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人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?

typeAさんとの一連のやりとりについて、ご本人がご自分のブログで感想を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100911/1284167085(負け犬の遠吠え-無政府資本主義者の反省-。 )

いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。

おそらく、そこに引用されている「平凡助教授」氏のこの言葉が、アナルコキャピタリズムにまで至るリバタリアンな感覚をよく描写していると思うのですが、

>無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.

政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、あたかもそういう「モノ」を人間の意思で廃止したりすることができるかのように思う点にあるのでしょう。

人間という生き物にとって「交換」という行為をなくすことができるかどうかを考えれば、そんなことはあり得ないと分かるはずですが、こんなにけしからぬ「市場」を廃止するといえば、できそうな気がする、というのが共産主義の誤りだったわけであって、いや「市場」を廃止したら、ちゃんとしたまともな透明な市場は失われてしまいますが、その代わりにぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「市場まがい」で様々な交換が行われることになるだけです。アメリカのたばこが一般的価値形態になったりとかね。

「問題の多い市場の領域をなくして政府の領域だけにする」という理想は、人間性に根ざした「交換」という契機によって失敗が運命づけられていたと言えるでしょう。

善意で敷き詰められているのは共産主義への道だけではなく、アナルコキャピタリズムへの道もまったく同じですよ、というのが前のエントリのタイトルの趣旨であったのですが、はたしてちゃんと伝わっていたでしょうか。

こんなにけしからぬ「政府」を廃止するといえば、できそうな気がするのですが、どっこい、「政府」という「モノ」は廃止できても、人間性に深く根ざした「脅迫」という行為は廃止できやしません(できるというなら、ぜひそういう実例を示していただきたいものです)。そして、「脅迫」する人間が集まって生きていながら「政府」がないということは、ぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「政府まがい」が様々な脅迫を行うということになるわけです。それを「やくざ」と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎません。

「政府の領域をなくして市場の領域だけにする」という「モノ」に着目した言い方をしている限り、できそうに感じられることも、「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という言い方をすれば、学級内部の政治力学に日々敏感に対応しながら暮らしている多くの小学生たちですら、その幼児的理想主義を嗤うでしょう。

ここで論じられたことの本質は、結局そういうことなのです。

(注)

本エントリでは議論を簡略化するため、あえて「協同」の契機は外して論じております。人類史的には「協同「「脅迫」「交換」の3つの契機の組み合わせで論じられなければなりません。ただ、共産主義とアナルコキャピタリズムという2種類の一次元的人間観に基づいた論法を批判するためだけであれば、それらを噛み合わせるために必要な2つの契機だけで十分ですのでそうしたまでです。

ちなみに「協同」の契機だけでマクロ社会が動かせるというたぐいの、第3種の幼児的理想主義についてもまったく同様の批判が可能ですが、それについてもここでは触れません。

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コメント

>いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。
「負け犬」と自虐したのは、議論に負けたという意味ではなく、
仰るように話の前提を明確に出来なかったことを指しています。
話の進め方に失敗した「負け犬」ということです。
その点は本当に反省したいなと思っております。

>政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、
この点については、若干私のエントリに対するコメントとしてはずれていると思います。
人間行為としての「脅迫」や「交換」は、
更にその行為者のインセンティヴに根ざしたものでしょう。
或るケースAでは「交換」が生じるのに、ケースBでは何故「脅迫」が生じるのか?
この問いの分析から話をスタートさせ発展させる必要があるだろう、
# 故に「取引費用」だとか「ミクロ経済学」だとか言っている。
ということを私は反省しているのです。

http://c4lj.com/archives/790033.html
アナルコ・キャピタリズムへの道も一歩から - Libertarianism Japan Project
↑で紹介させていただいた文献や論文も私自身全てを習熟できていません。
次に同じ議論をする機会が万一あったとするなら、
その時は先行研究も踏まえたうえで、
利己的人間のモデルからアナルコ・キャピタリズムが導けるという論拠を準備をしてから、
議論に望みたいと思っています。

私の個人ブログにまでコメント下さり有難うございました。
深くお礼申し上げます。

投稿: typeA | 2010年9月11日 (土) 16時48分

そうでしたか。いずれにしろ、筋道を明確にして話が進めばいい訳ですから、勝ちも負けもないと思います。

いろいろな議論を紹介いただけるのはいいのですが、本当にアナーキーな社会についてロジカルに考える上では、国際関係論は役に立つと思います。
経済学は結局、ホッブスのリヴァイアサンが脅迫原理を全部引き受けてくれたお蔭で、銃を突きつけられて「命が惜しいか、それとも金が惜しいか」という選択肢に直面しなくてもよくなった「市民」の間の交換にしか目が及んでいません。
そういう限定的な「利己的人間」モデルから理屈の上でアナルコキャピタリズムを導いても、もっと利己的に脅迫を駆使する真正利己的人間が出てきたら、脆くも崩れてしまいます。

