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2010年12月

2010年12月31日 (金)

心に残るブログから2

もう一つ、今年何回も引用させていただいたブログに、dongfang99さんの日記があります。

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20101228信頼できる専門家

>自分が信頼できる専門家というのは、その議論において「誠実」で「良識」のある人である。素朴なことを言っているようだが、これは極めて本質的なことで、・・・だから説得力の決め手になるのは、その人が批判に対して誠実に応答しているとか、物事がバランスよく見えているとか、人間観が深くて鋭いとか、社会のなかの排除や暴力に対して真摯な憤りがあるとか、結局のところそういう部分になる。

これは心に沁みる言葉です。自分自身に対して、常に問いかけて省みるべき言葉だと感じます。自分では常に「誠実」であるつもりですが、時としていささか「良識」に欠ける言動と人に見られることがあるかもしれません。

>また経済学に限らず、専門家でも陰謀論や属性批判を繰り出したがる人が少なからずいるが*1、自分はこういう議論を目にした時点で、その人を専門家として一切信用できなくなってしまう*2。陰謀論や属性批判は、気心の知れた仲間との飲み会における他愛もない悪口であれば、自分も決して例外ではないが、この飲み会のテンションをテレビやインターネットにまで持ちこんでしまう人がしばしばいる。特に日本のワイドショーや政治討論系の番組は、そういう飲み会談義を許容する雰囲気があるというか、そもそもそれが中心になっている印象すらある。とりわけ、ツイッターというこの1年で爆発的に流行したメディアでは、飲み会談義風の政治論や経済論が蔓延しており、専門家の肩書きを持っている人がフォロワーとともに世間の無知・無理解を愚痴っている姿は、正直傍目から見てあまり気分のいいものではない*3

これはもう、陰謀論と属性批判に手を染めたら、その瞬間に知識人としては自殺行為だと思っています。

>しばしば社会保障論者がマクロ経済に無関心なのを愚痴っている経済学系の人がいるが、それを言ったら、経済学系の人の社会保障問題への認識の杜撰さも指摘しなければならない。経済学と福祉の間の矛盾は、お互いの専門分野で議論されていることを尊重するという意外になく、それができなければ専門家としての信頼性を失うことが、どうしてわからないのか不思議である(特に他人は要求しているのだからなおさら)。

心に残るブログから

今年、何回も引用させていただいたブログとしては、 machineryさんのブログがあります。問題意識がかなり共鳴しているので、なんだか自分の文章を引用するような感すらあり、却って頻繁に引用するのがためらわれてしまったりするのですが、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-433.html素人の浅薄な正義感

とりわけ、コメント欄の、

>この点、本エントリでは明記しませんでしたが、マンデルの定理やティンバーゲンの定理によれば、社会全体の流動性選好を修正して、特に流動性制約の厳しい家計に流動性を供給する効果が期待されるリフレーション政策は、その目的にのみ割り当てられるものであるはずです。したがって、本エントリで取り上げたような若年者の労働市場への円滑な参入という個別の政策課題については、それに応じたミクロな個別の制度設計が必要となります。

確かに若年者雇用は景気の波をもろに受けるものではありますが、では過去の好況のときは新卒の売り手市場で日本的雇用慣行が万全のものであったかというと、必ずしもそうではなかったわけです。男性正規労働者が家計を支え、妻や子はパートやアルバイトで家計を補助するというモデル的な家族が前提となっているからこそ、正規労働者の雇用が保護されているのであって、その裏返しとして、大企業正規雇用者以外の中小・零細企業の正規労働者や非正規労働者はクビを切られても変更解約告知を受けても文句もいえません。そもそも、モデル的な家族構成を構築できない個人はまともに生活することすらできないという日本の小さすぎる再分配政策と併せて、それを補完してきた日本的雇用慣行についても、労働市場への入口から出口までをトータルに見据えながら不断に修正していく必要があります。

ところが、一部のドマクロで市場効率化最優先なリフレ派にとってみれば、「そんな七面倒くさいことしなくたって、解雇規制を撤廃すれば労働市場が流動化して最適な均衡点がもたらされるし、リフレして景気が回復すればいくらでも就職する口はあるよ」とおっしゃるのでしょうし、そこで上記のような話をすると、「雇用を規制したり公的職業教育を推進するなんて、官僚の既得権益に取り込まれたアフォなヤツ」と、「リフレ派を批判するなんてデフレを賞賛する基地外め」と、口を極めて罵られるので、個人的にはどうしても「リフレ派」と呼ばれる方々とおいそれと与するわけにはいかないと考えてしまうのです。

machineryさんのように、経済政策論としては広い意味でのリフレ派に属するにもかかわらず、ネットリフレ派の行状のために、その批判派に転じた方に、一部で有名なHALTANさんがいます。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20101229/p1[無題]リフレ派(ネットリフレ派)の政治的アクション=切れば血の出るリアルポリティックスとは?)

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20101230/p1[無題]日夜厳しい経済学専門知的研鑽=政治的アクション=切れば血の出るリアルポリティックスに命懸けで邁進されて居られる処のリフレ派(ネットリフレ派)聖戦士のみなさまへ)

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20101231/p1[無題]笑わせるな。)

まあ、このHALTANさんの文体には人によって好みがあるでしょうから、必ずしも万人向けとは言い難いかもしれませんが、期間限定で1月6,7日には削除されるそうなので、怖いもの見たさでご覧になるのも一興かも知れません。

2010年12月30日 (木)

本ブログの人気エントリ:はてぶとついった

ブログ記事の評判を測る物差しとして、よく使われるのが「はてぶ」と「ついった」ですが、両者の人気エントリのランキングを見比べると、なぜかかなりの違いが見られ、その理由がどの辺にあるのか、興味深いところです。

まず「はてぶ」では、

http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=count&url=http%3A%2F%2Feulabourlaw.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F

湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚260 users

「一般職に、男ですよ」・・・でどこが悪いの? 231 users

湯浅誠氏のとまどい201 users

年金世代の大いなる勘違い200 users

「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい117 users

スマイル0円が諸悪の根源100 users

クビ代1万円也97 users

池田信夫氏の3法則93 users

といったラインナップですが、これが「ついった」になると、

http://tweetbuzz.jp/domain/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/popular

湯浅誠氏のとまどい602tweets

年金世代の大いなる勘違い133tweets

大名行列吹いた:経済的民主主義の欠如と生産性の低さ110tweets

「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい76tweets

スウェーデン海賊党が児童ポルノ解禁を主張75tweets

スマイル0円が諸悪の根源72tweets

「コミュニケーション能力」論の罪59tweets

といった塩梅で、どちらも湯浅さん関係がダントツですが、並んでいるのはかなり異なり、はてな族とついった族の性向の違いみたいなものも現れているのでしょうかね。

まあ、せっかくですから、年末のお蔵だしということで、リンク先などを眺めていただければ幸いです。

2010年12月29日 (水)

久谷與四郎『労働関係はじめてものがたり×50』

全国労働基準関係団体連合会(全基連)より、久谷與四郎『労働関係はじめてものがたり×50』をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.zenkiren.com/tosho/new-book.html

本書については、巻頭の「寄せて」を書かれている労務屋こと荻野勝彦さんが、すでに「ちょっとフライングですが」といいながら、ご自分のブログでご紹介されています。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20101227#p1([読書]久谷與四郎『労働関係はじめてものがたり×50』)

これをめぐって、本ブログで

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-7f04.html(労働関係の基本的な分け方)

労務屋さんがさらに

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20101227#p2([日記]追記)

というやりとりなどもありましたが。肝心のこの本の中身がほったらかしではいけませんね。

実はこの本、日本の労働問題を時間軸の中で考えようという人にとっては、山のような宝庫なのです。

以下に目次を掲げますが、

はじめに 
第1章  賃金・労働時間
1 八時間労働制・・・日本を動かした松方の英断
2 家族手当・・・戦時下・物価騰貴の下で制度が定着
3 ボーナス・・・世界に例のない、特異な日本の賞与
4 退職金・・・時代ごとに、さまざまな役割と性格を担う
5 定期昇給制度・・・戦時下の「賃金統制令」で現在の形に
6 三六協定・・・労使協定による残業抑制を期待
7 通勤災害保護制度・・・問題提起から10年、難産のすえ発足
8 生理休暇・・・女性教員だけの決起集会が発
9 年次有給休暇・・・’まとまった休暇’から離れた日本の姿
第2章  雇用
1 終身雇用制・・・経営のニーズに労働者の安定志向がマッチ
2 定年制・・・海軍工廠が発祥の地
3 ワークシェアリング・・・失業の「緊急避難」から「働き方改革」へ
4 雇用調整助成金・・・オイルショックの世論に押されて誕生
5 ハローワーク・・・江戸の医者のアルバイトから新商売
6 集団就職・・・高度成長経済を支え、推進力に
7 ニコヨン(失対事業の日雇労働者)・・・廃止に苦労した戦後混乱期の制度
第3章  法制
1 労働基準法・・・国際基準を目標に燃えた16人
2 労働組合法・・・GHQの民主化政策で一気に誕生
3 最低賃金第一号・・・静岡缶詰協会が誕生をリード
4 週休2日制・・・基準法に’ゴムひも’を付けて推進
5 40時間労働・・・基準法改正から10年をかけて移行
6 男女雇用機会均等法・・・みにくいアヒルの子が白鳥に
7 けい肺と労災保険・・・けい肺対策が給付体系の拡大を動かす
8 解雇のルール・・・解雇権を認めつつ、判例ルールで修正
9 失業保険・・・西欧諸国に遅れ、戦後やっと誕生
第4章  労働運動
1 労働運動発祥之地・・・運動の歴史を刻んで一世紀
2 日本最初のメーデー・・・上野公園で開催される
3 連合結成・・・悲願だった労働戦線統一の実現
4 近江絹糸の人権争議・・・労務管理の近代化を促す強い警鐘に
5 春闘の始まり・・・太田・高野の路線論争の中でスタート
6 「春闘」という用語・・・変遷さまざま、時代を反映
7 労働歌「がんばろう」・・・三池闘争の対決の中から誕生
8 大幅賃上げの行方研究委員会・・・危機的インフレに賃上げガイドライン
9 賃金自粛論・・・賃金闘争に秘められた主導権争い
10 生産性三原則・・・労使に信頼と協力の関係を醸成
11 企業別組合・・・工員と職員の平等化に寄与
第5章  組織
1 労働省・・・戦後の労働改革のシンボル
2 労働基準監督制度・・・「国の直轄」「専任監督官」誕生の苦労
3 ILO(国際労働機関)・・・第1次世界大戦の反省から設立
4 日経連・・・経営者よ正しく強くなれ
5 社会保険労務士・・・人事労務・社会保険のスペシャリスト
6 シルバー人材センター・・・高齢者が自立して就労に生きがい
7 生産性運動・・・戦後の労使関係の枠組みを作る
8 労働金庫・・・労働者による労働者自身のための銀行
第6章  その他
1 野麦峠・・・日本の近代化を支えた少女たち
2 安全第一運動・・・アメリカから輸入した先達たち
3 安全週間・・・運動を仕掛けた3人の男
4 労働科学・・・最善の作業状況を科学的に研究し提案
5 過労死・・・不名誉な日本生まれの国際語
6 QCサークル・・・’日本の労働者’の特質を形成

かなりのエピソードが、わたくしにとってはとても懐かしく(別に経験したというわけではなく、『労働法政策』を書くときにひっくり返した資料を思い出したということですが)、一つ一つ語り出したらいろんな話のネタになっていくようなものです。

ここでは、荻野さんと並んで「寄せて」を書かれている連合の逢見副事務局長の言葉から、最近本ブログで話題の(?)生産性に絡む部分を。

>「生産性3原則」も日本の労働文化の主柱の一つである。戦後荒廃した経済の再建のためヨーロッパで始まっていた生産性運動をモデルにして、これを日本で推進するため「日本生産性本部」が1955年に設立された。労働側は、この生産性運動に当初は懐疑的であった。・・・こうした中で、生産性運動への「労働」の参加を促すために確認されたのが「生産性3原則」であった。・・・ここで強調しておきたいのは、「生産性3原則」に基づいた生産性運動が、日本の「労働文化」を形成してきたと言うことである。最近、日本は世界でも解雇が難しい国なので、「解雇規制を緩和すべき」という議論があるが、そのベースにあるこうした「労働文化」への理解なくして、浮ついた議論はすべきでない。

この経緯を、144ページからの「生産性三原則・・・労使に信頼と協力の関係を醸成」の項目では詳しく説明しています。日本の労働組合ははじめから生産性運動に協力的だったわけではなく、3原則を確認することで参加していったという事実は、労働関係者にとっては常識ですが、そうでない人々にとっては結構意外なことなのかも知れません。

本書では、もう一つ生産性運動に関する「生産性運動・・・戦後の労使関係の枠組みを作る」という項目が178ページから載っています。そこには、郷司浩平氏がヨーロッパの生産性運動を視察したときのエピソードが書かれています。

>西ドイツで郷司は、「労働組合は労働者の日々の生活を改善する団体だ」と言い切る労組幹部の柔軟さに驚き、これが奇跡の復興を遂げた西ドイツの真実だと知る。また、英国では、生産性運動に率先して音頭をとったのがTUC(英労働組合会議)だと聞かされて、「労使が協力して、立ち遅れ、あるいは戦争で消費されたイギリス経済を再建するという高い目標を持っている」と感嘆する。

当時の日本は、メーデー事件に続く破防法反対スト、電産、炭労ストなどの大規模ストが相次ぎ、労使の不信感が渦巻いていた。

そして郷司は、「日本でもこれをやらなきゃいかん。まさに戦後復興に役立つ最も有効な機関である」と決意を抱いて帰国した。・・・

ところが労働側が批判的でうまくいかず、そこから上の生産性3原則が出てくるわけですが、この1950年代半ばの時期には、ドイツやイギリスの労使協調路線が日本の見習うべきモデルと考えられていたということ自体、歴史の中に埋もれて、今やものごとを論ずる人々の頭の中にはあまり見あたらなくなっているように見えることも、まことに皮肉なことといえるでしょう。

今日の時点で改めて考えてみると、わたくしは欧米から輸入された生産性運動が日本の文脈で日本流にアダプトされながら普及していく中で、ある意味で日本独特の問題点もはらんでいくことになったのではないか、とも考えています。

それは、他の項目でいろいろ書かれている日本的な労働時間文化とも絡みますが、自動車産業を筆頭とする製造業においてはきわめて有効に機能した日本的な生産性感覚が、経済のサービス化の中で、必ずしもよい方向に進化していかなかったのではないか、という問題なのですが、これは展開すると結構大問題ですので、ここではこれだけにしておきましょう。

ワカモノ人材センター

本田由紀さんのつぶやきで、

http://twitter.com/hahaguma/status/19940916743643136

>某政府系の会議の休憩中、隣席の委員との雑談で、シルバー人材センターの仕組みを若い年齢層にも適用できないかと質問された。詳しく調べないと即断できないが、人材のスキルの向上とそれに見合った適正な価格設定がなされれば、可能性はあるのでは。民業圧迫と批判されないことが課題。

どういう会議で、どなたとの雑談かは存じませんが、「仕組み」を広義に解釈すれば、いわゆる「社会的企業」、日本で言うとワーカーズコープ、ワーカーズコレクティブ系の就業がそれに当たるとも言えます。

ただ、シルバー人材センターが「なだらかな引退過程」であるのに対して。こちらは「なだらかな労働市場への包摂過程」になるので、「仕組み」自体もかなり異なることになるはず。

こういう「ワカモノ人材センター」的な試みについては、JILPTの小杉さんたちのこういう研究があります。

http://www.jil.go.jp/institute/chosa/2010/10-068.htm(若者の就業への移行支援と我が国の社会的企業 ― ヒアリング調査による現状と課題の検討 ―)

2010年12月28日 (火)

大学教育と企業-27年前の座談会

今は亡き『経済評論』なる雑誌がその昔ありまして、その1983年12月号-ちょうど27年前ですな-が「曲がり角に立つ大学教育」なる特集を組んでおりまして、その中で中村秀一郎、岩田龍子、竹内宏の3人の「大学教育と企業」という座談会が載っています。

竹内宏と言っても最近の若い方はご存じないかも知れませんが、この頃大変売れっ子だった長銀のエコノミストです。って、その長銀も今は亡き長期信用銀行ですが。

そういう昭和の香り漂う座談会の会話を読むにつれ、「曲がり角に立」っていたはずの27年前からいったい何がどう変わったのだろう、という思いもそこはかとなく漂うものがあり、やや長いのですが、興味深いところをご紹介したいと思います。いうまでもなく、昔話のネタというだけではありませんで。

>竹内 企業にしてみると、大学は志操堅固なんです。志操堅固というのはどういうことかというと、自分の問題意識を持って、それを達成するために何かやろうということでしょう。つまり自分の人生の目的があって、それを達成するために企業を使ってやろうという人を今までは作ってくれているらしい。だから、そういうモラルがしっかりしている人だけもらって、育ててくれればいい。ですから、現在のところは、経済学でも何でもそうですが、専門的知識は全然要求していない。要求してもむだだから、その知識を企業は期待していない。ただ、そのモラルを期待している。

>中村 そうでしょうね。高度成長のちょうど中ごろ、昭和30年代の終わりごろですが、私は徹底的にフィールドワークをやるから、企業に出入りすることが多かったんですが、あの頃企業の偉い人が必ず僕に言うことは、「先生、大学はもうちょっと企業で役に立つ方法を教えてもらわなくちゃ困りますよ」と、こういうお説教が非常に多かった。ところが40年代に入ってから、それがなくなりましたね。これはあきらめムードだと思う。まず第一に、そんなことを大学に言っても無理だということになったと、僕は解釈しているんです。・・・

>岩田 半分は竹内さんのおっしゃるとおりですところが、私は反面ちょっと違う考えがあって、会社が全然期待してくれないから、学生がやる気にならないのだという見方をしているわけです。というのは、日本の企業は、終身雇用・・・という組織構造があって、入社してから教育し、あちこち部局を動かして、組織の中で教育しないと使いものにならない。そういう構造的な条件があり、企業の側は、ものすごく熱心に人材育成をなさる。大変精緻な教育システムができているわけです。

そこで、企業はどんな人材を採るかということになると、今おっしゃったように、大学で学んできた経済学とか経営学は、ほとんど問題にならない。優れた潜在能力を持った人たちが、意欲とかリーダーシップを大学時代に大いに鍛えていれば、後は企業が教育するからといわれる。そうなると、逆に学生の方は専門に対して不熱心になる傾向が、盾の半面としてあるんじゃないか。・・・

>竹内 企業がなぜ専門性を重視しないかといえば、猛烈に経済学をやったりすると、私はケインジアンだ、なんていいだす。そうすると、ケインジアンだから、今は財政を拡大しろと、それだけでしょう。これは困っちゃうんです(笑)。・・・だから、むしろない方がいいということで、かえって専門性が嫌われちゃう。怖くて採れないのです。

>岩田 ということは、日本の大学の現状は、企業にとっては理想的な状況になっているということになりますね。妙に専門性を叩き込んでいない。

ちなみに、座談会の冒頭で、司会の人が

>竹内さんの言葉を使えば「その他学部」である(笑)経済学部、経営学部に限定させていただきます。

と言っていますが、「その他学部」なんて言葉があったんですね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

池田信夫信者と小峰隆夫氏と

昨日のニコニコ生放送での私の発言について、例によって池田信夫氏のエントリのコメント欄で、信者とおぼしき方が、

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51601521.html

>ニコニコ生放送で、濱口桂一郎さんが出演されていました。司会の方が、アニメクリエイターの雇用を無理やり改善させようとしたら、海外へ雇用が移ってしまうのでは、という疑問に、その仕事がなくなれば、日本に仕事がなくなるかという話とは別だ、仕事のきつさもやりがいも報酬も低い仕事を無理やり残さなければいけないのか、他にいい求人があれば移る可能性がある、と発言されていたので驚きました。彼は、現状を理解しているのでしょうか?現状に対する認識の欠如と、官僚として安定した人生が世間でも当り前と考える世間知らずに呆れました。

と批判しています。

わたしは小峰隆夫先生ほど過激なことは言っているつもりはなくて、とりわけアニメクリエーターのように経済的価値だけでは測れない文化的価値のある職種までどうこう言ってるつもりはまったくないのですが、

http://twitter.com/Takao_Komine/status/19050913587011585

>【経済政策論20】来年度予算の「元気な日本特別枠」で、最低賃金を払えない中小企業を支援するという予算が計上されています。こういう企業を税金で助ける必要はあるのでしょうか。誠に申し上げにくいのですが、最低賃金も払えないような企業は、日本で業を営む資格はないと思うのですが。

社会的な意義とか価値ということを抜きにすれば、まっとうな経済学者ならこういう風に語るのが当たり前でしょうね。

わたしはそこまで過激に経済原理に忠実ではありませんので、たとえ最低賃金が払えないような職種であっても、社会的文化的さまざまな観点から日本に残すべきものは残すべきだし、そのために税金を使うことは単なる無駄ではないと思っています。ただ、そのツケを、そこで働く人々「だけ」に負わせるというのは、決して正当とは言いがたいでしょう。

診療報酬を引き上げれば医療生産性は上がるよ@権丈節

先日の「スマイル0円が諸悪の根源」というエントリに関連して、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-107c.html

権丈先生が、以前書かれた「医療の生産性向上は国を挙げての課題!?診療報酬を引き上げれば医療生産性は上がるよ」という「勿凝学問」を本日再アップされています。

同じ話の医療版なんですが、こういうことが分からずにただでさえへとへとの医療関係者をさらに鞭でしばけば生産性が上がると思いこんでいる人々には有用なエッセイでしょう。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare96.pdf

>日本の医療の生産性が低いというのは出席者周知のこと、その原因が、診療報酬と制度改定により医療費が政策的に低く抑え続けられてきたからというのも出席者周知のこと。医療生産性を上げたいのであれば診療報酬を引き上げればよいのである。

>ついでに余計なことを言っておくと、必ずしも生産性は付加価値生産性で測る必要はなく、生産物で測った物的生産性を見ることもある。そこでいま、医療の生産性を、医師1人当たりの取扱患者数で見ようとすれば、わたくしが「医師の多忙さを推し量る一次接近」と呼んでいる図を見ればよいことになる。

>う~んっ、日本の医師はアメリカの5倍ほどはたらき、日本はアメリカの5倍ほどの物的生産性を示しているとしか読み取れないですねぇ、これは。

で、このエッセイの最後には、、『岩波 現代経済学事典』における「生産性」の解説が引用されています。

生産性について何事かを騙ろうという人は、せめてこれくらいの常識は身につけてからにして欲しいものですね。

>・・・エコノミスト、新聞などが誤って使っている場合が多いので、その内容を厳密に定義する必要がある。いま投下労働量をl時間とし、それによって生産された生産物をqとすると、労働生産性はq/lであり、労働当たりの物的生産性である。したがって、生産性の比較は、工場内の同じ工程をとって比較する以外ない。たとえば、乗用車の組立工程を日米間で見ると、1人1時間当たり、もっとも効率のよい工場同士で、日本1に対して、米国0.35であり、塗装工程で、最頻価日本1、米国0.5(いずれも1981年)である。しかし、通常エコノミストや新聞が用いる生産性は付加価値生産性で、価格をp、製品当たり原材料費をuとすると(p-u)q/lである。したがって、価格の高い米国の自動車産業が、物的生産性q/lは小さくても、付加価値生産性が高くなることがあり、日本は生産性が低くなる可能性がある。

経済的民主主義の欠如と生産性の低さ

本日届いた『月刊マスコミ市民』1月号に、先日台北で開かれたソーシャルアジアフォーラムを主催してこられた初岡昌一郎さんが「グローバル化時代における社会民主主義の基礎構築を目指して」という文章を書かれています。

ケネス・ボールディングの『20世紀の意味』(これ、大学に入って最初のゼミで最初に読まされた本ですが)を引用しつつ、壮大な議論を展開されていますが、ここではそれほど壮大ではないけど、今の日本にとってとても重要な部分を若干引用しておきたいと思います。

日本の生産性の低さの原因がどこにあるのかについての、もう一つの重要な指摘です。

>経済的民主主義の確立に必要なのは、経営参加制度だけではありません。ILOが出している報告書によれば、北欧の労働生産性は日本の倍も高いのです。あれだけ日本人が働いているのに、日本の労働生産性が低いのはなぜなのでしょうか。それは、労働が非効率的非合理的に組織されているので、無駄が多いことによるものですこれは、職場における民主主義の欠如とその裏腹の関係にある権威主義のためです。

>例えば、スウェーデンの首相が国際会議に出かける際、自分で車を運転していくか、せいぜい秘書に運転させていきます。また、演説するときに使うのは簡単なメモくらいです。ところが、日本の首相が国連で演説するとなれば、まず各章から原案を集め、官房でさまざまな調整をします。行くときには、外務省の大臣や局長、他の省からも同行します。そして首相のおつきだけではなく、大臣や局長のおつきも必要になり、飛行機一台でも足りなくなります。スウェーデンでは2,3人でやっている仕事を、日本では500人から800人かけて行っています。この場合、首相の生産性は何百分の一となります。会社の社長も同じで、おつきが何人もついていきます。封建時代の大名行列の名残か分かりませんが、そんな国は他にありません。アメリカでは社長が一番忙しいといいますが、日本では上の人は仕事をしません。社長を辞めた後は顧問などになりますが、この人たちの生産性はゼロで、むしろマイナス要因です。労働者の生産性には問題なくても、使用者と経営の生産性が低い。日本はあまりにも膨大な管理監視機構と、それから派生するさまざまな弊害を抱えています。・・・

>スウェーデンなど北欧の社会と比較した場合、日本ではあまりにも無駄な作業が多い。なぜなら、経済的民主主義が十分ではなく、権威主義がそれを助長しているからです。上の人を立てなければならない、上の人に恥をかかせてはいけないという、250年、300年前の封建時代からの伝統が我々の意識の下にあり、戦後の民主主義時代の中でも生き残っているのです。・・・

経済的民主主義の欠如と権威主義の残存が、とりわけ経営陣の生産性の低さの原因になっていて、労働者レベルの生産性の高さを無にしているという指摘です。

小難しいインテリ認定

ということで、

http://twitter.com/magazine_posse/status/19409181555564544

>さっきのニコ生、濱ちゃん×ひろゆき、もっとおもしろくできたはずなのに、濱口さんが単に小難しいインテリ認定をされたみたいで悔しい。ニコ生じたいが難しいとはいえ、もっとファシリせねば。すみませんでした…。

まあ、世間全体の中で言えば「小難しいインテリ」であることは間違いないわけで。

わたしの「小難しい」議論を面白がるためには、既成の労働分野の議論の仕方を知っていて、それをどう斜めにずらして語っているかがわからないと、面白くないでしょうね。

まあ、でも逆に、そういう土俵がない中で、それなりに伝わるべきことは伝わったのではないかと自分では思ってます。

しかし、目の前をあれこれの書き込みがひゅるひゅる流れていくのを見ながら、喋っていくというのは、なかなか脳味噌のマルチタスクを要求する技ではありますね。結構疲れました。

2010年12月27日 (月)

求職者支援制度の財源

連合が、「2011年度政府予算案の閣議決定に対する談話」を公表しています。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/danwa/2010/20101224_1293183647.html

その中で、雇用対策に関わって、

>しかし、連合が求めてきた「求職者支援制度」の財源が公費負担ではなく、雇用保険制度の付帯事業として労使の負担とされたことに加え、雇用保険の失業給付に対する国庫負担1/4の本則復帰がまたも先送りされた。政府は「雇用重視」を掲げているにもかかわらず、これらの財源を確保できなかったことは極めて遺憾である。

と批判しています。

これは、まあ確かに本筋から言えばそうなのです。ヨーロッパ諸国では労使の拠出による失業保険でカバーしきれないところを一般会計による失業扶助で面倒見ているわけで、その失業扶助に当たるものを雇用保険勘定で面倒見ようというのは筋違いである、というのが、まあ第一義的には正しいのです。

