行く前に、「東日本大震災の復興に関する提言」がいくつか示されています。

被災者の自立支援につなげる「Cash for Work」プログラム@『情報労連REPORT』

Report 情報労連の機関誌『情報労連REPORT』5月号は、「再生へ「つなげる」復旧・復興を支える仲間たち」という特集です。

http://www.joho.or.jp/report/report/index2011.html

情報労連ですから、まずは通信回線の復旧のリポートから。

>東日本大震災で寸断された通信回線は、各社の懸命な努力によって先月末までに約9割が回復した。だが、津波によって壊滅的な被害を受けた地域の復旧作業はいまも道半ば。通信復旧の最前線では、被災地に“つながり”を再生させようと懸命に働いている仲間たちがいた。

そしてさまざまな被災者支援の状況。

で、わたくしの連載「hamachanの労働メディア一刀両断」も、トンデモ労働論をぶった切るのは一休みにして、この2ヶ月間にネット上で行われてきたCFWプログラムの提案を紹介しています。

http://www.joho.or.jp/report/report/2011/1105report/p28.pdf

福島原発事故収拾を任された英雄たちの真実

20110502009740331 東洋経済オンラインに、『東洋経済』誌4月23日号に掲載された「福島原発事故収拾を任された英雄たちの真実、7次・8次下請け労働者もザラ」という記事が載っています。既に雑誌で読まれた方も多いと思いますが、改めて読んでみると、やはり原発における雇用労働の在り方について、もっと突っ込んだ議論をしなければならないことを痛感します。

http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/8e15f2f7129659c4d5fde05e14000c13/

>欧米メディアなどで「フクシマの英雄」と称賛される彼らの中には、当事者である東京電力の社員だけではなく、実は多くの下請け労働者が含まれている。

「原発はもはや協力(下請け)会社なしには回らない」。多くの関係者が口をそろえる。・・・

>ただ、原発作業のような危険業務を、多重下請けで担うことができるのだろうか。多重下請けは管理責任が不明確となり、労災発生につながりやすいとされるが、今回もすでに3人の下請け労働者が被曝している。・・・

>こうした東電の下請け依存は、いつから始まったのか。「1960年代の配電工事部門の請負化がきっかけだった」と昭和女子大学の木下武男特任教授(労働社会学)は語る。
 
60年代半ばまでは、柱上変圧器や建柱作業も東電社員が直接施工していた。だが感電死など社員の労災が問題視され請負化が進んだ。原発労働に関しても当時、労働組合から「被曝量が多い作業は請負化してほしい」と要望が寄せられたという。70年代には「秩序ある委託化」が経営方針として打ち出されている。

同時にこれには「地元対策」の側面もある。
 
「4次、5次下請け以下になると、ほとんどが社員数人の地元の零細企業。お互いに仕事を投げ合い、地元におカネを流す仕組みができている」(関係者)とされる。公共事業での「丸投げ」が難しくなった昨今、電力会社は地元に“仕事”を落としてくれる数少ないお得意様だ。・・・

>・・・加えて労災申請を阻む業界特有の事情もある。関東で労災申請にかかわった専門家は語る。「申請したらその発注者から二度と仕事が回ってこないのは、どの業界でも同じ。それでも、たとえば建設業なら他社にいくらでも当たれるが、電力業界では発注者は東電のみ。彼らににらまれたら関東圏では事業を続けられない」。

>・・・事態収拾まで長期化が見込まれる中、末端労働者の使い捨てを前提とした就労形態を徹底的に見直す必要がある。

なるほど、建設業と違い、原発業界は完全な労働力需要独占型なのですね。

人権侵害救済法案提出へ

読売新聞に、

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110511-OYT1T01191.htm(人権侵害救済法案提出へ、メディア規制なし)

という記事が出ています。

>政府・民主党は、不当な差別や虐待で人権侵害を受けた被害者の救済を目的とする「人権侵害救済法案」を次期臨時国会に提出する方針を固めた。

>2002年に小泉内閣が提出(翌年に廃案)した人権擁護法案の対案として民主党が05年に作成した法案をベースに修正を加える方針で、擁護法案で批判が強かったメディア規制条項はなく、早期成立を図る構えだ。

民主党は4月に人権侵害救済機関検討プロジェクトチーム(川端達夫座長)を設置、今国会中に救済法案の骨子をまとめる予定だ。政府は党の作業を踏まえ、人権侵害の定義、国と地方機関の組織のあり方などの制度設計を法務省で行い、次期国会への提出を目指す考えだ。

人権擁護法案をめぐっては、ネットなんとかな人々が極めて熱っぽい議論ないし議論みたいなものを交わす姿が見受けられましたが、わたくしにはそこで主として論点となっていたやに見受けられる諸問題はあまり関心はなく、もっぱら労働雇用関係の人権侵害事案についての取扱いがどのようになるかに興味がありますので、この記事だけではなんともコメントのしようがありません。

ただ、自公政権時代に出されていた法案では、救済機関は原則法務省人権委員会としつつ、採用、労働条件その他労働関係に関する人権侵害については厚生労働省の所管とし、各労働局の個別労働関係紛争の調整委員会に調整、仲裁を行わせるという規定になっておりましたが、民主党案では労働以外も労働関係もひっくるめて内閣府でやるという風になっていたので、そこのところをどうするつもりなのかが大変気になるわけです。

現にいまあっせんできているものの中にも人権侵害的な事案は結構あり、ネットなんとかな皆さまにとってはみみっちいつまらん話に見えるでしょうが、今後の個別紛争処理の在り方という面からも注目しておきたい記事です。

2011年5月11日 (水)

『DIO』5月号

Dio 連合総研の機関誌『DIO』5月号の特集は「新しい労使関係のかたち」です。

http://rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio260.pdf

能力開発における今後の企業内労使の役割 久本 憲夫……………… 4

現場力の向上に向けた日本の雇用関係の展望 石田 光男……………… 8

労働組合再活性化の諸概念と日本の組合活性化の課題 鈴木 玲…………………12

の3本立てですが、一番じっくり読まなければならないなと思ったのは石田光男さんの論文で、これ、なかなかまとめにくいのですが、基本概念は彼が表にしているので、それをそのままコピペしておきます。

Dio5

ベースは「賃金の社会科学」などで示された考え方だと思うのですが、最後近くで

>日本の雇用関係の利点を損なわずに、無理な働き方をいかに抑制するかという課題

>この課題を解くにあたっては、現にあるルールを少しだけ改善してみてその影響をしっかり見定めるという姿勢が重要だと思う。例えば目標面接シートに、「チャレンジ目標」などの「仕事のレベル」の記載だけでなくて「労働時間」の記載欄を設けたらどうなるのだろうか。

>第一に、個々人が事情に応じて提供すべき労働時間を自己申告する権利を持ち、自分に相応しい働き方の主張が行える。第二に、事業計画に目標面接を通じて集計された投入労働時間がうめこまれることになり、事業計画の完遂のためには、その個々人の目標労働時間の再調整、もしくは採用増が必要になり、これら協議が期初の労使協議事項に含まれることになる。第三に、所定労働時間以下の労働時間に対応した基本給や賞与の減額率を労働協約で定める必要が生ずる。第四に、36協定のみならず、組織の各段階に設けられる月次の生産計画・労働時間・勤務体制協議は、とくに職場レベルでの協議は組合員全員の労働時間実績の一覧表が示され、異常値の原因が深く協議されることになる。それを通じて職場では個々人の仕事の進め方についてのコミュニケーションがより一層求められることになる。

といった興味深い提案がされています。

あと、ジャコビーさんの「米国における労働と金融」が読み物としては面白いです。

また、JILPTの呉学殊さんの合同労組についての報告は、私らにとってはいつも聞いているので既知のことですが、幾つも興味深い知見を示しています。

その後に、「経済危機下の外国人労働者に関する調査報告書−日系ブラジル人、外国人研修・技能実習生を中心に」の内容紹介が載っています。これ、実はわたくしも委員として参加しておりまして、第2章「日本の外国人労働者政策―労働政策の否定に立脚した外国人政策の形成と破綻」を執筆しております。また、第6章のウラノ・エジソンさんが執筆した「越境するブラジル人労働者と経済危機―長野県上田市のヒアリング調査を通じて」のもとになった上田市のヒアリング調査にはわたくしも同行して、いろいろと興味深いことを聞かせていただきました。

ただ、報告書のブツ自体はまだできていません(というか、少なくともわたくしのところには届いていません)。

るおー

本日、公共政策大学院で労働法政策の授業の後、都内某所(といっても正門前の某画家の名前の店だが)で、某官庁某研究会の委員・事務局数名と密談。

なかなかむずかしい。

「人間的な鍛えが弱い」人への絶好のアドバイス

さて、「人間的な鍛えが弱いので抗しようもなく時代に押し流されてしま」いがちな方には、絶好のアドバイスがありました。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

>先日も、公務員研修所で少し触れたけど、ハイエク、フリードマン系は、陰謀論が好きなんだよね。財源論しかり、年金論しかり。次ぎでも参照を。

・・・・・・

>でっ、上述の太田さんから以前届いた連絡で、僕が、なるほどっと感心した文章をひとつ・・・無断ですまんね。

新聞記者になってよかったことのひとつが「陰謀論」「陰謀史観」からフリーになったことです。
特定の人物や団体が状況をすべてコントロールするなどありえない、ということが皮膚感覚で分かりました。

経済学とか、なんとか学というようなものよりも、こうした感覚が、何をやるにしても何よりも大切なわけだ。大学の履修者や健マネの学生さん、君ら若い衆は、まずは人間を鍛えんとな――先は長いよ(笑)。

ということですので、まずは人間的な鍛えが大事ですというお話でした。

原典の方が、こういう意味において「人間的な鍛えが強い」のかどうかはつまびらかではありませんが。

またネット上の特定の方の「人間的な鍛え」がどのようであるかについて一切予断を与えるものでもありません。

2011年5月10日 (火)

特殊日本的リベサヨの系譜

85_559

植村邦彦さんの『市民社会とは何か』平凡社新書は、もちろん大変がっちりした社会思想史の研究書でもあります。

http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=85_559

特に前半では、アリストテレスから近代イギリスに至る国家社会という意味での「シビル・ソサエティ」の思想系譜が、そしてヘーゲル、マルクスといったドイツ的「ビュルガーリッヒ・ゲゼルシャフト」の観念の歴史が、なるほどこれがホンモノの思想史家の手つきというものか、と感心するほどの手際で、見事に説明されていきます。

しかし、それらはすべて、後半の怒濤の如き叙述のための準備作業なのです。

後半に書かれていることは何か。

あえてわたくしの関心に引き付けすぎた物言いをしてしまえば、イギリス流の「シビル・ソサエティ」でもなければドイツ流の「ビュルガーリッヒ・ゲゼルシャフト」でもない(にもかかわらず、それらそのものだと信じ込んで拵えあげた)、はっきり言えば戦時中の「暗い谷間の時代」に日本のインテリゲンチャが勝手に脳内で膨らませた妄想に過ぎない「しみんしゃかい論」という代物の、そして戦後高度成長期になっても依然としてそれを膨らませ続けたその脳内妄想ぶりをこれでもかこれでもかといじめ抜くように露呈せしめている本です。

高島善哉、内田義彦、平田清明といった、著者にとっては師匠筋に当たる人々の脳内妄想ぶりをここまであからさまに書くというのは、わたしにはよく分かりませんがなかなかすごいことなのではなかろうかと想像されます。

まあ、わたくしにとっては、ここで露呈されている脳内妄想の系譜こそが、まさに本ブログで何回か述べてきている「リベラルサヨク」な発想の一つの源流ではないかと思われ、そういう関心もあって買って読んでみたわけですが。

(最近、ついった上でわたくしの名前とともに「リベサヨ」なる言葉が散見され、いささか違うのではないかと思われる解釈がされいるやに見受けられることもあることから、念のため付言しておきます)

(追記)

ちなみに、本ブログにおける「リベサヨ」なる概念の発達史(笑)は、以下の通り。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_a90b.html(リベじゃないサヨクの戦後思想観)

>あえて人物論的に言えば、アルバイトスチュワーデスに反対した労働者にやさしい亀井静香を目の仇にし、冷酷な個人主義者小泉純一郎にシンパシーを隠さなかったということですな、日本のサヨク諸子は。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_5af3.html(リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い)

>かくのごとく、日本のサヨク知識人はリベラルなことノージックよりも高く、アンチ・ソーシャルなことハイエクよりも深し、という奇妙奇天烈な存在になっていたようです。そうすると、福祉国家なんぞを主張するのは悪質なウヨクということになりますね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_28cd.html(ネオリベの日経、リベサヨの毎日)

>この手の発想には、国家権力がすべての悪の源泉であるという新左翼的リベラリズムが顕著に窺えますが、それが国家民営化論とかアナルコ・キャピタリズムとか言ってるうちに、(ご自分の気持ちはともかく)事実上ネオリベ別働隊になっていくというのが、この失われた十数年の思想史的帰結であったわけで、ネオリベむき出しの日経病よりも、こういうリベサヨ的感覚こそが団塊の世代を中心とする反権力感覚にマッチして、政治の底流をなしてきたのではないかと思うわけです。毎日病はそれを非常にくっきりと浮き彫りにしてくれていて、大変わかりやすいですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_3f06.html(フリーターが丸山真男をひっぱたきたいのは合理的である)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.html(赤木智弘氏の新著)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b950.html(だから、それをリベサヨと呼んでるわけで)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_2040.html(松尾匡さんの「市民派リベラルのどこが越えられるべきか 」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-6cd5.html(日本のリベサヨな発想)

