フォト
2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

« 正確に言えば「安定成長期の亡霊」 | トップページ | 心狸学的より社怪学的に »

2010年10月12日 (火)

日本学術会議大学と職業との接続検討分科会議事録から

すでに報告書も正式に公表され、枝葉のはずの3年間新卒扱いも時代の寵児となり、いまさらむかしの議事録を引っ張り出す必要もなさそうなものですが、ようやく今頃になってちょうど1年前の昨年10,11月ごろの議事録が学術会議のHPにアップされてきたので、例によって、わたくしの発言部分を引用しておきます。

まず、10月13日の第9回会合、

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi09.pdf

○ 前回も議論し、あまり明確な形にしなかったことだが、「日本的雇用システム」をどのように定義するか、ということがある。「日本的雇用システム」とは、端的に正社員システムのことなのか、それとも正社員システムと非正規の分を含めているのか。そして、日本的雇用システムの変容と言った場合、ある正社員システムが縮減して外側が拡大することだけを指すのか。2.の日本的雇用システムの「縮減」では、正社員システムを日本的雇用システムとしている。「日本の」雇用システムといった場合、正社員・非正規等を全部含めなくてはいけないが、「日本的」「日本型」というと、正社員システムだけを指す言葉としても使えるし、現に使われている。そして、非正規を含めたシステムを指す言葉としても使える。しかし、文章の前と後ろで見方が違っていると意味が通じなくなる。

2点目に、日本的雇用システムを正社員システムという意味で定義した場合、単に縮減しているだけなのか、それとも変容しているのか、ということがある。これは今は議論しない方がいいのかもしれない。しかし、前回の議論では、日本的雇用システムには二重性があり、ある意味で縮減というよりも凝縮であり、凝縮というのは今までの日本的雇用システム的な性格がより強調されている、ということである。ただ、それが凝縮することによって、逆にそれ自体が前提としている条件に矛盾するものが出てくる。昔の雇用は、たいしたことのない人間でも採用して長い目で育てていく、というものだった。したがって、そもそもの昔のシステムが前提としていた条件を抜きに、会社の中である程度育てられてきた人間に要求するようなことを卒業生に要求するということは、凝縮であること自体が矛盾をもたらしている、という面がある。そこまでを「変容」という言葉で表現した方がいいと思う。正社員システムが縮減していることによって矛盾が生じている、それとともに縮減して凝縮されたことによって矛盾が発生している、という2本立てでいく必要がある。Ⅰの1.でこの点についての記述があった方がいいのではないかと思う。

○ 正確に言うと、学問的ディシプリンが何であれ、一定の何らかの知的訓練を行うということは間違いないと思う。ただそれが、例えば法学部に入って法律を学ぶことによって、他の学部に行っただけでは得られないような何らかのものが得られたのか、というふうにちゃんと社会的に認知されているか、というとそうではない、という趣旨であり、少なくとも全く大学に出席しないで遊んでいた人間と何かしら勉強していた人間とでは違うだろう、というもともとの意味は社会的に信頼されているだろう。何かのディシプリンがあることを強調して書くことは嘘になると思う。少なくともそこで何らかの知的訓練を受けたことは、その後の知的労働に従事する上で、本当に役に立っているかは別として、役に立っているというふうに社会的に認識されていたということは確かだと思うので、そのように書けばいいのかなと思う。

○ メールでいただいた資料で、今日配布されたものには入っていないが、これまでの日本的な正社員システムの中で、上位校でうまくいっていたところについてはそれでいいのではないか、という点があったと思う。その点は今の話とつなげて議論できると思う。しかし、そうすると今度は「だからといって最初から何でも要求するなよ」という話につながってしまうかもしれない。全体としての方向性に逆行する議論を個別的にしてしまうことになってしまうので、それがいいのかはわからないが、細かい議論をし始めると、こういう議論はあってもいい。ただ少なくともそれは全体としてはそれがうまくいかない形になっている、ということを最初に指摘した上での話だと思う。

○ ただ、少なくともここまで大卒者が同世代の過半数を超える状況になった中で、すべてについて、今まで言っていたような、中身はとにかく、何かを一生懸命訓練したことによる人間力レリバンスがあるからやっていけるのだ、ということで、全部うまくいっているということはない、ということは言う必要がある。そういうことで、おそらくここで言われているようなメッセージは重要である。それなりに役に立つ能力もあるのではないか、という議論があるかもしれないが、社会のリーダー層をどのように作っていくべきか、というような議論まで踏み込むのか、という感じは若干ある。実際には、今まである時期まではそういう中でずっとやってきたが、本当はそういうトップレベルでないような人々について、むしろ中心的な議論をして、そこについては、もうそれではやっていけない、というふうにメッセージを出した方がいいと思う。