ただ、とはいいながら、高橋洋一氏のごとく同じ厚生労働省だからというだけの理由で全然関係のない施策に流用しようというのとは全然異なり、そもそも同じ労働市場政策のなかでの財源調達の話ですから、第二義的くらいには正当性があるだろうとは思っています。

経済学的に言えば、拠出制の失業保険制度の外側に無拠出の失業扶助制度を設ける際に、それを前者の拠出者から無拠出者への移転という形で行うという制度になるわけですから、労働市場における連帯という観点からすれば十分正当化できるとも言えます。

現在、求職者支援制度の制度設計は労政審雇用保険部会で大詰めに入っていますが、労働市場のあり方にも関わる重要な制度ですので、注目する必要があります。

池田信夫氏の詭弁術

さて、下記エントリの高橋洋一氏と

>著者(高橋洋一氏)とは経済産業研究所の同僚だったころからほとんど意見は同じで・・・

>先日のニコ生では、著者も「労働市場などの構造問題については池田さんと意見は同じだが・・・

と、そのアンチ労働主義において熱烈なエールの交換を繰り広げている池田信夫氏が、みごとな第1法則及び第2法則の実例を展開しています。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51601521.html(コメント欄)

>私は契約社員に対する厚労省の規制が雇用を減らしてさらに悲惨な結果をもたらすと批判しているのに、この御用学者はその論点にはふれないで、OECDが「有期労働者の保護」を求めているというトンチンカンな反論をしている。

契約社員の雇用を「一時的な業務」に限定する「入口規制」は彼らの雇用を減らし、正社員にするよう強制する「出口規制」は規制を恐れる企業が契約社員の雇用を減らす結果になるだけで、「有期労働者の保護」にはならない。こんなことは1+1=2ぐらいわかりきった話。算数もできない御用学者が、労組の機関紙で彼らに媚びを売る図は醜い。

最後のところの第3法則全開の台詞はいつもながらですが、それは読者の彼の人格への信頼感がどうなるかというだけのことなので、ここではスルーしておきます。

池田氏にはいつものことながら、彼は「スウェーデンは解雇自由だ!」とか、「OECDは有期労働者の保護ではなく、正社員の解雇規制緩和だけを求めている」という、それ自体としては価値判断抜きの事実認識として真偽が判定できる命題の形で自分で提起しておいた問題を、自分で勝手に「そもそも労働者保護は正しいか間違っているか」という価値判断命題にすりかえてしまう傾向があります。

ひとつ、他分野で例を挙げましょう。ある教祖様が「神は存在する!」と主張し、信者たちがそれに唱和している限り、それはそれでしゃあない話ですが、もしその教祖様が「あのドーキンス博士も神は存在すると述べた!」などと虚偽を騙りだしたら、「いや、あんたが神を信ずるのは勝手だが、ドーキンス博士はそんなことは言っていないぞ」ときちんと事実を指摘しなければなりません。

池田信夫氏の「第2法則」とは、まさにこの種の虚偽が多いのです。

これに対して、「いや、ドーキンス博士がどう言おうが、神は存在する!」と熱烈な信者が信ずるのはもうどうしようもありません。そこまで面倒見られません。しかし、「第2法則」によって、「あのドーキンス博士までが神の存在を信じているのであれば、やはり神を信ずるべきかなあ」と思わず考えてしまう善男善女がいるとすれば、「いや、ドーキンス博士はそんなことは言っていないぞ」と指摘することには一定の意味がありましょう。

私のやっていることはしょせんその程度のことでしかありませんが、それにしても、「あのスウェーデンが首斬り自由というのなら、やっぱり池田信夫氏は正しいのかなあ」とか「あのOECDがそこまでいうのなら、やはり池田信夫氏を信ずるべきだろうか」などと思いまどう善男善女の皆さまに、より的確な判断材料を提供するという作業にも、それなりの意味はないわけではなかろうと考えているわけです。

その意味では、私の書いた記事は始めから池田信夫イナゴ諸氏を「改宗」させることなど目的としていません。熱烈な信者は、いかにスウェーデンの解雇法制の詳細を目前に示されようが、OECDの報告書の記述を並べ立てられようが、そんなものととは何の関係もなく、始めから池田信夫氏の一言一句を崇拝することに決めているのですから、何を書いても徒労です。

おそらくこのエントリに対しても、教祖池田信夫氏を始めイナゴ諸氏がますますボルテージを上げて誹謗中傷を加えてくるでしょう。そんなことは分かっています。

大事なのは、実際にスウェーデンの解雇法制はどうなっているか、OECDの報告書はどういうことを言っているかという事実命題に関心を持ち、それによって判断しようと考えている健全な読者の皆さまに、きちんと事実の真偽が伝わることです。その事実認識の上で、読者がいかなる価値判断をするかは、いうまでもなく読者一人一人に委ねられています。本ブログは得体の知れない教団のたぐいではありませんので。

以下、事実認識レベルの問題としてお読み下さい。

https://www.joho.or.jp/report/report/2010/1010report/p30.pdf(スウェーデンは解雇自由だって!?)

>たとえば上武大学教授の池田信夫氏は、2009年に桜プロジェクト「派遣切りという弱者を生んだもの」というテレビ番組の中で、「僕の言っているのに一番似ているのはスウェーデンなんですよ。スウェーデンてのは基本的に解雇自由なんです。いつでも首切れるんです、正社員が

>前半は明らかなウソである。
 その証拠はスウェーデンの労働法規を読めばわかる。幸いスウェーデン政府は法律をすべて英訳してくれているので、誰でもアクセスできる。
解雇法制は1982年の雇用保護法に規定されている。客観的な理由のある場合には1~6カ月の解雇予告で解雇できるが、労働者が訴えて客観的な理由がないとされれば解雇は無効となり、雇用は維持される。
ただし、使用者の申し出により金銭補償で雇用を終了することができる。
 また整理解雇に際しては厳格なセニョリティルールが適用される。
さらに、解雇規制の潜脱を防ぐため有期契約の締結にも客観的理由が必要で、3年を超えると自動的に無期契約になる。解雇自由などといえるところはどこにもない

http://www.joho.or.jp/report/report/2010/1012report/p30.pdf(OECDが求めているのは規制の緩和だけなのか!?)

> 「厚労省の研究会の鎌田耕一座長(東洋大教授)は、朝日新聞のインタビューに『OECD(経済協力開発機構)は日本には労働市場の二重性があると指摘している』と答えている。これを聞くとOECDは契約社員の規制強化を求めているように見えるが、逆である。OECDの対日経済審査報告書では、『雇用の柔軟性を目的として企業が非正規労働者を雇用するインセンティブを削減するため、正社員の雇用保護を縮小せよ』と書いている。鎌田氏とは逆に、OECDは正社員の雇用規制を緩和せよと勧告したのである

逆である」「逆に」を連発しており、どう読んでも、OECDは正社員の規制緩和「のみ」を求め、契約社員の規制強化は否定しているとしか読めません。

これで平然と、「私は元の記事のどこにも「OECDが求めているのは規制の緩和だけだ」などとは書いていない」などとシラを切れるのですから、教祖様というのはいい商売ですね。

>OECDが具体的にどういうことを日本に求めているのか、『日本の若者と雇用 OECD若年者雇用レビュー:日本』から、そのまま引用しよう。

> 「…正規雇用と非正規雇用の保護の格差を減らすという観点で雇用保護規制が改革されうる。これには正規契約をしている労働者の雇用保護規制の厳格性を緩和する一方で、有期労働者、パートタイム労働者、派遣労働者に対する保護を強化することが含まれるだろう。前者の一つの選択肢は、正規契約をしている労働者の解雇事案の解決のため主に判例法理に依存した現在の手続きよりも、より明確で、より予測可能で、より迅速な手続きを導入することだろう。これらの改革措置は労使団体の参加により確かに計画され実施されることが重要であろう。労働市場の二重構造の拡大に対処するため、賃金と各種給付上の差別待遇に取り組む上で、さらにすべきことがある。
たとえば、差別禁止法を施行し賃金その他の手当における差別的慣行を減らしていくことで、非正規労働者を採用するインセンティブを弱めるだろう」

ちなみに、OECD加盟国の大半を占めるEUの有期労働契約に対する規制については、この文章を参照。これが先進国の世界標準といえます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roujunfixed.htmlEU有期労働指令の各国における施行状況と欧州司法裁判所の判例

いや、もちろん、OECDがどう言おうが、EUがどういう指令を作ろうが、そんな邪教は無視して、ひたすら教祖様の声のみを聞きたがる方々を説得しようなんて大それたことは考えておりません。ただ、事実を侮蔑しない方々に、事実が届けばそれで目的は達せられます。あとは一人一人は自立した精神で考えることですから。

(参考)

>池田信夫氏の第1法則:池田信夫氏が自信たっぷり断言していることは、何の根拠もない虚構である蓋然性が高い。

>池田信夫氏の第2法則:池田信夫氏がもっともらしく引用する高名な学者の著書は、確かに存在するが、その中には池田氏の議論を根拠づけるような記述は存在しない蓋然性が高い。

>池田信夫氏の第3法則:池田信夫氏が議論の相手の属性(学歴等)や所属(組織等)に言及するときは、議論の中身自体では勝てないと判断しているからである蓋然性が高い

2010年12月26日 (日)

カラ求人の雇用システム的原因@OECD

労務屋さんが取り上げ、

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20101224#p1

シジフォスさんもコメントしたとなれば、

http://53317837.at.webry.info/201012/article_26.html

やはりひと言コメントしておきましょうか。

ただ、この現象自体はよく知られていることですので、OECDの優秀なエコノミストによる分析をご紹介しておきます。

先日公表されたOECDの「Activation policy in Japan」(日本のアクティベーション政策)の中で、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/oecd-7b79.html

http://www.oecd-ilibrary.org/social-issues-migration-health/activation-policies-in-japan_5km35m63qqvc-en

76頁から77頁にかけてのところですが、

>221. By contrast, the job-filling rate (also called job-offer satisfaction rate) in Japan seems to be lower than in most other countries. The already-low rate fell further after 2002, although it then rose abruptly in the economic crisis when fewer job openings were forthcoming for a greater number of jobseekers. Related to the system of lifetime employment, job descriptions in Hello Work job announcements are far shorter than would be typical, for example, in the United States. Employers are willing to train employees as the need arises, and regard willingness to learn and motivation to work as more important than technical skills (Shniper, 2008). With a view to long-term employment, employers tend to keep a vacancy posted with Hello Work on a quasi-permanent basis, rather than posting a vacancy for a specific post aiming to fill it rapidly.

>対照的に、日本の充足率は他の多くの国よりも低いように見える。この既に低い充足率は2002年の後さらに低下したが、経済危機で求人が激減し求職者が増大すると突然跳ね上がった。終身雇用制度に関連して、ハローワーク求人の職務記述は、たとえばアメリカにおける典型的なものよりもはるかに短い。使用者は必要に応じて労働者を訓練しようとし、学習意欲や仕事へのやる気を技能よりももっと重要だと見なしている(Shniper,2008)。長期雇用の観点から、使用者はすぐに充足する目的で特定のポストのための求人を出すのではなく、ハローワークへの求人を準恒常的に掲示し続けようとする傾向がある

ジョブ型の求人ではないことが、特定ポストのためではないのに求人が準恒常的に出される原因であると、的確に見抜いています。

こういう分析ができるエコノミストがOECDにはちゃんといるのですから、OECDの分析は信頼がおけます。

ちなみに、本ブログでも予告してきたように、本報告書はわたくしが翻訳して、明石書店から出版される予定です。日本語でお読みになりたい方はそれまでしばらくお待ち下さい。英語版は上のリンク先で自由に読めます。

読書メーターでひさしぶりに拙著書評

「読書メーター」で、久しぶりに拙著へのコメントがつきました。「yamikin」さんという方。

http://book.akahoshitakuya.com/u/26991/commentlist

>法制史を踏まえた今日の雇用問題に関する分析がメイン。我が国の雇用は年齢、職業、正規/非正規と複雑化しまくっている。そんな社会で最適な法制度を整備するのはとても困難だ。確かにそういった多様性や複雑さは社会学や思想で語られてきたが、だからこそこれらの学問には現実への「適用限界」があるのではないか。複雑さゆえに分析はできても「作戦」は立てられない。労組が一部の労働者のみの既得権益保護に終始しているゆえにそれを拡大していくべきではあるのだけど、今日ますます弱まる組合が拡大していく可能性などあるのだろうか。

まあ、いかなる学問であっても、「学問には現実への「適用限界」がある」のですね。

それを認識しているかどうかが研究者の真贋を顕すわけですが。

高橋洋一氏のインチキをbewaardさんが暴く

論点自体はすでに繰り返されたことですが、高橋洋一氏がその著書でいかにインチキなことを騙っているかを、bewaardさんが再び的確に指摘しておられます。

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20101226(高橋洋一「バランスシートで考えれば、世界のしくみが分かる」)

>今般、とある中傷を受け、このままでは不当な評価が定着するおそれがあることから、自らの約束に反し本来すべきでないことは承知の上、この中傷関連に限定して、連載ではないエントリを書かせていただきます。

・・・・・

>webmasterの主張を不当に歪めての印象操作に加え、「官僚が使う常套手段」などと人の属性に事寄せた中傷をする前に、ご自身が書かれた上の文章がご自身に当てはまることがないか、お考えになられた方がよろしいのではないでしょうか、高橋先生。

まあ、池田信夫氏に

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51512394.html

>著者(高橋洋一氏)とは経済産業研究所の同僚だったころからほとんど意見は同じ

といわれるぐらいですから、こういう第3法則の全開ぶりもそっくりということなのでしょう。

ある種の労働政策・社会政策憎悪型リフレ派に共通の性格類型なのでしょうね。

ここでは、bewaardさんの内容面の指摘(「厚労相の一声」か「法改正」か)に付け加えて、一点だけ。

そもそも、いかなる法律も趣旨目的があり、そのための手段として施策が規定されているのであって、そういう法の哲学的側面を欠落させた(ある種の傲慢なケーザイ屋に顕著に見られる)過度の法形式主義は、論者自身の法的素養の欠如を露呈させます。

雇用保険法で言えば、雇用施策のために使うからという理由でわざわざ雇用に責任を有する使用者に負担を求めているのですから、それを使用者に責任のない事態に流用しようというのは、そもそも法の根本趣旨に反します。国会は何でも出来るからとそういう法改正をするならば、自分たちに関係のないことに使われることを拒否して雇用保険料の支払いを拒否し、裁判所に違憲立法審査を求めるべきでしょう。

少なくとも近代法治国家とはそういうトータルな体系をなしているのであって、独裁者が好きなようにペンで書き込める(高橋氏一派がお好きらしい)人治国家ではありません。

(注)

上記「ある種の労働政策・社会政策憎悪型リフレ派」に、もちろん松尾匡さんなどの立派な方々は含まれません。当然のことですが、印象操作する御仁もおられるので念のため。

2010年12月25日 (土)

労働関係の基本的な分け方

労務屋さんが、久谷與四郎・全基連編著『労働関係はじめてものがたり×50』への推薦文を「ちょっとフライングですが」といいながら、ブログでご紹介されています。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20101227#p1

>かつては優れたシステムとして評価されていた「日本的雇用慣行」ですが、最近ではいささか旗色が悪いようです。過労死やワーキングプア、ワークライフバランスなどといった問題に関して「長期雇用、職能給、企業別労組といった日本の雇用慣行に根本的な問題がある。職種別労働市場、職務給、職種別労組へと抜本的な改革が必要だ」といった主張が、不思議なことに自由主義者からも社民主義者からも聞こえてきます。前者が米国やカナダなど、後者が北欧や大陸欧州などという違いはありますが、日本のあり方を否定して海外に範をとろうという発想も共通しています。

>・・・とりわけ労使の当事者にとっては、過去の先達たちの苦心と努力に対して深い思いを抱かせるものと思います。たしかに現在の労働市場、人事管理には問題もあるでしょうし、矛盾もあるでしょう。とはいえ、この本に描かれた過去に較べれば、ずいぶん「マシ」なものになっていることも間違いありません。それは先達の試行錯誤と悪戦苦闘の貴重な成果であり、歴史の必然(と偶然)でもあるのです。

 そう考えると、たしかにあれこれ問題はあるにせよ、日本のやり方をすべて放棄して米国や北欧のようにすればいい、と考えるのはいかにも乱暴だという印象は禁じ得ません。

>何度も繰り返しますがたしかに問題はあります。これからも新しい問題が出てくるでしょう。しかしこの本を読めばわかるとおり、過去をみても新たな問題が出てこなかった時代などなかったのです。そして、労使を中心にさまざまな努力、交渉と互譲と妥協を積み重ねてこんにちがあります。この本を読んだら、今後の私たちにはそれができません、などとは諸先輩にあまりに申し訳なくまた恥ずかしく、とても言えないでしょう。

どうも、ここで批判されている「日本のあり方を否定して海外に範をとろう」とする「社民主義者」にわたくしも含められているようですので、わたくしの基本的な考え方を申し上げておくのも無意味ではないと思います。

まず、労務屋さんは「日本的雇用慣行」とそれ以外で分けて、前者を守るのか否かで基本的な分類をしておられるようなのですが、わたくしはマクロ歴史的に見れば、「日本的雇用慣行」も広い意味での社会民主主義の一部だと考えています。

産業革命以来の自由な市場と生身の労働者との矛盾をどうするかという問題に対して、市場原理絶対でもなく、市場原理否定でもなく、両者をうまく組み合わせながら、企業にとっても労働者にとってもウィン・ウィンの関係が維持できる仕組みを作り上げようという考え方が、今世紀半ばから後半になって多くの先進国で浸透していきました。アメリカのニューディールからドイツの社会的市場経済、そして戦後日本の労使が創り上げた日本的雇用慣行も、この広い意味での社会民主主義の一種です。それはかならずしも政治的な社会民主主義政党と結びついたものでもありません。ドイツ等の社会的市場経済はキリスト教民主主義と密接な関係があります。

このさまざまな「資本主義のバラエティ」の中で、アングロサクソン諸国は1980年代以来市場原理への傾斜を強め、一方ドイツなど西欧諸国は福祉国家の見直しを余儀なくされていきました。

その中で、日本が日本的システムへの自信を却って強めた80年代を経て、90年代に一気に市場原理に傾斜し、最近になってその揺れ戻しがくるというような変転があったために、ものごとの大きな筋道が却って見えにくくなっているように思われます。

いかなるシステムも労務屋さんの仰るように「過去をみても新たな問題が出てこなかった時代などなかった」のですから、常に「試行錯誤と悪戦苦闘」が必要なのですが、その根幹に位置するのは、依然として「自由な市場と生身の労働者との矛盾をどうするかという問題」であることにかわりはありません。

いつの時代であっても、その時代の状況により適合した「企業にとっても労働者にとってもウィン・ウィンの関係」をどう構築できるかという問題を一歩でも二歩でも解決するために、労使始め多くの人々が知恵を絞っているのではないでしょうか。

たまたまある時代環境の中で、当時の労使が「自由な市場と生身の労働者との矛盾をどうするかという問題」を解決するために、その時利用可能な素材を駆使して創り上げた「日本的雇用慣行」という一作品にこだわることよりも、それによって解決しようとした普遍的な課題を、今の日本の時代状況の中で利用可能な素材を使ってどういう風に解決できるか、という風に、問題を設定した方が、より適切であるように思われます。

実は、これはまさに15年前の日経連が「新時代の日本的経営」の中でとろうとしたスタンスでした。わたくしはそのスタンス自体は適切であったと思います。ただ、15年後の現在から見れば、その処方箋は適切なものでなかったことは明らかであるように思えます。

現在の課題は、処方箋を間違えてしまった「新時代の日本的経営」をどう書き換えるか、ということではないでしょうか。その問題意識を「日本のやり方をすべて放棄して米国や北欧のようにすればいい、と考えるのはいかにも乱暴だという印象は禁じ得ません」と切って捨てるのは「いかにも乱暴だという印象は禁じ得ません」。

もちろん、そういう「乱暴」な人々もいますけれどもね。

間接雇用と製造業の生産性

New_3 さて、『日本労働研究雑誌』1月号では、恒例の労働経済白書をめぐる座談会が載っています。

平成22年版労働経済白書をめぐって――産業社会の変化と雇用・賃金の動向

安部 由起子(北海道大学大学院公共政策学連携研究部教授)

石水 喜夫(厚生労働省労働経済調査官)

大湾 秀雄(東京大学社会科学研究所教授)

篠崎 武久(早稲田大学理工学術院創造理工学部准教授)

石水さんにとってはあまり本筋ではない話題かも知れませんが、わたくしにとって大変興味深かったのは、篠崎さんと大湾さんが指摘されていた間接雇用の拡大によって製造業の生産性が見かけ上かさ上げされているのではないかという点でした。

>篠崎 ・・・これはやはりデータの話で、細かいことなのですけれども、労働投入量と、生産性との関係についてです。例えば総生産が拡大しても就業者数が伸びないという話がありましたけれども、おそらく生産現場で製造業にカウントされない就業者を使っていることの影響があると思います。派遣や請負だとサービス業に分類されてしまいますから、製造業の雇用者としてカウントされません。派遣や請負を使っていれば、生産額は伸びますけれど、就業者数は伸びないという話になる。とすれば、もしある分野において、生産額と就業者数との関係を正確に見たければ、生産に投入した実質の労働投入の総数を何らかの形で推定しないと、おそらく関係は見られないのではないか。・・・

>大湾 ・・・生産性のデータを使う場合は、本当に注意深くやらないと行けないと思うんです。というのは、いろいろな要素がそれをねじ曲げる方向で働いていますので、例えば今、派遣の話がありましたけれども、正社員が派遣に切り替わったときに、派遣社員が何をやっているかというのは、統計をつくる側は分からないので、派遣への支払いは投入コストとして測るわけです。そうすると、社内の正規従業員がつくっていれば200円かかったものが、派遣の人がつくると100円で済む場合、高い人件費が低い投入コストに切り替わることで、正規従業員一人あたりの付加価値はその分上がってしまう。本当は生産性が上がっていない。生産性は上がっていないんですが、社内から外部調達へ切り替わった労働の中身を統計をつくる側が把握できないために、生産性を大きくカウントしてしまう可能性がある。・・・

生産性という概念は、サービス業自体の拡大であれ、製造分野内部におけるサービス提供業者(派遣や請負)の拡大であれ、経済のサービス化が進めば進むほど、一筋縄ではいかなくなるのですね。

こういう難しさを念頭に置いて論じられなければならないことを、そこらのオッサンに毛が生えた程度の生産性認識で偉そうに語る御仁が横行するだけに、こういう専門家による的確な指摘は大切です。

三品和広・日野恵美子「日本企業の経営者――神話と実像」

New_2 『日本労働研究雑誌』1月号の特集記事のうち、あまり労働周りで見かけることの少ないトピックを取り扱っているのが、三品和広・日野恵美子「日本企業の経営者――神話と実像」です。

>本稿で神話と断じるのは「日本企業は現場とミドルでもつ」という通説である。この通説は1980年以降の現実を捉え、1990年前後に支配的な地位を獲得したものと思われる。実際に、戦後の日本を1965年、1980年、1995年、2010年という四つの断面で捉え直してみると、1995年以降の現実は通説と適合的であるものの、1980年以前の現実は通説と合致しないことが分かる。その意味で、通説は確立された日本企業が操業運転状態に入った時期を模写するに過ぎず、日本企業が飛躍の基盤を確立した時期を模写しているとは言い難い。さらに売上高ランキング上位50社と電気精密機器業界の全一部上場企業を比較してみると、いわゆる大企業中の大企業を見ているだけでは日本企業の中において創業経営者の果たした役割を過小評価してしまいかねないことがわかる。大企業の中の大企業にしても、高度成長期を牽引した経営者は在任期間が著しく長い。こうした分析を通して、本稿は日本企業の実像を浮かび上がらせる。

わたくしが述べてきたように、1970年代以降、内部労働市場志向の政策が基軸化するとともに、アカデミズムでも内部労働市場中心の理論が権威として確立していったわけですが、それと同時に企業自体の中でも経営者の内部労働市場化が進行していったという、知識社会学と産業社会学双方にとても興味深い知見を示す研究です。

最後の「おわりに」の文章が、著者らの認識をクリアに示しています。やや長めですが、引用。

>日本企業が飛躍の基盤を整えたのは、主に1960年代から1970年代初頭にかけてのことである。その時期に日本企業の経営を担ったのは、大企業中の大企業を除外して考えると、在任期間が10年を優に超える総業経営者が主力をなしていた。さらに、大企業中の大企業にしても、新卒採用された経営者が平然と10年以上は指揮を執っていたのである。日本企業論が台頭する頃には、この現実が変容を遂げており、誤った認識が市民権を得ることになったのは不幸としか言いようがない。日本企業は経営者不在どころか、強大な力を誇る経営者が築き上げたことを、我々は再認識すべきである。

>・・・この相関関係の裏側には、共通のドライバーが存在する。創業経営者が去った後の日本企業では、定期異動と遅い昇進(小池編 1991)を人事制度に組み込むことによって、厳しい社員間競争と、その帰結としての技能形成を促してきた。それは現場とミドルの組織能力(藤本 2003)を高める効果を発揮する一方で、経営者の就任時年齢を確実に押し上げ、在任期間の短期化を招く結果につながった。さらに、経営者になる人まで実務に長ける一方で、経営者としての修養を積む期間と機会は限られたものとならざるを得ない。要するに、日本企業の実態が経営者不在の日本企業論の主張に近づくにつれ、経営者機能の弱体化が進行し、その帰結として経営の戦略性、ひいては収益性に低下が起きたのである。

この手の議論で注意しなければならないのは、事実認識それ自体とそれに対する価値判断をごっちゃにしないことです。

この著者らの議論には、経営者主導の経営が正しいという価値判断が明らかに見られ、それに対して反発を感じる向きも多いと思われますが(私もその価値判断には自分なりの違和感がありますが)、ここで重要なのはそういう価値判断ではなく、歴史的事実認識のレベルにおいて、1970年代初頭までの時期が決してその後の時期に固定的な認識化した意味での「日本的」であったわけではなく、むしろ非「日本的」であったこと、「日本的」になったのは、1970年代半ば以降の時期であったということを、きちんと認識することでしょう。

政策論やアカデミズムについてわたくしが述べてきたことが、経営者の存在形態においても見事に対応しているという事実発見こそが、本論文の示すきわめて重要なポイントです。

2010年12月24日 (金)

小林美希『看護崩壊』

9784048700870 小林美希さんから『看護崩壊 病院から看護師が消えてゆく』(アスキー新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://ascii.asciimw.jp/books/books/detail/978-4-04-870087-0.shtml

>今、人知れず深刻化しているのが看護師不足問題。過酷な労働を強いられ、年間離職者10万人以上と崩壊寸前の現場を詳細にルポし、関係者からの改善策をまとめた、初めての「看護職から見た」医療崩壊の書。

ページをめくった最初の一行に、いきなり

>「職場では看護師が流産するのは当たり前と思っている」

という言葉が出てきます。

医師の過重労働については最近よく言われるようになり、本ブログでも何回か取り上げたこともありますが、看護師についてはその陰に隠れがちです。しかし、心身の疲弊から年間10万人以上が離職し続けるという状況は、まさに物言わぬ「立ち去り型サボタージュ」が起こっているということなのでしょう。

小林美希さんは『ルポ 正社員になりたい-娘・息子の悲惨な職場』『ルポ “正社員”の若者たち-就職氷河期世代を追う』と、若者労働問題のルポルタージュで有名ですが、今回は看護師という誰にとってもなじみがあるにもかかわらず、そして女性労働者の20人に1人を占める存在であるのに、その過酷な労働条件があまり話題になりにくい職種に着目して書かれたのですね。

