非国民通信さんの鋭角な批評群
以前から狂い咲きするポピュリズムに対する冷徹で鋭利な批評で有名な非国民通信さんが、ここのところ原発や東電に対する「お調子に乗った」罵倒プレイに対して、ますます鋭角な批評を展開されています。
ここにきて原発反対派の区長を誕生させた世田谷区民の皆さまを始め、電力を膨大に消費し続けてきた東京電力管内の市民の皆さまにあっては、脚下照覧の意味も込めて熟読する値打ちがあるように思われます。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/d6aa5aecde2e265d0cd0c89d3977b181(ならば胸を張って御用学者を名乗ろう)
>レイシズムに与さないことで「反日」と呼ばれるのなら私は堂々と反日を名乗りたいし、原発の脅威を煽るのに参加しないことで「御用学者」と呼ばれるのなら私は胸を張って御用学者であろうと思える昨今です。さて上記の引用ですが、これが震災前であれば一笑に付すこともできたかも知れません。しかし震災後の原発を巡る集団ヒステリーを見た後では、そこに一定の説得力を認めざるを得ないようにも思えます。「原発は絶対安全」から「原発は絶対危険」へと極論から極論が吹き上がる辺りは、今からでも反省すべきものがあるはずです。
>昨今の時勢を鑑みれば明確な「反対派」の立場を取るのが最も無難なのでしょうけれど、良識家ぶるために自説を曲げるつもりは毛頭ありません。今の最優先事項は生活インフラを復旧させることです。情勢の変化に応じて考えを改めるのも結構なことですが、むしろ時間的にも金銭的にも余裕が無くなった状況下では、「将来の脱原発」よりも「既存の発電所をどう活かすか」を優先しないと住民の生活インフラは守れないわけです。ましてや「今すぐ原発を止めろ」みたいなことを、ただでさえ電力不足が復興支援すらも含めた東日本全域の足枷となっている状況下で主張するとしたら、それは良心的とは言えないでしょう。
>再生可能エネルギーを用いた発電手段も、将来的にはコストが下がり効率も上がって原発の代替手段たり得る日が訪れる日が来るかも知れません。ただ、それが一朝一夕には難しいとなると、短期的に明確な成果を求めたがる日本の世論に絶えられるのか、その辺が懸念されるところです。スーパー堤防よろしく「いつ完成するかわからない」「本当に計画通りの効果が見込めるか検証しにくい」「とにかくプロジェクト続行に費用が嵩む」の三重苦では、事業仕分けの格好の餌食となってしまうことでしょう。痛みを伴う構造改革を支持してしまうような人が大勢を占めたことを考えれば、生活インフラ(電力供給)の復旧を二の次にしたような主張でも世間の支持が集まることはあるのでしょうけれど、一方で熱の冷めるのが早いであろうことも忘れるべきではありません。
加えて少なからぬ予算が投じられるとあらば、必然的にその中で利権を手にする人も出てくるわけです。そういう類をこそ世論は徹底的に糾弾してきましたし、政治は率先してバッシングの対象としてきたものですが、いつ実を結ぶかわからない徒飯食いでも長い目で見守ってやらないと、既存の枠組みを覆すようなイノベーションは生まれないように思います。だから短期的には成果が出なくとも、一つの公共事業であり景気対策であり雇用促進策だと受け止めるぐらい、あるいは鶏鳴狗盗よろしく「いつか役に立つ日が来るだろう」ぐらいの鷹揚さを以て接する「ゆとり」がないと、脱原発のような遠大にならざるを得ない計画は成功しないのではないでしょうか。しかるにこうした「ゆとり」こそ90年代以降の日本が急速に失ったものであり、これからも失われ続けていくものであるとしたら、日本の世論は全く矛盾した要求を振りかざすことにもなりそうです。それは毎度のことかも知れませんが……
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/dbc8ea53043d86438f9cdae349aed606(差別や排除の論理が飛散しています)
>福島関係者への差別や風評被害は止まるところを知りません。現状では、こうした偏見や過剰反応から生じる被害が放射線そのものの害を大きく上回っていると言わざるを得ないでしょう。冷却が必要なのは原子炉だけではないように思います。しかもこうした差別や排除の論理が、原発なり東京電力といった「絶対悪」の存在によって正当化されがちとなってはいないでしょうか。最後に引用したスポニチの見出しには「悪いのは原発」 と強調してありますが、それは差別的取り扱いをした人ではなく、もっと別のところに「悪」の原因をすり替えることにも繋がっているように見えます。
