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2010年12月13日 (月)

『POSSE』第9号から

Cce2efcdde13d1ab3648a841fead32c8_2 さて、『POSSE』第9号のブラック企業特集から、いくつか。

まず、わたくしと萱野さんの「これからの『労働』の話をしよう」という対談のうち、冒頭の私の発言部分を。これが、わたくしのブラック企業原論になります。

>「ブラック」だけど「ブラック」じゃなかった
濱口:日本の企業ではもともと、目先で労働法が踏みにじられているからといって、ミクロな正義を労働者が追求することは、愚かなことだと思われていました。とはいえ、それは「ブラック」だったのかと言えば、そうではありません。これが、今日の柱のひとつになります。
戦後日本で形づくられた雇用システムの中で、とりわけ大企業の正社員は、ずっとメンバーシップ型の雇用システムの中にいました。そこでは、会社の言うとおり際限なく働く代わり、定年までの雇用と生活を保障してもらうという一種の取引が成り立っていたのです。泥のように働けば、結婚して子供が大きくなっても生活できるだけの面倒をみてやるよと。これが本当に良かったのかどうかの評価は別にして、トータルでは釣り合いがとれていたと言えます。
ところが、それは先々保障があるということが前提となっているわけで、これがなければただの「ブラック」なんですね。「働き方だけを見たら「ブラック」だけど、長期的に見たら実は「ブラック」じゃない」はずが、「ただのブラック」である企業が拡大してきた。それが、ここ十数年来の「ブラック企業」現象なるものを、マクロ的に説明できるロジックなんじゃないかなと思います。
この取引はいわば山口一男さんの言う「見返り型滅私奉公」に近かったわけです。滅私奉公と言うととんでもないものに見えるかもしれませんが、ちゃんと見返りはありました。しかし、それが「見返りのない滅私奉公」になってしまったのです。

「日本型」ではなかった日本型雇用システム
濱口:なぜそんなことになったのか。まず、日本型雇用システムを「日本型」と呼ぶことじたいがいささかミスリーティングだということがあります。この名称では、日本の労働者はみんなそうだという誤解を招きかねません。しかし、もともと典型的には大企業正社員だけのシステムだったんです。企業規模が小さくなればなるほど、正社員といえどもそんな保障は薄れていきます。中小になればもっと少ない。零細になればほとんどない。
見返りもないのにことごとく忠誠心をつぎ込むなんてばかげたことは、普通しませんよね。それが世界的に見れば、普通の労働者の行動パターンです。日本の明治時代の労働者だって流動的で、1年経てばみんな職場を移動していました。しかし、高度経済成長が終わった後に、メンバーシップの基盤がない中小零細企業にも、大企業正社員型の働き方が、労働者のあるべき姿のイデオロギーとして規範化していきます。何がそれをもたらしたかというと、ふたつあります。
ひとつめが判例法理です。日本の労働法には、民法や労働基準法が前提としていない、いわゆる大企業正社員型の判例法理があります。整理解雇四要件だとか、就業規則の不利益変更法理、あるいは時間外労働や配置転換の法理です。要するに「会社の言うことを聞くんだったら、それだけ守ってやるよ」という社会的契約が判例法理に入っているのです。
これが確立したのは実は70年代、高度成長終了後です。もちろん大企業でそういう社会的契約があったからそれが判例法理になったわけですが、長期的な保障なんてあるわけない中小零細企業にまで、この判例法理が社会規範として広がっていったという側面があります。最高裁の判決には、大企業のみに限るなんて書いてないわけですからね。
もうひとつは少し大きな話ですが、70年代以降、知識社会学で言う「日本人論」が流行します。60年代までは、「日本は前近代的で封建的だからダメなんだ。もっと欧米みたいな社会になりましょう」という議論が、山のように論じられていました。
ところが、これがガラッと変わって、70年代~80年代には「日本はこういう社会だからいいんだ」という日本賛美的な言説が非常に流行し、90年代以降また流行らなくなります。そこで描かれた日本人の姿というのは、近代化以前のものと、近代を通り過ぎた後の大企業正社員型のものがない混ぜになったものです。これが、知識人の世界では忘れ去られるんですが、日本人の行動規範として大きな影響があったのではないかと思います。人々にとって社会の基本的なイデオロギーとしてはずっとこの規範が残っており、むしろ強化されているのではないでしょうか。

