フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 松尾匡『図解雑学マルクス経済学』 | トップページ | 3年使い切り型ブラック企業@週刊プレイボーイ »

2010年11月 1日 (月)

労働組合は誓約集団か?

かつて、連合総研の研究会で大内伸哉先生の話を聴いて感じたことを再び感じました。

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-8f14.html(壁を壊す)

>労働組合というのは,藤田若雄先生の言葉でいう誓約集団としての労働組合でなければやっていけないのです。日本型の労働組合の代表性の危機が顕在化してきた今日,労働組合の存在意義を組合員自身がもう一度考えてみる必要があります。

大内先生によっては、労働組合は何よりも自立した個人による誓約集団なのですね。

荒野に呼ばわる預言者のごとく、「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることは辞さないが、力尽くさずして退くことは拒否する」その姿は、我ら世俗の民にはあまりにも神々しく、とても真似はできないな、と思ってしまいます。

「孤立を恐れて連帯に踏み出せず、誰かが旗を掲げてくれればその下に馳せ参じることは辞さないが、自分が先頭に立って立ち向かうことは怖いからやだな」という、向こう三軒両隣にちらちらするフツーの労働者にとって、労働組合は誓約集団でなければならない、というキリスト者藤田若雄の精神は敷居が高すぎるのではないでしょうか。

わたしは、そういう自分と同じようにどうしようもなく心の弱い人々こそが、労働組合によって守られなければならない、と思うがゆえに、大内先生はじめ心の強い人々が批判するユニオンショップが数少ない救いの糸になるのだと思うのです。

« 松尾匡『図解雑学マルクス経済学』 | トップページ | 3年使い切り型ブラック企業@週刊プレイボーイ »

コメント

労働組合は誓約集団でなければ意味がない、と言う人々は純粋で、純粋だからこそ話が通じないのですが、心弱き人々が団結するということが永遠にわからないのでしょう。労働組合はセクトではないのです。職場で働くすべての人を包含すべきなのですから。

「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることは辞さないが、力尽くさずして退くことは拒否する」タイプの人って、そもそも組合がなくても一人で闘えるタイプのようにも思いますが、そういう人が構成する労組、って、ユニオンショップどころか、もともと労組のないところに結成する労組、あるいは、御用組合と化して働く側の利益を既存の労組が守れないところで結成される第二組合の労組員、というイメージですね。で、そういう人もだいじだと私は思います。
でも、もちろん、そういう人ばかりではない、じゃなくて、ほとんどの人は「心弱き者」であり、私自身はユニオンショップに賛成です。ただ、そのユニオンショップが御用組合化してゆく、たとえば、日本の企業の特徴で、労組指導層が企業での昇進等のニンジンをぶら下げられるとどうしても経営寄りになってゆく、そういうときに、どう歯止めをかけられるかが問題だと思います。ただの企業内融和のためのユニオンショップなら、そもそも、組合員がとても醒めた気持でしか参加できないでしょう。
日本の経営側は決して手放さないであろうとは思いますが、組合が人事権への一定の関与とか、あるいは、経営権への関与が可能で、しかもそれが労働側を裏切って経営側に利するようなことのない仕組みを制度的に保障できればいいのだと思いますが。

「労働組合は何よりも自立した個人による誓約集団」は机上の空論でしょう。およそ社会制度を議論するなら、労働者の基本的権利を定めた「社会憲章」を、「社会憲章」に則って労働法制度を、労働法制度に則って労働組合を議論すべきでしょう。

我が国では「労働者の基本的権利」に関する議論があまりなく、また「労働法制度」を作るプロセスに関する議論も欠けているように思われます。労働組合の代表性についても、あるいは非正規労働者の権利についても、基本的な土台から議論する必要があると思います。

労働組合の在り方もグローバルスタンダードでは「産業別労働組合」です。我が国の「企業別労働組合」についても土台から議論されるべきです。雇用の問題、労働市場の問題、同一労働同一賃金の問題、正規・非正規雇用の問題、生活給の問題、すべてがこの辺の議論に収斂してくるように思われます。

日本の労働組合の本当の問題は、組合自体が労働法制についての理解が無いことだと思います。アマチュアが感傷的な目標を掲げ、実質は生活共同組合的な仕事しかしてないのです。

労働法制で労働者を守るためには、組合専業者は当然、労働法制を知り突くし、使用者側と良い意味での緊張関係を作り、交渉しないといけません。
労働法制のプロとしての組合専業者がどれだけいるのでしょう?(社労士の資格を持つことを義務化しても良いくらいだと思います)

36協定を超える労働を簡単に受け入れたり、未払い賃金を放置したり、適切な休暇要求ができないような実態を解決できないような労組では意味がありません

実質的な労組の仕事をしないで組合員の給料からチェックオフで徴収している実態は、第二の税金と何ら変りないと思います

組合が種々の職種の権利調整能力も持たないことも、使用者側との交渉能力が欠ける一つの要因だろうと思います。

Mad_Lowさんのコメント読んで、それくらい立派な専従者がいたらと思いますが、現実はそういうものてばないように思います。また労働組合をものすごく請負的な仕事ととらえられていますが、それが協同組合としての労働組合としてどうなのか、また、企業別組合を軸にかたちづくられてアマチュアリズムを前提とした日本の労働組合に求めるべき水準なのか疑問です。またプロ化した労働組合がもたらす結論が組合員にとって参加意識がもてるのか、自己決定権を行使したと思えるのか、そうしたことも疑問です。物を売らない非営利産業ですから、結果よりも過程が問われるような業界だと思っています。

もちろん連合や全労連といったナショナルセンター、自治労、ゼンセン同盟、電機連合といった産別労組の専従者はそれじゃいけないということはその通りなのですが、金も組合業界内で権力も持っている加盟組合レベルでは、役員は従業員によって担われ数年で交代していきます。時間や能力配分のうち、社労士並みの知識を獲得する作業に費やされる時間を、他の手段に訴えた方が近いという現実性もあります。組合員は勉強が終わるまで待ってくれません。

>36協定を超える労働を簡単に受け入れたり、未払い賃金を放置したり、適切な休暇要求ができないような実態を解決できないような労組では意味がありません

これも現実の職場や日本の労働者が目の前で何を望んでいるのか無視した議論はできないと思います。
残業規制など推進していると、一所懸命働いて納期を間に合わせている自分を労組は追いつめるのか、とやり返される場面に出会いますし私も若い頃そうしたことがあります。そう現場の組合員に言われたときに、どう言ったらいいのでしょうか。法律がこうなっているんだから守れ、というレベルの資格的な知識だけでは説得できないと思います。そういう説得技術や苦情解決能力みたいなものも、労組役員というのは、職場で模範的な労働者をやりながら(でないと職場の仲間が組合役員やることなど応援してくれませんから)余暇時間を組合活動に捧げて習得しなければならないのです。

あんまりアマチュアリズムなどと罵倒するよりも、我が身にその場を置き換えて、アマチュアたちがどこまでやっているのか、という観点で見ていただけたらと思っています。納得されないのであればぜひとも実務の世界に飛び込んでください。歓迎します。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 労働組合は誓約集団か?:

« 松尾匡『図解雑学マルクス経済学』 | トップページ | 3年使い切り型ブラック企業@週刊プレイボーイ »