チホー分権の反省
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特集は「地方政治とデモクラシー」。これまで地方分権を正義として掲げてきた社民系の政治学者たちが、昨今の皮肉きわまる事態に対してどのように見ているのか、正直言うといささか醒めた目で読みました。
たとえば杉田敦さんの地方の悲惨な現実を語る言葉と、地方分権論そのものを守りたい気持ちとが代わる代わる出てくるこのインタビュー。
>分権化は基本的な方向性としてはいいことです。長年にわたる関係者の努力が実を結んだということなのでしょう。・・・ただし、改革の中で地域が良くなった実感があるか、といえばなかなかそうは言えませんね。・・・
-それは分権化のせいなのでしょうか。
分権化が直接の原因ではないでしょう。・・・したがって、分権化そのものの直接的な結果とは言えませんが、私が問題にしたいのは、現状への対応として、今のままの分権化の方向性が最適なのかどうかという点です。もう少しいえば、それは地域の疲弊を和らげるどころか、その現れ方を顕著にすることになりかねないのではないかということです。
>・・・しかし、実態はどうでしょうか。財政力のある一部の自治体を除き、従来国が定めていた基準を維持することさえ困難になっています。とりわけ深刻なのは、病院など、人々の生命や生活に直結する施設が、財政難なので閉鎖に追い込まれていることです。学校教育についても、地域に委ねて良くなった面よりも、むしろ時々の首長の意向などに翻弄され、水準が引き下げられている面があります。・・・
-経済がグローバル化する現在では、分権化は無理であり、中央集権を再度進めるべきだという主張なのですか?
>そこまでは言っていません。・・・しかし頑張るためには、まず基礎体力がなければなりません。・・・自治体が経済的に力を失っているときには、地域間で十分な再配分を行い、競争に参加できるだけの体力を付けてもらう必要があります。
>ところが、この間の分権化では、そうした配慮がほとんど見られなかった。・・・苦しい中で、なぜ自分たちが稼いだものをよそへ回さなければならないのかという考え方が広まった。こうして、分権化はきわめていびつなものとなっているのです。
かなり率直に事態を批判しているのでしょうが、敢えて言えば、「地方分権」というなら、いやむしろ「地域主権」というなら、「なぜ自分たちが稼いだものをよそへ回さなければならないのか」という考え方は必ずしも「いびつ」ではなく、むしろまっとうなのではないでしょうか。怠け者のギリシャ人に俺たちが稼いだものを・・・というドイツ人の感情は、「EU中央集権」に対するナショナルな「ドイツ主権」の感情であって、90年代以来の大前研一氏らの議論の底流を流れているグローバルに稼いでいると自認するトーキョー人たちの金食い虫の「かっぺ」に対する感情と実はパラレルなのではないでしょうか。それは、価値判断としては「いびつ」だと私も感じますが、論理的には「地域主権」からもたらされる自然な帰結のように思われます。もしそれが「いびつ」であるとしたら、それは「地域主権」自体が「いびつ」だからなのでしょう。
本誌では冒頭の「明日への視角」で、高木郁郎さんがやや醒めた目でこのように書いています。私はこちらの方に共感を持ちます。
>民主党政権の金看板に「新しい公共」と「地域主権」という2つのキイワードがある。公共サービスのあり方を地域に任せ、地域の中ではこれまで狭義の政府部門が握ってきたサービス供給を民間に担わせるというものらしい。
>・・・その意味で、「新しい公共」と「地域主権」は時宜に適しているようにも見える。
>しかし、現実に進展している事態を見るとワナがある。・・・
>地域の実情というのは、現実には、人々のニーズや社会サービスのしっかりした質というのではなく、いかに安上がりに済ますか、という地方行政対の財政面での利害だけが考慮されている。そうした地域主権は、国が行うべき事の地域への丸投げに過ぎない。要するに福祉国家としての最低限の要件であるナショナル・ミニマムの解体である。憲法が定めていることは、地域主権ではなく、国民主権である。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-72c8.html(分権はむしろ福祉の敵です)
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