>で、その「少し前のヨーロッパ左派の大家によく見られた思考」(笑)から見ると、極東某島国の自己意識としてはリベサヨらしいヒトの発想というのは、想像を絶するものでありまして、その実例が本日の朝日新聞の東浩紀氏の論壇時評に引用されていますが

>>・・・前者で荻上は、選挙区ではみんなの党、比例では社民党に投票したことを明かし、「経済的リベラルに1票、政治的リベラルに1票という意味だ」と自己解説しているが・・・

高齢者雇用研の「たたき台」

昨日の今後の高年齢者雇用に関する研究会に提示された「考え方の方向(たたき台)」が厚労省HPにアップされました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001bmon-att/2r9852000001bn1i.pdf

ほぼ、昨日予想したとおりで、

>希望者全員の65歳までの雇用確保のための方策としては、まず、現行60歳である法定定年年齢を引き上げる方法について検討すべきではないか。また、それができない場合であっても、少なくとも法定定年年齢を60歳としたままで希望者全員についての65歳までの継続雇用を確保する方法を考えるべきではないか

と、65歳定年が原則と唱いつつ、実際は65歳希望者全員継続雇用というのが目標のようです。希望者全員というのは、

>法定定年年齢の引上げを行わず、希望者全員の65歳までの継続雇用を確保することとする場合には、継続雇用制度の対象となる高年齢者に係る現行の基準制度を廃止する必要があるのではないか。

現行の労使協定方式はやめると。

上限年齢は、

>法定定年年齢の引上げについては、①老齢厚生年金の定額部分の支給開始年齢の65歳への引上げ完了を機に、法定定年年齢を65歳まで引き上げるという方法や、②定年年齢を老齢厚生年金の報酬比例部分の支給開始年齢の引上げに合わせて65歳まで段階的に引き上げる、という方法があるのではないか。

ここまでは記事にありましたが、その次の

>現在の60代前半の者の賃金は、老齢厚生年金の報酬比例部分の受給を前提に決定されている側面もあると考えられるが、老齢厚生年金の報酬比例部分の支給開始年齢の引上げに伴い、60代前半の高齢者の賃金について、その生活の安定を考慮し、労使の話し合いにより、仕事内容とそれに見合った労働条件の設定について適切なものとしていくことが重要ではないか。

は、わざと意味が取りにくいように書いているようですが、現行の報酬比例部分で補填することを前提にした低賃金はもうできないから、ちゃんと労使で適切な水準を決めてね、という趣旨かと。

そうすると、ここには書いてないけど、高齢者雇用継続給付による補填はどうするのかという問題も生じます。筋からいえば、賃金決定は労使で決めるという建前からシテも、希望者全員継続雇用を義務づけておいて、この給付を残すことはますます筋が通らないはずですから。

福祉レジームの古代史的起源

_h_japanさんのつぶやきで、

http://twitter.com/#!/_h_japan/status/67111600745742336

>今印刷中の報告論文で福祉レジームの歴史的起源を論じたんだけど、そこでトッドと速水融さんの対談を参照してて、家族類型的に見ると日本人の祖先は3派の移民で、第2派がヤマト王権を作った。ではそれと第1派(エミシ?)・第3派(クマソ?)との関係はどうだったのかなと。

http://twitter.com/#!/_h_japan/status/67196683456483328

>ヤマト王権成立という歴史的経路は、家族制度(に影響を受けた福祉制度)だけでなく現代日本での様々な社会現象と、大なり小なり関係がありそうだよね。その点であの本は、日本社会を考えるどんな人にとっても参考になりそう。実際のところは読んでみないと分からないけどねえw

と、トッド流の家族類型論を日本に応用し、古代史にその淵源を求めるという気宇壮大な試みをされておられるようです。

これは興味をそそられます。

問題は重層請負に即した法制度の欠如

河添誠さんが、こうつぶやいています。

http://twitter.com/#!/kawazoemakoto/status/67202590915571712

>いま、八戸から東京に戻る新幹線の中。原発労働や建設労働で、違法にあふれた重層下請け構造が放置されてきたことをあれこれ考える。歴史的な変容と労働運動の対応について本気で勉強する必要を痛感。

「違法にあふれた」というのは、もちろん職業安定法施行規則による労働者供給事業と請負の区分基準以来の請負論に基づくものですが、実は労働者保護法制ではそのもっと以前から、請負であろうとなんであろうと、就労している現場全体の事業主が責任を持つというのがデフォルトルールであったのです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/gakkaishi114.html(請負・労働者供給・労働者派遣の再検討(『日本労働法学会誌』114号))

>2 戦前期労働者保護法制における請負・労務供給
 一方、工場法を始めとする労働保護法制においては、こういった労務供給請負業者が供給する労働者も、供給先事業主が使用者責任を負うべき労働者として取り扱っていた。
 まず工場法の適用については、通牒では「工場ノ業務ニ従事スル者ニシテ其ノ操業カ性質上職工ノ業務タル以上ハ、雇傭関係カ直接工業主ト職工トノ間ニ存スルト或ハ職工供給請負者、事業請負者等ノ介在スル場合トヲ問ハス、一切其ノ工業主ノ使用スル職工トシテ取扱フモノトス」*4と、明確に工業主に使用者責任を負わせていた。
 工場法の制定担当官による解説書*5でも「甲工業主カ乙工業主ヲシテ自己ノ工場内ニ於テ仕事ヲ請ケ負ハシメタルカ如キ場合ニ於テハ、乙ノ連レ来タリタル職工丙ハ甲ノ職工ト見ルヘキヤ又ハ乙ノ職工ト見ルヘキヤニ付キ疑義ヲ生スヘシ」と問題を提示した上で、「甲ト丙ノ間ニ於ケル雇傭関係ノ有無如何ヲ問ハス丙カ甲ノ工場内ニ於テ甲ノ工場ノ主タル作業又ハ此ニ関係アル作業ニ付キ労働ニ従事スル以上ハ甲ノ職工ナリト解セサルヘカラス」と書かれている。これは累次の通牒*6で何回も確認されている。
 さらに、建設業のような屋外型産業については、1931年に労働者災害扶助法が制定されているが、そこでも災害扶助責任(労災補償責任)は元請業者に負わせていた。この規定は戦後も生き残って、現在も労働基準法第87条として建設業界に適用されている。

> 5 建設労働法制という特異点
 もっとも、建設業の下請労働者の労災補償責任を元請業者に負わせた第87条だけは、戦前の労働者災害扶助法を受け継いで規定されている。興味深いことに、厚生労働省によれば、現在でも「建設業における重層請負においては、実際には元請負業者が下請負業者の労働者に指揮監督を行うのが普通」であり、「いたずらに民法上の請負契約の考え方に拘束されて資力が乏しく補償能力の十分でない下請負人を使用者とせず、元請負人をもって使用者と考えることが労働者保護の見地からも妥当」なのである*11。
 このように、建設業においては「労務下請」と呼ばれる特有の下請制度が存続していた*12。実態は労働者供給事業に近いにもかかわらず「請負」であると整理したために、後に労働者派遣事業を法認する際に、逆に建設業における労働者派遣は禁止するという奇妙な取扱いとなった。その禁止されていた建設業における労働者派遣事業が、2005年の建設雇用改善法改正によって「建設業務労働者就業機会確保事業」という名称で、建設事業主団体の計画策定等を条件として解禁されたが、その立法過程において大変興味深いことがあった。当初事務局から示された原案では、労働者派遣システムをそのまま活用する以上、派遣法の責任分担に従って、送出事業主が災害補償責任を負うものとしていたにもかかわらず、審議会において異論が続出し、結局「送出労働者に係る労災保険の適用については、労災保険の元請一括適用制度の趣旨、労災保険の適用漏れの防止等の観点から、送出事業主を受入事業主の下請負人とみなすこととし、元請事業主を適用事業主とすべき」と、派遣法の原則とは逆の形で決着が付けられたのである。
 戦後法制に慣れた目からすると奇妙なものに見えるが、戦前の労働者保護法制はこちらの考え方に立脚していた。特異点に見える建設労働法制にこそ、工場法以来の考え方が生き残っているのである。

もちろん、建設業には山のようにいろいろ問題はありますが、少なくとも戦前の労働者災害扶助法に基づいて、請負といおうが何といおうが元請が責任を負う仕組みが現在まで維持されてきており、まさに重層請負という日本型ビジネス構造に即して、責任がどこかに行っちゃわないような手当がされていたのです。建設業という労働災害がつきものの世界で重層請負という現実を容認する以上は、これは必要な措置であったことは確かだし、だからこそ職安法を厳密に解釈すれば「違法に溢れた」ものが労基法上明確に位置づけられて対応されていたわけです。

問題は、それが職安法上「違法に溢れた」ものであることにあるよりも、同じように労災の問題が、しかも極めて長期間にわたる形で生じうるような職域において、建設業におけるような手当がなされないまま来たことにあるのではないかと、私は考えています。もちろん、1931年に労働者災害扶助法が制定されたときに日本には(世界にも)原子力発電所などなかったのですが、その後まったくこういう問題を考えることなく過ごしてきたことには、考えてみる必要はあるでしょう。

数学ができない非経済学者に希望を与える竹中発言

既に今朝のつぶやき以来山のようなコメントが殺到しているようですが、

http://twitter.com/#!/HeizoTakenaka/status/67726323170283520

>30年で大地震の確率は87%・・浜岡停止の最大の理由だ。確率計算のプロセスは不明だが、あえて単純計算すると、この1年で起こる確率は2.9%、この一カ月の確率は0.2%だ。原発停止の様々な社会経済的コストを試算するために1カ月かけても、その間に地震が起こる確率は極めて低いはずだ。

原発停止要請それ自体の妥当性については、もちろん法的観点等さまざまな論点があるところですし、地震学者による確率の想定自体についても、自然科学者の立場からはさまざまな意見のあるところだと思いますが、それらはとりあえず別にして、

慶應義塾大学で経済学を講じ、かつて内閣において世界第2位の経済大国の経済財政政策を一手に握っていた方が、かくもスバラ式確率計算をされるという実例を国民の面前であえて遂行されたということは、これまで数学ができないことに引け目を感じ、数学ができそうな言い方で、数学を駆使しているように見える議論を展開して一定の結論を押しつけてきた経済学者のいうことに、なんかおかしいなあと思いながらやむなく受け入れてきた数多くの非経済学者たちに、心からの希望の炎を点火したものと評せましょう。

30年で大地震の確率が87%だから、1年当たり2.9%。そうすると約34年半で確率は100%に達し、100年間だと290%になります。厨学校の確率の勉強の教材にちょうどいいですね。高校では使えないかも。

高年齢者雇用:「65歳定年」要請へ 厚労省研究会

毎日新聞によると、5月9日の「今後の高年齢者雇用に関する研究会」(座長・清家篤慶応義塾塾長)で、法改正により定年年齢を今の60歳から65歳へ引き上げることを検討すべきだとする報告書の素案を大筋了承したとのことです。

http://mainichi.jp/select/biz/news/20110510k0000m040127000c.html

厚労省のHPには、今のところ資料も何ものっていないのですが、

>一方、素案は経済界の反発を織り込み、定年延長ができない場合も想定している。現行の継続雇用制度は、再雇用などで希望者全員の65歳までの働く場確保を義務づけているが、労使協議で基準を設け、対象者を絞ることができるなどの「抜け穴」もあるため、基準制度の廃止や違法企業名の公表を検討するよう求めている。

という記事からすると、65歳定年の義務づけというよりは、65歳までの全員継続雇用制度の義務化(対象者選定基準を労使協定で定める規定の廃止)という感じがします。

まあ、その「素案」を見ないとあまり細かい論評はできないのですが、おそらく規定上は65歳定年が原則で、全員継続雇用が例外という規定ぶりになると言うことなんでしょうか。

この全面義務化の上限年齢についても、穴あき義務化の上限年齢の時と同様、こんどは報酬比例部分の支給開始年齢の引き上げスケジュールに合わせて少しづつ上がっていくという案も提示されています。

高齢者雇用問題については、来月東大の労働判例研究会で評釈をする予定なので、それまでに見ておきたいですね。

2011年5月 9日 (月)

公務員初任行政研修で権丈先生と接近遭遇

本日、入間市にある人事院公務員研修所で、この4月に霞ヶ関1年生になったばかりの新人公務員の皆さんに、労働政策の講義をしてまいりました。

3つのグループに分けられたそれぞれが、政策課題研究として、第1グループは労働政策、第2グループは社会保障、第3グループは治安・犯罪対策が与えられたのですが、その第1グループに講義したのがわたくしで、第2グループに講義したのは・・・権丈善一先生でした。

正直それを知らずに、行ってすぐにそれを知り、隣の講師控え室に飛び込んで講義開始までお話しさせていただきました。

そこで見せていただいたのが、権丈先生はそれを講義で見せるつもりだと仰っていましたが、

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

にリンクが張ってある

というユーチューブの映像です。名付けて、

ケインズvsハイエク 第2ラウンド

これがおかしくておかしくて、ラップの調子でケインズとハイエクがボクシングしながら(!)それぞれの経済政策を次々に繰り出すという、超絶技巧的エヂュテインメントです。

つまらぬ教師の経済学の授業を1年間聞くよりも、この映像見る方が遥かに得るものが多いかも知れないという優れもの。

是非是非リンク先へ。ラップの英語が聞き取れなくても、ちゃんと字幕が出ますので安心。

で、それはともかく、お前は新人公務員に何を喋ったんだって?歴史とセイフティネットと学校から仕事へと非正規について。

2011年5月 8日 (日)

気がついたら原発作業

共同通信のニュースから、

http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011050801000622.html(求人と違い「福島原発で作業」 大阪・西成の労働者)