人の命を何とも思わないやくざ型「利己的人間」のモデルからもアナルコキャピタリズムが導けるかどうかを、是非検討していただければと思います。

そして、その際、是非お願いしたいのは、突如としてデウス・エクス・マキナの如く、(本来はリバタリアニズムとは深刻な対立関係にあるはずの)「みんしゅしゅぎ」をうかつに持ち出さないでいただきたいということです。申し訳ありませんが、その瞬間に議論はすべて崩壊しますから。

投稿: hamachan | 2010年9月11日 (土) 19時50分

傍で見ていて思いましたが、typeAさんは職業柄か、社会を抽象的なシステムと捉え、ある程度、合理的な解が存在すると信じられているようですが、もう少し泥臭い非合理な現実に立脚しないと、何の意味も無い架空の議論で終ってしまいます。
LJPの議論も現実から乖離したものが目立ちます。

そもそも、人間は経済合理性だけで動くものではなく、情動や信念等の非合理な感性でも動きます。宗教的なものもそうです。

今回の警察民営化の議論で言えば、宗教団体が直接或いは間接的に警察会社を設立して、多くの信徒たちがそれを支持することだってできる訳です。つまり、特定の宗教団体の論理や都合で動く宗教警察会社が実効支配する地域のようなものも当然に生まれてくる訳です。

そうなると、非信徒や非友好的な別の宗教信徒に対する弾圧的な取り締まりも可能になってくる訳です。経済合理性を重要視しない宗教警察会社であれば、弾圧を抑制する動機や誘引も少ない訳です。

そして、歴史上、実際に類似した事象は起きています。私的組織による他宗教等への弾圧という形で。世界の諸地域では、現在進行形の事象でもあります。

(追伸)
ついでに言うと、世の中には、「無駄な議論」というものがあり、何でもかんでも「建設的な議論」になる訳では有りません。

数百年~数千年かけて、現実に沿って構築されてきた社会について、少数の人が頭の中での思いつきでアレコレ論じるだけで、本当に建設的な何かが得られると思っているとしたら、発想の原点に問題が有ると思います。

投稿: とおる | 2010年9月12日 (日) 06時27分

強制力のあるなしで分けるんでしょうけど,「脅迫」と「交換」という分け方は分かりやすいです.(その一方で「共同」はよく分かりません.「脅迫」と「交換」の合成で実現できるようなものかなと思えるので.)

無政府資本主義者というのは,「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という「幼児的理想主義」を直ちに嗤うのではなく,とりあえず議論してみようとする人々だと思います.社会のあり方のよっては,(脅迫行為によって実現しようとすることが交換行為によってほぼ実現でき,しかも脅迫行為がそれを行おうとする個人や組織にとって不利になるといった状態に至るため) 脅迫行為がほとんど意味をなさないこともあるかもしれないので.

リバタリアンはそういう社会が可能か,その状態に留まれるのか,そこに至る道はあるのか,といったことをまじめに議論しています.ただ,現代人にたいして説得的に議論を展開するには,データが圧倒的に不足してますよねえ (笑).

投稿: 平凡助教授 | 2010年9月13日 (月) 13時12分

どうやら、私がここのコメントで、「無駄な議論」というものがあり、何でも「建設的な議論」になる訳ではないと書いたことに対し、typeAさんが納得していないようなので、一応、ここでフォローしておきます。

一般的な「建設的」の意味は、概ね下記の通りです(ネット上の電子辞書から引用)。

>けんせつ‐てき【建設的】
>現状をよりよくしていこうと積極的な態度でのぞむさま。「―な提案」「―に考える」

つまり、社会についての議論で「建設的な議論」と言えば、「社会の現状をよりよくしていこうと積極的な態度で行う議論」ということになります。

これに対して、typeAさん等の行っている議論は、客観的に見て、単なる社会システムに関する思考実験の域を出ていません。少なくとも、その議論を「社会の現状」にフィードバックする道筋は見えませんし、上述の通り、前提も現実と乖離した部分があると思われます。

私が「建設的でない」と言ったのは、こういうオーソドックスな意味でのことです。無駄な議論と言うのも、「社会の現状」の改善に役立たない議論という意味においてです。

おそらく、typeAさんとしては、「アナルコ・キャピタリズム」等についての議論を進める立場において、無駄ではないというつもりだったのだと思われますが、私としては「建設的」の使い方に違和感が有ったので、蛇足的に述べたまでです。

投稿: とおる | 2010年9月13日 (月) 21時28分

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