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2010年9月

2010年9月30日 (木)

ワンストップ・ハローワーク

キム・ジョンウン大将とは関係のない『労働新聞』の10月4日号が、「ハローワーク改革 年金やメンヘルに対応」という記事を載せています。

>厚生労働省は平成23年度、ハローワークを「積極的就労・生活支援対策」の推進拠点とする方針を明らかにした。職業紹介、雇用管理指導などの強化に加え、就職意欲・能力向上対策の実施、メンタルヘルス・多重債務・年金に関する相談対応、住宅確保支援、職業訓練中の生活給付金の支給など、求職者に対する総合的支援の窓口に衣替えする。厚労省が提唱する参加型社会保障(ポジティブ・ウェルフェア)の展開の一翼を担う。

ということのようです。

本文中には、「寄り添い型・伴走型支援」なんて言葉も出てきます。

例のワンストップサービスの恒常版といいますか、イギリス風に言えば「ハローワークプラス」とでも言うところでしょうか。

もう一歩のところまで分かっている藤沢数希氏

本ブログで何回か批判的に取り上げてきた藤沢数希氏ですが、本日のエントリは出色です。

http://agora-web.jp/archives/1100806.html(戦争って意外と簡単にはじまるかも)

尖閣問題から子ども時代の戦争ごっこ、そして進化生物学の知見を踏まえつつ、例の赤木智弘氏の「希望は戦争」を引いて、こう述べます。

>このグローバル資本主義の世界で競争に敗れたものたちに「それでもあなたはこんなに豊かになった世界のおかげで飢えることなく生きていけます。ジャンクフードを食べたいだけ食べれるぐらいのお金なら稼げますよね」といえばいいのだろうか。彼らはそれでもこの競争社会を本当に心から感謝することができるのだろうか。

実際のところお金よりもはるかに格差がつくものがある。それは人々の承認や尊敬、異性を獲得する能力だ。多くの人の時間が限られており、付き合える人数も限られているから、人々が承認したり尊敬したりできる全体の総量は限られたものになる。社会動物である人間は誰もが他人に承認されたいという強い欲求を持っている。しかし人が承認できる総量は概ね決まっているのである種のゼロサム・ゲームだ。多くの人から承認される人気者と、誰からも相手にされない落伍者が必然的に作り出される。

まったくそのとおりです。

人間という生き物は、人様から施しを受けて食えていればそれでいいという生き物ではない。

だから、「捨て扶持」ベーシックインカム論者は、人間という生き物が分かっていないのです。

>「働くのが得意ではない人間に働かせるよりは、働くのが好きで新しい発明や事業を考えるのが大好きなワーカホリック人間にどんどん働かせたほうが効率が良い。そいつが納める税収で働かない人間を養えばよい。それがベーシックインカムだ」(ホリエモン)

藤沢数希氏に「もう一歩のところまで分かっている」と評したのは、ここまで判っていながら、その一歩先にある処方箋をあえて見えないフリをしているからです。

>人々の自由意志を尊重する近代国家では、経済的な富の再分配は可能でも、こういった人の承認や異性をめぐる結果の不平等を再分配する方法はない。

「ない」と言えてしまうのは、藤沢氏が社会的承認の結果の不平等を再分配する社会的仕組みの存在そのものをはじめから「悪」と考えているからでしょう。そんな介入は許し難いというリバタリアン的価値判断がどっかとその前に座り込み、一歩先に進むことをできなくさせているのです。

できるだけ多くの人々にやりがいのある仕事を配分し、社会の中に「居場所」を作ること。藤沢氏やその仲間たちが、頭から毛嫌いする「ソーシャル・インクルージョン」こそが、「希望は戦争」でなくする唯一の道なのですが、その道は藤沢氏にとってはあらかじめ塞がれているのです。

日本テレビ労組、36時間ストへ but...

日本テレビ労組がまたもストに突入するようです。

http://www.asahi.com/national/update/0930/TKY201009300103.html

>日本テレビ労働組合は30日正午から、36時間のストライキに入る。同労組は、会社の提示している新たな賃金制度が「賃金引き下げにつながる」として、10月1日の導入の阻止と労使交渉の継続を求めている。突入すれば今年3度目のストとなる

今度こそ本気かと思いきや、

>全職場が対象だが、生放送番組に出るアナウンサーなどを除外するため、放送には影響が出ない見通しだ

いやだから、別に公益事業でも何でもないんだから、放送に影響が出てもいいんですけどね。

プロ野球選手会が「本日試合に出場する選手を除いてストに突入します」というみたいな。

『ビジネスレーバートレンド』10月号

201010 『ビジネスレーバートレンド』10月号の特集は「今、キャリア形成に問われていること―若者から50代までの経路の中で―」ですが、やはり巻頭の労働政策フォーラムの実録が面白いです。

<労働政策フォーラム>
若者問題への接近:自立への経路の今日的あり方をさぐる
●講演
自立に向けての高校生の現状と課題
藤田晃之 (国立教育政策研究所生徒指導研究センター統括研究官)
企業の果たしてきた役割と今後の方向性
佐藤博樹 (東京大学社会科学研究所教授)
雇用保険でもなく、生活保護でもない第2のセーフティネットと伴走型支援
湯浅誠 (NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局次長,反貧困ネットワーク事務局長)
成人期への移行政策の課題と構想
宮本みち子(放送大学教養学部教授)
●パネルディスカッション

コメンテーター:

太郎丸博
京都大学大学院文学研究科准教授

コーディネーター:

小杉礼子
JILPT 統括研究員

佐藤博樹先生はジョブ型の新しい正社員、湯浅誠さんは第2のセーフティネット、宮本みち子先生は若者の包括的支援と、だいたいいつもの話ですので、目新しいところで国立教育政策研究所の藤田さんの発言からいくつか。

>今の高校生にとって、「こんな勉強をやって何になるんだよ」というのが代表的な声です。・・・今やっていることへの興味や関心、将来との結びつきに関してはまったく見えていません。「何のために勉強しているんだ。こんなのつまんねえな」と思いながら勉強している。

>では、彼らが将来に対してまったく考えることをやめているのかというと、違う現実が浮かび上がってきます。「将来なんかどうでもいいや、なるようになるよ」とは全然思っていないのです。・・・

>職業意識の先送りをすればするほど不安感が強まるのは当然です。先送りしながら将来を模索してみても、文字通り暗中模索になってしまいます。・・・

>一方で高校生は、将来に対して非常に関心が高いし、不安感も強い。そして最も不安を募らせているのは、就きたい職業に就くことができるだろうかということです職業について具体的に考えたことはないが、漠然と就きたい職業に就けるかどうかを深く悩んでいる。

>・・・人材を育成する機能が弱体化している現在において、子どもたちが自らのキャリアを積み上げ、将来に向けてさらに構築していく力を持たないまま社会人に踏み出そうとしていることには、危惧せざるを得ない。

>・・・その際、私がいつも思うことは、ジョブ・ディスクリプションが、欧米に比べて非常に緩やかな日本の企業において、明確なQualification Frameworkを前提に議論を進めていくことは必ずしも最善策とは言えないのではないかということです。一つヒントは、私たち大人の働きぶり、生活ぶり、そういったものをもっと腑に落ちるレベルで子どもたちに伝えつつ、日本の企業における雇用・人事制度を踏まえた上で、社会的・職業的に必要な自立に向けた能力育成の体系を構築していくことではないか。・・・

後の方のパネルディスカッションからも、藤田さんの発言をいくつか。もちろん、他のパネリストの発言も面白いのですが、既におなじみなので。

>キャリア教育や社会的自立、職業的自立に向けた子供たちへの支援を特に普通科高校で進めようと思ったときに、親御さんたちからは「何言っているんだ。うちの子たちは大学にはいるのが第一でしょう」「そんなことは大学にはいってからやればいいんですよ」といわれます。

>中学校で先送りしてきたことを、さらに大学まで先送りしようとするわけです。・・

2010年9月29日 (水)

大内伸哉『雇用社会の25の疑問』(第2版)

35480 神戸大学の大内伸哉先生から、近著『雇用社会の25の疑問 労働法再入門[第2版]』(弘文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

本書は名著の誉れ高い初版の改訂版ですが、大内先生はやはりこういう一ひねりした労働法の本が一番いいですね。その筆致はいささか偽悪的なまでに突っ込みの厳しいもので、普通の労働法の本に読み飽きた人に最適です。

ただ、おそらく大内先生自身、かなり労働法学を踏み越えて書いているとお考えなのではないかと思われますが、私のようなアカデミックな労働法学のトレーニングを受けずに来た人間から見ると、その筆致の至る所に、紛うことなく法学アカデミズムが色濃くにじんでいることもまた確かなところです。

たとえばオビの文句にでかでかと「派遣で働くことは悪いことなのか?」とあって、本文では労働法の世界で結構有力な直用重視主義を厳しく批判しているわけですが、そのあたりは私と同意見ではあるのですが、そのさき「じゃあどうするべきか」という政策論が、法学的にはリゴリスティックなまでに正しくても、政策論としてはあまり人に印象を与えないような話になっていて、派遣禁止論に対する政治的な有効性が乏しいのですね。それは別に悪いわけではないし、法学者としては当然のスタンスなのですけど。

またたとえばその次の「ウィン・ウィンモデル」の話も、労働法学アカデミズムの世界からはそう見えるのだろうな、と感じつつも、正直言って、今頃ウィン・ウィンかよ、何十年遅れてるんだ、という感想が、労使実務家や人事労務管理論の方々からすると漏れるのではないかな、と感じられるところです。生産性本部ができてからもう55年になるわけですからね。

いやこれも、とりわけアメリカ型の対決型労使関係モデルを直輸入した現行労働組合法が、日本の現実の労使関係を乖離した状態のまま半世紀が過ぎてきたという経緯からきているわけですが、それにしても、ウィン・ウィンが目新しいのは、労働法の教科書の世界だけであって、現実の世界では、今までのウィン・ウィンの均衡点にいろいろと問題が出てきたために、どういう新たなウィン・ウィンに向かうべきかというのが論点であろうと思われるわけで(一点だけ細かいことですが、日本の労働組合運動における対決型のイデオロギー的源泉がマルクス主義であることは確かですが、日本の労働法制に色濃い対決型イデオロギーの源流は、戦後直輸入されたニューディール型の特殊な労使関係法制であると思います)。

2010年9月28日 (火)

日韓ワークショップ報告書 個別労使紛争の現状と課題:日韓比較

Korea 去る6月4日に行われた日韓ワークショップの報告書がまとまり、HP上にアップされました。

http://www.jil.go.jp/institute/chosa/2010/10-074.htm

>労働政策研究・研修機構では毎年、韓国労働研究院(KLI)と共催で、日韓に共通する労働政策課題を取り扱う「日韓ワークショップ」を開催している。平成22年度は、近年増加が著しい「個別労使紛争」をテーマとして、6 月 4 日に日本(東京)で開催した。

今回のワークショップでは、両研究機関の研究員が「個別労使紛争」に関する日韓両国の現状と課題について、これまでの研究成果に基づいて報告し、課題解決に向けた意見交換を行った。本書はそのワークショップの報告論文を収録したものである。

本文はこれです。

http://www.jil.go.jp/institute/chosa/2010/documents/074.pdf

わたくしは第1セッションで「個別労使紛争処理システム形成の背景」、第2セッションで「「個別労働紛争処理事案の内容分析」を報告しています。

また、呉学殊さんは第1セッションでコミュニティユニオンについて報告しています。

当日のブログ記事は:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-a02f.html(個別労使紛争@日韓ワークショップ)

2010年9月27日 (月)

デンマークの感想@iganoriさん

GLOCOMの「Noriko Igari」さんが、ICTの利用状況の研究でデンマークに行かれていたようなのですが、フレクシキュリティについてもつぶやいておられます。

http://twitter.com/iganori/status/25686839238

>デンマークは、高福祉国家で手厚い社会保障がある国というイメージが強いけれど。何人たりとも労働市場へ引っ張り込んで、税収を稼ぎ、人手不足を解消しようとする政府の労働政策(フレキシキュリティ・モデル)は、ある意味、すごく厳しい社会だと感じました。

これは先日、湯浅誠氏が書いていたことと通じる話ですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-47d3.html(湯浅誠氏のとまどい)

(追記)

ある種の労働嫌悪型ベーカム論者にとって天敵みたいな社会かも知れません。

その辺が分からずに、あこがれている向きもあるのかも知れませんが。

希望はおっさん

Fnt_20101004 本ブログでも何回も取り上げてきた赤木智弘さんが、本日発売の『AERA』で、「希望はおっさん」と語っています。

>私が一番不幸に思うのは、35歳にもなり、こうして若者論を話していること。私はおっさんになりたい。一昔前なら、35歳にもなれば何十年間に及ぶ住宅ローンや教育費に悩みながらも、家族のために働く「おっさん」が普通だった。それが、今の私は恋人はできるかも知れないが、自分の生活すらままならず、何十年のローンどころか、1年先の生活すら見えない。不安定な状態の私たちを「若者」としてくくり、国は責任逃れをしているようにも感じます。

「希望は戦争」というよりも、ずっと真実の言葉でしょう。

本当は最初からそういうメッセージを発していたのに、「ひっぱたきたい」と言ったときにそれを受け取る回路が全然欠落していたのは、その当時のリベサヨな受け手の側がある意味で「おっさん」拒否症候群だったからなのかも知れませんね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.html(赤木智弘氏の新著)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ef68.html(きわめてまっとうな赤木智弘氏のつぶやき)

原みどり『若年労働力の構造と雇用問題』創成社

23443c 原みどりさんより、近著『若年労働力の構造と雇用問題-人的資源活用の視点から』(創成社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

本書の特徴は「はしがき」で述べているように、

>重要であるのは、狭い範囲での厳密性を重んじた理論やモデルの目新しさではなく、客観性を持ちつつ現実の経済問題をどの程度解明していくことができるかにある。厳密な理論分析であっても適用範囲が狭い、あるいはそれを統計データで裏付けることが難しければ、分析結果の解釈もかなり限定されざるを得ない。

>本所は、人的資源の活用という視点から若年労働力の動向について、企業及び家計の両サイドから問題点を指摘したものである。その際、一般的なミクロ理論に準拠し統計計量分析を行っているが、手法自体にこだわりすぎることなく、各種の統計を活用しつつファクトファインディングを行うことを中心としているところに特徴がある。

のですが、とりわけ興味深かったのは供給サイドの分析でフリーターやニートについて取り上げたところで、終章の要約的文章を引用しますと、

>・・・その結果、フリーター率の増減には経済活動、世帯当たりの有業者数及び学力テストの影響が大きく、逆に世帯主の収入や学校時代に身につける社会適応力に関連する要因の影響は小さいことが示された。

>・・・ニート率の増減には世帯内の有業者数が最も強く影響しており、親の収入と学校内のいじめ及び暴力行為も影響していることが明らかになった。

>・・・分析結果の特徴は、フリーターには親の収入の影響はほとんど見られない一方、ニートに対しては逆にそれを減らす方向に作用することである。つまり、親の収入に依存するためにフリーターやニートに陥りやすいというこれまでの先行研究の指摘は当てはまらない。

若者の雇用問題に関心のある方々には是非ご一読をいただきたい一冊です。

高祖先生、学術会議提言の意味を説く

本日の朝日の教育面に、わたくしも参加していた日本学術会議の「大学と職業との接続検討分科会」の委員長をされていた高祖敏明上智理事長が、提言の意味を解説しています。

朝日は、自分で「卒後3年新卒扱い」という枝葉だけ報道しておいて、それだけじゃだめだと社説で叩いてみせるという絶妙な報道ぶりでしたが、これはその反省の意味もあるのかも知れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

>戦後ずっと日本の会社は「大学は余計なことをしてくれるな」という発想だった。学生の「訓練可能性」を買い、自ら育てていた。特に文系では、実践的な職業能力は重視されず、自分たちが学んだことを生かせる採用や雇用のシステムになってこなかった。

・・・それなのに新卒主義が続いているのは、高等教育での学習成果と職業上必要とされる能力の「接続」の問題がずっと放置されてきたからとも言える。企業側からすれば「大学がきちんと人材を育てていない」という思いもあるでしょう。

だから、新卒主義を変えるためには、大学側も自己改革をしなければならない。それが今回、各学問分野ごとに「参照基準」を設けようという提言につながった。

>「卒業後3年新卒扱い」がまず取り組むべき短期的課題とすれば、参照基準は、より根本的に大学と社会の関係を変えていく中長期的な課題となる。

今の就職活動でのエントリーシートは完全に企業ベースだが、自分が大学教育で何を身につけたのか、学生が採用の場で自ら示せるように変わっていかなければ。さらには、学生を迎える企業側が教育に求めるものをまた大学にフィードバックしていく、そんな仕組みを作るのがわれわれの仕事だと思っている。

>柔軟性と多様性のあるキャリア社会の実現は、政府だけでも企業だけでも大学だけでもできない。革命的に一気に変えることはできなくとも、現実を踏まえた上で改良型で少しずつでも進めていきたい

短い記事の中に言い尽くされていますので、特に付け加えることはありません。

記事ではその後に、経団連の川村副会長が、

>企業側としては最終的には「いい人なら採る」というのが基本姿勢だ。

>「どうして採らないんだ」と採用側にいわれても、「いい人なら採る」というのが企業側の共通認識だろう。

と述べています。

これは、まったくその通りだと思うのです。問題は、その「いい人」が、どういう人であるかという点において、まさに学校と企業との間に「接続」がないという点なのですね。

70歳まで働く!@東洋経済

20090608000126541 既に予告しておりましたとおり、本日発売の『週刊東洋経済』は「70歳まで働く!第2の就活」という特集です。

http://www.toyokeizai.net/shop/magazine/toyo/detail/BI/f28d6c16feb0b1adec614806c5dacb06/#mokuji

COVER STORY
第2の就活
70歳まで働く!

P.40 【図解】 リタイアメントの希望と現実

P.42 INTERVIEW│ 70歳まで働くべきか!?
清家 篤/慶應義塾塾長
「定年延長は必要。制度作りで、労使は粘り強い交渉を」
古賀伸明/連合会長
「定年延長は時期尚早。継続雇用を確実に実現するのが先だ」

P.44 [1] 70歳まで働く時代は来るか

P.44 超高齢化時代の就業スタイルはどうなる?

P.49 COLUMN│ 高齢者雇用の先進企業、「定年なし」の前川製作所

P.50 年金支給開始年齢引き上げで、財政はどれだけ改善?

P.51 COLUMN│ 年金「世代間不公平論」の虚妄

P.52 【東京発】 異例の求人倍率0.5倍、ハローワークは大混雑

P.54 【米国発】 金融危機で資産が激減、アメリカ高齢者の受難

P.56 [2] 多様化するセカンドキャリア

P.56 [ ケーススタディ(1) ] 企業が変わる!

ダイキン工業 継続雇用制度イオンリテール 65歳定年制川崎重工業 63歳まで定年延長富士電機ホールディングス 65歳まで定年延長

P.58 INTERVIEW│ 山田 靖/ダイキン工業・相談役執行役員

P.61 INTERVIEW│ 加藤丈夫/富士電機ホールディングス特別顧問

P.62 高齢者は若年者の職を本当に奪っているのか?

P.64 [ ケーススタディ(2) ] 働き方が変わる!

継続雇用で働く、パートで働く、独立して働く

P.70 「最後の拠り所」シルバー人材センターというもう1つの現実

P.74 [3] 60歳代での就業に備える

P.74 早めの準備が何より大事、「第2の就活」を乗り切る

P.76 どの業界が長く働ける? 業界別50歳代・キャリアの分かれ道

P.78 【図解】中高年になってからの社会保険「再入門」

P.80 【年金】 年金の繰り下げにはデメリットも

P.82 【雇用保険】 心強い高年齢雇用継続給付

P.84 【健康保険・介護保険】 医療保険制度の選択法

P.86 【番外編】 高齢者医療制度改革の行方

P.88 仕事もなく健康も悪化、中高年を襲う貧困危機

P.91 INTERVIEW│ 近藤克則/日本福祉大学教授

わたくしは、p62~の「高齢者は若年者の職を本当に奪っているのか?」という記事で、欧州諸国の早期引退促進策が結局成功しなかったという話をしています。地の文になったところも含めて引用しますと、

>ただ、高齢者と若年者雇用との関係については、むしろ逆の指摘もある。そこで多く取り上げられるのが、欧州の事例だ。1970年代、石油危機後の高い失業率に悩まされた欧州各国は、高齢者に早期引退を促すことで、若年層の雇用拡大を狙った。・・・

>それでも欧州の若年層の失業率は改善しなかった。高齢者が引退しても、熟練度に劣る若年者にはそのポストは回ってこなかったのだ。「欧州の早期引退制度は明らかに失敗だった」(労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員)。

2325_2 この問題については、詳しくはわたくしが翻訳したOECDの報告書『世界の高齢化と雇用政策』(明石書店)をお読みください。

ほかにもいい記事が多く載っていますが、問題提起として大変興味深いのが「「最後の拠り所」シルバー人材センターというもう1つの現実」です。冒頭、いきなり例の(笑)元赤軍派議長の塩見孝也さんが出てきて、「・・・それでも、働くことの厳しさ、そして労働者の仁義と階級的団結を体で覚えることができた」と語っていますが、「おいおい、60代になるまで労働者の仁義も階級的団結も知らずにサヨク運動やってたの?」という突っ込みはおいといて(下記参照)、記者のいうように、

>高齢期を有意義に過ごすというシルバー人材センターの基本理念を考えれば、労働の中から学習と生き甲斐を見出すという塩見さんの働き方は、まさに理念そのものだ。

ということになるのですが、肝心のシルバー人材センターの実態は、生き甲斐就労どころか「みんな生きていくための仕事を求めて会員になる」、

>シルバー人材センターが今果たしている役割は貧困に直面した高齢者のためのセーフティネットなのだ。

>要するに、われわれにような高齢者が働くことのできる場所は、シルバーしか残されていないんですよ。

>私たちは、労働者としての権利さえ守られていないんです

という深刻な問題が提起されています。

(参照)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d14f.html(赤軍派議長@シルバー人材センター)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-c523.html?no_prefetch=1(『総括せよ!さらば、革命的世代』)

2010年9月26日 (日)

EUが中国労働改造所商品の禁輸を検討

6b410caf5015 EUobserver紙から、「貿易と労働」というテーマに関係する話題ですが、共産党体制下における強制労働収容所というもうすこしディープでもありうる問題。

http://euobserver.com/9/30878(EU considers ban on Chinese labour-camp goods)

> Under pressure from MEPs, the European Commission has hinted it is prepared to ban the importation of Chinese goods manufactured in forced labour camps.

欧州議会の圧力で、欧州委員会は中国の労働改造所で製造された商品の輸入禁止を準備することを示唆した。

>German centre-right MEP Daniel Caspary branded the Chinese products "blood-spattered goods", and called on the commission to put an end to their inflow.