>もちろん原発事故がきっかけになっていることは紛れもないことなのでしょうけれど、そのためなら差別が許されていいのか、そこは問われるべきです。原発や放射能への恐怖を言い訳にして、差別が是認されるようなことがあってはならないはずです。実のところ平時から、原発を理由とした差別的取り扱いと、その差別の責任転嫁は小規模ながら行われてきました。原発が出来たせいで、その近隣で採れた海産物や農作物を買ってもらえなくなった――みたいな話は原発批判の文脈の中で何度となく繰り返されてきました。しかし、そのエピソードの中で行われている不当な差別的取り扱いを「悪いのは原発」 と片付けることで、直接的な差別に踏み切っている人々をスルーしてしまうとしたら、それは大いに問題視されるべきです。他の何かに責任を求めることが出来るからと差別を容認してしまうようでは、人権派の風上は元より風下にもおけないと思います。その人が何に怯えているにせよ、それは差別を正当化するものではありません。
・星アカリさんのTwitter書き込み
「人が言えないなら私が言う。東京電力社員の子供を、全員がボイコットしなさい。法が東京電力を裁かないのなら、社会が裁きなさい。その声は、必ず親の、東電社員に届く。子供に罪がないと言えるレベルの話ではない」
>原発パニック(あるいはフィーバー?)の中で垂れ流された言説の中でも、最も醜悪なものの一つがこちらです。この星アカリなる人物は私の知るところではありませんし、反核活動で通っている連中もピンキリですが、反核活動のイメージを貶めるには十分な独善家ぶりと言えるでしょうか。ともあれ、こうした社会的なリンチを呼びかける行為は紛れもないヘイトスピーチであり、唾棄されるべきものです。しかし唾棄されるべき言説が、東京電力なり原発なりの「絶対悪」に向けられることで、あたかも正義であるかのごとく装われることもあるわけです。それはレイシズムや排外主義の論理にも似たようなところがあると言えますが、実態なき脅威に怯える人々は自らの頭の中に「敵」を増やしていくものなのでしょう。そうして排除される人も増えていくわけです。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/fad00fefe329fae84d2253ceecb982ea(差別はいかにして広まるのか)
>結局、こうなるのも必然的な結果ではないでしょうか。とにかく放射能は恐ろしいものだ、どんなに微量でも危険なものなのだ、放射能は絶対に避けねばならないのだ――こういう刷り込みが行われていれば、どういう結果を招くかは推して知るべしです。放射線に関する科学的な解説をすれば御用学者と一蹴され、ただただ脅威を煽る言説ばかりが歓迎される、肥大化していった先は当然ながら排除の論理にしか行き着かないわけです。理解はなく、恐怖だけが広まっていく中では、理性は滅び信仰の如きものだけが先鋭化していくもの、そして信仰心が強まるほど「汚れ」には不寛容になるのでしょう。
>これまでにも宿泊拒否や受け入れ拒否、入店拒否等々、諸々の差別が横行してきました。ただ、この横行する差別に対して世間がどう反応してきたかを見ると、いかに大震災後とはいえ甚だ心許ないものを感じます。福島周辺地域への差別はごく一部の週刊誌やスポーツ紙だけが取り上げるニッチな話題に止まり、総じて大新聞は冷淡ではないでしょうか。元より我々の社会は差別に鈍感だとは思います。ただ、そうであるよりも原発なり放射能なりに責任が転嫁されることで差別行為が容認されてはいないでしょうか。悪いのは原発なのだ――そうした逃げ道が作られていることで、大手を振って差別が罷り通る状況になっていると言えます。原発も発端の一つではありますが、状況の悪化に拍車をかけているのは良識家ぶって脅威を広めている人々でもあり、本人は警鐘を鳴らしているつもりでも実は差別の加担者になっている、そのことを自覚すべきです。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/a1bef970139c991a9f38e442b5211fec(文明災w)