同じアスキー新書には『雇用崩壊』というのもありましたが、こちらはいかにも玉石混淆で、どうしようもないのも入っていました。こちら『看護崩壊』は首尾一貫した世に訴える書としておすすめです。

(追記)

ちなみに、この本の235ページに、わたくしのコメントが1パラグラフ入っています。小林さんから取材を受けた部分です。

矢野眞和「日本の新人-日本的家族と日本的雇用の殉教者」

New 『日本労働研究雑誌』2011年1月号は、「日本的雇用システムは変わったか?」という特集です。

いろいろと興味深い論文が並んでいますが、ここではまず矢野眞和先生の「日本の新人-日本的家族と日本的雇用の殉教者」を。

矢野先生は、昨年から今年にかけて、日本学術会議の大学と職業との接続検討分科会でご一緒させていただき、ときとして激論になったこともあったりしたような気が微かにしたりしますが、それも含め、教育と雇用の問題についてきわめて高い見識の方で、本論文はそれが存分に現れています。

>・・・大学の日本的特性は、雇用システムだけでなく、大学の入口、及び教育システム全体を支える経済的基盤に深く関与している。世界に稀な日本的特質は、「18歳主義」「卒業主義」「親負担主義」の3つであり、この3つが、日本的家族システムの影響を強く受けて、ワンセットになっている。加えて、この日本的大学が、日本的雇用システムと深く連動している。つまり、日本の大学と新人は、日本的家族と日本的雇用に羽交い締めにされ、身動きが取れなくなっている。・・・根幹にある教育費の負担を再編成し、日本社会の仕組みを変える教育政策をとらなければ、就活問題として顕在化している日本の大学の困難を解決できない。

>日本の新人は「白無垢の花嫁」のようである。入社前に妙な色はついていない方がいい。白無垢を会社好みの色に育てることが優先されている。

>日本的大衆大学の3点セットを同時に改革しなければいけない。親負担主義という市場原理を前提にして、18歳主義と卒業主義だけを変えることはできない。

『協同の発見』に講演録が載りました

Kyoudou221 協同総合研究所の所報である『協同の発見』2010年12月号(221号)に、7月に行った講演の記録が載りました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/kyoudou1012.html

>濱口でございます。本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。
私はかつて労働省の役人として、いろいろなことをやってきましたが、最近はどちらかといえば研究系の仕事を行っています。片足はまだ実務的な感覚を持ちつつ、片足は研究者的な感覚になるという感じです。しかし、これは決して悪いことではないと思っています。労働や社会保障といった問題は、実務的な感覚を失うと、地に足のつかない空虚な議論になりがちな面もあります。しかし、逆にそればっかりやっていますと、なかなか全体を大きく見渡す事がむずかしくなるというところがあります。もっとも、私が、その両方をきちんと兼ね備えた議論ができているかどうかというのは、たいへん疑わしいところではあります。

今日は、昨年(2009年)7月に出版させていただいた「新しい労働社会」(岩波新書)という本の中の、ある意味エッセンスに当たるようなことを中心に、お話をさせていただきます。合わせて、協同労働の協同組合にダイレクトにつながるかどうかはわかりませんが、労働ということと、組織ということと、市場ということをどのように考えたらよいのか、若干法制的な観点で自分なりに整理してみました。それがこの「労働法政策」(ミネルヴァ書房、2004年)でまとめた内容ですが、それについても最後の方で少しお話をさせていただきます。

本日の主たる話題は、「日本型雇用システム」の分析ですが、私はこれを「正社員体制」と呼んでいます。戦後確立した日本型の雇用システムにはどういう特徴があるか、そしてどのような問題があるのかということを、歴史的な観点も含めてお話をしていきたいと思います。次に、「雇用システムの再構築」について。再構築というのはつくり直すという意味ですが、どういう方向をめざしてつくり直していくべきなのかということについて、私なりの意見を示しながらお話をしていきたいと思っています。最後に、「労働者参加の可能性」についてお話します。それでは、最初の所からお話をして参ります。・・・

それ以外の記事も興味深いのが多いですよ。「theophil21」としてつぶやいていらっしゃる野川忍先生の「協同労働の協同組合の可能性」という文章も載っています。

JILPTの派遣関係調査報告

労働政策研究・研修機構(JILPT)から、22日付で派遣関係の調査報告が2本発表されました。

報告書自体は

http://www.jil.go.jp/institute/research/2010/078.htm(人材派遣会社におけるキャリア管理に関する調査(派遣元調査))

http://www.jil.go.jp/institute/research/2010/079.htm(派遣社員のキャリアと働き方に関する調査(派遣先調査))

ですが、プレス発表資料が作られているので、そちらを一瞥された方がわかりやすいでしょう。

http://www.jil.go.jp/press/documents/20101222a.pdf(人材派遣会社におけるキャリア管理に関する調査(派遣元調査))

http://www.jil.go.jp/press/documents/20101222b.pdf(派遣社員のキャリアと働き方に関する調査(派遣先調査))

この調査研究の主任は派遣業界では結構有名な小野晶子さんです。

いくつも興味深い点があるのですが、それは是非リンク先を見ていただくとして、ここでは派遣元調査の最後の「今後の事業方針」というところを。

>今後の事業方針についてみると、派遣業界では、「業務請負事業」や「人材紹介事業」への拡大を検討している事業主の割合が高くなっている(図8)。
特に一般派遣での傾向が著しく、「業務請負事業の拡大」は57.7%、「人材紹介事業の拡大」が39.0%といずれも特定派遣を上回っている。特定派遣に関してみると、「派遣社員の高付加価値化による派遣料金の上昇」(25.8%)が「業務請負事業の拡大」(51.3%)の次に高く、質的競争による事業戦略を考えていることがわかる。

高付加価値化による派遣料金の上昇という戦略が望ましいのは言うまでもありませんが、一番人気が「請負化」であり「紹介化」であるというのは、まさしく本質を外した法規制によって、実態を何ら変えないまま看板の付け替えだけでものごとを処理するという、一番好ましくない方向に走りつつあることを、雄弁に物語っているように思われます。

こうやって請負化したもと派遣会社が、数年後にはまたもや偽装請負キャンペーンで叩かれてわさわさと派遣化するという未来のデジャヴが目に浮かびます。

大事なのは、事業法として派遣事業を規制することではなく、労働法として派遣労働者をきちんと保護する仕組みを確立することであるはずなのですが。

(とはいえ、労働者保護自体を目の仇にする連中もうろちょろしていますから、それもなかなか難しいのですが。そして、派遣業界はついついそういうろくでもない連中の藁にすがりたがるのです。先日の早稲田シンポでお話しした構図です。そうやって、派遣業界が「労働者の敵」と手を結ぶことで、ますます叩かれて事業規制が進むという悪循環)

2010年12月23日 (木)

『経営法曹』166号から「欧州視察報告」

下で、日弁連のデンマーク報告の話を書いたところ、本日、経営法曹会議から機関誌『経営法曹』が届き、その中に和田一郎さんの「経営法曹会議欧州視察団視察報告 デンマーク・オランダ・フランス・EUの非典型労働事情等」が載っていました。なんというグッドタイミング!

今号の和田さんの記事は、あくまでも「速報版」ということで、正式な報告書は現在作成中で、平成23年の春頃に完成する予定ということです。

経営法曹会議という、労使関係を経営側の立場からサポートする弁護士の皆さんが、フレクシキュリティをはじめとするヨーロッパの近年の労働事情をどのように捉えたのか、大変貴重な報告書になることと思います。

あくまでも「速報版」と言うことではありますが、和田弁護士の率直なコメントがいくつか載っていますので、いくつか引用しておきましょう。

>・・・しかし、(労使の)それぞれでお聞きした内容が対立していた、あるいは異なっていた、という印象が薄い。記録を見直しても、その印象は変わらない。その原因は、デンマークでは、労使団体間の100年を超える古くかつ深い信頼関係に基づいて、雇用・社会政策が実施されているので、いずれから話を聞いても、同じような答えが返ってきたためであろうと思われる。

>この関係で、LOの担当者の「我々としましては、最大の労働組合組織であるということで、国の経済に対しても、責任ある政策的な提言をすべきだと、そういう立場にあると自負しております」との発言が強く印象に残った。

労使協調どころか、まさに労使が中軸になって国家を運営しているデンマークであればこその発言といえましょう。

なにやら、一知半解の方が例によって第3法則全開のつぶやきをされておられるようですが、少なくとも経営側のアドバイザー的役割を果たす経営法曹の皆さんが、そういう雑音に惑わされずに、労使のあり方について的確な認識を深めていかれれば、日本の労使関係の将来は決して暗いものではないと思います。

実務家たちは、その立場は異にしても、ちゃんと実際の姿を見に行って、その上でものごとを論じようとしています。事実を侮蔑しながら空論を吐きまくるインチキ評論家をちやほやしているのは、ものを考える暇のない愚かなマスコミ人くらいでしょう。

(追記)

上の「第3法則」については、第1法則、第2法則ともども、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/3_a7ad.html(池田信夫氏の3法則)

をご覧下さい。

>池田信夫氏の第1法則:池田信夫氏が自信たっぷり断言していることは、何の根拠もない虚構である蓋然性が高い。

>池田信夫氏の第2法則:池田信夫氏がもっともらしく引用する高名な学者の著書は、確かに存在するが、その中には池田氏の議論を根拠づけるような記述は存在しない蓋然性が高い。

>池田信夫氏の第3法則:池田信夫氏が議論の相手の属性(学歴等)や所属(組織等)に言及するときは、議論の中身自体では勝てないと判断しているからである蓋然性が高い

なお、この第1法則の典型例が、「情報労連REPORT」10月号に掲載した

https://www.joho.or.jp/report/report/2010/1010report/p30.pdf(スウェーデンは解雇自由だって?)

です。池田信夫氏のインチキぶりをご堪能下さい。

この方は、こういう事実に基づく批判に対しては、絶対に中身の反論はせず、もっぱら相手の属性批判、所属組織批判のみによって議論に勝った振りをする手際にかけては天才的です。

デンマークの積極的労働市場政策に学ぶ~日弁連デンマーク調査報告

日弁連のHPに予告が載っています。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/event/110114.html

>近年、デンマークの労働市場は、「ゴールデントライアングル」と呼ばれる3要素、すなわち、①フレキシブルな労働市場、②手厚い失業保険制度、③積極的労働市場政策、を兼ね備え、フレキシキュリティ(柔軟性と安全性の両立)の代表例として注目を集めています。

当連合会では、2010年8月30日から9月3日まで調査団を派遣し、デンマークの労働政策に関する調査を実施しました。デンマークのフレキシキュリティは、110年に及ぶ長い歴史的経緯に基づくもので、社会的パートナーである労働組合と使用者団体が相互の信頼関係のもとに対話を繰り返して築き上げてきたものでした。「ゴールデントライアングル」は、3要素の微妙なバランスのもとに成り立っており、決して「解雇自由」ではなく、失業者に対する生活保障とともに、職業教育や職業訓練を充実させています。非正規雇用が拡大して若者たちに閉塞感が漂うわが国とは対照的に、若者たちが生き生きとしています。

そこで、デンマーク調査の概要を報告するとともに、わが国の実情と比較しながら、デンマークの実践からわが国が学ぶべき点を探ります。

デンマーク調査報告
小川英郎(貧困問題対策本部事務局次長)
基調講演
根本 到氏(大阪市立大学教授)
職業訓練受講生の当事者発言
パネルディスカッション
  • コーディネーター
    小川英郎
  • パネリスト
    根本 到氏
    河添 誠氏(首都圏青年ユニオン書記長)
    井上英明氏(厚生労働省職業能力開発局能力開発課課長補佐)

まあ、デンマークのフレクシキュリティについては、一知半解無知蒙昧の徒輩が、首斬り自由の経営者の楽園であるかのごときインチキなデマを飛ばしたため、おっちょこちょいの森永卓郎氏が「フレクシキュリティは経営者の陰謀だ!」みたいなトンデモ電波を発してしまい、いささか混迷してしまっていましたが、ようやく最近は、まっとうなバランスのとれた認識が広がりつつあるようです。

実は、経営側の弁護士の集まりである経営法曹会議も本年デンマーク等に視察に行っています。地に足の着いた認識に基づく建設的な議論ができる土俵が、少しづつ形成されて来つつあるのは喜ばしいことです。

インチキ評論家の活躍する余地は、こうして少なくとも労働の世界からは少しずつ狭められていきつつあるのだという希望が、来年も続くことを期待しつつ。

迷・虚・滞・闇・綻・空・混の年

権丈先生が紹介している『週刊社会保障』の編集後記が絶品なので、おもわずそのまま引用しちゃいます。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare342.pdf

>社会保障界 1年の動きを 恒例 の「本誌が選ぶ10 大ニュース」として掲載。今 年を振り返っていただければ幸です。。
10 大ニュースをまとめた弊誌スタッフに、社会保障界の 1年を漢字で表し てもらいました。各分野を統括する野原は 「迷」、主に医療保険担当の豊島は「虚」、年金担当の釘島は「滞」、保健・福祉等担当の石田は「闇」、診療報酬担当の高木は「綻」、国会担当の菅原は 「空」、そして今年4月入社した新人の清水は「混」をあげました。社会保障界に明るい漢字はなかったというこです。ベテランの野原と新人清水が上げた漢字を合わせると『混迷』となりました。

まさしく。

なぜこういうことになるかというと、政治部記者的感覚というか、社会保障それ自体には何の関心も見識もないまま、役所叩き、役人叩きのみをトッププライオリティと心得てきたから、ということになるのでしょうが。

まあ、自分の狭隘な「トッププライオリティ」以外の政策課題を人がトッププライオリティと考えること自体を許し難い悪行と認識するような徒輩が横行する昨今ではありますが。

2010年12月22日 (水)

OECDが求めているのは規制の緩和だけなのか?

1012report 情報労連の機関誌『情報労連REPORT』に連載している「hamachanの労働メディア一刀両断」ですが、

>歯切れのいい論評で注目のhamachanこと濱口桂一郎氏がメディアに流通するトンデモ労働論をブッタ斬り‼

12月号ではまたしても池田信夫氏を取り上げてしまいました。

http://www.joho.or.jp/report/report/2010/1012report/p30.pdf

>本連載の第1回で取り上げた上武大学教授の池田信夫氏が、またもトンデモ労働論を流している。・・・

中身は、本ブログをお読みの皆さんにはおなじみの話題ですが。

『よいスタートを切れる? OECD若者雇用統合報告書』

46665570coverenglish20812010231m130 ようやく、OECDの若者雇用に関する統合報告書が刊行されました。

Off to a good start? Jobs for Youth」という標題です。"(get) off to a good start"は「よいスタートを切る」というイディオムですが、それに「?」がついているのが意味深長ですね。

http://www.oecd.org/document/31/0,3746,en_2649_37457_46328479_1_1_1_37457,00.html

>More jobs opportunities and better skills needed to ensure that young people benefit from the ongoing recovery

The initial experience in the labour market has a profound influence on later working life. Getting off to a good start facilitates youth integration into the world of work and lays the foundation for a good career, while it can be difficult to catch up after an initial failure. This publication analyses the situation of youth employment and unemployment in the context of the jobs crisis and beyond and identifies successful policy measures in OECD countries.

若者が景気回復から利益を得るためには、より多くの雇用機会とより高い技能が必要だ。

労働市場における初期の経験はその後の職業生活に深い影響を及ぼす。いいスタートを切ることは、若者が仕事の世界に統合することを促進し、よいキャリアのための基盤を作るが、最初に失敗すると後に追いつくのは難しい。本報告書は若者の雇用と失業を、雇用危機とそれ以後の文脈で分析し、OECD諸国における成功した政策措置を明らかにする

Youth いうまでもなく、今年初めに中島ゆりさんの訳、私の監訳で明石書店から出版した『日本の若者と雇用 OECD若年者雇用レビュー:日本』など各国報告書を踏まえた統合報告書であり、世界の先進主要国の若者雇用政策が立体的に分かる素晴らしい報告書です。

裏表紙の宣伝文句をコピペしておきます。

>Promoting a smooth transition from school to work, and ensuring that youth are given the opportunities to move on in their careers and lives, have long been issues of fundamental importance for our economies and societies. Today, they are even more pressing challenges as the global economy emerges from the worst crisis of the past 50 years. Indeed, young people have borne much of the brunt of the recent jobs crisis. The youth unemployment rate is approaching 20% in the OECD area, with nearly 4 million more youth among the unemployed than at the end of 2007.

The initial experience in the labour market has a profound influence on later working life. Getting off to a good start facilitates youth integration into the world of work and lays the foundation for a good career, while it can be difficult to catch up after an initial failure. In particular, the jobs crisis is likely to leave long-lasting "scarring" effects on some of the current generation of school-leavers, particularly if they face multiple disadvantages, such as having low skills and also coming from a disadvantaged background.

Tackling the youth jobs crisis requires a strong commitment from all: the youth themselves, the government through well-targeted and effective policy measures, social partners though their participation in the dialogue, and other key actors – such as teachers, practitioners and parents – who can really make a difference to investing in youth.

This report makes an important contribution to a new agenda of youth-friendly employment policies and practices. It analyses the situation of youth employment and unemployment in the context of the jobs crisis and identifies successful policy measures in OECD countries. But it also discusses structural reforms in education and in the labour market that can facilitate the transition from school to work. The report draws on both recent data and the main lessons that emerged from the 16 country reviews conducted as part of the OECD Jobs for Youth/Des emplois pour les jeunes programme.

我々の訳した日本版にせよ、今回の統合報告書にせよ、こうしたOECDの報告書を読みもせずに、知った風に若者雇用問題を語る者がいれば、まずインチキ評論家の手合いと見て間違いはないでしょう。

これが、世界標準の若者雇用の論じ方なのですから。

スマイル0円が諸悪の根源

日本生産性本部が、毎年恒例の「労働生産性の国際比較2010年版」を公表しています。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013.html

>日本の労働生産性は65,896ドル(755万円/2009年)。1998年以来11年ぶりに前年水準を割り込み、順位もOECD加盟33カ国中第22位と前年から1つ低下。

>製造業の労働生産性は米国水準の70.6%、OECD加盟主要22カ国中第6位と上位を維持。

>サービス産業の労働生産性は、卸小売(米国水準比42.4%)や飲食宿泊(同37.8%)で大きく立ち遅れ

前から、本ブログで繰り返していることですが、製造業(などの生産工程のある業種)における生産性と、労働者の労務それ自体が直接顧客へのサービスとなるサービス業とでは、生産性を考える筋道が違わなければいけないのに、ついつい製造業的センスでサービス業の生産性を考えるから、

>>お!日本はサービス業の生産性が低いぞ!もっともっと頑張って生産性向上運動をしなくちゃいけない!

という完全に間違った方向に議論が進んでしまうのですね。

製造業のような物的生産性概念がそもそもあり得ない以上、サービス業も含めた生産性概念は価値生産性、つまりいくらでそのサービスが売れたかによって決まるので、日本のサービス業の生産性が低いというのは、つまりサービスそれ自体である労務の値段が低いということであって、製造業的に頑張れば頑張るほど、生産性は下がる一方です。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013/attached.pdf

この詳細版で、どういう国のサービス生産性が高いか、4頁の図3を見て下さい。

1位はルクセンブルク、2位はオランダ、3位はベルギー、4位はデンマーク、5位はフィンランド、6位はドイツ・・・。

わたくしは3位の国に住んで、1位の国と2位の国によく行ってましたから、あえて断言しますが、サービスの「質」は日本と比べて天と地です。いうまでもなく、日本が「天」です。消費者にとっては。

それを裏返すと、消費者天国の日本だから、「スマイル0円」の日本だから、サービスの生産性が異常なまでに低いのです。膨大なサービス労務の投入量に対して、異常なまでに低い価格付けしか社会的にされていないことが、この生産性の低さをもたらしているのです。

ちなみに、世界中どこのマクドナルドのCMでも、日本以外で「スマイル0円」なんてのを見たことはありません。

生産性を上げるには、もっと少ないサービス労務投入量に対して、もっと高額の料金を頂くようにするしかありません。ところが、そういう議論はとても少ないのですね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)

(追記)

ついった上で、こういうコメントが、

http://twitter.com/nikoXco240628/status/17619055213027328

>サービスに「タダ」という意味を勝手に内包した日本人の価値観こそが諸悪の根源。

たしかに、「サービス残業」てのも不思議な言葉ですね。英語で「サービス」とは「労務」そのものですから素直に直訳すれば「労務残業」。はぁ?

どういう経緯で「サービスしまっせ」が「タダにしまっせ」という意味になっていったのか、日本語の歴史として興味深いところですね。

組織率と小選挙区制と福祉政策の重点

以前本ブログで取り上げた「_h_japan」さんのつぶやきから、また大変興味深いファクトファインディング。

http://twitter.com/_h_japan/status/17253191838081024

>クリスマス〆切の英語論文を、もうちょっとがんばることに決めた。分析は終わったので、あとは分析結果の解釈を文章化する。就労支援政策が(現役世代の)自殺率を抑制し、年金制度は(高齢者の)自殺を抑制する。そして前者の抑制効果は、とりわけ日韓のような高度経済成長後の社会で顕著なのです

http://twitter.com/_h_japan/status/17272230174003201

>そして、とりわけ日本で低いのは、年金支出ではなく、就労支援政策支出なわけで。では、就労支援政策支出を増やすであろう要因は何なのか。人口・経済・政治・社会変数を調べると、労働組合組織率だけが有意となる。2年後の労組率が高いと、3年後の就労支援政策支出が高くなる傾向があるのです

http://twitter.com/_h_japan/status/17273237398360065

>また、「高齢者向け支出」を高める要因は何かというと、経済水準と高齢者率に加えて、小選挙区制の選挙制度(多数派主義的政治制度)が有意に正でした。福祉政策のなかで、高齢者向け政策は、最も「多数派向け」の政策だからだと思われます(貧者になるのは一部だけど高齢者になるのは全員だから)。

労働組合の組織率が高ければマクロ政策として現役世代への就労支援政策がとられ、現役世代の自殺率を抑制する。

小選挙区制にするとマクロ政策として引退世代への年金政策が中心になり、高齢世代の自殺を抑制する。

なるほど、ここ20年間の日本は、後者のメカニズムばかりが働き、前者のメカニズムはずっと後方に追いやられてきたわけですね。

考えてみると、山のような労働法案を抱えて鳴り物入りで労働国会といわれた2007年の通常国会が、いざ入ってみると年金記録問題ばかりが議論され、社会保険庁ばかりが叩かれ、肝心のはずの労働行政は叩いてすらもらえなかった(笑)のも、この労働組合の存在感の薄さと小選挙区制による世代的バイアスによるものだと考えると、非常によく分かります。

ニコ生トークセッション もう、逃げ出せない! ブラック企業とは何か?

ニコニコ生放送で、ブラック企業についてトークセッションに出演します。

http://live.nicovideo.jp/gate/lv35334917(ニコ生トークセッション もう、逃げ出せない! ブラック企業とは何か?)

>「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない……
就活生や働く若者を中心に、「ブラック企業」「ブラック会社」という言葉が広まっています。

法律違反や劣悪な働き方を強いたり、クビ切りを乱発する企業が「ブラック企業」といわれます。
正社員で就職しても将来が保障されず、会社のために尽くしても報われない時代が到来していると指摘されています。

今回のニコ生トークセッションのテーマは、ずばり、ブラック企業。
ゲストは、雇用問題の専門家であり、ブロガーとしても有名な濱口桂一郎(はまぐち・けいいちろう)さんと、「ブラック企業」特集を組んだ雇用問題論争誌『POSSE』編集長の坂倉昇平さんが登場です。
ホストはもちろん、「ブラック会社」という言葉を一躍有名にした2ちゃんねるの創設者、ひろゆき

「ブラック企業」の実例や特徴、その撲滅のための政策的な処方箋を考えます。
また、実際にブラック企業で勤務経験を持つ社会人も飛び入り予定。その凄惨な勤務実態を語ります。

2010年12月21日 (火)

「働くことを軸とする安心社会」にむけて@連合

先日の革マル派による批判の紹介と後先になってしまいましたが(笑)、連合のHPに正式に『「働くことを軸とする安心社会」にむけて~わが国が目指すべき社会像の提言~ 』がアップされました。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/kurashi/anshin_shakai/index.html

基本的な認識はきわめて的確であると思います。中身を一切抜きにした属性批判だけで生きていくことを決意したある種の方々はともかく、まともにこれからの労働社会のあり方を考えようという方は、是非じっくりと読んでいただきたいと思います。

>第一に、これまでの雇用保障は、男性正社員の雇用に焦点をあてたものであり、その所得で妻と子どもを養うことが想定されていた。税制や社会保障も同様であった。賃金や処遇をめぐる男女の格差が顕著な社会であった。

 第二に、男性稼ぎ主は、多くが新卒採用でいったん就職すると、企業によって一人前の企業人に育成され、様々な福利厚生や終身雇用を前提とした賃金制度などによって企業を「終の棲家」(ついのすみか)とすることを求められた。こうした「囲い込み型」の仕組みのもとでは、企業の成長を願うあまり家族生活が犠牲にされたり、一人ひとりが新しいキャリアに挑戦することは困難であった。

 第三に、完全雇用を実現したといっても、なかには賃金や処遇面で問題をはらんだ職場も少なくなかった。社会保障や福祉が後手に回ったこととあいまって、一部では貧困を排除できずにいた。

 第四に、これまでの仕組みは、官僚主導によるキャッチアップ型の「護送船団方式」であった。ところが、行政指導が効力を失ってからも、行政は業界をコントロールしようとし、そこに口利き役の族議員の利権がついてまわるなどの政官業の癒着構造が温存され、経済のダイナミクスが脅かされたばかりか、強い行政不信が膨らんでいった。

 今、私たちに求められていることは、日本の労働運動もあずかって形成されてきたこれまでの仕組みの弱点を取り除き、雇用を軸とした生活保障という長所を、新しい時代の要請に適応させながら抜本的にバージョンアップしていくことである。連合はそのためのビジョン形成に早くから取り組んできた。連合20周年を迎えた今、連合が呈示した21世紀連合ビジョンの先見性が日々明らかになっている。

 バブル経済の崩壊を経て、1990年代の半ばには、日本のこれまでの仕組みが耐用年数を過ぎたことが誰の目にも明らかになっていた。しかし、政治や行政は、その抜本改革に向けたビジョンを呈示することができなかった。その間隙を縫って、これまでの仕組みをすべて時代遅れなものとして市場原理主義に置き換えようとする、新自由主義的な潮流が経済と政治を席捲することになった。人々は、それまでの官僚や族議員の利権がはびこり自由な選択が制限された仕組みに対しては、不満と苛立ちを強めていた。したがって、こうした潮流は、政治の劇場化ともあいまって、一時は選挙などでも強い支持を得て、市場原理主義的な改革が進んだ。だが、こうした改革は古い仕組みをただ解体するだけで、それに代わる新しい生活保障の仕組みをつくりえなかった。

この記述は、決して自民党政権だけの話ではなく、連合が支持する民主党政権自身が深く「政治の劇場化」「古い仕組みをただ解体するだけ」「新しい生活保障の仕組みをつくりえなかった」というこの失われた20年の宿痾にとらわれていたことは、もちろんここには連合の立場上政治的に記述できないことではあるとしても、例の事業仕分け騒動を見るだけでも、念頭には置いておく必要があることでしょう。

中身を見ていきましょう。まず「なぜ働くことが軸か」。

>私たちは多様なかたちで働きながら、他の人々と様々なかたちで結びつき、協力しながらモノをつくり、サービスを提供している。生活の糧を得るための雇用労働であっても、決められたルールにもとづいたディーセントな(働きがいのある人間らしい)仕事であるならば、それ自体が私たちの自己実現の機会となる。働くことは生きがいにもなる。仕事に取り組む中で自らの資質が活かされ、能力が発展していくことは、社会の発展に貢献することにつながるとともに、その人の毎日は手応えのあるものとなる。そうした中で他の人々と互いに認め、認められる豊かな関係を築くことができれば、それは自分にとっての財産となり、かつその関係そのものがまた私たちの支えとなる。

