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2010年10月23日 (土)

教育のコストは誰が負担するのか?

本ブログで何回か取り上げてきた内田樹氏。今回は「教育のコストは誰が負担するのか?」。

http://blog.tatsuru.com/2010/10/22_1013.php

もちろん、それは社会全体です。社会の成員全員が負担すべきです。

その理由も、内田氏がこう言われるとおりです。

>教育の受益者は本人ではない。
直接的に教育から利益を引き出すのは、学校制度を有している社会集団全体である。
共同体の存続のためには、成員たちを知性的・情緒的にある成熟レベルに導く制度が存在しなければならない。
それは共同体が生き延びるために必須のものである。
だから、子どもたちを教育する。
いくらいやがっても教育する。
文字が読めない、四則の計算ができない、外国語がわからない、集団行動ができない、規則に従うことができない、ただ自分の欲望に従って、自己利益の追求だけのために行動するような人間たちが社会の一定数を越えたら、その社会集団は崩壊する。
だから「義務教育」なのだ。

この理屈は100%正しい。まさに「だから「義務教育」なのだ」。

問題は、この理屈が、リンク先のエントリが取り上げている高等教育の奨学金に、そのまま適用することができるか、です。

基本的にはそうあるべきだ、と思います。

高等教育は決して暇人の手慰みなどではなく、「共同体の存続のために」高度な職業技術・技能が必要であるから、共同体成員全員が負担して行われなければならないのです。

しかしながら、現実の高等教育がはたしてその「共同体の存続のため」という使命に見合うものであり得ているか、ということについての共同体成員の疑念こそが、この問題の背後に存在していることもまた、否定しがたい事実であるわけです。

現実の高等教育が共同体全員が負担すべきと胸を張って言えるだけの社会に対する「レリバンス」を有しているのか?

それこそが内田氏が問うべき問いであったはずなのです。

(参考)

拙著『新しい労働社会』の147頁以下のコラム「教育は消費か投資か?」は、まさにこの問題を論じました。

>後述の生活保護には生活扶助に加えてそのこどものための教育扶助という仕組みがあります。これは法制定以来存在していますが、その対象は義務教育に限られています。実は1949年の現行生活保護法制定の際、厚生省当局の原案では義務教育以外のものにも広げようとしていたのです。高校に進学することで有利な就職ができ、その結果他の世帯員を扶養することができるようになるという考え方だったのですが、政府部内で削除され、国会修正でも復活することはありませんでした。

 これは、当時の高校進学率がまだ半分にも達していなかったことを考えればやむを得なかったともいえますが、今日の状況下では義務教育だけで就職せよというのはかなり無理があります。実際、2004年12月の社会保障審議会福祉部会生活保護制度の在り方に関する専門委員会報告は、高校への就学費用についても生活保護制度で対応することを求め、これを受けた厚生労働省は法律上対象が限定されている教育扶助ではなく、「生業に必要な技能の修得」を目的とする生業扶助として高校就学費用を認めることとしました。これは苦肉の策ともいえますが、考えてみると職業人として生きていくために必要な技能を身につけるという教育の本質を言い当てている面もあります。

 現在すでに大学進学率は生活保護法制定当時の高校進学率を超えています。大学に進学することで有利な就職ができ、その結果福祉への依存から脱却することができるという観点からすれば、その費用を職業人としての自立に向けた一種の投資と見なすことも可能であるはずです。これは生活保護だけの話ではなく、教育費を社会的に支える仕組み全体に関わる話です。ただ、そのように見なすためには、大学教育自体の職業的レリバンスが高まる必要があります。現実の大学教育は、その大学で身につけた職業能力が役に立つから学生の就職に有利なのか、それとも大学入試という素材の選抜機能がもっぱら信頼されているがゆえに学生の就職に有利なのか、疑わしいところがあります。

 生活給制度の下でこどもに大学教育まで受けさせられるような高賃金が保障されていたことが、その大学教育の内容を必ずしも元を取らなくてもよい消費財的性格の強いものにしてしまった面もあります。親の生活給がこどもの教育の職業的レリバンスを希薄化させる一因になっていたわけです。そうすると、そんな私的な消費財に過ぎない大学教育の費用を公的に負担するいわれはないということになり、一種の悪循環に陥ってしまいます。

 今後、教育を人的公共投資と見なしてその費用負担を社会的に支えていこうとするならば、とりわけ大学教育の内容については大きな転換が求められることになるでしょう。すなわち、卒業生が大学で身につけた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされる時に、これはなかなか難しい課題です。

(追記)

ちょっと筋は別ですが、たまたまこういうつぶやきを見つけました。

http://twitter.com/kabutoyama_taro/status/27994471942

>文科省は教育を担当する行政機関なのに人的資本論すら満足に理解していないと露呈。

だから、まさに日本の(主として文科系の)大学教育というものが、本当に「人的資本論」でもってきれいに説明できるような代物なのであるのかね?というのが、まさしく大学関係者諸氏が問われている問いの中核なのではないのでしょうかね。

今現在の大学教育がまさに人的資本論で説明できるような職業能力向上要因であると社会成員みんなが考えていたら、世論でうごく官僚はまさにその考え方に則った施策を出すでしょう。

この点については、HALTAN氏の例によって皮肉な口調がもっとも適切でしょう。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20101024/p1

>根底に在るのは日本における(特に文系の)四年制大学の位置づけの曖昧さであって、その辺がしっかりしていないのが本当の問題だと思いますよ。

>・・・こういう事を書くと「安易な実学主義」「学問否定」「反知性主義」と批判されそうだが、(特に文系の)四年制大学の「学業」「勉強」が「役に立つ」「将来の日本の人的資本を担っている」と明確に社会に対して説得し切れていない点では大学の先生たちにも少しは責任はあるのでは? もちろんここで「(学問的・教養的水準を大衆的に卑俗に落とすこと無く)そのレベルまで大学を教育機関として高めるにもそれなりのカネや人員は掛かるのよ」という議論は在り得るでしょうが、そこに至るでもなく何時もながらのカンリョーの悪口で済ませてしまうのでは・・・(とほほ・・・)

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コメント

内田氏もhamachanも、「教育のコストは社会全体で負担すべき」と主張される。私も同感です。
でも、内田氏のイメージしておられる「教育」、hamachanの強調される教育の「職業レリバンス」、これには私はかなり疑問があります。

手短に。ヨーロッパで私が「教育大国」と思いますのは、「大国」で公教育が保育の段階から充実しているフランスです。なにしろ、子どものオムツがとれたら、親が仕事をしているいないと関係なく「エコル・マテルネル」という公立保育園に子どもを入れられる。3歳児の保育率が1990年代後半にすでに100%近くに達している国です。かつ、大学までほぼ無償の公教育が保障されていますね。
このフランスの大学入学資格試験(バカロレア)は、日本の大学の入試とものすごく違います。私「哲学の味方」としては、声を大にして紹介したい点ですが、伝統的にバカロレア初日は哲学であり、配点は異なるものの、理系の受験者でも、哲学を避けて通ることができません。今年の哲学の問題は以下のようでした。

文系
 -真実の追究は公平たりうるか。
 -未来を手にするために過去を忘れる必要があるか。
 -トマス・アクイナス「神学大全」より抜粋テキスト。これを解説せよ。
理系
 -芸術は法則を必要としないか。
 -幸福であることは自分次第であるか。
 -ホッブズ「リヴァイアサン」より抜粋テキスト。これを解説せよ。
経済・社会系
 -科学的真実は危険たりうるか。
 -歴史家の役割とは審判を下すことであるか。
 -デュルケーム「道徳教育論」より抜粋テキスト。これを解説せよ。

これらから一問を選んで、4時間だったかをかけて、論文を書くわけです。バカロレアのあり方については、ネットで検索すれば日本語でもいくらでも出ますので、ここでこれ以上は書きませんが、要するに、「自分の頭でものを考えて論じる」ことを重視している、わけです。

一方、内田氏が教育について重視しておられるようなのは、文字を読む、四則の計算をする、外国語も習得、集団行動ができる、規則に従う、などで、そして、社会の再生産に役立つ良き社会成員となる、ことのように見えます。また、hamachanも特に大学教育において「職業レリバンス」をとても重視しておられる。つまり、お二人とも、社会の役に立つ労働者としての教育、をとても重視しておられるように、私には見えます。
私は、公教育の目的をもっと広く、職業や労働と直接関係なくても、自分で自分のあり方・暮らし方を考え、決めてゆける、という点に置くべきだと考えており、そういう意味で、フランスのバカロレアって素晴らしい、と思っております。かつ、フランスの公教育、国民には無償で提供するが、厳しく政教分離し、イスラムのスカーフ着用も禁止する(でしたっけ)など、「フランス国家がフランス市民を作り上げる」ものでもあるわけですね。
なおまた、フランスに限らず、ヨーロッパ各国では、労働の実学的側面も重視しているのも確かですが、「citizenship education」が子どものときから行われ、家庭や小学校段階から、政治問題を論ずることを学ばされる、というのは、特にオランダについて、リヒテルズ直子さんなどが詳細に紹介されているとおりだと思います。で、教育は「いやがっても教育するもの」とはヨーロッパの教育関係者は、基本的にとらえてないのが普通だと思いますよ。まあ、ヨーロッパの、などというと風呂敷があまりにも大き過ぎますが。

内田氏はフランス思想が専門の方にしては、教育についての理解がなぜかとても日本的な感じがしますね。
hamachanも、ご専門からして、ヨーロッパの教育、特に大学や高校もかな、の教育での職業レリバンスの高さを強調されるのはわかるのですが、「教育」はもっと広いもので、ヨーロッパの教育は日本よりもその本来の広さを追求していると、私は思っております。


 内田さん、濱口さん、コメントXさんのご議論に、教育学を専攻しているものとして関心をもちました。それぞれ、文学、労働法、哲学の分野の方々が分野を超えて熱心な議論をされておられることに、教育学研究者の一人として敬意を表するとともに、発言する責任を感じ、筆をとった次第です。
 さて、日本国憲法は第26条で「教育」(第1項)と「普通教育」(第2項)を明確に区分して規定しております。この区分は憲法制定上の経過からしても、現在の教育問題を論じる上でもきわめて重要なものと考えています。
 この区分から言えば、大学=高等教育は「教育」に属し、高校までの教育は「普通教育」に位置づくことになります。憲法理念上は高校も普通教育として、国民は「すべての子どもたちに受けさせる義務を負っている」のです。「義務教育」の「義務」というのはそのような意味において理解されるべきです。いわゆる「就学前」の子どもも同様と言えます。現実の制度はきわめて混乱していますが、そのことについては今は触れません。
 そうしますと、内田さんの「教育」はどちらの教育なのか、両者を含めたさらに広義の教育について論じているのか、濱口さんの「教育」論はもっぱら第1項の「教育」をさしているようですが、第2項でいう「普通教育」における奨学金制度についてはどのようにお考えなのか、コメントXさんは両者の接続部分を論じているようですがどういう「教育」観をお持ちなのか、この辺りを整理して議論しないと噛み合ないのではないかと思います。
 私は、戦前の教育に対する深刻な反省と世界史の到達点を踏まえた憲法の基本理念や第26条の理念については、もっともっと理解を深めるべきであると考えております。また、混迷を極める今日の日本の教育のあり方を考える上でも、共通の指針となるものと考えております。
 今回はこの点にとどめます。小生の議論については『普通教育とは何かー憲法にもとづく教育を考える』(地歴社、2008年)およびホームページをご参照いただければ幸いです。

ええと、正確には、内田・濱口・哲学の味方、の三者が論議しているわけではなく、ブログ論客として有名な内田さんの記事を、労働教育の観点から濱口さんがとりあげ、そこに私がコメントをつけている、という構造ですね。

また、私は、「哲学の味方」と名乗っているだけで、「哲学」の専門家ではありません。仕事はずっと社会科学関係ナンデモ屋的なことをしていますが、昔、分野としては労働が中心だったときにhamachanのお世話になって以来、ブログでも気軽な口をきかせてもらっています。

で、この記事に関してみると、内田さんは、義務教育と高等教育とを分けて意識しておられ、濱口さんは、主として高等教育について論じておられると、私は思います。
私は、ここでは保育の段階から高等教育までで述べましたが、実は、保育から成人教育、それも、もう、直接、賃金労働に携わらなくなった後の高齢者にとっての学習までも含めて、国民の教育としては、総合的に政策を考えるべきであろう、と思っています。ヨーロッパでの教育政策は、そこまでの視野を持っているのに比して、日本の教育が、せいぜい大学卒業までを、それも、義務教育と高等教育に二分割で考えている、保育は依然として厚労省所管、ということに疑問があります。

ただし、このブログは「教育問題」のブログではなく、私自身も、直接に教育問題を論じたいのではなく、ヨーロッパでは、労働を考えるのに、教育との接合をもっと重んじているし、かつ、労働教育自体を考えのにも、ヨーロッパでの、総合的な思考訓練を経て自分で考え、決められる教育が重要だと思うからです。特に、哲学なんて、日本の入試と全く違って、単一の正解がない、回答者一人一人の個性にのっとった答えになる、というところがすごいですよね。
で、教育の実学的目標として、労働を重視するのは必要だと思いますが、ここでも、「ワーク・ライフ・バランス」!、労働者であると共に、生活者であるための教育、が大切だと思います。

と、私も、労働という枠からは基本的に逸れずに考えているつもりです。
ただ、教育の立場の方から関心を持って頂けたこと、嬉しいです。

 ブログの性格を理解せずに、場違いな口出しをしてしまったと反省しています。これで最後にさせていただきますが、口出しした責任上、もう一言だけ述べさせていただきます。
 「哲学の味方」さんは、いわゆる生涯学習もしくは生涯教育のことを論じられておられるようですが、それはそれで論ずべき課題はたくさんあると思います。ここではその内容には触れません。
 日本国憲法第26条第1項は、教育を広く捉えたうえで、それを受けるのは国民の権利であることを定めています。
 一方、第2項は、そのような「教育」と区別して、「普通教育」について規定しています。この普通教育というのは、憲法理念から言えば、いわば子ども時代に対応する基本的な教育を言うのであって、就学前から高校までを対象としているものです。この「普通教育」をすべての子どもに受けさせることは国民すべての義務である、と憲法は求めているのです。憲法上の「義務教育」という用語の実質は普通教育と言えます。
 憲法で言う「普通教育」もしくは「義務教育」概念の範囲のなかに、教育行政上の語句として「義務教育」が含まれますが、その場合の「義務教育」は、現行法制上、小学校から中学校までに限られています。したがって、行政用語としての「義務教育」と憲法用語としての「義務教育」とは一致していません。戦後、政府はこの不一致とその拡大を系統的に推進してきたと言えます。
 1947年制定の学校教育法の、普通教育の目的に関する条項(第17条、第35条、第42条)には、普通教育の目標に、「職業についての基礎的な知識と技能」等が掲げられています。普通教育の目標として位置づけられていることにご留意いただきたいと思います。「職業についての基礎的な知識と技能」等は普通教育の理念と結びつけて、抜本的に重視されるべきであると私も考えています。
 「哲学の味方」さんは、義務教育と高等教育の「二分割」を指摘されていますが、両者の概念、したがって「二分割」の意味が不明確のように思います。
 ヨーロッパの教育政策の総合的性格については、現実上の問題としては大いに学ぶべきことがあると思いますが、法制上の理念としては日本国憲法にはそのような理念がすでに示されていると思います。その理念をしっかりとうけとめて政策化していくことこそが戦後一貫して求められてきたのです。その意味で、戦後政府の責任は大きいと思います。
 1985年以来の「生涯学習社会への移行」理念はユネスコ等で推進してきた生涯学習理念と性格を異にし、行政主導で制度化されてきました。これについてもいろいろ論ずべきこともありますが、ここはそういうブログではありませんのでこれ以上は触れません。
 小生も、出身学部が経済学部ということもあって、労働、経済と教育との関係はこれまでもいろいろ考えてきました。そういうこともあって、このブログを拝見する機会に恵まれました。
 今は、もう少し大きな視点から、すなわち「大人の社会」と「子どもの社会」を区別しながらもトータルに捉えるというスケールの大きい社会科学を構築していく必要があるのではないか、と考えています。そのためには、「子どもの世界」についての緊張感のある学術的な探求が求められていると思います。
 最後に、という気楽さから勝手なことを申し上げました。この場所を提供していただいた(無断で闖入したわけですが)ことに感謝しております。ありがとうございました。

(武田晃二さんのご依頼により、上記コメントに一部修正をしました。(hamachan))

武田さま
hamachanに代わって申し上げるわけではありませんが、労働と教育ってとても近い、というより、知識社会化していゆく現代社会では、近づけなければならない分野と思いますし、自由な議論の場としてのブログに「無断で闖入」も何もないと思います。むしろ、hamachanは、今の日本の労働政策の問題を、特定の人だけに閉じられた議論にしたくなくてこのブログを立ち上げられたと思いますので、今後も見ていただいて、そして、教育にお詳しい立場からコメントを頂ける方が、hamachanの意図に沿うのでは?ってやっぱりhamachanに成り代わったような書き方ですみません。で、私はこの記事ではこれで切り上げます。

哲学の味方さま>
我が家は夫婦の財布は完全に別々ですよ。お互いの口座番号すら知りませんし、ましてや暗証番号なんて教える予定もありません。
しかし、同年代のよその人たちと話をすると、ものすごく珍しがられるので、きっと少数派なのだろうと思っています。

私の周り(職場ではなく居住地域)では20~30代でも夫名義の口座を妻が管理している家庭が圧倒的に多いので、「日本の標準モデル」は崩壊しているようで、まだまだ根強く残っているのだという印象を強く持っています。
専業主婦家庭だけではなく、共働きでもそうです。

統計的にはどうなのかわかりませんが、少なくとも私と妻の周りは「小遣いはいくらか?」と聞き合っているような状態です。私の周辺だけが特殊なのかも知れませんが。

間違えて違うエントリーにコメントを投稿してしまいました。申し訳ありません。

「哲学の味方」さま
 武田です。あなたがこのブログを「切り上げ」るということが小生の書き方に原因があったのだとすれば、私の書き方に配慮が足りなかったのだと思います。その点はお詫びいたします。
 あなたこそ、このブログにとって大切な人なのですから、ぜひ残ってください。
 そのかわり、と言うのも変ですが、あなたから「慰留」されて、私も「最後」という言葉は撤回させていただきます。
 もし、私のコメントに対していつかどなたかが批評されるようなことがあれば、その時はこの場を使わせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

「哲学の味方」さま
 失礼なコメントを送ってしまい、申し訳ありませんでした。「この記事ではこれで切り上げる」を、ブログから切り上げる、と早合点してしまいました。
 それにしても、どうか「この記事から」切り上げないでください。あなたからも教育について「論点」を提出していただきました。「普通教育」論もいろいろな分野の方々と揉まれることで発展していくと思います。もしその気になられましたら、こんごともひきつづきよろしくお願いいたします。

教育の受益者は本人ではないというのは、間違い。正しくは、教育の受益者は本人だけではない。内田先生は時々こういう意図的に「ずるい」言い回しをして、その後の議論を流れをどこかしらコントロールしようとするところがあるよなあと思います。というのはここで書くべきことではないのでしょうが。

日本に住む若者たちの個人主義化は同じ若者として強く感じているところです。若者は中高年の方が共同体などの用語をもちいて良くできたファンタジーを語るのを行儀良く聞いている一方で、生のところは極めて個人主義的に考えている。考えてというよりは、感じているのほうが実態に近いかと思いますが。この時代「神経質な私」が問題にされる背後には、「個人主義的な彼ら」がいて、そういう人たちが増えてくると、私にとって益があるということが大事になってくる。となれば、共同体のためにとは関係なく、また大学教育への疑義ではなく、レリバンスのような論点はでてくるとは思いました。

しかしエントリにおいて指摘されている通り、個人の職業人としての到達(個人の益)は社会の益でもあるとすれば、その境界は実はあってないようなものなのでしょう。ただ、勝ち組・負け組のような考え方の好きな人たちのいる世論はそんなふうにも考えまいと思って俯いてしまうのは私が「ゆとり世代」だからでしょう。

私としては、教育は個人だけでなく世間や社会にとっても益がある…しかしそれは常に個人にとっての益があると不可分である、という見方は重要だと考えています。この考えがあるから高等教育はユニバーサルなアクセスとなっていない。

ちなみに、この点だけを解決したいとすれば、ユニバーサルであることだけでいいので、たとえば米国のコミュニティ・カレッジに見習えば良いとなります。

しかし論点は社会の在り方のための制度の在り方であるように読めます。それならば私は規範としての法を読解していく制度を合わせていくだけでは不十分なように思いました。ルールの始まりは常に「作られる」わけだから。

色々な考えがあると思うけれども、私としては、制度論としての高等教育へのアクセスの問題と、制度論を含めた文系大学の問題とは、ひとまずは分けて考えたほうがいいのではないかと思っています。

このまま、訳の分からん世間的なというわけでもないようですが(笑)文系・理系の分け方から、これは虚学である実学であるとしたりすることは、煽り方としてはそれなりに有用であっても、冷静な議論に持っていく時には無用のやり方でしょう。世論で動く官僚の…に絡んだブログ主らしい皮肉な取り上げ方なんか分かりませんし、ここにおいては冷静さよりも熱気が大事なのかもしれませんが、これだけはどうもしっくりきません。

ただ、高等教育は、その中でも大学は社会にとって有益であるということの社会への訴えは、現行の大学における中途半端にしか観測できない教育効果を証明するというレベルではできないことだと浅学ながら思っているところなので、職業レリバンスのような問いかけにはとても興奮しています。

まあ、最後に、やはり引っかかるのは、文系大学というざっくりとした分け方には、大学の歴史や自治性とか独立性とかいうものの問題がスルーされているように見えて、実際に何らかのアクションを起こそうとするなら「そんな論点で大丈夫か」と思ってしまいます。

勘違いや取り違いがあるかもしれませんが、エントリを読んだ感想として投稿させていただきます。

hamachanさんの、企業に評価されない大学教育は問題だ、という考え方に対する、哲学の味方さんの、大学教育を評価しない企業(社会)こそ問題だ、という反論は考えさせられます。以下のようなことをだらだらと考えてしまいました。

一市民の本音では、進学するのは就職のためと言っても過言ではありませんが、国までこの考え方に同調してはたしてよいものなのだろうか?

