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2010年11月28日 (日)

経済学は「子供に持たせてはいけない刃物」

「dongfang99の日記」に、実に的確な表現がありました。

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20101126子供に持たせてはいけない刃物

>経済学というのは「子供に持たせてはいけない刃物」のようなところがあり、貧困に対する素朴な憤りから出発したはずが、経済学を通過すると、結果的に貧困者の頬をひっぱたくような結論になってしまうことがしばしばある。とくに農業や雇用の問題に関する経済学系の人たちの議論を聞くと、素人的には「正論かもしれないが、いまのデフレ不況下でそれをやったら自殺者が増えるだけじゃないか」と疑問を感じることが少なくない。個々の経済学者が冷徹・冷酷だということではなく(むしろ主観的には善意の人たちであることは間違いないだろう)、外から見ていると経済学にはそういう危うい面をはらんでいるように思われるということである。

いやあ、確かに、あれやこれやの実例を見るにつけ、うまく使えばいい料理になるはずなのに、ガキが刃物を振り回している状態になっている「ケーザイ」学の魔法使いの弟子たちが(とりわけネット上に)うようよいて、頭が痛いところです。

次の追記も秀逸。

>一頃の社会学者(とくにフェミニスト系)の中にあえて極端なことを言って、その極論に噛み付いてきた人を、「真意を理解していないバカ」ともぐら叩きのように叩くという、あまり上品ではない戦略をとっていた人がいたが、見ていると同じことをやっている経済学系の人たちが少なからずいるような気がする。しかも、戦略的にというよりも素朴にやっている感じがする。

ふむ、まあ、良く言えば素朴ですけど。

(追記)

本ブログを以前からお読みの皆様には今更言わずもがなの大前提ですが、ぶくまをみて飛んできた人の中には誤解する人もいるかも知れないので、念のための追記。

ここで皮肉っているのは、あくまでも「(とりわけネット上に)うようよ」している、労働のことに無知蒙昧なままあれこれほざいている「ケーザイ」学の魔法使いの弟子たち」のことであって、経済学の学識と労働問題に対する的確な認識を併せ有している多くの労働経済学者のことではありませんので、誤解なきよう。

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コメント

こんばんは、

私は全くの素人ですが、同感です。

「やっぱり、経済学が悪いのではなく経済学者が悪いんだと思う」
http://togetter.com/li/71681

「経済学徒はなぜ信頼を裏切るか?」
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20101121/1290352306

経済学が昔は「政治経済学」といったように政治を行って行くための、リーダーとしての常識を示す学問であるべきではないでしょうか?

そもそも、経済学の大前提自体がかなり疑わしい訳ですし。

「市場を無理に理解したり、操作しようとしなくてもいいのかもしれない」
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20101127/1290814509

その昔、私は「経済学部にはマル経の人と近経の人がいるらしい、で、マル経の人は教条主義で、近経の人は資本家の手先で、要するに、どっちも好きになれない手合いだ。」と単純に思っていた、歴史専攻の学生でした。

時は流れて、・・・「資本家の手先」と思っていたエコノミストでこんな人がいるのか、と本を読んで感動させられた経済学者が二人います。

一人は、もう10年以上前に亡くなりましたが、東大で経済学を教えていた石川経夫さん。お父様も一橋の経済の先生で、いかにも育ちの良いお坊ちゃんという雰囲気がありましたが(お話したことがあって、でも、そのときは、加藤周一の「日本文学史序説」のお話などを聞いたのでした)、経済学の目指すところは最大多数の最大幸福だという強い信念を持って分配論を研究していた方でした。今、生きておられたら、その信念と研究にもとづいた発言を積極的になさっていたに違いありません。本当に惜しい方でした。著書は大学図書館でも公共図書館でも読めるはずだと思います。

