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2011年1月 3日 (月)

ネオリベラリズムとフェミニズムとの交叉を論ずるのなら・・・

新年の間に届いていた『學士會会報』には、なかなか面白い文章がいくつか載っています。そのうち、テーマとしてはいちばん面白いものであるのに、そのネタの扱い方があまりにも・・・という感を免れないのが、大嶽秀夫さんの「ネオリベラリズムとフェミニズムとの交叉」という文章です。

現代日本の法政策史において、一般的には社会民主主義(アメリカで言う「リベラリズム」)に属すると考えられがちなフェミニズムが、むしろネオリベラリズムと手に手を取って展開してきたことは、かなりの人々が指摘している点であり、それがいかなるメカニズムによって実現されてきたのか、という社会科学的分析こそが、このタイトルから期待される内容であるはずなのですが、残念ながら、大嶽さんのこの文章は、ややもすると赤松良子という男女雇用機会均等法制定時の担当局長の個人的パーソナリティを縷々説明するばかりで、なぜそれがタイトルにある、一般的認識からは逆説的であるような「交叉」を生み出したのを、きちんと説明しようとしていません。

赤松良子というのは、歴史の流れがある個人に与えた一つの役割に過ぎません。それが別の名前であったとしても、大きな流れには何の変わりはなかったでしょうし、なにより、タイトルにあるネオリベラリズムとフェミニズムの交叉現象が、政府の中枢部において明確な形を示すようになるのは、むしろ彼女の引退後の1990年代です。赤松さんが局長として苦闘していたのは、それがそう簡単に「交叉」してくれないからこそであり、だからこそ第一次均等法はネオリベラルな援護を頼むことが出来にくいまま弱体な形での成立を余儀なくされたのであり、そして、本来は社会民主主義的傾向を持ちながら、日本社会の「改革」志向政策の中でまさにネオリベラルな追い風の中でフェミニズムを推し進めたのが、90年代後半期の大澤真理さんをはじめとする人々であったことなども考えれば、この「交叉」論は、90年代における日本の「改革」論が持った知識社会学的インプリケーションをきちんと踏まえる必要があると思います。

女学生時代にべーベルを読んだとか、労働省入省後にボーヴォワールを愛読したとか、東大時代の同級生と結婚して夫婦別姓を実行したとか、アメリカ研修でベティ・フリーダンを読んだとか、赤松良子論を論ずるのならともかく、上のタイトルの「交叉」を論ずるのであれば、本質的なことではないはずです。ここで論ずるべきことは、固有名詞を抜いても論じることが出来る日本社会の動態論であったはずなのですから。

(追記)

はてぶで知りましたが、戦闘的なマルクス主義フェミニストとして一世を風靡した上野千鶴子さんが最近こういうのを書かれていたのですね。

http://www.asahi.com/job/syuukatu/2012/hint/OSK201012240050.html(あなたたちは、企業と心中してはいけない)

>はっきり言って、新卒一括採用という企業の慣行が諸悪の根源です。背後にあるのは終身雇用・年功序列給与制で、この場合、採用リスクが高いので、うかつな採用はできません。企業が学生を厳選しようとして就活は前倒しになり、長期化。学生が専門教育に入るところで就活が始まり、大学教育は非常に悪影響を受けています

日本では社会民主主義の一類型として、マクロレベルではなくミクロレベルでの労使妥協に基づく雇用システムとそれに適合的な社会システムを生み出した結果、それが女性の社会進出に対してきわめて抑制的なメカニズムとなってしまい、それに対する批判としてのフェミニズムが、世界一般において社会民主主義(米語のリベラリズム)に対する批判として登場したネオリベラリズムと、見事に同期化したことが、この上野さんをはじめとするラディカルなフェミニストの言論を、とりわけ90年代において市場原理主義的なものときわめて近いものにした最大の原因となったわけです。

当時の上野さんの発言を拾っていくと、その例証が山のように見つかります。

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コメント

フェミニズムといえば、旧華族などよい家柄か、東大などよい学歴の人たちが、経済ユニセックス化して、
しもじもの女性をだましたり搾取したりしているイメージがあります。
絶対東大とか、義務教育1日も休んではだめとか、
セクハラは被害者の自己責任で経営者側には責任なしとか、強姦は擦過傷とかいったフェミニズムの教義には、
どんなに教育・啓蒙されたって賛成するつもりはありません。