 人びとが就労し、健康で文化的な生活を送るに足る所得を得て、税金を負担し、社会保険料を支払うことは社会を支える根本を成すものである。

 こうした考え方が、私たちが目指す社会の中心をなしている。

 そのためには年齢や性別を問わず、あるいは様々な障碍の有無にかかわらず、誰もが働き、つながること(結びつくこと、絆)ができる仕組みをつくり出していく必要がある。いわば参加が保障される社会である。誰もが排除されず、活き活きと働き、つながることができれば、理不尽な格差や貧困に足をとられることなく、社会は活力を増し、経済成長にもはずみがつく。

 働くこととは雇用労働だけを意味するものではない。本提言は雇用労働を中心に論じているものの、日々の暮らしの中で子どもを育て、家事労働を担うことも、文化的な活動に参加することも、あるいは地域の問題解決や生活環境の改善などに自発的に取り組むことも、あるいは職場の外で様々なことを学ぶことも、働き、つながることの一部となる。

 また、「働くこと」によって人は経済的・社会的に自立し、人と人のつながり、絆を強めていける。国民の安心を保障するのは、単なる制度ではない。制度を支える人間の絆である。社会資本(社会関係資本)とは人の絆のことなのである。こうして様々なかたちの「働くこと」が、生活や社会の仕組みを支える、あるいは形づくる際の軸になる。

ここは、最近流行のベーシックインカム論に対する人間論的次元の批判がきちんと示されています。『POSSE』前号の萱野さんの議論と根底において通じていると言えましょう。

次の「みんなが働き、つながり、支え合う」では、宮本太郎先生の『生活保障』で見たような参加保障の図が描かれています。

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>知識や学歴によってその夢を果たすことができないでいる若者。近所に保育所を見つけることができず、職場の理解も得られずに就労をあきらめている母親。親の介護で支援を受けられず就労をあきらめざるを得ない労働者。新しい仕事に挑戦するために公的職業訓練を受けたくても、定員が少なく順番待ちを強いられている失業者。障碍をもった人々、年をとってこれまでのようなかたちでは働くことが困難になった人々は、もっと柔軟なかたちで働ける就労環境を望んでいるのに彼らの力を活かせる職場が少ない。社会参加したいのにそのような機会が限られている。

 私たちの目指す社会は、こうした困難を抱えた人々に「恩恵」や「保護」を与え、隠遁やあきらめを促す社会ではない。それでは、人々から自己実現の機会や共に生きる場を奪う社会になりかねない。目指すべきは、「参加すること」に困難を感じているすべての人々に対して、その困難を除去し、一人でも多くの人々を包摂し迎え入れていく社会である。

さらに次の「ディーセント・ワークの実現」では、

>働くことは、経済的・社会的自立の基礎であり、仕事の価値に見合った所得が保障されるべきである。様々な支援を受けて就労した結果、ワーキングプアになってしまうということがあってはならない。税制や社会保障など男性正社員中心の発想が強かったこれまでの仕組みの影響で、日本の最低賃金は、男性正社員の所得を補完するために働く主婦や学生のパート労働の水準にとどめ置かれた。それゆえに、平均賃金に対するそれらの賃金の水準は他の先進工業国と比較しても低くなっている。非正規労働者のなかでも家計を主に担う人々が増えている現状を踏まえ、こうした格差は早急に改善していかなければならない。

 男性正社員中心の旧弊を改め、女性社員や非正規労働者を含めて、法律や労働協約による最低賃金規制の強化を基盤として、同一価値の仕事には同一水準の賃金を支払い、処遇全般にわたっても、均等・均衡待遇を実現していかなければならない。

と、「仕事の価値に見合った所得」を主張するとともに、次のように「職場コミュニティとそれを支えるワークルールの確立」を主張しています。このともに働く仲間の「職場コミュニティ」を、これまでの日本型雇用システムにおけるメンバーシップ型「企業コミュニティ」と明確に差別化していけるかどうかが、一つのポイントになるのでしょう。

>つまりわが国の職場は、依然として一つのコミュニティであり続けるべきである。ただしそれは、もはや閉じたコミュニティではありえない。多くの人が中途から職場に加わることになるだろうし、またいったん就職した後に別のキャリアを目指して職場を離れていく人も増えていくであろう。それは、支援型の公共サービスや所得保障によって人の出入りが活性化する、開かれたコミュニティである。それを可能にするにはワークルールの確立は必須である。

若者や高齢者についても、

>新卒一括採用の仕組みのもとで、若者はある決められた時点、つまり高卒は18歳前後、大卒は22歳前後で、一生の仕事を決めることを求められた。就職時が不況で納得のいく仕事が見つからなかった若者は、正規採用されるチャンスを逃し、一生そのダメージを引きずることになった。就職した後に自分の仕事への向き不向きを知った若者も多いが、方向転換は困難であった。再挑戦が可能になり、本当に自分を活かせる仕事や職場コミュニティにたどり着けることは、若者たちの充実感を深め意欲を高める。と同時に、彼らの力を引き出す社会の強さにもなる。

 また、60歳で仕事を離れるべき理由もまったくない。生涯現役社会が言われるなか、高齢者の力も十分に活かせているとは言えず、特に働きたいという意思を持つ人の熟練した技能や高度な知識が海外流出している現状も一方では存在する。わが国の高齢者の就労率は高いが、やりがいのある仕事に就いていると答える高齢者は少ない。地域活動やNPOなどを通じた社会的貢献、文化活動など幅広い選択肢とアクセスを保障するとともに、より柔軟な職場環境と就労支援によって、高齢者が蓄積してきた知識や技能や経験を活かすことができるならば、陰うつに描かれがちであった高齢社会の像は一変する。加齢によって社会とのつながりや希望が断ち切られることのない、活力ある社会に転ずる。

と、一部の世代間対立を煽るような言説に対して、きわめて的確な認識を示しています。

興味深いのは「有効で分権的な信頼のおける政府」というところです。

>北欧諸国などの先進工業国の経験を見るならば、政府規模が大きくても、人々が働くことに対し有効に支援する政府、その点で機能的な政府は、高い成長率と財政の安定を実現している。大きな政府であるか、小さな政府であるかはもはや問題なのではなく、有効な政府、信頼のおける政府こそが求められる。政府の信頼を高めるためには、国民主権にふさわしい民主的な政治・行政システムを確立し、政府・行政の意思決定と執行プロセスを透明化し、説明責任が果たされなければならない。

というのは当然ですが、その先の地方分権に関するところの記述は、なかなか苦心の跡が見られます。

>「働くことを軸とする安心社会」にとって、分権化を進め、自治体政府の機能を高めることは不可欠の課題である。なぜならば、保育、介護、訓練など、人々の社会参加をすすめる公共サービスは、人々に身近なところで、それぞれのニーズを汲み取りながら設計され、提供される必要があるからである。良質な公共サービスが提供されるためには、自治体政府は、地域に根を張ったNPOや社会的企業などと密接に協働していく必要がある。

 他方において、地方分権の名のもとに中央政府の役割と責任が否定されてはならない。分権化の結果、お金のない自治体では、保育料も高く、若者の就労支援も弱くなった、ということになれば、経済基盤の弱い自治体と潤沢な税源をもつ自治体との地域格差がさらに拡がり、分権化の趣旨に反することになる。地方分権を発展させるためにこそ、地域の人々を支える公共サービスについては、最低限満たされるべき水準を決めて、そのための財政調整機能も組み込まれるべきである。

少なくとも現在のようなお金のある都府県の知事さん主導の俺様分権論には与し得ない、と。ここを突き詰めていくと、地方分権の本旨に反すると言って機関委任事務を廃止してしまったことへの反省にもつながると思いますが、ここはここまで。

最後の「労働運動に求められる役割と責任」について、

>労働運動は、新しい社会ビジョンを示して、その実現を求めるだけではなく、その実際の担い手でもある。これまでも日本の労働組合は、働く人々の賃金と労働条件を守り、向上させるために奮闘してきた。しかし、働く者が連帯し結びつくその枠は、企業の内部、男性正社員、あるいは組合員に限られる傾向があったことは否めない。しかし今や、メンバーシップ(組合員)の利益を自己完結的に確保しようとしても(自分たちの利益を自分たちだけで守ろうとしても)、メンバーシップそのものの利益さえ守ることはできない時代になっている。

 「連合評価委員会最終報告」によって提起された、「社会の不条理に立ち向かう」「すべての働く者が結集できる」労働運動をさらに深化させ、働くすべての人たちを対象として、その実現に向けた取り組みを行っていく必要がある。

と述べた上で、大きな柱として「地域で顔の見える労働運動」と「労働運動が大切にしてきた価値の継承・発展と次世代育成」を挙げています。

とりわけ、次のように労働教育の重要性をアピールしている点は、こういうことに関心の薄い教育関係者にこそ注目してもらいたいところです。

>「働くことを軸とする安心社会」は、働く人たちへの無関心や冷淡ではなく、支え合って働くことを大事にする生き方、暮らし方が尊重される。労働組合は社会の仕組みに組み込まれ、様々な意思決定プロセスに関与する存在でなければならない。社会の不条理に怒り、連帯と団結によってそれを是正するための具体的行動を起こす精神文化が醸成されなければならない。

 労働組合の力の源泉は、一人ひとりの組合員の中にある、あるいは働く多くの仲間の中にある共感にもとづく行動力である。

 その土壌をまず最初に培っていくためには、初等教育から高等教育に至るまで、労働教育が実施される必要がある。中学校、高等学校における勤労観、労働観を醸成する教育、労働者の権利に関する教育、ワークルールの学習がカリキュラムに組み込まれていなければならない。社会人を対象とした労働教育の機会も必要である。高等教育機関からの中退者の増大、若年者の中途退職などの問題にもこうした教育は有効な手立ての一つとなろう。

 また、企業経営者、管理職などにとってもワークルールの知識と遵守は必須である。経営のノウハウの、あるいは要諦の必須な構成要素として位置づけ、研修制度や起業における資格要件設置などの検討が望まれる。

2010年12月19日 (日)

ステークホルダー民主主義否定の無惨な帰結

いつも引用させていただいているdongfang99さんの日記から、

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20101217誰も代表できていない

>たとえば、いま日本の世論で、比較的関心の高いテーマは年金であるが、テーマの性質上は必然的に「大きな政府」を志向するはずである。・・・自分の知る限り、真面目に社会保障の問題を考えている人たちは、多少なりとも似たような結論になっている。

>ところが、今の年金世論の政治的な帰結はそうなっておらず、むしろ「小さな政府」を志向するものになっている。・・・言うまでもなく、これは「タコが自分の足を食う」という以外に表現のしようのないものであり、かえって「年金破綻」を現実にしてしまいかねないような政策である。

>これは、政治家や有権者が意図してそうなっているというよりも、日本の政治的な構図のなかで、否応なくそのようなねじれが生じてしまっていると考えられる。要するに、年金に利害関心を有する人たちを代表する団体があり、それがある特定の政党と関係し、そこに社会保障の専門家が加わって「大きな政府」「福祉国家」を代表する政治勢力を形成するという当たり前の手順がなく、「年金破綻危機」と「官僚の無駄遣い」報道に連日のように接している(言い方は悪いがテレビしか見ることがなくなっている)年金生活者の憤りが、そのまま官僚バッシングを繰り広げる「小さな政府」志向の政治勢力を結果的に支持している印象がある。それに加えて、「今の若者は仕事をえり好みしている」という、貧困の時代を知っている高齢世代の素朴な偏見もある。

>国民が愚かなのでは断じてなく、国民の利害関心を適切に反映して対立軸を形成するような仕組みが、今の日本の政治システムのなかに不在なのである。よく人口と投票率で若者が構造的に不利に立たされているという意見があり、自分も若干はそれに共感するのだが、では年金生活者層の利害が今の政治にきちんと代表されているかというと、そうであればもう少し話は簡単なのだが、必ずしもそうではないところにより問題の難しさがある。どの政党も、特定の階層や団体を背景にしていることを懸命に否定して、全国民的な利害を代表しようとするのだが、結果的に誰も代表できていないという皮肉な結果になっている。

ここでdongfang99さんが言われていることを拙著の用語法で言い換えるならば、ステークホルダー民主主義の欠如ということになるでしょう。

>大衆社会においては、個人たる市民が中間集団抜きにマクロな国家政策の選択を迫られると、ややもするとわかりやすく威勢のよい議論になびきがちです。1990年代以来の構造改革への熱狂は、そういうポピュリズムの危険性を浮き彫りにしてきたのではないでしょうか。社会システムが動揺して国民の不安が高まってくると、一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムが人気を集めがちになります。これに対して利害関係者がその代表を通じて政策の決定に関与していくことこそが、暴走しがちなポピュリズムに対する防波堤になりうるでしょう。重要なのは具体的な利害です。利害関係を抜きにした観念的抽象的な「熟議」は、ポピュリズムを防ぐどころか、かえってイデオロギーの空中戦を招くだけでしょう。

そして、この点について言うならば、気分的にそういう考えを煽り立ててきた政治部記者や政治評論家ももちろんですが、その理論的な根拠を提供し続けてきたアカデミックな政治学者たちの責任がきわめて大きいと感じています。

『高度成長の時代2 過熱と揺らぎ』

73910 大月書店から『高度成長の時代2 過熱と揺らぎ』をお送りいただきました。ありがとうございました。

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b73910.html

>年平均10%という経済成長なかで、大変貌を遂げた日本社会。第2巻では、1960年代半ばから70年代代半ばまでを中心に、経済、地域、教育、家族、社会保障、冷戦下の東南アジアとのかかわりなどのテーマから、その歴史的特質に迫る

目次は次の通りですが、

第1章 高度成長の過熱と終焉(岡田知弘)
第2章 高度成長期の地方自治――開発主義型支配構造と対抗運動としての革新自治体(進藤兵)
第3章 ニュータウンの成立と地域社会──多摩ニュータウンにおける「開発の受容」をめぐって(金子淳)
第4章 教育の「能力主義」的再編をめぐる「受容」と「抵抗」(木戸口正宏)
第5章 高度成長と家族――「近代家族」の成立と揺らぎ(岩上真珠)
第6章 1960年代の児童手当構想と賃金・人口・ジェンダー政策(北明美)
第7章 高度成長と東南アジア――「開発」という冷戦・「ベトナム戦争」という熱戦のなかで(河村雅美

このうち、わたくしにとって興味深いのはまず北明美さんの児童手当に関する論文です。

先日のBSフジでもちらりと喋りましたし、拙著『新しい労働社会』以来いろいろなところでも書いてきたように、児童手当=子ども手当を雇用システムとの関係で考えるのは、60年代には基本認識だったわけですが、それがねじ曲げられていく姿を詳しく描き出していて、この問題に何か言おうという人は必読です。以下、私の関心に引きつけた形で部分的に紹介していきます。

1960年代前半期には、児童手当は職務給導入と結びついた形で論じられていました。私も何回か引用した部分ですが、1960年の国民所得倍増計画では、

>年功序列型賃金制度の是正を促進し、これによって労働生産性を高めるためには、すべての世帯に一律に児童手当を支給する制度の確立を検討する要があろう。

と述べていました。1963年の『児童福祉白書』では、これをさらに詳しく、

>大企業の被用者の場合、自動の生計費は年功序列的な賃金体系によって曲がりなりにも保障されてきた。しかし、この賃金体系は徐々に職務給に移行する態勢にあり、しかも、この職務給には児童の分が要素として含まれていないので、賃金でカバーされない児童の生計費分を別個の体系で保障する必要が生じてくるのであって、ここに大企業の被用者に対して児童手当制度を設ける意味が生じてくる。また大企業以外の部面においては、現在年功序列賃金体系さえとられておらず、しかも賃金水準の低い中小企業の場合は、児童手当制度の実施は緊急性がある・・・

と述べています。これに対して、

>資本家が職務給や職種別賃金制度を導入し、全体として賃金を引き下げ、ことに中高年労働者の賃金を引き下げようとすることには反対しなければならない

と職務給に反対していた労働運動は、一応家族手当法の制定を要求しながらも、むしろ消極的でした。

そして、経営側も次第に職務給の導入に熱意を失い、むしろ消極的になっていくにつれ(このあたりの消息は労働関係の方はよくご存じなので省略しますが)、財界も児童手当に消極的になっていきます。

こういう中で、政府厚生省は児童手当を導入する理由付けをそれ以外のところに求めていきます。それが人口問題であり、出産奨励策であったことが、ある種の人々を児童手当に引きつける効果をもった代わりに、別の人々を却って児童手当から引き離す効果をもったようです。

このあたりの記述で、大変興味を惹かれたのは、厚生省児童家庭局長の黒木克利氏です。黒木氏は、青少年の非行、社会的不適応、神経症、精神病などの激増は母親の就労が原因であり、母親の保育責任をすべての大前提とする保育政策を打ち出していきます。「婦人よ家庭に戻れ」と唱えつつ、母性の家庭復帰を児童手当の理念にしようとしました。母親が在宅育児をする場合には児童手当に加えて「妻手当」を支給するが、母親が就労する場合には児童手当を減額することも考えていたそうです。

(ここで、閑話休題ですが、こういう発想が旧厚生省児童家庭局に濃厚に残っていたことは、10年前に旧労働省女性局と合併したときに、旧女性局の方々から結構口々に聞かされました。大変皮肉なことですが、政治的に「合体」させられた新設の雇用均等・児童家庭局は、女性の就労に対するイデオロギー的立場においては、まったく対極に位置する思想が「同棲」させられるという状況であったわけです。ま、それはともかく)

黒木氏はさらに、この思想を優生保護法の改正問題、つまり人工妊娠中絶の制限と結びつけて運動していったようです。妊娠中絶の乱用を防止するために、妊娠中の手当てを支給することも考慮するなど、プロライフ系の発想が濃厚になっていきます。そうすると、そういう児童手当には反対するという運動が生まれてくるのも当然でしょう。

結局、児童手当はもともとの趣旨では誰も積極的に応援しなくなり、なんとか成立に至った後も、厚生大臣自身が、年功序列型賃金や企業から支出される家族手当の存在を理由に児童手当不要論を繰り返すようになっていきます。

そして、労働組合側も、

>ヨーロッパでは児童手当等の社会保障を最低賃金制度と組み合わせているが、その結果としての労働者の生涯収入のカーブは日本の労働者の年功的昇級カーブとほぼ同様の形になる。従って、日本の方式を変える必要はない。賃金の家族手当等の諸手当もむしろ再確立すべきである

と主張するようになっていました。

こういう1960年代の混迷がその後の児童手当=子ども手当をめぐる議論をどのように歪めてきたかは、北さんの他の論文で書かれていますが、本論文では、最後に最近の子ども手当をめぐる動きに対して次のように問うています。

>時を経て2010年の現在、「子ども手当」という名称のもとで、ようやく所得制限のない児童手当制度が誕生している。だが、それを相変わらず出産奨励策とみなした上で、効果のない無駄なばらまきとする非難が依然として後を絶たず、児童手当法における受給資格のジェンダー・バイアスが子ども手当法に受け継がれたことに対する批判も、ほとんどないままである。今もなお私たちは本章で見てきた時代と同じ理論的混沌の中にいるのであろうか。

これに対して、北さんは幾ばくかの期待を込めつつ、

>だが、男性世帯主の年功的な賃金上昇と賃金家族手当があればことは足りるという考えが、児童手当制度の前に立ちふさがることはもうないであろう。代わりに現れつつあるのは、同一価値労働同一賃金原則の確立を目指し、同時に市場や労働市場から相対的に独立な社会的所得の意義を承認する人々の運動である。

と述べられるのですが、さあどうでしょうか。

第6章以外で関心分野と関わりがあるのは第4章ですが、共感するところとともに、いくつか違和感を覚えるところがありました。とりわけ、木戸口さん自身が60年代の所得倍増計画などに見られる多元的能力主義とその後の一元的能力主義の対立軸をきちんと書いているにもかかわらず、ややそれをごっちゃにした「能力主義」批判に傾いているように見えるところがあり、出口のない批判になっているように感じられました。「どぶ川学級」に未来があったのだろうか、ということでもあります。

やや難癖に聞こえるかも知れませんが、引用されている

>高校の名に値しない職業訓練機関の高校への昇格が図られていく・・・

といった表現に示される教育界の左翼勢力の発想が、まさに一元的能力主義化の一つの源泉でもあったのではないかというのが、私の「偏見」でもあるわけですので。

『同一価値労働同一賃金原則の実施システム 公平な賃金の実現に向けて』

L17374 森ます美・浅倉むつ子編『同一価値労働同一賃金原則の実施システム 公平な賃金の実現に向けて』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641173743

>雇用者総数の3分の1を占める非正規労働者。その多くが女性である。日本における詳細な調査とイギリスの事例分析をもとに,社会政策と労働法の研究者が,性と雇用形態に中立な同一価値労働・同一賃金の実現に向け,その実施システムを提示する。

というわけで、本書は職務評価システムを作成しようとする社会政策チームと、イギリス(とEU) の平等法制度を研究する労働法チームのコラボレーションの作品です。

はじめに 本書の目的
第1部 日本における同一価値労働同一賃金原則と職務評価システム
 第1章 正規・非正規労働者の仕事観・賃金観
 第2章 医療・介護サービス職の職務評価
 第3章 スーパーマーケット販売・加工職の職務評価
 第4章 日本における職務評価システムの論点
第2部 同一価値労働同一賃金原則と実効性の確保──イギリスを例に
 第5章 イギリス平等法制の現時点と課題
 第6章 イギリス法・EU法における男女同一価値労働同一賃金原則
 第7章 非典型労働者の平等処遇
 第8章 実効性の確保に向けて
第3部 同一価値労働同一賃金原則の実施システムの構築に向けて
 第9章 日本の賃金差別禁止法制と紛争解決システムへの改正提案
 第10章 日本における同一価値労働同一賃金原則の実施システムの構築

「はじめに」の冒頭にありますが、この研究はこの科研費研究の成果ということで、

http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/18310168/2008/3/ja(日本における同一価値労働同一賃金原則の実施システムの構築-男女平等賃金に向けて-)

この「研究概要」が本書の内容を示しているので引用しておきますと、

>本研究は、社会政策研究者と労働法研究者の共同研究である。平成20年度(最終年度)は、各グループが独自の課題を追究すると同時に、本研究課題に沿ったまとめを行った。 1.社会政策グループは、2008年5〜6月にスーパーマーケット販売・加工職7職種(精肉・畜産、鮮魚・水産、青果・農産、惣菜、デイリー、ドライ、チェッカー・カウンター)および医療・介護サービス職3職種(看護師、施設介護職員・ホームヘルパー、診療放射線技師)を対象に「仕事の評価についてのアンケート」(回収数1647票)を実施した。本調査によって、これらの各職種の職務の価値と賃金との関係を明らかにすると同時に、結果の検証を通して、日本において同一価値労働を測定するための職務評価システムのモデルを構築した。 2.労働法グループは、2007年9月に実施したイギリス現地調査のフォローアップから「イギリスの同一価値労働同一賃金原則」に関する包括的な研究成果を公表した(『労働法律旬報』No.1675,2008年7月上旬号,「特集イギリスの男女平等賃金に関する調査」)。さらに、本研究のまとめに向けて、同一価値労働同一賃金原則の観点から日本の労働法の改正の方向性、同一価値労働同一賃金原則を実現するための紛争解決手続の構築、企業内部における平等賃金監査システム構築の可能性を検討した。 3.本研究からは、日本における同一価値労働同一賃金原則の実施システムの構築に向けて(1)労働法の改正の方向性、(2)男女/正規・非正規間の賃金格差に関わる紛争解決手続と企業における平等賃金監査システムのあり方、および(3)このプロセスで、平等賃金の検証と実現に不可欠な職務評価システムのあり方を具体的に提案する。

ということで、社会政策チームのやった医療・介護サービス職とスーパーマーケット販売・加工職の具体的な職務分析・職務評価が一つのウリでしょう。こちらを担当したのは、森ます美さんをはじめ、山田和代、大槻奈巳、木下武男、禿あや美、小倉祥子、遠藤公嗣の各氏です。一方労働法チームは浅倉むつ子さんをはじめとして、宮崎由佳、黒岩容子、秋本陽子、帆足まゆみ、内藤忍の各氏です。

このうち、JILPTの研究員で現在ケンブリッジに在外研究に行っている内藤さんの「実効性の確保に向けて」は、イギリスにおける具体的な紛争処理システムのあり方の詳細に分け入って解説していて、関心のある方々には有用でしょう。

総体的な感想としては、本来男女差別という人権論的世界で発達してきた間接差別法理とか同一「価値」労働同一賃金の考え方と、雇用形態差別という労働市場ルールの世界の考え方が、ややごっちゃに論じられている感があります。確かに、パート差別の問題は男女間の間接差別法理でもって発展してきたのですが、それはその方が武器が多く使えるからで、逆に言えば男女の間接差別でない(有期や派遣などの)雇用形態差別は、ヨーロッパでも武器が限られているわけです。

男女じゃない雇用形態差別に対する武器として、一体どこまで使えてどこまでは使えないのか、そもそも本書の標題になっている「同一価値労働同一賃金原則」が、一般的に雇用形態差別に使えるのか、肝心なそこのところの議論が、やや安易にスルーされている感を受けました。わたくしの知る限り、EUレベルでもイギリスにも、男女を超えた一般的「同一価値労働同一賃金原則」というのは明示的には存在していないように思います。フランスの破棄院判決にはあるようですが、その射程がどこまでなのかは、フランスの専門家にきちんと聞く必要があります。

日本の文脈でいえば、もう少し手前のところにかなり大きな問題があります。いうまでもなく、日本では「価値」の入らない「同一労働同一賃金原則」自体が確立しておらず、異なる職種間の職務評価の高低を云々する以前に、そもそも同じ仕事をしていても同じ賃金を払わなければならないとは全然考えられていないわけで、そういう「同一労働別々賃金」の世界に「同一価値労働」なる言葉を投げ込むと、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-fb7d.html(日本経団連の定義による「同一価値労働同一賃金」)

>むろん、企業としては、自社の従業員の処遇に関して、同一価値労働同一賃金の考え方に基づき、必要と判断される対応を図っていくことが求められる。

>ここで、同一価値労働同一賃金の考え方とは、将来的な人材活用の要素も考慮して、企業に同一の付加価値をもたらすことが期待できる労働(中長期的に判断されるもの)であれば、同じ処遇とするというものである。

>他方、同一労働同一賃金を求める声があるが、見かけ上、同一の労働に従事していれば同一の処遇を受けるとの考え方には問題がある。外見上同じように見える職務内容であっても、人によって熟練度や責任、見込まれる役割などは異なる。それらを無視して同じ時間働けば同じ処遇とすることは、かえって公正さを欠く。

と、日本型システムにおける職能資格制における賃金決定原理をそのままこの言葉で呼ぶという事態を招いてしまいます。

著者たちの熱意に水を差すつもりはないのですが、正直なところ、現在の日本でリアルな議論をしようとするならば、いきなり「同一価値労働同一賃金原則」を持ち出すよりも、まずは「同一労働同一賃金原則」からきちんと積み上げていった方がいいと思います。

2010年12月18日 (土)

自分をみがく、いまを読む。岩波新書30選

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Olive_s_4 岩波書店が、標記のタイトルのもとで岩波新書フェアを始めています。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/sin_fair2010/

4311940 この30冊の中に、拙著『新しい労働社会』も入っています。

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そのほか、宮本太郎先生の『生活保障』、阿部彩さんの『子どもの貧困』、湯浅誠さんの『反貧困』を始め、今日の社会問題を考える上で必読の書が並んでいます。

Olive_s_5 一方で、丸山真男『日本の思想』、梅棹忠夫『知的生産の技術』、E.H.カー『歴史とは何か』など、永遠の名著もちゃんと入っていますね。

2010年12月17日 (金)

団結権はダメだけど争議権はOK?