議員曰く、「血まみれの商品」だ、と。

>"The commission fully agrees with the European Parliament that the Laogai [camp] system is completely incompatible with universally accepted concepts of human rights," said Mr Fuele.

He added that it was very difficult to verify which goods were being made in the camps - known as Laogai – of which China is thought to have roughly 500.

仰るとおりですが、といいつつ、どの商品が労働改造所(英語でも「ラオガイ」で通用するようです)製かを確認するのはとても難しい、と。

これも博士、あれも博士

ほぼ同時に、対照的な「博士」をテーマにする新書が出ていたので、連続して読みましたが、

Htbookcoverimage ひとつは、『高学歴ワーキングプア』を書かれた水月昭道さんの『ホームレス博士  派遣村・ブラック企業化する大学院 』(光文社新書)、

03315898 もうひとつは、瀬名秀明・池谷裕二監修の『東大博士が語る理系という生き方 』(PHPサイエンスワールド新書)です。

続けて読むと、同じ国の同じ(ではないですけど)博士の話とは思えないですね。

もちろん、東大理系博士の話にも、「日本の大学院の不安定さ」が出てきますし(p187~)、

> そういった点で日本の大学院生の扱いは、先進国の中ではかなりひどいようです。このように科学者のタマゴである大学院生を大切にしないままだと、日本は科学立国として21世紀を生き残っていくことは非常に困難になるのではないでしょうか。

といった恨み節的な記述もありますが、やはり全体のトーンはきわめて明るく、科学技術を切り開く先頭に立つものとしての誇りがにじみ出ているのに対し、「ホームレス博士」の方は、陰々滅々がさらに進行し、大学院はもはや派遣村、ブラック企業と同列の存在となっています。

併せ読めば、実にいろいろな感想が湧いてきます。端的に言えば、高度な学位を持つ優秀な研究者をさらにたくさん生み出していかなければ社会の要請に応えられないような分野と、従来ですら生産過剰であった分野とをきちんと腑分けすることなく、前者については正当であった大学院重点化を、まったくそれに当てはまらない後者については学位生産者側のポストを増やすことを暗黙の目的にして調子を合わせたため、超過剰生産で売れない在庫の山が積み上がったということなのでしょう。

労働経済学なる学問分野の意味は、こういう社会現象を経済学の論理でずばりと分析することにあると思うのですが、自分の身に降りかかってくる話題でもあるためか、あまりその例を見ないようです。

全員有期契約の「対等な労使関係」

吉田典史さんのルポは、目の付け所が面白くてためになります。今回は「ダマされてはいけない……“対等な労使関係”と言う社長に」というタイトルです。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1009/24/news015.html

いや、もちろん、労使関係研究者としては、あるべき姿が「労使対等」であることは確かですが、それはほっといてそうなるものではないから、少なくとも経営者に委ねてそうなるものではないからであって、自分からそういう(組合もない中小企業の)経営者の言葉には、やはり眉に唾を何回も付けて聞いた方がよさそうであるというお話です。

>中小企業やベンチャー企業を取材すると、ここ数年、意外な言葉を耳にする。それは、「対等の労使関係」というもの。特にコンサルティング会社に勤務したり、大企業の人事部に長く籍を置いていた40~50代の経営者が口にする。

 わたしは、この言葉は“うさんくさい”と思っている。労働組合が主張するならば分からないでもないが、経営サイドが「労使の力関係が対等」といった意味合いの言葉を持ち出すわけがないのである。

 実際、中小企業やベンチャー企業の経営者の約8割は取材時にこう話す。「雇うのはわたし。わたしの意向に従わないならば、その社員は辞めるべき」だと。20~30代の若い経営者も、同じようなことを話す。これが、現実なのだ

ところがあえて「対等な労使関係」と称する経営者は、なにを「対等」と称しているのかというと、

>彼は、自らが経営する会社では「対等の労使関係」になっていると述べた。そしてこのように付け加えた。

「意識のうえでは、会社と社員が対等になっている。だから、わたしは終身雇用にしないし、年功序列型の賃金制度にもしない。そのような制度にすると、どうしても社員が会社にぶら下がる傾向になる」

この話の意味を2度ほど確認したが、「時代は変わった」とか「社員の意識が以前とは違う」と繰り返すのみだった。しかしわたしが分からないのは、労使関係が対等になると、終身雇用とか年功序列型の賃金制度にはしなくなるのか、ということ。では、成果主義を導入し、リストラをする会社では、労使関係が対等なのだろうか

いうまでもなく、雇用制度や賃金制度をどうするかを、経営者が勝手に決めるのではなく、それこそ対等の立場で交渉して決めた結果がそういうものであればそれは労使対等でしょうし、経営者が「これに従わないなら辞めてもらう」といってるのであれば、内容の如何に関わらずそれは労使対等ではありません。

「労使対等」とはものごとの決め方の手続き論なのであって、社長が対等だと定義したから対等になるというものではないわけで、そんなことは、労使関係論なんかかけらも知らなくても、学級政治にもまれている小学生たちですらよく理解していることのはずですが、そういう常識をなくしてふらふらと騙されるいい大人が絶えないようです。

>ところが、30代前半までくらいの人の中には、こういう美辞麗句に騙され転職をしてくる人がいる。10人すべてが中堅・大企業からの転職組だった。おそらく、前職のときに不満を感じていて、この会社のことが「隣の芝生は青い」という心理で魅力的に見えたのだろう。

多くの人は30代前半までに、会社という組織の現実を思い知る。労使関係は「対等」とは程遠いものであり、完全な「服従」を強いられるものであることを痛感する。上司にすら、ストレートに意見が言えない。こういう不満を抱え込む人からすると、大企業の人事部でかつて活躍した経営者が「対等の労使関係」と求人広告で話しているのを見ると、「この会社で働きたい」とスーッと引き込まれるのだろう。

採用マーケティングの観点から見ると、この仕掛けは一定の成功を収めていると言えるのかもしれない。しかし社員はいざ入社すると、幻滅を感じ、早いうちに辞めていく。10人ほどの社員のうち2年で辞める人は5~6人という。これが、「対等の労使関係」の一断面である。

なんだか子ども雑誌に載っている「これを使えば君も急激に背が伸びる」という広告にころりと騙されるのを見るようですが、世にカモの種は尽きまじ、ということなのでしょう。インチキ経済学者や人事コンサルタントにころりという手合いが後から後から湧いてくるのを見ると、正直、あんまり同情する気もしませんが。

しかし、その次の例はもう少し悪質。

>ここでは、すべての社員は1年ごとの契約社員となっている。つまり、非正社員である。なぜ、正社員を雇うことをしないのか? とその経営者に聞くと、こう答えた。

「ウチの会社は、正規・非正規の概念がない。概念がない以上、そのような区別はしない。だから、皆が1年ごとの契約社員となっている」

わたしには、意味が分からなかった。「概念がない」というのは、その会社の中では通用する論理かもしれないが、企業社会においては説得力に欠けるのではないか。これに対し、経営者は感情的な口調で反論してきた。

「あなたの考えは、古い時代のパラダイム(価値観を指すものと思われる)。いまは、労使関係が対等であり、若い社員らは正社員とか、非正社員の区別を求めていない。少なくとも、ウチの社員は1年ごとの契約で納得している」

しかし「対等な労使関係」と言いながら、やはり矛盾がある。例えば、大阪に支社を設けるときに30代の社員を数人、半年間ほど送り込んだことがあるという。命令をしたのは、わずか1週間前だったそうだ。その期間が長引くと、そのうちの一部の社員が不満を漏らし始めた。経営者はそれが気に入らず、「話し合いのうえで辞めてもらった」そうだが、これは限りなく、退職強要に近い。これでは、「対等」とはおよそ言えないのではないか。

労働者を全部有期雇用にして、文句を言う奴は解雇しなくても雇い止めで追い出せるようにしておいて、一方的に遠距離配転を命令して、云うことを聞かない奴は出て行ってもらうという、まあよくあるパターンではありますが、それを言うに事欠いて、「対等な労使関係」は、なんぼなんでもないやろう、と思いませんかね。

2010年9月24日 (金)

関東弁護士会連合会シンポジウム「労働と貧困」

前にも予告しましたが、明日埼玉県の浦和で、関東弁護士会連合会のシンポジウム「労働と貧困」が行われ、わたくしもパネリストとして出席いたします。

http://www.saiben.or.jp/events/ev0100925_01/ev0100925_01img.pdf

他のパネリストの方々は、都留文科大学の後藤道夫さん、首都圏青年ユニオンの河添誠さん、NPO法人ほっとポットの藤田孝典さんです。

(追記)

ということで、浦和から戻ってきました。

目の前の最前列に、日弁連の宇都宮会長が座って、一生懸命メモを取っておられましたね。

さっそく河添誠さんのつぶやき:

http://twitter.com/kawazoemakoto/status/25479894805

>濱口さんの発言は、私にとっては練習問題のようだった。次の機会には、もっと勉強して適切な回答を用意したい

シンポ自体は大変発言時間が限られている中で、皆なかなか意を尽くせなかったと思います。

シンポ後の打ち上げ昼食会とその後の電車の中でのお話は、大変興味深く、ためになりました。

(再追記)

シンポの発言をついったしておられる方がいました。

http://twitter.com/John1rou/status/25467834048

>濱口桂一郎:日本はセーフティネットが貧弱なため、不適切にアクティベートされている。この状態で迂闊に欧州のアクティベーションの概念を導入するのは危険。就労率の高いシングルマザーを更にアクティベートしなきゃみたいな愚に走る。でも、それでも適切なアクティベーションの概念は必要(要旨)

http://twitter.com/John1rou/status/25468071941

>濱口桂一郎:生活保護で稼働能力を優先することは間違ってない。ただ、現に職がない人に対して、入り口で稼働能力を理由に保護を与えないことは間違っている。それではセーフティネットになってない。(要旨)

世界革命を目指す独裁者

去る21日のエントリで紹介したすき家のゼンショー社長の小川賢太郎氏ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6e9f.html(「アルバイトは労働者に非ず」は全共闘の発想?)

Hyoshi ネット上にはまだインタビューの後編は載っていませんが、雑誌『日経ビジネス』には「革命家の見果てぬ夢 牛丼に連なる運命」という記事が載っていますので、そちらから興味深いところをご紹介しましょう。

吉野家を辞めて自分の会社を立ち上げたところから、

>「資本は小川賢太郎100%、意思決定も小川賢太郎100%。専制君主制でやる。なぜなら議論している時間はないからだ」

牛丼という武器を手に革命を目指す独裁者が生まれた瞬間だった。

・・・

>小川はゼンショーを設立したとき、創業メンバーにこう語っている。

「俺は民主主義教育を受けてきた人間。東大全共闘の名においても、いつまでも専制君主でやっているわけにはいかない。憲法を定めて立憲君主制にし、いずれ民主主義にする」

一方で小川はこうも言う。

「最初の頃から民主主義的な会社というのは、成長しないと思うんです。やはり強烈なリーダーが、俺が黒と言ったら黒なんだということで、その代わり全責任を負って、失敗したら俺の命もないと」

小川にとって国内での成功は、世界革命への序章に過ぎない。だから民主主義へはまだ移行しない。

世界革命を目指す独裁者!

世界革命がなった暁には、お前たちにも民主主義が与えられるであろう。

だが、革命戦争のまっただ中の今、民主主義を求めるような反革命分子は粛清されなければならない!

まさしく、全共闘の闘う魂は脈々と息づいていたのですね。

そして、歴史は何と無慈悲に繰り返すことでしょうか。

一度目は悲劇として、二度目は・・・、すき家の外部の者にとっては喜劇として、しかし内部の者にとっては再度の悲劇として。

道幸哲也『労働組合の変貌と労使関係法』信山社

4797254459_2 北大の道幸哲也先生より、近著『労働組合の変貌と労使関係法』をお送りいただきました。いつもお心にかけていただきありがとうございます。

組織率の低下と、職場における影響力も弱まりつつある労働組合の実状を見据え、適切な集団的労働条件決定の観点から、労働組合法をめぐる現在の問題点を的確に析出し、あるべき法理論を提示。将来の立法論を構想する際の土台となる重要論文を収載

道幸先生の問題意識は、「はしがき」にくっきりと顕れていますので、その部分を引用します。

>ところで、2009年の政権交代は、格差の是正を求める民意によるところが大きい。問題とされた格差は、労働者内部におけるそれではなく、むしろ会社と労働者の取り分の割合、つまり、労働分配率の低下として顕れている。この格差の是正のためには、労働者への分配率を高めることが不可欠であり、内需の拡大のためにも有効な手段といえる。そのための端的な方法は、労働者サイドの交渉力を高めるために労働組合を強化することである。

にもかかわらず、この点の議論は政党レベルにおいてまったくなされていないばかりか、労働組合の存在は公務員制度改革の障害とさえみなされている。確かに、運営が形骸化したり、正規従業員の利益ばかりを追求する組合も少なくないが、その原因の一端は、現行の労働組合法の不備によることも見逃せない。終戦直後に制定された労働組合法はその後あまり改正がなされなかったので、実態に合わない多くの規定を有している。にもかかわらず本格的な議論はなされていない。

職場における労働者の「声」を実現する新たな仕組みを作り上げるためには労組法の改正は不可欠であるというのが本書の問題関心である。

まさにこの問題意識こそが、わたくしが拙著『新しい労働社会』の第4章で論じたテーマともつながります。

詳細目次はこのリンク先の通りですが。

http://www.shinzansha.co.jp/100803roudoukumiainohenbo-CONTENTS.html

このうち、第4章「労働契約法制と労働組合」は、3年前にまさに道幸先生も含めた学界展望の座談会でわたくしが取り上げ、道幸先生を目の前にしてあれこれ論じた思いでの論文でもあります。

その時のわたくしの論評はこういうものでした。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/02-03/pdf/002-046.pdf

>濱口 この論文はあまり長くはないのですが, 非常に広範な論点に及んでいます。まず現行法制における従業員代表制や労使委員会制についていくつかの指摘をしています。例えば, 関与や意見反映システムとしての不十分さ, 独立性の制度的保障がないといった点,それから, 常設化の是非, あるいは組合との関係とか,その場合, 組合併存型にするのか補完型にするのか,あるいは, 労使協定に私法的効力があるのかないのかといった問題点を指摘し, 関連する裁判例から問題点を摘出しています。

・・・・・・

>コメントですが, この労働契約法制研究会報告にせよ, 素案にせよ, 労働契約法制という枠組みの中で就業規則変更法理をいかに法文化するかという形で提示されているんですが, その内容は本質的には, むしろ集団的労使関係法理にかかわる問題であり, それにうかつにさわると, 集団的労使関係法理そのものを大きく変えることになるんだということを明確に指摘しているというところに大きな意味があろうと思います。

労働法学全体が非常に個別法に集中して, 集団法的な観点が, いささかおろそかになりがちな風潮に対する批判と見ることもできようかと思います。

この中で特に, 現行の就業規則法理の矛盾の指摘については, 道幸先生の文章の中にも, 契約法理に反しているというような個別法としての枠組みからの批判もあるんですが, 全体として言うと, むしろ本質的な中身である集団法としての性質をどう活かすかという視点が中心になっていると読みました。その意味では,この評価はいささか心外かもしれませんが, 研究会報告や素案と近い立場と言ってもいいのではないかと思います。ただ, 研究会報告や素案は, そういう実質的に集団法的な中身を, あくまでも個別法の枠組みの中に押し込んで, 就業規則の不利益変更の合理性判断という, 裏口から導入しようとしているのに対して, 正面から現行集団法制との矛盾を摘出し, その解決を迫っている点が異なると評価できるのではないかと思います。

それから, 労使委員会ないし複数の労働者代表といった非組合型労働者代表制にかかわる問題については,その組合結成や運営への悪影響を指摘していまして,これはまさに労政審で労働側が指摘した点です。スタンスとして, 徹底した組合優先主義, 組合でない労働者代表制というものに対して非常に懐疑的であるという点で大内伸哉教授の議論と共通するんですが, ただ,大内教授の議論というのは, 結局結社の自由を行使しないほうが悪いんだという極端な放任主義になっているんですが, 道幸先生のほうは, それを放置するのではなく, むしろ現行労組法の組合モデルの転換をも辞さないスタンスが示されているように思われます。つまり, 現行法上, 組合のほうが不利な側面ということで, 経費援助とか使用者の利益代表者の問題といったような問題を指摘していまして, これはある意味で,労働組合の従業員代表制度への拡張ということもできるかもしれません。

ただ, 実は, そもそも現行の過半数組合制度自体が,組合法上の組合を従業員代表として扱うという意味では組合の従業員代表制への拡張ですし, ヨーロッパ諸国で, 組合とは別の従業員代表制度を設けているのではなく, 組合の企業内代表が従業員代表として活動するという仕組みの国の場合には, まさにそうなっていると言えるのではないかと思います。逆に, 組合と従業員代表を別立てにしている国であっても, スペインのように, その従業員代表が例えば団交権や争議権を持っているという国もあって, この2 つをあまりきれいに分けなくてもいいのかもしれないという感じもしています。

それから, 過半数組合や特別多数組合にかかわる論点については, やはりこれも研究会報告や素案と方向性は共通しているのではないか。ただ違うのは, そこで提起されている問題が集団法の問題であるということに無頓着な, あるいは無頓着を装っている報告や素案に対して, その点を明確に指摘し, そこを解決すべきだということを主張している点ではないかと思います。つまり, 集団的労働条件の変更というのは, 本来,集団法の装置, すなわち労働協約でなされるべきであり, 例えば組合併存の問題, 多数組合と少数組合の問題は, 多数組合の公正代表義務で解決すべきだという基本的立場から, 最後のところの「憲法28 条違反」といった批判も出てくるんだと思うんですが, 逆に,就業規則そのものを個別法理だけで理解していいのかという問題提起もありうるような気がします。

就業規則のいろいろな説の中に集団的合意説というがあるわけですが, その考え方に立つと, 実は就業規則自体が一種のコレクティブなアグリーメントということになるわけで, そうすると, 例えば労働協約に一般的拘束力を与えて適用していくというのと, 本質的には同じような議論になっていくのかもしれない。

これはそこまで書かれているわけではないんですが,そういう議論の広がりを持った論文なのではないかという感じを持ちました。

この後の4人の議論、とりわけ道幸先生の悩みに満ちた発言はぜひリンク先に行ってお読みください。

2010年9月23日 (木)

労供労組協でお話

先日予告していた労供労組協2010年度秋の学習会で、労働組合の労働者供給事業について考えていることをお話ししてきました。

中身は、昨年3月に労供労連でお話ししたことに、若干最近の裁判例に触発されて考えたことを付け加えたようなものです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/rokyororen.html(3.14労供労連「労働組合による労供事業法制定に向けて」講演「労働を供給するとはどういうことか?」)

労供労組協加盟のさまざまな組合の方からその状況の発表があり、現場に疎いわたくしには大変興味深いものでした。

また、國學院大學で労供研究会をされておられる橋元秀一先生と本田一成先生がその研究状況について報告されていました。

ちなみに、この労供研究会は最近ホームページを立ち上げているということで、さっそくアクセスしてみますと、

http://www.k-rokyoken.jp/(國學院大學労供研究会)

いろいろと興味深いコンテンツが載っています。

蔵研也さんの省察

本ブログで少し前に取り上げて論じた「警察の民営化」あるいはむしろ「国家の暴力装置の民営化」に関する議論について、その発端となった蔵研也さんが、ある意味で「省察」されています。いろんな意味で大変興味深いので、紹介しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100921無政府は安定的たり得るか?

>僕は自称、無政府資本主義者であり、実際そういったスタンスで本も書いてきた。

>しかし、slumlordさんの「なぜ私は無政府主義者ではないのか」

http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20100917/1285076558

を読んで、遠い昔に考えていた懸念が確かに僕の中に蘇り、僕は自分の立場に十分な確信を持てなくなった。

>僕はあまりに長い間文字だけの抽象的な世界に住んできたため、無政府社会が論理的にもつだろうと考えられる美徳に魅せられたため、人間の他人への支配欲やレイプへの欲望、さらにもっとブラックでサディスティックな欲望を軽視するというオメデタい野郎になってしまっていたのだろうか??

>大学時代までの自分は、空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑を与えていたことは、間違いない。

>警察や軍隊が、それぞれのライバル会社の活動を許容し、ビジネス倫理にしたがって競争するというのは、この意味では、共産主義社会の空想と同じくらいに、オメデタい空想なのかも知れない。そういった意味では、僕は自分の考えを再思三考する必要があるだろう。

今この問題は、なるほど現時点では僕にとってのopen question としか言いようがない。

蔵さんご自身が「open question」と言われている以上、ここでへたに答えを出す必要もありませんし、それこぞリバタリアンの皆さんがさまざまに議論されればよいことだと思います。

ただ、かつて若い頃にいくつかリバタリアンに属するであろう竹内靖雄氏のものを読んだ感想を思い出してみると、社会主義的ないし社会民主主義的発想を批判する際には、まさしく「空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑」が横溢していて、正直言うとその点については大変共感するところがあったのです。(なぜか菅首相と同じく)永井陽之助氏のリアリズム感覚あふれる政治学に傾倒していたわたくしからすると、当時の日本の「さよく」な方々にしばしば見られた「空想主義的、牧歌主義」は大変いらだたせるようなものでありました。

その「リアリズム感覚」からすると、空想主義的「さよく」を批判するときにはあれほど切れ味のよい人が、どうして同じくらい空想的なアナルコキャピタルな議論を展開できるのかは不思議な感じもしたのですが、ある意味で言論の商人として相手を見て使い分けしていたのかな?という気もしています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html(警察を民営化したらやくざである)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-2b5c.html(それは「やくざ」の定義次第)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-037c.html(アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-48c2.html(人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?)

2010年9月22日 (水)

『ジュリスト』10月1日号

L20102079110 『ジュリスト』10月1日号が送られてきました。

http://www.yuhikaku.co.jp/jurist

すでに予告していたように、特集は「個別労働紛争の実際と法的処理の今後」で、次のようなラインナップになっています。

◇個別労働紛争処理システムの現状と課題――総論●山川隆一……8
◇〔座談会〕個別労働紛争処理の実務と課題●岩村正彦(司会)●木下潮音●徳住堅治●野田 進●渡辺 章●渡辺 弘……16
◇労働審判制度の現状と課題●春名 茂……44
◇労働局個別労働関係紛争処理事案の内容分析●濱口桂一郎……56
◇労働委員会による個別労働関係紛争の解決について●荒木祥一……63
◇個別労働紛争解決の現状と課題――労働審判制度を中心に●鵜飼良昭……73
◇個別労働紛争の現状と課題――日本労働組合総連合会から●新谷信幸……82
◇個別労働紛争の現状と課題――日本経済団体連合会から●田中秀明……91
◇個別労働紛争の現状と課題――兵庫労使相談センターから●永友節雄……98

わたくしの論文は、JILPTの報告書の概略紹介です。

岩村先生はじめとする皆さんの座談会がさすがに大変面白く、いろいろと鋭い指摘をされています。

2010年9月21日 (火)

「アルバイトは労働者に非ず」は全共闘の発想?