やっぱり、こういうのが出てきましたね。

>日雇い労働者が多く集まる大阪市西成区のあいりん地区で、東日本大震災後、宮城県で運転手として働く条件の求人に応募した男性労働者から「福島第1原発で働かされた。話が違う」と財団法人「西成労働福祉センター」に相談が寄せられていたことが8日、関係者への取材で分かった。

 センターは求人を出した業者側の調査に乗り出し、大阪労働局も事実関係の確認を始めた。支援団体は「立場の弱い日雇い労働者をだまして危険な場所に送り込む行為で、許されない」と反発している。

 関係者によると、センターが3月17日ごろ、業者からの依頼をもとに「宮城県女川町、10トンダンプ運転手、日当1万2千円、30日間」との求人情報を掲示。応募して採用された男性は東北に向かった。

 ところが雇用期間中の3月25日ごろ、男性からセンターに「福島第1原発付近で、防護服を身に着けがれきの撤去作業をしている。求人は宮城だったのにどうなっているんだ」と電話があった。

 これを受け、センターが雇用終了後に男性や業者側に聞き取りをしたところ、男性が一定期間、防護服を着て同原発の敷地内での作業に従事していたことが判明した。

なんだか、明治時代の『職工事情』を改めて読み直しているような感じです。運転手と思っていってみたら、実は原発作業でした、と。騙されて炭坑に連れてこられました、って、いつの時代のことや。こういうやり口で作業員を引っ張ってくるような業者が、どこまで放射線被曝量のチェックをきちんとやっているのかも心許ないところです。というより、そういうめんどくさいことをしなくて済むように、あいりんから騙して連れてきたのかとも受け取れます。

まあ、多重請負は建設業界でも昔からの慣習ですが、建設業の労災は目の前でものが落ちたり当たったりしてけがをするわけなので(労災隠しはあるにしても)その気になれば処理の仕様はありますが、長い年月の後に発病する可能性のある原発作業をこういう形でやられると、あとから対応のしようが難しくなりますね。

スペインのニート裁判

デーリー・テレグラフ紙の4月27日に、

>Spanish judge orders 25-yr old man to 'leave home and get a job'

>スペインの裁判官が、25歳の男に「家を出て仕事に就け」と命令

というタイトルの記事が載っています。

http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/spain/8474191/Spanish-judge-orders-25-yr-old-man-to-leave-home-and-get-a-job.html

スペインと言えば、ヨーロッパでも若年失業者や無業者の多いことで知られていますが、遂にこういう裁判が起こされるに至ったようです。

>The man from Andalusia in the south of Spain had taken his parents to court demanding a monthly allowance of 400 euros (£355) after they refused to give him anymore money unless he tried to find a job.

スペイン南部アンダルシアの男性が、仕事を探そうとしないのならもうお金を上げないと言った両親に対し、毎月400ユーロの小遣いを払えと裁判所に訴えたのですが、

>Instead the judge at family court number five in Malaga, ruled against the man, who has a degree in law, and told him he must leave his parents' house within 30 days and learn to stand on his own two feet.

裁判官はこの法学部を卒業した男に対して、30日以内に家を出て自分で稼げという判決を下したようです。

>The ruling will send shock waves across Spain where it is not unusual for offspring to remain living with their parents until well into their thirties.

この判決は、30代になっても両親と同居することが多いスペインの若者にショックを与えるだろうと。

>The man, who has not been named, exemplifies a generation dubbed "ni-ni" – as they are neither working nor studying – at a time when Spain has more than 20 per cent unemployment.

日本では英語をそのまま持ってきてニートと呼ばれますが、スペインではスペイン語で英語の「neither ・・・nor・・・」に相当する「ni・・・ni・・・」を用いて「ni-ni」(ニーニ)と呼ぶようです。こども(ニーニョ、ニーニャ)と韻を踏んでいるのかも知れません。

>The judge ruled that in this case the man had "sufficient ability to work" and could not expect his parents to support him, although they had taken over the monthly repayments on his car.

本件で裁判官は、この男が「十分な就労能力」を有しており、親の援助を期待することはできないと判示しています。

>He did, however, order them to pay their son 200 euros a month for the next two years "to help with his emancipation".

とはいえ、裸一貫で追い出すのは可哀想だということか、彼の自立を援助するため、今後2年間毎月200ユーロを払うように両親に命じたとも。

先日、湯浅誠さんが『オルタ』誌で、ヨーロッパでは「welfare to work」が課題だけれども、日本ではむしろ「family to work」が課題だと書いていましたが、同じヨーロッパでも南欧にいくと「国に頼ってないで働け」の代わりに「親に頼ってないで働け」が現れてくるというところが、ヨーロッパの多様性を示していて興味深いところです。

とはいえ、そこは日本と似ていても、親に小遣いを払えと裁判所に訴えを起こすというのは、いかに日本の法学部卒業生といえども想像だにしないでしょうね。

これを「日本社会は「法化」が足りない」と嘆くべきか、まだまともだと喜ぶべきかは人によって反応が異なるでしょうけど。

選挙運動のための労務

これはよく分からないので、むしろ行政法方面の方の教えを請いたいのですが、

http://www.yomiuri.co.jp/election/local/news/national/20110508-OYT1T00293.htm(未成年者に選挙運動させる、落選候補ら逮捕)

>未成年者に報酬を支払う約束をして選挙運動をさせたとして、神奈川県警捜査2課は7日、4月24日に投開票された藤沢市議選に立候補し、落選した同市天神町、元同市部長で社会福祉法人理事、種部弘(63)と、同市本藤沢、学習塾経営湯浅博文(62)の両容疑者を公職選挙法違反(買収の約束、未成年者使用)の疑いで逮捕した。

発表によると、両容疑者は共謀し、同市議選告示後の4月中旬、同市に住む未成年の男女数人に対し、1人1日数千円の報酬を支払う約束をし、駅前などで数日間にわたって、種部容疑者の名前を連呼してあいさつするなどの選挙運動をさせた疑い。湯浅容疑者は種部陣営の選挙運動員で、経営する学習塾で知り合った未成年者を種部容疑者に紹介したという。

公選法は、未成年が投票を呼びかけるなどの選挙運動を禁じているが、男女数人は、街頭での投票の呼びかけのために集められ、県警は近く、男女数人も同法違反容疑で書類送検する方針。種部容疑者は1970年から藤沢市役所に勤務、福祉健康部長などを歴任して2008年3月に退職。無所属の新人候補として出馬、候補者43人中、41番目の得票数で落選している

根拠条文は、公職選挙法137条の2なのですが、

第137条の2 年齢満20年未満の者は、選挙運動をすることができない。
 何人も、年齢満20年未満の者を使用して選挙運動をすることができない。但し、選挙運動のための労務に使用する場合は、この限りでない

おそらく、問題は「選挙運動」と「選挙運動のための労務」の定義にあるのだろうと思うのですが、少なくとも上の新聞記事から想像するに、当該学習塾に通う未成年たちは、割の良いアルバイトという気持ちで「選挙運動のための労務」を提供したに過ぎないのではないかと思われるのですが、それが未成年者に禁じられた「選挙運動」とみなされて候補者の逮捕という事態にならなければならない理由は那辺にあるのか、よく理解できないところがあります。

まあ、政治ってのは労働基準法上の「公衆道徳上有害な業務」だと言われると、そうカナという気分もないわけではないですが、まあそれは冗談として、駅前で候補者の名前を連呼するという至極単純な労務に従事したことが「選挙運動のための労務」ではなく「選挙運動」に該当するというのは、(少なくとも労働法的感覚からすると)いささか違和感があります。

本件では、彼らに1日数千円の「報酬」を支払っていますので、「運動」の参加者として無償の役務を提供しているのではなく、まさに報酬を対価として労務を提供しているとしか解釈できないのですが。

候補者の名前を連呼するだけでも「労務」じゃなくて「運動」だとすると、スーパーの売り出しの宣伝で店の名前を連呼することも「労務」じゃなくて「運動」だから賃金を払わなくても良いとか、そんなことはありませんからね。それこそ見え透いた労働者性の否定であって、バカ者と言われるはず。

では、会社の社長さんが選挙に出るからといって、その会社の社長さんの名前を会社の名前とともに連呼するのは、労務なのか運動なのか、とか。

いずれにしてもよく分からないので、納得できる説明がどこかにないかと思っているのですが。

メイドさんの労働法講座

さて、メイド喫茶で労働基準法を勉強したよい子の皆さんは、メイド喫茶じゃなくって本来のメイドさんについて労働法がどうなっているのかご存じでしょうか。

もちろん、労働法の中の人にとっては周知のことではありますが、そうじゃない人にとっては意外な新知識なのかも知れません。

某「萌えない法律学」というサイトに、「メイドさんに労働基本権はない」という文章が載っております。なかなか有用ですので(誰にとって?)紹介しておきます。

http://www.puni.net/~aniki/school/law/18.htm

ただ、念のため始めにタイトルについてひと言。ここで書かれているのは、メイドさんに労働基準法が適用されないということであり、末尾にあるように労働組合法は適用されますので、労働法学で通常使われる用語法からすると「メイドさんに労働基本権はない」というのは間違いです。個別労働者としての基本的権利は認められていないけれども、集団的な「労働基本権」があるというのが正しい。

という注釈を念頭に置いた上で、さてご覧下さい。

>いもうとと並んで、世のおおきなおにいちゃんたちに大人気なのが「メイドさん」である。メロンブックスなんかで市販されている専門文献によると、世の中には「こどもメイド」というものもいるらしいのだが、はたしてこれは合法に存在しううるのだろうか?

労働基準法56条1項に「使用者は、児童が満15歳に達した日以後の最初の3月31日が終了するまで、これを使用してはならない」とあるために、原則的には義務教育終了までは雇用契約の締結そのものが不可能。その続きに書いてあるように「児童の健康及び福祉に有害でなく、かつその労働が軽易なものについては満13歳以上の児童であっても修学時間外に使用することができる」わけだが、逆にいうと小学生以下を労働者として使用することはできない(「映画の製作又は演劇の事業」だけは別)。

 それでは『小学生メイド』を雇うことは違法なのか?というと、それ自身には違法性がない(手を出すと犯罪なので注意)。なぜかというと、「メイドさん一般には労働基準法が適用されない」からだ。労基法9条に書いてあるように、同法律で言うところの「労働者」とは「職業の種類を問わず、事業又は事務所に使用される者で、賃金を支払われる者」を指す。ここで重要なのは「事業又は事務所に使用される」という所で、非事業主である個人が家事手伝いのために雇い入れる人は「労働者」とみなされない。ちなみに「メイドさん」(下男・下女)のことを民法310条では「僕婢」と呼んでいるが、これは近いうちに「家事使用人」に変わるはずだ。「法人に雇われ、その役職員の家庭においてその家族の指揮命令のもとで家事一般に従事しているもの」は家事使用人に該当するが、「個人の家庭における家事を事業として請け負う者に雇われ、その指揮命令のもとに家事を行うもの」は家事使用人には該当しない。つまり、会社の社長宅に個人的に雇われているメイドさんは労基法の適用を受けないが、「メイド派遣業者」に雇われて、そこから派遣されるメイドさんは同法の適用を受ける(業者とメイドさんの間に雇用契約が成立する)。

これは肝心の労働基準法116条が書かれていないので、根拠条文を挙げておきます。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO049.html#1000000000000000000000000000000000000000000000011600000000000000000000000000000

(適用除外)
第百十六条  第一条から第十一条まで、次項、第百十七条から第百十九条まで及び第百二十一条の規定を除き、この法律は、船員法 (昭和二十二年法律第百号)第一条第一項 に規定する船員については、適用しない。
○2  この法律は、同居の親族のみを使用する事業及び家事使用人については、適用しない。

よって、上記56条の最低年齢の規定も適用されず、結果として「こどもメイド」も(あくまでも労働基準法上は)違法ではないということになるわけです。もっとも、労働法以外の規制は適用除外になるわけではないので念のため。

>未婚の未成年者に対して親権者は職業許可権を持っている(民法823条)。ここでいう「職業」には他人に雇われることも含まれる。労基法57条1項によって、親権者が子の代理で労働契約を締結することは禁止されているのだが、上記のように家事使用人に対してこの規定は効果を及ぼさない。だから親が子の代理として雇傭契約を結ぶことが可能だし、それ自身は利益離反行為(民法826条)でないので特別代理人を立てる必要はない。また親権者は子の居所指定権を有する(民法821条)が、(夫婦の場合と異なり)同居義務はなく自由裁量にまかされている。ゆえに、親権者がその気になれば、未成年の子を住み込みでどこかのお屋敷に送り込み、メイドとして働かせることも、それ自身には違法性がない。多くのヲタク野郎どもが期待しているようなアレげなシチュエーションの下で働かせると、児童福祉法25条の規定に基づいて、どこかの誰かが「通報しますた」ということもありえるし、場合によっては権利の乱用として親権剥奪ということも起こりえる(民法834条)。しかし、DQN親に育てられるぐらいならば、むしろ真っ当なご主人さまにお使えしていた方が、なんぼかマシってこともあるかもしれない。なお18歳未満の住み込みメイドさんを雇うご主人様には、児童福祉法30条に基づく届出が必要なので注意されたい。また義務教育期間中であれば、親権者に子を学校に通わせる義務がある(学校教育法22条・39条)のは、このケースでも同様である。

 労働契約一般は民法623条で規定される雇傭契約に相当する。これは民法上の契約自由の原則に従い、使用者が報酬と引き換えに労務者の労働力を買い取るというスタンスに立っている。しかし当事者の自由を認めてしまうと無制限に労働者の権利が侵害されるということから、労働法によって私人間の契約の自由が制限されているわけだ。ところが、メイドさんにはこういう法理が適用されない。それによって、次のような不都合が生じる。

1.      労基法第16条に「賠償予定の禁止」というものがある。例えば、ファミリーレストラン「ガ○ト」にヤクザがやってきて、料理にいちゃもんを付けた上で、店が何がしかの金を渡したとする。こういう場合に備えて、店側が雇用契約に「業務上生じた損害は給料から天引きだにょ」みたいなことを書いておいても、この条文に照らして無効となる(ただし、給料を払った後に、別途、損害賠償請求を出すことはできる)。しかし、この規定が適用されないならば、ドジっ子メイドさんの手取り給料はどうなる?