>文明災wとか言い出す連中は、たぶん自分が到達点にいると思い上がっているのでしょう。きっと未来の人間からバカにされるに違いありません。未来の人間は必ずや我々よりも前に進む、色々な解決手段を発明するであろうと私は思うのですが、逆に未来の人間が自分よりも先に進めるはずがない、文明には限界がある、発展の時代は既に(すなわち自分の代で!)終わっているのだと、傲慢にもそう信じ込んでいる人がいるのです。
>そして自らが頂点に立っていると思い上がった人々は、将来の発展を否定します。これ以上の発展は文明災wを招くだけだとして、先に進むことを戒めるわけです。彼らの頭の中では、経済と同様に文明(科学技術)の発展の時代は終わっており、良くても現状維持、往々にして現状からの一歩以上の交代を迫る傾向にあると言えます。そして時計の針が止まった人間にとっては築40年の老朽化した原発も仕組みが大きく異なる最新世代の原発も同じ扱いになっているようで、必然的に議論は野蛮な全否定になりがちですし、加えて将来の発展を否定する以上、(例えば再生可能エネルギーなど)「将来的には実現できるかも知れないこと」という発想が出来なくなってしまい、一足飛びに「今すぐ出来ること」のように信じ込んでしまうわけです。いずれにせよ、現実から乖離した道徳論ばかりが吹き出すことにしかなっていません。
>現代を発展の途上と見れば、過渡的な段階として何が可能かを考えるところですが、自分が文明の到達点に立っていると信じている人にとっては、既に過渡期は過ぎているわけです。そこで選択されるものは全てファイナルアンサーであって、過渡期に選択される暫定手段ではなくなってしまうのでしょう。だから将来的には再生可能エネルギーへの転換を視野に入れつつも、現時点では実現可能な選択肢の中にあるもので凌ごう、いずれもっと良い選択肢も出てくるだろうという考え方は出来なくなってしまいます。今、原発を選ぶのなら、これ以上の文明の発展が望めない以上、永遠に原発を使い続けるしかなくなってしまう――そういう凝り固まった考え方が、昨今の子供が駄々をこねるが如き脱原発論の隆盛にも繋がっているのではないでしょうかね。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/21ba38bf7f7fa5170eb4cdfab02b722c(どっちに転んでも不都合な真実)
>この辺の指摘を頭が原子炉に負けず劣らず熱くなっている人々はどう受け止めるのか、いささか興味深いところです。なんでも「比較的コストのかからない改善をしていれば、完全に回避できた可能性がある」そうで、ここで「完全に回避できた可能性があるのに、改善策を採らなかった」として東電非難に出る人もいると思われますが、そう主張するからには事故を回避できた可能性――数百年に一度レベルの巨大津波の元でも原発を安全に稼働できる可能性を認めねばならないでしょう。しかるに例によってネット世論上では、原発は絶対に危険であって必ず爆発するものであるかのごとく語られています。その「原発は何が何でも危険だ」との信念に沿って「回避できた可能性」を否定する人もいるのではないかと思われますが、原発の事故は不可避というのなら東電が事故を回避できなかったのも致し方ないこととして扱わないと筋が通らないですよね? 原発と東電を燃料として、危機と憎悪を煽るのに一所懸命な人たちは何を思うのでしょうか。まぁ、ダブルスタンダードこそ日本の世論の特徴ではあります。
>しかしまぁ、その筋の人に言わせれば東電が電力供給を増やせば「そら見ろ、やっぱり原発はいらないじゃないか」となり、逆に電力供給力を増やせなければ「原発を推進するための陰謀だ!」となるんでしょうね。どっちに転んでもご都合主義的な言動を吐く奴はご都合主義を続けるものです。東京電力も大変だな、と思わないでもありません。いずれにせよ、何事もギリギリのラインで運用するのは常に危険を伴うわけです。甘い見通しに沿って「ここまで備えておけば大丈夫」と備えを最小限にまで切り詰めていると、いざ通常では考えにくいレベルのアクシデントが発生したときには痛い目を見るのは言うまでもありません。