もちろん、現在の公務員労働基本権問題の中核は団体交渉権(労働協約締結権)であるわけですが、依然として消防職員の団結権問題になかなか結論が出せない一方で、争議権まで認めるかもというような話もあったりして、なんだかなあ、という感じではあります。

http://www.soumu.go.jp/main_content/000094526.pdf(消防職員の団結権のあり方に関する検討会報告書)

>検討会においては、団結権の回復に慎重な立場からの意見として、消防職員の団結権を回復することにより、①職員間の対抗関係を生じさせることになり、指揮命令系統や、部隊内の信頼関係に影響を与えるのではないか、②住民の生命・財産を守るという消防の任務に支障が出るのではないかという観点から、地域住民との信頼関係に影響を与えるのではないか、③消防職員が自らの権利を主張することにより、消防団との連携や信頼関係に影響を与えるのではないか、等の課題・懸念が示された。他方で、団結権の回復に積極的な立場からの意見として、消防職員の団結権を回復することより、対等な立場での労使の意思の疎通により、目的意識の共有や公務能率の向上、消防職員の安全の確保が図られるのではないか、等の効果が期待できるのではないかとされたほか、団結権は近代労働法制の基本的なインフラであり基本的な人権である、という意見や、昭和48年以降ILOから指摘されていることを踏まえるべきではないか、という意見があったところである。

>政府における検討にあたっては、ILOから長年にわたり指摘を受けていることにも留意しつつ、検討会において、「国民的な議論が必要である」という意見があったことも踏まえて、国民・住民の生命、身体及び財産を守るという日本の消防の使命に鑑み、国民・住民に対する行政サービスの向上につながるよう、また、消防に対する国民の信頼を損なうことのないよう十分留意して、公務員制度改革の状況も踏まえた検討を行うことが求められる。なお、どのような制度を採用する場合であっても、国民、住民から支持されるためには、労使双方による適切な制度運用に向けた努力が不可欠である

http://www.gyoukaku.go.jp/koumuin/kihonken/dai5/siryo.pdf(国家公務員の労働基本権(争議権)に関する懇談会報告)

>60年間以上にわたり制約されてきた協約締結権を非現業国家公務員に付与し、労使が職員の勤務条件を自律的に決定し得る仕組みに変革することは、国家公務員制度の歴的な転換であり、これを円滑に成し遂げるためには、周到な準備を行っても、なお多くの困難や運用における試行錯誤を伴うものと考える。
仮に政府が国家公務員に対する争議権付与の意義を積極的にとらえ、その実現を図ろうとする場合でも、まずは協約締結を前提とした団体交渉システムないし自律的な労使関係の樹立に全力を注ぎ、そうしたシステムにおける団体交渉の実態や課題をみた上で争議権を付与する時期を決断することも、一つの選択肢となり得るものと考える。

>政府においては、自律的労使関係制度の全体像の一環として、争議権の付与について最終的な決断を行うに当たっては、付与自体の是非のみならず、仮に付与する場合の付与の時期や、付与するまでの間における検討の在り方等についても、併せて適切に判断ありたい。

先進国に類がなく、どう考えても職員団体をつくっちゃいけないというまっとうな理屈があるとは思えない消防職員の団結権問題については両論併記みたいな結論で、

一方では公務員がストライキしてもいいみたいな雰囲気の結論の報告書が出たりして、一体日本の公務員法制をどうしたいのか、全然トータルなビジョンが見えないですね。

『季刊労働法』231号

I0eysjizmy2g 『季刊労働法』2010年冬号(231号)が刊行されました。

http://www.roudou-kk.co.jp/quarterly/archives/004607.html

特集は「これからの有期・派遣・請負」ですが、第2特集として私たちJILPTの労使関係・労使コミュニケーション部門のメンバーによる「個別労働紛争の実態とその処理」が組まれています。

特集
これからの有期・派遣・請負


有期労働契約に対する法規制の今後
─有期労働契約研究会報告書を読んで─
熊本大学教授 中内 哲

派遣先事業主の責任の再構成に向けて
九州大学大学院/日本学術振興会特別研究員 鄒庭雲

派遣先での直用化をめぐる諸問題
―派遣労働者の保護をいかにして図るべきか―
大阪経済法科大学講師 本庄淳志

雇用,請負,委任の区別についての一考察
―イギリス職人規制法からの示唆―
駒澤大学准教授 向田正巳

第2特集 個別労働紛争の実態とその処理

研究の目的と概要
労働政策研究・研修機構統括研究員 濱口桂一郎

雇用終了事案の分析
労働政策研究・研修機構統括研究員 濱口桂一郎

いじめ・嫌がらせによる非解雇型雇用終了事案に関する若干の分析
労働政策研究・研修機構統括研究員 濱口桂一郎

労働局のあっせんにおける労働条件引下げ事案の分析
労働政策研究・研修機構 アシスタントフェロー/学習院大学非常勤講師 鈴木 誠

個別労働紛争処理事案から見る三者間労務提供関係における紛争の実態と課題
労働政策研究・研修機構 臨時研究協力員/大東文化大学非常勤講師 細川 良
 

■シンポジウム■
労働審判制度の実情と課題を探る
東京大学名誉教授 菅野和夫
東京地方裁判所判事 渡辺 弘
東京地方裁判所所属労働審判員 石澤正通
東京地方裁判所所属労働審判員 村上陽子
日本弁護士連合会労働法制委員会委員 石嵜信憲
日本弁護士連合会労働法制委員会委員 鵜飼良昭

■研究論文■
フランスの雇用関係における労働医制度の機能と問題点
早稲田大学大学院 鈴木俊晴

ドイツ法における普通取引約款規制と労働法
立正大学専任講師 高橋賢司

■連載■
個別労働関係紛争「あっせんファイル」(第12回・最終回)
あっせん制度の課題
─「迅速,低廉,適正」性の確保のために─
九州大学教授 野田 進

■アジアの労働法と労働問題■
中国労働契約法施行後の労働事情と法的問題
─集団的労働紛争とパートタイム労働を中心に─
九州大学大学院法学研究院 准教授 山下 昇

■イギリス労働法研究会■
イギリス公務における営業譲渡とストライキ
早稲田大学教授 清水 敏

■神戸労働法研究会■
高年齢者雇用確保措置に関する法的問題の検討
-NTT西日本事件を素材に-
三重短期大学准教授 山川和義

■北海道大学労働判例研究会■
解雇無効判決確定後に社会保険被保険者資格を回復させることについて,使用者の説明義務違反を理由とする損害賠償請求が認容された例
宮崎信金事件(宮崎地判平21.9.28(判タ1320号96頁))
東京農業大学網走非常勤講師 山田 哲

労働審判についてのシンポジウムの中で、連合の村上陽子さんがこのようなことを語っていて、これは制度設計の問題として議論する必要があると思っていることなのですが、

>2点目は他の制度との関係です。私が担当した22件のうち、6件ほどは東京労働局の紛争調整委員会のあっせんを利用しようとしたのだけれど、会社側が出てこなくて労働審判に来たという事例でした。事件の中身を見ると、紛争調整委員会で十分に解決できたような事件だったと思っております。このようなケースでは、会社が出て行かなかったのは本当にもったいないですし、他の制度との関係の中で労働審判制度をどう位置づけていくのかということも課題であると思います。

労働局のあっせん制度は、制度創設の時のいきさつで、初めの段階でわざわざ会社側に「応じる義務はないですよ、断ってもいいんですよ」と言わなくてはいけないということになっていて、それが不参加率を上げている可能性は結構高いように感じます。菅野先生もそのような感想を漏らしておられました。

連合の「ワーカーズキャピタル責任投資ガイドライン」

連合が昨日、「ワーカーズキャピタル責任投資ガイドライン」というのを公表しています。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/kurashi/sekinin_toushi/index.html

>ワーカーズキャピタルとは、労働者が拠出した、ないしは労働者のために拠出された基金のことです。ワーカーズキャピタルの最も代表的が年金基金です。

 年金基金などワーカーズキャピタルの運用を通じて、直接・間接に企業や社会に実質的な影響を与え得ることを考えれば、労働者(労働組合)はワーカーズキャピタルの所有者として、社会や環境に悪影響を及ぼす企業行動に加担する投資を排除し、公正な市場を確立する社会的責任を認識する必要があります。

 今後、産業別労働組合、企業別労働組合は、ワーカーズキャピタルの所有者責任と権限に鑑み、その運用を委託するに際して、本ガイドラインに基づいた責任投資に取り組みます。

 また、連合は、世界最大の年金基金である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)など公的年金制度の積立金の運用機関に対しても、責任投資を求めていきます。

ガイドライン自体は、このPDFファイルにあります。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/kurashi/sekinin_toushi/data/20101216_workers_capital.pdf

もともとは労働者が拠出したカネで、労働者がひどい目に遭ってたんじゃやりきれねえ、という話ですが、機能的にはカネを出した途端に資本家サマであって、その資本家サマのご利益になるようになるようにと、機関投資家という召使いが一生懸命やればやるほど、ご主人様のはずのカネを出した労働者がこれでもかこれでもかといじめられるという構図をどうしたらいいのかというのは、社会システムの根本に関わる問題ですね。

もう6年前の『労働法政策』の中で、

>・・・それが20世紀末になって再び株主主権などということが言われるようになったことの背景には、退職者年金基金などの巨大な資金を有する機関投資家が株式市場に出現し、これがその収益を最大化するよう経営者に圧力をかける力を持ち始めたことがある。退職年金基金が巨大な資金を有するようになったのは、20世紀システムの中で社会保障制度が発達し、豊かになった労働者たちの強制貯蓄が膨大な規模に膨れ上がったからである。ドラッカーが「忍び寄る社会主義」と呼んだこの退職年金基金が、経営者に対して資本の論理を突きつける存在として株式市場に登場したということほど、皮肉なことはないであろう。
 この新たな「資本家」は、しかしながらかつての企業主たる巨大株主とは異なり、実質的には外部の債権者と同様の他人資本にすぎないので、中長期的な事業運営などによりも、短期的なリターンの最大化に関心がある。かくして、経営者は「株主価値創造革命」なる名のもと、生産活動などよりも財務成績に狂奔する仕儀となる。
 金融市場のグローバル化の中で、このコーポレートガバナンスの議論がヨーロッパ諸国や日本にも押し寄せてきた。そして、自分たちにとってもっと投資しがいのある企業になるようにと圧力をかけてきている。20世紀末にいたって、利子生み資本の論理が世界を席巻するかの勢いである。

>・・・第3の方向は、富裕化した労働者の貯蓄が金融市場の中で資本の論理の体現者となってしまっている事態の転換である。戦後日本の会社主義においては、株式の持ち合いによって株主の行使可能な権利を可能な限り縮小するとともに、法制的には会社の主権者であるはずの株主を総会屋という非合法な私的暴力装置を用いることで圧伏するというやり方で資本の論理を抑制していたが、このやり方がもはや持続可能でないことは明らかとなっている。それに代わる手段は、金融市場で資本の論理を振り回している者は代理人にすぎず、依頼主である労働者層の利益に反することは許されないということに立脚すべきであろう。「企業の社会的責任」という概念も、まずはそこから出発する必要があろう。

なんてなことを書いたことがあります。

龍馬かぶれは要らない

699 昨日紹介した中野剛志編『成長なき時代の「国家」を構想する』ですが、やはり面白いのは、巻末の座談会です。萱野稔人さんはここでも大活躍で、先日の私との対談の後半で話題になった国家論が全面展開されています。

なのですが、ここではむしろその前で首都大学東京の谷口功一さんが穏やかな口調で皮肉たっぷりに語っておられるところを引用しておきましょう。

近ごろの政治家、政治評論家、新聞政治部記者によく読んでいただきたいところです。

>・・・それで、その天下国家ということで言えば、最近の政治的アリーナにおいては、明治維新や幕末の志士に絡めたスローガンが連呼されているのをよく耳にしますよね。もちろん私も、それがナショナルな国民の統合の物語として意義があるということを認めるにはやぶさかではありませんが、もう少し、そういう威勢のいいことばかりではなくて、国民の知的レベルにもっと信頼を置いて、原理的な話をして欲しいと思うんです。それは政治家だけではなくて、政策担当者も、やはりそういう原理的志向、議論への志向を持っていただきたい。こういうスローガンは、掛け声としては威勢がいいんですが、実際に何をやるのかははっきり分からない。それをもとにして実際に政治的に何かやってそれが失敗した場合に、それがなぜ失敗したのかということを検証することができないんですね。だからもう少し、アイデアとかプランとか構想を示すときには、分析可能で反論可能性があるものを示して欲しいと思うわけです。ともかく、国際社会の名誉ある一員としてやっていくと日本国憲法にも書いてあるわけですから、「洗濯し申し候(ロンダリング?)」とかですね(笑)、他国語に翻訳できないような政治構想を掲げるのはちょっと再考していただきたい。・・・

政策の各論なきカイカク原理主義は、失敗すればするほど「カイカクが足りなかったからだ」と無目的に自己展開していく傾向がありますからね。

まあ、今朝の新聞各紙を見ても、政治部記者臭が芬々と漂う記事が一杯ですから、犬に嗤われる龍馬かぶれは尽きないようです。

(追記)

龍馬かぶれ批判の大先輩は、「きょうも歩く」の黒川さんでした。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2004/11/1119.html

>前々から、若干の例外の人を除いて松下政経塾出身者は苦手だった。何かというと、坂本龍馬だ、高杉晋作だ、というのが暑苦しくて、もっと冷静に物事を考えられない物なのか、と思った。また、日本はダメになる、という悲壮感たっぷりに課題設定するのも、宗教かがっているみたいでうさんくさい。財政を疲弊させるほど世界一安い税金の国にいながら、税金をもっと安く、と主張する。これらは松下幸之助の受け売りだったのか、とわかる。

こういうタイプが(与野党ともに)どんどん増殖してきたのが、政治の失われた20年であったわけですが。

2010年12月16日 (木)

BSフジプライムニュースに出てきました

本日8時から10時まで、BSフジプライムニュースに出てきました。

http://www.bsfuji.tv/primenews/index.html

2時間はとても長いだろうと思っていましたが、実際にはわりとあっという間に過ぎた感じです。

宮本太郎先生と湯浅誠さん、さらにキャスターの反町理さん、八木亜希子さん、解説委員の小林泰一郎さんにはお世話になりました。ありがとうございます。

個人的には、お台場のフジテレビの建物に入ったのは初めてです。

(追記)

ついった上の評

http://twitter.com/Fumitake_A/status/15776180468715523

>職業訓練+生活費支援はもちろん継続賛成、ただし昨日のフジBSで濱口先生や湯浅さんが示していたように、幅広く仕事を通して社会参画できる社会モデルの実現をしないと、結局継続させた職業訓練という制度を生かせない、さらに個人ごとへの手厚い就労サポートも必須。道はまだまだ遠い

http://twitter.com/Fumitake_A/status/15777866373402624

>「7割は課長にさえなれません」みたいな劣悪なミスリードした挙句、自身を「若者の味方」みたいに吹聴してる輩よりは宮本太郎・濱口先生や湯浅さんのように現実見据えてこれからを語ってくれる人達の方がいいに決まっている。味方はよく考えて選ばないと、単に利用されるだけだ

中野剛志編『成長なき時代の「国家」を構想する』

699 中野剛志さん編の『成長なき時代の「国家」を構想する 経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』(ナカニシヤ出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。「著者一同」と書かれていますが、おそらく本書に論文を寄せ、討議にも参加している萱野稔人さんと谷口功一さんからお送りいただいたものと思います。

http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=699

>「豊かさ」とは、「国民」とは、「共同体」とは、「国家」とは――低成長時代を生き抜くための国家と社会、そして経済のあり方をめぐり、新進気鋭の若手思想家たちが縦横無尽に論じる。松永和夫・現経済産業事務次官を交えた座談会も収録

ということで、参加者は次のような豪華メンバーです。

佐藤方宣(大東文化大学、経済思想)
久米功一(名古屋商科大学、労働経済学)
安藤 馨(神戸大学、法哲学)
浦山聖子(日本学術振興会、法哲学)
大屋雄裕(名古屋大学、法哲学)
谷口功一(首都大学東京、法哲学)
河野有理(首都大学東京、日本政治思想史)
黒籔 誠(経済産業省 地域産業政策課)
山中 優(皇學館大学、政治思想)
萱野稔人(津田塾大学、哲学・社会理論)
柴山桂太(滋賀大学、経済思想・現代社会論)
施 光恒(九州大学、政治理論・哲学)
五野井郁夫(日本学術振興会、政治学・国際政治経済学)
安高啓朗(ウォーリック大学、政治学・国際関係学)
松永和夫(経済産業事務次官)
松永 明(内閣官房副長官補付内閣参事官)

目次は次の通りです。


      ――成長という限界  中野剛志

第I部 経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン  中野剛志
     
     一 はじめに
     二 リスクシナリオの設定
     三 経済成長と福利
     四 国内総生産から国民福利へ
     五 生産活動と福利
     六 経済政策を再定義する
     七 まとめ
     【Appendix 1】 政府の大きさに関する補論
     【Appendix 2】 政府の大きさと経済開放度に関する各国比較

第II部 「オルタナティヴ・ヴィジョン」の諸論点

     ■「豊かさの質」の論じ方
      ――諦観と楽観のあいだ  佐藤方宣
     ■低成長下の分配とオルタナティヴ・ヴィジョン  久米功一
     ■幸福・福利・効用  安藤 馨
     ■外国人労働者の受け入れは、日本社会にとってプラスかマイナスか  浦山聖子
     ■配慮の範囲としての国民  大屋雄裕
     ■共同体と徳  谷口功一
     ■「養子」と「隠居」
      ――明治日本におけるリア王の運命  河野有理
     ■オルタナティヴ・ヴィジョンはユートピアか
      ――地域産業政策の転換  黒籔 誠
     ■"生産性の政治"の意義と限界
      ――ハイエクとドラッカーのファシズム論をてがかりとして  山中 優
     ■なぜ私はベーシック・インカムに反対なのか  萱野稔人
     ■低成長時代のケインズ主義  柴山桂太
     ■ボーダーレス世界を疑う
      ――「国作り」という観点の再評価  施 光恒
     ■グローバル金融秩序と埋め込まれた自由主義
      ――「ポスト・アメリカ」の世界秩序構想に向けて  五野井郁夫・安高啓朗

第III部 討議「経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン」をめぐって
     中野剛志・松永和夫・松永明・大屋雄裕・萱野稔人・柴山桂太・谷口功一

     ・成長の意味を問い直す
     ・危機の時代だからこそ根源的な思考を
     ・政治哲学と日本の政治
     ・国家の問題にさかのぼって考える
     ・アメリカのヘゲモニーの終焉
     ・資本主義の新たなるステージ
     ・動揺する国民国家体制
     ・アメリカの覇権衰退の帰結は何か
     ・議論の枠組みの重要性
     ・権力の問題にきちんと向き合う
     ・成長こそ重要だという反論をどう捉えるか
     ・国家は経済にどう関与すべきか
     ・経済のロバストネスと共同体の役割
     ・国際的な競争と国内の国土保全を両立させる
     ・共同体の承認がコミュニケーション能力を育てる
     ・共同体概念を練り直す
     ・共同体の機能をいかに活用するか
     ・経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョンのために

     【討議を終えて】
       国家を問い直す  松永和夫
      「強靭な経済社会」の構築に向けて  松永 明

このうち、とりわけ中野さんが執筆しているオルタナティブヴィジョン自体は、じっくりと読み込んだ上でなければうかつに批評しにくいので、ここではとりあえず先日POSSEのシンポジウムで対談させていただいた萱野稔人さんの「なぜ私はベーシック・インカムに反対なのか」を。実はその相当部分は、『POSSE』第8号のインタビュー記事とほぼ同じことを書かれていますが、最後近くで「労働市場からの排除が排外主義を準備するという逆説」という項で、私が「BIが血の論理を増幅する」と述べた点と共通する問題を指摘しています。

最後のところでのこの言葉は、是非拳々服膺される必要があるでしょう。

>ベーシック・インカムの議論を見て思うのは、社会の中で人が生きるということに対する認識がそこではあまりに浅はかだということだ。・・・その認識レベルの浅はかさゆえに、たとえそれが政策として実現されたとしても、そこに込められた正義感を裏切るような結果しかもたらさないだろう。労働からの解放が新しい社会的排除を準備してしまうというのは、その最大の逆効果に他ならない。

>ベーシック・インカムは社会保障をめぐる非常にラディカルな「オルタナティブ・ヴィジョン」として提起されている。しかしそのラディカルさは認識レベルでの短絡さと表裏一体だ。社会や、そこで人が生きるということに対する認識が短絡的だからこそ、一見するとラディカルな主張ができるのである。

>ベーシック・インカムが私たちに教えるのは、社会の「オルタナティブ」を構想するにしても、そういったラディカルなだけの姿勢では何も解決できないし、場合によっては逆効果になることさえある、ということだ。その意味では、ベーシック・インカムをめぐる議論は単なる政策論議にとどまるものではない。そこで問われているのは、私たちが社会を構想する細の基本的な姿勢そのものなのである。

雇用戦略対話合意

昨日、雇用戦略対話において「雇用戦略・基本方針2011」という政労使の合意ができました。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koyoutaiwa/pdf/101215goui.pdf

といっても、例の仕分け騒ぎがなければ、規定方針に沿った事項が淡々と並んでいるだけの、それほど目立たないものであったでしょうが、仕分け騒ぎが間に挟まってしまったために、否応なくこういう記述が目立つことになったようです。

>③ジョブ・カード制度の見直し・推進
・ ジョブ・カード制度については、企業・求職者にともに役立つ社会的インフラとして、より効率的・効果的な枠組みとなるよう見直しを図るとともに、関係府省が一体となって、制度を推進する。

>③労働保険特別会計による事業
・ 労働保険特別会計の雇用保険二事業(特定求職者雇用開発助成金、若年者等正規雇用化特別奨励金、産業雇用安定センター補助金、介護労働安定センター交付金等)及び社会復帰促進等事業(未払賃金立替払制度、被災労働者への義肢・車椅子の支給、アスベストによる健康障害防止対策等)は、労働者保護や雇用のセーフティネット対策としての重要な役割や労使の議論を積み重ねてきた経緯を踏まえるとともに、行政刷新会議の指摘を踏まえた無駄の排除の徹底の観点から点検を行い、より効率的・効果的な事業として、必要な見直しを行った上で、今後とも実施する。

もちろん、労働政策の観点からは至極当然のところに落ち着いたということではありますが、この間、せっかくの制度がどうなるのだろうとやきもきしていた方々からすると、当然とはいえ喜ばしいことでしょう。

さらにいえば、こうして「より効率的・効果的な枠組みとなるよう見直しを図る」ことが明記されたのですから、より前向きな方向への見直しを図っていってもらいたいところです。ジョブ・カードについては、それが社会的に広く流通しうるようなインフラ整備をどうしていくのかという制度当初以来の課題に、改めてきちんと向かい合っていく必要があると思います。

その他の事項のうち、

>②トランポリン型セーフティネットの確立
(求職者支援制度の創設の検討)

・ 雇用保険を受給できない求職者に対する恒久的な制度として、求職者支援制度(無料の職業訓練及び訓練期間中の生活支援のための給付を行う制度)の創設に向け、関係者による協議等を行い検討を進める。

が、なお「検討」という文字が付いていますね。現在労政審雇用保険部会で検討されているわけですが、財源をどうするか等でなかなか一致してないようです。ただ、来年度から創設することは規定方針なので、もう決めなきゃいけない時期なわけですが。

さりげなく書かれていますが、潜在的なインパクトが強いのはこれ。

>・ 学生が社会に円滑に移行できるよう学生の就業力を向上させるために、社会や地域が求める人材の養成・雇用に資する大学教育の改革を強力に推進する。

このすぐ前にある「卒後3年間新卒扱い」が当面の対症療法であるのに対して、こちらこそ中長期的に日本の労働市場をジョブに基づくものに改革していくための本筋の政策でしょう。

ここをほったらかしにしておいて、

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101215-00000087-jij-soci

>「将来なりたい職業」(単一回答)は「公務員」(20%)、「大企業の正社員」(19%)

てのを表層的に批判してみても始まらない。いうまでもなく「公務員」も「大企業の正社員」もメンバーシップであって「職業」(ジョブ)ではないわけですが、それは日本の雇用システムが反映されているに過ぎないのですから。

そして、そういうメンバーシップ中心でジョブ否定型の大企業サラリーマン感覚が政治家や評論家やマスコミの感覚に瀰漫しているが故に、ジョブ指向型の労働政策は繰り返し繰り返し目の仇にされ、無駄だ無駄だといわれて潰されてきているわけです。

ジョブカードはなんとか復活しましたが、若者の職業感覚を養うためのキャリアマトリックスは2回にわたり無駄だのゾンビだのとあげつらわれて廃止とされ、私の仕事館は既に廃止されてしまいました。よっぽど若者が自分の将来をジョブベースで考えることを邪魔したいのでしょうか。

いずれにせよ、かくもジョブ志向型政策を憎悪する感覚が瀰漫する社会で、上記のような回答が返ってくるのは理の当然であって、首斬り自由にしたってますます奴隷のようにしがみつこうとするだけですよ。

2010年12月15日 (水)

政治部的感覚の末路

いつも共感の意をもって読ませていただいているdongfang99さんの日記から、

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20101214

>一言でいうと、「何か変えてくれそう」といった、政策の理念や内容以前の判断基準が大きな比重をしめるようになり、結果としてどの政党も「何か変えてくれそう」な振りをすることを一生懸命になるばかりになっている。

>結果として当然ながら、政治家は真面目に政策を勉強したり理念を洗練させたりするのではなく、「何か変えてくれそう」「やる気がある」的な雰囲気が出るような振りをすることだけに、労力を使うようになる。

自民党政権が「構造改革なくして景気回復なし」とか「郵政民営化が一丁目一番地」などと「何か変えてくれそうなフリ」をしている間は、熱狂的に支持を盛り上げておいて、末期の麻生政権がもはやそういう「フリ」では持たないことを悟って、社会保障国民会議や安心社会実現会議などで真剣に真の課題に取り組み始める頃には、下らない言葉尻のあげつらいでひたすら貶すことに専念したマスコミ政治部感覚が、まったくそのままテープの早回しのように眼前に進行しているのが、民主党政権になってからの展開なのでしょう。

鳩山政権時代に「何か変えてくれそうなフリ」をしている間は熱狂的に盛り上げていて、それでは持たないことを悟って、菅政権になってようやく本気で「フリ」じゃない真の改革に取り組み始めると、彼ら政治部記者どもは、そんなことには何の関心も示さず、ひたすら(麻生政権時代を彷彿とさせる)言葉尻あげつらい競争に専念するというこの姿。

たとえば、先週金曜日に「社会保障改革に関する有識者検討会」がまとめたこの「報告書」など、ほとんどまともに取り上げられていませんでした。政治評論家や政治部記者にとっては、こういう本当の政策理念を論ずるようなものははやなんの意味もない紙切れのようです。

こんな連中が、龍馬にかぶれているフリをしているんだから笑っちゃうよね。

http://www.cao.go.jp/zei-cho/gijiroku/pdf/22zen20kai24.pdf

ここに示されている社会ビジョンは麻生政権時のものと連なりながら、本当に日本社会の将来を考える人々がきちんと読むべきものだと思いますが、そういう真の政策論議が二の次三の次どころか、しんがりになってしまうのが、この国の現状なのでしょうね。

