アソシエーションはそんなにいいのか?
『POSSE』10号に引っかけて言うことでもなかろうとは思うのですが、やはり一言。
この雑誌はかなり哲学的な論考もずっと載せてきていて、今号は佐々木隆治さんが「マルクス-「潜勢的貧民」としての「自由な労働者」」というのを書いておられます。マルクス思想の解説としてはいいのでしょうけど、やはり最後のあたりで、「物象の力を生み出す根源となっている私的労働という労働の社会的形態を・・・アソシエートした諸個人による共同的労働へと置き換えていくことである」等々と、アソシエーション論が出てくると、ちょっと待ってよ、と言いたくなります。
日本の「正社員システム」とは、それがマルクス的な意味での資本によって結合されただけの自由な=疎外された労働ではなく、まさに「社員」としてアソシエートした諸個人による共同的労働になっているところにあるのだとすると、そして、そのシステムが例えば本号の特集となっている「シューカツ」を生み出す一つの源泉となっているのだとすると、「いまこそアソシエーションを!」みたいな議論はいかにも皮肉なのではないか、ということですね。
もう十年以上も前に書いた文章ですが、
http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no126/tokusyu2.htm
>大きく言えば、工職身分差別撤廃闘争や生産管理闘争に示された労働者の参加民主主義志向を、企業側も労働者の忠誠心の調達の回路に取り込む形で、ある種の労使妥協が成り立ったものと見てよいであろう。大ざっぱに言えば、欧州社会モデルが、19世紀的な剥き出しの資本主義に対する社会の反動として、産業レベルの集団的労使関係システム、国家レベルでの労働者保護や福祉システムを構築したのに対して、日本社会モデルは、企業レベルでこれらに相当するものを創り上げたといえるのではなかろうか。
経済人類学の大きな枠組みで言えば、市場経済が労働という本源的生産要素をも商品化して「悪魔のひき臼」に投げ込んだことに対する社会の反動のあり方の相違と言えよう。欧州社会モデルが、企業は交換原理に基づく機構として残したまま、これとは別の場所に互酬・再配分の機能を果たす機構を設けるという方向に進んだのに対し、日本社会モデルは企業そのものに互酬・再配分機能を持つ共同体としての性格を付与するという方向に進んだといえようか。・・・
>次にサービス残業と過労死である。これは、実は異なる2つの視点から議論されているように見える。一つは搾取論的視点であるが、日本社会モデルに関する基本認識が古典的な資本主義理解に立脚しているとすれば、見当はずれの議論にならざるを得ないであろう。もう一つはいわば自己搾取論的視点とでも名付けられようが、雇用の安定性と職務の柔軟性の上で、日本の労働者が自発的に過剰労働に追い込まれているというものである。サービス残業や過労死は特殊な例であるが、日本の特に男性正社員層の労働時間がヨーロッパ諸国のそれに比べてかなり長いことは明らかであり、このことの背景に職務ではなく「任務」を果たすことや業務の繁閑に労働時間で対応するといった柔軟な労働組織の特徴があることも否定できない。アングロサクソンモデルでは搾取論的に長時間労働となるのに対し、日本モデルでは自己搾取論的に長時間労働になってしまうと言えるかも知れない。
これをどう考えるかというのは、ある意味で哲学的な問いである。労働者が自発的に長時間労働するということは、それが「疎外された労働」ではなく、自己実現的労働になっているからだという面は否定できない。自己実現とは自己搾取なのである。家庭に帰りたがらず職場を家庭のように執着する「会社人間」は現在もっぱら嘲笑の対象になっているが、労働者が職場を家庭のように感じることのできない資本主義社会を人間の本質である労働からの疎外だとして糾弾したのは若きマルクスの「経済学哲学草稿」であった。
他方、この「自発的」というのが個人としての労働者としての自発ではなく、労働者集団としての自発であって、個人にとっては強制に過ぎないという観点から批判を加えることもできる。これもまた個人と集団の関係という社会哲学の根本問題に関わるが、個人の自発なくして上から集団の自発が降ってくるわけはないのであって、個人の自発が集団の自発を支え、それが今度は個人を自発に向けて強制するという相互的な円環をなしていると理解すべきであろう。集団的自己実現の中での個人的自己実現という枠組みの中では、自己搾取は集団的自己搾取という形態をとることになる。芸術家の自己搾取が非難されないように、スポーツ選手の集団的自己搾取は賞賛の対象となるが、会社人間はそうではない。しかし、それにはそれなりの理由がある。
労働者が職場を家庭のように感じられることは、労働者自身にとっては幸福なことかもしれないが、労働者の家族にとっては必ずしも幸福とは限らないということである。日本社会モデルのアキレス腱は女性差別とともに職業生活と家庭生活の調和の取り方の部分にあるのであろう。それが21世紀の社会モデルとなるためには、この点について抜本的な修正が必要となる可能性が高いように思われる。
(追記)