もうお一人は、もと世銀副総裁の西水美恵子さん。ときどき、日経新聞で拝見する記事で、なかなかの方だと思っていましたが、「国をつくるという仕事」を読んで、この方のことを少し調べ、本もながら、2008年の経済財政諮問会議の専門調査会「構造変化と日本経済」での発言を読んで、感動しました。
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/special/economy/index.html
この審議会の議事録を見て頂くとわかるのですが、いくつか引用します。
「これから先の世の中では、消費者は一応最低限の生活程度を守って、その上にウェルビーイング、幸せ、安心できる生活を求めている。それを政策の観点からしっかりつかまなければいけないし、特にビジネスの観点から既にそういうことをしっかりつかんでいる企業が成長している。だからCSR, Corporate Social Responsibility であり、SRI, Socially Responsible Investment が、この先、金融市場、企業での成長の源にもなっている」(第1回)
「ヨーロッパ、それからアメリカも含めてだが、今まで改革に成功してきた国々の特徴を紙に書いてある制度ではなくて、そういう改革に携わった人々の信念というか、態度、スタンスのことをお話したい。
それには二つあって、一つは、どんな政策をとっても、政策を変えていくときに、日本のように縦割り的に物事を見ないで、いつも常に国民なら国民、消費者なら消費者、労働者なら労働者の観点から政策を見極めるという努力をする。例えば労働政策を変えるとなると、労働政策に関する役所だけでなく、横割りにいろいろな省の人たちが集まって、政策、改革のチームをつくり、目的に向かって動き出す、そういう態度、官僚文化が浸透する国が政策を変え、変えた結果のベネフィットが大きく出る、そういうことを世界銀行の仕事などを通して勉強した。
(中略)
もう一つは、改革を始めるに当たって、指導者レベル、国家なら国家での指導者レベルの人間が、50年、100年先を見極めて、これはヨーロッパ数カ国に特に言えることだが、国民の形、国の形をまず考える、そこから思考が入っていく。
(中略)
であるから、成長したいから、大きくなりたいから改革を始めたという動機ではなく、成功した改革の動機は、国民の幸福追求、安心して生きがいのある、働き甲斐のある幸せの追求を可能にすることを、政策、政治の目的と置いて、その一環として経済成長をそのための手段と捉える。経済成長そのものが目的であってはならないという考え方から入っている。
(中略)
この先20.30年先に強く良い構造の国をつくっていける可能性は中小企業、それから農業にあると思う」(第2回)
「中長期的に見て、所得格差をなくす唯一の手段は教育格差をなくすことだから・・・」(第7回)

そしてつい最近、2010年6月21日日経朝刊の記事「インタビュー 領空侵犯」では、西水さんは、幸福度指標などの計測に時間を浪費するよりも、政治のあり方を本気で考えよ、政治家は、1円も無駄にできない高齢の年金生活者の生活を一日でも体験してはどうか。国の役割は、国民一人ひとりが努力して幸せになる上での障害を取り除くこと、と言い、「国民葬幸福量の追求は公共政策哲学であり、必要なのは物差しではなく、哲学なのです。」と述べておられます。

このお二人、石川さんは1947年、西水さんは1948年の生まれの方だということにも一種の感慨があります。今の若者から「逃げ切ろうとする既得権世代」と見られている世代の方たちです。

長くなりましたが、こういうエコノミストを忘れてほしくない、もっと知ってほしい、と思います。

西水さんの日経記事紹介部分で、「国民葬幸福量」は、「国民総幸福量」の変換ミスです。すみません。

このところ、興味があって、憲法学者、樋口陽一氏の書かれたものをいろいろ読んでいたのですが、経済学や労働法への言及がなかなか面白くて、なんというか、「大御所の正論」という感じを受けました。特に、2007年6月「論座」の、加藤周一氏との対談「私たちはまだ、自由を手にしていない」は、フランスに詳しい大御所お二人が談論風発、で面白かったです。樋口氏の発言部分を少しご紹介します。

