先日の革マル派による批判の紹介と後先になってしまいましたが(笑)、連合のHPに正式に『「働くことを軸とする安心社会」にむけて~わが国が目指すべき社会像の提言~ 』がアップされました。
http://www.jtuc-rengo.or.jp/kurashi/anshin_shakai/index.html
基本的な認識はきわめて的確であると思います。中身を一切抜きにした属性批判だけで生きていくことを決意したある種の方々はともかく、まともにこれからの労働社会のあり方を考えようという方は、是非じっくりと読んでいただきたいと思います。
>第一に、これまでの雇用保障は、男性正社員の雇用に焦点をあてたものであり、その所得で妻と子どもを養うことが想定されていた。税制や社会保障も同様であった。賃金や処遇をめぐる男女の格差が顕著な社会であった。
第二に、男性稼ぎ主は、多くが新卒採用でいったん就職すると、企業によって一人前の企業人に育成され、様々な福利厚生や終身雇用を前提とした賃金制度などによって企業を「終の棲家」(ついのすみか)とすることを求められた。こうした「囲い込み型」の仕組みのもとでは、企業の成長を願うあまり家族生活が犠牲にされたり、一人ひとりが新しいキャリアに挑戦することは困難であった。
第三に、完全雇用を実現したといっても、なかには賃金や処遇面で問題をはらんだ職場も少なくなかった。社会保障や福祉が後手に回ったこととあいまって、一部では貧困を排除できずにいた。
第四に、これまでの仕組みは、官僚主導によるキャッチアップ型の「護送船団方式」であった。ところが、行政指導が効力を失ってからも、行政は業界をコントロールしようとし、そこに口利き役の族議員の利権がついてまわるなどの政官業の癒着構造が温存され、経済のダイナミクスが脅かされたばかりか、強い行政不信が膨らんでいった。
今、私たちに求められていることは、日本の労働運動もあずかって形成されてきたこれまでの仕組みの弱点を取り除き、雇用を軸とした生活保障という長所を、新しい時代の要請に適応させながら抜本的にバージョンアップしていくことである。連合はそのためのビジョン形成に早くから取り組んできた。連合20周年を迎えた今、連合が呈示した21世紀連合ビジョンの先見性が日々明らかになっている。
バブル経済の崩壊を経て、1990年代の半ばには、日本のこれまでの仕組みが耐用年数を過ぎたことが誰の目にも明らかになっていた。しかし、政治や行政は、その抜本改革に向けたビジョンを呈示することができなかった。その間隙を縫って、これまでの仕組みをすべて時代遅れなものとして市場原理主義に置き換えようとする、新自由主義的な潮流が経済と政治を席捲することになった。人々は、それまでの官僚や族議員の利権がはびこり自由な選択が制限された仕組みに対しては、不満と苛立ちを強めていた。したがって、こうした潮流は、政治の劇場化ともあいまって、一時は選挙などでも強い支持を得て、市場原理主義的な改革が進んだ。だが、こうした改革は古い仕組みをただ解体するだけで、それに代わる新しい生活保障の仕組みをつくりえなかった。
この記述は、決して自民党政権だけの話ではなく、連合が支持する民主党政権自身が深く「政治の劇場化」「古い仕組みをただ解体するだけ」「新しい生活保障の仕組みをつくりえなかった」というこの失われた20年の宿痾にとらわれていたことは、もちろんここには連合の立場上政治的に記述できないことではあるとしても、例の事業仕分け騒動を見るだけでも、念頭には置いておく必要があることでしょう。
中身を見ていきましょう。まず「なぜ働くことが軸か」。
>私たちは多様なかたちで働きながら、他の人々と様々なかたちで結びつき、協力しながらモノをつくり、サービスを提供している。生活の糧を得るための雇用労働であっても、決められたルールにもとづいたディーセントな(働きがいのある人間らしい)仕事であるならば、それ自体が私たちの自己実現の機会となる。働くことは生きがいにもなる。仕事に取り組む中で自らの資質が活かされ、能力が発展していくことは、社会の発展に貢献することにつながるとともに、その人の毎日は手応えのあるものとなる。そうした中で他の人々と互いに認め、認められる豊かな関係を築くことができれば、それは自分にとっての財産となり、かつその関係そのものがまた私たちの支えとなる。
人びとが就労し、健康で文化的な生活を送るに足る所得を得て、税金を負担し、社会保険料を支払うことは社会を支える根本を成すものである。
こうした考え方が、私たちが目指す社会の中心をなしている。
そのためには年齢や性別を問わず、あるいは様々な障碍の有無にかかわらず、誰もが働き、つながること(結びつくこと、絆)ができる仕組みをつくり出していく必要がある。いわば参加が保障される社会である。誰もが排除されず、活き活きと働き、つながることができれば、理不尽な格差や貧困に足をとられることなく、社会は活力を増し、経済成長にもはずみがつく。
