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2010年9月12日 (日)

『自由への問い6 労働』の書評

わたくしも1章を担当した『自由への問い6 労働-働くことの自由と制度』(岩波書店)の書評が、労調協の『労働調査』7月号に載っています。評者は湯浅諭さんです。

http://www.rochokyo.gr.jp/articles/br1007.pdf

そのうち、わたくしの章に関する評は次の通りです。

>濱口桂一郎は日本型雇用システムを「『正社員』体制」と呼び、その本質を「職務のない雇用契約」に求める。職務を特定した雇用契約ではなく、「正社員」というメンバーシップを設定する契約である。そこから、終身雇用、年功賃金、企業別組合という日本型雇用システムの特徴が帰結する。このメンバーシップから漏れた人々こそ非正規労働者に他ならない。戦後、右肩上がりの経済の下、日本型雇用システムはメンバーシップの「傘」を広げることで平等化をはかってきたが、成長の限界に行き当たった時、傘は縮小に転じ、そこから排除された多くの人たちが、従来は家計補助労働と位置づけられ処遇されていた地位に置かれることになった。

近代に共通の働くことの二極化とそれによる序列化に加え、メンバーシップによる格差という日本社会に固有の問題が重なり合う。したがって、目指されるべき解決も単純ではない。濱口が提示するように、労働政策のみならず、社会保障政策を含めたより広い範囲での再構築が必要となるだろう。

その再構築の道を詳しく検討したのが、拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』であったわけですが、こちらでは具体的な再構築の道筋を考えるよりも、より深く本質的ないし歴史的な視座からものごとのパースペクティブを定位しようとしたつもりです。

>労働と自由は、人間の存在そのものにかかわる深い哲学的主題であると同時に、社会制度の(再)構築にとっての焦点でもあり、毎日の暮らし方にも関わってくる。テーマの広さと深さからともすれば議論は拡散しがちだが、本書では現実へのアクチュアルな関心が、現状から未来を展望する思考を導く役割を果たしている

ありがとうございます。

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コメント

「EU労働法」の冠されたブログですからおたずねします。日本では、「正規労働者/正社員」「非正規労働者/非正社員」という、「正」という一種の価値付けを含んだ分け方をしますが、ヨーロッパでは、8時間労働無期直接雇用という旧来の標準的雇用形態以外を「atypical(非典型)」とまとめるだけで、正規・非正規、のような、身分的格差のインプリケーションのある表現はないですよね。しかも、ヨーロッパのパートタイム労働者はatypicalではあるんだけれど、正規労働者なんだ、というわかりにくい説明が日本では必要だったりするわけです。
この相違のよってきたるところって、簡単に言って、何なのでしょうか。

ですから、それを「メンバーシップ」と説明しているわけなんですが。
それとも「よってきたるところ」の意味がもう少し違うのでしょうか。

その「メンバーシップ」という日本のシステム、そうではないヨーロッパのあり方の「よってきたるところ」は何なんでしょう、というとても素朴な疑問です。
日本では、労働者は「メンバー」(正社員/正規労働者)でなければ、労働者として「一人前」ではないという意識がありますよね、労働組合の加入をふくめて。で、そういう意識は、経営者が作っているのではなくて、労働者の側にあるわけです。「一人前」ではなく、かつ、労働者の序列としてメンバーの下位にある、という身分的格差意識です。
ヨーロッパでは、非典型雇用は概して労働条件の低い働き方につながりがちではあるけれど、労働組合への加入も含めて、典型雇用の労働者との、労働者意識の差はないように思います。どのような働き方であれ、労働者は労働者として基本的に平等、というか、対等だと思います。少し話がずれますが、労働者間だけではなくて、市民相互の平等さが、日本ととても違います。この書き方だけだと抽象的ですが、ヨーロッパに行ってみると、観光旅行であってもわかることですが、駅員とか、店員とか、普通に接する労働者が客と対等なんですよね、日本の「お客様は神様です」的サービス意識ってヨーロッパにはないと思います。普通に「人」と「人」という接し方をします(だから、すごくサービス悪かったりする)。ヨーロッパでは、労働者は個々の労働者として、各種の労働者の権利を享受している、というより、個々の労働者が労働者として対等に扱われる権利を勝ち取って来たわけですね。しいていえば、ヨーロッパの労働者は労働組合のメンバーかもしれませんけれど、日本では、労働者は組織(会社・役所)の正規「メンバー」であれば、労働組合のメンバーであることさえ必要としませんね。
私にはそのように見えるのですが、その認識がまとはずれでなければ、そういう意識の差、労働者のあり方の差は、何を契機として形成されてきたのだろう、ということなんです。

ですから。まさにそのあたりを、やや大風呂敷を広げる形で、歴史的に解読してみたのが、この『自由への問い6』所収論文の「6 20世紀システムの形成」と、とりわけ「7 「正社員体制」の原点」のなります。

その中の一節を引用すると、

>この戦後「正社員」体制は、もともと戦時下に国家の一分肢としての企業に求められた労働者の生活保障を、市場経済下の独立経営体たる企業に求めるものである。それを企業にとって合理的なものとして維持するためには、近代的社会政策の根拠であるネーション国家のメンバーシップに相当する会社メンバーシップを前提とする必要がある。会社は正社員の雇用を維持し、生活を保障する。その代わりに正社員は職務、時間、場所などに制限なく会社の命令に従って働く。この社会的交換が戦後段階的に確立していき、高度成長終了後の一九七〇年代にはほぼマクロ社会的に現実のものとなった。

となります。

ただ、それを労働者の側が熱心に追求していった理由については、アンドリュー・ゴードンが指摘する戦前からの労働者側の「メンバーシップ」要求を指摘しなければなりません。

日本については、そのように論じていらしたのでしたね。うっかりしていました、すみません。
ただ、しつこいのですが、同じように、大戦、その後の高度経済成長を経てきたヨーロッパは、日本とは異なる労働システム、労働者意識を形成して来ているわけですね。それはなぜか、というところまで含めて、風呂敷を広げて頂けると。日本の労働法もヨーロッパの労働法のように、差別禁止を強化する方向だとは思うのですが、このように、労働者の意識や、雇用システム、労働組合のあり方がかなり違うのに、労働者にとってどれほど労働法が有効に働くのだろう、といつも考えこんでしまいます。ヨーロッパの方が、個々の労働者が立法を離れても、意識の面で平等で、かつ、強い権利意識を持っているようににみえますが、そうだとしたら、そのよってきたるところはどこで、日本とどこが決定的な差になっているのでしょうか(あるいは、いないのでしょうか)。
ですし、これは専門家ではない一般市民の暮らしの中からの感想ですけれど、労働以外の面でも、日本はメンバーシップの社会のように思います。
雇用生活の外でのセーフティネットの社会保障の単位が、基本的に個人ではなく、世帯とか家族であることからすると、日本は市民生活では世帯/家族のメンバーシップ社会で、そして、その世帯の中でもメンバー間の序列があり(世帯主がトップ)、人が個々の市民として対等/平等ではない、という感じがします。ですし、大きくは「日本国民」のメンバーシップ度は他の諸外国よりも強くて、「外国人」はメンバーではないですね、その是非は別として。・・・などと、一般人の漠然とした感想を述べだすときりがないので、後半は無視して下さってかまいませんが、そういう疑問からのおたずねでした。

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