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2010年9月 4日 (土)

金子良事さんの理解と誤解

先日のわたしのエントリに金子良事さんから再びコメントがされました。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-178.html(大卒の就職が厳しいのは景気と労働市場の需給で説明できるんじゃないか)

始めに申し上げておくと、今までも何回か金子さんから指摘されたような気がしますが、

>私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

というのは、ある意味でその通りです。わたしが本田先生のレリバンス論を繰り返し「活用」するのも、社会全体の方向付けと言うよりも、ある部分に関心を引きつけたいからであり、そここそ、まさに言葉の正確な意味での「マージナル」と呼ばれるような部分であるからです。

実をいうと、日本の大学は普通に考えられているよりもかなり多様であり、特に最近は文部科学省の自由放任主義的政策のお蔭で、専門学校の大学成りが急速に進み、言葉の正確な意味において専門学校に毛が生えたような(毛も生えていない?)大学がいっぱい出てきています。こういう大学は、偏差値的にはまさに「マージナル」ですが、実態はまさしく専門学校ですので、勉強はできないにしてもとっかかりはあるのです。そういうところは、うまくいくにせよ、いかないにせよ、いくいかないの操作可能性の支点が明確です。つまりそれが、わたしが本田先生の議論で役に立つと思っている「レリバンス」なるものです。

問題のある「マージナル」大学とは、むしろ高校レベルにおける「普通科底辺校」に相当するところです。勉強したことになっている範囲は開成や日比谷と正確に同じであるような普通科底辺校の卒業生が、その同じであるはずの学習内容をAO入試で「ウリ」にできるのか、というはなしです。勉強したことになっている範囲は東大や慶応の経済学部と正確に同じであるような偏差値底辺級のマージナル大学の学生が、その同じであるはずの学習内容を「ウリ」にできるのでしょうか、と翻訳すればわかりやすいでしょう。そう、大変むくつけなはなしであり、大学人は露骨に言いたくないでしょうね。しかし、その労働市場の入口における「ウリ」という観点から、せめてなにがしかとっかかりになるレリバンスを、という点において、わたしは本田先生の議論を評価しているのであってみれば、彼女の議論が今までの社会政策や人事労務管理論をきちんと踏まえていないというのは(それが正しいとしても)戦略的には顧慮すべき必要は感じません。

本ブログでずっと昔に指摘したように、本田先生には(自分自身が所属する東京大学教育学部のような高度な研究者養成を主たる目的とする組織も含め)一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向があります。そこは、それが弊害をもたらしかねなくなった時点で指摘すればよいと、(プラグマティックに)わたしは考えています。

なお、景気が最も重要なファクターであることはおそらく誰も反論しない基本事項ですが、(それも分からずに脳天気なことを言っている「ヘタレ人文系」(?)な人々に対してであれば格別)それを前提にして議論がされているところに、あえて他の議論の重要性を削減するために景気問題を持ち出すことは、議論それ自体の正当性とは別次元において言説としての不適切性があると考えています。これは金子さんではなく、もっと別の土俵で述べられるべきことですが。

(追記)

ちなみに、金子さんや森さんは同時代的には読まれてないと思いますが、今から4年以上前に本ブログ上で時ならぬレリバンス論議が交わされたことがあり、その時のエントリを読んでいただくと、わたくしの変わらぬ問題意識はご理解いただけるものと思われます。

たとえば、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。

コメント欄:

>マクロ社会的には、必ずしも優秀でない素材までが、かつて優秀であるシグナルとして機能した(と思いこんでいる)基礎的な専門教育の欠如というシグナリングを求めて普通科になだれ込んできたために、シグナリング機能が消滅したことがあります。
そうすると、こういう連中は、優秀でない上にへたに雇ったら初期教育訓練コストもかさむ存在になりますから、労働市場で一番周辺に追いやられてしまいます。
これは格差の原因ではないにしても、それをある程度増幅する機能は果たしているように思われます。

いずれにしても、専門高校であっても、所詮高校レベルで教えることのできる専門性なんて、それほど大したものではないのですから、「普通高校で教えることの可能な広義の意味での専門性」にそんなに悩む必要もないように思います。
高校レベルで何らかの職業教育を全員が受けた上で、その能力に応じてさらに進学するという仕組みになることのメリットは、進学しない場合のリスクを最小限にすることができることで、これはかなり重要ではないかと思います。

>職業教育の拡大というのは、別に「うまい話」なんかではなく、何にもないまま労働市場に投げ出される若者に、せめてなけなしの装備を提供してやろうという、はなはだみみっちい話に過ぎません

>全くその通りでしょう、私は初めから、日比谷だの戸山だのへいって東大や京大を目指す連中のことは念頭に置いてません。書店に行けば、高校進学ガイドなる冊子がおいてあって、ごく少数の職業科を押しやって山のように名前も聞いたことのないような普通科高校があることがわかります。しかも結構就職しているんですね。入試偏差値でシグナリング機能が代替されてしまい、普通科に進学した意味が全くない彼らをどう救えるのか、ってところに主たる関心があるものですから。(最初に断っているように、私は教育の専門家ではなく、教育の高邁な理念なるものには何の思い入れもないものですから、何がどう役立つか、という関心からのみものを言っています)

(再追記)

ついでに、当時のいくつかのエントリも紹介しておきます。

まず「一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向」の実例。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、・・・・・・

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

>大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです

これらレリバンスを論ずべきではそもそもないものに対し、まさにレリバンスを問うべきではないかと論じているのが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

>哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。

>経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。

こういうのを読まれると、このhamachanという奴のレリバンス論というのは、なんというむくつけでむきだしでいやらしいものかと感想をお持ちの方もおられるでしょう。その通りです。そういう本音を隠したきれい事で教育論を済ませようとするから、話がことごとくおかしな方向にいくのです。

そして、少なくともわたくしの考えるところでは、社会科学的思考とは物事をこういう風に見て、こういう風に考えることであるはずです。むき出しの事実をありのままに見るところからしか、理想も何も出発のしようはないのです。

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コメント

濱口先生、ご丁寧にありがとうございます。

私も先生がブレていると考えているわけではなくて、あえていえば、全部分かっていて、ある一点にスポットを当てようとされるので、分かっているという前提に気付かずに引っ張られてしまう修士レベルの院生(あるいは独学で勉強したい人)もいるだろうし、その方たちは気の毒だと思っているのです。だから、振り子を戻さなきゃならないので、嫌々ながら説明した次第です。ただ、本田由紀さんの議論は、もっと大学をノッペリ捉えていて、濱口先生のような緻密な戦略はどこにもないと思います。

本田先生には本田先生の戦略があって、それこそわたしにはよく理解できない「はいぱあめりとくらしい」なども含めて言説を展開しておられるので、それをとやかくいう必要もないと思います。
お互いに相手の言説の中で自分の戦略に「使える」ところを貪欲に使っていこうとしているわけなので、それがその部分について歪曲されているのでない限り、むしろ望ましいことでしょう。
他の(若い)研究者がどう考えるかは、突き放した言い方をすれば、研究者である以上自分をしっかり立てて考えるべきことではないでしょうか。人の議論はすべて、使えるところを使うためにあるわけですから。

ちなみに、わたくしは繰り返し、「黒猫でも白猫でも労働問題に取り組むのが良い猫だ」と述べていることからも分かるように、顕在的ないし潜在的な労働問題をどう解決するかという戦略的思想で物事を論じていることを、公然と語っていますので、模試誤解されそうな方がおられれば、「hamachanは黒猫白猫論だよ」と伝えてあげてください。

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