これはおわかりの通り、家事使用人たるメイドさんとメイド喫茶従業員とを混同しています。当該「ドジっ子メイドさん」が当該喫茶店に雇用された従業員である限り、16条も含め労働基準法は当然適用されますので念のため。

2.      労基法第17条に「前借金相殺の禁止」というものがある。「労働者に金を前貸をした上で労働を強制したり、労働者として拘束したりすることや、前貸分を勝手に毎月の給料から差し引くこと」を禁止するもので、こういう労働契約はその部分が無効になる。一部の特殊なジャンルでは、「親の借金のカタにメイドさんを館に監禁して(以下略)」という話がまかり通っているようだが、少なくとも労働法上は別段問題ない。ただしこれは刑法220条に抵触するし、民法90条でいう公序良俗に反する契約に相当する。監禁まではなくても、親の借金を子の財産から払おうとする場合には(それが子の利益を目的とする場合であっても)外形的には利益離反行為に相当するので、家庭裁判所の選任する特別代理人を立てる必要がある。

3.      メイドさんは労基法32条で定められる労働時間規制(一日8時間・週40時間)とも無縁である。一部の特殊な方向けのゲームなどに出てくるメイドさんは朝から真夜中まで働いているが、それに対して労働基準監督署が文句を言わないのは、この辺に理由があるものと思われる

で、冒頭申し上げたように、労働基準法は適用されなくても労働組合法は適用されますので、

>そういうわけで、世のメイドさんたちは前近代的な労働条件を合法的に押し付けられ放題なわけだが、それに反旗を翻して「万国の無産メイドよ、団結せよ!」とばかりに労働組合を結成することができるのか?といえば、答えは「YES」である。労働組合法3条は労働者を「職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によつて生活する者をいう」と定義しているので、家事使用人であっても労働者ということになる。ゆえにメイドさんたちが「メイド労連」・「メイド総連」あるいは「メイド労協」といった労働組合を作って、無謀なご主人さまたちに対して団体交渉に臨むことも不可能ではないわけだ。

なのですが、若干突っ込んでおくと、、家事使用人も民法上の雇用契約であることに変わりはないので、個別労働関係法においてもたとえば労働契約法上の労働者であることに何の疑いもありません。労働者ではあるけれども、労働基準法のさまざまな労働者保護規定が適用されず、使用者の非道な行為について労基法違反として労働基準監督署に訴えることができないという点が異なるだけで、民法の公序良俗規定や一般原則としての権利濫用法理(何をどう濫用したんだか・・・)に基づいて裁判所に訴え出ることは可能です。

一方、集団的労働関係法は適用除外がないためそのまま適用されるので、労働組合を作って団体交渉を申し入れることも可能なら、それを拒否されたら労働委員会に不当労働行為だッといって訴え出ることも可能です。

最近流行の「労組法上の労働者性」の話とは若干筋が違いますので、ご注意ありたいところです。したがって「家事使用人であっても労働者ということになる」という表現はかなりの程度ミスリーディングです。

さて、今現在ネット上でこれを見ている人にとっては、メイドさんというともうああいうメイドさんのイメージしかないわけですが、それこそ昨日紹介した磯田さんの論文の冒頭に出てくるのが女中さんであることからもわかるように、終戦直後期に至る戦前までの社会では、家事使用人という労働形態はきわめてポピュラーなものであり、きわめてまじめな労働問題研究の対象であったわけなのですよ(いや、これがまじめでないと言っているわけではありませんが)。

職業的意義の強調が教育を追いつめる?

少し前ですが、橋口昌治さんが「rodokoyo」というついーとで、職場の人権研究会の報告という形で興味深いことをメモ書きされていたので引用。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61787580164882433

>今日の研究会ではやはり職業教育が論点に。キャリア教育への批判は共有されていたものの、教育一般に対して否定的に語る山田さんに対し、熊沢さんは「職業教育の否定まで言うのは違う。それは山田さんの否定する「教育」に含まれるのか?」と反論。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61788637033021440

>山田さんのスタンスは、「学校教育で「お前はダメだ」と否定され続けてきた子らに、なお教育をするな」といったもの。それを長年定時制の先生をされてきた方が言うのだから、矛盾というものを超えた「味」が出てくる。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61788934904086528

>「仲間さえいれば、どんな仕事でも続けられる」という山田さんの言葉は響く。しかし、職場での仲間作りが本当に難しくなっているのが現状。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61789829758857216

>自分は、職業教育重視の流れは肯定するが、現在の労働現場の惨状を考えると、職業的意義を強調することは教育を追いつめることになるのではないか、といったことを、あまりうまくまとめられずに述べた。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61790835326459904

>生徒が職業に就けること、よい職業人生を送れるようにすることに教育の意義が収斂してしまった場合、教育の無力に直面してしまうのではないか、という危惧を、大げさかもしれないが、持っている。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61792269774225408

>学校、特に大学なんて就職するために行くようなところである。ある研究者は、大学は会社に行くための通り道だからその交通費=学費は会社が払うべきだと嘯いていた。自分は大学は関所であり、教授は通行税をとって研究をしていると思っている。企業が大卒を採用するから研究ができているのだ。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61793711004200960

>「大学は就職予備校ではない」というのはウソだが、教養とか言って何となくそれが誤摩化せているのは、企業が採用基準を明確にせず「人柄」とか「コミュニケーション能力」を重視してくれているからである。だから大学にも何かできているような雰囲気が(まだ)保たれている。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61794567581732864

>キャリア教育も「生き方」みたいな感じでゴマカシが効く(らしい)。でも職業的意義をもっと高めろとなると、そのゴマカシが効かなくなる。本田さんは誤摩化すな、ということなんだろうけど、それは教育実践の問題ではなく、やはり労働現場/労働市場の問題。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61795178268213250

>教育の職業的意義を高める教育実践ってどんなんだろう?という問いの立て方は教育を追いつめる。教育の職業的意義を高められる労働市場ってどんなんだろう?という問いを立てた方がいいというのが自分の考え。ただこちらもしんどいのはしんどい。

http://twitter.com/#!/rodokoyo/status/61798101274464256

>出口のない話のついでにさらに先行きの暗い話をすると、企業が採用基準を明確にしたり、大学が教育の職業的意義を高めたり、大学の機能が研究、教養、人材育成などに分化したり、つまり今の就職議論で「これが正解?」みたいな話が進むと、研究職の就職先はさらに減ると予測されます。

もちろん、教育の職業的意義を問題にするかしないか自体、教育の側がどうこうできる問題ではなく、一義的には労働市場の側の問題。「うちで鍛えるからレリバンスなんか要らへん」言うとるのに無理に「いや、役に立ちまっせ」と押しつけたところで、買ってもらえないだけ。その意味では、イレリバントな教育こそが合理的。

とはいえ、そのことを奇貨として、会社への通り道に関所を作って通行税を取っていながら、「教養とか何とか言って誤魔化し」て、(もしそうでなければもっと少なくしかなかったであろう)自分らの雇用機会を人為的に創出してきたこともまた紛れもない事実。その意味では、少なくとも幇助犯ではあるし、それが良いと言ってきたなら教唆犯でもある。

上記最後のついーとがはしなくも述べているように、そして拙著の中でもややあからさまに述べているように、職業レリバントな教育に向かえば向かうほど、

>卒業生が大学で身につけた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされる時に、これはなかなか難しい課題です。

から、学問分野ごとの利害対立が顕在化する可能性もあります。

2011年5月 7日 (土)

「野営地にて」さんの拙著書評

久しぶりに、ブログ上での拙著書評です。「野営地にて -あるいはレーニンがクラシックを聴かないこと。」というタイトルのブログから。

http://liberation.paslog.jp/article/1982820.html

>最近は社会的排除の問題を考えていたが、ちょっと趣向を変えて。たまたま帰り道にふらっと古本屋に立ち寄ると本書が置いてあって、当然のように買ってしまった。

>全くどうでもいいことだが、絶対読むに決まってるから新品で買って先生に少しでも印税がいくといいなという思いと、絶対買うなら少しでも安く古本でいいじゃんというさもしい思いがぶつかった結果、古本屋で見つけてそのまま帰ってきて一気に読み切るというあまり生産的でないかもしれない行為をもたらすことになった。でも面白かったからいいじゃない。

すでに、その本については新刊で買った人がいて、その時に印税は支払われているのですから、それがさらに売られて有効に活用されているのはいいことではないですか。

いずれにしても、「面白かった」と言っていただいて嬉しく思います。

拙著への注文点が二つ挙げられています。

>逆に、議論をもっと展開してほしかった部分もなくはない。
ひとつには、既存の左派の立場の整理である。ここでは大手の組合や日教組を想定して左派と書いている。
労働運動の戦略における職務主義や学校における点数主義が、当初左派がそれを批判する立場にいながらも、結果的に使用者側の論理に適合的なシステムの形成に資してしまったという点は、左派の総括を迫るものであろう。ただそれが、現在に至るまで抜本的になされていないのだろうという思いは個人的にもなくはない。したがって濱口氏の指摘は全くまっとうであると思うが、むしろこれは左派の立場からの明確な総括がないことの証左ではないかと思う。別に、誰の襟をつかんで「お前が悪いんだ」とやる必要はないであろうが、過去の運動の主張や在り方に対して総括をしないままでは、本書で描かれているような労働社会の構築ひいては日本社会の維持可能なシステムの構築はなかなか難しいのではないかと思う。とまあ誰に言ってんだよっていう。


この本では、「左派」にせよ、「右派」にせよ、政治思想的な総括は意識的に避けています。思想対立を描かないのではなく、あえて通念的な右と左の対立図式とずらした形で対立図式を提示して、読み手の意識を若干脱臼させることを念じているので。その意味では、「あんたらの一生懸命やってきたことは自分たちのメンバーシップの強化であって、それが回り回って今に至っているんだよな」というメッセージは出ていると思っていますが、そのこと自体が歴史的にはかなりの程度必然的であったわけだし、別に襟首をつかむ話ではないし、なにより政治思想的な図式では左右両翼にまたがる話になるので、左派であれ右派であれその「総括」をするつもりはなかったのです。

>あとは、企業規模の問題。大企業と中小企業の問題。
氏のブログにもたまに出てくるが、そして本書でも序章の最後のほうに出てきたと思うけど、中小企業を中心として企業規模の問題があまり深められていない。確かに日本型雇用はメンバーシップ型であり、おおよその労働問題はこの構造から説明が出来るように思われる。しかし、大企業―中小企業という強固な下請け制もまた、日本型資本主義にとって資本蓄積に不可欠に埋め込まれた重要な契機であったことは強調されてしかるべきであろう。そこにおいて中小企業の労働者が、あるいは本書でも展開されているように請負や派遣やときには女性などの日本型メンバーシップから排除された労働者が、どのように職場民主主義を獲得し、そして民主主義を構築していくかという問題が、気になった。これに関しても企業別組合を非正規でも参加できるようにしていくという方向性は打ち出されたが、かといって組合そのものがない場合も多く、また大企業に組み込まれる中でなかなか中小企業の「自立」が難しい状況においては、大企業労組を中心とした運動にならざるを得ないのだろうか。

いやあ、実は最近ブログでも書いているように、この中小企業問題は一つのアキレス腱だなとは思っています。

中小企業を「ジョブ型」と呼ぶのが適切ではないということに加え、ここで指摘されている下請制の問題を労働問題の観点からきちんと考えないといけないし、それを突き詰めていくと、第2章で論じた(派遣との連続性という意味での)構内請負企業と、構内じゃないけど専属で作業のある部分を請け負っている下請企業との違いはいったい何なのか?とか、色々広がる論点もあるのですね。

これらは当面宿題ということで、いろいろと頭の中で転がしています。

労働の法社会学をめぐる川村・野川ついーと

昨日のわたくしの「磯田進「日本の労働関係の特質-法社会学的研究」@『東洋文化』」というエントリから、POSSEの川村さんと野川先生がついった上でやりとりをされています。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66677544170168320

>【hamachanブログ】卒論を生ける法で書いたこともあり、企業社会成立前の50年代に労働の無限定性を指摘していた磯田論文が興味深い。「身分的性格」というと「である」関係のようだが、これがどのような意味で近代の所産であるのか考えてみたい。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66679120775491584

>(1)労働基準法の父と言われる末弘厳太郎先生は、第二次大戦終了直後の時点で、労働契約を「身分設定契約」と理解すべきであると主張しておられます。もちろん、その趣旨は「企業の権力を認める」のではなく、逆に「だから労働者は保護されるべき」という色合いが濃い。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66679738281893888

>(2)このような考え方は、戦後労働法学を席巻した「従属労働論」にも反映していますね。従属労働を余儀なくされる労働者を、とにかく可能な限り保護する法制度、法解釈こそが正しい、ということになって、労働法を精緻な議論の場から乖離させてしまったことは否めません。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66680377909055488