上野の弟子なり私淑者なり後輩らと話したら、男女雇用機会均等法を崇拝するあまり、
憲法や労働法への学習禁止令でも出されているのかと疑うほどの労働問題への理解拒絶にあい、言葉が通じませんでした。
ある上野の弟子は「交通費がなくても面接にはいける」とみえすいた嘘を言い、
上野の後輩は派遣はみんな性格やものの考え方が悪い、だから正社員になれないと言う始末です。
しかもその上野の後輩は、派遣には資本主義への理解がないとののしりつつ、自分はマルクス考案の奨学金を使って留学までするダブルスタンダードです。
また彼は、日雇い派遣の肉体労働・単純作業の採用基準には、体力や若さよりも言説が優先されていると信じこんでいます。

こうした一連のフェミ系の言説も実務もわたしは信用するつもりは毛頭ありません。
ただ脱フェミニズムをしたいと願うばかりです。

リンク先の上野さんインタビューを読みましたが、「Q:新卒一括採用をやめ、通年採用にすれば、学生は専門の勉強に打ち込み、留学したり社会貢献に視野を広げたり個性を磨いたりできるのに  A(上野):それが難しい。なぜなら日本は中途採用市場が活性化しないからです。中途採用市場を活性化する唯一の道は、年齢給をやめ、職能給に変えることですが、その条件は、査定評価を能力と実績に応じて個人ベースにすること。すると、例えば50代の男性が中途採用で30代の上司の部下になることも受け入れなければならないし、無能な人は、すぐにクビを切られる。そういうことが日本の企業にはなじみにくい。日本の企業の秩序は男集団がつくり上げたもので、女や外国人を排除し、男の「同期」と「年齢」で固められていますから。だから有能な女は外資へ行くし、国費で育てた外国人留学生が日本を出る。日本では、転職はリスクですが、査定評価が個人ベースの海外では、転職しない人は、どこからも声がかからない無能な人と見られます。」  
「無能な人はすぐにクビ」「優秀な人はどんどん転職」というあたり、「アメリカ的」ですね。

ただ、「フェミニズム」ということで、こうした見方だけをとりあげるのはいかがなものかと。女性の雇用平等においても、社会進出においても、成果をあげているのは、アメリカではなく、ヨーロッパで、フェミニズムにおいても、アメリカ型とヨーロッパ型は違うのではないか、という気がしています。

で、ヨーロッパ、特に、雇用が守られている北欧やフランスの労働市場は、「すぐにクビ」になったりしませんし、それから、アメリカ的なジョブホッピングもそんなにないように思います。特に女性は公務員や福祉関係の仕事をずっと続ける人が多いのがヨーロッパの特徴で、むしろ、女性の職場が限定・固定されがち、という「職域分離 segregation」がいまだに問題となっているように思います。政治には女性が進出しても、ビジネスにおいてはまだ進出が阻まれているために、ノルウェーでは企業に女性管理職登用を義務付けた法律が制定されましたね。

アメリカは、実際には、ヨーロッパに比べて女性の平等化は進んでおらず、それだけにフェミニズムもヨーロッパよりも戦闘的になるのではないでしょうか。私はフェミニズムにはあまり詳しくないので、印象に過ぎませんが。女性への社会的評価は、ヨーロッパの方がアメリカよりも、昔から高めだったように思います。このブログでは、とても唐突な議論になるかと思いますが、私は、文学についてそういう印象を持っています。イギリスには、ジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹、アガサ・クリスティ、ヴァージニア・ウルフなど、フランスにはマルグリット・ユルスナール、マルグリット・デュラスなど、少し文学好きの人なら、たちどころに名前のあがる女性作家がいますが、アメリカでそのレベルで有名な女性作家はいないというのが、とてもシンボリックだと思えるので。

ヨーロッパでの女性の職域分離はsegregationと表現されますが、これはアメリカでは、かつて「黒人」に対して用いられていた言葉でした。公民権運動時代に、アラバマ州知事が”Segregation today, segregation tomorrow, segregation forever”という演説をしたのは有名な話です。

