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2010年11月 5日 (金)

「怠ける権利」より「ふつうに働く権利」を

4284502018 『若者の現在 労働』(日本図書センター)は、いろんな方がいろんな論文を寄せていて、それなりに面白いものもあるのですが、

「若者の現在」 労働 (小谷敏/土井隆義/芳賀学/浅野智彦 編)

I 格差社会の現状
第1章 若者にとって働くことはいかなる意味をもっているのか ―「能力発揮」という呪縛― 本田由紀
第2章 階層社会のなかの若者たち ―もう一つのロスジェネ― 片瀬一男
第3章 高卒で働く若者をどのように支えていくか ―高卒就職の「自由化」をめぐって― 堀 有喜衣

II 再生産の文化的措置
第4章 「やりたいこと」の現在 久木元真吾
第5章 新しい「階級」文化への接続 ―「動物化」するわれわれは「社会」をつくっていけるのか?― 新谷周平
第6章 文化的措置としての学校 山田哲也
第7章 職場と居場所 ―居場所づくりの二類型― 阿部真大

III もっとスローな社会へ
第8章 貧乏人生活! 松本 哉
第9章 ニート・ひきこもりが教えてくれること 二神能基
第10章 「怠ける権利」の方へ 小谷 敏

ここでは最後の小谷さんの「怠ける権利の方へ」を取り上げます。

小谷さんは怠ける権利を称揚し、ベーシックインカムを称揚します。

そして、

>いまのこの国においては、「すること」の価値に根ざす「労働の文化(もしくは労働を賛美する文化)」が、「であること」の価値に根をもつ「反労働の文化」を圧倒している。・・・「反労働の文化」が存在しないために、この国の人々は自らの怠け者性を受け入れることができないでいる。・・・

と論じます。

ところが、その後で、小谷さん自身がまさにわたくしが論じたい論点を、みごとにくっきりと描き出しているのです。これは「怠け者万歳」「BI万歳」の小谷さんの言葉ですが、わたしには、まったく逆の論証になっているようにしか思えません。

>フリーターの若者たちは、「怠け者」として指弾を浴びた。しかし彼らは非正規雇用の不安定な身分に置かれていたとはいえ、仕事は立派にしている。「すること」の論理に立つならば、その点において彼らは擁護されるべきであろう。この国において職業を「すること」の領域として捉える思考習慣が根付いていれば、彼らを正規雇用の仕事に就けることは仮にできなくても、非正規雇用なりにその権利と尊厳を保障する方向に社会は動いたはずである。しかしこの国において職業は、「であること」の領域に属するものとして捉えられている。この国において大人になるということは、何らかのスキルを身につけて職業に就き、社会に貢献できる人間になることを意味しているのではない。どこかの会社や官庁の一員「であること」が大人の証明なのである。正社員になれない(ならない)フリーターたちが、いつまでも大人になれない人間として蔑まれ指弾されてきたのはこのためである。

>・・・大学生の就職活動は熾烈を極めることになる。ところが学生たちの大半は、会社に入ってから「すること」のスキルなど何も持っていない。結局、「コミュニケーション能力」の名の下に、自分の人間的な魅力(「であること」)を売り物にするしかない。

まったくその通りだと思います。ただ一つ分からないのは、なぜそこまで論じる小谷さんが、「すること」を称揚するのではなく、まったく逆に「であること」を称揚し、だからベーシックインカムだという方向に突っ走ってしまうのか?です。

正直、頭を抱えてしまいます。

(被評)

http://twitter.com/yamamasahiro/status/542031826919425

>濱口桂一郎の「へたれ文系インテリ」嫌いはみてておもろい。

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コメント

こんにちは。

上の小谷敏さんの文章ですが、
黒文字の 「であること」 と、紫文字の 「であること」 は、意味合いが違うのではないでしょうか?

黒文字の 「であること」 は、『素の自分』 『ありのままの自分』 というような意味であるのに対し、
紫文字の 「であること」 は、『肩書き』 『役職』のような意味で使われているのではないでしょうか?

また、文中にはありませんが、(仮に、百歩譲って 「すること」 に重きを置くとしたならば・・・) という前置きを付けて読むならば、それほど不自然ではないように感じます。

不思議なものですね。
同じ文章、同じ事柄でも、それに賛成する人と、反対する人では、全く違う捉え方をする様に感じます。
例えば…

◆ ベーシックインカムは、機会の平等? それとも結果の平等?
http://research.news.livedoor.com/r/54114

同じ論文の、しかも同じページの、すぐ隣り合うパラグラフで、同じように「括弧書き」でくくられた「であること」の意味内容がまったく違うのであるならば、通常の言語感覚を有する読者がそれらを同じ意味内容の概念であると<誤解>しないように、何らかの注意書きをするのが、まともな対応であろうと思われます。