働くこととは雇用労働だけを意味するものではない。本提言は雇用労働を中心に論じているものの、日々の暮らしの中で子どもを育て、家事労働を担うことも、文化的な活動に参加することも、あるいは地域の問題解決や生活環境の改善などに自発的に取り組むことも、あるいは職場の外で様々なことを学ぶことも、働き、つながることの一部となる。
また、「働くこと」によって人は経済的・社会的に自立し、人と人のつながり、絆を強めていける。国民の安心を保障するのは、単なる制度ではない。制度を支える人間の絆である。社会資本(社会関係資本)とは人の絆のことなのである。こうして様々なかたちの「働くこと」が、生活や社会の仕組みを支える、あるいは形づくる際の軸になる。
ここは、最近流行のベーシックインカム論に対する人間論的次元の批判がきちんと示されています。『POSSE』前号の萱野さんの議論と根底において通じていると言えましょう。
次の「みんなが働き、つながり、支え合う」では、宮本太郎先生の『生活保障』で見たような参加保障の図が描かれています。
>知識や学歴によってその夢を果たすことができないでいる若者。近所に保育所を見つけることができず、職場の理解も得られずに就労をあきらめている母親。親の介護で支援を受けられず就労をあきらめざるを得ない労働者。新しい仕事に挑戦するために公的職業訓練を受けたくても、定員が少なく順番待ちを強いられている失業者。障碍をもった人々、年をとってこれまでのようなかたちでは働くことが困難になった人々は、もっと柔軟なかたちで働ける就労環境を望んでいるのに彼らの力を活かせる職場が少ない。社会参加したいのにそのような機会が限られている。
私たちの目指す社会は、こうした困難を抱えた人々に「恩恵」や「保護」を与え、隠遁やあきらめを促す社会ではない。それでは、人々から自己実現の機会や共に生きる場を奪う社会になりかねない。目指すべきは、「参加すること」に困難を感じているすべての人々に対して、その困難を除去し、一人でも多くの人々を包摂し迎え入れていく社会である。
さらに次の「ディーセント・ワークの実現」では、
>働くことは、経済的・社会的自立の基礎であり、仕事の価値に見合った所得が保障されるべきである。様々な支援を受けて就労した結果、ワーキングプアになってしまうということがあってはならない。税制や社会保障など男性正社員中心の発想が強かったこれまでの仕組みの影響で、日本の最低賃金は、男性正社員の所得を補完するために働く主婦や学生のパート労働の水準にとどめ置かれた。それゆえに、平均賃金に対するそれらの賃金の水準は他の先進工業国と比較しても低くなっている。非正規労働者のなかでも家計を主に担う人々が増えている現状を踏まえ、こうした格差は早急に改善していかなければならない。
男性正社員中心の旧弊を改め、女性社員や非正規労働者を含めて、法律や労働協約による最低賃金規制の強化を基盤として、同一価値の仕事には同一水準の賃金を支払い、処遇全般にわたっても、均等・均衡待遇を実現していかなければならない。
と、「仕事の価値に見合った所得」を主張するとともに、次のように「職場コミュニティとそれを支えるワークルールの確立」を主張しています。このともに働く仲間の「職場コミュニティ」を、これまでの日本型雇用システムにおけるメンバーシップ型「企業コミュニティ」と明確に差別化していけるかどうかが、一つのポイントになるのでしょう。
>つまりわが国の職場は、依然として一つのコミュニティであり続けるべきである。ただしそれは、もはや閉じたコミュニティではありえない。多くの人が中途から職場に加わることになるだろうし、またいったん就職した後に別のキャリアを目指して職場を離れていく人も増えていくであろう。それは、支援型の公共サービスや所得保障によって人の出入りが活性化する、開かれたコミュニティである。それを可能にするにはワークルールの確立は必須である。
若者や高齢者についても、
>新卒一括採用の仕組みのもとで、若者はある決められた時点、つまり高卒は18歳前後、大卒は22歳前後で、一生の仕事を決めることを求められた。就職時が不況で納得のいく仕事が見つからなかった若者は、正規採用されるチャンスを逃し、一生そのダメージを引きずることになった。就職した後に自分の仕事への向き不向きを知った若者も多いが、方向転換は困難であった。再挑戦が可能になり、本当に自分を活かせる仕事や職場コミュニティにたどり着けることは、若者たちの充実感を深め意欲を高める。と同時に、彼らの力を引き出す社会の強さにもなる。
また、60歳で仕事を離れるべき理由もまったくない。生涯現役社会が言われるなか、高齢者の力も十分に活かせているとは言えず、特に働きたいという意思を持つ人の熟練した技能や高度な知識が海外流出している現状も一方では存在する。わが国の高齢者の就労率は高いが、やりがいのある仕事に就いていると答える高齢者は少ない。地域活動やNPOなどを通じた社会的貢献、文化活動など幅広い選択肢とアクセスを保障するとともに、より柔軟な職場環境と就労支援によって、高齢者が蓄積してきた知識や技能や経験を活かすことができるならば、陰うつに描かれがちであった高齢社会の像は一変する。加齢によって社会とのつながりや希望が断ち切られることのない、活力ある社会に転ずる。