本ブログでも何回か取り上げてきたすき家の「非労働者」的アルバイトの件ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_db8e.html(アルバイトは労働者に非ず)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-0c44.html(自営業者には残業代を払う必要はないはずなんですが)

そのすき家を経営する「外食日本一 ゼンショー」の小川賢太郎社長のインタビューが日経ビジネスに載っています。そのタイトルも「全共闘、港湾労働、そして牛丼」です。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100917/216295/

もしかしたら、このインタビューの中に、「アルバイトは労働者に非ず」という発想のよって来たるところが窺えるかも知れないと思って読んでみましたら、まさに波瀾万丈、革命家の一生が描かれておりました。

>世界の若者は矛盾に対して声をあげている。こういう時に自分は何ができるのか。こうした状況を打破しなければならない。世界から飢餓と貧困をなくしたいというのはこの時からの思いです。

>やはり資本主義社会であるから矛盾があるのであって、この矛盾を解決しなければならない。これは社会主義革命をやるしかないと学生運動にのめり込んでいきました。

―― 大学を辞めて、港湾会社に入社して、労働者を組織されます。

>社会主義革命というのは、プロレタリアと労働者階級を組織しなければならない。ですが、結構、日本の労働者もぬくぬくしちゃってきていた。

>そういう意味で底辺に近くて、故に革命的である港湾労働者に目を付けました。

―― その後、社会主義革命を断念する転機が訪れます。

>やはり社会主義革命はダメだ。資本主義は戦ってみるとなかなかだった。少なくともこれから300年ぐらいは資本主義的な生産様式が人類の主流になると考えました。

>今度は社会主義革命ではなくて、資本主義という船に乗って、世界から飢えと貧困をなくすんだと。

>しかし、自分は資本主義をまったく知らない。議論をすればマルクス・レーニン主義や中国の社会主義革命だとか、そういう勉強ばっかりしてきた。だから資本主義をやり直さなきゃならなかった。

―― 資本主義の第一歩として扉を叩いたのが吉野家です。

>資本主義の勉強をするうちに、外食業かコンビニエンスストアがいいのではないかと思うようになりました。

>世界から飢えと貧困をなくすことという、10代のころから命題は変わっていない。だから食のビジネスには興味があったのです。

その後吉野家が経営危機に陥るところまでが前編で、後編はその次ですが、ふむ、社会主義革命を志して港湾労働者を組織しようとしていた革命青年が資本主義に目覚めると、資本主義体制の下で生ぬるく労働条件がどうとかこうとか言ってるような中途半端な連中は、ちゃんちゃらおかしいということなのでしょうか。

この辺、学生時代に革命的学生運動に身を投じていたような方々が中年期にはかえって資本の論理を振りかざすという学者や評論家の世界にも見られる現象の一環という感じもしますが、いずれにしても、いろんな意味で大変興味深いインタビューです。後編が待ち遠しいですね。

組合労供事業と不当労働行為

『労基旬報』9月25日号の「人事考現学」に載せた「組合労供事業と不当労働行為」という小文です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo100925.html

小文ではありますが、これまで労働法学ではほとんどまともに論じられたことのない「すきま」的領域でもあり、かなり重要な論点に関わる問題ではないかと考えています。

もう一つ、『労務事情』誌にも、別の組合労供関係の裁判例批判の小文を書いていて、もうじき公開されますが、誰かこういう問題をまじめに突っ込んで議論しようという人はいないのでしょうか。

労働組合法関係では山のような書籍や論文がありますが、残念ながらその中で組合労供事業を正面から取り扱ったものはほとんど見たことがありません。

後藤道夫さんのベーカム批判

Hyoshi08 さて、飯田泰之さんとの「争いが勃発したかと思いきや、意外な?急展開…!」の騒ぎも一段落して、

http://twitter.com/magazine_posse/status/24674848970

アクセスも落ち着いてきたところで、別の論考にもコメントをしてみます。

理論的な面で興味深いのが、後藤道夫さんの「「必要」判定排除の危険」です。

というのは、後藤さんは単に新自由主義者を批判するだけでなく、無条件の給付を主張するという点で「宮本太郎など福祉国家右派と呼べるであろう論者にも、ニュアンスの差はあれ共通したものである」と、批判の矢を向けているからです。

わたくしもワークフェア志向という意味ではその「福祉国家右派」の一味なんだろうと思うのですが、このあたりの理屈が今ひとつよく分からないところがあります。

原点に戻って考えると、後藤論文の最初のところで「福祉国家の限界か?福祉国家の不在か?」という節があり、BI論者は日本についても福祉国家の限界を言うけれども、日本はそもそも非福祉国家じゃないか、と批判しておられて、そこはまったくその通りだと思うのですが、とはいえ、西欧型の福祉国家がさまざまな問題を発生させたがゆえに新自由主義の批判が登場し、「第3の道」が提起されるようになったというのも事実であるわけで、単純に「必要」だけで給付をする従来型の福祉国家を称揚すればいいというだけのものでもないのではないか、と思われるからです。

ここはなかなか議論の仕方が難しいところで、そもそも西欧的な福祉国家が確立していないところでその批判ばかりしてどうするのだ、という意見にももっともなところはあるのですが、さはさりながら、「必要だから給付する」というロジックだけではうまくいかないということを念頭に置いて制度設計の議論をしていかないと、下手をすると自立の契機のないままずぶずぶに福祉漬けという前車の轍を踏むことにもなりかねませんし、そもそも国民の共感を呼びにくい面もあろうと思われるのです。

これはむしろ、「必要」をおおざっぱな形ではなく、きめ細かく自立支援につながる形で捉えてその一つ一つに応える形で行うという趣旨で考えるべきではないか、という反論もあり得て、それはまったくその通りだと思うのですが、問題の性質からして、注意深い議論が必要であろうな、とは感じるところです。

いや、実は、今週末に関東弁護士連合会主催のシンポジウムで、後藤道夫さんとパネリストとして同席することになっておりまして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-3303.html

http://www.saiben.or.jp/events/ev0100925_01/ev0100925_01img.pdf

現状認識のかなりのところは意見が一致するのだろうなあ、と思いながら、おそらくその先の福祉国家のあり方については意見の違いが出てくるのだろうなあ、と感じている次第です。

2010年9月20日 (月)

スウェーデン民主党初議席

D0f0adfcc736 スウェーデンの総選挙結果がさっそくEUobserverで報じられています。

http://euobserver.com/9/30839(Sweden's far-right makes it into parliament for the first time)

いやもちろん、まずは現与党の中道右派が勝ったということが大事なのですが、過半数はとれませんでした。キャスティングボートを握ったのは、20議席を獲得した反移民、反イスラムのスウェーデン民主党であったのです。

>Sweden's conservative Prime Minister Frederik Reinfeldt has won a second term in office, preliminary figures show. But his four-party centre-right alliance failed to secure a majority, while the far-right Sweden Democrats entered into parliament for the first time.

The four-party coalition, made up of Mr Reinfeldt's Moderate Party, the Liberal Party, the Christian Democrats and the Center Party, won 172 seats, three short of a majority in Sunday's election (19 September). The left-wing opposition got 157 seats.

>The headline-stealers of the election are instead the Sweden Democrats, an anti-immigrant, far-right outfit with links to neo-Nazi groups, especially in the 1980s and 1990s. The party passed the four percent hurdle for getting into parliament by winning 20 (or 5.7%) of the 349 seats.

与党はスウェーデン民主党と連立を組むつもりはないといっているので、少数与党の不安定な政治運営を強いられることになります。

今はどの国もその国なりに難しい状況を抱えているということです。最近、やや北欧神話(?)がはやりかけているようですが、北欧には北欧の悩みがあるわけで、どこかに悩みのない国があるなどということはありません。北欧の右翼はとりわけワークフェア的福祉ショービニズムの傾向が強く、ある意味で北欧型社会に根ざしているわけですから、否定しきれないわけですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-ae0f.html(北欧で極右拡大中)

ちょっとアクが強いですが

拙著への評というか、拙ブログへの評というか・・・。

http://twitter.com/mellowconsultan/status/24981144950

>ここでも書きましたが、これは濱口桂一郎さんの「新しい労働社会」を理解しておけば十分です。万全を期すのであれば、ネットサーフィンする時に、ちょっとアクが強いですが、濱口さんのブログでも読んでおけば完璧です。

そんなにアクは濃くないはずですが・・・。

2010年9月19日 (日)

70歳まで働く!

51k7uhzsq8l__sl500_aa300_ 1週間後に出る雑誌『東洋経済』10月2日号が、「超高齢化時代の会社員の常識 70歳まで働く!」という特集を組むようです。

わたくしも取材を受けましたが、どういう特集に仕上がっているか楽しみです。

本日の朝日社説「脱・就活―「新卒一括」を変えよう」

本日の朝日の社説は、なんだか日本学術会議の例の報告書をそのまま社説にしたみたいですね。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html

>大学も変わらねばならない。

 約4割の学生が、将来の職業に関連し「授業経験は役だっていない」と答えた調査がある。学びを通じて視野や能力を獲得し、携わりたい仕事への考えを深め、社会に出る準備をする。そうした場に大学はなっているか。意識を持てないままの若者を、就活という圧力鍋に放り込んではいないか。

 教養の伝統に加え、単なる就職対策講座でないキャリア教育を大学の中でどう位置づけるか、考えよう。

 今の就活は、安全ネットもなしに、若者に空中ブランコを飛び移らせているように見える。それを改め、学校教育から職業社会へと、きちんと橋渡しできるようにする。大学人と経済人が話し合い、知恵を絞ってほしい。

学術会議の検討会におられた児美川さんは、

http://blogs.dion.ne.jp/career/archives/9706791.html

>せめてこのくらいの認識は,社会全体で共有できて,問題の克服に向けた取り組みが実っていけばいいなあ,と切に思った

と述べておられます。

この点についてはmojix氏に全面的に同意

真正なリバタリアンの立場から解雇規制などについて論じておられるmojix氏については、その議論の中身については今までも何回も批判してきたところですが、少なくともその議論の手法についてはさわやかなものを感じてきましたし、今回のエントリを読んで、そのさわやかさのよってきたるところがよく理解できます。

http://mojix.org/2010/09/19/zokusei-kougeki(属性攻撃は説得力を下げる)

>主張やスタンスの上では共感できる論者が、立場の異なる論敵を属性攻撃しているのを見ると、悲しくなる。

相手のイメージダウンを狙った属性攻撃は、むしろ属性攻撃している人の品位を疑わせ、その主張の説得力を下げてしまう。

属性攻撃や悪口で喜ぶ読者もいるだろうが、そういう人はまともに議論したり、問題を考えるよりも、攻撃や悪口が好きなのだろうと思える。真に問題解決を志向しているのではなく、ただ「祭り」に乗じて騒ぎたいだけだろう。

属性攻撃は、その種の読者を引き寄せる一方で、まともな読者をむしろ遠ざけてしまう。

論敵を批判する場合は、相手の属性を攻撃するのではなく、あくまでも論旨の上で批判すべきだ。これは議論における最低限のマナーだと思う。

こういう姿勢がしっかりしている方とは、言葉の本来の意味での「建設的」な議論ができると思います。

(参考)

いままで本ブログでmojix氏の議論に触れたエントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-fb88.html(クビ代1万円也)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-7ba3.html(解雇規制とブラック会社の因果関係)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-b158.html(労働の消費者は使用者です、もちろん。)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-739f.html(解雇自由と解雇規制と解雇禁止)

2010年9月18日 (土)

久しぶりに「新書」らしい「新書」を読んだ

久しぶりに、ブログでの拙著書評。ごく短いものですが、私の意のあるところを十分受け止めていただいていると感じました。

http://yukkuri-ikitai.at.webry.info/201009/article_3.html(ゆっくり生きたい)

>近年、世間を騒がせている雇用にまつわる問題の本質を鋭く指摘している。

とくに非正規労働に関する章は秀逸で、如何に自分が現実をきちんと捉えていないかを認識させられた本。久しぶりに「新書」らしい「新書」を読んだ。

ありがとうございます。とくに「久しぶりに「新書」らしい「新書」を読んだ」という評は、わたくしにとっても、また岩波書店の編集担当者にとっても嬉しい言葉です。

北欧で極右拡大中

例によってEUobserver紙から、北欧諸国で反移民、反イスラムの極右政党が勢力を拡大中、という記事。

http://euobserver.com/9/30797(Populism on the rise in the Nordic region)

>A populist and hard-right wave is washing up over the Nordic countries, and with it, anti-immigration rhetoric and policies that were unthinkable just few years ago, with political consequences for traditional politics in the region.

ほんの数年前には考えられなかったくらい、極右政党が進出しているようです。

>Just a year ago, the far-right anti-immigration party – Swedish Democrats (Sverigedemokraterna) – was a small and unknown outfit. But its provocative anti-immigrant and anti-Muslim statements have given it significant support especially in areas with high unemployment.

Opinion polls suggest that the Swedish Democrats may exceed the four percent threshold needed to win seats in the Riksdagen and possibly hold the balance of power between the left alliance led by the Social Democrats and the governing centre-right coalition.

スウェーデン民主党は4%条項の壁を越えて議席を取りそうだと。

>In Finland, the tone of the immigration debate has changed dramatically over the last year. The topic has moved from being a marginal discussion to become one of the central debates in Finnish politics.

As much as 60 percent of Finns are now against an increase in the number of immigrants arriving in the country – a number that has increased considerably compared to previous years, according to a survey by Finnish daily Helsingin Sanomat.

Public support for the opposition hard-right True Finns party led by MEP Timo Soini, who is a member of the European Parliament, has lately risen past 10 per cent, according to a survey in September commissioned by the same paper.

フィンランドでも「真のフィン人党」の支持率が10%を超えてきた。

あと、ノルウェーやデンマークの状況も書かれていますが、デンマーク人民党のスカールプのこの言葉などは、域外移民に対してどういう目が向けられているかが窺えます。

>In Denmark, Peter Skaarup from the far-right Danish People's Party (Dansk Folkeparti) wrote in a press release on 29 May this year: "if non-western immigrants and descendents worked to the same extent as the Danes, then the economic situation would immediately be 24 million Kroners [€3.2 million] better, the sustainability problem would be solved and growth in the Danish economy would take off."

He added that his party would continue a "socially balanced policy that will press more immigrants to find a job, take up education or maybe go home if it does not work out for them staying here in the country."

「もし非西欧移民とその子孫がデンマーク人と同じくらい働いたら、経済状況は2400万クローネは良くなって、デンマーク経済は離陸しているはずだ。彼らに働かせるか、さもなきゃ働かずに居座っている連中はふるさとに帰すのが社会的にバランスのとれた政策というものだ」

まさに福祉ショービニズムですが、先に話題になったワークフェアとかアクティベーションという社会政策的問題の裏側にぺたりと張り付いた問題が、この「働きもせずに俺たちの税金で福祉を食ってる移民の連中」であることが、こういう記事を見るとよく分かります。

2010年9月17日 (金)

広田照幸・伊藤茂樹『教育問題はなぜまちがって語られるのか?―わかったつもり」からの脱却』

Kyoiku_mondai_01 広田照幸先生より、伊藤茂樹さんとの共著『教育問題はなぜまちがって語られるのか?―「わかったつもり」からの脱却 』(日本図書センター)をお送りいただきました。いつも心にかけていただきありがとうございます。

一見、教育問題の本かと思うかも知れませんが、教育問題を論ずる「リテラシー」の本です。

>少年犯罪は凶悪化している! 子どもの自殺原因の主な理由はいじめだ! 親子関係は希薄化している? 学者や評論家の発言はかなり信用できる! 海外の教育は進んでいる! 昔の教師はみんな優秀だった?   みんな教育問題について語るけど、これってホント!?「わかったつもり」になってない? 出口のない水掛け論や居酒屋談義があふれる教育論に終止符を打ち、きちんと教育問題を考えるための「超」入門書が遂に登場!

そう、教育問題を例にとって、世にはびこるトンデモ議論にまどわされないように、噛んで含めるように一つ一つ、物音を考えるというのはどういう風にすべきか、どういう風にしてはいけないかを教え諭してくれる本です。

>「今学校ではいじめや不登校がかつてなかったほど増えているし、学校の外では少年非行がどんどん凶悪化している。学校は崩壊寸前にある。」これはかつて優れた教師の情熱と努力によって素晴らしい成果を誇った日本の教育が、教師も親も含めて質が落ち、完全に行き詰まってしまったからであり、子どもたちは心の闇を抱えてもがき苦しんでいる。このままでは日本は世界から取り残されてしまう。これを何とかするためには、子どもの心に寄り添うとともに、教育制度を抜本的に変えるしかない」

>「教育問題を考える」という作業は、こうした紋切り型の語り方からの脱却を意味しています。

しかし、残念ながらこの種の紋切り型の語り方は、政治家やテレビのコメンテーターを始め、下手をすると教育の専門家と呼ばれる人たちの間にもしぶとくはびこっています。そして、こういう言い方に納得してしまう人もたくさんいます。今の教育それ自体よりもこちらの方が、ずっと困った状況だと思えるほどです。

テレビの討論番組かなんかで、右に書いたような語り方をしている「有識者」の方が出てきたりすると、わたしは「あ~あ、またか」とすっかり気が滅入ってしまいます。・・・・・・・教育をそういう目でしか見られなかった「有識者」には期待できません。・・・みんなで「有識者」のトンデモ教育論を嗤ってやりましょう

そう、これはたまたま広田先生が教育学者だから、教育というトンデモのはびこりやすい分野のリテラシーという形で書かれているのですが、同じことはたとえば労働問題でも、経済問題でも、いろんな分野にあるわけで、その意味では、実に応用の利く、およそ世の中の物事について論じられることについて「トンデモ」を見分け、「まっとう」を見分けるための方法論を語ってくれる本でもあります。

(追記)

ちなみに、広田先生があやうく「トンデモ有識者」にされそうになった一件:

>先日、あるテレビ番組の制作スタッフから、「テレビに出て、コメントしてくれ」と電話で依頼がありました。私は「何についてのコメントをするんですか?」と尋ねました。「今の若者のダメぶりを、職場などでの失敗シーンの再現ビデオでつくるので、先生には『ゆとり教育がこういう若者をつくった』とコメントしていただきたい」とのこと。

---あまりにもひどい、と思いました。若者はいつの時代もいろいろと失敗をして、成長するものです。・・・・・・「あんたが社会に出たときに、似たような失敗をしなかったのかよ」とどなってやりたくなりました。・・・

何より問題なのは、若者の失敗をゆとり教育のせいだとする、根拠も裏付けも何もないということです。実際、「ゆとり教育が、若者の職場での失敗を生んでいる」といったことを論じた研究結果も調査結果も、私は見たことがありません。ゆとり教育が算数の学力を低下させているか否か、といったことについてはいろいろと議論がなされています。だから、「ゆとり教育で学力が低下した」という話をしろ、というのなら、まだ理解できます。しかし、若者の職場での失敗をゆとり教育のせいにするのは、あまりに暴論です。珍説ですね。そんな議論を聞いたのは、私は初めてです。少なくとも、アカデミックな世界では、そんな議論はありません。

しかも、自分たちの用意した乱暴な筋書きを、大学の教員(つまり私)にコメントをさせることで権威づけようとしているのです。ひどいですねえ。

「私にはそんなことはできません」とお断りしました。「それは無理のあるストーリーだと思いますよ」と言い添えておきましたが、確か民放のゴールデンタイムの番組だったのですが、あれ、そのままの筋でつくったんでしょうかね。目の毒ですね

世の中には広田先生ほど良心的でない「有識者」がいっぱいいますから、今日もまたこういうたぐいの「目の毒」が量産され続けているのでしょうね。

UIゼンセン同盟も勤務間インターバル協定へ

『労働新聞』9月20日号に、UIゼンセン同盟が勤務間インターバル普及へ協定締結への方針を決めたという記事が載っています。

>UIゼンセン同盟は・・・2011~2012年度の運動方針を決定した。時間外労働の終了時点から翌勤務開始時までの絶対的休息時間を定める「勤務間インターバル規制」の協定化促進をワーク・ライフ・バランスの観点で初めて掲げるとともに、・・・

情報労連に続いて、いよいよ真打ちの登場です。

>同書記長は「いきなりEUのように『11時間』の協定化は難しいかも知れない」とした反面、「本気で取り組むためにも、長時間残業した後は最低でも何時間は空けなければダメ、という協定を労使で結ぶ必要がある」とするなど、産別本部として同協定化を促進する意向を明らかにした。

UIゼンセン同盟は先祖は繊維関係でしたが、いまは何にでも手を出していますが、とりわけ流通・サービス部門が中心で、現代日本の「開いてて良かった」24時間サービス社会の影響をもろに受けて長時間労働が常態化している職場でもあります。

その意味で、勤務間インターバル規制の意味も大きいと思います。

(参考)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jinjijitsumu0915.html(勤務間インターバル規制とは何か?)

労供労組協2010年度秋の学習会

労働者供給事業関連労働組合協議会(労供労組協)の秋の学習会ということで、秋分の日の来週23日に、労働者供給事業のあり方についてお話しをしてまいります。

http://www.union-net.or.jp/roukyo/gakusyukai/2010_9_23.pdf

なお、労供労組協については、

http://www.union-net.or.jp/roukyo/top.html

個人加盟ユニオンの紛争解決― セクハラをめぐる3つの紛争事例から ―

Oh 労働政策研究・研修機構の『資料シリーズ』として呉学殊さんの「個人加盟ユニオンの紛争解決― セクハラをめぐる3つの紛争事例から ―」が公開されました。

http://www.jil.go.jp/institute/chosa/2010/10-076.htm

呉さんはここずっとユニオンの個別紛争処理活動をフォローしてきていますが、これはその一環です。

>最近、急増しているセクハラ問題の実態とその紛争解決に努めている個人加盟ユニオンの役割を明らかにし、セクハラ問題の解決と予防に寄与することが研究の目的である。

研究方法は、セクハラ紛争解決を行った個人加盟ユニオンに対し、紛争当事者を紹介してもらい、ヒアリング調査を行った。3つのユニオン(兵庫県所在のあかし地域ユニオン、連合新潟・にいがたユニオン、連合福岡ユニオン)から3人の紛争を紹介してもらったが、そのうち、2つの事例について当事者本人から直接ヒアリングを行った。その際、ユニオンと当事者本人が所持している資料を提供してもらい、最大限、セクハラ問題の実態と解決プロセスを公平に解明するために努めた。

>セクハラ問題は、証拠立証が難しく解決が難しいといわれてきたが、個人加盟ユニオンは警察や労働行政が解決できなかったセクハラ問題を解決した。2つの事例は、ユニオンが加害者の会社と団体交渉を行い、紛争を自主解決した。残り1つの事例は、加害者のセクハラ否認・謝罪拒否などで団交による解決ができず、労働審判で紛争を終結した。3つの事例とも、最終的には加害者に対してセクハラ事実の認定、謝罪、賠償金(それぞれ120万円、200万円、350万円)の支払いをさせることができた。個人加盟ユニオンの紛争解決能力が高かった。今回の3つの事例では、ユニオンが紛争の解決だけではなく紛争の予防の役割をも果たした。

わたくしは、こういう外部ユニオンが紛争解決に大きな役割を果たしてきていることは十分に認めつつ、しかしやはり、職場の労働組合こそがその役割を担うのが本筋ではないか、と考えておりますが。これは拙著第4章の問題であり、本ブログでも何回か取り上げたテーマですね。

職場の組合はどこへ行った?

