非正規労働者と集団的労使関係法制
畑中労働経済研究所から発行されている『労働経済情報』2010年秋号に、「非正規労働者と集団的労使関係法制」という小論を載せました。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/hiseikishudan.html
非正規労働者問題について、原稿依頼の趣旨とはあえて異なる集団的労使関係法制の観点から論じてみたものです。拙著『新しい労働社会』の第4章で論じた論点ですが、やや散発的なご批判は頂くものの、あまり議論が深まっていかないなあ、と感じています。
さて、同誌には小林良暢さんの「世界の構造変化と日本の産業戦略」、安西愈さんの「有期労働契約の立法化への動きと現在の法的問題」、小畑精武さんの「広がる公契約条例と労働基準の確立」など、興味深い論考がたくさん載っていますが、ここでは一つ、自治労の秋野純一さんの「地域主権改革の現在と民主主義の形」を紹介しておきます。いや、次の文章など、まさに我が意を得たりであり、昨日のシンポジウムでもお話しした、政治学者と政治評論家と政治部記者が諸悪の根源という話と通じるものがあります。
>具体的な「各論」こそが、国民の生活に直接影響を及ぼす領域である。ところが、「地域主権改革」では、まともな各論が成立しないのである。手続的にも内容的にも、「各論」を省略して、いきなり「総論」から政策を導き出すという仕組みになっている。
>そもそも「一丁目一番地」という「地域主権改革」の住所自体に問題がある。いまでも「一丁目一番地」に住んでいるのであれば、早急に「一丁目二番地」以下に転居すべきである。
>例えば、保育所に関する厚生労働省と内閣府の協議において、・・・内閣府は「今回の改革の本旨は、待機児童解消ではなく、地域主権のための改革」であると主張した。「一丁目一番地」に「地域主権」以外の政策が居住することは認めない、子どもの保育保障のために分権を進めるのではなく、分権のために分権を推進するということである。「生活が第一」ではなく「地域主権が第一」。
>こうした言説は、「地域主権」に関する議論に一貫した特徴である。ここでは、分権が政策実現のための手段ではなく、それ自体が優先的に実現すべき価値として考えられている。分権が自己目的化しているのである。つまり、社会保障は社会保障として議論されているのではない。子ども施策は子ども施策として見直されているのではない。高齢者施策は高齢者施策として検討されているのではない。各論は省略され、いきなり分権の観点から見直されてしまうのである。非現実的な見直しになってしまうのも当然である。「一丁目一番地」という位置づけが分権原理主義を助長してしまうのである。
こういう事態を、秋野さんは「役所の役所による役所のための分権」と的確に批判しています。
>つまり、地域主権改革の当事者は「国と地方」という役所だけであり、当事者、保険者などの中間団体、ステークホルダーの合意を形成していくための仕組みは存在していない。地域主権改革における実際の意思決定過程は、「役所の、役所による、役所のための」分権になっている。地域主権改革推進の旗印は「民主主義」だが、「地域主権改革」流の「民主主義」では議論が広がらないのも当然なのである。
ここは、わたくしとしては、拙著で述べた「ステークホルダー民主主義」を打ち出したいところです。それこそ岩波の編集者の付けたネームですけど、
>問われているのは民主主義の本分だ!
と言わなければなりませんね。
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私は国の出先機関にいますが、地域主権改革とやらを支持している職員は、私の周りにはほとんどいません。
「役所の役所による役所のための分権」だとすると、役所のどのあたりにいる人が支持しているのか知りたいところです。
投稿: のほほ | 2010年11月18日 (木) 21時17分
小泉構造改革のぼろが露呈した中で、未完の地方分権改革はまだ神話性を残していますからね。
新政権はじめ、改革的言説をしたがる人たちにとって数少ない改革神話が通用するネタなので、ついつい効果そっちのけで自己目的化したような地方主権神話がまかり通るのでしょう。
地域でのさばっているジジババの身勝手さや強者の論理とつきあうと、そんな神話、絶対に客観化せざるをえないと思うものなのですが、地域主権とか言っている人に限って、足下のコミュニティーに何の関わりも持とうとしません。
投稿: きょうも歩く | 2010年11月19日 (金) 00時22分