「会社人間」批判とネオリベラリズムの合流
濱口:さらに、もうひとつ。これはものすごくパラドキシカルで頭が混乱するかもしれませんが、そういうメンバーシップ型社会のあり方に対する批判が80年代末から90年代ごろ、「「会社人間」はだめだ、「社畜」はだめだ」というかたちで、いっせいに噴き出します。これらを提唱していた人たちはおそらく、自由に働いて生きていく、というイメージを考えていたのだと思います。
それと、世界的には80年代にイギリス、アメリカのネオリベラリズムが非常に流行って、90年代初めごろに日本に入ってきます。この二つの流れがないまぜになる中で、「だから会社に頼らずもっと強い人間になって市場でバリバリやっていく生き方がいいんだ」という強い個人型のガンバリズムをもたらしました。
大変皮肉なことに、強い個人型ガンバリズムが理想とする人間像は、ベンチャー企業の経営者なんです。理想的な生き方としてそれが褒め称えられる一方で、ベンチャー企業の下にはメンバーシップも長期的な保障もあるはずもない労働者がいるわけです。しかし、彼らにはその経営者の考えがそのまま投影されます。保障がないまま、「強い個人がバリバリ生きていくのは正しいことなんだ。それを君は社長とともにがんばって実行しているんだ。さあがんばろうよ」という感じで、イデオロギー的にはまったく逆のものが同時に流れ込むかたちで、保障なきガンバリズムをもたらしました。これが実は現在のブラック企業の典型的な姿になっているんではないでしょうか。
これは、大企業正社員型の「「ブラック」じゃない「ブラック」」とは全然違うんです。むしろそれを否定しようとしたイデオロギーから、別のブラック企業のイデオロギーが逆説的に生み出されたという非常に皮肉な現象です。そういう意味では現代のブラック企業は、いろいろな流れが合流して生み出されているのです。いわば保障なき「義務だけ正社員」、「やりがいだけ片思い正社員」がどんどん拡大して、それが「ブラック企業」というかたちで露呈してきているのだと思います。
処方箋を二つだけ申し上げます。私は根本的には労働を損得で考えるべきであるとは考えていませんが、ブラック企業対策としてはとりあえずそれを括弧に入れて、「労働を損得で考えるよ」と言いたいと思います。「そんなに働いて保障があるの? 10年、20年、30年後にもとがとれるの? もとが取れないんだったら、そこまでするのは立ち止まって考えてみてはいかが?」というのが第一の処方箋。
第二の処方箋は、解雇規制について少し考え直そうというものです。これは言い出すと大変長い話になるので、結論だけ。仕事がないのにクビだけ守ろうとばかり考えるのではなく、ものを言ってもクビを切られない解雇規制の方がずっと大事だということを、もっと世の中で議論していかなければならないと思っています。

このあと、萱野さんとの対話が進んでいき、国家規制と共同体といったマクロ哲学的な話になるのですが、それは是非雑誌を読んでいただければと思います。おもろいでっせ。

上でわたくしがお話ししたことと共通する展望を示しているのが、熊沢誠・本田由紀・遠藤公嗣・今野晴貴各氏のシンポジウムにおける遠藤さんの発言です。

>まず最初に、ブラック会社や周辺的正社員はなぜ生まれるのか、という問題を考えてみましょう。私の考えでは、これらが生まれてくる直接的な原因は、経営者の側がこれまで日本に存在してきたとされる「日本的雇用慣行」を悪用していることです。経営者は労働者の雇用の名義を正規雇用にして、「キミは正規雇用にふさわしい長時間労働もやらなきゃいけない」というのですが、しかし実際に正規雇用の処遇は非正規と同じくらいにまで低くしてしまうのです。あるいは社員を育てるというような発想が全くなく、使い捨てることを前提で経営している。つまりこれまでの日本的雇用慣行の中に労働者を取り入れるという格好を付けてはいるものの、全然そうした雇用慣行を守ろうとは思っていない。こうした状況の中で生まれているものこそがブラック会社や周辺的正社員であろうと考えています