Tm_i0eysjizmjvcmq 『季刊労働法』パワハラ特集の鼎談の続きです。終わりの方で、そもそも労働組合は何やってるの?という話になっていきます。

>(金子)その辺が労働組合の機能を考えたときに、糾弾型になっているというか、責任追求型になってきているというけれども、一昔前はどちらかというと職場の世話役で、そういう苦情処理、調整というのはほとんど労働組合の職場委員がやっていたわけですよね。

労働組合が形式的になっていくと言うことは、それはさっき人事がそういう機能をだんだん失ってきたというのと同じで、労働組合もいつの間にか、昔は職場にべたっと張り付いて仕事にも精通していて、ある程度中堅で、職場の信頼がある人が役員になっていたのが、そうではなくなってしまった。・・・

>(龍井)だから問題はパワハラに限られないわけで、日常的な、家のローンの問題から、子どもの教育や介護の問題から、みんな持ち込まれたわけですよね。・・・いろいろ持ち込まれるくらいの入口は組合の機能として復活しないと。

>(金子)しかも、パワハラは外部の問題ではなくて、職場内部の人間関係の問題なんだから、労働組合はその意味で専門店になってもいいわけです。・・・

>(金子)労働者に「困ったときに誰に相談しましたか」と聞くと、圧倒的に同僚だったり、友人だったり、家族になるんだよ。

>(中野)それはそうでしょうね。

>(金子)労働組合なんてほとんど出てこないし、上司も出てこない。だから要するに相談構造というのは苦情が企業内にとどまらなくて、中はむしろ話しにくい。どちらかというと中を避ける構造になってしまっているんだよね。・・・

こういう話になってくると、龍井さんとしてはこう言わざるを得ません。

>(龍井)もちろんそうなんだけれども、私は逆にそこを期待する。組合が頼りになる存在として再生するとしたら、そこをパスしてはできないと思っているから。

>(龍井)・・・大きな網の作り直しという作業に組合が当事者として関わらないといけないと思います。パワハラ対策というのも一つの突破口です。職場全体を立て直すのはユニオンにも地協にもできない。

この発言にはとても同感しますが、問題は連合の上の方のそういう意識と、現場の企業別組合の意識との温度差でしょう。実態は、

>(金子)・・・でも現状では、それはもうないものねだりに近いから、組合にそんなことを期待するよりは、ちょっと外枠のことをきちんとやってよという気がする。そういう中で、龍井さんの言うように確かに例えばパワハラの相談が来る。それをきっかけに企業の問題点というのが非常に見えてくるし、体質も問題だし、職場の作りかえをやろうよというきっかけにはなるんだけれども、その第一歩を踏み出す人なんて、労働組合にいま探したっていないからね。そういうことをやろうという。

だからこそ、こうなっているというループになるわけです。

2010年9月16日 (木)

IMFとILOが成長、雇用、社会的結束を呼びかけ

日本では、雇用が大事という至極まっとうな主張を鼻先で嘲笑うのが格好いいかの如き愚かな風潮がはびこっているようですが(それが歪んだ形でベーカム論に噴き出たりするわけですが)、いうまでもなく世界の経済社会政策の主流は、「雇用が一番」です。

別に労働問題を担当しているILOだけではなく、10年前には「I'm fired」の略だと言われたIMF(国際通貨基金)も、まったく同様であります。こういう世界の主流の政策思想が(まっとうな研究者にはもちろん伝わっているのですが)マスコミや政治家にきちんと伝わらず、奇矯の言でもって世を惑わす似非学者ばかりが世にもてはやされるという悲しむべき事態を、何とかしなければなりません。

Center_pic とりあえずは、まず、このあたりをきちんと読むことから。

http://www.osloconference2010.org/

>

Leaders Call for Commitment to Recovery Focused on Jobs

The heads of the IMF and the ILO, along with other leaders, today called for a broad international commitment to a jobs-focused policy response to the global economic downturn.

http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/new/index.htm

>ノルウェーのイェンス・ストルテンベルグ首相の招請により、ILOと国際通貨基金(IMF)が共催して、2008年の世界金融危機開始以来の失業及び不完全就業の急増に取り組む手段を話し合うために9月13日にオスロで開かれた合同ハイレベル会議は、仕事に焦点を当てた政策対応で世界的な景気後退に取り組むことへ向けた幅広い国際的な公約を求めて閉幕しました。
 会議において、ILOとIMFは、二つの具体的な分野における政策開発において協力し合うことに合意しました。一つは、持続可能なマクロ経済開発と開発戦略の中・長期的枠組みの中での、弱い立場にある貧しい人々のための「社会的保護の床(最低限の社会的保護)」の概念を探求すること、もう一つは、雇用を創出する成長を促進する政策に焦点を当てることです。また、危機がもたらした調整上の難しい課題に取り組み、危機及びその後の情勢が社会に与える影響が十分考慮に入れられるよう確保するために必要な合意形成において実効的な社会対話が果たし得る中心的な役割についても合意が達成されました。両機関はさらに、力強く持続可能で、バランスの取れた世界の成長を確保することを目指すG20の取り組み及びその相互評価プロセスを支持する協力体制を継続し深めていくことについても合意しました。この一環として、2011年のILO総会ではIMFのドミニク・ストロスカーン専務理事が演説を行うことが決まりました。

たぶん、似非学者には何を言っているかすらよく分からないでしょうが。

非正規雇用の歴史的あり方と今日の問題点

Opinon101 去る6月9日の夜に、現代の労働研究会に呼ばれてお話ししたことは、その時に書きましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b9b0.html(現代の労働研究会)

>本日夕方より、専修大学において、現代の労働研究会に呼ばれてお話をして参りました。

その時の講演録が、『FORUM OPINION』第10号に掲載されています。

編集の方が大変親切な小見出しをつけてくださったので、とても読みやすくなっていると思います。

話は非正規関係がメインで、その後ちょびっと外国人関係について話をしたので、二つに分けてアップしました。

それぞれの小見出しだけ、このエントリに載せておきます。興味を惹かれた方は、リンク先をゆっくりとお読みいただければと存じます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/forum1001.html非正規雇用の歴史的あり方と今日の問題点

社員=株主から社員=労働者へ-日本型雇用システム成立の時期

優遇される基幹工と差別される臨時工-昭和初期の非正規問題

三菱航空機の大争議と内務省の臨時工保護政策

国家総動員法時代の労働者保護

戦中・戦後を貫く“国家(企業)の一員”というメンタリティ

朝鮮戦争で復活した臨時工と労働運動の柱の1つとしての本工化闘争

高度経済成長で表層から消えた臨時工問題

臨時工から“身分としてのパートタイマー”への転換

整理解雇四要件の“非常識”とパート問題

時代の転換-新たな非正規の登場と労働者派遣法

顧みられなかった女性派遣労働者

摩訶不思議な造語=フリーターの実態は臨時工

“夢追いフリーター”の幻想が続いた10年間

2005年から始まった“日本は格差社会”の認識

根本問題は戦前から続く処遇の不平等と雇用の不安定

身分的特権としての正社員と区別したジョブ型正社員

マクロ的な公的仕組みの中での公平な分配

もう一つのテーマが外国人でしたが、こちらは質疑応答で聞かれて答えた部分です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/forum1002.html外国人労働者問題の“ねじれ”について

外国人労働者政策不在の原因は雇用許可制

入管政策主導が労働政策を排除

出入国管理主導の法務省が拡大させた困難

労働者の利害を基本に据えた労働政策としての論議を

いま最大の労働条件は人間関係だ

Tm_i0eysjizmjvcmq 『季刊労働法』230号のパワハラ特集ですが、やはり巻頭の金子雅臣・中野麻美・龍井葉二三氏の鼎談が面白いです。

>(金子)・・・「いま最大の労働条件は人間関係だ」ということにつながりますね。・・・いわゆる「労働条件」は多少悪くても我慢できるし、「やりがい」が多少損なわれても我慢できます。でも、もう職場の人間関係がめちゃくちゃになり始めているから、「人間関係」が最大の労働条件だということで、それは譲れないということで退職していくという人たちが民間の調査なんかでも増えていることが徐々に明らかになりつつあります。

>(龍井)・・・ところがいまはもっと深刻になっていて、職場の横のつながりそのものが危うくなっていて、とくにパワハラに関していうと、われわれが自明に思っていた上司と部下のタテの関係も崩れつつある。

・・・その問題で一番矢面に立っているはずの人事・労務というのが、ほとんど機能不全になっていて、経営全体が財務主導あるいは四半期経営に変わってしまっているわけですね。

・・・そうなると、職場の上司自体が、必要な人材像とか、来期に向けた方針といったものを持ち得なくなっているのに、短期のアウトプットだけが求められる。できなければその責任が問われる。一昔前なら、上司は現場監督としての責任を持って、社員に相対していたわけですが、それができなくなっている。つまり、妙な言い方ですが、パワハラをする側も「被害者」という側面があるわけです。

>(金子)・・・つまりプレーイングマネージャーなんていうような言われ方もありますが、多くの人たちはプレーヤーとしては優秀でも、管理や指導ができない。

・・・とにかくそのマネージャー連中はみんな成績はいいし、いろいろな経歴は持っているんだけれども、人を育てることにかけてはまったく能力がない。だから乱暴でしょうがないし、危ないことをやる。

>(龍井)・・・いま言われたチームワークの中のリーダーとか先輩というのが、いまの職場ではどんどん見えにくくなっているわけでしょう。さらにいえば、使用者というものも曖昧になってしまった。経営者はいるし、財務管理はいるけれど、労働者を使用するということ自体がわかりにくくなってしまった。

わたくし流にいえば、ジョブ型には全然なっていなくて、基本構造はまったくメンバーシップ型のままで、その基盤となる「仲間感覚」が失われていくことの帰結ということでしょうか。

個別紛争事案を見ていても、まさに職場のトラブルがやたらに多く、職場の人間関係が一番大事であるという点は何ら変わっていないのに、その職場の人間関係を適切に保つ装置が次々に失われてしまい、いわばメンバー意識なきメンバーシップ型を演じさせられているという感じです。

これは、荒れた学校の教室社会に似たところがあって、いじめ現象が発生する絶好の培養土になっているように思われます。

知って役立つ労働法@厚生労働省

Mhlw 最近、若者向けの労働法のガイドブックがいろいろと出版されていますが、遂に厚生労働省自らが『知って役立つ労働法 働くときに必要な基礎知識』というハンドブックを公表しました。HPにPDFファイルで載っています。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000rnos.html

>厚生労働省では、このたび、就職を控えた学生や若者が働くときに知っておくべき労働法を学ぶ上で、役に立つハンドブックとして「知って役立つ労働法~働くときに必要な基礎知識~」を作成しました。

 本ハンドブックは、平成21年2月に「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会報告書」(座長 佐藤博樹東京大学社会科学研究所教授)の中で「労働関係法制度を知ることは、労働者・使用者双方にとって不可欠であり、わかりやすさを最優先にしたハンドブック等を作成・配布するといった取組を強化すべき」という指摘を受けたことを踏まえて作成したものです。

>「知って役立つ労働法」は、印刷版のほか、学生、学校関係者、労使団体、NPO等のみなさんが幅広く利用できるようホームページにPDF版を掲載し、ダウンロードして自由に使えるように提供します。また、学生職業センターにおける大学生の支援等、様々な場面で活用を図っていくとともに、全国の大学・短期大学にも送付します。

ということですので、上記労働法教育の研究会の立ち上げに若干関わったわたくしと致しましても、是非ご活用いただきたいと思います。

そのハンドブック自体は:

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000rnos-img/2r9852000000rnq9.pdf

です。

役所が作ったものとしては、若者目線でけっこうよくできていると思います。

>みなさんが仕事をするときは、仕事の内容や給料、勤務日などの労働条件をチェックして、自分に合った条件の会社で働こうとしますよね。しかし、条件の合う会社に就職できても、実際に働き始めたら、会社の人が最初に言っていたことと全く条件が違っていた、なんてことになってしまったら、困ってしまいます。そこで、労働法ではそんなことがないように、労働契約を結ぶときには、使用者が労働者に労働条件をきちんと明示することを義務として定めています。

さらに、特に重要な次の5項目については、口約束だけではなく、きちんと書面を交付しなければいけません(労働基準法第15条)・・・・・

といったような感じです。

こういう記述も、実際に悩んでいる人には役立つでしょう。

>解雇と間違いやすいものに退職勧奨があります。退職勧奨とは、使用者が労働者に対し「辞めてほしい」「辞めてくれないか」などと言って、退職を勧めることをいいます。これは、労働者の意思とは関係なく使用者が一方的に契約の解除を通告する解雇予告とは異なります。退職勧奨に応じるかは労働者の自由であり、その場ですぐ答える必要もありませんし、辞める意思がない場合は、応じないことを明確に伝えることが大切です。

退職勧奨の場合は応じてしまうと、解雇と違って合理的な理由がなくても有効となってしまいます。多数回、長期にわたる退職勧奨が、違法な権利侵害に当たるとされた裁判例もあるので、執拗に退職を勧められたりして対応に困った場合には、労働組合や全国の都道府県労働局に相談しましょう。

一犬虚ニ吠ユレバ万犬實ニ傳ウ

Hyoshi08 本ブログでもボランタリーに宣伝していた(笑)『POSSE』第8号「マジでベーシックインカム?」特集ですが、どなたのもそれぞれに興味深く、とりわけ日頃あんまりその方面にお近づきになっていないポストモダーンな東浩紀さんの「BIの使い道を全部公開されちゃう」という素晴らしいアイディアには、自由の究極が完全監視社会という絶妙のアイロニーを感じましたな。

(下に「追記」を書き加えましたので、必ずお読み下さい)

それはそれとして、飯田泰之氏のインタビューを見ていて仰天しました。池田信夫氏の既に暴露されたでたらめを、そのまま信じ込んで、得々と語っていたからです。

>-飯田さんのご提案では、経済成長とBI導入の代わりに、雇用に関する規制は基本的に撤廃ということですよね。ちなみに、これはどの国がモデルとされているのでしょうか。

モデルではなくて理論ですよ。強いていえば、一番極端な例はスウェーデンでしょう。スウェーデンは解雇に関して公的な規制が極めて少ない。税金は途方もなく高いですが、その代わり保証は充実。その一方で規制はゆるゆるです。完全な「employment at will」。会社が雇いたい人だけ雇いというシステムです。・・・・・

-スウェーデンも雇用保護法で解雇の規制はあると思いますし、・・・

僕は全然そうは思いません。法的な規制の強化に合理的な根拠を見いだせないですから。・・・

もちろん、スウェーデン人がこれを見たら激怒するでしょうが、なによりも、この飯田泰之氏という(リフレ派の星というふれこみの)経済学者が、社会科学という経験科学に携わっているという自覚がかけらもなく、自分が語っていることが事実であるかどうかを確認してみるという、経験科学者であれば最低限のモラルも忘れて、こともあろうにでたらめを振りまくことで有名な池田信夫氏の妄言を、一字一句そのまま盲信し、こういうでたらめを再生産しているという点に、日本の社会科学者の劣化ぶりが見てとれて、ただただ嘆息が漏れるばかりです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-6bab.html(池田信夫氏の熱烈ファンによる3法則の実証 スウェーデンの解雇法制編)

>池田信夫

「いいやアメリカのシステムじゃないんですよ。それは。例えばね、これは僕の言っているのに一番似ているのはスウェーデンなんですよ。スウェーデンてのは基本的に解雇自由なんです。ね、いつでも首切れるんです、正社員が。その代わりスウェーデンはやめた労働者に対しては再訓練のそのー、システムは非常に行き届いている訳ですよ。だからスウェーデンの労働者は全然、そのー失業を恐れない訳ですよ。」

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-26ec.html(これがスウェーデンの解雇規制法です)

>純然たる事実問題について、その主張の誤りを指摘されても、事実問題には一切口をつぐんだまま、誹謗と中傷を投げ散らかして唯我独尊に酔いしれるという御仁に何を言っても詮無いことですが、事実問題に何らかの関心をお持ちであろう読者の皆様のために、スウェーデンの解雇規制法のスウェーデン政府による英訳を引用しておきます。

http://www.regeringen.se/content/1/c6/07/65/36/9b9ee182.pdf(Employment Protection Act (1982:80))

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-ffc2.html(スウェーデンの労働法制は全部ここで読めます)

>さて、某一知半解無知蒙昧氏の「北欧は解雇自由」とかいう馬鹿げた虚言はともかく、解雇規制に限らず北欧の労働法制はどうなっているのか興味を持たれた方もいるかもしれません。

このうち、スウェーデンの労働法制については、スウェーデン政府のサイトに英訳がすべて掲載されています

まあ、しかし、こうやって何回もそのつどでたらめを叩き潰しても、そもそも社会科学を事実に立脚した経験科学だと心得ず、口先三寸でイデオロギーを振り回す奇術のたぐいと心得る劣悪な連中には、蛙の面に百万回ションベンひっかけたほどにも感じないのでしょう。

今回の飯田泰之氏のインタビューを読んで、「一犬虚ニ吠ユレバ万犬實ニ傳ウ」という故事成語を思い出した人は、おそらくわたくし一人ではないでしょうね。

(追記)

飯田泰之さんが、事実関係について「完全に誤解してました」と言われています。

http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20100916#p1

>これについてはお恥ずかしい限りで,僕の完全な無知のせい.スウェーデンは金銭解雇ルール(ちなみに僕はいろんなとこで解雇ルールの金銭化は主張しています)があること&整理解雇の定義が広いことから「Employment at will」と口が滑りました.完全に言いすぎです.該当部分は読み飛ばして下さい.今後は間違っても「解雇自由」というニュアンスが強調される話はしないようにします

飯田さんの率直な姿勢に心から敬意を表したいと思います。また、間違いを指摘されても相手の属性批判を繰り返す池田信夫氏になぞらえるような失礼な言い方をしたことについて、心からお詫び申し上げます。

また、後半の引用の仕方が誤解を招くようなものであったことも、引用のルールを踏み外しており、謝罪いたします。

本来ならば本エントリを書き換えるべきところですが、既に多くの方々が読みに来られ、ブックマークも付いていますので、上記文章はそのままとし、「追記」としてここに明記しておきます。

なお、飯田さんの

>ただし,解雇のルールが明確化で,決裂時の金銭解雇ルールが示されていることは人を雇う際の不確実性を減じてくれるのは確かでしょう.

>法律の字面ではなく「実際に解雇できるか」という面でスウェーデンのフルタイム労働者の解雇規制は日本の正社員への解雇規制よりもかなりゆるいとみなせるのではないでしょうか.

といわれる点については、わたくしもまさにそう考えており、その趣旨は本ブログ上でも書いております。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-26ec.html(コメント欄)

>解雇自由ということと、解雇されてもあんまり辛くない社会であるということは別だということでしょう。

スウェーデンは上述のようにいかなる意味でも解雇自由ではありませんが、「不当解雇だ!」といって争う機会費用と、さっさと会社を辞めて手厚い失業保険をもらいながら、たっぷりと時間をかけて職業訓練を受けて好条件で再就職していくことを比較考量して、後者を選ぶ人が多いということでしょう。それはそれで社会の選択肢が多いということで結構なことです。

それを、不当であろうが不道徳であろうが解雇は自由という概念である「解雇自由」と呼ぶことに問題があるのだと思います。

もう一つ、これはあまり指摘されない点ですが、スウェーデンにせよ、デンマークにせよ、これは私のいたベルギーも同じですが、いわゆるゲント方式の失業保険で、失業保険は労働組合が運営し、労働組合を通じて支給されるという仕組みです。失業しても労働組合のメンバーシップはそのままで、社会から排除されたという風にならないというのは、実は結構大きいのではないかと思います。労働組合員というメンバーシップは継続していて、たまたま就労している会社から「もう要らない」といわれたら、さっさと別の会社に「配転」するだけという感じなのかなあ、と。

これこそ、まさに一知半解氏が目の敵にしていた「ギルドとしての労働組合」そのものですが、そういうギルド的な仕組みこそが、解雇が辛くない社会のインフラになっているのではないかと思います。日本の労働組合は、いかなる意味でもそういうギルド的な性格を有していないがゆえに、日本社会における「解雇」というのはとても辛いものになってしまうという面があるのでしょう

デンマークの社会的連帯

送られてきた『全労済協会だより』44号に、公募委託調査研究の「デンマークの社会的連帯とワークライフバランス」の簡単な要約が載っています。研究者は、愛国学園大学人間文化学部助教の熊倉瑞恵さんです。

デンマークといえば、さすがに近頃は高い組合組織率に基づく強固なコーポラティズムがいわゆるフレクシキュリティの源であるという常識が(分かろうとしない愚か者を除き)徐々に普及してきましたが、熊倉さんの研究はそれをもう一歩進めて、幼児教育なども含めた社会全体のあり方に広げた議論を展開しています。

最後の一節から心に残った一文を引用しておきます。

>デンマークでは、自分が望む選択肢がなければ、それをいかにして獲得できるかを考え、交渉を行うこともある。これは対立ではなく対話が重視された民主主義が社会の中心におかれ、子どもの頃から養われている力である

交渉と対話の民主主義。

いや、ごくごく当たり前のことなのですが、そういう道筋を「談合」だの「既得権」だのという悪罵で塗り固めた挙げ句、あきらめと「ぶっ壊せ」の似非デモクラシーばかりがはびこるこの国からみると、うらやましくもあります。

2010年9月15日 (水)

勤務間インターバル規制とは何か

産労総合研究所の『人事実務』9月15日号に「勤務間インターバル規制とは何か」を書きました。

中身は、昨年と今年の春闘で情報労連傘下の組合が締結した勤務間インターバル協定の解説と、そのバックグラウンド思想としてのEUの労働時間規制の解説です。

この協定については、拙著『新しい労働社会』の43頁でも紹介しており、

>いのちと健康を守るための労働時間規制という方向に向けた小さな一歩として注目すべきでしょう

と述べておりました。協定の詳しい中身は雑誌をご覧ください。

本稿の最後の「今後の展望」というところで、公共政策への課題として次のように述べております。

>それとともに、公的な労働政策としても、そろそろ労働時間規制といいながら実際には賃金をめぐる綱引きにしかならないような割増率引き上げ政策ではなく、物理的な実労働時間ないし拘束時間/休息期間を正面から政策対象とする方向に転換するべき時機が到来しているのではなかろうか。拙著で述べたことであるが、近年の日本の労働時間をめぐる議論は、名ばかり管理職問題にせよ、サービス残業問題にせよ、ホワイトカラーエグゼンプションにせよ、本来労働者の健康確保、ワーク・ライフ・バランスの観点から論じられるべきことが、ことごとく残業代というゼニカネ話にされてしまい、企業の人事管理に無用な負担をかける時間外労働割増率の段階的逓増のような政策ばかりが実現する一方で、肝心の労働者の健康状況を改善させるための手だてはなんらとられようとしていない。

