新成長戦略会議に清家先生、宮本先生など
読売が、政府の新成長戦略会議のメンバーをどんどん新聞辞令を出しています。
5日の記事では、
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20091120-054987/news/20100905-OYT1T00783.htm
>政府は、菅首相を議長とする新成長戦略実現推進会議について、初会合を9日にも開く方向で最終調整に入った。
同会議の副議長は、仙谷官房長官、荒井国家戦略相、直嶋経産相が務める。このほか、メンバーに野田財務相、日本銀行の白川方明総裁、経済3団体(日本経団連、日本商工会議所、経済同友会)のトップ、連合の古賀伸明会長が入るほか、伊藤元重東大教授や清家篤・慶応義塾長ら、成長分野に詳しい有識者数人を加える予定だ。
同会議の設置は、政府が先に発表した追加経済対策の基本方針に盛り込まれた。新成長戦略を着実に実行するための「司令塔」としての役割を担うことが期待されている。
利害関係者代表として経済界とともに、連合会長が入り、有識者として労働経済学者の清家篤先生が入っています。
さらに、今日の記事では、
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20091120-054987/news/20100906-OYT1T01293.htm
>政府は6日、新成長戦略実現推進会議の有識者メンバーに、小宮山宏・前東大学長や河野栄子・リクルート元会長、宮本太郎・北大教授の3氏を起用する方向で最終調整に入った。
政府は7日にも同会議のメンバーを発表し、9日に初会合を開く予定だ。
小宮山氏は環境、河野氏は雇用、宮本氏は福祉政策に詳しい。有識者では、このほか、伊藤元重・東大教授や清家篤・慶応義塾長を起用する予定だ。幅広い分野の専門家を集め、同会議を新成長戦略を実行するための司令塔にする考えだ。
事務局長には、古川元久官房副長官と平岡秀夫国家戦略室長(内閣府副大臣)を充てる。民主党の玄葉政調会長(公務員改革相)も加わり、党との連携を重視する。
と、宮本太郎先生も入ることになったようです。
基本的には、自民党時代の経済財政諮問会議に相当する機関という位置づけのようです。
そういう意味では、わたくしが拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』の最後のところで述べたステークホルダー民主主義の理念に一歩近づいたということでしょうか。
> 大衆社会においては、個人たる市民が中間集団抜きにマクロな国家政策の選択を迫られると、ややもするとわかりやすく威勢のよい議論になびきがちです。1990年代以来の構造改革への熱狂は、そういうポピュリズムの危険性を浮き彫りにしてきたのではないでしょうか。社会システムが動揺して国民の不安が高まってくると、一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムが人気を集めがちになります。これに対して利害関係者がその代表を通じて政策の決定に関与していくことこそが、暴走しがちなポピュリズムに対する防波堤になりうるでしょう。重要なのは具体的な利害です。利害関係を抜きにした観念的抽象的な「熟議」は、ポピュリズムを防ぐどころか、かえってイデオロギーの空中戦を招くだけでしょう。
利害関係者のことをステークホルダーといいます。近年「会社は誰のものか?」という議論が盛んですが、「会社は株主のものだ。だから経営者は株主の利益のみを優先すべきだ」という株主(シェアホルダー)資本主義に対して、「会社は株主、労働者、取引先、顧客などさまざまな利害関係者の利害を調整しつつ経営されるべきだ」というステークホルダー資本主義の考え方が提起されています。そのステークホルダーの発想をマクロ政治に応用すると、さまざまな利害関係者の代表が参加して、その利益と不利益を明示して堂々と交渉を行い、その政治的妥協として公共的な意思を決定するというステークホルダー民主主義のモデルが得られます。利害関係者が政策決定の主体となる以上、ここでは妥協は不可避であり、むしろ義務となります。妥協しないことは無責任という悪徳なのです。労働問題に関しては、労働者代表が使用者代表とともに政策決定過程にきちんと関与し、労使がお互いに適度に譲り合って妥協にいたり、政策を決定していくことが重要です。
現在、厚生労働省の労働政策審議会がその機能を担う機関として位置づけられていますが、政府の中枢には三者構成原則が組み込まれているわけではありません。そのため、経済財政諮問会議や規制改革会議が政府全体の方針を決定したあとで、それを実行するだけという状況が一般化し、労働側が不満を募らせるという事態になったのです。これに対し、経済財政諮問会議や規制改革会議を廃止せよという意見が政治家から出されていますが、むしろこういったマクロな政策決定の場に利害関係者の代表を送り出すことによってステークホルダー民主主義を確立していく方向こそが目指されるべきではないでしょうか。
たとえば、現在経済財政諮問会議には民間議員として経済界の代表二人と経済学者二人のみが参加していますが、これはステークホルダーの均衡という観点からは大変いびつです。これに加えて、労働者代表と消費者代表を一人づつ参加させ、その間の真剣な議論を通じて日本の社会経済政策を立案していくことが考えられます。それは、選挙で勝利したという政治家のカリスマに依存して、特定の学識者のみが政策立案に関与するといった「哲人政治」に比べて、民主主義的正統性を有するだけでなく、ポピュリズムに走る恐れがないという点でもより望ましいものであるように思われます。
昨年、民主党政権ができたばかりの頃、わたくしはあえて『現代の理論』に載せた論文の最後のところで、国家戦略局構想に批判的なことを述べましたが、
http://homepage3.nifty.com/hamachan/minshu.htm
>最後に、民主党政権の最大の目玉として打ち出されている「政治主導」について、一点釘を刺しておきたい。政権構想では「官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する」としている。これは、小泉内閣における経済財政諮問会議の位置づけに似ている。
政治主導自体はいい。しかしながら、小泉内閣の経済財政諮問会議や規制改革会議が、労働者の利益に関わる問題を労働者の代表を排除した形で一方的に推し進め、そのことが強い批判を浴びたことを忘れるべきではない。総選挙で圧倒的多数を得たことがすべてを正当化するのであれば、小泉政権の労働排除政策を批判することはできない。この理は民主党政権といえどもまったく同じである。
労働者に関わる政策は、使用者と労働者の代表が関与する形で決定されなければならない。これは国際労働機構(ILO)の掲げる大原則である。政官業の癒着を排除せよということと、世界標準たる政労使三者構成原則を否定することとはまったく別のことだ。政治主導というのであれば、その意思決定の中枢に労使の代表をきちんと参加させることが必要である。
こういうときに、あの岩波編集部の方がひねり出したあの台詞を使うんでしょうね。
「問われているのは民主主義の本分だ」
と。
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