>この辺は、防災対策だけではなく電力供給も然りです。原発抜きでも電力供給は足りていると主張している人もいて、まぁ自説を押し通すための強弁であって眉唾物ではありますが、その手の人達の説によると夏場のピーク時でもギリギリ電力は足りるということになっています。しかし私には思われるのですが、そういう「ギリギリ」で賄おうとすることの危うさを理解できていない人々こそ、今回の原発事故から何ら学んでいない、かつ全く反省していないのではないでしょうか。過去のデータを元に、理論上はギリギリ大丈夫――こういう思想で運用するから、一般的に予測される範囲を上回る事態が発生したときに対処できなくなってしまうわけです。流石に東京電力側は電力供給を「ギリギリ」で乗り切ろうとすることの危うさを理解しているようですが、逆に東電を批判している人の方はどうなんでしょうね。あいつらはバカだから問題を起こしたけれど、自分達なら上手くやれる――そう思い上がった連中が次なる人災を巻き起こすものです。
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/b278d24761f22007da78f55ebbf47a43(霞を食べて生きているわけではないのだから)
>逆進課税(消費税増税)だの規制緩和だの人件費カットだの、高まる危機意識に乗じて火事場泥棒的に自説を押し通そうとする人も目立つようになってきた昨今ですが、こういう状況を乗り切るためという大義名分の元では諸々の無理が正当化されがちです。中でも際立つのが昨今の急進的な脱原発、というより反原発論でしょうか。そしてそれに付随する道徳論、慎ましさの強要も然りですね。脱原発という錦の御旗の元では、トンデモや陰謀論の類ですらが市民権を得てしまうわけで、放射「能」への恐怖に乗じてデマや怪文書の類を垂れ流す輩は後を絶ちません。こういう場面でこそ理性が問われる、叩きやすい相手に対してもフェアでいられるかどうかで誠実さが問われるように思えるのですが、無様に野蛮さを晒している人が多いような気がします。自分の気に入らない相手を貶めるためならば、虚報や捏造、偏見や差別の扇動でさえも平気で受け入れる人の顔は覚えておくべきでしょう。
>引用の順番が前後しますが「エネルギーの地産地消を可能な限り進めたい」などとも宣っています。この「地産地消」も「自給自足」や「地域主権」、昨今では「脱原発」などと並ぶマジックワードで、「とにかく良いこと」として扱われがちです(こういうマジックワードが使われたときこそ警戒が必要です)。まぁ、何でも自分のことは自分でやるべきだと考えたがる日本の社会には相性の良いイデオロギーなのかも知れません。お互いの不足を補い合う、お互いに頼りあう関係もあってしかるべきだと私は前々から主張してきたところですが、何でも自立しているべきだと我々の社会は信じているのでしょう。ただ少なくともエネルギー供給に関しては、より広い単位で運用した方が望ましいはずです。
>たとえば反原発の流れの中でとかく美化されがちなドイツですが、再生可能エネルギーへの転換の際には不足分を隣の原発大国に補ってもらう時期が少なからずありました。そしてエネルギーの自給に成功したかに見えたものの、発作的に原発の運転を止めたことで再び隣の原発大国から電力を輸入することになったのは記憶に新しいところです。脱原発に向けた取り組みが可能だったのも取りあえず原発を止めることが出来たのも、電力を地産地消していたのではなく、別の国と分かち合っていたからということは心得ておくべきでしょう。ましてや日本でも再生可能エネルギーへの切替は進むことと予測されますが、とかく風力発電や太陽光発電は電力供給量が不安定です。この不安定さを解消すべくヨーロッパ全域を送電線で繋ぐみたいな試みもあるわけですが(特定の地域だけでは不安定な風力もヨーロッパ全体で総合すれば、それなりの安定が期待できます)、しかるに地産地消という対極の理念が幅を利かせてしまうと、なおさら不安定性というデメリットが際立つことになってしまいます。むしろ脱・地産地消こそ再生可能エネルギーを実用的なものにするための必須要件と考えられるべきで、まぁ毎日の社説はその点でも糞です。
反原発で吹き上がっている人々は、まずこの文章とじっくり向かい合うところから始めた方がいいと思います。
とりわけ、根本病のありとあらゆる症状をことごとく呈しながら、根っからの日和見主義の徒を正義の血塗られた刃でめった斬りにすることに夢中になっている一部「リフレ派」諸氏は、鏡に映った自分の顔をじっくりと眺めるこの上ない良い機会であろうと思われます。
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