 情報労連が打ち出した勤務間インターバル規制の思想的インパクトは、そういう低次元に低迷している日本の労働時間政策論議に衝撃を与え、まっとうな労働時間政策への道を開く可能性もあるかも知れない。情報労連自身の意図を超えることかも知れないが、筆者としてはそのようなインパクトを期待して、その取り組みを注視していきたい

2010年9月14日 (火)

日本経団連のシンクタンクが「より温かな政府、より活力ある社会」を求める

日本経団連のシンクタンクである21世紀政策研究所が「税制抜本改革と実現後の経済・社会の姿」と題するかなり大部の報告書を公表しています。

http://www.21ppi.org/pdf/thesis/100909.pdf

何よりもまず、その第1章の標題をじっくりと味わってください。

>第1章 温かで活力のある社会―弱肉強食社会から切磋琢磨社会へ

弱者も社会に参加して「切磋琢磨」できる社会というある意味でアクティベーションと通じる考え方が示されています。

この期に及んでいよいよ弱肉強食を称揚する一部の人々は、日本経団連からもお呼びがかからないということですね。

その第1章の最後のところを若干引用しますと、

>9.「より温かな政府、より活力ある社会」に向けて

このように分析してくると、「税負担の増加によりもう少し政府の規模を上げ、社会保障を充実させ国民の将来不安を和らげるとともに、給付に見合った負担を求めることにより財政赤字の発散を防ぎ将来世代を含めた世代間の負担の公平を図ること」が中期的に、国民経済の成長・発展のための重要な政策課題であることが分かる。
他方で税負担を引き上げることに対しては、政府の規模を大きくすると、経済効率が悪化するという反論・主張があり、また、デフレに悩む我が国で税負担の増加を行うことは短期的な景気の悪化をもたらすという根強い反論がある。
これに対しては、たとえば、高等教育を含む教育支出の拡大、規制緩和と組み合わせた医療・介護分野への歳出拡大等我が国経済の潜在的成長率の引き上げにつながるような規制緩和策と組み合わせた成長戦略を策定し、総合的に政策を運営していくことが必要であろう。
今の経済情勢のもとでは、平成23 年度予算編成はますます破壊的なものになる。政府は早めに警鐘を鳴らし、税制の抜本的改革の議論を開始し、政策のかじ取りを、これまで述べてきたような政府の規模を切り替え、「温もりと活力のある社会」を目指すことが必要である。
もっとも、スウェーデンのような高福祉・高負担国家は、政府と国民との距離感、さらには、高負担を実現するための番号による管理国家の必要性等から考えて、我が国が目指すべきモデルではなく、欧州大陸諸国並みの中福祉・中負担国家を当面の目標とすべきであろう。

ちなみに、本報告書の「第4章 給付付き税額控除」(佐藤主光)では、「再分配改革をめぐる論点」としてベーシックインカムを含むさまざまな論点について論じられており、関心のある方は読まれる値打ちがあります。

>本節では、課税と移転を一体化した再分配の在り方について論点をまとめたい。新たな再分配としては、これまで議論してきた(就労者に対する)「給付付き税額控除」と(求職者を対象とした)「積極的労働市場政策」の組み合わせは、①「福祉から雇用」への転換を図った再分配といえる。他方、既存のセイフティーネット(現金給付)を大幅に簡素化し、全ての国民一人当たりに一律の現金給付を行うのが、次に紹介する②ベーシック・インカムである。
いずれも、「負の所得税」から派生し、現行の再分配の抜本的な見直しと柔軟な労働市場の確保を前提にするところでは共通しているが、就労への誘因付けの如何(「福祉から雇用」か「労働からの解放」か)において考え方が根本的に異なる。

労働組合による労働者供給事業について

雑誌『労働情報』799号が「労働組合による労働者供給事業の意義と倫理性」という特集を組んでいます。

http://www.rodojoho.org/

◎「労働組合」とは何か 新運転の東京地裁判決から考える
 ……石川 源嗣(全国一般東京東部労組副委員長)
◎企業内組合とは別物  労供事業を通じて雇用安定を図る
 ……太田 武二(新産別運転者労働組合東京地本書記長)
◎労働市場の統制をめざす労働者供給事業
 ……木下 武男(昭和女子大学特任教授)

論点は、今年3月の新運転事件東京地裁判決(東京地判平22.3.24判タ1325号125頁)ですが、労働組合のあるべき姿から新運転幹部を批判する石川氏と、企業別組合とはまったく異なる外部労働市場のアクターとしての労供労組を指摘する太田氏のやりとりが興味深いところです。

実は、この件については、来月発行される雑誌の文章で取り上げており、あんまり詳しくここで議論できないのですが、もっぱら使用者との関係で保護を与えられている労組法の労働組合の議論を、本質的には労働者派遣事業と変わらないことを非営利の協同組合原則で行っている労供労組に不用意に持ち込むことの危険性が露呈しているようにも思われます。

やや違った角度からですが、同じように労組労供事業に不当労働行為概念を持ち込んだ事案として近畿生コン事件があります。これについても、そのうち出る文章で取り上げていますが、そろそろ労供労組という事業体を正面から捉えた法理論をきちんと構築していくべき時期にさしかかっているように思われます。

2010年9月13日 (月)

OECD職業教育訓練統合報告書

45926662cover2015020english OECDから『職業教育訓練統合報告書』(OECD Reviews of Vocational Education and Training - Learning for Jobs)が公表されました。

>For OECD member countries, high-level workplace skills are considered a key means of supporting economic growth. Systems of vocational education and training (VET) are now under intensive scrutiny to determine if they can deliver the skills required. Learning for Jobs is an OECD study of vocational education and training designed to help countries make their VET systems more responsive to labour market needs. It expands the evidence base, identifies a set of policy options and develops tools to appraise VET policy initiatives.

職場の技能は経済成長を支える枢要の手段。それゆえ各国の職業教育訓練システムを徹底的に検討するぞ、と。

ところがこのOECDの比較研究に肝心の日本は参加していません。

>OECD is conducting country VET policy reviews in Australia, Austria, Belgium (Flanders), the Czech Republic, Germany, Hungary, Ireland, Korea, Mexico, Norway, Sweden, Switzerland, the United Kingdom (England and Wales) and the United States (South Carolina and Texas). A first report on Chile and a short report on the People’s Republic of China have also been prepared.

オーストラリア、オーストリア、ベルギー、チェコ、ドイツ、ハンガリー、アイルランド、韓国、メキシコ、ノルウェー、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカ、さらにOECDじゃないのにチリと中国まで参加しているというのに、我が大日本は参加しておりません。

日本政府にとって、職業教育訓練というものがどの程度のものとして位置づけられているかということを、これほどくっきりと露わにしてくれるものはありません。

OECDの中ではこれは教育局の担当ですから、つまり我が大日本の文部科学省にとっては職業教育訓練など、OECDにつきあう必要もない低級なものということなのでしょうか。

いや、もちろんそれは、

http://d.hatena.ne.jp/t1mannen/20100913職業訓練に高飛車な三態

に顕れているような、我が国民の意識水準を忠実に反映しているに過ぎないのでありましょうが。

OECDによる簡単な英文要約がありますので、これぐらいざっと目を通していただければと思います。

http://www.oecd.org/dataoecd/45/9/45926906.pdf

ちょっとお時間のある方は、こちらの「キーメッセージ」というヤツをどうぞ。

http://www.oecd.org/dataoecd/45/24/45927200.pdf

『ジュリスト』10月1日号の予告

有斐閣の実用法律雑誌『ジュリスト』の10月1日号が、「個別労働紛争の実際と法的処理の今後」という特集をします。次号予告が有斐閣のHPにアップされたので、こちらでも宣伝。

http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/next

特集・個別労働紛争の実際と法的処理の今後
●総論…山川隆一
〔座談会〕
個別労働紛争処理の実務と課題…岩村正彦/木下潮音/徳住堅治/野田 進/渡辺 章/渡辺 弘
●労働審判制度の現状と課題…春名 茂
●労働局個別紛争処理事案の内容分析…濱口桂一郎
●労働委員会による個別労働関係紛争の解決について…荒木祥一
●個別労働紛争の現状と課題――日弁連・労働法制委員会から…鵜飼良昭
●個別労働紛争の現状と課題――日本労働組合総連合会から…新谷信幸
●個別労働紛争の現状と課題――日本経済団体連合会から…田中秀明
●個別労働紛争の現状と課題――兵庫労使相談センターから…永友節雄

もちろん、自分の論文以外は見ていないので、発行されたら改めてその時に中身についてもコメントします。

2010年9月12日 (日)

『自由への問い6 労働』の書評

わたくしも1章を担当した『自由への問い6 労働-働くことの自由と制度』(岩波書店)の書評が、労調協の『労働調査』7月号に載っています。評者は湯浅諭さんです。

http://www.rochokyo.gr.jp/articles/br1007.pdf

そのうち、わたくしの章に関する評は次の通りです。

>濱口桂一郎は日本型雇用システムを「『正社員』体制」と呼び、その本質を「職務のない雇用契約」に求める。職務を特定した雇用契約ではなく、「正社員」というメンバーシップを設定する契約である。そこから、終身雇用、年功賃金、企業別組合という日本型雇用システムの特徴が帰結する。このメンバーシップから漏れた人々こそ非正規労働者に他ならない。戦後、右肩上がりの経済の下、日本型雇用システムはメンバーシップの「傘」を広げることで平等化をはかってきたが、成長の限界に行き当たった時、傘は縮小に転じ、そこから排除された多くの人たちが、従来は家計補助労働と位置づけられ処遇されていた地位に置かれることになった。

近代に共通の働くことの二極化とそれによる序列化に加え、メンバーシップによる格差という日本社会に固有の問題が重なり合う。したがって、目指されるべき解決も単純ではない。濱口が提示するように、労働政策のみならず、社会保障政策を含めたより広い範囲での再構築が必要となるだろう。

その再構築の道を詳しく検討したのが、拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』であったわけですが、こちらでは具体的な再構築の道筋を考えるよりも、より深く本質的ないし歴史的な視座からものごとのパースペクティブを定位しようとしたつもりです。

>労働と自由は、人間の存在そのものにかかわる深い哲学的主題であると同時に、社会制度の(再)構築にとっての焦点でもあり、毎日の暮らし方にも関わってくる。テーマの広さと深さからともすれば議論は拡散しがちだが、本書では現実へのアクチュアルな関心が、現状から未来を展望する思考を導く役割を果たしている

ありがとうございます。

『季刊労働法』秋号-パワハラ特集その他

Tm_i0eysjizmjvcmq 『季刊労働法』秋号の広告が、労働開発研究会のHPにアップされています。まだわたくしの手元にも届いておりませんが、目次を見ていくと、面白そうな記事がいろいろとあります。

http://www.roudou-kk.co.jp/quarterly/archives/004550.html

まず特集は「パワハラの現実的解決に向けて」というもので、

特集の趣旨について
労働ジャーナリスト 金子雅臣

鼎談・パワハラと職場のいま
労働ジャーナリスト 金子雅臣 弁護士 中野麻美 
連合総研 龍井葉二

パワハラ裁判の動向と問題点
 ―裁判例から考えるパワハラ対策
弁護士 加城千波

パワー・ハラスメント自治労10万人調査の実施にあたって
自治労総合労働局法対労安局長 西田一美

相談活動から見えてくる最近の“いじめ”の状況
元・東京管理職ユニオン 千葉 茂

職場におけるパワー・ハラスメントとメンタルケア
東京メンタルヘルス・所長 武藤清栄

これはまず、金子さんと中野さんと龍井さんの鼎談が関心をそそります。

パワハラは、私たちJILPTのチームが取り組んでいる個別紛争事案の分析でも3割を占める重要な問題ですし、鼎談の題名に付いている「職場のいま」が一体全体どうなっているのであろうか、という問題意識が呼び起こされます。

第2特集は公務員労使関係です。

公務労使関係システムの構築に関する議論の現在と問題点
 ―「労使関係制度検討委員会報告書―自律的労使関係制度の措置に向けて」によせて
中央大学教授 毛塚勝利

対談・公務員制度改革と公務関係の法的性格
 ―労働法学と行政法学の対話―
早稲田大学教授 島田陽一
新潟大学教授 下井康史

ドイツに学ぶべきこと
 ―公務における自律的労働条件決定制度の検討―
公務公共サービス労働組合協議会事務局次長 大塚 実

「アメリカにおける公務労使関係」再訪
 ―日本の制度改革にあたっての一視座―
自治労企画部長 高柳英喜

これはやはり、島田・下井対談が読みたいですね。実は、労使関係法制にとどまらず、そもそも公務員というのは労働法においてどういう風に位置づけられるモノなのか、という大きな論点が、近年すっぽり抜け落ちているように思われるのです。

その一つの典型的な現れが、例の奈良県立病院事件に露呈した、「公務員なんだから労働基準法の適用なんかあるわけねえジャンか」的な感覚であると思うわけですが、そのあたりについて、近々発行される某誌にややポレミカルな論文を書いたりしていますので、この対談の中身にも興味が惹かれます。

その他ですが、

■連載■
労働法の立法学(連載第23回)――同一(価値)労働同一賃金の法政策
労働政策研究・研修機構統括研究員 濱口桂一郎


アジアの労働法と労働問題(8)
ILOのカンボジア工場改善プロジェクト(Better Factories Cambodia)
 ―労働基準監督の技術協力―
大阪女学院大学教授 香川孝三

■判例研究■
複数組合併存下における労組間対立状態での転勤命令の不当労働行為性
 国・中労委(JR北海道・転勤)事件・東京高判平成21年9月24日労働判例989号94頁
東洋大学大学院法学研究科博士後期課程 日野勝吾

■北海道大学労働判例研究会■
高年法9条の雇用確保措置と協定締結資格のない組合に対する団交応諾義務
 ―国・中労委(ブックローン)事件(東京地判平成22年2月10日労判1002号20頁)
北海道大学助教 所 浩代

■筑波大学労働判例研究会■
日本インシュアランスサービス事件
 東京地判平21.2.16労判983号51頁
弁護士 楠本敏之

■神戸労働法研究会■
雇止め法理の根拠と効果
 ―東芝柳町工場事件判決再考―
神戸大学准教授 櫻庭涼子

■同志社大学労働法研究会■
労働者の内部通報をめぐる法的諸問題
 ―骨髄移植推進財団事件(東京地判平21・6・12労判991号64頁)を素材として
駿河台大学専任講師 石田信平

わたくしの連載は「同一(価値)労働同一賃金」についてです。戦後すぐの頃からの議論や政策の流れを追っています。

ずらっと見て、これは是非読みたいなと思うのは、櫻庭さんの判例評釈ですね。かの有名な東芝柳町(やなぎちょう)事件をあらためて考察しておられるようです。

2010年9月11日 (土)

だから赤木智弘氏は正しいといっている、ただし・・・

黒川滋さんが赤木智弘氏のつぶやきにコメントされています。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/09/911-ff5d.html(赤木さんが高額バイトをさがしているのは正当)

>まったく正当な行為。しかしあれこれ揶揄されているのだろう。
どうして労働力だけが経営が示す一方的な労働条件にしたがって取引されなければならないのか、という問題提起は正しい。取引の当事者として、自らの意思決定をしようとすることは何ら恥じることはない。

わたくしも全面的に同意。

黒川さんはそこから

>さらに進んで、これを集団的にやれば労働組合で法律的な保護が受けられる。労働力の供給側の協業組合という面もある。そう考えると、団結権、団体交渉権、争議権ということがもっとすっきりイメージできるのではないか。

と、集団的労使関係に話を進めていき、それもまったく同感なのですが、その前にひと言。

赤木氏の雇用機会を求め、よい労働条件を求める言葉がまったく正当であることはいうまでもありません。

そのことを、わたくしは赤木氏の本が出版されたときに、はっきりと述べました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

>赤木さんはあとがきで、こう言います。

>>ええ、わかっていますよ。自分が無茶なことを言っているのは。

>>「カネくれ!」「仕事くれ!」ばっかりでいったい何なのかと。

それは全然無茶ではないのです。

そこがプチブル的リベサヨ「左派」のなごりなんでしょうね。「他人」のことを論じるのは無茶じゃないけど、自分の窮状を語るのは無茶だと無意識のうちに思っている。

逆なのです。

「カネくれ!」「仕事くれ!」こそが、もっともまっとうなソーシャルの原点なのです。

それをもっと正々堂々と主張すべきなのですよ

問題はその次です。

>無茶なのは、いやもっとはっきり言えば、卑しいのは、自分がもっといい目を見たいというなんら恥じることのない欲望を妙に恥じて、その埋め合わせに、安定労働者層を引きずりおろして自分と同じ様な不幸を味わわせたいなどと口走るところなのです。そういうことを言えば言うほど、「カネくれ!」「仕事くれ!」という正しい主張が伝わらなくなるのです。

赤木氏はこの3年前のご忠告をちゃんと認識しておられるでしょうか。わたくしが懸念するのはその点です。

人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?

typeAさんとの一連のやりとりについて、ご本人がご自分のブログで感想を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100911/1284167085(負け犬の遠吠え-無政府資本主義者の反省-。 )

いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。

おそらく、そこに引用されている「平凡助教授」氏のこの言葉が、アナルコキャピタリズムにまで至るリバタリアンな感覚をよく描写していると思うのですが、

>無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.

政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、あたかもそういう「モノ」を人間の意思で廃止したりすることができるかのように思う点にあるのでしょう。

人間という生き物にとって「交換」という行為をなくすことができるかどうかを考えれば、そんなことはあり得ないと分かるはずですが、こんなにけしからぬ「市場」を廃止するといえば、できそうな気がする、というのが共産主義の誤りだったわけであって、いや「市場」を廃止したら、ちゃんとしたまともな透明な市場は失われてしまいますが、その代わりにぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「市場まがい」で様々な交換が行われることになるだけです。アメリカのたばこが一般的価値形態になったりとかね。

「問題の多い市場の領域をなくして政府の領域だけにする」という理想は、人間性に根ざした「交換」という契機によって失敗が運命づけられていたと言えるでしょう。

善意で敷き詰められているのは共産主義への道だけではなく、アナルコキャピタリズムへの道もまったく同じですよ、というのが前のエントリのタイトルの趣旨であったのですが、はたしてちゃんと伝わっていたでしょうか。

こんなにけしからぬ「政府」を廃止するといえば、できそうな気がするのですが、どっこい、「政府」という「モノ」は廃止できても、人間性に深く根ざした「脅迫」という行為は廃止できやしません(できるというなら、ぜひそういう実例を示していただきたいものです)。そして、「脅迫」する人間が集まって生きていながら「政府」がないということは、ぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「政府まがい」が様々な脅迫を行うということになるわけです。それを「やくざ」と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎません。

「政府の領域をなくして市場の領域だけにする」という「モノ」に着目した言い方をしている限り、できそうに感じられることも、「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という言い方をすれば、学級内部の政治力学に日々敏感に対応しながら暮らしている多くの小学生たちですら、その幼児的理想主義を嗤うでしょう。

ここで論じられたことの本質は、結局そういうことなのです。

(注)

本エントリでは議論を簡略化するため、あえて「協同」の契機は外して論じております。人類史的には「協同「「脅迫」「交換」の3つの契機の組み合わせで論じられなければなりません。ただ、共産主義とアナルコキャピタリズムという2種類の一次元的人間観に基づいた論法を批判するためだけであれば、それらを噛み合わせるために必要な2つの契機だけで十分ですのでそうしたまでです。

ちなみに「協同」の契機だけでマクロ社会が動かせるというたぐいの、第3種の幼児的理想主義についてもまったく同様の批判が可能ですが、それについてもここでは触れません。

2010年9月10日 (金)

湯浅誠氏のとまどい

Alter_new_2010_910 アジア太平洋資料センターの雑誌『オルタ』の9/10月号は、特集は「韓国併合100年」ですが、これではなく、湯浅誠氏の「反貧困日記」という新連載についてひと言だけ。

興味深いのは、湯浅氏が北欧は福祉国家だから人を働かせようなんてする国じゃないというイメージを持っていて、それが行ってみたらそうじゃなかったと、いささかとまどっているらしいところです。

>イギリスでもデンマークでも、訪問する先々で、私は「とにかく仕事」というメッセージを受け取り続けた。イギリスではすべての中高生の在籍データを行政機関が共有し、学校に来なくなった子どもなどの情報を地域の若者担当部局に提供、ソーシャルワーカーの家庭訪問やユースワーカーの本人対応に結びつけていた。失業者は、日本のハローワークに当たるジョブセンタープラスでの定期的面接を義務づけられており、若年者は一般失業者に比べてより厳しいプログラムへの参加を求められていた。・・・

>もっともこの点は、デンマークにおいてもあまり変わらず、それは私を混乱させた。北欧型の高福祉国家は、もっと違ったモデルでやっているはずではなかったのか?