>もっと簡単な話だろうね。hamachanは企業内の人的結合と社会における人的結合を区別していないから、こういう誤りに陥る。多くの人が働いている企業だって、社会から見れば私的労働なんだよ。その意味での私的労働こそが価値を生むというわけです。
>まあ、hamachanのような誤りは昔から良くあります。スミスも作業場内分業と社会的分業を区別できてないけど、それと同じような話。私的労働との対比でアソシエーションという場合、社会的分業のレベルでの人的結合を問題にしているんだよね。
>hamachanが言うような企業内の「共同性」による自発性の強制は、マルクスにあるかと言えば、ある。それは協業において他人と働くことによる精神的刺激、あるいはマニファクチュアで分業の体系への組み入れによる労働の規律化などにおいて捉えられている。
>その通りだね。ただ、Kombinationにおいても擬似的にAssoziationが形成され、これが諸個人に自発性を強制するという要素はある。これについても、明示的ではないが、事実上、マルクスは指摘しているんだよね。
いや、だから、その程度の欧米にもある程度の、あるいはマルクスも予定していた程度の、職場の協働による一定の共同性があるだけであれば、「国民国家」が「国民」に要求することどもにも比すべき「社員企業」が「社員」に要求するさまざまなことどもをもたらすわけではないでしょう、ということなんですが、なかなか話が通じないようです。
おそらく、(資本主義社会一般とは区別された意味での)現代日本社会特有の事態に対する関心がそれほど強くないのではないかと思われます。
(再追記)
http://twitter.com/marukenkyu/status/44245148506402816
>それなら、わかるんだが、アソシエーションという言葉は本来、近代によってバラバラになった個人の再結合だから、そういう語義をきちんとふまえて議論すべきだと思います。
いや、だから、日本型雇用システムというのは、(多くの人が誤解しているように)前近代的な共同体の残存などではなく、まさに資本主義の「悪魔の挽き臼」でバラバラにされた労働者の企業をよりどころとした「再結合」であるというところが、私の議論の最も重要なポイントであるわけで、だからこういう風に言われるとある種の徒労感がにじみ出てくる。
歴史的な叙述は、
http://homepage3.nifty.com/hamachan/JapLabManage.html(日本労務管理史概説)
にあるとおりですが、やや理論的な考察は、岩波書店の『自由への問い6 労働』所収の「正社員体制の制度論」の中で書きました。詳しくは同書をお読みいただきたいのですが、さわりのところだけ引用しますと、
>この戦後「正社員」体制は、もともと戦時下に国家の一分肢としての企業に求められた労働者の生活保障を、市場経済下の独立経営体たる企業に求めるものである。それを企業にとって合理的なものとして維持するためには、近代的社会政策の根拠であるネーション国家のメンバーシップに相当する会社メンバーシップを前提とする必要がある。会社は正社員の雇用を維持し、生活を保障する。その代わりに正社員は職務、時間、場所などに制限なく会社の命令に従って働く。この社会的交換が戦後段階的に確立していき、高度成長終了後の一九七〇年代にはほぼマクロ社会的に現実のものとなった。
そのことが逆に、先進諸国共通の同時代的課題であった福祉国家の確立という目標を二次的なものとしていった。会社がそのメンバーに福祉を提供するのであれば、国がそのメンバーに福祉を提供するのは屋上屋を重ねることとなる。子どもの教育費も住宅費も、正社員は会社メンバーとして会社に要求すればよいのであって、国に要求する必要はなかった。
(ついに)
ついにトギャられました。
それぞれの立場、というよりも、ものの考え方のスタイルによってさまざまに違った見え方をするのだということなのでしょう。
現実に存在するか否かにかかわらず思想の次元でものごとを突き詰めて考える人と、アソシエーションであれ社会主義であれ何であれ、現実に存在するシステムとして考える人との思考の落差であるのかも知れません。
私にとって「現実に存在する」アソシエーションの理念型に近いのは労働者生産協同組合であり、それとの共通性と相違性がものごとを考える出発点になります。実定法上は営利社団法人でしかないにもかかわらずあたかもそれへの(「コンビネーション」ですか)労務提供契約者であるはずの者をアソシエートした「社員」であるかのごとく思いなす日本型システムのメカニズムが興味の対象であり、その理念型である労働者生産協同組合がなお「私的労働にすぎない」「アソシエーションじゃない」といわれると、一体真のアソシエーションはどこにあるのかと途方に暮れてしまうわけです。
いや、むしろ、理念型たるアソシエーションが問題の根源であるわけですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-ecd7.html(第4の原理「あそしえーしょん」なんて存在しない)