では、アメリカ型のフェミニズムとヨーロッパ型はどう違うのか、となると、私自身は、違うように思える、という以上の回答をまだ自分で見つけていないので、本日は、漠然とした印象だけの文章です。ですが、一言、漠然とであれ、コメントさせて頂きたかったのは、今の日本社会では、人口の半分の女性の平等への糸口がみえにくいどころか、男性でも、優等生から正社員への椅子取りゲームの中で、女性同様の非正規、被差別側に追いやられている、その中ですべきなのは、フェミニズムが間違っていたという議論ではなくて、何が正しい(選択すべき)フェミニズムなのか、ということのように思うからです。「非正規 today、非正規 tomorrow、非正規 forever」とならないような。

本エントリでいいたかったことは、必ずしもアメリカ型、ヨーロッパ型ということではなく、日本におけるフェミニズムがその唱道者のおそらく本来の政治的志向であったであろう社会民主主義(アメリカでいうリベラリズム)の色彩よりも、彼らにとっては本来は必ずしも本意ではなかったであろうはずの市場原理主義的な色彩を強く持つようになったのはなぜなのだろうか、という問題意識です。

彼女らをネオリベだと批判することは全然目的ではありませんし、そもそもそういう風にも考えていません。しかし、日本における社会民主主義が日本型雇用システムという形をとることによって、女性の労働市場における活躍に対して制約的に働く中で、(ある種の反体制思想に逃げ込むことなく)リーズナブルな形で現実に可能なオルタナティブを求めたときに、結果的にネオリベラルな言説がきわめて有効なものとなったことは否定しがたい事実であろうと考えています。

これは、若干位相は異なりますが、最近の若者論が(それ自体としては正当な面がある)高年齢層に対する批判を強調する際において、ある種の市場原理主義的な言説への傾きを示すことに通じるものがあります。

ネオリベ風のフェミニズム言説が「女性差別の上で不当な既得権にあぐらをかいている中年男性」への敵愾心を満足させる面がある一方で、それをそのまま適用すると現実の女性の大部分も浮かび上がるどころか一緒に沈んでしまうでしょうが、にもかかわらずそれが言説として一定の需要があることもまた確かなのだろうと思うわけです。

私も、アメリカ型、ヨーロッパ型と、安直な類型化をしたいわけではないのですが、両者の型の違いにこだわるのは、二つ、理由があります。第一に、欧米、とか、先進諸国というような言い方で、とても違うアメリカとヨーロッパをごっちゃにしている人が多いこと、しかも「専門家」と自称している人で。第二に、内田樹氏の教育論や、マルクス主義に詳しいはずの上野氏の労働論のように、ヨーロッパの思想を学んだはずなのに、なぜか、自分の考えはアメリカ的なものに近い、それを、そう意識せずに接近しているようにみえる(少なくとも学者の知的営為としては、なぜ、自分がその考え方を選択するのか意識的であるべきだと、私は考えています)。これらの理由で、あえて、「アメリカ型」だの「ヨーロッパ型」と書きました。

女性労働で言えば、日本の貧困層の中でも特徴的なのは、働くシングルマザーの所得水準の低さや貧困率の高さ、で、これはヨーロッパ型の再配分=社会保障をめざす方が、「無能なものはクビ」(いくらでも残業できない者はクビ)の労働市場をめざすよりずっといいのですけれどね。

考え方にレッテル張りや悪者探しをするよりも、明確な政策目標を立て、その目標を達成するには、どの政策選択が有効かを論ずるべきだ、というのが、私の前のコメントの最後の数行の意味です。hamachanは、そういう政策選択に至らずに、短絡的な反応が出てくる面について考えておられるわけですね。

エントリ、コメントを読んで、頭に浮かんだのは、リブはロックフェラーの陰謀だ、という陰謀説です。この説を信じている人々は、グロリア・スタイナムがロックフェラーから資金をもらった(「Ms」発刊のためだったか)のを根拠として、リブの裏で糸を引いていたのは、ロックフェラーだというんですね。で、何のためにロックフェラーはそんなことをしたかというと、彼は女性を低賃金の労働者として家庭から市場に大量放出したかったからだ、と。リブの言説やそれによって起きた(と見える)社会の変化が、ある人々にどう受け止められたかが、わかるような気がします。それが、この陰謀説の土壌だ、と。(あんまり関係なくてすみません)

不本意に市場原理主義に取り込まれたというより、
それが彼女らの(というか人間そのものの)本性なんじゃないでしょうか。
彼女らは周囲に流されて不本意にそうなってしまったんだ、
といった物言いこそ忌むべきものだと思います。

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