次の10月27日の第10回会合は所用で欠席。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi10.pdf

その次の11月10日の第11回会合

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi11.pdf

○ キャリアラダー的な発想をこっちに持ってきてしまったために、やや違和感を与えるようなものになってしまっているのだと思う。何が問題かというと、最終的に弁護士や公認会計士にならないから問題なのではない。ある会社でやっていた仕事が、会社が変わってもそのキャリアが認められてつながっていくか、ということが問題なのである。ここはむしろキャリア認識の話なので、キャリアラダー的な上がっていく話とは分けて議論しないといけないと思う。

○ あえて言うならばそれをパブリックに認証するようなシステムが作られることが望ましい、という書き方になると思う。

○ 大学卒業生自体が増えること自体について、いいか悪いかという判断をここではやっていない。あるいはする必要はないのではないか。どのような大学教育を与えられた人がその需要に対して過大である・過小であるという議論はあっても、一般的に中等後教育を受ける人が増えるということは悪いことではない。それが今までのレリバンスのない形で、つまり会社にジェネラリストとしていくことを前提としたものが、そのままの形で増えたことが問題である、ということを指摘している。中等後教育そのものが増えたこと自体を必ずしも問題としていないので、そこは少し触れているだけなのではないか。ただ、レリバンスのない性格のものがその性格のまま増えたことが問題となっているので、逆に言うと整合しているのではないか。それがわかりにくい形になっているとすると、わかりやすく書いてもらった方がいい、という印象を受けた。

○ 逆に、職種別労働市場と安定雇用は対立する、というように書く必要があるのか大変疑問に思っている。過度に安定していないが、それも一つの安定雇用だ、というふうに位置付けた方がいいのではないか。9ページの図について、一番違和感があるのは上の緑と真ん中のオレンジの間に線が同じようにひかれていることである。実はここには色が少しずつなだらかに変わるようにした方がいいのではないか。これはイメージとして言うとまさに日経連の高度専門能力活用型、というのを間に作る、というイメージである。しかしその戦略はできない。むしろ問題なのは長期蓄積能力活用型の方に色々矛盾があるので、そこをどうにかしましょう、という議論である。ここの議論でできるかどうかは難しいが、絵として言うと、あまりきれいに色を区分けない方がいいと思う。あえて言えば非常にトップクラスのところに本当の国家戦略的ジェネラリストがあるかもしれないが、それを皆に要求するなというような話にする方がいいのではないか。そういう意味では職種別もそんなにたいしたことではない、そもそも大学4年間で学んだ専門性というのは実はそれほどたいそうなものであるはずがない、ということからすると、提言そのもののリアリティを増すためにも、あまり高度な専門能力という形に描き出さない方がいいのではないか。

○ 単純に、ないならば「無し」と書く話だと思う。逆に言うとそれを学生や社会がどのように評価・判断するか、ということがむしろ社会が大学の機能をどのように見るか、ということだと思う。

今後のことにも関わってくると思うが、この分科会自体が大学と職業という形で書かれており、教育と社会、教育と雇用ではない。したがって、教育システムという形で捉えた議論は、実はない。どこかでそれはある必要があると思う。専門職大学院の話で、7ページの最後に棲み分けのことが書かれているが、その議論の前に色々なシステムを今までどうなっているか、それをどう位置付けるか、という議論をやった方がいいのではないか。ここでこれを書くのか、ということは色々意見があると思う。例えば後期中等教育のレベルから大学院レベル、そして企業内教育まで含めて、それをどのように再編していくのか、という問題意識はどこかで書いておいた方がいいと思う。雇用社会については色々書いてあるが、教育システムについては大学のところだけ取り出したような形になっている。問題設定がそうだからといえば仕方がないが、全体社会システムの中、という、最初にそういうところから議論を始めていることからすると、後期中等教育において専門教育はいかにあるべきか、あるいは最近になって専門職大学院という形で一番上のレベルでやろうとしている中で、大学レベルだけ抜けている。ここをどうするか、という問題意識の議論としてやっておいた方がいいと思う。そのことと具体的な提言についての議論になると思う。