>(3)労働法を、憲法を頂点とする日本の法体系のもとにきちんと位置付けながら、その固有の意義や独自性を明確にしていくという作業は、1980年代頃からようやく始まり、今なお続いています。かつての磯田先生のお考えも、こうした文脈を参考にして検討してみてください。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705112743161856

>(1)ありがとうございます。自分の勉強不足が原因なのですが、「文脈」がわかることですっきりしました。ただ、労働法学というよりも社会学的な関心でして、これまでメンバーシップ・擬似的共同体・社畜(!)と言われてきた関係は一体何だったのかという疑問があります。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705254821015552

>(2)日本は法の出番の無い構造だと言われていて、その原因が「擬似的共同性」に求められることは多いと思います。しかし擬似的共同体の外部にいる「周辺的正社員/義務だけ正社員」の問題を考えると、法に出番を与えなかった構造はそれだけなのかな、という疑問です。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705387390369792

>(3)この点、「従属労働論」と同じく、社会学でも身分や共同性というマジックワードが精緻な議論を阻んできたのかな、と思うのですが、磯田論文は明らかにメンバーシップとは異なる意味での「身分的性格」を析出しているので、吟味の余地があるのではと思いました。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66705596904259584

>(4)しかし社会学的には優れて重要に思われる磯田論文の「身分的性格」が、法律学の体系に入ると「従属労働論」へ吸い込まれていきそうなので、整理の難しさを感じています。そのズレを整理するのが法社会学の役割だと思うのですが。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66712861728178176

>野村正實「雇用不安」(岩新)に詳述されている「全部雇用」の概念が参考になりますよ。一般均衡理論を前提とした「完全雇用」ではなく、不満があってもとにかく雇用が確保されている状態。縁辺労働力とされた女性や高齢者を含めた雇用社会の在り方は法化を阻害しました。

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/66710146922975233

>職場の生ける法の分析はなぜ少ないのだろう。法社会学はかつては農村・漁村のフィールドワークが主流。近代法が善(保護)なのか悪(支配)なのかという論争はあれど、権利闘争の帰結であり場であるという視点は弱かったのではないか。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/66713801306816512

>「なぜ職場における『生ける法』の分析はなかったのか」自体が、POSSEのよい特集テーマになりうるでしょう。従属労働論を支えたマルクス主義の功罪や身分契約説の果たした具体的機能、そしてこれからの労働者の権利意識がどう定着すべきかも論点になるでしょうから。

いろんな方向に議論が展開できる予感がしますが、とりあえずわたしにとっては、拙著『新しい労働社会』の中で、

>企業規模が小さければ小さいほど、企業の中に用意される職務の数は少なくなりますし、職場も一カ所だけということが普通になります。そうすると、いかにメンバーシップ契約だといっても、実際には企業規模によって職務や場所は限定されることになり、事実上限定された雇用契約に近くなります。つまり、企業規模が小さいほど事実上ジョブ型に近づくわけです。

とやや安直に書いたことについて、一定程度考え直す必要があるだろうということがあります。もちろん、

>その意味では、企業規模が小さくなればなるほど正社員といっても非正規労働者とあまり変わらないという面もあります。近年「名ばかり正社員」という言葉がはやりつつありますが、もともと零細企業の正社員は大企業の正社員と比べれば「名ばかり」であったのです。

というのは、現実の中小零細企業の職場の紛争の実体を踏まえるとまさにそうなのですが、とはいえそれを「事実上ジョブ型に近づく」と表現するのはやはりかなりミスリーディングなのだろうと思うようになりました。

このあたりを熟考する必要があるなあ、というのが一つ。

もう一つは、そういう中小零細企業の労働関係が示す、ジョブ型ではないけれどもある意味で大企業型メンバーシップよりも遥かに「近代的」に見えるいくつもの性質をどう捉えるべきか。

このあたりはまだまだ脳みその中で未成熟な思考の断片なので、このくらいに。

(三流の)ジャーナリストと(普通の)科学者の考え方の違い

本ブログで何回も取り上げてきた非国民通信さんの最新のエントリ(http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/6fb88fa8490ac7607cdbcbf43b174f1f)経由で、たいへん真実を言い当てたとぎゃったを見つけました。

http://togetter.com/li/118023(keigomi29氏「(三流の)ジャーナリストと、(普通の)科学者の考え方の違いを揶揄的にまとめてみる。」)

以下にそのまま引用しますが、あらかじめ念のため申し上げておきますと、ここでいう「(三流の)ジャーナリスト」と「(普通の)科学者」というのは、あくまでもその人の精神構造の類型であって、その人の所得がいかなる源泉から生じているかとは直接関係ないと考えるべきでしょう。

新聞記者でも立派に「(普通の)科学者」の精神を持っている方もいらっしゃいますし、某大学教授の肩書きを振り回しながら、「(三流の)ジャーナリスト」以下の精神水準を露呈し続けておられる方もいるわけで。

【0】地震以来、いわゆる「ジャーナリスト」の人のいうことが、どうしてこんなに違和感があるのだろうと、バスを降りてから自席につくまでに考えた。ジャーナリストにも色々な方がいらっしゃるので失礼のないよう(三流の)ジャーナリストと、(普通の)科学者の考え方の違いを揶揄的にまとめてみる。

【1】 (普通の)科学者は自説を否定する事例を探す。 (三流の)ジャーナリストは自説を補強する事例を探す。

【2】 (普通の)科学者は反例が見つかると自説は否定されたと考える。 (三流の)ジャーナリストは反例を気にせず自説は証明されたと考える。

【3】 (普通の)科学者はひとつの例では不安である。 (三流の)ジャーナリストはひとつ例が見つかれば大満足である。

【4】 (普通の)科学者は事実から論理を導き出す。 (三流の)ジャーナリストは論理にあう事実を見つけ出す。なければ創り出すこともある。

【5】 (普通の)科学者は相関関係が因果関係かどうかを考える。 (三流の)ジャーナリストは相関関係は因果関係だと考える。ただし因果の方向は任意である。

【6】 (普通の)科学者は抽出した標本が母集団を代表しているかどうかを考える。 (三流の)ジャーナリストは取材した対象が母集団を代表していると思いこむ。

【7】 (普通の)科学者はどの程度確かなのかを考える。 (三流の)ジャーナリストは絶対確実か絶対間違いだと考える。

【8】 (普通の)科学者は見つからないものはないのかもしれないと考える。 (三流の)ジャーナリストは見つからないものは隠されていると考える。

【9】 (普通の)科学者は誰の話を聞いても本当かどうか考える。 (三流の)ジャーナリストは話を聞く前に本当かどうかを決めている。

【10】 (普通の)科学者は話を聞いて理解できないのは自分の知識が足りないからだと考える。 (三流の)ジャーナリストは話を聞いて理解できないのは相手の説明が下手だからだと考える。

【11】 (普通の)科学者は分からなければ勉強する。 (三流の)ジャーナリストは分からなければ説明責任を追及する。

【12(了)】 (普通の)科学者は量と反応の関係を考える。 (三流の)ジャーナリストはあるかないかだけが問題である。

ジャーナリストと名乗っている三流のジャーナリストはまだいいのです。

世に害悪を流すのは、大学教授という肩書きを貼り付けて上記三流のジャーナリスト的思考様式を世に垂れ流す人々の群れ。

その実例は、本ブログにもその引き連れてきたイナゴの大群とともに記念碑として残っておりますな。

2011年5月 6日 (金)

磯田進「日本の労働関係の特質-法社会学的研究」@『東洋文化』

東大図書館の書庫の奧から、1950年に刊行された『東洋文化』第1巻第1号を発掘してコピーしてきました。これに、当時東大の社研に来たばかりの磯田進さんが標題の論文を載せています。

戦後日本においては、労働法学と法社会学というのは遠くて近いようでやっぱり遠い関係で、とくに終戦直後の時期の法社会学が得意としていた「生ける法」という観点からの研究は、意外に乏しいのです。藤田若雄さんの研究は極めて法社会学的なセンスが溢れているとはいえ、やはりちょっと違うところがあるし、多くの労働法学者の関心が集団的労使関係の、それも労働基本権に集中し、団結権とかスト権とかばかり論じられているところでは、そういう労働組合もあまりないような中小企業の個別労働関係に着目した研究というのはほとんど見当たりません。

逆に、労働法や労働問題の研究者でない人々のほうがそういう問題に対する問題意識は結構あったりするのですが、労働関係という思考枠組みがないために、なんだか妙に文化論的な方向に行ってしまって、使いものになりにくい傾向があります。

その後、労働法学の関心が個別労働関係に移っていっても、もっぱら緻密な法解釈学的研究ばかりに集中し、日本の個別労働関係の性質論には向かわなかったし、いっぽう日本文化論、日本人論にシフトしてやがて妙に日本礼賛論的に狂い咲きした流れも、その後しぼんでしまっていまや古本屋の店先で一山いくらで投げ売りされています。

ところが、現実の個別労働関係紛争をじっくりと見ていると、実はこういう忘れ去れてしまった労働関係に対する法社会学的議論こそが重要ではないかという思いが湧いてくるのですね。そういう問題意識に対応する研究がないのかと探していくと、今から60年以上前のこの論文にぶちあたったわけです。

>資本主義的な労働関係は、理念的に考えれば、労働力の売買関係に他ならない。すなわち、労働者が彼の労働力を売って、その対価たる賃金を資本家から受け取るという関係に他ならない。・・・ところで、現実に日本に存在している労働関係は、資本主義的労働関係の理念型に果たして一致するのであろうか

ここで磯田さんは、労働組合が威勢よく活躍しているような職場ではなく、女中さんの労働関係とか、徒弟の年季奉公とか、赤穂の製塩労働者とか、はては博打打ちの親分子分関係などの例を次々に繰り出しながら、

>以上の例の示すように、労働者によって提供される労働が、分量的に、あるいは内容的に、無限定であるということ-少なくとも、そうした傾向を持っているということ-が日本の多くの労働関係の一つの特徴として指摘されうる。

>賃金の面から見ても、日本の労働関係においては-特にその厚生的なものにおいて然りだが-、賃金は売り渡される労働力の対価だ、という意識が希薄である。

>以上数例に通じてあらわれているところは、それぞれの場合において段階的な差異はあれ、賃金の数量的な不確定性と、質的・内容的な不確定性、又恣意性とである。

>このような現象は、日本の労働関係が、その本質において、典型的な市民法的契約関係とは異なった-あるいは、それから多かれ少なかれずれた-性格のものであることを物語っていると考えられる。そこで、その性格の違いあるいはずれはなんであるかといえば、私は、それは日本の労働関係の身分的性格ということに他ならないと考える。

と論じていきます。なんだかごく当たり前の、よく聞く話のような気がしますが、労働法学の世界ではこういう認識枠組みは決して一般的ではありませんでした。むしろ、プロレーバー的議論は、労働関係を契約関係として見るよりは、ある種の身分関係として、正確に言えば経営者側の恣意性を否定し、労働組合の権限を強調するような形での「民主的」な身分関係を強調してきたのではないかと思われます。

そうすると、そういう強い組合が経営者を抑えているような職場では経営者の『恣意性』が抑え込まれているので一見労使対等性が実現しているように見えますが、それは決して市民法的契約関係としての私的対等性ではなく、身分的性格に基づく労働の無限定性や賃金の非対価性は脈々と息づいていますし、そうでない職場では結局元に戻って、労働が無限定であるだけではなく、磯田さんが摘出していた恣意性がそのまま生き残っていて、契約で何も決まっていないのに「オレの言うことが聞けないならクビだ」という世界となるわけです。

このあたり、もう一度じっくりと検討されるべき値打ちがあるように思われます。

今頃何言ってんだ

と内心思っている人は一杯いるんじゃないのかな。

ベンチャー礼賛、激安礼賛、公的規制罵倒というこの「失われた20年」の3点セットの優等生が、ちょいとこけたからといって手のひらを返すような言いように対して。

あんたらマスコミや評論家や政治家が先頭に立って、そういうのが素晴らしい素晴らしいと言いつのってきたんじゃないのか、今さら何言ってんだ、と。

死んだならたった5両と笑うべし、生きていたなら2分と貸すまじ。

もし、こういう事件が何も起こっていない状態の中で、突然厚生労働省がベンチャーレストランの生肉の衛生管理に問題があるから規制を強化すると言い出したりしたら、3点セットのイデオローグの皆さんがどういうものの言いようで糾弾し始めていたか、目に浮かびませんかね。悪辣な官僚どもが天下りのために、何の必要もない規制をやろうとしてるぞ、さあ叩け叩けぶっ潰せ、と。

まあ、その意味では、こういう事態になってもなおかつ規制反対の論陣を張っている人には(賛成反対を超えて)敬意は表します。

(追記)

事情通ぽい方のブログから、

http://ameblo.jp/oharan/entry-10887143154.html(殺人ユッケ事件について遅ればせながらクダまくよ)

>あーちくしょう!

これは経営者にも客にも言える事だけど、物には適正価格ってのがあるんだよ。大和屋商店が売ってた肉の価格で生食できるかどうかなんて、少し知識のある人間ならわかるだろ?飲食店を経営するってのは 「知りませんでしたー」 じゃ済まないんだよ。安いには安いなりの理由がある。その理由を知った上で客に出せるかどうか判断するのが店の仕事。それが仕入れ。

これだからここ10年くらいのベンチャー(笑) は嫌いなんだ。「出会い系で金貯めたんで外食産業やってみまーすw」 みたいなガキが気軽に手を出せる業種じゃねえっつうの。

というわけで、今回の件は大和屋商店がヤラれるのは当然として、それと同じくらい (もしくはそれ以上に) 焼肉屋の方も重い罪を着せられて欲しいなと。

そして安易に 「ぼろ儲けできそうじゃんwww」 とバカ面したガキが外食産業に手を出す風潮が弱まりますように。

>みんないい加減 「ベンチャー系の外食屋」 を疑おうぜ。オジちゃん悪い事は言わないからさ。そんなもんに金を落とさなくたって、あちこちに老舗の居酒屋とか小料理屋とかあるだろ?ボロボロの外観なんだけど常連客が常にいるような店が。そういう所の方が絶対に安全で美味い物が食えるんだから、もっと積極的にお金を落として応援しようよ。な?

