藤原千沙・山田和代『労働再審3 女性と労働』
大月書店の『労働再審』シリーズの第3巻は『女性と労働』です。
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b81066.html
内容は以下の通りで、いずれも大変興味深いのですが、
序章 いま、なぜ女性と労働か(藤原千沙・山田和代)
第1章 誰が正社員から排除され、誰が残ったのか―雇用・職業構造変動と学歴・ジェンダー(三山雅子)
【Note01】 氷河期世代の女性たち(古知朋子)
第2章 事務職にみる女性労働と職場の変化―「女性活用」の限界と可能性(駒川智子)
【Note02】 派遣労働問題の本質―事務系女性派遣労働者の考察から(水野有香)
第3章 「消費される農村」と女性労働(渡辺めぐみ)
第4章 女性労働と専門職(鵜沢由美子)
【Note03】 ケア労働をどのように意味づけるのか―「女性労働」からの転換(齋藤曉子)
第5章 戦後日本の性「労働」―売買春をめぐる権力関係と社会的背景(小野沢あかね)
【Note04】 人間らしく働き続けたい―性別役割分業意識の「壁」に挑んだ女性労働者たちの闘い(圷由美子)
第6章 ジェンダー雇用平等と労働運動(山田和代)
ここではまず、編者お二人が書かれている序章に若干疑問を呈しておきます。
といっても、書かれている議論の方向性に異論を呈しようというのではないのですが、今までの労働研究を批判しているところで、日本の労働研究が非近代的なものの解明に向けられていたのが転回していったというところで、
>日本の労働研究は、1955年頃から1960年頃にかけてようやく渇望していた「近代的」労働者の誕生を見たのであり、・・・「近代的」で「自由」な賃労働者としての「大企業正社員」をめぐる研究へと集中していった。
>1950年代半ば以降に誕生を見た「近代的」労働者、すなわち日本型雇用慣行を企業とともに構築してきたとされる「二重の意味で自由」な賃労働者は、日本資本主義の歴史上、むしろ一時期に成立した特殊な存在であると捉えることが出来るのではないだろうか。
といった言い方をされているのですね。
もちろん、「近代的」という形容詞は現実に日本の近代に登場した有り様を指すのに使うことはなんら禁止されませんので、それはそれでもいいのですが、少なくともそういう日本型雇用システムにおける大企業男性正社員の有り様を「二重の意味で自由な賃労働者」と呼ぶのは、いかがなものかと思います。
それは、まさに二重の意味で自由であった例えば明治時代の渡り職工の有り様を否定するものとして生み出されてきた「二重の意味で自由ではない」存在であったのではないでしょうか。そう、無限定の義務を負うという意味で自由でないだけでなく、職業生涯にわたる保障を得るという意味でも(マルクスの皮肉において)自由でないわけですから。
そういう「二重の意味で自由でない」男性正社員に比べて、かつての女性労働者たちは「二重の意味でやや自由」な存在であったわけです。それが、男女平等の中で、男性並みに「二重の意味で自由でない」総合職女性と、「二重の意味でもっと自由」な非正規に分離してきたわけですから。
いや、たぶん、言葉の使い方を別にすれば、藤原・山田両氏の言っていることにほぼ同意するところが多いのですけど、この用語法には違和感を感じてしまいました。
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