>(2) 社会保障改革の可能性 いかなる日本を目指すのか

参加と包摂の日本

社会保障の機能強化をとおして、貧困と社会的排除をなくし、皆が能力を発揮する参加の機会を得て、各々が出番をもつ日本をつくらなければならない。これまでのように、男性世帯主だけが安定した雇用を享受し、長時間労働にあけくれるというかたちは、もはや維持しえない。老若男女が多様なかたちで働き、学び、ケアに携わる社会をつくりだすことが大切である。やる気や活力をそぐような格差については是正し、包摂を強めるならば、国民一人ひとりの能力が高まり、社会が活性化する。

つながりと居場所のある日本

社会保障は、家族や地域のつながりにとって代わるものではない。かけがえのない家族や地域のむすびつきが弱まるなかで、それを活き活きと甦らせることこそが社会保障の役割である。子ども・子育ての支援が家族の縁を強くし、介護のネットワークが地域の縁をむすびなおす。皆が居場所を得て、互いに認め認められることが、より多くの国民が幸福を感じることができる基本条件となる。

活力ある中間所得層の再生

ふつうに努力すれば、誰もが家族をつくり、生活できる社会を取り戻すべきである。これまでの日本で、分厚い中間所得層の存在こそが、安定した成長と活力の源であった。社会保障の機能強化によって、中間層の疲弊に対処し、その活力を再生できれば、それは自ずと経済成長と財政の安定につながる。

アジアのなかの安心先進国

これまでの日本は、アジアの経済大国として存在感を示してきたが、これからはアジアの安心先進国として、モデルを提示していくことが望まれる。成長の波に乗るアジア諸国は、しばしば内部に深刻な貧困や格差の問題を抱え、また遠からず高齢化社会に突入する。こうしたなかで日本は、まず、アジアの成長力を日本の経済成長の力として取り入れ、社会保障の財源を固めつつ、不安定で流動的な雇用や少子高齢化など、共通の問題を解決していく道筋を示すべきである。さらには、安心先進国のモデルとして、介護や看護の人材育成、外国人患者の受け入れなどをとおして、アジア地域の安心拡大のための共生貢献を果たしていくことも必要である。

責任を分かち合う日本

新しい日本のかたちをつくりだしていく財源については、打ち出の小槌はない。責任を分かち合う日本であらねばならない。責任の分かち合いは、一面では政府と国民の間でなされる。政府はすべての国民に「参加」の機会と「居場所」を得る条件を保障し、国民はこうした条件を活用して各々の力を発揮し、財政的にも社会保障を支えていく。他面ではこれは、国民相互での責任の分かち合いでもある。国家財政は基礎的財政収支すらも膨大な赤字になっている。こうした現実を直視し、次世代に負担を押しつけることなく、各自の責任を果たし、支え合っていく覚悟と合意(社会契約)をつくりだす必要がある。

2010年12月14日 (火)

OECD『日本のアクティベーション政策』

OECDの「アクティベーション政策レビュー」のシリーズの最新作として日本についてのレビュー報告書がアップされました。

http://www.oecd-ilibrary.org/social-issues-migration-health/activation-policies-in-japan_5km35m63qqvc-en

http://www.oecd-ilibrary.org/docserver/download/fulltext/5km35m63qqvc.pdf?expires=1292323695&id=0000&accname=guest&checksum=18FD35367A019836B7AB6DC71CF2B171

筆者は、OECD雇用労働社会総局雇用分析・政策課のエコノミストで、Nicola Duell, David Grubb, Shruti Singh and Peter Tergeistの4人です。

この4人は、ちょうど2年前の今頃、JILPTにも訪れて、わたくしが説明したこともあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/oecd-dd50.html(OECDアクティベーション政策レビュー)

>本日、OECDのアクティベーション政策レビューのためのミッションの方々との意見交換を行いました。

来られたのは、OECD雇用労働社会問題局雇用分析・政策課の研究員の4人で、うちテルガイストさんとは、先月末のEU財団の労使関係ワークショップでお会いしておりました。

アクティベーションとは、厚労省は「就労化」と訳していますが、つまり働いていない人々をいかに働いてもらうようにもっていくか、という政策課題です。ヨーロッパでは、失業給付や福祉給付が寛大であるため、そこの安住してなかなか働こうとしない「失業の罠」「福祉の罠」が大きな問題となり、アクティベーション政策が必要になってきたわけですが、日本はそもそも失業給付の期間が短く、生活保護も事実上就労可能な男性は入れないという運用をしてきたわけで、欧州的なアクティベーション政策とは文脈がまったく異なります。

本日は、そういう文脈が日本と欧州でいかに異なるかという話から始めて、生活保護、シングルマザー、障害者、高齢者、若者、などなど、予定を大幅に超えて議論が弾みました。

これにより、日本の労働社会問題の理解が少しでも進めばうれしいことです。

本ブログでも予告してきたように、実は本報告書はわたくしが翻訳して、明石書店から出版される予定です。日本語でお読みになりたい方はそれまでしばらくお待ち下さい。英語版は上のリンク先で自由に読めます。

労働保険を仕分け 事業主負担の労働者保護 廃止に?

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東京新聞も、ちゃんと事業仕分けを批判する大きな記事を書いていました。日曜日の【生活図鑑】です。ご教示いただいた方に感謝します。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/seikatuzukan/2010/CK2010121202000102.html

>事業仕分けで注目された労働保険特別会計。労災保険の社会復帰促進等事業は原則廃止、雇用保険二事業は必要性の低いものは特別会計で行わないとされました。しかし、労働保険はだれが負担し、廃止とされた事業はどんな事業でしょう。

>仕分けで廃止とされた社会復帰促進等事業は、労働者保護の事業です。労災保険関連として義肢、車いすの費用などの支給や労災で残された遺族の就学を支援する就学援護費の支給を行っています。

 また、問題になったアスベストによる健康被害を防止する対策、過重労働などメンタルヘルス対策も重要な事業です。

 さらに、企業倒産などにより、賃金が支払われず退職した労働者に、倒産企業に代わって国が未払い賃金を立て替える事業も含まれています。

 経済情勢が厳しいなか、倒産案件も多く、立て替え実績は〇九年度で四千三百五十七件、三百三十三億九千百万円にも及んでいます。

 これを廃止した場合、賃金未払いになったときは、どうすればよいのでしょうか? 仮に一般会計で事業をする場合、財源は事業主負担から税金にかわります。事業主責任を果たしているといえるのでしょうか?

 雇用保険二事業には、不況時に賃金を支払いながら休業、教育訓練、出向を行う事業主へ賃金の一部を助成し、雇用を維持する雇用調整助成金などの雇用安定事業と、職業訓練や派遣労働者などへの能力開発事業とがあります。

 一〇年度の予算額は約一兆二千億円で、雇用調整助成金を除く雇用対策への支出は約五千億円でした。二事業については、財源は基本的に事業主の保険料のみです。雇用安定という企業の社会的責任に加え、労働者の能力開発をすることで、企業がメリットを受けるため、事業主負担とされています。

 廃止とされた事業には、非正規労働者などが受講した職業訓練の履歴を記すジョブカードの普及促進事業などがあります。ジョブカードは雇用を重視する菅内閣で、二〇年までに三百万人に普及させる目標が掲げられています。

 仕分け後、菅直人首相は効率性などを見直しながら、ジョブカード事業を進めるとしています。

 ジョブカード以外にも、非正規労働者や介護労働従事者のための教育訓練、支援事業も見直し対象とされました。これも特別会計で行わないとすると、国民の税金を投入するのでしょうか?

どの新聞も、総論と政局が中心の政治部は仕分けや分権は正義でそれに抵抗するのは悪の枢軸という単純な世界観である一方、社会問題やそれへの政策を追いかけている記者は、見るべきところを見ているということでしょうか。

国民の税金を投入するのでしょうか」という問いかけは、もちろん、仕分けを絶賛する連中は、そんなつもりはこれっぽっちもないくせに、国民の税金をそんなくだらないことに使うのかぁ?と喚くつもりだろうに・・・という反語でしょうね。

事業仕分けと労働施策 働く人たちの姿が見えない

なんだか日替わりで朝日新聞を褒めたり貶したりしているように見えるかも知れませんが、もちろん、朝日新聞という名前の人はいないわけで、馬鹿な記事を書く政治部記者は叩くし、いい記事を書く労働グループの記者は褒めてるだけですので。このことは他の新聞にもすべて共通ですので、あらかじめお断りを。

で、今日は褒める番。オピニオン面の「記者有論」に竹信三恵子記者が「事業仕分けと労働施策 働く人たちの姿が見えない」という記事を書いています。中身は本ブログでも取り上げてきた話ですが、「政治部感覚」に溢れたオピニオン面にこういう記事が載ること自体意味があると思うので紹介。

>10月の「事業仕分け」での労働施策の議論に、はらはらし続けていた。働く人たちの姿が見えない議論が続いたからだ。

>・・・すれ違いの理由は、労働施策の多くが、産業構造の転換のような、実感しにくい「成人病型」の社会病理への処方箋だからだ。しかも受益者は倒産や失業のあおりを受けた社会的な弱者が多く、発言力も弱い。やはり廃止とされた「社会復帰促進当事業」の中の倒産時の未払い賃金立て替え払い制度も、会社が安泰な人々にはピンと来ないだろう。

この構図はまさにその通りだと思います。この事業仕分けには、東京の都心に住むホワイトカラー上層のセンスだけですべてが分かったつもりになっているある種の政治感覚の問題点が見事に露呈しているように思われます。

>・・・だが、労働政策の多くがこれらの会計から支出されるようになったのは、受益者の声が届きにくい地味な分野であるため、一般会計から財源を確保しにくかったことが大きい。その結果、雇用問題の当事者である事業主が拠出する特別会計に依存しがちになった。そうした経緯を見ず、不透明と切り捨てるだけでは、仕分けは「抵抗の少ない分野をやり玉に挙げるパフォーマンス」を通じて社会的弱者の施策を切り捨てる道具に転化しかねない

ネット上でもそうですが、労働保険特別会計を非難する人が、それでは一般会計で労働施策をやる気があるのかといえば、そもそもいかなる労働政策をも敵視しているのですから、単に労働者のための政策を潰したいだけなのです。そういう手合いが私のいう「特殊日本的リフレ派」で、松尾匡さんのようなまっとうなリフレ論者と一緒にしてはいけません。

本日の朝日には、もう一つ生活面の「働く」にも、「再起かけて職業訓練」といういい記事が載っています。これも、公共職業訓練敵視の神聖同盟の方々にこそ熟読していただきたい内容ですが、まあどうせそういう人に限って読もうとはしないのですけど、

>「大学4年間より、この2ヶ月の方が楽しいし、学んだことも多い」

>・・・今年の春、都内の私立大の社会学部を卒業し、化学メーカーに営業職で入社、だが、営業は向いていないと思い、4ヶ月で退社した。

>ものづくりの道に進もうと職業訓練校に入校した。・・・

>普通科高校を出て、文系の大学に進み、ホワイトカラーになる。それが当たり前だと思っていた。「高校や大学にいる間に、訓練校のことを知りたかったし、多くの学生に知ってほしい。人生のメニューが増えるから」

2010年12月13日 (月)

『POSSE』第9号から

Cce2efcdde13d1ab3648a841fead32c8_2 さて、『POSSE』第9号のブラック企業特集から、いくつか。

まず、わたくしと萱野さんの「これからの『労働』の話をしよう」という対談のうち、冒頭の私の発言部分を。これが、わたくしのブラック企業原論になります。

>「ブラック」だけど「ブラック」じゃなかった
濱口:日本の企業ではもともと、目先で労働法が踏みにじられているからといって、ミクロな正義を労働者が追求することは、愚かなことだと思われていました。とはいえ、それは「ブラック」だったのかと言えば、そうではありません。これが、今日の柱のひとつになります。
戦後日本で形づくられた雇用システムの中で、とりわけ大企業の正社員は、ずっとメンバーシップ型の雇用システムの中にいました。そこでは、会社の言うとおり際限なく働く代わり、定年までの雇用と生活を保障してもらうという一種の取引が成り立っていたのです。泥のように働けば、結婚して子供が大きくなっても生活できるだけの面倒をみてやるよと。これが本当に良かったのかどうかの評価は別にして、トータルでは釣り合いがとれていたと言えます。
ところが、それは先々保障があるということが前提となっているわけで、これがなければただの「ブラック」なんですね。「働き方だけを見たら「ブラック」だけど、長期的に見たら実は「ブラック」じゃない」はずが、「ただのブラック」である企業が拡大してきた。それが、ここ十数年来の「ブラック企業」現象なるものを、マクロ的に説明できるロジックなんじゃないかなと思います。
この取引はいわば山口一男さんの言う「見返り型滅私奉公」に近かったわけです。滅私奉公と言うととんでもないものに見えるかもしれませんが、ちゃんと見返りはありました。しかし、それが「見返りのない滅私奉公」になってしまったのです。

「日本型」ではなかった日本型雇用システム
濱口:なぜそんなことになったのか。まず、日本型雇用システムを「日本型」と呼ぶことじたいがいささかミスリーティングだということがあります。この名称では、日本の労働者はみんなそうだという誤解を招きかねません。しかし、もともと典型的には大企業正社員だけのシステムだったんです。企業規模が小さくなればなるほど、正社員といえどもそんな保障は薄れていきます。中小になればもっと少ない。零細になればほとんどない。
見返りもないのにことごとく忠誠心をつぎ込むなんてばかげたことは、普通しませんよね。それが世界的に見れば、普通の労働者の行動パターンです。日本の明治時代の労働者だって流動的で、1年経てばみんな職場を移動していました。しかし、高度経済成長が終わった後に、メンバーシップの基盤がない中小零細企業にも、大企業正社員型の働き方が、労働者のあるべき姿のイデオロギーとして規範化していきます。何がそれをもたらしたかというと、ふたつあります。
ひとつめが判例法理です。日本の労働法には、民法や労働基準法が前提としていない、いわゆる大企業正社員型の判例法理があります。整理解雇四要件だとか、就業規則の不利益変更法理、あるいは時間外労働や配置転換の法理です。要するに「会社の言うことを聞くんだったら、それだけ守ってやるよ」という社会的契約が判例法理に入っているのです。
これが確立したのは実は70年代、高度成長終了後です。もちろん大企業でそういう社会的契約があったからそれが判例法理になったわけですが、長期的な保障なんてあるわけない中小零細企業にまで、この判例法理が社会規範として広がっていったという側面があります。最高裁の判決には、大企業のみに限るなんて書いてないわけですからね。
もうひとつは少し大きな話ですが、70年代以降、知識社会学で言う「日本人論」が流行します。60年代までは、「日本は前近代的で封建的だからダメなんだ。もっと欧米みたいな社会になりましょう」という議論が、山のように論じられていました。
ところが、これがガラッと変わって、70年代~80年代には「日本はこういう社会だからいいんだ」という日本賛美的な言説が非常に流行し、90年代以降また流行らなくなります。そこで描かれた日本人の姿というのは、近代化以前のものと、近代を通り過ぎた後の大企業正社員型のものがない混ぜになったものです。これが、知識人の世界では忘れ去られるんですが、日本人の行動規範として大きな影響があったのではないかと思います。人々にとって社会の基本的なイデオロギーとしてはずっとこの規範が残っており、むしろ強化されているのではないでしょうか。

「会社人間」批判とネオリベラリズムの合流
濱口:さらに、もうひとつ。これはものすごくパラドキシカルで頭が混乱するかもしれませんが、そういうメンバーシップ型社会のあり方に対する批判が80年代末から90年代ごろ、「「会社人間」はだめだ、「社畜」はだめだ」というかたちで、いっせいに噴き出します。これらを提唱していた人たちはおそらく、自由に働いて生きていく、というイメージを考えていたのだと思います。
それと、世界的には80年代にイギリス、アメリカのネオリベラリズムが非常に流行って、90年代初めごろに日本に入ってきます。この二つの流れがないまぜになる中で、「だから会社に頼らずもっと強い人間になって市場でバリバリやっていく生き方がいいんだ」という強い個人型のガンバリズムをもたらしました。
大変皮肉なことに、強い個人型ガンバリズムが理想とする人間像は、ベンチャー企業の経営者なんです。理想的な生き方としてそれが褒め称えられる一方で、ベンチャー企業の下にはメンバーシップも長期的な保障もあるはずもない労働者がいるわけです。しかし、彼らにはその経営者の考えがそのまま投影されます。保障がないまま、「強い個人がバリバリ生きていくのは正しいことなんだ。それを君は社長とともにがんばって実行しているんだ。さあがんばろうよ」という感じで、イデオロギー的にはまったく逆のものが同時に流れ込むかたちで、保障なきガンバリズムをもたらしました。これが実は現在のブラック企業の典型的な姿になっているんではないでしょうか。
これは、大企業正社員型の「「ブラック」じゃない「ブラック」」とは全然違うんです。むしろそれを否定しようとしたイデオロギーから、別のブラック企業のイデオロギーが逆説的に生み出されたという非常に皮肉な現象です。そういう意味では現代のブラック企業は、いろいろな流れが合流して生み出されているのです。いわば保障なき「義務だけ正社員」、「やりがいだけ片思い正社員」がどんどん拡大して、それが「ブラック企業」というかたちで露呈してきているのだと思います。
処方箋を二つだけ申し上げます。私は根本的には労働を損得で考えるべきであるとは考えていませんが、ブラック企業対策としてはとりあえずそれを括弧に入れて、「労働を損得で考えるよ」と言いたいと思います。「そんなに働いて保障があるの? 10年、20年、30年後にもとがとれるの? もとが取れないんだったら、そこまでするのは立ち止まって考えてみてはいかが?」というのが第一の処方箋。
第二の処方箋は、解雇規制について少し考え直そうというものです。これは言い出すと大変長い話になるので、結論だけ。仕事がないのにクビだけ守ろうとばかり考えるのではなく、ものを言ってもクビを切られない解雇規制の方がずっと大事だということを、もっと世の中で議論していかなければならないと思っています。

このあと、萱野さんとの対話が進んでいき、国家規制と共同体といったマクロ哲学的な話になるのですが、それは是非雑誌を読んでいただければと思います。おもろいでっせ。

上でわたくしがお話ししたことと共通する展望を示しているのが、熊沢誠・本田由紀・遠藤公嗣・今野晴貴各氏のシンポジウムにおける遠藤さんの発言です。

>まず最初に、ブラック会社や周辺的正社員はなぜ生まれるのか、という問題を考えてみましょう。私の考えでは、これらが生まれてくる直接的な原因は、経営者の側がこれまで日本に存在してきたとされる「日本的雇用慣行」を悪用していることです。経営者は労働者の雇用の名義を正規雇用にして、「キミは正規雇用にふさわしい長時間労働もやらなきゃいけない」というのですが、しかし実際に正規雇用の処遇は非正規と同じくらいにまで低くしてしまうのです。あるいは社員を育てるというような発想が全くなく、使い捨てることを前提で経営している。つまりこれまでの日本的雇用慣行の中に労働者を取り入れるという格好を付けてはいるものの、全然そうした雇用慣行を守ろうとは思っていない。こうした状況の中で生まれているものこそがブラック会社や周辺的正社員であろうと考えています

こういった認識を図式的に整理しているのが、今野さんの「「ブラック」とは何なのか?-「ブラック企業」問題の論点整理」です。世に「ブラック企業」を取り上げた文章は結構おおいですが、こういう風に構造分析されたのは、本誌の特集が始めてではないでしょうか。

もう一つ注目すべき系列は、ブラックな実態を浮かび上がらせるいくつかの調査やルポです。川村さんの2010年アンケート調査報告は、名目上自己都合退職で辞めた若者が、事実上の退職勧奨や、職場の状態からやむを得ず退職した実態にあることを示しています。

この調査結果は、わたくしたちがやっている個別紛争の分析からも似たような傾向を取り出すことが出来ます。さまざまな「退職に追い込まれた」というケースが見られるのです。

「本誌編集部」による大手IT企業のシステム化した退職勧奨のルポは、なかなかシュールなものがあります。

>お前達はクズだ、異論はあるだろうが、社会に出たばかりのお前達は何も知らないクズだ。その理由は、現時点で会社に利益をもたらせる奴は一人もいないからだ。

これは、ある意味で正しいのですが、もし本気でそう思っているのであれば、「何も知らない」学卒者などを雇うのは矛盾もいいところで、「現時点で会社に利益をもたらせる奴」をそのスキルに応じた処遇で雇えばいいはずですが、そういう自分を縛るようなことはしないのですね。わざわざ「何も知らないクズ」を大量に雇うのは、自分の好き放題に指揮命令し、育て上げることが出来るからであるわけで、それで「クズ」と罵るのですから、ひどい話です。

遠矢恵美さんのブラック業界のルポも、とりわけ「格安ツァーがブラック化させる添乗員業界」の項が興味深いです。

あと、木下武男さんの「腐朽する日本の人事制度と周辺的正社員」は、わたくしたちの個別紛争分析の結果を引用しながら、

>年功制という檻から出た情意考課は、「企業への人格的統合」から人格否定による企業からの放逐へと野蛮な姿に変わっていったかのように思われる。・・・

>年功制から切れて情意考課が一人歩きをする。従業員に対してその情意考課的要素を指摘すれば、解雇できる。日本は解雇自由な国なのだということが、周辺的正社員の領域ではまかり通っている。

と述べています。

とりあえず、ここまで。

(追記)

上記引用したわたくしの発言部分が、「シノドスジャーナル」に転載されました。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1622283.html

『POSSE』第9号

Cce2efcdde13d1ab3648a841fead32c8 本日、ようやく『POSSE』第9号が届きました。ブラック企業特集です。

http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/02d5dc112ec9d620250f628450aae7f5

とりあえず、目次は以下の通り。

熊沢誠(研究会「職場の人権」代表)×本田由紀(東京大学教授)×遠藤公嗣(明治大学教授)×今野晴貴(POSSE代表)
「「ブラック会社」で働く若者たち ――周辺的正社員の明日」

「無限の指揮命令権」、能力主義……若者を追いつめる背景


笹山尚人(弁護士)×野川忍(明治大学法科大学院教授)
「ブラック企業から若者のキャリアを守るために」

増加する「理由なき解雇」……/労働法の基本的な原則を確認しよう


萱野稔人(津田塾大学准教授)×濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構統括研究員)
「これからの「労働」の話をしよう」

国家・規制・労働・市場……ブラック会社を生き延びるための哲学


木下武男(昭和女子大学特任教授)
「腐朽する日本の人事制度と周辺的正社員」

賃金処遇から展望する、「仕事」を「盾」とした第三の道


中西新太郎(横浜市立大学教授)
「ノンエリートとして生きるモデルを ――文化と「社会空間」の可能性」

自己責任論に呑みこまれた若者たちに現実を変える希望は見えるのか?

川村遼平(POSSE事務局長)

「退職を「偽装」される若者たち ――2010年度POSSEアンケート調査報告」

200人が答えた、会社を辞めた「本当の理由」/そして、彼らの再就職のゆくえは

本誌編集部
「新入社員を人格破壊する「カウンセリング」の実態――大手IT企業がシステム化した退職勧奨」
7時間にわたる「自己否定」ミーティング、同僚の前でなぶられるハラスメント研修……

本誌編集部
「EU諸国におけるパワハラ規制の取り組み」
「ブラック企業」は世界的に拡大中!?


遠矢恵美(ライター)
「「ブラック」じゃないと生き残れない?「ブラック業界問題」」

外食、運輸業界……問題なのはワンマン経営者だけじゃない!


今野晴貴(POSSE代表)
「「ブラック」とは何なのか?――「ブラック企業」問題の論点整理」

違法性、歴史性、階層性から読み解く、新たな合意形成への歴史的分岐点

本誌編集部
「ブラック企業の傾向と対策」



大河内泰樹(一橋大学准教授)
「労働と思想9 アクセル・ホネット ――承認・物象化・労働

雇用の不安定化が「市民的誇り」の欠如をもたらす―
資本主義に内在する規範性が、超越へ転化するための媒介とは


松丸正(弁護士)
連載「実践的労働法入門 働きすぎないために、職場のルールを変えよう」

熊沢誠(研究会「職場の人権」代表)
連載「われらの時代の働きかた ゼミナール同窓会顛末(2)」

楜沢健(文芸評論家)
連載「ユニ×クリ 映画『悪人』 格差の底から湧き上がる殺意」

後藤和智(同人サークル「後藤和智Offline」代表)
連載「検証・格差論 「キャリア教育」の狂騒――自立支援と若者論をめぐる状況・その1」


川村遼平(POSSE事務局長)
連載「労働相談ダイアリー 労働基準監督署を上手に活用しよう」

こうやって通読してみると、最初の4人の対談も、次の2つの対談も、さらにその後の論考も、同じあたりをくるくると周りながら論じているという感じですね。

それを例によって「チャート式」にまとめているのが今野さんの「論点整理」ですが、これを先に読むのじゃなく、いろんな議論を読んだ後に頭のまとめとして読むとすっと入ります。

各対談や論考についての詳しい紹介は、おいおいということにして、ここでは、「一番面白い」と自ら書いている「編集長の部屋」の中で、

>放送もそうだし、やっぱり濱口さんと萱野さんの組み合わせが面白かった。今回、質疑応答が字数の関係で入れられなかったのは非常に残念です。さらにいうと、濱口さんとの打ち合わせが面白かったんですが、ちょっと載せられないです。・・・

いや、そんなたいそうなこと言うてまへんて。

2010年12月11日 (土)

BSフジプライムニュース

来週のBSフジの生番組プライムニュースが、3晩連続で「提言“安心社会・日本への道”」を宮本太郎先生をプレゼンターとして放送しますが、その出演者がHPにアップされているので、こちらでも紹介しておきます。

http://www.bsfuji.tv/primenews/schedule/index.html

Schedule_bnr2

12月15日(水)
『「社会保障」と「経済成長」 どうつなぐのか』
プレゼンター: 宮本太郎 北海道大学教授
ゲスト: 京極高宣 社会福祉法人浴風会理事長
吉川洋 東京大学教授

12月16日(木)
『全員参加型社会への道 排除しない社会へ』
プレゼンター: 宮本太郎 北海道大学教授
ゲスト: 濱口桂一郎 独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)統括研究員
湯浅誠 内閣府参与

12月17日(金)
『「政治主導」と「世論」 いま政治が乗り越えるべきもの』
プレゼンター: 宮本太郎 北海道大学教授
ゲスト: 藤井裕久 民主党税と社会保障の抜本改革調査会長
与謝野馨 たちあがれ日本共同代表

というわけで、16日の夜は、わたくしと湯浅誠さんが宮本先生と「全員参加型社会への道 排除しない社会へ」というテーマで、2時間近くお話しする予定です。

2010年12月10日 (金)

前田信彦『仕事と生活』ミネルヴァ書房

81788_2 立命館大学の前田信彦さんから、近著『仕事と生活 労働社会の変容』(ミネルヴァ書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.minervashobo.co.jp/book/b81788.html

>労働者をとりまく「関係性の貧困」とは

企業・組織・コミュニティが直面する問題に「ワーク・ライフ・スキル」という諸方策を提示。

いま、日本社会の労働をめぐる状況はいかなる課題に直面しているか。本書は、個人化する労働社会の中で、失われつつあるコミュニケーションや労働者どうしの関係性といった問題をめぐって、従来の研究史をたどるとともに、処方策として「ワーク・ライフ・スキル」概念を提示しつつ、実証的に論じる

上の太字は帯の文句ですが、まさに「関係性の貧困」と「ワーク・ライフ・スキル」が本書のキーワードになっています。

はじめに

 第Ⅰ部 仕事と生活の研究史

第1章 「仕事と生活」研究史
    ――経済的貧困から中流階層の時代
 1)「仕事と生活」研究の捉え方
 2)研究史的アプローチ
 3)第Ⅰ期:伝統的貧困論の展開
 4)第Ⅱ期:高度経済成長と社会階層の平準化
 5)第Ⅲ期:労働と生活の再編
 6)第Ⅳ期:多様化と格差
 コラム 貧困とボーダーライン層