・とりわけここ5-6年の間、日本における自由というものの中身が競争に特化し、大学から裁判に至るまでが、マーケットの論理で語られています。いわば非常に素朴な競争振興があらためて大手を振って、経済から教育までを覆い尽くしかけてきた。何しろ前総理大臣が「格差があるのは当たり前で悪いことではない」と公に言い放った。これは世界でも例がないでしょうし、少なくとも日本の文化にはなかったことです。

・日本における個人主義の欠如という問題は少しも変わっていないにもかかわらず、競争という局面で個人のやる気を出させようと。

・憲法思想史のなかでも別格の存在のひとりであるジョン・ロックにとって、個人とは、生命、自由、そして各人が自分のproperな労働力を使って手に入れたものとしての財産の主体です。意思を持ち、労働の主体としての個人を、人権の担い手として考えるということですね。
しかし、こういう人権観というのは、私と世の中に対する見方を共通にしている研究者の間でも、実は必ずしも納得されていません。「お前の言う、意思の主体であり、自らの手足で労働する人間像というのは強い人間像だ。それは弱者を置いてきぼりにする人権観だ」という反論がある。
もちろん労働することができない人、意思すら表現できない人、あるいは意思を持つことすらできない人、それが究極の弱者です。その弱者こそ、もちろん権利が必要です。しかしその問題と、近代法が人権のコンセプトの基礎に置いた人間像というのはまた別な話です。権利を一番必要としているのは弱者である。しかし、その人権の論理を形づくるのは、強者になろうとする弱者でなくちゃいけないのです。

・競争というものに対する対処は、日本国憲法をはじめとする法制度がすでにデザインしているのです。一方で、労働基本権の考え方は、労働者の団結を認めて、労働者同士の労働力取引の競争を制限する。他方で、企業間の競争を放っておくとかえって市場独占が起こるから、それを壊して競争を祭促進させるための規制が必要になる。これは憲法に言葉としては出て来ないけれども、独占禁止法でしょう。労働法と独禁法という組み合わせは、20世紀後半のOECD加盟国の必要条件です。
その逆の組み合わせもある。独占は放っておいて、逆に競争を制限する労働法は弾圧するという開発独裁国型ですね。だんだん今の日本は、先進国型、OECD型から、実際の世の中の運用では開発独裁国型に知らず知らずのうちに振れてきているんじゃないか。

これくらいにしておきます。労働法を競争との関係で話しておられることとか、ここには引きませんが、審議会を素人主義と見ておられることなど(ステークホルダーという考え方は入っておられないような)、あれ、と思うようなところもありますが、法制度、社会構造全体のグランドデザインについて、「(フランス人は)大きな世界を見て、自分に有利な世界像をつくって、その中にフランスを位置づけ、さらにパリを位置づけています。だけど日本では誰もそういうことを考えていない。」(これは加藤氏談)という大きな話は面白かったです。

長くなりついでに追加しますと、樋口氏の最近の著書、論文を読んでいて、専門の憲法以外の分野についても関心を広げておられること、その際に、民法は広中俊雄氏、国際法は小田滋氏、そして、経済学は岡田与好氏、を引いておられることを面白く思いました。これらの錚々たる方々は、樋口氏が若手・中堅の教授でいた頃の東北大学の同僚教授で、この方々の間に、専門を超えた議論のつながりがあったのでしょうね。特に、大塚久雄門下の岡田氏との間の「営業の自由論争」は、憲法と経済学との間の論争として、稀な例で、かつ、実りある例であったということです。これらの人々は、若い時期に戦争を経験し、そして、やはり戦争を契機に日本の近代化を考えた丸山政治学・大塚史学の影響下で学問形成をした方たちですね。

やっぱり戦争でもあれば、「子供に刃物」のような人たちももうちょっとまじめにものを考えるようになるのかなあ、とか、もちろん冗談ですけれど、考え込んでしまいました。

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