チェーン店で小奇麗で新しくてスタッフが若いってのは、言ってみれば 「危ない条件が揃ってる」 んだって。多少敷居が高くても、街に古くからある個人店を大事に守ろうよ。な?

ベンチャー礼讃、激安礼讃に対する怒りが伝わってきます。

認識論と政治論

レジデント初期研修用資料で有名な「medtoolz」さんが、ついった上で大変示唆的なことを語っておられます。誰のどういうことを語っているかは、それぞれの立場によってさまざまに解釈されうるでしょうが、それらを超えた一般論としても極めて真に迫る言説になり得ていると思います。

http://twitter.com/#!/medtoolz

>その人が同時に扱える事実の数には限りがあって、限られた事実の範囲で、見解というものは組み立てられる。通常は、同時に扱える事実が最も多い、より広い範囲から収拾した事実に矛盾しない見解を組み立てられる人が専門家と呼ばれる。

>見解は、少ない事実から組み立てることもできるけれど、そうして作られた見解に、例外事項を突っ込まれると、その見解は瓦解する。たくさんの事実を同時に扱う能力を持っていない人は、だから自分の作った見解を守るために、例外を見ない、見せないように振る舞おうとする

>能力の上限を超えた時点で、その例外は、見解を作った人からは「見えない」ものになる。それが都合が悪いのかどうかすら、「事実の隠蔽」を指示した人には、そもそも判断できないことが多い。

>まじめに仕事をしているのならば、ある見解を表明するときには、その人の能力限界まで、収拾された事実に矛盾のないような見解が作られる。裏を返せば、全ての参加者が能力をめいっぱい使っているのなら、能力の低い人は、常に「新事実」を突きつけられて、見解が破壊されることになる

>で、たくさんの事実を同時に扱う能力を持っていない人が、間違ってリーダーになってしまったときに困ったことが起きる。

>能力の足りないリーダーから見ると、「自分の知らない事実が部下から突きつけられて、自分の見解が脅かされる」ようにうつる。あるいは「自分には必要な事実が知らされていない」とも。認識の限界を超えたところで旗振る以上、しょうがない。

>リーダーが見解を守るためには、自身にとっての「例外」を、切断処理しないといけない。リーダーに認識できない「新事実」は、だからなかったことになるし、部下にはそれを切断した上での見解と、「助言」が求められることになる。

>この状況を外から観測すると、「必要な事実がリーダーの指示で隠蔽されている」ように見えるし、「周囲の専門家がイエスマンで固められている」ように見える。

>こうした光景は、だから能力を持ったリーダーが、何らかの意図に基づいて暗躍しているのではなく、能力の足りないリーダーが、莫大な情報量になすすべもなくなったときに陥る必然なのだと思う

>Win95 時代のPCに間違ってVista を乗せてしまったようなもので、ファイルはなくなるし、固まるし、なんだかこう、PCがユーザーに悪意持ってるようにしか見えない状態。必要なのはいいPC か、あるいは軽いOSであって

>あの「官僚の奴らは嘘ばっかりつきやがる」みたいな言説というのは、要するに見えないんだと思う。いっぱいいっぱいを超えたところで仕事してるから、文書として上げても読めないし、読んでも頭に入らないし、読んで聞かせても、たぶん見解の修正には届かない

Win95 時代のPCに間違ってVista を乗せてしまったようなもの」という比喩が秀逸。

ただまあ、そういうわかりやすい政治家をわかりやすいがゆえに選んだ国民の問題に行き着くのですけど。最後は。

2011年5月 5日 (木)

経済学は「子どもが扱うと危険な刃物」、社会学は「殺人鬼が振り回しても誰も怖がらないおもちゃ」

dongfang99さんの日記に、あまりにも言い当てすぎていて絶句してしまう言葉があったので、そのまま引用。

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20110429全く信用できない

>社会学はある種の経済学者ほど視野狭窄で傲慢ではないけど、どうにでも解釈できるような表現を濫用する人があまりに多すぎる。社会学というのはそういうもんだと言われてしまえば、そうかもしれないという気はするが。

経済学は「子どもが扱うと危険な刃物」と以前に表現したことがあるが、社会学って「殺人鬼が振り回しても誰も怖がらないおもちゃ」みたいなところがある。まあ、ちょっと言い過ぎかもしれないけど。

ご本人が「どうでもいい話」と言ってるのをわざわざそこだけ持ち出すのはいささか悪趣味ではありますが。

ちなみに、経済学についてのdongfang99さんの批評についてかつて取り上げた本ブログのエントリ:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-f196.html(経済学は「子供に持たせてはいけない刃物」)

>>経済学というのは「子供に持たせてはいけない刃物」のようなところがあり、貧困に対する素朴な憤りから出発したはずが、経済学を通過すると、結果的に貧困者の頬をひっぱたくような結論になってしまうことがしばしばある。

>いやあ、確かに、あれやこれやの実例を見るにつけ、うまく使えばいい料理になるはずなのに、ガキが刃物を振り回している状態になっている「ケーザイ」学の魔法使いの弟子たちが(とりわけネット上に)うようよいて、頭が痛いところです

(追記)

やや誤解を招きかねない表現ですが、社会学一般を貶す意図ではありません。とりわけ、さまざまな分野の社会学的実証研究は、理論の暴走を止めるという意味でもきわめて重要だと思っております。ただ、実証の欠けた「理論」経済学が刃物になりがちであるのに対して、実証をスルーした「理論」社会学がおもちゃになりがちという趣旨ですので、ご理解のほどを。

いくつか本ブログで触れたエントリを:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-bbeb.html(ひとりごと(他意なし))

>法律学はリアル世界からの一つの抽象。

経済学もリアル世界からの一つの抽象。

抽象と抽象を絡み合わせたからといって、フルーツフルとは限らない。

法律学は、経済学者が「そんなもの要らねえ」と捨象したものから抽象し、

経済学は、法律学者が「そんなもの要らねえ」と捨象したものから抽象し、

お互いに、大事なことを捨てて要らねえものを大事にしているように見える。

その結果、「法と経済学」はただの悪口の言い合いになる。詰まらない。

必要なのは、まずはリアル世界をリアルに認識すること。

広く言えば社会学、労働問題について狭く言えば労使関係論とか労務管理論といった、現実にベタに張り付き、あんまり抽象理論的じゃない学問の存在理由ってのは、たぶん、そのへんにある。

だから、社会学「理論」なんてのはそもそも矛盾してんだよね。

とか言ったら叱られるかな

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d685.html(ほとんど絶望的に・・・)

>わたくしは教育社会学方面じゃないし、既にあちこちに無用に敵を増やしているので(笑)、森さんに却下された部分を再現しておきますと、

>ほとんど絶望的に歴史的パースペクティブも現代的問題意識も欠如した「理論系」研究者って・・・・、理論のための理論。好事家の自己満足・・・・・・・。

まあ、教育社会学方面はよくわかりませんが、労働研究についても、確かにこういう3つの傾向は感じられます。

それとも、アクチュアルな問題意識に根ざし、深い歴史的パースペクティブに裏打ちされ、理論的にも見事に説明能力のある研究、なんてのは、知的で誠実なナチスみたいなものなんでしょうか

ちょっと違った観点から:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-3c35.html(熟練の社会的構成)

>何か誤解があるといけませんので念のため申し上げておきますが、私は理論社会学に意味がないなんて一言も言っていません。むしろ、ビビッドな現実感覚と一見抽象的に見える理論社会学をスパークさせると、実に興味深い視界が開けることがあります。

その一つの例が、おそらく一部からは現実離れした理論と思われているかも知れない社会的構成主義が「熟練」「技能」という概念に対して持ちうる意味です。

・・・・・・・

>元論文で引用されている英文の論文の題名などからすると、結構ソーシャルコンストラクショニズムの労働関係への応用というのが盛んなようですね。

日本でこういう議論がされないのは、個別的にはもちろんそういう制度的熟練が社会的に存在しないからではあるんでしょうが、そもそもとして、抽象理論をやる人は抽象理論に専念し、労働関係などという下世話な話に応用しようとしないという事情もありそうな気がします。

(再追記)

dongfang99さんご自身による追記:

>追記。やはりこれは言い過ぎで、断っておくと、あくまで10年ぐらい前にメディアで流行した社会学者さんたちをイメージしたものである。むしろ、理論社会学会の中心にいる人たちの中には、ハードな階層問題や社会保障問題に造詣の深い人も多い印象がある。むしろ最近心配なのは、ネット上などで経済学という切れる刃物を、おもちゃのように論じている人が多くなったこと。自分も反省しなければいけないけど

ということですので、「10年ぐらい前にメディアで流行した社会学者さんたち」に該当される方々以外は、あまり気にされる必要はなかったようです。

2011年5月 4日 (水)

日本のリーダーは現場重視の意味をわかっていない@守島基博

現在某研究会でご一緒させていただいている守島基博さんが、『プレジデント』で「有事のリーダーシップ、平時のリーダーシップ」という刺激的な文章を書かれています。

http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2011/20110516/18931/18940/

>今回の震災では、日本を代表するインフラ企業や政府トップに、リーダーシップの欠如が露呈した。
日本型リーダーの特徴を分析すると、なぜ有事に弱いのかが浮かび上がってくる

守島さんの議論を図でまとめるとこのようになるのですが、

Bs01_20110516

ここでは2番目の「現場重視」ということについての、大変キツい指摘を。

>第二に日本のリーダーたちは、現場重視、現場重視といいながら、本当に現場を重視することの意味をわかっていたのだろうか、という疑問が出てきた。

>確かに、現場の意思決定力や問題解決能力を重視し、資源を投資し、現場における改良・改善などの力を開発することに努めてきたということはある。その意味でリーダーたちは、現場が経営上の鍵だと思い、強い現場の確保のために努力してきたようだ。
 だが、それは「現場重視」の一面なのである。現場重視は、「平時」と「戦時」で大きな違いがあるのだ。平時というのは、普通の状態である。大きな変動は想定していない。異常事態もそんなに大きいものは起こらない。
 その状況では、現場で判断し、現場で問題を解決したほうが効率的である。いちいち組織上部に判断を仰いでいたら、それだけ時間を食ってしまい、不良品が最終工程で山積みになってしまう。日本の製造業について行われた研究の多くが、比較的小さな異常への対処能力を現場に備えておくことが日本のモノづくりにとって効果的であったことを示している。

>だが、それはあくまでも、平時、つまり大きな変動を伴わないときである。逆に戦時、いうなれば環境変動や問題が極めて大きく、解決に向けて新たな方向性が必要な場合はこの議論は当てはまらない。
 変動が大きすぎて自らの問題解決能力では対応しきれない場合、現場は大きな方針なしで大きな変動に立ち向かうと間違いが大きくなり、またいろんな試行錯誤を繰り返すために、資源の無駄も出てくる。
 さらに、そのなかで働く人が疲弊し、また人々が真面目である場合、目標を達成しようとして危険な行動にも走る可能性がある。
 戦時の現場重視とは、平時とは逆に、明確な指針を示してあげることなのである。指針を出して、現場の人たちが試行錯誤するにしても、試行錯誤する範囲をある程度決めてあげる。それが戦時での現場重視だし、現場の問題解決能力の有効活用なのである。
ゆめゆめ方針も現場が考えてくれると思ってはいけない

>再びだが、今回の東京電力の福島原発での状況はどうだったのだろうか。報道がほとんどないのでわかりにくいが、漏れ聞く様子では、どうやら現場があらゆることを試させられて、疲弊しているように思うのである。戦時の現場重視は、通常は経験できない。だからこそ、リーダーとして平時からきちんと考えておきたい。

だけど、戦時に役に立つようなリーダー人材は、平時にはかえって疎まれるというパラドックスがつきまとうわけです。

ある意味で永遠の課題ではありますが、やはりいざというときに備えて戦時のリーダーを常に用意し、活躍できるようにスタンバイさせておける「組織のゆとり」が必要なのでしょう。平時の感覚でムダを叩き潰しすぎると、いざというときに傷を大きくするという大局観をもてるかですが。

2011年5月 3日 (火)

東電を叩けば現場の作業員が苦しむという構図

Img_9b676db0a586402d08d20de10b4dac0 五十嵐泰正さんと川村遼平さんのついーとから遡って、

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2771(福島第一原発作業員が激白!「恐怖と疲弊、過酷な場当たり労働」)

>これまでに20人以上倒れたという噂。「最大250ミリシーベルト以上浴びても働く」という誓約書を書かされ、防護服での汗だく9時間作業の末に言われた「給料カットを覚悟してくれ」の一言。最前線はさらに悪化していた!