もし、働けるのに働かなくても福祉でぬくぬく、という福祉国家のイメージを追い求めていたのだとすれば、それはやはり見当はずれだったといわざるを得ないのでしょう。

>ジョブセンターでは若年失業者と、なるべく早期にコンタクトをとり、企業実習を軸とした半年間の就労支援コースに乗せることに努力していた。教育課程でも、学校と連繋してドロップアウトした子どもの情報を把握するシステムが機能している点はイギリスと同じだった。その子どもたちのためには、「生産学校」と呼ばれるリハビリ施設、「職業訓練センター」「職業訓練校」など、多様な受け皿が用意されている。逆から言えば、「逃がさない」ということでもある。

もともと企業以外に受け皿がほとんどなかった上に、その数少ない受け皿だった職業訓練校を片っ端から破壊することを使命と心得るような政治家やエセ学者が跋扈するのが日本ですからね。

日本はもともと過度に企業中心的な形でワークフェア的だったために、そこからこぼれ落ちた人々をとにかく生活保護で救うという湯浅さんたちの活動は社会的メッセージとして重要な意味があったわけですが、だからといって「とにかく仕事」という方向性自体が間違っていたわけではないし、それこそ、宮本太郎先生の本を一読すれば、北欧諸国がもともときわめて普遍主義的な形でワークフェア的であったことが窺われます。

>私にとって正しい問いの立て方は、なぜ「福祉から就労へ」と「社会的排除から社会的包摂へ」という二つのスローガンが両立するのか、というものであるべきと思われた。

それこそまさに、1990年代以来のEU社会政策とは、北欧型モデルに沿って、労働市場からの排除を最大の問題ととらえ、労働市場への包摂を最大の解決策ととらえる考え方なのですから、両立しないとしたらその方が遥かにおかしいわけです。

そして、何より重要なのは、次の一節。

>しかし他方で、デンマークにおける日本経団連に当たるDIの担当者が「私たちには、高福祉国家を手放さないという国民的合意がある」と真顔で語ったりもする。

「真顔で語る」という言い方自体に、湯浅氏の「経営者が福祉国家を守るなんて・・・」というとまどいが感じられますが、それこそ、普遍的な就労支援こそが最大の福祉という哲学の現れとして「真顔」で受け取るべき言葉でしょう。

この辺の言葉が、右にも左にもいっこうに通じないのが、現代日本の最大の閉塞の原因であるわけですが。

デンマークといえばパワハラ社長が好き放題にクビ切り自由のパラダイスとしか心得ない一部の経済評論家はともかく、湯浅氏にはしっかりとした認識をもって活躍していただきたいと思います。

(追記)

ちなみに、湯浅氏がワークフェアに対してよい印象を持っていないことには、それなりの理由があります。

>しばらく前から、日本でも「福祉から就労へ(Welfare to Work)」または「ワークフェア(Workfare)」という言葉が語られるようになった。福祉サービスに就労支援を絡めるという意味だが、バランスを間違えると、実際には働けない人たちを無理矢理福祉サービスから放逐することにもなりかねない。特に日本のように生活保護のマイナスのレッテルの強い国では、生活保護を受けているシングルマザーを労働市場に放り出すといったニュアンスを伴う危険性が高く、私はこの言葉に余りよい印象は持っていなかった。

日本でワークフェア的政策が最初に導入された時の経緯を踏まえると、湯浅氏の警戒感にもまったく根拠がないわけではないのです。

この点について、今から3年近く前の2008年12月11日に、OECDの各国のアクティベーション政策のレビューチームが来日した際に、わたくしから詳しく説明したところです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/oecd-dd50.html(OECDアクティベーション政策レビュー)

とりわけ、その時に強調したのは、日本のワークフェア政策の先頭を切ったシングルマザーに対する政策の倒錯についてでした。

>このような文脈の相違を無視して、欧米のアクティベーション政策をそのまま日本に持ち込んだ実例が、シングルマザーに関する政策である。

日本では、2000年頃から欧州における社会的包摂の議論が紹介され、政府においても検討が始まった。しかし、その第一歩として取り上げられたのは、公的扶助受給者に対するものではなく、シングルマザーに対するアクティベーションとそれに伴う児童扶養手当の削減という政策であった。

日本では、諸外国に比較して、シングルマザーの就業率が極めて高く、一貫して80%を超えている。しかしながら、家庭責任を抱えた彼女らは長時間労働を要求される正規労働者として就労することは困難であり、その多くは低賃金の非正規労働者として就労している。このため、日本のシングルマザーの貧困率は極めて高く、しかも非就労のシングルマザーよりも就労しているシングルマザーの方が貧困であるという逆転現象が起こっている

このような中で、(あえて公的扶助に頼らない)低賃金のシングルマザーの所得補填機能を果たしてきたのが月額5万円弱の児童扶養手当制度(子供が18歳まで支給)であり、欧米の文脈で云えば、むしろアクティベーションに伴う就労インセンティブとして導入される在職給付的な意味を持つものであったといえる。

ところが、2002年の法改正は、欧米のアクティベーション政策をこの児童扶養手当制度に適用し、所得保障という消極的政策から就労による自立をめざす積極的政策への転換を図った。就労を拒否した場合の支給停止が規定されるとともに、児童扶養手当の受給期間が5年を超えると減額されることとなり、一方、シングルマザーに対する様々な就業支援策が講じられた。しかし、上述のように既に日本のシングルマザーの大部分は就労しており、しかもその生活状況から低賃金の非正規就労に陥っているのであって、このようなアクティベーション政策は的が外れていたと云うべきである。

こういう経緯などもあり、湯浅氏が日本で行われるワークフェアに懐疑的になることにはまったく理由がないわけではないのですが、さはさりながらそれゆえにアクティベーション政策一般に対して懐疑的になってしまうと、本来一時的な避難所に過ぎない生活保護が恒久的な生活保障になってしまい、それゆえに行政側はできるだけ入口で入れないように、入れないようにと、あの手この手を駆使するという悪循環に陥ってしまうわけで、こういう意図したあるいは意図せざる誤解のゴルディアスの結び目を解きほぐして、まっとうな議論を展開していくことこそ、内閣府参与として政策形成に責任を有する湯浅氏に期待されるところであろうと思います。

ついでながら、上記OECDのアクティベーション政策レビュー報告書は、既にノルウェー、フィンランド、アイルランド編が公表され、日本編も今秋には公表される予定です。その日本編はわたくしの翻訳により出版される予定ですので、関心のある皆様方はしばらくお待ち下さいますよう。

有期労働契約研究会報告書

本日、厚生労働省から「有期労働契約研究会報告書」が公表されました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000q2tz.html

まず楽屋ネタから。発表もとは「労働基準局労働条件政策課」です。こないだ設置されたばかりのところですが、職業安定局には長らく雇用政策課があって、労働基準局には政策と名のつく課がなかったのですが、ようやくできた、と。

その「政策」の第1号ですが、ポイントという資料から、結論部分だけを引っ張りますと、

まず総論として、

雇用の安定、公正な待遇等を確保するため、契約の締結時から終了に至るまでを視野に入れて、有期労働契約の不合理・不適正な利用を防止するとの視点を持ちつつ、有期労働契約法制の整備を含め、ルールや雇用・労働条件管理の在り方を検討し、方向性を示すことが課題。

各論の第1は「締結事由の規制、更新回数や利用可能期間に係るルール、雇止め法理(解雇権濫用法理の類推適用の法理)の明確化」ですが、

①締結事由の規制
有期労働契約の締結の時点で利用可能な事由を限定することを検討。

いわゆる入口規制です。

②更新回数や利用可能期間に係るルール
一定年限等の「区切り」を超える場合の無期労働契約との公平、紛争防止、雇用の安定や職業能力形成の促進等の観点から、更新回数や利用可能期間の上限の設定を検討(有期労働契約の利用を基本的に認めた上で、濫用を排除。稀少となる労働力の有効活用)。

いわゆる出口規制です。

③雇止め法理(解雇権濫用法理の類推適用の法理)の明確化
定着した判例法理の法律によるルール化を検討。

いわゆるリステートメントですが、この類推適用法理というのはそもそも例外の例外みたいなもので、一般的法原理としてリステートできるような代物ではないように思うのですがね。

各論の第2は「均衡待遇及び正社員への転換等」ですが、

1.正社員との間の均衡のとれた公正な待遇

2.雇用の安定及び職業能力形成の促進のための正社員への転換等

前者には実は大変疑問があります。パート法の「通常の労働者」に当たるような人はそもそも有期ではあり得ないので、「その他」しかいないはず。

後者については

>一挙に正社員に転換することはハードルが高いこと等から、正社員転換のほかに、無期化を図りつつ、勤務地限定、職種限定などの多様な雇用モデルを労使が選択し得るようにすることも視野に(勤務場所の閉鎖等の際の雇用保障の在り方については、実例等の集積の状況も注視しつつ、検討)

と、ある意味で「ジョブ型正社員」に近い発想を提示していますが、一番気になるところは「検討」となっています。

各論の3はその他で、現行大臣告示の格上げなどです。

さて、どの程度の記事になりますか。新聞記者(というよりデスク)の問題意識が観察できるいい機会です。

『<働く>ときの完全装備-15歳から学ぶ労働者の権利』

51duztpi7dl__sl500_aa300_ 橋口昌治・肥下彰男・伊田広行さんによる高校向け労働法教材『<働く>ときの完全装備-15歳から学ぶ労働者の権利』(解放出版社)をお送りいただきました。本ブログでも橋口さんと伊田さんについてはいろいろやりとりがあり、その際に本書の出版についても語られていましたので、ご記憶の方も多いでしょう。

宣伝文句は:

>店長に「来なくていい」と言われたら、どうすればいいの?
 労働基準監督署に行くときに注意した方がいいことって何?
 失業や妊娠で働けなくなったときに生活を支える方法は?

 働いている人も実はほとんど知らない実践的な基礎知識を、
 工夫された教材でわかりやすく学べます。

 例えば、社長さんの間違った発言に対し、
 正しい労働法カードを選んで反論できるでしょうか?
 また掲載された12編のロールプレイ教材では、
 店長への反論や団体交渉、労基署の申告などを体験します。

 教師用解説も充実しているので、
 労働法のことがわからない先生や保護者の方でも安心です。

 働く人の視点に立った「使える」教材なので、
 ぜひ手にとってみて下さい。

実際、どんな雰囲気かというと、たとえば教材6の不当解雇編、

ワークシート1では、新店長と高橋君の会話がずっとあって、

>・・・新店長「何やその言い方は。雇ってもらえるだけありがたいと思え。料理も接客もできんくせに。ムカつくし、明日から来んでええわ!」

高橋「クビですか」

新店長「そうや!クビや!」

という、まことにありふれた(実際、個別紛争事案を見ているとありふれています)会話があり、

次ページのワークシート2で、かっこ内穴埋め方式で「労働法を学ぼう」というお勉強、

1枚めくってワークシート3で再び会話、

>・・・高橋「解雇ということですか?私は辞めるつもりはありませんが、もし解雇ということなら、その理由を紙に書いてください」

新店長「何で紙に書かなあかんねん」

高橋「法律で決まっているんです。労働基準法第22条に書いてあります」

新店長「法律?何をじゃまくさいこと言うとんねん。・・・・・・もうええわ」

で、次のぺーじのワークシート4で知識の確認、と、まさに学校の先生が普通の子供らに噛んで含めるように教えるような教材になっていますね。

ちなみに、なぜかいつも使用者側は生粋の関西弁です。ただし吉本新喜劇の台本ではありません。

目次は次の通り。

はじめに
1 若者のおかれている状況──労働と自由と生存に着目して
2 労働法と生活保護法の基礎知識
コラム1・高校生が団体交渉!?

■導入編
教材1 仕事オークション
教材2 労働法カードを使って
   ──こんな社長にはこのカードを出そう!
教材3 労働法○×クイズ

■ロールプレイ編
教材4 未払い賃金を取り戻そう
   ──ラーメン屋でアルバイトする田中さんの場合
教材5 有給休暇をとろう
   ──週2日アルバイトする鈴木さんの場合
教材6 不当解雇を撤回させよう
   ──ラーメン屋で正社員として働く高橋さんの場合
事例・ある女性労働者の闘い

教材7 雇い止めを撤回させよう
   ──食品工場で期間工として働く渡辺さんの場合
教材8 派遣は何でも屋じゃない!
   ──派遣労働者の高月さんの場合
教材9 パートだからって安すぎる!
   ──食品工場でパートする田上さんの場合
教材10 セクハラを許さない職場に
   ──事務職の中島さんの場合
コラム2・セクハラとの闘い──岡山の事例から

教材11 労働基準監督署に行ってみよう
   ──解雇予告手当の未払いを申告する場合
教材12 団体交渉をやってみよう
   ──ユニオンに入って会社と交渉する場合
コラム3・労働法を知ってひどい職場を変えていこう

教材13 労災保険を利用しよう
   ──仕事でケガしたり病気になったりした場合
教材14 雇用保険をちゃんと使おう
   ──自分を守る辞め方と失業中の生き延び方
教材15 生活保護のことを知っておこう
   ──働けないときでも生きていくために
コラム4・過酷な労働実態

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おわりに
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2010年9月 9日 (木)

アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?

TypeAさんが、「民間警察は暴力団にあらず 」というタイトルで、わたくしの小論について論じておられます。

http://c4lj.com/archives/773366.html

いろいろとご説明されたあとで、

>しかし、これでも濱口氏は納得しないに違いない。何故なら、蔵氏やanacap氏の説明は、無政府資本主義社会が既に成立し、安定的に運用されていることが前提であるからだ。

と述べ、

>だが、「安定期に入った無政府資本主義社会が安定的である」というのは、殆どトートロジーである。

>現在の警察を即廃止したとしても、忽ちに「安定期に入った無政府資本主義社会」が出現するわけではないからである。これまでの無政府資本主義者は、(他の政治思想も大抵そうであるが)その主張を受け入れてもらうために、己の描く世界の安定性のみを強調し、「ここ」から「そこ」への道のり、現行の制度からその安定した社会に至るためのプロセスを充分に説明していない。「国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようにな」るというのは、成程確かにその通りであると認めざるを得ないだろう。

と認められます。

ところが、そのあと、こういう風にその理想社会に到達するという図式を描かれるのです。

>これまでの多くの政府機関の民営化がそうであったように、恐らく警察においても最初は特殊法人という形を採ることになるだろう。法制度の改定により、民間の警備会社にもそれなりの権限は許可されるが、重大な治安維持活動は特殊法人・警察会社に委ねられる。それでも、今よりは民間警備会社に出来る範囲は広くなる。

>特殊法人・警察会社は徐々に独占している権限を手放す。民間警備会社が新たに手に入れた権限を巧く使うことが出来ることを証明できたならば、それは更なる民営化を遂行してよいという証拠になる。最終的に、元々公的機関であった警察は、完全に民営化される。(勿論テストに失敗した場合はこの限りではない。)恐らく数年~十数年は、元々公的機関であった"元"警察を信頼して契約を結ぶだろう。ノウハウの蓄積は圧倒的に"元"警察株式会社にあるだろうからだ。しかし、市場が機能する限り、"元"警察株式会社がその優位な地位に胡坐をかく状態が続けば、契約者は他の民間警備会社に切り替えることを検討することになるだろう。

こういうのを読むと、いったいアナルコキャピタルな方々は、国家の暴力というものを、せいぜい(警備業法が規定する程度の)警備業務にとどまるとでも思っておられるのだろうか、と不思議になります。

社会は交換原理だけではなく脅迫原理でもできているのだという事実を、理解しているのだろうか、と不思議になります。

先のエントリでも述べたように、国家権力の国家権力たるゆえんは、法に基づいて一般市民には許されない刑事法上に規定する犯罪行為(住居侵入から始まって、逮捕監禁、暴行傷害、場合によっては殺人すらも)を正当な業務行為として行うことができるということなのであって、それらに該当しない(従って現在でも営業行為として行える)警備行為などではありません。「民間の警備会社」なんて今でも山のようにあります。問うべきは「民間の警会社」でしょう。

大事なのは、その民間警察会社は、刑法上の犯罪行為をどこまでどの程度正当な業務行為として行うことができることにするのか、そして、それが正当であるかどうかは誰がどのように判断するのか、それが正当でないということになったときに誰がどのように当該もはや正当業務行為ではなくなった犯罪行為を摘発し、逮捕し、刑罰を加えるのか、といったことです。アナルコキャピタリズムの理念からすれば、そういう「メタ警察」はない、としなければなりませんが、それがまさに各暴力団が自分たち(ないしその金の出所)のみを正当性の源泉として、お互いに刑事法上の犯罪行為を振るい合う世界ということになるのではないのでしょうか。

その社会において、「刑事法」というものが現在の社会におけるような形で存在しているかどうかはよく分かりません。刑事法とはまさに国家権力の存在を何よりも前提とするものですから、ある意味では民間警察会社の数だけ刑事法があるということになるのかも知れませんし、一般刑事法はそれを直接施行する暴力部隊を有さない、ちょうど現代における国際法のようなものとして存在するのかも知れません。これはまさに中世封建社会における法の存在態様に近いものでしょう。

この、およそ「警察の民営化」とか唱えるのであれば真っ先に論ずべき点がすっぽり抜け押してしまっているので、正直言って、なにをどう論じたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

ちなみに、最後でわたくしに問われている蔵研也氏の第2のアイディアというのは、必ずしもその趣旨がよく理解できないのですが、

>むしろ公的な警察機構に期待するなら、警察を分割して「児童虐待警察」をつくるというのも、面白い。これなら、捜索令状もでるし、憲法の適正手続条項も満たしている。

というところだけ見ると、要するに、一般の警察とは別に麻薬取締官という別立ての正当な国家暴力機構をつくるのと同じように、児童虐待専門の警察をつくるというだけのはなしにも思えるので、それは政府全体のコスト管理上の問題でしょうとしかお答えのしようがないのですが、どうもその次を読むと必ずしもそういう常識的な話でもなさそうなので、

>さて、それぞれの警察部隊の資金は有権者の投票によって決まる。

はあ?これはその蔵氏のいう第2のアイディアなんですか。全然第2でも何でもなく、第1の民営化論そのものではないですか。

アイディア2というのが警察民営化論なのか、国家機構内部での警察機能分割論なのか、判断しかねるので、「濱口氏は如何お考えであるのか、ご意見を伺いたく思う。」と問われても、まずはどっちなのかお伺いした上でなければ。

(追記)

法システムの全体構造を考えれば、国家の暴力装置を警察だけで考えていてはいけません。警察というのはいわば下部装置であって、国家の暴力の本質は司法機関にあります。人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定するのは裁判所なのですから。

したがって、アナルコキャピタルな善意に満ちた人々は、何よりもまず裁判所という法執行機関を民間営利企業として運営することについての具体的なイメージを提示していただかなければなりません。

例えばあなたが奥さんを殺されたとしましょう。あなたは桜上水裁判株式会社に電話して、犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼します。同社は系列企業の下高井戸警察株式会社に捜査を依頼し、同社が逮捕してきた犯人を会社の会議場で裁判にかけ、死刑を言い渡す。死刑執行はやはり系列会社の松原葬祭株式会社に依頼する、と。

ところが、その犯人曰く、俺は殺していない、犯人は実は彼女の夫、俺を捕まえろといったヤツだ。彼も豪徳寺裁判株式会社に依頼し、真犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼する。関連会社の三軒茶屋警察株式会社は早速活動開始・・・。

何ともアナーキーですが、そもそもアナルコキャピタルな世界なのですから、それも当然かも。

そして、このアナーキーは人類の歴史上それほど異例のことでもありません。アナルコキャピタリズムというのは空想上の代物に過ぎませんが、近代社会では国家権力に集中した暴力行使権を社会のさまざまな主体が行使するというのは、前近代社会ではごく普通の現象でした。モンタギュー家とキュピレット家はどちらもある意味で「主権」を行使していたわけです。ただ、それを純粋市場原理に載っけられるかについては、わたくしは人間性というものからして不可能だとは思っていますが。

ちなみに、こういう法システム的な意味では、国際社会というのは原理的にアナーキーです。これは国際関係論の教科書の一番最初に書いてあることです。(アナルコキャピタリズムではなく)純粋のアナーキズムというのは、一言で言うと国内社会を国際社会なみにしようということになるのでしょう。ボーダーレス社会にふさわしい進歩的思想とでも評せますか。

自営業者には残業代を払う必要はないはずなんですが

裁判を戦う権利は憲法で保障されているので、どういう主張をすることも自由ではあるのですが、

http://www.asahi.com/national/update/0908/TKY201009080380.html(すき家のゼンショー、残業代不払い認める 団交は応じず)

>牛丼チェーン「すき家」を展開するゼンショー(東京)のアルバイト店員が残業代の支払いを求めていた裁判が、原告の主張を会社側が全面的に認め決着した。だが、会社は店員と「雇用契約がない」との主張を変えておらず、店員が加入する労働組合との団体交渉には応じていない。

>東京都労委は09年、同社に団体交渉に応じるよう命令。会社側は不服申し立てをしたが、中央労働委員会は今年7月棄却した。ところが、会社側は「使用従属関係を有さず、(中略)労働条件等処遇について決定しうる権限を有しない」と従来の姿勢のままだという。

飲食店の時給制のアルバイトが労働者じゃなくて自営業者であるという主張を日本の裁判所が受け入れるかどうかは別として、「使用従属関係がない」のなら、そもそも「労働時間」がなく、「時間外労働」がなく、「残業代」もありえないはず。

逆に使用従属関係があっても、管理監督者には労働時間規制がなく、残業代規制もない労働者もけっこういる(この両者がごっちゃになっているのが日本の問題だというのは別の話。すき家の店長だったら、マクド店長と同様、大いに議論の余地のあるところ)。

しかし、残業代を払っておいて、労働者じゃないというのはどういう理屈なのか、これはまじめな話、是非聞いてみたいところ。そのお金は、使用従属下の労務提供に対する対価ではないはずなので、法的性質が説明不可能としか思えないのですが。

>ゼンショーの広報担当者は「コメントは差し控えたい」としている。

差し控えるということは、コメントする中身はあるということのはずなので。

それは「やくざ」の定義次第

松尾隆佑さんが、

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919131166

>「警察を民営化したらやくざ」との言にはミスリードな部分があって,それは無政府資本主義社会における「やくざ」を政府が存在・機能している社会における「やくざ」とは一緒にできない点.民営化はやくざの「全面的合法化」ではなく,そもそも合法性を独占的に担保する暴力機構の解体を意味する.

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919469693

>他方,民間保護機関や警備会社同士なら「やくざ」ではないから金銭交渉などで何でも平和的に解決できるかと言えば,そういうわけでもなかろう.やくざだって経済合理性に無縁でなく,無駄な争いはすまい.行為を駆動する合理性の中身は多少違っても,本質的に違いがあるわけではない.やくざはやくざ.