もちろん、わたくしの理解するところ、小谷さんは同じ意味内容の言葉であることを前提にこの文章を書かれているので、そのような注意書きの必要などはまったくありません。実際、この両者の間には、「であること」が優勢な事例として、政治家を代表として世襲がまかり通っていることなどが書かれています(いま手元にないので正確に引用できませんが)。

もし何か御疑問があれば、『若者の現在 労働』の当該部分をお読みになられた上で、ご本人にお確かめになられれば宜しいのではないかと思います。

はじめまして。小谷敏です。拙論をきちんとお読みいただきありがとうございました。このブログはこれまでも何度も目を通しておりました。共感できる主張も多く、多くのことを学びました。その最大のものは、たとえ自分とは主張に対してもきちんと読み、完全に理解されてから批判されている点です。その意味でこのブログに取り上げていただいたことを大変光栄に思っております。

 私は無能な人間に首相になってもらいたくありません。政治家としての資質としてはあくまでも「すること(すべきこと)」を遂行する能力を求めたいと思います。人間は人間で「ある」だけで尊重されるべきだと思います。能力がない人間は生きていてはいけないとは、誰も考えないでしょう。そうだとすれば、人間が生きていくためには所得が必要であり、生きるにたる所得を得にくい状況があるのだとすれば、所得保障という考えが出てくるのは理の当然だとも思うのですが。

 
 

小谷様、拙ブログにわざわざおいでいただき、恐縮です。

「すること」と「であること」の評価基準が、たとえば政治家と子どもで異なるべきであることは、わたくしもまったくその通りだと思います。

お読みいただいていると存じますが、『日本の論点』でのわたくしのBI批判論においても、わたくしは明確に、

>筆者に与えられた課題はワークフェアの立場からBI論を批判することであるが、あらかじめある種のBI的政策には反対ではなく、むしろ賛成であることを断っておきたい。それは子どもや老人のように、労働を通じて社会参加することを要求すべきでない人々については、その生活維持を社会成員みんなの連帯によって支えるべきであると考えるからだ。とりわけ子どもについては、親の財力によって教育機会や将来展望に格差が生じることをできるだけ避けるためにも、子ども手当や高校教育費無償化といった政策は望ましいと考える。老人については「アリとキリギリス」論から反発があり得るが、働けない老人に就労を強制するわけにもいかない以上、拠出にかかわらない一律最低保障年金には一定の合理性がある。ここで批判の対象とするBI論は、働く能力が十分ありながらあえて働かない者にも働く者と一律の給付が与えられるべきという考え方に限定される。

と述べたとおりです。

問題は、もっぱら「すること」基準でのみ判断されるべきであり、「であること」基準では断じて判断されてはならない政治家と、もっぱら「であること」で判断されるべきであり、「すること」基準で判断されるべきではない子どもとの間には、普通のおとなたちが、「すること」と「であること」の判断スペクトラムの連なりの中にある普通の大人たちが居るということではないかと思います。

わたくしは、彼らに対する適切な判断基準は、基本的には「すること」によるべきであり、補完的に「すること」自体を保障する原理として「であること」が用いられるべきだと考えています。
そのことは、小谷さんの言われる「人間が生きていくためには所得が必要であり、生きるにたる所得を得にくい状況があるのだとすれば、所得保障という考えが出てくるのは理の当然」とも何ら矛盾するものではないと考えています。

上記『日本の論点』での文章で、

>働く能力があり、働く意欲もありながら、働く機会が得られないために働いていない者-失業者-については、その働く意欲を条件として失業給付が与えられる。失業給付制度が不備であるためにそこからこぼれ落ちるものが発生しているという批判は、その制度を改善すべきという議論の根拠にはなり得ても、BI論の論拠にはなり得ない。BI論は職を求めている失業者とあえて働かない非労働力者を無差別に扱う点で、「文句を言わなければ働く場はあるはずだ」と考え、働く意欲がありながら働く機会が得られない非自発的失業の存在を否定し、失業者はすべて自発的に失業しているのだとみなすネオ・リベラリズムと結果的に極めて接近する。

と述べたのも、「であること」を根拠とした「すること」の保障こそがあるべきだと考えるからです。この点、おそらく政治家の場合、何らかの属性「であること」を根拠に政治家を「すること」を保障するなどということ自体が論外であるべきことと対照的であるはずです。

こんにちは。
少しズレたコメントになるかもしれませんが・・・

  ※  ※  ※  ※  ※

  いるだけで良い

人の営みは、いること(存在)と、すること(行為)から成り立っています。
いることは、生き方の根本のかたちです。
いることがなければ、することは起こりません。
「いる」 ことを大切にしてください。
そこから 「する」 ことが生まれてきます。