>・・・これほどの過酷な現場である。給料で補償してもらわなくては困ると、山田氏は休日を利用して親会社の所長に「作業の手当はいくらなのか」と尋ねた。

「所長の答えを聞いて愕然としました。『東電は1Fの周囲で避難指示が出ている住民や、被害を受けた農漁業者への補償で莫大なカネがいる。今までのような報酬をもらえないかもしれないので、給料のカットを覚悟してくれないか』

 大量の放射線が降り注ぐ劣悪な労働環境で働かされた上、給料を減らされたのではやっていられません。今は本気で、作業員を辞めることを考えています」

>「冗談じゃありません。高濃度の放射線を浴びながら、工程通り短期間でスムーズに作業が進むとは到底思えない。ただでさえ1Fでは毎日のように多くのトラブルが発生し、作業員は場当たり的な対処作業で疲弊しているのが現実です。東電の幹部たちには『がんばれ』と我々の尻を叩くだけでなく、よく現場の状況を理解し、より現実的な対策を立ててほしい」

 福島第一原発の事故収束は、作業員たちの働きにかかっている。だが彼らの怒りと疲弊は、ピークに達しているのだ。

これに対する五十嵐さんのついーと:

http://twitter.com/#!/yas_igarashi/status/65233750396637184

>どうにかして下請けの給与として寄付できないものか。現在の東電にはビタ一文金やるな論だけでは、確実にこの人達に報えなくなる

川村さんの意見:

http://twitter.com/#!/kwmr_posse/status/65280786538037248

>作業員の頑張りが役員を擁護し、役員への指弾が作業員に降りかかる。作業員と経営陣を一体視してしまう混乱は、企業主義的意識の所産なのでしょうか

五十嵐さんのリプライ:

http://twitter.com/#!/yas_igarashi/status/65313529347059712

>それどころかこんなですよ 確かに企業主義意識の負の側面が一気に晒されているのでしょう。お金で何とかできる問題ではありませんが、せめて作業員に金銭的に報いる支援を市民ができないものでしょうか。

このリンク先は、朝日のこの記事。

http://www.asahi.com/national/update/0430/TKY201104290587.html(東電、協力企業へ代金支払い保留を通知 契約解除も)

>福島第一原子力発電所の事故に絡み、東京電力が3月末、第一原発などの納入業者や工事の委託業者に対し、契約解除や支払いの保留を通知していたことが分かった。業者らは「協力企業の連鎖倒産が起きかねない」と反発している

>・・・一方、福島第一の復旧作業に社員らを派遣している福島県内の建設業者は地震の後、復旧作業について、あらためて東電側と契約した。この業者側の関係者は「契約書は交わしたが、きちんと支払われるのか心配だ。入金がないと従業員の給料も払えず、危険な作業も続けられない」と話す。

原発事故に対する「正義感」に充ち満ちた「怒り」が振り下ろされる相手は、東京電力の経営者に対するつもりが、気がつくと、ほかに働き口もなく地元で採用され原発の請負会社で働く現場作業員に対して振り下ろされていたという皮肉な構図。

ご指名書評:『メイド喫茶でわかる労働基準法』

Isbn9784569796475 POSSEの坂倉さんからいきなり指名解雇・・・じゃなくって、書評のご指名です。

http://twitter.com/#!/magazine_posse/status/65058903393714176

>これも新しい労働運動か…。濱口桂一郎さんに書評希望。「店の仲間や常連さんたちの助けを借りながら不当解雇された他のお客さんの相談にのったり、会社と交渉してお客さんを助けたりする」 PHP研究所、ライトノベル「メイド喫茶でわかる労働基準法」を発売

つうか、メイド喫茶にはいったとこもないわたしを指名するかよ、と思いますが。

>働く人が自分の身を守る法として知っておきたい労働基準法をコミカルでちょっとキュンとくるストーリーにのせて解説する実用ライトノベルです

実用ライトノベルねえ。

も少し詳しい説明は、

>高3の進路調査票の進路欄に「癒し系」と書いた緋沙はアキバのメイド喫茶で働いてる。彼女の職場は残業代はつかない、有休なんてもってのほか。一日十数時間ほとんど立ちっぱなし、給料も控えめな労働法を無視するブラックな職場であった。

 早く辞めて楽になろうと思っていた緋沙はある日「法律の神」と名乗るしゃべる猫「宮野」に労働基準法について教わる。「有給休暇をとる権利がある!」と知り早速、男の娘の店長に有給休暇をとることが出来るように交渉するが喧嘩になってしまう。

 その後店長とは和解したものの労使関係のトラブルを解決する方法とその難しさを知ることになる。法律に興味をもった緋沙は「宮野」の助けを借りながらやがて店の仲間や常連さんたちの助けを借りながら不当解雇された他のお客さんの相談にのったり、会社と交渉してお客さんを助けたりするまでに成長していく…

 労働法の解説書の多くは「労務管理する側」から書かれているものがほとんどである。その理由として労働法そのものを知らずに損をしていることに気づかない場合が多いことや、書店の法律コーナーに若年層が立ち寄らないことが挙げられる。本書は「若年の立場」から知っていると得する法律である「労働基準法」を「もしドラ」のようなノベルとして気軽に読めて分かる一冊です。

著者の藤田遼さんは社会保険労務士。

http://roumublog.jp/(若手社労士の労務急報)

というブログをやっておられます。

それで最後の章で、緋沙ちゃんがメイドしながら社労士やってんですね。

さて、はじめのうちは秋葉原のメイド喫茶で時給620円とか、年休はなしとか、わかりやすいネタが続きますが、メニュー3で一気に有期労働契約の雇い止め法理というハイクラスネタに突入。ここで店の常連の万年ロースクール生朝田さんが大活躍。人事部の佐竹さんと法術を尽くしたバトルを繰り広げるのですが、その終わり近くのこの台詞のやりとりが、著者が社労士さんであることを思い出させます。

>・・・勝敗は明らかであった。

応接室に、しばしの沈黙が降りた。

「・・・朝田さん、でしたっけ」

「ええ」

「東大ロースクールに行ってらっしゃるンですか」

「まあ一応」

「見事なもんですよ。論理的で、判例にも詳しい。ですが・・・」

佐竹は丁寧だった口調を一変させて、言った。

「弁護士ごっこは、これまでだ」

「え?」

「解雇は依然有効です」

「そんな-」

と、わたしは情けない声を上げてしまった。

「会社の決定に文句があるなら、裁判でも何でもしてください」

開き直ったように言われた朝田さんは、

「おのれ非道な三下奴め」

なまじ「実体法」の勉強を一生懸命やっていると、判例という形で書かれたものはあくまで裁判規範なのであって、それでもって現実社会の「生ける行ける法」を動かすためには、裁判所の高い敷居をまたいで行く必要があるということを忘れがちになります。あるいは、裁判所に行く覚悟を決めた人だけを相手にしている弁護士さんにも、同じようなバイアスがかかりがちです。でも、その敷居はフツーの労働者にとっては結構高いのです。

「えー、なんか時代劇風になってるよう」

・・・やっぱり朝田さんは朝田さんだった。

「ならば、外村さんがひとりでも入れる労働組合に加入すれば、会社は労働組合との交渉を拒めないはず・・・」

「じゃあ、話はそれからにしてください」

話は終わりとばかりに、佐竹は立ち上がった。

これじゃあ、何のために来たのか分からない。ばかばか朝田さんのばか。

怒らせちゃってどうするの。

「失礼します。また何かあれば連絡下さい。こういうことも人事の仕事なんでね」

「ちょっと待ってください

と、法律の教科書には出てこない現実の壁にぶち当たった緋沙は、必死で考えて、

「だったらアルバイトからやり直すっていうのはどうですか」

と提案し、

「・・・社員の採用は上の許可が必要なのですが、アルバイトならわたしの権限で採用できます」

と、急転直下ややご都合主義的な解決に。

でも、このあたりの配役、ラノベにしてはとても良くできてます。

「くそう納得いかないぜ」

とりあえず入った近くの喫茶店で、まだ朝田さんはぶーたれていた。

「まあ仕方ないよ。こういうことは、お互い歩み寄らなきゃいけないんだから」

・・・

「頑張れば社員に戻れるって言ってましたし、僕は全然大丈夫です」

「裁判やっちゃえばよかったんだよな」

「朝田さん、無茶言わないでよ。確かに裁判になったら勝てるかも知れないけどさ」

裁判に勝てても職場に戻れない、というのも判例集にはなかなか出てこない一つの現実でもあるわけです。

最後の章では、特定社労士になった緋沙が、メイドしながら労働相談をしています。そして、夜間部のロースクールに通って弁護士を目指しています。

001l

2011年5月 2日 (月)

労働法学はサイエンスじゃねえだろ

いくつか思うところあり、労働に関わる法社会学について古い論文などを読んでいるのですが、思わず笑ったのは、日本法社会学会編『労働法学と法社会学』という論集の、巻末の英文要旨です。

>Symposium Sociology of Law and the Science of Labor Law

って、いやだから、法社会学からの批判ってのは、おめえら労働法学はサイエンスじゃねえだろ、ってところにあったはずなんですが、タイトルでサイエンスだと認めちゃってどうするの?

いや、もちろん、「法社会学と労働法学(座談会)」を何も考えずに英訳しただけなんでしょうけど。

それはともかく、かつての労働法と法社会学に関する議論は(川島武宜から渡辺洋三まで)もっぱら集団的労使関係をめぐって行われていたわけですが、労働法学自体で集団的労使関係が全然流行らなくなって、個別紛争が中心になっても、それに対応した形で法社会学的な議論が提起されてきているわけではないのは、やはり問題じゃないのか、と感じる次第。今こそ、現代の職場の「生ける法」といった分析視角が必要になってきているはず。

いや、法社会学でも「生ける法」なんて古くさい代物はもう流行らないんでしょうけど、六法全書や判例集とは違うフォークロアならぬフォークローが存在するのは、田舎の入会権とか用水権とかだけじゃなく、都会の会社の中のルールだってそうなのであってね。

湯浅誠・一丁あがり実行委員会『活動家一丁あがり』

0088343 湯浅誠さん、河添誠さんらによる『活動家一丁あがり』(NHK出版新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00883432011

第1章(湯浅)と第2章(河添)の両誠氏の部分がやや理論編。第3章から第6章までの松元千枝さんがそれぞれ一丁あがった活動家たちのケース編。

個人的に一番面白かったのは、第7章の内田聖子さんの「活動家の経済学-みんなどうやって食っている?」という章です。そう、活動家の皆さんって、どうやって食っているんでしょう?目次の各項目を並べるだけで面白そうでしょう。

永遠なる疑問の始まり

活動家はどうやって食べている?

①仕事が活動-専従スタッフになる

①’組合専従という働き方

②仕事と活動を両立させる-社会的事業を立ち上げる

③仕事は仕事、活動は活動-会社員・公務員をしながら

④仕事はフリーランス的(?)に、活動は目一杯

⑤会費とカンパ-運動ならではの文化

⑥世のかすみを食って生きています-左翼知識人に多い「赤ヒモ」タイプ

活動家の実態調査-みんななんとか食べて、活動している

誰でも活動家に-定義を変えていく

まあ、「赤ヒモ」なんかはさすがに絶滅危惧種なんでしょうが、例えば④なんかはワーク・ライフ・バランスの「ライフ」としての検討の材料にもなりそうです。

善良なる市民と云ふものは・・・陰謀の存在を信ずるものである

本ブログで最近何回も引用している「非国民通信」さん。昨日のエントリも痛烈です。

大震災をフルに利用して陰謀説を飛ばしまくっている某りふれは方面を代表格にして、今日の日本社会を飛び交い始めた陰謀説を見事に斬り捌いています。

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/(善良な市民)

>>再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。・・・

>・・・「善良な市民」とは芥川が明言したように、まず陰謀の存在を信じるものです。陰謀よりも好んで用いられるところでは、利権や既得権益云々でも良いでしょう。何はともあれ、陰謀なり利権なりの存在によって真実が隠され危機がもたらされていると、そう信じることが善良なる市民と云ふものです。付け加えるなら少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬもの、すなわち陰謀の存在を信じている人と肩を並べ、陰謀を信じている人の行動に水を差さないこと、それが善良な市民の資格と言えます。

 付け加えるなら、自らが「善」であることを信じて疑わないことも善良な市民の条件です。そして混乱に乗じて、自分たちが嫌っているもの、もしくは「悪」と考えている対象を攻撃します。ただ、それが純然たる攻撃でありながらも、あくまで自分たちの行為は「正当な防衛行動」であって、他者への加害となっている可能性を考えようとすらしないのも善良な市民の特徴と言えるでしょう。そして、こうした加害を「防衛」に置き換えるための大義名分として自らに迫り来る脅威の存在が強調されるところですが、実際のところ善良な市民の語る脅威とは思い込みに過ぎない、ただ世間一般で幅広く、「それは我々を脅かすものだ」という意識が共有されているだけだったりします。そして脅威だと思い込んでいる相手に対する「正当な防衛行動」のために善良な市民は立ち上がるわけです。

被害者意識に充ち満ちた加害者ほど始末に負えないものはないというのは古来不変の真理ですが、それが正義の御旗を掲げたときにはもはやどうしようもなくなります。

2011年5月 1日 (日)

最低賃金法廃止は憲法違反か?