言わずもがなではありますが、それは「やくざ」の定義次第。

国家のみが正当な暴力行使権を独占していることを前提として、国家以外(=国家からその権限を付与されのではない独立の存在)が暴力を行使するのを「やくざ」と定義するなら、アナルコキャピタリズムの世界は、そもそも国家のみが正当な暴力行使権を独占していないので、暴力を行使している組織を「やくざ」と呼べない。

より正確に言うと、世の中に交換の原理に基づく経済活動と脅迫の原理に基づく暴力活動を同時に遂行する多数の主体が同一政治体系内に存在するということであり、その典型例は、前のエントリで書いたように封建社会です。

そういう社会とは、荘園経営者が同時に山賊の親分であり、商船の船主が同時に海賊の親玉である社会です。ヨーロッパ人と日本人にとっては、歴史小説によって大変なじみのある世界です。

こういう「強盗男爵」に満ちた社会から、脅迫原理を集中する国家と交換原理に専念する「市民」を分離するところから近代社会なるものは始まったのであって、それをどう評価するかは社会哲学上の大問題ですし、ある種の反近代主義者がそれを批判する立場をとることは極めて整合的ではあります。

しかしながら、わたくしの理解するところ、リバタリアンなる人々は、初期近代における古典的自由主義を奉じ、その後のリベラリズムの堕落を非難するところから出発しているはずなので、(もしそうではなく、封建社会こそ理想と、呉智英氏みたいなことを言うのなら別ですが)、それと強盗男爵社会を褒め称えることとはいささか矛盾するでしょう、といっているだけです。

多分、サヨクの極地は反国家主義が高じて一種の反近代主義に到達すると思われますので(辺境最深部に向かって退却せよ!)、むしろそういう主張をすることは良く理解できるのですが(すべての犯罪は革命的である! )。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>tari-G , , , 国家の強制力を現在の検警察組織に独占させないという発想自体は、検警察入管等のひどさを考えれば極めて真っ当。

2010年9月 8日 (水)

新成長戦略会議に清家先生、宮本先生など

読売が、政府の新成長戦略会議のメンバーをどんどん新聞辞令を出しています。

5日の記事では、

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20091120-054987/news/20100905-OYT1T00783.htm

>政府は、菅首相を議長とする新成長戦略実現推進会議について、初会合を9日にも開く方向で最終調整に入った。

 同会議の副議長は、仙谷官房長官、荒井国家戦略相、直嶋経産相が務める。このほか、メンバーに野田財務相、日本銀行の白川方明総裁、経済3団体(日本経団連、日本商工会議所、経済同友会)のトップ、連合の古賀伸明会長が入るほか、伊藤元重東大教授や清家篤・慶応義塾長ら、成長分野に詳しい有識者数人を加える予定だ。

 同会議の設置は、政府が先に発表した追加経済対策の基本方針に盛り込まれた。新成長戦略を着実に実行するための「司令塔」としての役割を担うことが期待されている。

利害関係者代表として経済界とともに、連合会長が入り、有識者として労働経済学者の清家篤先生が入っています。

さらに、今日の記事では、

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20091120-054987/news/20100906-OYT1T01293.htm

>政府は6日、新成長戦略実現推進会議の有識者メンバーに、小宮山宏・前東大学長や河野栄子・リクルート元会長、宮本太郎・北大教授の3氏を起用する方向で最終調整に入った。

 政府は7日にも同会議のメンバーを発表し、9日に初会合を開く予定だ。

 小宮山氏は環境、河野氏は雇用、宮本氏は福祉政策に詳しい。有識者では、このほか、伊藤元重・東大教授や清家篤・慶応義塾長を起用する予定だ。幅広い分野の専門家を集め、同会議を新成長戦略を実行するための司令塔にする考えだ。

 事務局長には、古川元久官房副長官と平岡秀夫国家戦略室長(内閣府副大臣)を充てる。民主党の玄葉政調会長(公務員改革相)も加わり、党との連携を重視する。

と、宮本太郎先生も入ることになったようです。

基本的には、自民党時代の経済財政諮問会議に相当する機関という位置づけのようです。

4311940 そういう意味では、わたくしが拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』の最後のところで述べたステークホルダー民主主義の理念に一歩近づいたということでしょうか。

> 大衆社会においては、個人たる市民が中間集団抜きにマクロな国家政策の選択を迫られると、ややもするとわかりやすく威勢のよい議論になびきがちです。1990年代以来の構造改革への熱狂は、そういうポピュリズムの危険性を浮き彫りにしてきたのではないでしょうか。社会システムが動揺して国民の不安が高まってくると、一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムが人気を集めがちになります。これに対して利害関係者がその代表を通じて政策の決定に関与していくことこそが、暴走しがちなポピュリズムに対する防波堤になりうるでしょう。重要なのは具体的な利害です。利害関係を抜きにした観念的抽象的な「熟議」は、ポピュリズムを防ぐどころか、かえってイデオロギーの空中戦を招くだけでしょう。

 利害関係者のことをステークホルダーといいます。近年「会社は誰のものか?」という議論が盛んですが、「会社は株主のものだ。だから経営者は株主の利益のみを優先すべきだ」という株主(シェアホルダー)資本主義に対して、「会社は株主、労働者、取引先、顧客などさまざまな利害関係者の利害を調整しつつ経営されるべきだ」というステークホルダー資本主義の考え方が提起されています。そのステークホルダーの発想をマクロ政治に応用すると、さまざまな利害関係者の代表が参加して、その利益と不利益を明示して堂々と交渉を行い、その政治的妥協として公共的な意思を決定するというステークホルダー民主主義のモデルが得られます。利害関係者が政策決定の主体となる以上、ここでは妥協は不可避であり、むしろ義務となります。妥協しないことは無責任という悪徳なのです。労働問題に関しては、労働者代表が使用者代表とともに政策決定過程にきちんと関与し、労使がお互いに適度に譲り合って妥協にいたり、政策を決定していくことが重要です。

 現在、厚生労働省の労働政策審議会がその機能を担う機関として位置づけられていますが、政府の中枢には三者構成原則が組み込まれているわけではありません。そのため、経済財政諮問会議や規制改革会議が政府全体の方針を決定したあとで、それを実行するだけという状況が一般化し、労働側が不満を募らせるという事態になったのです。これに対し、経済財政諮問会議や規制改革会議を廃止せよという意見が政治家から出されていますが、むしろこういったマクロな政策決定の場に利害関係者の代表を送り出すことによってステークホルダー民主主義を確立していく方向こそが目指されるべきではないでしょうか。

 たとえば、現在経済財政諮問会議には民間議員として経済界の代表二人と経済学者二人のみが参加していますが、これはステークホルダーの均衡という観点からは大変いびつです。これに加えて、労働者代表と消費者代表を一人づつ参加させ、その間の真剣な議論を通じて日本の社会経済政策を立案していくことが考えられます。それは、選挙で勝利したという政治家のカリスマに依存して、特定の学識者のみが政策立案に関与するといった「哲人政治」に比べて、民主主義的正統性を有するだけでなく、ポピュリズムに走る恐れがないという点でもより望ましいものであるように思われます。

昨年、民主党政権ができたばかりの頃、わたくしはあえて『現代の理論』に載せた論文の最後のところで、国家戦略局構想に批判的なことを述べましたが、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/minshu.htm

>最後に、民主党政権の最大の目玉として打ち出されている「政治主導」について、一点釘を刺しておきたい。政権構想では「官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する」としている。これは、小泉内閣における経済財政諮問会議の位置づけに似ている。

 政治主導自体はいい。しかしながら、小泉内閣の経済財政諮問会議や規制改革会議が、労働者の利益に関わる問題を労働者の代表を排除した形で一方的に推し進め、そのことが強い批判を浴びたことを忘れるべきではない。総選挙で圧倒的多数を得たことがすべてを正当化するのであれば、小泉政権の労働排除政策を批判することはできない。この理は民主党政権といえどもまったく同じである。

 労働者に関わる政策は、使用者と労働者の代表が関与する形で決定されなければならない。これは国際労働機構(ILO)の掲げる大原則である。政官業の癒着を排除せよということと、世界標準たる政労使三者構成原則を否定することとはまったく別のことだ。政治主導というのであれば、その意思決定の中枢に労使の代表をきちんと参加させることが必要である。

こういうときに、あの岩波編集部の方がひねり出したあの台詞を使うんでしょうね。

「問われているのは民主主義の本分だ」

と。

2010年9月 7日 (火)

職場のメンタルヘルスとプライバシー

本日、厚生労働省の「職場におけるメンタルヘルス対策検討会」が報告書を発表しました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000q72m.html

報告書のポイントは、

>1.一般定期健康診断に併せ、ストレスに関連する労働者の症状・不調を医師が確認する。
2.面接が必要とされた労働者は産業医等と面接を行う。その際は、上記ストレスに関連する症状や不調の状況、面接が必要かについて事業者に知らせない。
3.産業医等は労働者との面接の結果、必要と判断した場合は労働者の同意を得て、事業者に時間外労働の制限や作業の転換などについて意見を述べる。
4.事業者は、労働時間の短縮等を行う場合には、産業医等の意見を労働者に明示し、了解を得るための話合いを行う。

ということですが、その上に、下線を引いて強調しているところがこの問題のキモです。

>報告書では、労働者のプライバシーが保護されること、労働者が健康の保持に必要な措置を超えて、人事、処遇等で不利益を被らないこと等を基本的な方針として、次のような仕組みを導入することが適当とされました。

以前から本ブログやいろんな文章などでも書いているように、メンタルヘルスの問題は結局プライバシーとの相克が最大の問題なんですね。

報告書本体の中では、この問題について、

>労働者にあっては家庭の問題等を原因とするメンタルヘルス不調等、特に医療関係者以外の者には知られたくない事項もあり、その取扱いは慎重にすべきものと考えられる。
心の健康問題には、これ自体に対する誤解や偏見等解決すべき問題が存在しており、うつ病であることが分かった途端に解雇される事例も見られている

と指摘をし、特に不利益取扱の防止として、

>労働者がメンタルヘルス不調であることのみをもって、事業者が客観的に合理的な理由なく労働者を解雇すること等の不利益な取扱いを行うことはあってはならないものである。
事業者は、医師の意見を勘案し就業上の措置を講じる場合には、健康管理の観点から適切な手順・内容を踏まえて実施されるよう、①「医師の意見」の具体的な内容によるものであること、②あらかじめ労働者の意見を聴き、労働者の了解を得るための話合いを実施すること、③当該話合いにおいては、医師の意見の内容を労働者に明示することが必要である。
また、事業者は健康保持に必要な措置を超えた不利益な取扱いを行ってはならないこととすることが必要である。
また、メンタルヘルス不調に関する啓発活動が実施され、職場においてメンタルヘルス不調に関する正しい知識の普及が図られることが必要である。

といったことが書かれています。

現在中身を分析している個別紛争事案の中にも、メンタルヘルスを患っている労働者が相当の数やってきています。

『POSSE』第8号のベーカム特集

Hyoshi08 発行はまだ来週のようですが、中身の広報が先行していますので、こちらでもボランタリーに宣伝。

http://npoposse.jp/magazine/new.html

満を持して放つ(?)ベーシックインカム特集のメインライターは既報の通り次の人々ですが、

■特集 マジでベーシックインカム!?

東浩紀(批評家・作家)
  情報公開型のBIで誰もがチェックできる生存保障を

  多様な「生」を認める社会の
  「究極のサービスプラットホーム」とは


飯田泰之(駒澤大学准教授)
  経済成長とBIで規制のない労働市場をつくる

  ルールに基づいた最低限のセーフティネットで
  「結果の平等」を保障するために


小沢修司(京都府立大学教授)
  BIと社会サービス充実の戦略を

  新自由主義のBI論を警戒しつつ、
  共闘するための方法とは


萱野稔人(津田塾大学准教授)
ベーシックインカムがもたらす社会的排除と強迫観念

  「労働からの解放」?「パターナリズムの克服」?
BI論者がさらけ出した国家と資本主義への無理解とは


後藤道夫(都留文科大学教授)
「必要」判定排除の危険
―ベーシックインカムについてのメモ

  「無条件」の所得保障こそが生存をおびやかす!
  そして、多様化する時代の新しい福祉国家とは


竹信三恵子(朝日新聞編集委員)
なぜ「働けない仕組み」を問わないのか
~BIと日本の土壌の奇妙な接合

  女性の職場は「いまのままでいい」!?
  共感を呼ぶ「現状肯定」のメッセージ

中身を読まずに見出しだけであれこれいうと、誰かさんみたいになっちゃいますが(笑)、それでも萱野さんの

>「労働からの解放」?「パターナリズムの克服」?BI論者がさらけ出した国家と資本主義への無理解

という切れのいい啖呵は、大変共感するところがあります。

このほかの記事は、こっち(POSSEのブログ)に載っていますが、

http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/35f06bf855f272eda074ecbce51b7a73

都留民子(県立広島大学教授)
コラム・フランスのベーシックインカム論とRSA


錦織史朗(大学院生)
ベーシックインカム論の「自由」観の貧困

BIを称賛する左派へ
現物給付との両立はいまの日本では不可能だ


齋藤幸平(ベルリン自由大学・大学院生)
ヨーロッパにおけるベーシックインカムと新自由主義
西欧の左派はBI論をどう受けとめているのか

という3本も、私の問題意識と通じるところが結構ありそうです(だから、見出しだけであんまりくっちゃべるな、って)。

その他特集以外では、

清水知子(筑波大学専任講師)
労働と思想8
S・ジジェクと現代リベラル資本主義

スターバックスの「倫理」から
ネグリの「非物質的労働」までをラディカルに挑発


本誌編集部
日本版「第三の道」は欧州とどこが違うのか
「流動化」、「社会参加」、「新しい公共」…
菅政権の新成長戦略を検証!



熊沢誠(研究会「職場の人権」代表)
われらの時代の働きかた

ゼミナール同窓会顛末1

吉田美喜夫(立命館大学教授)
実践的労働法入門
「試用期間」の「新卒切り」は有効?


阿部真大(甲南大学専任講師)
ユニ×クリ
ASIAN KUNG-FU GENERATION
「さよならロストジェネレイション」


後藤和智
検証・格差論
「ニート」論とはなんだったのか
―玄田有史の変遷を中心に


川村遼平(POSSE理事)
労働相談ダイアリー
「がんばって!」よりも「無理してない?」

一言だけいうと、黒猫白猫論の私は、玄田先生の「ニート論」は若者の仕事の限界領域に世間の関心を引きつける上で戦略的価値が高かったと評価しています。ニートの定義がどうとかいう学者の議論とは違う次元も俗世には必要なのです。これ以上見出しだけで言うのはもうやめますけど。

韓国UBC(蔚山放送)の取材

本日午前、韓国のUBC(蔚山(うるさん)放送)の取材を受けました。

現代自動車の下請け会社の非正規社員に関する最高裁判決をめぐる状況のドキュメンタリーということで、日本の労働組合も取材するそうです。

9月18日9時放送予定ということですが、放送されるのはもちろん韓国だけです。私も見られませんね。

セクハラと個人加盟ユニオン

JILPTの恒例のコラム、今回は呉学殊さんの「セクハラ問題―個人加盟ユニオンの紛争解決―」です。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0156.htm

>私は、労働組合の個別労働紛争解決・予防への取り組みに関する研究を行ってきたが、その中で、個人加盟ユニオンのセクハラ問題を解決した3つの事例を調査した。そのうち、2つの事例は、加害者が事業主または専務の経営者であり、残り1つは直属の部長であった。セクハラは3つの事例とも服の中に手を入れて体を触る等の悪質なものであった。行政による解決ができなかった同セクハラ問題を、ユニオンは企業との団交や労働審判によって、解決した。ユニオンは、加害者にセクハラの事実認定と謝罪を行わせて、再発防止を促し、また、被害に応じた補償金(120万円、200万円、350万円)を払わせた。それにより、被害者は、紛争解決に納得し、次の仕事に取り組む蘇生力を得たのである。

このコラムのもとになった研究は、「資料シリーズNo.76『個人加盟ユニオンの紛争解決-セクハラをめぐる3つの紛争事例から―』(近刊予定)」というもので、まだ公表されていませんが、なかなか面白いです。

ただ、その隣で、行政による個別紛争事案をあれこれ研究している立場から一言。

(ちなみに、セクハラ事案は男女雇用機会均等法に関わるので、労働局でも雇用均等室の所管になり、セクシュアルじゃないハラスメント、つまりいじめ・嫌がらせのたぐいは一般の個別紛争として企画室マターになります。行政の縦割りの関係で、私は行政によるセクハラ事案は見ていないのですが)

個別紛争でも、解雇とか労働条件引下げといったものは、何が起こったかははっきりしていて、それがいいか悪いかということになりますが、いじめ・嫌がらせ事案の最大の問題は、圧倒的に多くの事案において、会社側が「いじめなんかしていない!」ということです。「私はいじめを受けた!」「本人が勝手にいじめられたと思いこんでるだけ」の間では、なかなか接ぎ穂がないというのは分かるでしょう。

それにしても、そういう会社側がいじめの存在を否認している事案でも、それなりの件数、金銭解決しているのです。むしろ、純粋の解雇事案や労働条件引下げより解決率は高いくらいです。

なぜそうなるかを、よく読んでいくと、多くの場合、あっせん委員が「いや、そうはいうけど、現に労働者側がいじめを受けたといってるんだから、事実はともかく、何らかの解決をしてはどうですか?」(大意)というようなことを言って、なにがしかの金銭解決に至るというのが多いのですね。

これは、先日の研究成果報告会の場でも話したことですが、裁判のような事実がどうであったかを厳格に判定するような紛争処理システムでは、この手のいじめ・嫌がらせやセクハラ事案というのは、事実認定が大変難しくて、なかなか簡単に処理できないだろうと思います。

行政によるあっせんというのは、「事実はともかく」「お金で解決」という、裁判所だったら絶対に許されないようなことができてしまうので、かえって解決につながりやすいのではないか、と思うわけです。

厳格な人であれば、「そんなもののどこが解決だ!」と怒るかも知れませんが、しかし社会の紛争解決というのはすべて事実の確定をしなければできないというわけではありませんし、会社側としても、「もしかしたらいじめがあったかも知れないが、社員がないといっている以上ほじくるのもまずいし、まあこの金で解決するなら・・・」というメリットもあるわけで、こういう緩やかな紛争処理システムの一つの利点といえるように思います。

2010年9月 6日 (月)

あきれた学術会議の未就職対策

『労働新聞』9月6日号の「主張」が、例の学術会議の提言を酷評しています。

いや、中身がダメなら酷評されてもいいのですけど、こういう酷評は・・・、

>学術会議というのだから、相当な学識・知見を持った方々だろうが、こんなことを本気でお考えになっているとしたら、その見識を疑わざるを得ない。

いや、まあ、他の方々はともかく、わたくしは見識を疑われても一向に不思議ではありませんのですが、何がそんなに見識が疑われるのかというと、

>全くの弥縫策だから、あえてそういう。こんな解決方法では未就職の大卒者が積み残されるだけで、ところてん方式に未就職者が大量発生することは目に見えている。白書が分析したように、多くの企業は新卒ブランドに見切りをつけ、即戦力人材の確保を求めている。

>就職ではなく、就社を目的として進学する相も変わらない傾向を打破するような積極的な提言がなぜできないのだろうか。しょせん学者先生のたわごとと聞き流してもいいのだが、学生と同じレベルで職業生活を考えてもらっては困る。

はあぁ・・・。

ですから、まさにそういうことを100頁にわたってえんえんと書き連ねているのですが、そういうのは読んでいただけないわけですね。

高校生向けの労働法入門書に書いていることもわきまえないどこぞの人事コンサルタント氏とまったく同じく、新聞記事の見出しだけで「しょせん学者先生のたわごと」と書けるのですから、業界紙もなかなか気楽なものですねえ、と皮肉の一つもいいたくなります。

この労働新聞、まさかピョンヤンで発行されたものじゃないよね、と思わず発行所を確認してしまいましたよ。

(ちなみに、企業が即戦力人材を求めているという分析をした「白書」ってどこのなんていう白書でしたっけ?)

学術会議の提言の中身は、こちらにまとめてあります。これが「全くの弥縫策」であるといわれるのであれば、それは持って瞑すべしですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f566.html(日本学術会議「大学教育の分野別質保証の在り方について」)

シンポジウム等のお知らせ

今後予定されているシンポジウム等について、ネット上にポスターが掲載されているものを紹介しておきます。

http://www.saiben.or.jp/events/ev0100925_01/ev0100925_01img.pdf

関東弁護士連合会シンポジウム「労働と貧困-今日の働き方と社会保障」

パネリストは、後藤道夫氏、濱口桂一郎、河添誠氏、藤田孝典氏の4人です。

http://www.waseda.jp/sanken/forum/sanken/poster_36.pdf

早稲田大学産業経営研究所フォーラム「派遣法の改正と今後の労働市場」

パネリストは島田陽一先生、新谷信幸氏、奥村真介氏、濱口桂一郎の4人で、鈴木宏昌先生がモデレータをされます。

デンマークの解雇規制(予告)@河添誠

首都圏青年ユニオンの河添誠さんがついったでデンマークの解雇規制についてつぶやいています。

http://twitter.com/kawazoemakoto/status/22949450721

>@mmasao その方がデンマークの経済システムの何に関心があるのかわかりませんが、デンマークが「解雇自由」であるということで関心をもっておられるのであれば、それは間違いです。今回の調査ではっきりしましたが、デンマークでは解雇を自由にできるわけではありません。詳細はいずれ

デンマークに調査に行かれていたようですね。

http://twitter.com/kawazoemakoto/status/22924735474

>デンマーク調査の日程がすべて終了。明日の午後、コペンハーゲン発。日本時間の9月5日(日)朝9時すぎに成田着。充実した調査だった。来週から日常活動に戻る。今回の調査で見てきたことを、これからの日本の活動に活かしたい。

「詳細はいずれ」ということなので、「いずれ」を待つとして、ちょっとだけコメントすると、スウェーデンのように立派な労働法典に不当な解雇はダメだとか有期契約も制限だとか明々白々に書いてある国ですら、「スウェーデンは解雇自由」とデマを飛ばして平然と恥じない経済学者みたいな人がいるくらいですから、労働成文法があまりなく、大事なことは中央労働協約で決めているデンマークが、解雇自由と書かれまくるのはやむを得ない面もあるのかも知れませんが、それにしてもちゃんと実地調査して調べてくるというのは、何にもまして重要なことだと思います。

ちなみに、デンマークの労働法、労働政策というのは、現在日本に本格的な専門家が一人もいない絶好のニッチですので、若手研究者の方々にとっては狙い目ではないかと愚考いたします。

職業教育訓練関係でも、ドイツのデュアルシステムはみんな押し寄せますが、デンマークも狙い目です。

http://twitter.com/kawazoemakoto/status/22820288274

>@chikamiki デンマークの義務教育終了後の職業教育関連の学校・施設をいくつか視察しましたが、とても充実していました。子どもの成長にやさしい社会だなと思いました。教育や福祉などの分野は、日本の今後を考えるうえでもおおいに参考になると思います。いろいろ教えてください。

2010年9月 5日 (日)

バイトの悩み 学校お助け

本日の朝日の教育面に、「バイトの悩み 学校お助け」という好記事が載っています。

>夏休みをきっかけにアルバイトを始めた高校生も多いだろう。自分で自由になるお金を稼ぐ体験は貴重だが、「テストが近いのに休ませてくれない」「サービス残業を押しつけられる」「バイト代が最低賃金以下」などで困った場合、どうすればいいのか。生徒たちのアルバイト体験を通して「働くルール」を学ぶ授業が始まっている。

というリードで、千葉県立犢橋高校の角谷先生と、おなじみ神奈川県立田奈高校の吉田美穂先生の実践が報じられています。右下には本田由紀先生のコメントもあります。

角谷先生編:

>きっかけは2005年から始め、今は1年生の総合的な学習の時間で取り組む「働くルール」の授業だ。「卒業しても役に立つことをしよう」と始めた。本来の担当は日本史だが、「日本史より、よっぽどみんな真剣に聞いている」という。

>卒業後も、多くの子にとってアルバイト生活は続く。一生がバイト生活という人生も少なくない世代だ。「働くルールを知っていれば、間違っていると声を上げたり、誰かに相談したりできる。泣き寝入りしないために高校時代に学んでほしい」

吉田先生編:

>同校では1年の終わりで4分の3の生徒にアルバイトの経験がある。「卒業してからではなく今、労働法を学び、自分のものにしなければいけない」と担当する吉田美穂教諭。

>「授業であんな話をした、と覚えておいてくれたら、社会に出ても注意できるし、何かあれば相談してくれる。弱い立場の彼らこそ労働法が必要なのです」

この問題については、本ブログでも何回か取り上げてきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-6f0e.html(神奈川県立田奈高校の労働教育)

>中でも興味深いのは、神奈川県立田奈高校の吉田美穂先生のお話でした。この高校、進学、就職、「その他」(=フリーター等)がほぼ3分の一ずつという普通高校ですが、先生方が熱心に進路研究に取り組んでいます。

>実は、田奈高校、経済的事情から中退する生徒も多く、多くの生徒が経済的理由からアルバイトをしています。アルバイト禁止などと云って済ませているわけには行かない事情があるんですね。高校卒業後の話と云うだけではなく、現に高校生でありつつ労働者でもある彼らの権利を守るには・・・という問題意識を持たざるを得ないということなのでしょう

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5e38.html(第4回今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会議事録)

>この回は神奈川県立田奈高等学校教諭の吉田美穂先生が説明されたのですが、正直言って、それまでのNPOの方々の説明とか、労働相談員の方の説明はだいたい想定内だったのですが、この吉田先生のお話はいささかそれを超えるところがありました。

>「家庭の婦女子や学生アルバイト」という十把一絡げは、パートタイマーや派遣労働者だけではなく、高校生アルバイトですらもはや現実に合わなくなってきているんですね。

>この十数年間声高に叫ばれ続けた自己責任論は、各界の要職にある中高年の方々には(少なくとも自らの行動規範としては)あまり影響を及ぼしていないようですが、自己責任論のあふれる中で人格形成をしてきた素直な若者たちには明確な影響を与えているようです。

それも、人の自己責任を過剰に追及するという中高年によく見られる形ではなく、追求すべきでもない自分の自己責任を過剰に追及するという形で・・・。

>最大の労働教育は、彼らがアルバイトで働く職場できちんと労働法が守られるようにすることなのかも知れません。

読めば読むほど考えさせるでしょう?