  ※  ※  ※  ※  ※

これは、元牧師の賀来周一先生から頂いた言葉です。
これは、子供に対しても、大人に対しても、「すること・成したこと」 によって判断されがちな時代にこそ必要な言葉ではないかと思っています。
そして、ベーシックインカムは、この言葉を具現化する一翼を担うものではないかと思っています。

>もっぱら「であること」で判断されるべきであり、「すること」基準で判断されるべきではない子ども…

大人が 「であること」 で良しとされない状況で、どうして子供が真に良しとされ得るでしょうか。
幼い子供や、病人・老人が、「弱い」 から、「能力がない」 から、『であること』 で良しとされるのであれば、その本人達はどう思うでしょうか。
「人の役に立つ人間になりなさい」 と教育するのは良いと思いますが、その前に、役に立っていても、いなくても、「あなたは大切な存在なんです!」 と言い合える世の中を、人は、本当は、望んでいるのではないでしょうか。

>(BIは) 働く意欲がありながら働く機会が得られない非自発的失業の存在を否定し…

この言い回し方は、ずっと前から、何か変だと感じていました。
ベーシックインカムは、働く意欲がある人が働くことを全く否定していないと思いますし、やりたい仕事があったらどんどん挑戦すれば良いと思います。
ただし、プロ野球選手になりたいと思っている人が全員プロ選手になれる訳ではないのと同じように、自分が希望してもその仕事に就けないという事はあると思います。
それでも、それが本当に自分の希望する事なのであれば、セミプロやアマチュア選手として、また別の形で参加することも出来ると思います。
それに、BI論でよく指摘されているように、やはり賃労働のみが社会参加である、という考え方にも縛られていると思います。
私達は生きていること自体で社会に参加しているのではないでしょうか。

「働きたくない者は、食べてはならない」 というパウロの手紙の言葉と、ベーシックインカムについては、ずっと考えて来ましたが、最近、一つの答えを見出すことが出来ました。
http://utun.jp/U50

はい、ずれていると思います。

わたくしは何ら、

>大人が「であること」で良しとされない・・・

なんて言っていませんが。

そういう風に曲解されているということは理解しておりますが。

「すること」ができる者に対しては、「であること」の尊重はまずもって「すること」の保障を通じて行われるべきであると申し上げてるだけです。

「お前みたいな無能者は、やったってろくでもないことしかできないんだから、捨て扶持やるからすっこんどれ」というような、「すること」を尊重しない「であること」の保障と、どちらがより望ましいと考えるか、という問題です。

これは価値観の問題ですから、kyunkyunさんを説得するつもりはありませんが、少なくともわたくしが申し上げていないことを主張しているかのごとく書かれるのはいかがなものかと思います。

こんにちは。

恐らくここのテーマでもある、「すること」 と 「であること」 という言葉の中に、幾つかの違う意味が含まれているので、もしかしたら誤解が生じているのかもしれませんね。

hamachanさんの仰っている、

>ここで批判の対象とするBI論は、働く能力が十分ありながらあえて働かない者にも働く者と一律の給付が与えられるべきという考え方

 と、kyunkyunの書いた、

>>大人が 「であること」 で良しとされない状況

は、ほぼ同じ意味合いだと理解しているのですが、
このような理解は、間違っているのでしょうか・・・?

自分としては、捨て扶持BI論については、ここでは全く考えていません。
子供であれ、大人であれ、その人の 「存在」 が真に大切にされるためには、「すること」 という基準で判断するのではなく、また 「すること」 という条件を課すのでもなく、「であること」 だけで十分ではないか、ということが言いたかったのです。

kyunkyunさんのおっしゃっていることは、困窮している者にはすべてBIを給付せよという政策論というより、人はすべてその存在のみで肯定されるべきであるという理念の主張のように思われます。
私は、そのお気持は大切だと思いますし、ソーシャルワークにかかわる人たちなど、特に、そういう気持を持っていなければならないだろうと思うのですが(だって、自分を否定する-自殺する-人が年間3万人の国ですからね)、ただし、労働行政や社会保障の政策論としては、あまりに非現実的であると思います。
指定都市の市長会が、生活保護でさえ、稼動年齢層の受給が急増していて、このままでは自治体財政が持たない、と、「生活保護の期限付き支給」などを、民主党と厚生労働省に要望したのが、つい先月のことです。

http://www.asahi.com/politics/update/1020/TKY201010200318.html

もしも、kyunkyunさんのような方たちが、政策としておっしゃるようなBIを実現しようと思えば、論争して味方として獲得すべき相手は、hamachanではなく、指定都市市長のような人たちや、そして、そういう都市で納税して生活保護制度を支えている市民のような人たちだと思います。捨扶持BIの人たちは、非現実性は同じですが、論争してもかちとろうなんて、絶対に考えていないはずですね。

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