野川忍さんと安藤至大さんが、ついったー上で標題の問題に関するやりとりをされています。

きっかけは安藤さんと(おなじみ)小倉秀夫弁護士のやりとりからのようですが、そこに横から

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63770827258204161

>横からすみません。思考実験のレベルなら問題ありませんが、現実には、最低賃金法は憲法27条2項(労働条件の最低基準は当事者の合意ではなく法律で定める)によっています。そこで、最低賃金制度を撤廃する法令を制定することは不可能(違憲)ですのでお忘れなく。

http://twitter.com/#!/munetomoando/status/63772141811806208

>こんにちは。あくまでこれは思考実験です。ただし条文を読むなら法律で決めるとだけあるので,最低賃金を設定しなければならないとか,それをゼロより大きくしないといけないとは読めないのですがいかがでしょうか。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63775533795778561

>憲法27条2項の趣旨は、同25条を受けて、「労働者が健康で文化的な最低限度の生活をできる労働条件の水準を法律で直接に定める」ということなので、実質的に生活していける賃金の最低水準について定めた最低賃金法を撤廃する法令は違憲となります。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63775899132231681

>もちろん、賃金の最低水準を確保したうえでその決定方式や手続きを合理化するために最低賃金法に代えてもっと適切な法令を制定する、ということはできます。

http://twitter.com/#!/munetomoando/status/63776657474977793

>それは解釈次第であり,賃金だけで生活できるようにすべきという意味とは限らないのではないでしょうか。例えば(僕は反対ですが)ベーシックインカムを国が支給する場合などはいかがでしょうか。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63779036857516033

>いえ、「勤労条件(これが労働条件を意味することは異論がありません)に関する基準」と明記されているので、他の方法で生活水準が保障されていることを根拠に労働条件の最低基準を定めなくてよいことにはなりません。

http://twitter.com/#!/munetomoando/status/63780201229848576

>労働条件には安全衛生とか様々な要素があり,必要な内容については適切に定めることが求められているだけだとは解釈できませんか?賃金の最低水準を決めないといけないと直接的に明記されていれば異論の余地はありませんが。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63780933475639296

>(1)労働条件の最低基準を法で定めなければならない理由は、当事者の契約にゆだねてしまえばどこまでも低い水準に落ちる可能性を否定できないからです。ところで労働条件は本来契約で決まりますが、労働契約の核となるのが、賃金と労働義務です。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63781607680655360

>(2)つまり、労働契約の労働者側の義務は労働に従事することで、それに対する使用者側の義務が賃金を払うことで、この組み合わせで労働契約が成立します。ですから、賃金は労働条件の中核であり、この最低基準を法で定めることが憲法27条2項の中心的役割なのです。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63782712275763201

>(3)まとめると、憲法27条2項は労働条件の最低基準は法で定めることとしているー労働条件とは賃金を中心として本来労働契約で合意されて決まる事項であるーそこで賃金をはじめとする労働条件については法で最低基準を明記しなければならないー最低賃金法はその典型である、ということです。

http://twitter.com/#!/munetomoando/status/63782532856020992

>「どこまでも低い水準に落ちる可能性」というのが良くわかりません。まず経験や技能がある人についてはそうなりません。また,ベーシックインカム等で生活できていれば,納得のいく賃金が支払われなければ働かないので,問題ないように思われます。思考実験ですが。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63783595847856128

>アベレージとして極端に低い水準にはならないという想定はできますが、そうではなくて当事者の合意は自由なので、経済的に不合理でも当事者がその気なら時給200円の契約もできてしまう。それを許さないということです。

http://twitter.com/#!/munetomoando/status/63784859646173184

>なぜ許してはいけないのでしょうか。生活出来る水準のベーシックインカムなどがある状態なら200円でも問題ないですし,不本意な仕事で貯金してから,本当にやりたかった仕事に低賃金で潜り込むなどもあって良いのではないかと考えます。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63787200101359616

>今後、憲法改正を議論する上では、「総合的に見て最低生活が保障されていれば、労働条件に限って最低基準を法で定める必要はない」という意見はありうるでしょう。現在では、労働条件に限定して、最低基準の法定が憲法により国に義務付けられているということです。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63787918904410112

>つまり、思考経済の問題です。現時点では、改憲を視野に入れない限り、最低賃金制度の撤廃を「政策的選択」として検討することは実益がないということです。繰り返しますが、思考実験としての議論の意義はもちろん否定しません。

http://twitter.com/#!/munetomoando/status/63788520891887616

>理解しました。本来の目的は,人々が健康で文化的な生活をおくれること,また自己実現や承認欲求が満たされることなどのはずなのに,労働賃金で生活することに議論が矮小化されているように思えて野川さんに考えをぶつけてみました。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63789422835007488

>確かにそういう面がありますね。安藤さんのご意見はとても刺激的で、自分が当然の前提としていたことが、突き詰めるとそれほど合理的ではないことに気づかされました。

http://twitter.com/#!/munetomoando/status/63791804784451584

>もちろん現状では,親が資産家であるとかでない限り,働かなければ生活できないため,人々の生活向上と賃金が直結しています。でもいろいろと規制するだけではなく,企業が良い待遇をすすんで提示したくなるような労働者を増やすことも有益ですね。教育訓練は大事です。

http://twitter.com/#!/theophil21/status/63794846690852864

>法学者と経済学者とが、「できるだけ対立的なテーマを議論することで実りをもたらす」ということを重視しているのですが、安藤さんと私の共通点の一つは、ご指摘の教育訓練システムの拡充ですね。労働者が多様な選択肢と簡便なアクセスを享受できる仕組みが必要ですね。

と、一応決着がついたことにはなっていますが、よく読み直すと、政策論としての是非は別として、憲法解釈論としては安藤さんの方が正しいのではないかと思われます。

間違わないでいただきたいのですが、あくまで憲法論としては、です。

野川説では、現行憲法に27条2項がある限り、最低賃金制度がないことが許されないという風に読めますが、日本に最低賃金法が成立したのは1959年ですし、それも業者間協定方式で、審議会方式に改正されたのは1968年ですし、それでも最賃が全てを覆っていたわけではなくて、47都道府県全てで地域最賃が定められたのはようやく1976年です。

では、1976年以前は、少なくとも1959年以前は日本は賃金に関しては違憲状態にあったのか。といえば、そのような考え方が主流であったとは言えないでしょう。

現に、現行憲法下で最低賃金制度が全くなくても(政策論的には労働組合や労働省が制定に向けて一生懸命努力していたにしても)違憲ということになっていなかった以上、憲法27条2項が最低賃金制度の義務づけを含むという野川説は正しくないように思われます。

ここで念のため、これは現行最低賃金制度を廃止するかどうかの政策論ではありません。あくまでも憲法論です。

1959年以前は、労働基準法上に「行政官庁は、必要であると認める場合においては、一定の事業又は職業に従事する労働者について最低賃金を定めることができる」という規定が設けられていました。これからすると、憲法制定時の認識としては、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」というときの「賃金・・・に関する基準」は労働基準法に規定されるいくつかの原則であって、最低賃金についてはつくるかつくらないかも含めて裁量的規制であったと判断せざるを得ないように思われます。

これは、一つには賃金水準をどうするかは労働基準法ではなく労働組合法の領域、憲法でいえば27条ではなく28条の領域であるという認識が一般的であったことの反映でもありましょう。実際、50年代半ばまでは、「最低賃金」という言葉は国家規制によるものというよりは労使交渉で勝ち取るものという使われ方が多かったように思われます。その意味では、最低賃金規制が本来想定されていた労使関係による集団的規制の問題ではなく国家による権力的規制の問題として「のみ」論じられるようになってしまったこと自体が、憲法制定時の問題意識といかに離れてしまったかを示しているようにも思われます。

ま、お二人の話は最後は教育訓練の重要性に移っていき、それについてはわたくしはまったく同感でありますので、それ以上口を挟む必要はないのですが、やや理念的なレベルの問題についてだけ口を挟ませていただきました。

(追記)

野川先生からコメントと、ついった上及びブログ上でも解説をいただきました。

http://twitter.com/#!/theophil21

>(1)安藤さんとの最賃法をめぐる議論に、濱口先生がコメントを加えられている。若干誤解が含まれているように思われるのでひとこと。やはり、ツイッターの限界によるもので、致し方ないとは思われるが… 要するに、私が指摘したのは「最賃法がなければ違憲」ということではない。

>(2)そうではなく、現行の最賃法に対して、法令をもってこれを廃止し、その理由を「最賃を法律で定めない」ことを明記した場合には、当該法令は違憲となる、と指摘した。安藤さんとの議論は、そもそも最賃を法で定めること自体が不当か、ということだったのでこのような指摘をしたのである。

>(3)濱口先生も、「労働条件の最低基準を法で定めない」という法令を策定することが違憲であることはご了解のことと思われる。その一環として、「現行最賃法を廃止し、今後賃金の最低基準を法で定めることはしない」という法令が違憲であることも了解いただけるであろう。…ツイッターは難しい。

>(4)要するに、個別の法規としての最賃法を撤廃することを問題としたのではなく、「最低賃金制度を持たないことを法で確認する」ような法令を策定することは違憲だということ。言葉が足りなかったこと、及びツイッターのリテラシーがまだ未熟であることを痛感する

http://nogawa-ando.blogspot.com/2011/05/blog-post.html(最賃制に関するコメント(間奏曲)ー野川 )

ただ、ついった上であるからというだけでなく、正直まだよく分からないところがあります。

法律というのは、原則として国民等の権利や義務を定めるものであって、もちろん実際の法律にはある思想を宣言するというような部分もありますけど、権利義務と直接関わらない規定は憲法27条2項が予定する「法律」ではないのではないかと思います。

現実に最低賃金を定める(正確には定める具体的な根拠となる)法律(それが現行最低賃金法であるか否かは別にして)以外に、「最低賃金制度を持たないことを法で確認するような法令」というものが、どういう法的存在であるのかが、よく分かりません。ブログの方の表現では、

>そもそも最賃制度を法で定めること自体を認めないというのであれば、そのような法令(「最賃制度を法では定めない」という法令)は違憲となる」ということです。

といわれているのですが、それは法律の有り様をより上位から制限しているとすれば、法律じゃなくて憲法レベルのような気がします。そういう「法律」はそもそもありうるのでしょうか。私が気にしたのは、そういう過剰にイデオロギー的な「法律」ではなくて、単純に現行最低賃金法を廃止して、それに代わるいかなる法律も制定しないという状態になったときに、それは違憲なのだろうか、という疑問です。

あるいは、野川先生の設例により則して言えば、最低賃金法を廃止してそれに代わる法律を設けず、その法律の趣旨説明に「最賃を法律で定めないこととした」と書かれているという状態(将来の逆の法改正の可能性自体を否定しているわけではない)であれば、それは違憲なのだろうか、ということです。

そして、それは違憲とは言えないのではないだろうか、ということなのです。

(まったく余計なことながら)

ついでに、まったく余計なことながら、憲法27条2項についての別の観点からの疑問点:

同項では、賃金の次に「就業時間、休息」も勤労条件の例示に上がっています。

では、戦後日本では本当に「就業時間、休息」について、最低条件が法律で定められていたのでしょうか。

それ以上働いたら残業代がつく基準時間はあっても、物理的な就業時間の上限はなかったし、ましてや休息時間の下限など一度も規定されたことはありません。

賃金以前に、時間についても27条2項は相当に空洞化していたのではないでしょうか。

誰が誰に「死ね」と命ずるのか?

共同通信によると、

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011043001000843.html(原発は「政治決断で決死隊を」 民主・小沢氏が対応批判)

>民主党の小沢一郎元代表は30日夜、自身に近い衆参国会議員約20人と都内で懇談した。出席者によると、福島第1原発事故に関し「根本的な対策を取らなければ大変なことになる。決死隊を送り込んで完全に抑え込まなければならない。政治が決断することだ」と指摘したという。

 同時に菅政権の原発対応を「原発は安定していない。爆発しないようにしているだけで放射線を垂れ流している」と批判した。

 小沢氏は29日には鳩山由紀夫前首相と会談し、原発問題や今後の政局で意見交換した。

(共同)

「決死隊」・・・。

誰が誰に向かって「死ね」と命ずるのでしょうか。東電の社員?、請負会社の労働者?消防士?自衛官?命ずるのは政治家?

「いや、決死の覚悟というほどの意味に過ぎんよ」というには、あまりにもリアルな意味を持ちうる状況だからこそ、そして彼らにそう言えるだけの、そう言って納得させられるだけの指導者なのか?とわかっているからこそ、そこまで言えないでいるのではないのでしょうか。いや、小沢さんは彼らに死ねといえるだけの指導者であるのかも知れませんが・・・。

実際、事故の直後の時期には、

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2011042002000038.html(原発作業被ばく線量 「救命時は無制限」検討)

>福島第一原発の事故で、政府が一時、志願して現場で救命活動にあたる民間作業員や公務員に限り、放射線の被ばく線量を「限度なし」とするよう検討していたことが分かった。政府は今回の事故で作業員の線量限度を急きょ二・五倍に引き上げていたが、さらに決死の作業が迫られるほどの事態の深刻化を懸念していたとみられる。

 政府は三月十五日、同原発で事故対策にあたる作業員に限り、被ばく限度を従来の計一〇〇ミリシーベルトから二五〇ミリシーベルトにする規則の特例を定めた。十七日には自衛隊員や警察官、消防隊員などに対する限度も同様に引き上げた。複数の政府関係者によると、政府がさらに被ばく限度を引き上げようと検討を進めたのは、この直後だった。

>首相官邸で菅直人首相、北沢俊美防衛相、中野寛成国家公安委員長、細野豪志首相補佐官らが集まり協議したが、結論が出ず、その後、「時期尚早」として見送られたという。

 政府関係者は「限度を二五〇ミリシーベルトとした直後に、さらに引き上げることには違和感が強かった」と指摘。検討の背景については「被ばく線量を限度なしとする志願者は、決死隊的な存在。チェルノブイリ原発事故のように、作業員に健康被害が出ても対応せざるを得ないほど深刻な状況を想定していたのではないか」と話す。

まさに「決死隊」を募ろうとしていたようです。

わたしはそのことを全否定することは出来ないと思います。状況によっては「決死隊」もありうることは否定できない。

しかし、それができなかったのは、そうした民間労働者や公務員に「死ね」と言えるだけの自信のある政治家が少なくとも官邸にはいなかったと言うことなのでしょう。小沢さんにはその自信があるのでしょうか。

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »