心狸学的より社怪学的に
社会学的に問うべき問題を心理学的に問題にすることによる議論の土台そのものの歪みはあちこちにありますが、その一つの典型として:
http://www.j-cast.com/kaisha/2010/10/07077703.html(「仕事がイメージと違う」と心療内科を受ける若者たち)
>心療内科を受診した際に彼らが訴える理由の中で最も多いのが、「自分の希望と実際の業務内容がかみ合わない」(というものである。)
おそらく、就職前は「こんな仕事がしたい」「あんなふうに働きたい」と夢をふくらませていたのだろうが、現在の雇用情勢では、希望通りの職場に就職できるのはごくわずかだし、たとえ運よく目当ての会社に入れたとしても、最初にやらされるのは雑用のような仕事である。
それゆえ、イメージとは違う現実を見て途方にくれる。「自分はこんなことをするために会社に入ったんじゃない」と。イメージと現実は一致しないのがむしろ普通だが、それは受け入れられない。
したい仕事と実際の仕事が合わないという事態が、就職した後に発生するというのは、そもそも一体どういうことなのか?という問題意識が全くないのですね。単に若者の「ココロ」の問題としか見えていない。
>このギャップを埋めていくためには二つの選択肢しかない。
思い描いていたイメージに少しでも近づけるように努力して現実の自分を高めていくか、それともそのイメージの方を少しずつ「断念」して現実を受け入れていくか、二つに一つだ。もしくは、その両方をすることで、ある程度のところで妥協をすることが必要になる場合もある。
大多数の「普通の」人々は、後者の選択肢、つまり少しずつ「断念」しながら「現実適応」していかざるをえないことが多いのだが、・・・
その通り、世界中どこでも、ガキの時代の全能感から、現実にできることしかできないということを学んでいく。
学んでいって、そして自分の将来を限定するという意味において、具体的な職業に就職する。
就職とは、ガキの全能感を削り取る自己限定の帰結なのだ、本来。
ところが、日本型雇用システムにおいては、その限定がジョブの中身ではなくメンバーとしての異動の範囲として設定される。つまり、自己限定が「どうせうちの会社程度なら・・・」という形でしか認識されず、「やりたい仕事をやれる」などというガキの全能感は削られないのだ。
そういう社会学的問題を、心理学的問題に矮小化してはならない。
> これも、自己愛イメージと現実の自分とのギャップを受け入れられない「成熟拒否」の一面だと思う。「あなたには無限の可能性がある」という幻想を教え込み、挫折や失敗などの「対象喪失」に直面させないことを重視してきた「けがをさせない」教育が、厳しい現実社会に耐えられない人間を数多く生み出すことになったのだと考えられる――
「命じられたことは何でも喜んでやります」という(現実の)ジョブ無限定が規範化されているがゆえに、「やりたいことは何でもやらせろ」という(空想的)ジョブ無限定が生じうるというメカニズムを抜きにして、「近ごろの若者は、なあ」というだけでは、余り意味のある議論にはならないでしょう。
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やれることを定めて、成長し納得しつつ道を定める
ことを喜びに出来るようになって欲しい。でも、今の日本の社会では、人生と命を全部無限定の労働で吸い取られ尽くされてしまうので、恐ろしいもの。それをガキの戯言、と終わらせないでほしいです。無限定の拘束と、人生の選択がごちゃまぜで取り扱われては、絶望だけしか残りません。自分の夢、というより時間はやはり大切な命の糧だと思います。仕事あり方、やり方、自分のあり方などにバランスのよい線引きを社会と私が認識して引いてゆく時代が来るといいのですが。
投稿: akane | 2010年10月13日 (水) 20時53分
新型うつ病の増加という問題に対して、、記事中の「そういう社会学的問題を、心理学的問題に矮小化してはならない。」という視点での捉え方は大いに賛成です。
と同時に、現実問題としていわゆる新型うつ病はここ最近、確実に増加しているという事実を労務管理、社会保険適用実務を通じて実感しています。
考え方、捉え方は様々で、↓のような意見もあり、実際問題、どう対応すべきなのか・・・。
なぜうつ病の人が増えたのか [単行本] 冨高 辰一郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4779004535/ref=nosim/?tag=vc-1-41632-22&linkCode=as1 (参考)
投稿: 労使間 | 2010年10月14日 (木) 01時26分