第2章 労働社会の個人化と「関係性の貧困」の時代
    ――1990年代後半~2000年代の仕事と生活の諸相
 1)1990年代「労働世界」の変容
 2)1990年代「職業生活・意識」の変容
 3)個人化する職業生活と「関係性の貧困」
 コラム 弱い紐帯と転職

 第Ⅱ部 職業生活とワーク・ライフ・スキル

第3章 習慣的能力としてのワーク・ライフ・スキル
 1)ワーク・ライフ・スキルの重要性
 2)ワーク・ライフ・スキルとは何か

第4章 ワーク・ライフ・スキルの効用と階層性
 1)新たな仮説
 2)ワーク・ライフ・スキルの質問項目
 3)ワーク・ライフ・スキルの効用
 4)ワーク・ライフ・スキルの職業的階層性
 5)ワーク・ライフ・スキルの醸成
 6)ワーク・ライフ・スキルの可能性
 コラム オランダモデルから考える男女の働き方

第5章 ワーク・ライフ・スキルと過重労働
 1)ワーク・ライフ・スキルと労働負荷
 2)労働者タイプと労働時間・健康状態
 3)ワーク・ライフ・バランスと過重労働
 コラム ワーク・ライフ・バランスの多様性

第6章 定年後の社会参加とワーク・ライフ・スキル
 1)定年後にも生きる職業能力
 2)ワーク・ライフ・スキルの分布と要因分析
 3)ワーク・ライフ・スキルと定年後の社会参加
 4)ワーク・ライフ・スキルと高齢期の生活の質
 5)ワーク・ライフ・スキルと定年後の生活
 コラム オランダにおけるアクティブ・エイジング政策

第7章 学校から職業生活への移行とワーク・ライフ・スキル
 1)「学卒無業」問題
 2)分析の視点
 3)データと基本変数
 4)潜在的無業層の要因分析
 5)潜在的無業層への相対的効果
 6)若者とワーク・ライフ・スキル

第8章 個人化する労働社会と関係性の構築
 1)個人化する労働社会
 2)豊かな労働社会への道筋
 3)習慣的能力の機会と平等
 4)労働社会の個人化と「対話」の可能性
 5)関係性の構築へ
 6)社会的貧困への処方箋
 7)「場」を超えたネットワークの構築へ

おわりに

ただ、この「ワーク・ライフ・スキル」という概念が正直いってなかなかうまく認識できないところがあります。

この概念が提示される第3章では、「ワーク・ライフ・スキルとは何か」という節で、小池和男氏のいう「知的熟練」としての能力、佐藤厚氏のいう大卒ホワイトカラーの「はばひろい専門性」、熊沢誠氏のいう「生活態度としての職業能力」、本田由紀氏のいう「ハイパー・メリトクラシー」の能力、OECDのいう「キー・コンピテンシー」が並べられ、「ワーク・ライフ・スキル」とはこれらを包括したはばひろい専門性で、社会的ネットワークを構築できる能力で、職業生活の調整能力である、といわれるのですが、これらはお互いに必ずしも整合的ではない面もあり、やや曖昧な印象を受けてしまいます。これはまだきちんと読み込めていないためかも知れませんが。

私の関心事項からすると、やはり最後の章で、「垂直的ネットワーク」を提起しているところが興味深いものでした。

>労働者の代表として職場の問題を解決する労働組合は、代表者はともかく、構成員同士のコミュニケーションが水平的であり、組織や集団をまたぐような垂直的な社会観系資本を十分に発達させていない

という観点から、前田さんは、正社員、パート派遣労働者など、

>これらの異なる従業上の地位間の垂直的な社会観系資本を生み出すような媒介的な集団組織が、伝統的な労使関係との間に中間集団として置かれる必要がある

と主張しています。これは、新たな集団的労使関係の枠組みをどう構築するのか、という問題意識ともつながるものであり、さらに展開していって欲しいと思いました。

神野直彦・高橋伸彰編著『脱成長の地域再生』

4259 神野直彦・高橋伸彰編著『脱成長の地域再生』(NTT出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100002093

>地域間の均衡ある発展という日本の経済政策が失敗に終わったのはなぜか。地域は疲弊し、コミュニティはばらばらになっていく。地方間の格差が広まったのは、地方に関する基本的な政策(財政、社会福祉、生活コミュニティなど)に根本的な誤りがあったという。各分野の専門家が現状の問題について独自の分析と将来への提言を行う。

序 章 なぜ、いま地域再生なのか(神野直彦)
第1章 大都市集中を招く日本の税構造:スウェーデン、イギリスとの比較から(星野泉)
第2章 地域再生を阻む貧困要因:国保・国年制度の危機の視点から(下平好博)
第3章 自治体行政の課題と役割:自治体になにができるか(辻山幸宣)
第4章 コミュニティと地域再生:都市政策と福祉政策の統合に向けて(広井良典)
第5章 「生活公共」の創造:家族生活から出発する(住沢博紀)
第6章 参加ガバナンスの視点から:市民社会・NPOの多様な事例を通して(坪郷實)
終 章 成長の先に豊かさはない:福祉の危機を超えて(高橋伸彰)



私は、正直言うと「脱成長」とか「反成長」といった議論には、豊かな市民の偏見が感じられて、あまり同意しかねるところがあります。

今から3年前に、連合総研の20周年記念シンポジウムに出たときも、広井さんや高橋さんがパネリストとしておられて、その高邁な話にいささか居心地の悪さを感じていたことがありますが、

http://rengo-soken.or.jp/report_db/file/1245640669_a.pdf

そのときに、

>濱口/私は徹底して世俗的にお話をしたいと思います。宮本さんからは、職場を超えたコミュニティというテーマをいただいたのですが、むしろ逆に、職場のコミュニティを再建すべきではないかというお話をしたいと思います。
なぜ世俗に徹するかというと、本日のような会合で、あまりにも高邁で美しい話を聞くと、これは徳の高い高僧のお説教を聞いているのと同じで、たいへん素晴らしい話を伺いました、ありがとうございました、では現実に返りましょうということになってしまうのですね。ですから、私はもっと現実的な、生々しい話をしたいと思います。

と申し上げたのと共通するものがあります。

もちろん、とても大事なことが言われていて、たとえば、地域再生はなによりも住民自治に根ざしたものでなければならない、といったことは、現場感覚が(国以上に)欠如しているくせに、オレ様首長の独善的ワンマン地域主権を振り回すある種の人々に対する解毒剤としては有効でしょう。

政治部記者の空っぽな大風呂敷

先日、ようやく朝日のジョブカードについての社説をほめたのに、あっさりそれをぶちこわしてくれる政治部記者臭満載の本日の社説。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit1(地域主権改革―大風呂敷をたたむな)

カイカク真理教、チホーブンケン真理教、シワケ真理教・・・、看板はいろいろですが、要するに政策の中身はまったく知らず、知ろうとせず、知ることを拒否し、ただただ「真理教」のお題目だけを唱え続ける、政治部記者の“躍如としてめ面目ない社説”ですな。

>民主党内の議論も解せない。自治体が強く求めるハローワークの移管を当初は容認しようとしながら、最後は国に残す方針に転換した。根っこには、まだ自治体には覚悟も能力も足りないという判断もあるのだろう。

つまり、政治部記者には、「労働政策の観点から」ものを考えるという脳みそが、ひとかけらもないということのようです。政治面を見ていくだけで、傘下に自治労があり、全労働はない連合が、組織的利害ではなく労働者の利益という立場からチホーブンケンに批判的であることはわかるはずですが、脳みそにそれを受信する部位が存在しなければ、何が書かれていても入らないのでしょう。

そもそも、東京や大阪や埼玉といった、自分の足もとの企業からいくらでもお金が流れ込んでくる大都市圏の自治体のオレ様首長以外に、本気で労働行政の地方移管を求めている人々がいるのかどうか、脳内分権論を振り回す暇があれば、本当の「地方」の地方自治体の話を聴きに行けばいいのに、と思いますが、まあ政治部記者にそういうフットワークは無理なんでしょうね。

より正確に言うと、彼らの言う主権を有するべき「地方」とは、東京「地方」とか大阪「地方」のことであって、我々が日常言語で「地方が疲弊している」とか言うときの「地方」は目に入っていないのでしょう。つか、そんな「地方」は、チホー分権で全滅させたいと思っているのかも。

なんにせよ、政策的思考のかけらもない政治部記者の「大風呂敷」につきあわされる国民が最大の被害者かも知れません。

地域主権真理教のなれの果てが阿久根市の惨状である・・・なんて反省は、しかしながら彼らには期待できないでしょうね。

2010年12月 9日 (木)

自動車総連GoodWorkセミナー

本日、自動車総連のGoodWorkセミナーで、その中の「有期労働契約について」という対談に出席してきました。対談者は藤村博之先生とわたくしです。

藤村先生はご案内の通り、厚生労働省の有期労働契約研究会のメンバーとして、その報告書がどういう議論で書かれたのかや、今後の方向性について語られ、わたくしは例によって、EUの有期労働指令の経緯や、EU加盟諸国の有期労働への規制の動向についてお話ししました。

すでに、労働政策審議会における公労使三者の議論が始まり、労働側としての意思決定も近いところですので、わたくしのお話が何かのお役に立てれば幸いです。

連合総研『DIO』12月号

Dio 連合総研の機関誌『DIO』12月号は、「ハラスメントと職場風土」が特集です。

パワーハラスメント−職場に閉じられる怒り−     金子 雅臣

公益通報者保護制度と労働者の苦情処理制度     橋本 陽子

ハラスメント防止の5カ条―パワハラのない職場づくりに向けて、今、労働組合が果たすべき役割     三木 啓子

という3本ですが、ここでは橋本陽子先生の文章が注目です。

Koueki

これの表1を見れば分かるように、外部公益通報されたケースの圧倒的大部分が、労働基準法等労働基準監督署が通報先となる法律なんですね。それだけでなく内部通報も労働法関係が圧倒的であることは、JILPT内藤研究員が実証しているとおりです。

>しかし、いずれにしても、外部機関に申し立てられた公益通報の内容が、圧倒的に労働法令違反の事実であるということは、公益通報制度の実態を理解するうえで重要であろう。 外部通報だけでなく、内部通報においても、その利用実態は労働法上の苦情申し立てが大半であることが、企業ヒアリング等で明らかになっている(詳細は、内藤忍「内部通報制度を利用した労働者の苦情処理−労働紛争予防の観点から」JILPT〔労働政策研究・研修機構〕ディスカッションペーパー09-06〔2009〕)。とくに、パワハラに関する相談が多く、近年増加していること、ハラスメント以外の人間関係の悩みに関する相談も寄せられていること、その他、人事処遇に関する問題や労働条件に関する問題、さらに仕事の割り振りなどの業務運営に関する苦情や相談が内部通報窓口に寄せられているという(前掲・内藤論文・37頁)。

橋本先生は最後に、

>筆者自身は、内部通報制度の運用自体も中小企業にとっては負担であるので、それ以前に、職場の日常において、トラブルが解決できないのであろうか、と考えている。労働組合の役割も、このような職場環境の実現に向けられるべきではないだろうか。例えば、苦情処理の相談員としての研修を受けた組合役員が時々職場を回って、従業員と世間話をするような雰囲気があるだけで、従業員の不満の蓄積やトラブルの表面化は相当程度回避されるように思われる。

と書かれていますが、そもそもそういう職場風土が失われてきているという問題が根っこにありそうな気もします。

これは、日本の職場社会のあり方という大問題につながる話題ですので、また改めて・・・。

革マル派機関紙の連合批判

革マル派の機関紙『解放』の11月22,29日号に、「「救国」産報運動を基礎づける「新たな社会像」  「連合」の「働くことを軸とする安心社会」論の欺瞞」という長大な論文が載っていまして、連合の新たな政策ビジョンを猛烈に批判しています。

ここで批判されている考え方に近いことを言ってきている立場としては、どういう観点から批判されているのかが大変興味深く、いくつか見ていきます。

ちなみに、こういう新左翼な方々(及びかつてそうであった方々)の文章の通例で、やたらに口汚く罵った表現が頻出するのですが、まあそこは適宜スルーしつつ。

>かくして、没落の縁にあえぐ日本帝国主義の延命のために、ひたすら献身しているのが「連合」労働貴族どもなのである。このような自らの反プロレタリア的本質を押し隠し、「連合」の政策・制度要求とそれを実現する運動が、あたかも「働くすべての人たち」のためのものであるかのように言いくるめる-まさにそのために「連合」古賀指導部がひねり出したのが、この「働くことを軸とする安心社会」という「新たな社会像」なのである。

いやあ、どんな極悪非道なものが出てくるのか、興味津々です。

ここでは、11月29日号の「働くことが自己実現という詭弁」というところから、連合の言うディーセントワークを猛烈に批判しているところをいくつか引用。

>まず(1)の「男性正規社員中心の旧弊を改め、女性社員や非正規社員を含めて、同一価値の仕事には同一水準の賃金を支払うこと-これは「均等・均衡処遇」「賃金の底上げ」を図るものとして押し出されている。だがこれは、資本家どもが総額人件費抑制のために非正規雇用形態を一層活用することを”所与の前提”と見なした上での「要求」なのである。・・・

>いやそればかりか、今日独占資本家どもは、一部の中核的正社員以外の一般的正社員層については、漸次、非正規雇用に置き換えていくためにも、「仕事(職務)の価値」なるものにみあって賃金を支払うという賃金制度に切り替えようとしている。このことに呼応して「仕事の価値に見合った所得」なるものを唱えているのが「連合」労働貴族なのだ。

>また彼らは「子ども手当などの社会的手当」による「可処分所得の底上げ」が重要だという。だがそれはしょせん、「連合」指導部が賃上げ要求を一切放棄していることの免罪符に過ぎない。いやそれだけではない。日本経団連はこの民主党政権が開始した、政府による子ども手当を「仕事・役割基準の賃金制度への改革にふさわしい」と歓迎し、多くの企業経営者がこれに乗じて家族手当を廃止したのであった。今日総額人件費を抑制するために「仕事・役割・貢献度基準賃金」の名において、賃金における「年功的要素」や「家族扶養的要素」を極力排除しようとしている独占資本家どもにとって、子ども手当などによって勤労者の可処分所得を底上げするという民主党政権の政策は、まことに好都合なのである。賃金要求を放棄した上で、その分血税を原資とした「社会的手当」の増額要求にすり替える「連合」指導部の方針は、右のような独占資本家どもの賃金政策に呼応したものに他ならない。

ふぅ、よくこれだけ次から次へと悪口雑言罵詈讒謗が繰り出せるものだと思いますが、まあそれは職業柄なのでしょう。むしろ、ここで言われていることは、価値判断の方向性はともかく、認識としてはおおむね正しいと言っていいと思われます。

まさに同一労働同一賃金に向けて賃金における「年功的要素」「家族扶養的要素」を薄めていこうとすれば、それを補填する公的な社会手当が不可欠になるわけで、革マル派的形容詞を取り除けば、上で言われていることは要するにそういうことであるわけです。

むしろ、革マル派の皆さまは断固として「年功的要素」「家族扶養的要素」を堅持し、同一労働同一賃金は断固として拒否するという考え方であることがよく分かり、大変勉強になります。

2010年12月 8日 (水)

駐留軍労働者の三者間労務供給関係

朝日の記事で、

http://www.asahi.com/national/update/1207/SEB201012070005.html(米軍解雇、二審も無効判決 沖縄基地従業員、復職には壁)

>沖縄の米軍基地従業員が、基地内の秩序を乱したとして解雇されたのは不当だとして、従業員を雇って米軍に提供する立場にある国に、雇用契約の確認などを求めた訴訟の控訴審判決が7日、福岡高裁那覇支部であった。橋本良成裁判長は、「(基地従業員の)発言の内容などにかんがみて制裁解雇は重きに失し、解雇権の乱用に該当する」として、解雇を無効とした一審判決を支持し、国の控訴を棄却した。

 ただ、日米地位協定に基づく基地従業員の雇用に関する日米間の協約では、解雇無効判決が確定しても、在日米軍は「安全上の理由」で復職を拒めることになっており、復職のめどは立っていない。

これはある種の三者間労務供給関係なんですね。日本政府が雇用主だけれど、実際に指揮命令する使用者は米軍で、いわば日本政府が派遣元事業主、米軍が派遣先事業主といった立場にあるわけです。

>訴えていたのは、沖縄の米軍キャンプ瑞慶覧で機械工として働いていた沖縄県北中城村の安里治さん(49)。訴えによると、安里さんは2007年、米軍の上司に「殺す」と発言するなど勤務態度が悪いとして米軍から解雇され、日本政府も同意した。安里さんは上司に「殺す」の意味での発言はしておらず、解雇は不当だとして提訴。一審の那覇地裁は、安里さんの発言内容は判然としていないなどとして、解雇は重すぎて無効だとする判決を言い渡していた。

 控訴審判決も、安里さんが「殺す」と発言したと認められる確かな証拠はなく、制裁解雇に相当するほどの高い違法性は認められないとした。

 控訴審では裁判長が和解を勧告。原告側弁護団によると、裁判長は在沖米軍内に復職場所を探すよう国に促したが、国側は「秩序を乱す行為」を理由に解雇された安里さんに「復職の展望はない」などと応じず、和解は成立しなかった

派遣元たる日本政府としては、派遣先の米軍が嫌だといっているのに使ってもらうわけにも行かず、とはいえ解雇は無効とされたので給料は払わなければいけない立場ということでしょうか。

2010年12月 7日 (火)

明治大学労働講座

本日、明治大学の労働講座でお話ししてきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-9af0.html(明治大学労働講座企画委員会寄附講座)

>12月7日 どのような社会をめざすのか(1)〜ヨーロッパと日本 独立行政法人労働政策・研修機構 労使関係・労使コミュニケーション部門統括研究員 濱口 桂一郎

お話しした内容は、だいたい次のようなものです。

1 ヨーロッパの労働社会と日本の労働社会

・雇用契約は「ジョブ」か「メンバーシップ」か
・労働時間規制は「物理的時間」か「残業代支払いの基準」か
・配転命令は「原則なし」か「原則服従」か
・解雇規制は「発言担保」か「メンバーシップ維持」か
・賃金制度は「職務基準」か「(人格)能力基準」か
・労働組合は「産業別」か「企業別」か
・教育訓練は「企業外」か「企業内」か
・生活保障責任は「国」か「企業」か

2 日本的フレクシキュリティとその動揺

・家計維持的成人男子とその扶養家族への雇用形態の割り当て
・家計補助的ゆえの差別・不安定雇用の容認
・家計維持的非正規労働者の大量出現
・セーフティネット不全の露呈
・メンバーシップ型正社員の「収縮」と「濃縮」
・白地の学生に「即戦力」を要求する矛盾
・「ブラック企業」現象の雇用システム的要因

3 ヨーロッパ型労働社会を参照すべき点

・物理的労働時間規制の再確立(残業時間規制、休息時間規制)
・整理解雇4要件の見直しと不公正解雇規制の強化(解雇事由の明確化)
・正規・非正規の均等待遇原則(当面は期間比例原則)
・情報提供・労使協議の義務化(労働組合と労働者代表制のあり方要検討)
・企業外教育訓練システムの抜本的強化(訓練施設の拡充+学校自体の訓練校化)
・現役世代への非会社型社会保障(養育費、教育費、住宅費等)の確立
・「ジョブ型正社員」の構築へ

最後にお二人の学生の方からいい質問をいただきました。お一人は卒業後労働基準監督官になる予定だそうです。

また、講義終了後、関係者の皆様と珈琲を飲みながら歓談させていただきました。リバティタワーのてっぺんからの眺望は絶品ですね。

いろいろとありがとうございました。

(追記)

http://twitter.com/hash_noir/status/12098764986646528

>今日の講義で濱口桂一郎って人が来た。結構おもしろかった疑惑。ひさしぶりにレジュメ埋まるほどメモを取った。

「って人」としては、「結構おもしろ」く聞いてくれて嬉しいです。

(再追記)

http://twitter.com/hash_noir/status/31607656355463168

>いまさらながら・・・あんなちいさなつぶやきでも本人にとどいちゃうんですね。

ええ、届くんです。それがいいところ。

アジアの経営団体幹部への講義

昨日、海外技術者研修協会でアジア諸国(中国、インド、インドネシア、韓国、シンガポール)の経営団体の幹部に日本の雇用システムについて3時間講義。

これはもうだいぶ前から、日本経団連国際協力センター時代からずっとやっているのですが、何回やっても楽しい。それは、こちらが喋っているはなから、どんどん質問や意見が噴出し、それに応えているうちにどんどんとテーマが進んでいくという、理想的な双方向的ディスカッションによる講義ができるからなんですね。

日本の学生って、こっちが水を向けてもあんまり自分から喋らないのですが、彼らは山のように疑問を突きつけてくる。まあ、冒頭いきなり、日本の雇用契約にはジョブがない!なんて断言されたら、いっぱい疑問が出てくるのは当然ですが。

今日は明治大学の労働講座。さて、どれくらい関心を持ってくれるでしょうか。

2010年12月 5日 (日)

井口泰氏のマジすか発言@五十嵐ついーと

五十嵐泰正さんのついーとで、昨日のJILPTの「今後の外国人労働者問題を考える」シンポジウムが紹介されています。詳しい発言内容はいずれJILPTのHPにアップされることになるはずですが、五十嵐さんがかなり衝撃を受けた井口発言を紹介しています。

http://twitter.com/yas_igarashi

>第一部の講演だん。ちかれた。小野先生も変な文明論とか絡めないで、低賃金外国人導入による低生産性部門温存の危険性と、人材流出による途上国への悪影響に集中して具体的に紹介してくれれば、ぐっと説得力増すのに…なんで日本の「受け入れ慎重論」って、アレげな話に引っ張られていっちゃうんだろ

>井口先生は、外国人導入は労働人口減少のためではなく、雇用のミスマッチのため、と。そして賃金上げてもそれは解消しない、と。そこでなぜ、国内向けの適切な職業訓練をスキップして、いきなり外国人?大学進学率が上がったからと言うが、高卒の内定率が大卒以下であることを知らない訳ないでしょう?

>呟くべきかちょっと迷ったけど、公開の場で言ったのは間違いないので、井口先生のマジすか発言を一つ。井口構想では、導入すべき外国人は高度人材に加え、職業高校程度の技能を持った労働者。そこが日本には不足しているが、それ以下の本当の低賃金非熟練職は「国内の失業者にとっとけばいい」と!

>なんかさらっと流れて誰も突っ込まなかったけど、これは相当な発言だよ; もちろん外国人の下層への固定化は望ましくないが、「最下層」の国内労働者はどう暮らしていけと? 家計補助的で家もあるからいいんですよ、とでも言いたいんだろうか?

>僕も外国人が最下層でいいなんて微塵も思ってませんが、はっきり言って耳を疑いました…が、終わったあとびっくりしたと明石くんと確認しあったので、間違いないです

>まさに木を見て森を見ず。特定領域の政策や研究のエキスパートにはままありがちだし、ポジショントークもあるんでしょうが、移民・外国人回りには本当に多いと感じます。で、違う立場を取ればいきなり排外主義みたいな。さすがにそこに一石を投じなきゃ、と柄にもなく使命感を感じるですよ。

>はてさて、井口発言の何を問題と考えるか。1)職業高卒程度の熟練労働者が不足しているというなら、まずなすべきは適切な職業訓練のはずなのに、ミスマッチ解消をハナから諦めていきなり外国人。これでは職業訓練コストを日本では企業も政府も負担せずに即戦力を輸入したい、と言ってるに等しい。

>井口報告の中心は、外国人への社会統合政策は、将来への投資なのでコストと考えるべきではない云々の話だったけど、「日本語教育コスト」不要な人たちに対してさえ、こんな発言がさらりと出てきてしまうと、移民第二世代教育するなら新たに若い移民を導入しようってなるだろうなと思われても仕方ない

>2)こうした発言の社会的効果(どう受け止められるか)についてまったく鈍感としか言いようがない。在特会さんみたいな人まで行かずとも、大抵の人は不安しか感じないだろうし、そんなビジョンで「労働開国」が進められてると知ったら、激しい反発を招くことは必至。

>この発言を聞いて素直に同調する人がいるとすれば、「ゆとりの若者より外人のほうがよく働いてくれるからねぇ」みたいな限界的産業やブラックに近い企業の経営者だろうけど(正直いくつか顔が浮かびます)、それはすなわちそういうことですよ。

>拙編著http://bit.ly/besMnlの序章でも強調しましたが、労働条件の悪さの温存(非採算部門の延命、生産性向上努力の阻害)を容認する形での移民導入政策は、日本人のためにも、来日する外国人のためにもなりません。色々いいこと言われても、あの発言一発でふっとんだ感じです。

間接伝聞だけであれこれ論ずることは差し控えたいと思いますが、一般論として言えば、こういう議論が進めば進むほど、お花畑的多文化共生論と在特会的思考停止排外主義が無内容に華々しい空中戦を繰り広げる一方で、日本の労働市場をどうするかというより本質的な議論は取り残されていくことになるのでしょう。

も一ついえば、「職業高卒」程度は外国人で、という発想がするりと出てくるところに、公的職業教育訓練に対する軽視感覚が現代社会に牢固として根付いていることを感じざるを得ません。職業訓練校の廃止政策やジョブカードに対する敵意に満ちた仕分けなどにも、共通の感覚があるように思われます。まあ、ついった上の伝聞でこれ以上語るのはやめておきますが。

(追記)

Book_12889 外国人労働者問題についてのわたくしの考え方は、上のついーと主の五十嵐泰正さんが編者の『労働再審2 越境する労働と〈移民〉』(大月書店)に第6章 日本の外国人労働者政策――労働政策の否定に立脚した外国人政策の「失われた二〇年」として書きました。五十嵐さんの序章ともども是非お買い求めの上お読み下さい。

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b73914.html

と、出版社に義理を果たした上で・・・、

その主張のあらすじを某所で喋ったものが、『FORUM OPINION』という雑誌の10号に載っておりまして、こちらはわたくしのHPにアップしてありますので、ご参考までにご覧いただければ、と。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/forum1002.html(外国人労働者問題の“ねじれ”について)

また、『労基旬報』でも、外国人労働者問題を考える基本的な枠組みについて、「外国人労働者問題の本質的困難性」という小文を書いておりまして、こちらもHPにアップしております。併せてどうぞ。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo101025.html(外国人労働者問題の本質的困難性)

ジョブカード再生論@朝日新聞

本日の朝日新聞の社説が、「ジョブカード―仕分けを機に再生の道へ」と論じています。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit1

>事業仕分けで否定的な指摘を受けても、そこでの批判をもとに改善に取り組む努力があっていい。一部が「廃止」とされたジョブカード制度も、そうした事例と考えたい。・・・

>仕分けの手法や理由付けには疑問も残るが、既存の制度が成長分野での雇用創出や、転職しやすい労働市場の環境づくりという大きな課題に十分に対応していたとはいえなかった。

 菅直人首相や蓮舫行政刷新相も国会で、制度の趣旨は重視すると答弁している。雇用の改善は直面する課題だ。ここは原点に立ち返り、改革に挑む機会とすべきだ。日本の雇用構造を変えていく制度へと進化させる方向で検討を進めてはどうだろう。

 たとえば、雇用保険の失業給付を受ける際にジョブカード取得を義務づけてはどうか。介護や観光など、今後の成長分野とされる職種で普及を進めるのもいい。業種ごとの評価基準を確立し、能力の向上が昇格や給与に反映するように促すことも重要だ。

 企業はつぶれても、働き手の能力は失われず、新たな仕事に転じられる。ジョブカードで、そうした労働市場への改革を促したい。

朝日新聞らしい、(良く言えば)目配りが効いた、(悪く言えば)あちこちに配慮しすぎた書き方ですが、方向性としては正しい(最近では珍しい)社説といえましょう。

未払い賃金の立て替え払いまでも平然とムダと言い切る仕分け結果から見ても、仕分け人たちが雇用労働問題について的確な認識を持っていたとは到底思えませんが、仕分け人の見当はずれの認識はともかく、政府全体の政策の方向付けとしては、これを契機にさらなる改善を図っていくというのが正しい方向なのでしょう。

雇用保険の失業給付を受ける際にジョブカード取得を義務づけてはどうか」というのはなかなか面白いアイディアです。

わたくしがこの社説を評価したいのは、朝日新聞としてここまで書いた以上、ジョブカード関連の予算要求に対して、まさか

>死んだはずの政策が甦ってきた。ゾンビだ!