なお、労働教育についてはこのコラムをどうぞ。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0119.htm(労働教育の復活)

ちくま新書の標題政策

小ネタですが、

http://twitter.com/yamashitayu/status/22945347413

>ちくま新書は小島寛之の『使える!経済学の考え方』とか高橋洋一『経済学のウソ』とか、社会科学系の本で内容とタイトルがずれているのがあるのが残念。特に前者は「使える!」とかそういうレベルじゃないほど深いいい本なんですけどね…。

どうも、ちくま新書の編集部には、どんなに中身のいい本でも、その中身とは関係のないいかにも売れげな題名を付けなければいけないという強迫観念に駆られた方がおられるようで、本ブログでも取り上げましたけれど、大内先生の軽妙な名著も、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-5c8e.html(雇用はなぜ壊れたのか─会社の論理vs.労働者の論理)

>なので、ちょっと苦言になっちゃうんですが、「雇用はなぜ壊れたのか」というタイトルは、あまりにも中身と合っていません。これはもちろん、大内先生がこんな題名にしたいと思われたわけではないはずで、新書編集部がこういう鬼面人を脅かすような題名の方が売れると思ったからこうなったんでしょうが、1週間店頭にあるうちに読者に買って貰わなければならない雑誌の特集タイトルであればふさわしくても、新書の題名に雇用が壊れたの崩壊だのという文句が踊るのは、(近頃、その手の中身の薄っぺらなのがどっと出ているだけに)いささか下品ではないかと思います。中身からすると、副題の「会社の論理VS労働者の論理」の方がぴったりです

そういう題名を付けられたご本人も、

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-9292.html(新書)

>他方,ちくま新書のほうは,まさにネット上で,タイトルが批判の対象となっています。どこにも「雇用が壊れた」原因を書いていないので,タイトルと本の内容が合っていないという批判です。確かに,そうなのです。これは私も出版社側に事前に伝えていた点です。しかし,間接的には雇用が壊れたことについて書かれているのではないか,ということで押し切られ,サブタイトルに私の希望を入れることで妥協したという経緯がありました。出版社側は「雇用」という言葉をどうしても入れたかったようで,多少,アピール度を高めるために「なぜ壊れたのか」という言葉も入れたということなのですが,このタイトルについては,少し後悔が残っています。
とはいえ,内容的には,ちくま新書のほうがレベルは高いです。わかる人にはわかってもらえる水準のものを書いています。よくわからない人には,あたりまえのことしか書いていないと言われそうですが,もう少し深く読んでもらえれば,本の価値をわかってもらえると思います。

>特に『雇用はなぜ壊れたか』のほうには,今の日本の雇用システムについて,本当に深刻な問題があるのだろうか,という問いかけのメッセージを込めています。特に生活者の論理と労働者の論理の対立と,それについての日本的な解決について肯定的な評価を与えています

というわけで、どう考えても適切ではない題名なのですね。

いやまあ、それだけなのですが。

2010年9月 4日 (土)

警察を民営化したらやくざである

リバタリアンと呼ばれたがる人々はどうしてこうも基本的な社会認識がいかがなものかなのだろうかと思ってしまうのですが、

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100818警察を民営化したならば

警察とは一国の法システムによって暴力の行使が合法化されたところの暴力装置ですから、それを民営化するということは、民間の団体が暴力行使しても良いということを意味するだけです。つまり、やくざの全面的合法化です。

といいますか、警察機構とやくざを区別するのは法システムによる暴力行使の合法化以外には何一つないのです。

こんなことは、ホッブス以来の社会理論をまっとうに勉強すれば当たり前ではあるのですが、そういう大事なところをスルーしたまま局部的な勉強だけしてきた人には却って難しいのかも知れません。最近では萱野さんが大変わかりやすく説明してますから、それ以上述べませんが。

子どもの虐待専門のNPOと称する得体の知れない団体が、侵害する人権が家宅侵入だけだなどと、どうして素朴に信じてしまえるのか、リバタリアンを称する人々の(表面的にはリアリストのような振りをしながら)その実は信じがたいほど幼稚な理想主義にいささか驚かされます。そもそも、NPOという言葉を使うことで善意の固まりみたいに思えてしまうところが信じがたいです。

警察の民営化というのは、民主国家においてはかかっている暴力装置に対する国民のコントロールの権限が、(当該団体が株式会社であればその株主のみに、非営利団体であればそれぞれのステークホルダーのみに)付与されるということですから、その子どもの虐待専門NPOと称する暴力集団のタニマチがやってよいと判断することは、当然合法的に行うことになるのでしょうね。

国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようになります。古代国家が崩れていくにつれ、武士団という暴力団が跋扈するようになったのもその例です。それは少なくとも人間社会の理想像として積極的に推奨するようなものではないというのが最低限の常識であると思うのですが、リバタリアンの方々は違う発想をお持ちのようです。

(追記)

日本国の法システムに通暁していない方が、うかつにコメントするとやけどするという実例。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>thesecret3 えええ、、実際暴力装置としての治安維持活動は日本では民間の警備会社の方が大きくないですか?現金輸送車を守ってるのは警察でもやくざでもありませんよ。

いうまでもなく、警備業者は警察と異なり「暴力装置」ではありませんし、刑事法規に該当する行為を行う「殺しのライセンス」を頂いているわけでもありません。

警備業法の規定:

http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%af&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S47HO117&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

>(警備業務実施の基本原則) 

第十五条  警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない。

金子良事さんの理解と誤解

先日のわたしのエントリに金子良事さんから再びコメントがされました。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-178.html(大卒の就職が厳しいのは景気と労働市場の需給で説明できるんじゃないか)

始めに申し上げておくと、今までも何回か金子さんから指摘されたような気がしますが、

>私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

というのは、ある意味でその通りです。わたしが本田先生のレリバンス論を繰り返し「活用」するのも、社会全体の方向付けと言うよりも、ある部分に関心を引きつけたいからであり、そここそ、まさに言葉の正確な意味での「マージナル」と呼ばれるような部分であるからです。

実をいうと、日本の大学は普通に考えられているよりもかなり多様であり、特に最近は文部科学省の自由放任主義的政策のお蔭で、専門学校の大学成りが急速に進み、言葉の正確な意味において専門学校に毛が生えたような(毛も生えていない?)大学がいっぱい出てきています。こういう大学は、偏差値的にはまさに「マージナル」ですが、実態はまさしく専門学校ですので、勉強はできないにしてもとっかかりはあるのです。そういうところは、うまくいくにせよ、いかないにせよ、いくいかないの操作可能性の支点が明確です。つまりそれが、わたしが本田先生の議論で役に立つと思っている「レリバンス」なるものです。

問題のある「マージナル」大学とは、むしろ高校レベルにおける「普通科底辺校」に相当するところです。勉強したことになっている範囲は開成や日比谷と正確に同じであるような普通科底辺校の卒業生が、その同じであるはずの学習内容をAO入試で「ウリ」にできるのか、というはなしです。勉強したことになっている範囲は東大や慶応の経済学部と正確に同じであるような偏差値底辺級のマージナル大学の学生が、その同じであるはずの学習内容を「ウリ」にできるのでしょうか、と翻訳すればわかりやすいでしょう。そう、大変むくつけなはなしであり、大学人は露骨に言いたくないでしょうね。しかし、その労働市場の入口における「ウリ」という観点から、せめてなにがしかとっかかりになるレリバンスを、という点において、わたしは本田先生の議論を評価しているのであってみれば、彼女の議論が今までの社会政策や人事労務管理論をきちんと踏まえていないというのは(それが正しいとしても)戦略的には顧慮すべき必要は感じません。

本ブログでずっと昔に指摘したように、本田先生には(自分自身が所属する東京大学教育学部のような高度な研究者養成を主たる目的とする組織も含め)一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向があります。そこは、それが弊害をもたらしかねなくなった時点で指摘すればよいと、(プラグマティックに)わたしは考えています。

なお、景気が最も重要なファクターであることはおそらく誰も反論しない基本事項ですが、(それも分からずに脳天気なことを言っている「ヘタレ人文系」(?)な人々に対してであれば格別)それを前提にして議論がされているところに、あえて他の議論の重要性を削減するために景気問題を持ち出すことは、議論それ自体の正当性とは別次元において言説としての不適切性があると考えています。これは金子さんではなく、もっと別の土俵で述べられるべきことですが。

(追記)

ちなみに、金子さんや森さんは同時代的には読まれてないと思いますが、今から4年以上前に本ブログ上で時ならぬレリバンス論議が交わされたことがあり、その時のエントリを読んでいただくと、わたくしの変わらぬ問題意識はご理解いただけるものと思われます。

たとえば、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。

コメント欄:

>マクロ社会的には、必ずしも優秀でない素材までが、かつて優秀であるシグナルとして機能した(と思いこんでいる)基礎的な専門教育の欠如というシグナリングを求めて普通科になだれ込んできたために、シグナリング機能が消滅したことがあります。
そうすると、こういう連中は、優秀でない上にへたに雇ったら初期教育訓練コストもかさむ存在になりますから、労働市場で一番周辺に追いやられてしまいます。
これは格差の原因ではないにしても、それをある程度増幅する機能は果たしているように思われます。

いずれにしても、専門高校であっても、所詮高校レベルで教えることのできる専門性なんて、それほど大したものではないのですから、「普通高校で教えることの可能な広義の意味での専門性」にそんなに悩む必要もないように思います。
高校レベルで何らかの職業教育を全員が受けた上で、その能力に応じてさらに進学するという仕組みになることのメリットは、進学しない場合のリスクを最小限にすることができることで、これはかなり重要ではないかと思います。

>職業教育の拡大というのは、別に「うまい話」なんかではなく、何にもないまま労働市場に投げ出される若者に、せめてなけなしの装備を提供してやろうという、はなはだみみっちい話に過ぎません

>全くその通りでしょう、私は初めから、日比谷だの戸山だのへいって東大や京大を目指す連中のことは念頭に置いてません。書店に行けば、高校進学ガイドなる冊子がおいてあって、ごく少数の職業科を押しやって山のように名前も聞いたことのないような普通科高校があることがわかります。しかも結構就職しているんですね。入試偏差値でシグナリング機能が代替されてしまい、普通科に進学した意味が全くない彼らをどう救えるのか、ってところに主たる関心があるものですから。(最初に断っているように、私は教育の専門家ではなく、教育の高邁な理念なるものには何の思い入れもないものですから、何がどう役立つか、という関心からのみものを言っています)

(再追記)

ついでに、当時のいくつかのエントリも紹介しておきます。

まず「一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向」の実例。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、・・・・・・

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

>大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです

これらレリバンスを論ずべきではそもそもないものに対し、まさにレリバンスを問うべきではないかと論じているのが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

>哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。

>経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。

こういうのを読まれると、このhamachanという奴のレリバンス論というのは、なんというむくつけでむきだしでいやらしいものかと感想をお持ちの方もおられるでしょう。その通りです。そういう本音を隠したきれい事で教育論を済ませようとするから、話がことごとくおかしな方向にいくのです。

そして、少なくともわたくしの考えるところでは、社会科学的思考とは物事をこういう風に見て、こういう風に考えることであるはずです。むき出しの事実をありのままに見るところからしか、理想も何も出発のしようはないのです。

2010年9月 3日 (金)

社員が経営者と価値観を共有するということ

いや、わたくしは経営者とその雇用する労働者が価値観を共有することを否定しているわけではないし、労使が価値観を共有する中で一つの目標を実現していくということも、一つの理想像として評価はします。

しかし、

こういう「価値観の共有」を見せられると、ねえ。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1009/03/news008.html(なぜ経営者は「社員と価値観が共有できている」とウソをつくのか by [吉田典史,Business Media 誠]

>2年前の今ごろ、私は後味の悪い取材をした。それは、躍進する中小企業の経営者へのインタビューだった。その社長は、1時間30分の取材時間中に10回ほど、「価値観共有」という言葉を使った。

 「その価値観とは何か?」と尋ねると、明確な返事は返ってこなかった。ただ、「小さな会社は社長と社員が意識を1つにすることが大切」と繰り返すだけだった。私が疑問を感じたのは、「社員と価値観を共有できるかをどのように判断するか?」と聞いた時の回答だ。

 「新卒の採用試験の時は、最終面接で私の前で大きな声を出してもらう。試験場にはイスがあるが、それに乗って立ち上がり、『●●さん(社長を指す)が好き』とか、『●●社にお世話になります』と大声で言えたら、その人とは価値観が共有できている」――。

 私には、信じられなかった。これは、「私の命令に従う人こそが、価値観を共有できている」と答えているように思えた。

 この会社は就職人気企業になっており、大卒の受験生は数百人に及ぶという。内定者はわずか数人で、倍率は非常に高い。内定者は最終面接で本当に絶叫をするようだが、私にはそれは不況の影響もあり、内定を欲しいがゆえの行動にしか見えなかった。大学生が気の毒にすら、思えた。

価値観の共有とは、両者が力関係において一方的な権力をふるえるような上下関係にない場合に初めていえることです。

もちろん、労働者側がきちんと自分たちの利害を主張できる状況にあった上で、その対等の関係の上で、価値観を共有するということは十分にあり得ますし、それは組織として望ましいことでしょう。

しかし、絶対的権力者が絶対的服従(せざるをえない)者と価値観を共有するとは一体どういうことなのか、この吉田さんのかいま見た事例は、大変雄弁に物語っているように思われます。

そして、雇用関係というものが、きちんとした労使関係によって担保されるのでない限り、このような権力関係であり得るということに対する想像力の絶対的に欠如した人々の言説のどうしようもなさというものも、ここから浮かび上がってくるように思います。

>この会社は、人事制度も同じ価値観で行っている。社長が50~60人の社員の査定評価をするというが、本人いわく「評価基準はない」と答える。それでも査定が行われ、社員の間で差が付けられる。それが賞与などに反映されるそうだ。

 私には、その意味が分からない。評価基準がなくて、評価ができるのだろうか。そこに社員らの不満はないのだろうか。こういう疑問を投げかけると、社長は答えた。「みんなで価値観が共有できていれば、問題は起きない」。私には、この言葉は「経営者である自分の言うことにはすべて従え」と言っているようにしか思えなかった。

2010年9月 2日 (木)

座談会

本日、都内某所で、某誌のための座談会。

わたくし以外は、神野直彦先生、間宮陽介先生、駒村康平先生と、錚々たる面子の中に、わたくしのようなのが入って、まともに役割を果たせたのかどうかよくわかりませんが。

時期的に、いろんな意味で政権や政策の評価が難しい中で、大変面白い座談会になったような気はします。

白猫でも黒猫でも労働問題に取り組むのがいい猫

昨晩は、都内某所で、与党某議員と懇談。

このような情勢下でもあり、「いま、こんなところで、わたくしのようなものと会っていてよろしいのですか?」とお聞きすると、

「濱口さんの話を聞く方がずっと大事だ」

とのことでした。ありがたいことです。

本ブログは労働政策をとりあげるのであって、政局には一切触れないのを原則としておりますので、これはここまでにしておきます。

基本は、昨日も書いたように、

>白猫でも黒猫でも労働問題に取り組むのがいい猫

ということに尽きます。

2010年9月 1日 (水)

日テレ労組、24時間ストに突入

テレビ局はいうまでもなく公益事業などではありませんから、少なくとも法律上は、

http://www.asahi.com/national/update/0901/TKY201009010200.html

>アナウンサーなど放送に直接携わる組合員はスト参加を除外するほか、取材現場にかかわる組合員も申請があった人は除外し、放送への影響は最小限にとどめたいとしている。

などとしなければならない理由はありません。病院でストする際にも医師や看護師が患者を放り出していいわけではないのとは違います。

日本テレビの画面に1日中「24時間スト決行中!ストは地球を救うか?」というテロップが流れ続けても、別段国民生活に深刻な影響があるわけでもないと思いますが。

まあ、それが明らかになってしまう方が望ましくないのかも知れません。

キャリア段位は半世紀前から既にそこにある

田中萬年先生が、共同通信の記事を引いて、

http://d.hatena.ne.jp/t1mannen/20100831/1283227428職業能力に「段位」制度導入へ

>採用希望者が段位を目指して職業訓練に励むことで、雇用拡大につなげる狙い。

以前もご紹介したように、新政府の方針で、イギリスの資格制度をモデルに考えている制度です。

>欧米のような資格思想がわが国には定着していないため、その実施には困難が山積するでしょうが、学歴主義に対抗する制度思想として重要な施策だと言えます。

と述べておられます。

もちろん、田中萬年先生には釈迦に説法、孔子に論語、ムハンマドにアラーの大予言みたいなものですが、これは半世紀前の日本で論じられたことの、正確なまでの反復です。

1958年(わたくしの生まれた年であるこということはさておいて)に制定された職業訓練法ははじめて「技能検定」の規定を設けましたが、その解説書を書いた職業訓練部長の有馬元治はこう語っています。

>従来我が国においては、精神労働を尊び、肉体労働を卑しむという弊風があり、これがホワイトカラー優先、学歴偏重の結果を生み、ひいては企業内において不合理な処遇をもたらす要因ともなっていた。

生産加工に従事する労働者が、自己の技能に誇りを持ち、自己の経験と熟練とを十分に発揮でき、かつ、一般国民からは、これら技能労働者の階層が尊敬されるような社会を形成することは、労働者の地位の向上のために、極めて重要なことである。

技能検定は、かかる要請に応えんとするものであり、とかく学歴がないために社会の下積みとされがちであった優れた技能労働者をすくい上げ、昇進の道を開くとともに、職業訓練と相まって、適材を適所に置き、その職業の安定を図ろうとするものである。

>さらにわが国における戦後大企業を中心とする産業の近代化、生産技術の進歩は、新しい生産方式にふさわしい方の労働者をそれぞれの企業内で養成し確保しようとする傾向を生み、労働者の定着性を強めるような雇用制度が次第に整備されつつあり、企業間における規模格差、賃金格差は一層大きくなる傾向にあるが、技能検定制度の適正な運用は、技能水準の向上とともに、その高程度における平準化をもたらし、もって労働市場の封鎖性を打破し、企業間における賃金格差を減少せしめる役割も持つものである。

これは、正確に半世紀前に今日の「キャリア段位」とほとんど同じ思想を持って「技能検定」を打ち出した労働官僚の訴えであり、その後の半世紀間、労働者の地位向上がこの(外部労働市場を「ウデ」で生き抜いていくという)道筋ではなく、企業メンバーシップのさらなる昂揚の方向で実現していったことを考えると、なぜこの理想が実現しなかったのか、今回それを実現させるためには、一体何が必要なのか、を真剣に考える必要があります。

(追記)

田中萬年先生から早速リプライがありました。

http://d.hatena.ne.jp/t1mannen/20100901/1283311627「技能検定」を仕分けて「キャリア段位」を造る意味は何か?

そこでは、田中先生の思いが率直に書かれています。

>現政権は紹介したような「キャリア段位」を打ち出しながら、その精神の主柱となる「技能検定」関係事業を仕分けしていることです。

 この矛盾をどう理解すれば良いのか、という怒りをもって書いていたのでした。あるいは技能検定に類似した主にサラリーマンのための「ビジネス・キャリア検定試験」も同様に仕分けしています。

 さらに、そのような資格の基盤を維持するための公共職業訓練制度を仕分けし、その重要な役割を担っている職業能力開発総合大学校を廃止しようとしています。

 この矛盾をどう理解すれば良いのでしょうか。

 「資格思想」を持たない学歴主義者の仕業だ、と断定できますが、新しいことを起こせば新政権が評価されるだろう、とでも思っているのでしょうね。

何も付け加えることはありません。

807 これをやや広い見地からいえば、『世界』8月号で、宮本太郎先生、白波瀬佐和子先生と鼎談したときにわたくしが申し上げたこのことになるのではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-1a4e.html

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sekai1008.html

>濱口 新政権は、過去の政権から大きく変わったと言いたがるものです。たとえば、明治政府は、江戸時代は真っ暗で、明治になって明るくなったと言うけれど、よく見ると、かなりの部分は前の時代と連続しています。
自公政権の末期には、労働政策にしても社会保障政策にしても、ある意味で福祉国家を目指そうという方向性が出てきていました。例えば派遣法の改正についても麻生政権時代に既に規制を強化する改正案が出ていましたし、最低賃金についても、安倍政権の成長力底上げ戦略円卓会議で、それまで低く抑えられてきた最低賃金の水準を官邸主導で大幅に引き上げていこうという動きが出ていた。
 むろん、一方で自公政権には、規制緩和など、さまざまな公的サービスに対して否定的な傾向がありました。ただしその点でいえば、民主党にも事業仕分けに見られるように、公的なサービスによって国民の生活を引き上げていくことに対して否定的な感覚がかなり強くある。民主党政権の左手が一生懸命新しい福祉国家を目指して充実させようとする一方で、右手の方はむしろそれを削減しようという傾向がある、という意味で、二重の意味で前政権との連続性があるのではないか

私はずっと昔から、労働組合の関係者に申し上げているのは、「黒猫でも白猫でも、労働問題に取り組むのがいい猫だ」ということなんですが、なかなかそこはしがらみもこれありなんでしょうね。

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