お金を生み出さない基礎研究は本当に無駄なのだろうか?

日本の大学は、哲学の味方さんの求める水準の教育ができているのだろうか?

日本人に欧州的な考え方は、本質的ばレベルでは理解できないのではなかろうか?つまり、目に見える利益のみを追求する方が日本人らしいのではないのだろうか?

といろいろ考えさせられます。何となくですが、今後数十年のスパンでは、hamachan さんの考え方が実りが多そうですが、国家百年の計とか地球規模のレベルで考えたら、哲学の味方さんの考え方の方が実りが多そうな気がします。

ロンドンで大学教育がらみのデモが起きているそうですね。
http://econdays.net/?p=2395
”とても簡単に言うと、裕福な家庭の子どもだけが大学に行くが、かつては賢い男の子だけだったのが今は女の子や頭の鈍い男の子も行くようになっているということだ。”

 消費財としての教育

上記の匿名希望さんの引用は、もとの記事であるFinancial Timesの論説委員、Tim Harford氏の"Why education fails the poor?"もざっと見ましたが、もとの記事の内容とずれているような感じがします。

もとの記事では、現在の英国の教育は貧富の格差をそのまま反映し、固定する方向になっており、特に大学教育は富裕層に利している。大学の進学率は増加したが、それは、富裕層の中でかつては賢い男の子だけだったのが今は女の子や頭の鈍い男の子へと増加したのであって、貧困層へ増加したのではない、今回の大学の学費値上げはその傾向を助長するもので、本来の教育改革の方向は、特に子どもについて貧富の格差を解消し、社会的流動性を増してゆくものでなければならない、というものですね。
つまり、大学教育は単なる富裕層の消費財であってはならない、という。
学生デモの目的も、学費値上げ反対ですね。(日本でも昔は「学費値上げ反対闘争」というタテカンを大学でよく見たものでした...。それをやっていた人たちが社会に出て社会でその続きをやってくれていたかどうかは疑問ですが。)

おなじみのあの人が

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51776931.html

海老原 嗣生さんの著書を読んで
大学 と シグナリング
について
勉強したようです

冬休みになって、読みかけでおいてあった、厚めの本をまた読み始め、とても興味ある記述にゆきあたりましたので、ご紹介。

フランス型の教育と、アメリカ型の教育を、比較している話でした。

「Republiqueにおいては、社会が学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにあり、個人を宗教から引き離すということに要点がある。ところが、デモクラシーにおいては、反対に、学校が社会に似ていなければならない。デモクラシーにおける学校の最も重要な任務とは、社会、すなわち、労働市場に見合った生産者を養成することとなる。(中略)Republiqueにおいては、各々の村に二つの大事な場所がある。ひとつは、選挙で選ばれた代表者が公共の事柄について議論する役場である。もうひとつは、教師が子どもたちに自立と自律を教える学校である。片やデモクラシーにおける二つの大事な場所は、教会とドラッグストア、あるいは、教会と証券取引所である。」

これは、レジス・ドゥプレの議論を樋口陽一さんが要約しているものです。「憲法という作為 「人」と「市民」の連関と緊張」(岩波書店、2009)

「宗教から引き離す」というのは、単に、政教分離、というだけでなく、個人を、国家以外の、宗教とか民族とかにまとめさせることを防ぐ、という、つまり、市民は、何かの集団の一員としてではなく、個人として市民社会の中に立つ、という原則の遵守、ということのようです。

移民ろーどー者をXX万人受け入れよ
というひとびとは
日本語教育のコストを
どのように考えているのだろうか

親が日本人であるフリンジベネフィット?がない分のコスト

トヨタ・キヤノンの自弁?

まさかさんざん文教予算を削っておいて
税金が必要だとは思わなかったヨ、とか……

↑移民にお金をかける前に自国民(の教育)にお金をかけたらいかが?という意味で

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