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2010年12月 2日 (木)

『都市問題』12月号のその他の論文

Toshimondai 昨日は自分のだけ紹介しましたが、その他の特集論文も読む値打ちのあるものばかりなので紹介しておきます。この雑誌は、大きな図書館には大体置いてあると思います。

まず、永田萬享さんの「地域における公共職業訓練の今日的展開と役割、機能」です。ここで指摘されている中で重要なのは、「民間でできることは民間へ」「地方でできることは地方で」という掛け声の下で、公共職業訓練の必要性がかつてなく高まるさなかに公共職業訓練の縮小がどんどんすすんでいることです。その出発点として永田さんが指摘するのは、1998年、当時の労働相が当時の文部省との間で、職業訓練の実施にあたり、「官民の役割分担に配慮して民間の教育訓練施設との競合を避けること」として覚書を取り交わし、これを根拠として以来、都道府県の訓練校の廃止統合などのリストラが一層加速されていったということです。

1998年といえば、既に若年非正規労働者が増加しつつあったにもかかわらず社会的認識がまったく追いつかず、一方で「夢見るフリーター」を非難しながら、まだ「自己啓発」万能の市場主義的発想が強かった時代です。この論文では各県の廃止状況が羅列されていますが、さらに公共訓練校でも学卒者訓練の有料化も進んでいったと述べています。

労働市場の基本的インフラストラクチャーとしての公共職業訓練が憎くてたまらない人々がいるのでしょうね。

次の宮本みち子さんの「困難な条件を持つ若者に対する就労支援」は、デンマークやフィンランドのオルタナティブ教育を引きながら、学校と会社の中間に教育と生産活動がミックスされ、職業教育と社会参加活動の両面を有する教育訓練の場を作ることを提起していますが、一番訴えるべき点はむしろ最後のところの、日本の若者就労支援対策の問題点を指摘したところでしょう。

>近年の若年者支援の前提は、いずれも本人が情報をキャッチしていること、通所のための交通費を含め、利用するための費用を負担する余裕があること、親が子どもの苦境を心配してなんとかしようと思っていること、当面の住まいや生活費に困窮していないこと、複合的なリスクを抱えてはいないこと、などである。もっとも恵まれない若年層の貧困と社会的排除への視点が弱いために、もっともサポートを必要としている若者には、有効性がない結果となる。

>EUにおける若者支援が、無業状態の若者に対する何らかの経済的給付制度を有し、支給を通じて若者の所在を把握できていることや、給付すること(若者の権利)によって、職業訓練や就労あるいは社会活動へ参加するという責任を若者に課す(国家との契約関係)という関係が、日本では成り立たない。つまり個人と家族の私的問題とされ、社会問題と認識されていない。

これはきわめて重要な指摘だと思います。

EUでは就労や訓練受講といった「義務」と生活給付という「権利」の双務契約関係の上に若者対策が載っているのに対し、日本では親が面倒見てくれる「パラサイト」は「義務」を果たす必要がないし、逆に親が面倒見てくれない若者にも「権利」が与えられない、という状況なわけです。

国家と若者の双務契約が成り立たない。「義務」を果たすから我に「権利」を与えよ!という堂々とした要求が出てこない。

そして、ろくでもない思想家連中が、ベーシックインカムと称して、「義務」のない「権利」を要求することによって、ますますこういう健全な双務契約の存立する基盤が失われていくという皮肉な事態。

「社会問題」が存在せず、親子関係やそれに類する私的問題しか存在しない、認知されないこの「知的空間」。

いやはや・・・。

次の本田由紀さんの「学校教育の職業的意義をめぐる課題」は、タイトルを見ただけで読まなくても分かるとお考えかも知れませんが、それは短慮というものです。

ここでは、教育の職業的意義に反感を示す人々のプロフィールを次のように描いています。なかなか言い得て妙ですね。

>そうした教員は1950年代半ばに生まれ、1970年前後に高校に入学した世代であるといえる。すなわち彼らは、日本社会において教育の職業的意義が希薄化を遂げていた時期に高校から大学へと進学し、普通教育志向・進学志向・受験競争がもっとも支配的であった1970年代後半から1980年代にかけて、多くは普通科目の教鞭を手にした世代である。

>その多くは、学校以外の職場の現実、特に近年の若年層が直面している労働市場の現実について、身を以て体験したことがないことは言うまでもない。

>教育界において、このようなライフコースと考え方を抱く者が、個々の学校内や教育委員会、あるいは教育行政の中枢において多数を占め、かつ大きな権限をもつ管理的立場に数多くついているということが、教育の職業的意義を高める上で、一つの大きな障害となっている。

そうした人々の発想の中核にあるのは「形式的平等」という考え方である。・・・例えば「普通科」という単一カテゴリーの下に同年齢層の多くを包摂することをもって、「平等な可能性」が保障されているとみなす考え方である。

そういう手合いはあちこちにいっぱいいそうですね

最後の齊藤貴男さんの「労働組合による職業訓練」は、電機連合の職業アカデミーの「失敗」から話を始め、菅沼隆さんや大木栄一さんの言葉を引きながら、労働組合の新たな存在意義として職業訓練を追求することを提起しています。

訓練関係の特集記事は以上ですが、もう一つの特集「日本の大企業の罪と罰」の中の、竹内洋さんの「大企業と大学教育」が、本ブログでも何回となく取り上げてきた大学教育の職業的レリバンスが、昔はそれなりに結構あったこと、それが高度成長後薄れていったことを、自分の経験を踏まえて書かれています。これは大変面白いので、是非図書館かどこかで見つけて読んでみてください。

>いまでは驚くかも知れないが、半世紀ほど前の1960年代前半頃までは、大企業に入社するに当たって大学の専攻や成績がかなり重視されていた時代がある。・・・

>このような時代は、企業と大学教育の結びつきははっきりしていた。大企業に行きたいなら、法学部や経済学部に進学すること、間違っても文学部などに進学するべきではない。また専門の成績が各社の想定する標準を下回れば、採用されなくなってしまう。このようなシグナルは、キャンパスの大学生に外側からの大きな教育効果になっていた。・・・

>ところが大企業と大学の関係が変わる時代がやってくる。・・・こうなると、大学で学んだ専門よりも潜在能力で採用する方がよいことになる。

>このような企業の採用方式は、大学教育に大きすぎる影響を及ぼした。学部を問わず、とにかく偏差値の高い大学に入ればよい。大学の成績よりも、クラブ活動などに精を出し、協調性や人柄をウリにすればよいことになる。

先の本田由紀さんの論文の教員の世代論と相互補完関係にある企業採用の世代論ですが、なかなか言えてます。

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コメント

こんにちは、杉山です。
濱口さんの紹介を読んで、どうしても全部読みたくなり、アマゾンで注文してしまいました! まだ予約段階で4日に到着の予定です。

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