などという馬鹿げた批判をすることはありませんよね?

という点にあります。

もし万一、わけの分かっていない政治部記者がゾンビとかアホなことを書いたら、この社説との整合性について全面的に批判させていただきますから。

2010年12月 3日 (金)

正規・非正規・どちらともいえない

日本労使関係研究協会のニュースレターの巻頭の随想で、会長の仁田道夫先生が、大変重要な問題提起をされています。

>いったい、この正規と非正規という二分法は、どこまで確かなものなのでしょうか。・・・

仁田先生自身がかつて担当された今は亡き東京都労働研究所の「中小事業所における非正規従業員の実態」という調査報告について、

>ここで指摘しておきたいことは、この調査で「正社員とそれ以外の社員(臨時、パート、アルバイト等)の区別」があるかどうかをまず問い、区別のある事業所についてのみ、非正規社員の実情について調べる構成をとっていることです。これは、当時、都立労働研究所の調査研究を指導しておられた故氏原正治郎先生の仮説によるものでした。小零細企業では、正規も非正規もなく、ごちゃ混ぜになっているのではないかとの考えによるものでした。

と述べ、その結果について、

>「区別なし」311(38.3%)、「区別あり・現在いる」341(42.0%)、「区別あり・現在いない」159(19.6%)でした。とくに規模の小さい事業所で「区別なし」の割合が高く、20人未満では40%を超えていました。氏原仮説は支持されたことになります。

と述べています。しかし、だとすると、そういう「区別なし」事業所の労働者が「お前は正規か非正規か?」と聞かれたら、どう答えているのでしょうか。

実は、これは、我々が行っている個別紛争の処理票でも同じことがあって、「どちらともいえない」という選択肢はないんですね。対象は小零細企業が大部分なので、まさに「どちらともいえない」ようなケースがいっぱいありますが、処理票上はどちらかに分類されてしまっています。正規がデフォルトで非正規がアノマリーだとする観念に従って分類すると、こういうのは「正規」になってしまい、しかしその内実はほとんど「非正規」と変わらない。

仁田先生曰く、

>重要な点は、正規・非正規の区分が決して鉄壁のようなものではなく、そのような選択肢が与えられれば「どちらとも言えない」という回答が相当数出てくる可能性があるということです。政策論や法律論を闘わせるときには、そのような実態を踏まえて議論することが必要で、そうしないと、法律や政策が「プロクルテスのベッド」となってしまうかも知れません。

まったくそのとおりです。

言い訳になりますが、拙著『新しい労働社会』の序章の最後のところで、次のように述べたのは、そこのところが頭に引っかかったいたからでもあるのですが、でもきちんと展開できていないのは認めざるを得ません。

>中小企業労働者
 以上述べてきたシステムは、大企業分野においてもっとも典型的に発達したモデルです。日本社会は、大企業と中小企業、とりわけ零細企業の間にさまざまな面で大きな格差のある社会ですが、雇用システムのあり方についても企業規模に対応して連続的な違いが存在します。それをよく示すのは、企業規模別の勤続年数と年齢による賃金カーブ、そして労働組合組織率です。企業規模が小さくなればなるほど、勤続年数は短くなり、賃金カーブは平べったくなり、労働組合は存在しなくなります。つまり、長期雇用制度、年功賃金制度、企業別組合という三種の神器の影が薄くなるのです。
 企業規模が小さければ小さいほど、企業の中に用意される職務の数は少なくなりますし、職場も一カ所だけということが普通になります。そうすると、いかにメンバーシップ契約だといっても、実際には企業規模によって職務や場所は限定されることになり、事実上限定された雇用契約に近くなります。つまり、企業規模が小さいほど事実上ジョブ型に近づくわけです。
 中小企業ほど景気変動による影響を強く受けやすいですし、その場合雇用を維持する能力も弱いですから、失業することもそれほど例外的な現象ではなく、そのため地域的な外部労働市場がそれなりに存在感を持っている分野でもあります。その意味では、企業規模が小さくなればなるほど正社員といっても非正規労働者とあまり変わらないという面もあります。近年「名ばかり正社員」という言葉がはやりつつありますが、もともと零細企業の正社員は大企業の正社員と比べれば「名ばかり」であったのです。
 ただ、企業規模は連続的な指標であり、それにともなう雇用システムのあり方も連続的に変化していくものですから、大企業はこれこれだが中小企業がこうだといった風に、定性的な議論をするのは難しいところがあります。本書では構造的な議論を主に展開しますので、どうしても企業規模による細かい議論が抜け落ちる傾向があることは否定できません。この点を念頭に置きつつ、以下の本論を読み進んでください

『日本の若者と雇用』増刷

Youth_2 明石書店より、OECD編著、中島ゆり訳、私の監訳『日本の若者と雇用:OECD若年者雇用レビュー:日本』が、好評につき重版が決定したという連絡をいただきました。

今年初めに出版してから1年弱ですが、こういうOECDの専門的な書籍が増刷に至ったというのは、この間ご購読いただいた皆さまのおかげと感謝しております。

>OECDは日本を含む16カ国において、学校から職業への移行過程に関する一連の報告書の作成を開始した。各報告には、若者にとっての雇用への主な障壁に関する調査、学校から職業への移行を改善するために実施された既存の政策の適切性と有効性の評価、行政機関や労使団体によるさらなる行動に向けた一連の政策提言が含まれている。

この本の原著となる報告書が公表されたのは、いまから2年前になります。ちょうど派遣切りが大きな社会問題として騒がれ、若者の非正規労働が焦点になっていた時期でした。

本ブログでも、さっそくこの報告書を取り上げ、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ce0b.html(日本は若者が安定した仕事につけるよう、もっとやれることがある)

>というわけで、まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで公表されておりますな。

その後、新進気鋭の研究者である中島ゆりさんの翻訳原稿を監訳するということになり、その作業がひととおり終わったところで、本ブログで宣伝させていただき、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/oecd-1901.html(OECD『日本の若者と仕事』翻訳刊行のお知らせ)

>原著が公表された昨年12月にも「まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで公表されておりますな」と申し上げたんですが、政権が変わって、「コンクリートから人へ」とか言っているはずなのに、その「人」作りを叩きつぶそうという動きも蠢動している今日、再び「まさに時宜を得たというか、時宜を得すぎているんじゃない、というぐらい絶好のタイミングで」翻訳出版することになるというのも、何かの巡り合わせでありましょうか・・・

今年初めに出版いたしましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0da2.html(OECD『日本の若者と雇用』ついに刊行!)

幸い、多くの読者を得て、増刷に至ったわけです。

この際、もし未だお読みいただいていない方がおられましたら、お誘い合わせの上ご購読いただければ幸いです。世の中には、「OECDはこういっている」と一知半解を繰り広げる方々もおられますので、政策リテラシーを高める上からも、大変有用かと思います。

2325 なお、若者雇用といえば、すぐに高齢者を目の仇にして「こいつらをクビして会社から叩き出せば、若者はみんなハッピーになる」というたぐいの議論を展開する向きもありますが、それがナンセンスであることは、同じOECDの報告書『世界の高齢化と雇用政策』をご覧いただければきちんと説明されています。こちらも併せてどうぞ。

>OECDが2001年から行ってきた高齢者雇用政策に関するレビューの統合報告書。先進諸国の高齢者雇用政策が、公的、私的年金制度、早期引退制度、就業への課税、使用者の年齢差別、年功賃金、解雇規制、職業訓練、職業紹介、健康と労働時間など、多面的に分析されている。特に、年齢差別禁止法制について、最新の動向が盛り込まれている。

また、近々、OECDのアクティベーション政策レビューの日本版が公表される予定で、その翻訳も明石書店から出版される予定です。

2010年12月 2日 (木)

政府・連合トップ会談

20101201_184922_s_2昨日の「第4回政府・連合トップ会談」について、連合のホームページに載っています。重要なのは、雇用政策に関わる「仕分け」について、次のようなやりとりがあったところで、一般のマスコミがきちんと報じていないので、ここに引用しておきます。

20101201_184915_s>最後に古賀会長から、「雇用・労働に関する仕分けについての意見交換では、すべて制度を廃止ということでなく、無駄の排除はするが必要なものはきちんとやる、と受け止めた。そのうえで、労働・雇用については政労使の雇用戦略対話という場があるので、そこで具体的に詰め、方向性を出していくということにしたい」と発言し、
 これを受け、菅総理から「事業仕分けについて指摘をいただいたが、事業仕分けそのもので政策を判断しているわけではなく、政策遂行におけるムダをどう省くかという観点である。行政刷新会議でさらに検討したうえ、各担当大臣とも調整し、最終的には予算編成の中で結論を出していきたい。ムダの削減は当然大事であるが、雇用への配慮は欠かせないという判断を最終的には考えていきたい。雇用戦略対話開催という提案があったが、雇用戦略の当面の基本方針をとりまとめ、予算編成や税制改正に反映していく場として近々開催したい」と述べ、締めくくった。

政治部の記者はこういうのを報道したくないのかも知れませんが、こういうところこそきちんと国民に伝える必要があるはずです。

>政権に対する国民の視線は厳しいものになっている。連合は民主党政権の応援団として、これからも全力で支え、役割を果たしていきたいが、国民の声に対しては政府・与党として危機感・緊張感を持って重く受け止める必要があると思う。国会もねじれており厳しい運営となっているが、そういうときだからこそ政府・与党が一致結束する体制を望みたい。また、その背景となる民主党としての政治理念の内外に対するアピールも必要であり、国民対話も含めて議論が活発に行われることを望みたい

といった別に何ら事新しい情報のない「総論」だけではなく。

『都市問題』12月号のその他の論文

Toshimondai 昨日は自分のだけ紹介しましたが、その他の特集論文も読む値打ちのあるものばかりなので紹介しておきます。この雑誌は、大きな図書館には大体置いてあると思います。

まず、永田萬享さんの「地域における公共職業訓練の今日的展開と役割、機能」です。ここで指摘されている中で重要なのは、「民間でできることは民間へ」「地方でできることは地方で」という掛け声の下で、公共職業訓練の必要性がかつてなく高まるさなかに公共職業訓練の縮小がどんどんすすんでいることです。その出発点として永田さんが指摘するのは、1998年、当時の労働相が当時の文部省との間で、職業訓練の実施にあたり、「官民の役割分担に配慮して民間の教育訓練施設との競合を避けること」として覚書を取り交わし、これを根拠として以来、都道府県の訓練校の廃止統合などのリストラが一層加速されていったということです。

1998年といえば、既に若年非正規労働者が増加しつつあったにもかかわらず社会的認識がまったく追いつかず、一方で「夢見るフリーター」を非難しながら、まだ「自己啓発」万能の市場主義的発想が強かった時代です。この論文では各県の廃止状況が羅列されていますが、さらに公共訓練校でも学卒者訓練の有料化も進んでいったと述べています。

労働市場の基本的インフラストラクチャーとしての公共職業訓練が憎くてたまらない人々がいるのでしょうね。

次の宮本みち子さんの「困難な条件を持つ若者に対する就労支援」は、デンマークやフィンランドのオルタナティブ教育を引きながら、学校と会社の中間に教育と生産活動がミックスされ、職業教育と社会参加活動の両面を有する教育訓練の場を作ることを提起していますが、一番訴えるべき点はむしろ最後のところの、日本の若者就労支援対策の問題点を指摘したところでしょう。

>近年の若年者支援の前提は、いずれも本人が情報をキャッチしていること、通所のための交通費を含め、利用するための費用を負担する余裕があること、親が子どもの苦境を心配してなんとかしようと思っていること、当面の住まいや生活費に困窮していないこと、複合的なリスクを抱えてはいないこと、などである。もっとも恵まれない若年層の貧困と社会的排除への視点が弱いために、もっともサポートを必要としている若者には、有効性がない結果となる。

>EUにおける若者支援が、無業状態の若者に対する何らかの経済的給付制度を有し、支給を通じて若者の所在を把握できていることや、給付すること(若者の権利)によって、職業訓練や就労あるいは社会活動へ参加するという責任を若者に課す(国家との契約関係)という関係が、日本では成り立たない。つまり個人と家族の私的問題とされ、社会問題と認識されていない。

これはきわめて重要な指摘だと思います。

EUでは就労や訓練受講といった「義務」と生活給付という「権利」の双務契約関係の上に若者対策が載っているのに対し、日本では親が面倒見てくれる「パラサイト」は「義務」を果たす必要がないし、逆に親が面倒見てくれない若者にも「権利」が与えられない、という状況なわけです。

国家と若者の双務契約が成り立たない。「義務」を果たすから我に「権利」を与えよ!という堂々とした要求が出てこない。

そして、ろくでもない思想家連中が、ベーシックインカムと称して、「義務」のない「権利」を要求することによって、ますますこういう健全な双務契約の存立する基盤が失われていくという皮肉な事態。

「社会問題」が存在せず、親子関係やそれに類する私的問題しか存在しない、認知されないこの「知的空間」。

いやはや・・・。

次の本田由紀さんの「学校教育の職業的意義をめぐる課題」は、タイトルを見ただけで読まなくても分かるとお考えかも知れませんが、それは短慮というものです。

ここでは、教育の職業的意義に反感を示す人々のプロフィールを次のように描いています。なかなか言い得て妙ですね。

>そうした教員は1950年代半ばに生まれ、1970年前後に高校に入学した世代であるといえる。すなわち彼らは、日本社会において教育の職業的意義が希薄化を遂げていた時期に高校から大学へと進学し、普通教育志向・進学志向・受験競争がもっとも支配的であった1970年代後半から1980年代にかけて、多くは普通科目の教鞭を手にした世代である。

>その多くは、学校以外の職場の現実、特に近年の若年層が直面している労働市場の現実について、身を以て体験したことがないことは言うまでもない。

>教育界において、このようなライフコースと考え方を抱く者が、個々の学校内や教育委員会、あるいは教育行政の中枢において多数を占め、かつ大きな権限をもつ管理的立場に数多くついているということが、教育の職業的意義を高める上で、一つの大きな障害となっている。

そうした人々の発想の中核にあるのは「形式的平等」という考え方である。・・・例えば「普通科」という単一カテゴリーの下に同年齢層の多くを包摂することをもって、「平等な可能性」が保障されているとみなす考え方である。

そういう手合いはあちこちにいっぱいいそうですね

最後の齊藤貴男さんの「労働組合による職業訓練」は、電機連合の職業アカデミーの「失敗」から話を始め、菅沼隆さんや大木栄一さんの言葉を引きながら、労働組合の新たな存在意義として職業訓練を追求することを提起しています。

訓練関係の特集記事は以上ですが、もう一つの特集「日本の大企業の罪と罰」の中の、竹内洋さんの「大企業と大学教育」が、本ブログでも何回となく取り上げてきた大学教育の職業的レリバンスが、昔はそれなりに結構あったこと、それが高度成長後薄れていったことを、自分の経験を踏まえて書かれています。これは大変面白いので、是非図書館かどこかで見つけて読んでみてください。

>いまでは驚くかも知れないが、半世紀ほど前の1960年代前半頃までは、大企業に入社するに当たって大学の専攻や成績がかなり重視されていた時代がある。・・・

>このような時代は、企業と大学教育の結びつきははっきりしていた。大企業に行きたいなら、法学部や経済学部に進学すること、間違っても文学部などに進学するべきではない。また専門の成績が各社の想定する標準を下回れば、採用されなくなってしまう。このようなシグナルは、キャンパスの大学生に外側からの大きな教育効果になっていた。・・・

>ところが大企業と大学の関係が変わる時代がやってくる。・・・こうなると、大学で学んだ専門よりも潜在能力で採用する方がよいことになる。

>このような企業の採用方式は、大学教育に大きすぎる影響を及ぼした。学部を問わず、とにかく偏差値の高い大学に入ればよい。大学の成績よりも、クラブ活動などに精を出し、協調性や人柄をウリにすればよいことになる。

先の本田由紀さんの論文の教員の世代論と相互補完関係にある企業採用の世代論ですが、なかなか言えてます。

2010年12月 1日 (水)

意味なさすぎ

拙著書評・・・というよりは、拙著を読んで書評しろといわれた学生の嘆き節というところでしょうか。

http://pixiv.cc/rassi/archives/51625090.html(あーーー)

>ほんとに書評めんどくさい。
普段から新聞も読まずに社会の状況まったく分かってないような学生にこんな本評価させるとか意味なさすぎでしょ!

も~う。

はあ、すんません。と、著者が謝る必要もないような気もしますが・・・。

それにしても、どちらの大学の先生かは知りませんが、「普段から新聞も読まずに社会の状況まったく分かってないような学生」に、拙著を読ませるとはなかなかの遠謀深慮。

いずれそういう学生も、否応なく労働の現場に放り込まれるわけですから。

日本型雇用システムと職業訓練

Toshimondai 東京市政調査会から発行されている『都市問題』12月号が、

「特集1 : 日本の大企業の罪と罰」

「特集2 : 職業訓練のこれから」

という特集を組んでおりまして、そのうち職業訓練特集は次のようなラインナップです。

日本型雇用システムと職業訓練   濱口 桂一郎
地域における公共職業訓練の今日的展開と役割、機能  永田 萬享
困難な条件をもつ若者に対する就労支援――包括的支援がなぜ必要か  宮本 みち子
学校教育の職業的意義をめぐる課題  本田 由紀
労働組合による職業訓練――新たな存在意義を示せるか  斎藤 貴男

このわたくしの論文をこちらにアップしました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/toshikunren.html

つぎのような中身です。

>1 日本型雇用システムの構造
2 日本型雇用システムと企業内教育訓練システム
3 公的教育訓練システムの低い位置づけ
4 公的教育訓練システム中心の構想
5 企業内教育訓練体制の確立
6 職業指向型教育システムに向けて
7 公的職業訓練軽視政策の継続
8 日本版NVQの可能性
(追記)

この最後の追記というのは、校正の時に、どうしても入れたくて、本文の記述を少し削ってわざわざ入れてもらったものです。

>(追記)10月27日に行われた「事業仕分け」で、ジョブカード制度は廃止と判定された。民主党政権は職業訓練を目の仇にしているのであろうか。

まあ、ネット上にも、職業訓練を目の仇にして飽くことのない徒輩がうようよしていますからね。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-429.html不満を吸収する言説の危うさ

>その方がいくら口先で「私は労働者の味方ですよ」といったところで、その舌の根も乾かないうちに「労働組合なんか潰してしまえ」とか「公的職業訓練なんかムダの塊だ」といいそうで信用ならないのです。

>まあ、その典型が、上述のようにリフレーション政策を支持しながら、その一方でミクロな積極的労働政策を排除しようとしたり、地方の自己責任を強化しようとしたりする方々の言説なわけですが。

>もちろんリフレ派の中には通公認さんのように大きな政府を志向して、政治主導とか地方分権に懐疑的な立場をとられる方がいらっしゃることは承知しておりますが、その一方で、高橋洋一氏のように補完性の原理だけを根拠に地方分権を推進したり、田中秀臣氏のように日本型サラリーマンを推奨して公共職業訓練を担う組織を排除しようとするような方がいらっしゃるというのも事実だということです。

実際に、たとえば本エントリで指摘したような公共職業訓練などの積極的労働政策とか、生活保護や介護保険などの再分配政策の地方分権化などが、そのような一部のリフレ派の標的となって「仕分け」られているわけで、上記のような立場をとる私からすれば、「でもリフレ派だから許しちゃう」なんてことはどうしてもいえないのです。

>その意味で、私にとっていわゆるリフレ派が制御不可能な政治集団に見えてしまう理由は、リフレーション政策以外の政策を執拗に攻撃し続ける高橋洋一氏や田中秀臣氏を、リフレ派だからという理由のみでもって、許容するどころか称揚してしまっている点にあるのだろうと思います。このお二方の言説には執拗な官僚バッシングも共通してしますし、日本的雇用慣行が積み重ねてきた経緯がミクロに現われる組織の人事労務に対して、その経緯を無視した批判を繰り広げる点も共通しているように思われます。

労働政策審議会会長見解

本日開催された労働政策審議会において、次のような会長見解が出されたようです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000xn4d-att/2r9852000000xpoh.pdf

(昨日とはリンク先のアドレスが異なっています。)

>1 出先機関改革

 地域主権戦略会議では、出先機関改革として、ハローワークの地方移管が重点的に議論されているが、労働政策審議会では、これまで2回にわたり、公労使一致の下、「引き続き、国による全国ネットワークのサービス推進体制を堅持すべき」との意見を、厚生労働大臣に提出している。
 ハローワークがますます機能的にその役割を果たすことができるよう、統合性、一体性を持った運営をすることが重要であるので、政府においては、この意見を尊重し、適切に対応していただきたい。

2 事業仕分け

 雇用保険二事業や労災保険の社会復帰促進等事業は、労働者の保護や雇用のセーフティネットとして重要な役割を果たしており、労使の議論を積み重ねて作り上げられてきたものである。
 今後、政府において事業仕分けへの対応を行う際には、これらの事業の果たしている役割や経緯を踏まえ、雇用労働の当事者でもある労使及び雇用労働政策に幅広い知見を有する学識経験者の意見を尊重していただきたい。

もちろん、大変に抑制された表現になっていますが、だからといって怒りが小さいなどと考えてもらっては困るということでありましょう。

政策の各論はまったくわかりもしないままただただ地方分権とか事業仕分けという言葉にパブロフの犬のごとく反応する、一部の「政治学者、政治評論家、新聞の政治部記者」の上から目線の害悪が、この分野ほどもののみごとに露呈する領域はありません。

ここに現れているのは、ステークホルダー民主主義か、指導者ポピュリズムか、という対立軸です。

といっても、その「指導者」たるや、「なんだ、龍馬かぶれか」と犬にせせら笑われるようなレベルですけど。

ちなみに、先日の北大シンポジウムで山口二郎さんが、「最近の朝日新聞は目に余る」と述べていました。「あなたの責任は?」という台詞を呑み込んで言うならば、まったく同感です。政策の各論をわきまえないことを誇りに思っているとしか考えられないパブロフ記者が多すぎる。

(追記)

民主党の石橋みちひろ参議院議員がブログでこの問題を取り上げています。

http://blog.goo.ne.jp/i484jp/e/92193a823759e21f30bce5e13f94c4e0?fm=rss

>メディアは、相変わらず揚げ足をとったり、重箱の隅をつついたりするので忙しいようです。新聞を読むのが嫌になるぐらい・・・。先日ブログで紹介した、国の出先機関の地方移管について、地方移管してはいけないハローワークを真っ先に地方に移管しようとしていたという件。結局、民主党の地方主権調査会では、長時間かけて議論を尽くした上で、やはりハローワークは現在の一体的システムを維持しつつ、国と地方が協力・連携して、求職者への職業紹介サービスを充実・強化していこうという結論になりました。雇用政策、職業紹介業務、雇用保険を三位一体で維持していくことの重要性、日本が批准しているILO第88号条約との整合性、公労使の三者構成機関である労働政策審議会の意見尊重などを考えると、そういう結論が正論なわけです。

しかし、それを新聞各紙がどう報道しているか。皆さんもぜひ記事を読んで、論評して見て下さい。ある全国紙など、論議途中には「ハローワークを地方に移管していいのか!」と書いていたくせに、いざ決まると「地方移管の方針が骨抜き」と書いています。上記に述べた理由など何も吟味せずに・・・。あ、もしちゃんとした論評をして反論している新聞記事を見つけたら教えて下さい。そういうちゃんとしたところとは、しっかり記者にレクチャーしますから!

おーい、朝日新聞さん!せっかく労働グループを作って、そっちではいい記事を書いているのに、政治部に書かせるとぶちこわしですね。

デンマークの全職場の半分しか組合役員がいない!

EIRonlineからデンマークの話題。

http://www.eurofound.europa.eu/eiro/2010/10/articles/dk1010029i.htm(Decline of the Danish shop steward)

最近発表された「組合役員と職場」という調査結果によると、デンマークの職場のたった半分にしか組合役員が居ないことが分かった、ということです。

ここで言っているのは「組合役員」ですから、「組合員」がいないということではありません。わざわざめんどくさい組合活動をやろうという殊勝な人がデンマークでも減ってきているということでしょうか。

管理者の説明による組合役員が居ない理由は、事業所規模が小さいから、従業員が要求しないから、誰も組合役員になろうとしないから、等々です。10人未満の小規模事業所で18%というのはわかりますが、IT関係では10%というのは業界の感覚なんでしょうか。

まあ、なんにせよ、100人未満では組合組織率1%という国とはかなり違うことは確かですが。

迷走する運命にあるワーク・ライフ・バランス政策 by 筒井淳也

拙著へのコメントも含む筒井さんのエッセイです。「シノドス・ジャーナル」から。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1594606.html

>もともとワーク・ライフ・バランス推進の理念のひとつとしてあるべきなのは、「男女均等待遇」である。濱口桂一郎の『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)』が指摘しているように、北欧諸国のみならずEU諸国では、より包括的な、つまり時間(フルタイム・パートタイム)・雇用契約(無期・有期)を含めた「均等待遇」の規制の一面として男女均等待遇が位置づけられている。むしろ各種の休業制度はこれを補完するものである。このような労働市場では当然男女の賃金格差も小さくなるし、子育て後の仕事復帰も容易になる。

これに対して日本の政策立案者のあいだでは、ワーク・ライフ・バランスに「少子化対策」という意味づけを与えることが多い。そのため両立支援政策がどうしても「出産・育児」促進にひっぱられ、したがって「出産・育児休業を充実すればよいのだろう」という方針に帰着してしまう。

むろん少子化対策を講じること自体は非難されるべきことではないのかもしれないが、問題は、この戦略が現在の社会経済的環境では失敗を宿命付けられているということだ。

理由は簡単である。出産・育児休暇のみを充実させても、その他の仕事のやり方は依然としていわゆる「男性的働き方」のままである。改めて強調しなくてはならないのは、出産・育児休暇だけを充実させても、女性は男性のように働くことができるようになるわけではない、ということだ。

荻原が描いたのはまさにこの問題である。長時間労働や転勤を伴なう日本的な「男性的働き方」は、専業主婦あるいはパートの妻がいてはじめて可能になるものなのだから、フルタイムの仕事を持つ夫の妻がフルタイムで働くことには最初から無理があるのだ。

ここで筒井さんが述べていることは、わたくしが「イベント主義」というような言い方で批判してきたものにつながります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-b628.html(ジョブ型正社員に関するメモ)

>ワーク・ライフ・バランスの掛け声を単に育児休業などのイベント豪華主義にとどめることなく、日常の職業生活と家庭生活がバランスした生き方を可能にしていくためには、雇用保障の一定の縮小と引き替えに職務限定、時間限定、場所限定の「ワーク・ライフ・バランス型正社員」を権利として確立していくことが考えられていい。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-7aa0.html(“残業ありき”の働き方を見直す!)

>ここが、たとえばヨーロッパ諸国のワーク・ライフ・バランスの議論をそのまま日本にもってきても話がずれまくる大きな理由です。あちらのワーク・ライフ・バランスというのは、フルタイムといえども法律上の時間制約があることを前提にして、それ以上に所定時間を短くする短時間勤務とか一定期間の休業とかというイベント主義でいいわけです。しかし、日本では法律上のデフォルトルールに戻って時間制約をかける(残業制限)ことがなによりワーク・ライフ・バランスになるわけです。

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