こういった認識を図式的に整理しているのが、今野さんの「「ブラック」とは何なのか?-「ブラック企業」問題の論点整理」です。世に「ブラック企業」を取り上げた文章は結構おおいですが、こういう風に構造分析されたのは、本誌の特集が始めてではないでしょうか。

もう一つ注目すべき系列は、ブラックな実態を浮かび上がらせるいくつかの調査やルポです。川村さんの2010年アンケート調査報告は、名目上自己都合退職で辞めた若者が、事実上の退職勧奨や、職場の状態からやむを得ず退職した実態にあることを示しています。

この調査結果は、わたくしたちがやっている個別紛争の分析からも似たような傾向を取り出すことが出来ます。さまざまな「退職に追い込まれた」というケースが見られるのです。

「本誌編集部」による大手IT企業のシステム化した退職勧奨のルポは、なかなかシュールなものがあります。

>お前達はクズだ、異論はあるだろうが、社会に出たばかりのお前達は何も知らないクズだ。その理由は、現時点で会社に利益をもたらせる奴は一人もいないからだ。

これは、ある意味で正しいのですが、もし本気でそう思っているのであれば、「何も知らない」学卒者などを雇うのは矛盾もいいところで、「現時点で会社に利益をもたらせる奴」をそのスキルに応じた処遇で雇えばいいはずですが、そういう自分を縛るようなことはしないのですね。わざわざ「何も知らないクズ」を大量に雇うのは、自分の好き放題に指揮命令し、育て上げることが出来るからであるわけで、それで「クズ」と罵るのですから、ひどい話です。

遠矢恵美さんのブラック業界のルポも、とりわけ「格安ツァーがブラック化させる添乗員業界」の項が興味深いです。

あと、木下武男さんの「腐朽する日本の人事制度と周辺的正社員」は、わたくしたちの個別紛争分析の結果を引用しながら、

>年功制という檻から出た情意考課は、「企業への人格的統合」から人格否定による企業からの放逐へと野蛮な姿に変わっていったかのように思われる。・・・

>年功制から切れて情意考課が一人歩きをする。従業員に対してその情意考課的要素を指摘すれば、解雇できる。日本は解雇自由な国なのだということが、周辺的正社員の領域ではまかり通っている。

と述べています。

とりあえず、ここまで。

(追記)

上記引用したわたくしの発言部分が、「シノドスジャーナル」に転載されました。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1622283.html

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コメント

日本人論には、否定的評価論と肯定的評価論があり、
本質主義、恣意性、内容では一致していますが、ご指摘の通り“日本”賛美か否定かで割れます。
ですから見返りのある奉公を、奴隷奉公に変えた社会プロパガンダは、あなたの論法では日本人論ではなく、“日本”賛美的“日本人”論ではないですか?


http://ameblo.jp/shibuya/entry-11045885401.html

>評価に関しては、上司だけでなく、人事、
>役員も加わった責任の元に行います。
>嫌われたくないや傷つけたくないといった
>理由でD評価を全くつけられない上司は、
>何度か続くとその人がD評価となります。

http://econ101.jp/582

まず、一度D評価を受けた人が再度D評価をもらう可能性が極めて高いことだ。「嫌われたくないや傷つけたくないといった理由でD評価を全くつけられない上司」が何をするかを考えれば明らかである。既に他の誰かがD評価をつけた部下にD評価を出せば自分の責任にはなりにくいし(ソーシャルプルーフ)、D評価を受けた部下は「部署異動または退職勧奨」になるため後腐れも少ない。

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