貧困の社会モデルまたは労働市場のユニバーサルデザイン化
さて、昨日より発売された『自壊社会からの脱却』ですが、広田照幸論文と並んでとても興味深く、わたくしのアクティベーション志向の議論に対してもある意味で大変挑戦的なインプリケーションを持つものが、阿部彩さんの「ユニバーサルデザイン社会の提案」です。
ここでは、冒頭に「かっちゃん」という野宿者が登場します。初めて会ったとき、阿部さんに「おーい、そこのブス。おまえみてえなブスは見たこともねえ」といきなり怒鳴りつけた彼は、しかし人間関係に非常に不器用であったが実は優しいところもあったのです。
阿部さんは、生活困難を抱える人々の多くが精神障害や知的障害を抱えることから、「生きにくさ」というハンディキャップを負った人々に対して、積極的雇用政策だけでいいのか?と疑問を呈します。
>職業訓練を始めとする人的資本への投資プログラムに貧困の解決を求めることは、結局のところ、貧困が自己責任であるという発想から脱していない。・・・
>この考えには、彼らの生活困難は、そもそも彼らが社会に貢献できるような労働市場の条件整備ができていないからであり、「改善」すべきなのは労働市場であり、社会であるという発想が欠けている。この発想の転換の参考となるのが、「障害学」における「障害の社会モデル」である。
障害者問題に詳しい人はおわかりの通り、「障害の医学モデル」が本人の障害に原因を求めるのに対して、「障害の社会モデル」は社会の障壁に原因を求めます。
>冒頭に登場したかっちゃんを考えてみよう。彼の反協調的な性格は、変えられないであろうし、何かの事故の結果でもない。彼は、どんな訓練をしても、コンビニやファーストフードの店員のようににこやかに「いらっしゃいませ」ということができなかったであろうし、スーツを着てパソコンに向かうこともできなかったであろう。型にはまった職業訓練を彼に求めることは、彼が彼であることを否定し、社会が考える「理想の労働者」によりマッチした、彼とは異なる人物であることを求めることである。・・・
>かっちゃんが、かっちゃんのままで社会に認められ、人並みの生活を送ることは可能であろうか。そのような労働市場は存在するのであろうか。実は、かつて、そのような機能を持った一つの労働市場が建設現場や港湾における日雇の労働であった。
障害者が働けるようなユニバーサルデザインの職場づくり・・・があるならば、かっちゃんのような人が働けるユニバーサルデザインの社会づくりが必要ではないのか?という問題意識を、阿部さんは提起します。
まずはユニバーサルデザインの労働を、その上でベーシックインカムを、というのが阿部さんのチャレンジングな提案です。
>残念ながら、現代日本の社会の中で、かっちゃんが「承認」された場は路上だけであった。彼を包摂したのは路上のコミュニティだけであった。私が彼と出会って3年ほどした頃、寝ていた段ボール小屋に火を付けられて、泥酔していたかっちゃんは眠ったまま焼死した。焦げた地面の後には、仲間がいつまでも野の花を供えていた。
(追記)楠正憲さんの大変ディープな突っ込み
http://twitter.com/masanork/status/40246711465156608
>近代以前はユニバーサルデザインの労働もあったんだろうか?それは差別と結びついてなかっただろうか。この辺は人権概念や自己決定幻想の裏返しという気も
いや、まさに、差別と密接に結びつきながら、「生きにくさ」を負った人々が生きていくニッチを社会の内部に作り出していたのでしょう。
そういう「差別」をなくそうとする近代的な善意が、却って彼らの居場所を失わしめる逆説。
社会のあらゆる場所に「人権」を広めようとする熱意が、却って社会からの排除をもたらす逆説。
ディーセントに生きられない人々にディーセントを要求することの残酷さ。
このあたり、宮崎学氏が港湾労働とやくざの関係で書いていたことともつながるでしょう。
(再追記)あおざかなさんの感想
http://twitter.com/aosakana/status/41830771606032384
>ブログで言及されていた阿部彩さんの文章を早速読んだ。やはり直感的・現場感覚的にはこっちやよなーと思う。
この「現場感覚」は、福祉系の方々に共通するもののようです。
労働系の現場感覚からするときわめて素直に感じられるワークフェア的考え方が、そう簡単に通用しないんだよ、通用しない人たちと我々は付き合わざるを得ないんだよ、と。
« 「使用者性」の再検討@経営法曹会議 | トップページ | 日弁連非正規シンポジウム@『労働新聞』 »

コメント