○ 私のイメージとしては2と3の間くらいに書くのではないかと思う。もし可能であれば児美川先生担当のところに、今までの教育システムの中で、例えば高校の専門教育から始まって、それがどのように関わってきたのか、あるいは関わってこなかったのかということを書いてもらえるといいと思う。

○ 後期中等教育に専門高校がある。しかしそれは社会の中で言うと、本当の高度専門職というよりは低度専門職や専門職ではないような形で位置付けられてしまっている。上は全くなかったが、最近になって専門職大学院という形で、非常にハイレベルな専門職を作ろうということが動き出した。しかし基盤がないので、実はきちんと動いているとは言い難い。一番大きな固まりである大学についてきちんとした位置付けがないので、そこの位置付けが必要である、というようにやや問題意識提起型で書いてもらえるいいと思う。今の教育システムの中でも専門職的な問題意識はあるが、その位置付けが非常に周辺的である。それをもっと中心的に位置付けていく必要がある、という形で書くと、教育システム全体に対する問題提起としてクリアな形になるのではないか。

○ なぜ60 年代に政府が職種別能力に基づいた労働市場といいながら実現しなかったのか、というと、高度成長下で仕事がどんどん変わっていったからである。そのため、まっさらで入れて、色は全部企業でつけるとした方が効率的だった。それは合理性に基づいてそうなった。このような仕組みはずっとうまくいっていたが、ここ十数年来に特に入口のところで問題が出てきた。やはりあらかじめ入口のところで何らかの色をつけておいて、その色で入れるようなコースを作った方がやりやすいだろう、という話だった。ただ、入口で色を固めてしまえばしまうほど、その後の動きが悪くなるので、そこはバランスが必要である。その先の、世の中が変わっていくことに対応して変えていくのをどこが、どの主体が、どの程度の責任を持ってやっていくのか、という問題がある。日本型雇用システムの最大の特徴は、学生や労働者はその主体ではないし、責任もないということである。その代わりに企業が全てやってくれる。安心して従っていると、きちんと企業が今後の市場の動向を見てちゃんと変えてくれる。しかし、それでは乗れた人はそのまま乗っていけるが、乗れなかった人は何もないという状況で、非常にバランスが悪い。もう一つは、入った人についても、全て企業がやるのか、ということがある。何かしら労働者個人の問題もあるだろうし、法的な責任もあるだろう。

企業側が全て責任を負わされてもやっていけない。一旦正社員で入っても実は企業が責任を負ってくれない、ポンと放り出される、という形で自力では何もできなくなる。このような形で色々なものの中で、どの程度のバランスにするのか、という話だと思う。その中でschool to work のところについて言うと、ある程度の薄い色を付けて、入りやすくさせていく、という話だと思う。あまりがちがちにするというイメージにしない方がいいと思う。そもそも大学4年間でそれほどがちがちになるはずがない。先程の教育システムで話したのは、教育システムの中で、後期中等教育でも専門学校・専門高校がある。大学には専門課程があり、大学院にも専門職大学院というものがある。それを職業人生の中でどういうふうに使っていくか、という形で、労働者個人の責任と公的な責任と企業の責任で割り振っていくという話になるだろうと思う。やはり教育システム全体の中での位置付けのようなものを書くと、その点がわかりやすくなるのではないかと思う。

単に企業にただ成績を重視しろというだけでは何の意味もない。そもそもシステムとしてどういう科目を置くか、科目を置く意味は何か、企業にとって意味があるのか。この科目は企業にとって意味があり、その科目でいい成績をとることは企業が評価するに値することである、という枠組みをつくる。企業はそうした以上、それを評価すべきである、ということを書けば完結する話である。ただ、これは「大学のカリキュラムそのものの策定について、企業の意見をきちんと取り入れて、取り入れた以上は、企業はそれについて重視しなければいけない」というふうに書かなければいけないと思うでなければ、大学が勝手に行ったことを遵守しろと書けるかどうかである。

○ 7ページの3の最初のところに『上記のような雇用システムの再構築に際して、ユニバーサル化した大学が担う新たな役割』という書き方をしている。

結局これは何のためかというと、実は間接的な書き方である。なぜ各大学にこのようなことを求めるのか、というと、雇用システムを再構築するために大学はこういう役割を担ってほしい、というだけである。

« 正確に言えば「安定成長期の亡霊」 | トップページ | 心狸学的より社怪学的に »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本学術会議大学と職業との接続検討分科会議事録から:

« 正確に言えば「安定成長期の亡霊」 | トップページ | 心狸学的より社怪学的に »