と、一部の世代間対立を煽るような言説に対して、きわめて的確な認識を示しています。
興味深いのは「有効で分権的な信頼のおける政府」というところです。
>北欧諸国などの先進工業国の経験を見るならば、政府規模が大きくても、人々が働くことに対し有効に支援する政府、その点で機能的な政府は、高い成長率と財政の安定を実現している。大きな政府であるか、小さな政府であるかはもはや問題なのではなく、有効な政府、信頼のおける政府こそが求められる。政府の信頼を高めるためには、国民主権にふさわしい民主的な政治・行政システムを確立し、政府・行政の意思決定と執行プロセスを透明化し、説明責任が果たされなければならない。
というのは当然ですが、その先の地方分権に関するところの記述は、なかなか苦心の跡が見られます。
>「働くことを軸とする安心社会」にとって、分権化を進め、自治体政府の機能を高めることは不可欠の課題である。なぜならば、保育、介護、訓練など、人々の社会参加をすすめる公共サービスは、人々に身近なところで、それぞれのニーズを汲み取りながら設計され、提供される必要があるからである。良質な公共サービスが提供されるためには、自治体政府は、地域に根を張ったNPOや社会的企業などと密接に協働していく必要がある。
他方において、地方分権の名のもとに中央政府の役割と責任が否定されてはならない。分権化の結果、お金のない自治体では、保育料も高く、若者の就労支援も弱くなった、ということになれば、経済基盤の弱い自治体と潤沢な税源をもつ自治体との地域格差がさらに拡がり、分権化の趣旨に反することになる。地方分権を発展させるためにこそ、地域の人々を支える公共サービスについては、最低限満たされるべき水準を決めて、そのための財政調整機能も組み込まれるべきである。
少なくとも現在のようなお金のある都府県の知事さん主導の俺様分権論には与し得ない、と。ここを突き詰めていくと、地方分権の本旨に反すると言って機関委任事務を廃止してしまったことへの反省にもつながると思いますが、ここはここまで。
最後の「労働運動に求められる役割と責任」について、
>労働運動は、新しい社会ビジョンを示して、その実現を求めるだけではなく、その実際の担い手でもある。これまでも日本の労働組合は、働く人々の賃金と労働条件を守り、向上させるために奮闘してきた。しかし、働く者が連帯し結びつくその枠は、企業の内部、男性正社員、あるいは組合員に限られる傾向があったことは否めない。しかし今や、メンバーシップ(組合員)の利益を自己完結的に確保しようとしても(自分たちの利益を自分たちだけで守ろうとしても)、メンバーシップそのものの利益さえ守ることはできない時代になっている。
「連合評価委員会最終報告」によって提起された、「社会の不条理に立ち向かう」「すべての働く者が結集できる」労働運動をさらに深化させ、働くすべての人たちを対象として、その実現に向けた取り組みを行っていく必要がある。
と述べた上で、大きな柱として「地域で顔の見える労働運動」と「労働運動が大切にしてきた価値の継承・発展と次世代育成」を挙げています。
とりわけ、次のように労働教育の重要性をアピールしている点は、こういうことに関心の薄い教育関係者にこそ注目してもらいたいところです。
>「働くことを軸とする安心社会」は、働く人たちへの無関心や冷淡ではなく、支え合って働くことを大事にする生き方、暮らし方が尊重される。労働組合は社会の仕組みに組み込まれ、様々な意思決定プロセスに関与する存在でなければならない。社会の不条理に怒り、連帯と団結によってそれを是正するための具体的行動を起こす精神文化が醸成されなければならない。
労働組合の力の源泉は、一人ひとりの組合員の中にある、あるいは働く多くの仲間の中にある共感にもとづく行動力である。
その土壌をまず最初に培っていくためには、初等教育から高等教育に至るまで、労働教育が実施される必要がある。中学校、高等学校における勤労観、労働観を醸成する教育、労働者の権利に関する教育、ワークルールの学習がカリキュラムに組み込まれていなければならない。社会人を対象とした労働教育の機会も必要である。高等教育機関からの中退者の増大、若年者の中途退職などの問題にもこうした教育は有効な手立ての一つとなろう。
また、企業経営者、管理職などにとってもワークルールの知識と遵守は必須である。経営のノウハウの、あるいは要諦の必須な構成要素として位置づけ、研修制度や起業における資格要件設置などの検討が望まれる。
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