>たぶん、現在の組織のなかで「アソシエーション」に近いのは協同組合でしょうが、これはまさに交換と脅迫と協同を適度に組み合わせることでうまく回るのであって、どれかが出過ぎるとおかしくなる。交換原理が出過ぎるとただの営利企業と変わらなくなる。脅迫原理が出過ぎると恐怖の統制組織になる。協同原理が出過ぎると仲間内だけのムラ共同体になる。そういうバランス感覚こそが重要なのに、そのいずれでもない第4の原理なんてものを持ち出すと、それを掲げているから絶対に正しいという世にも恐ろしい事態が現出するわけです。マルクス主義の失敗というのは、世界史的にはそういうことでしょう。
(まとめ)
このこと自体は、まったくその通りと認める用意がありますが、
http://twitter.com/marukenkyu/status/44602869655150592
>hamachanのようなマルクスの理解の仕方も、マルクス研究におけるこういう理解の水準を考えれば致し方ないところがあるな。
私はいかなる意味でもマルクス研究どころか思想家研究に手を染めたことはないし、正直『資本論』で使えたのは、イギリス工場監督官報告に基づく産業革命期の労働者の実情くらい。思想家としてのマルクスについて何事か語ろうというつもりはもともとないし、やってもはなはだ低レベルにしかならないでしょう。
(とはいえ、正統派も宇野も廣松もみんなダメという超ハイレベルの水準に追いついていないと言われるのは、誰にとってもブラック企業並みの無理難題という気もしますが、それはともかく)
高いレベルの思想史家からみれば甚だ低レベルではあっても(ホントにそうかは判断保留)、現実の日本社会の中で存在し活動し影響を及ぼしている思想としてのマルクス主義あるいはそうとすら言わないある種の左翼イデオロギーの方が、現実の労働の姿を考えていく上では素材として有用であることは確かだし、実はそれ以外(マルクスの真意とか)にはあまり関心はないのですね。
「疎外」にしろ「アソシエーション」にしろ、現実にそういう概念を振り回して社会的に影響を及ぼしている活動に即してしか、甚だ世俗的な私は論じる興味がないので、「マルクス理解が低レベル」というご批判はまったくその通りと思う一方、だからやり方を変える気もしないと言うところでしょうか。
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http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no126/tokusyu2.htm
がなくなっていますね。
http://hamachan.on.coocan.jp/saitamadaigaku.html
こちらに同様の文章がありましたが
投稿: kensaku | 2020年8月 1日 (土) 08時38分
『DIO』126号に載せたものは、こちらにそのままアップしております。
http://hamachan.on.coocan.jp/dio126.html">http://hamachan.on.coocan.jp/dio126.html
投稿: hamachan | 2020年8月 1日 (土) 09時28分
というか、コメントのおかげで9年以上前のこの記事を読み返す機会が得られて、ものの発想は何ら変わってないな、と、自分でも面白かったです。
実は、来月出版する『働き方改革の世界史』(ちくま新書)は、ウェッブ夫妻から始まる労働運動思想の歴史を解説したものですが、
http://hamachan.on.coocan.jp/chikuma2mokuji.html">http://hamachan.on.coocan.jp/chikuma2mokuji.html
その最後に「あとがきに代えて マルクスが入っていない理由」というのを入れています。
> 労働思想の古典の第一回目がウェッブ夫妻というのはあまりにも常識的ですが、その後の私の選書はいささか常識外れだったのかもしれません。とりわけ、海老原さんがつけてくれた「マルクスなんてワン・オブ・ゼム」という連載時のサブタイトルにもかかわらず、本書には一冊もマルクスの本、いやマルクス主義系の本すらも収録されていないのは、いささか詐欺商法ではないかと思う人もいるかもしれません。いやもっとまじめに、マルクスこそ労働思想の最高峰なのに、それを無視するとは許し難い保守反動の書だ! と怒り心頭に発する人もいるかもしれません。
そこで、「あとがきに代えて」、なぜマルクスの本やマルクス主義の本を本書で取り上げなかったのかをざっと説明しておきたいと思います。
まさに、上のエントリの中で私自身がこういっていたことが、そんな事すっかり忘れていた今もなお、ちゃんと私の思考原理として変わっていないんですね。
>それぞれの立場、というよりも、ものの考え方のスタイルによってさまざまに違った見え方をするのだということなのでしょう。
現実に存在するか否かにかかわらず思想の次元でものごとを突き詰めて考える人と、アソシエーションであれ社会主義であれ何であれ、現実に存在するシステムとして考える人との思考の落差であるのかも知れません。
投稿: hamachan | 2020年8月 1日 (土) 09時39分