「マージナル大学」の社会的意義
JILPTの『日本労働研究雑誌』9月号が出ました。まだJILPTのHPにアップされていないのですが、特集は「若者の『雇用問題』:20年を振り返る」です。
この特集とくれば当然小杉礼子とくるわけですが、その他にも苅谷剛彦さんの提言、奥野寿、児美川孝一郎、居神浩、朴弘文の諸氏の論文、橋口昌治さんの紹介、関口倫紀さんの投稿論文がならんでおり、書評まで熊沢誠氏による小杉礼子『若者と初期キャリア』ととり揃えています。
順次紹介していきたいと思いますが、読んで一番ショッキングだったのが(といいながら、実はこれはかなりの程度紹介用の修辞ですが)、居神浩さんの「ノンエリート大学生に伝えるべきこと-「マージナル大学」の社会的意義」という論文です。
居神さんは本田由紀流の「レリバンス」論に対して、
>現在「マージナル大学」の教育現場を覆っているのは、教育内容のレリバンス性を根本的に無意味化する構造的圧力である。・・・「マージナル大学」におけるそれは想像の範囲をはるかに超えるものがある。
と述べ、続く「ノンエリート大学生の実態の本質」というところでは、それは「学力低下」論とも「ゆとり教育の弊害」とも関わりなく、
>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。
と述べ、その多様性を「認識と関係の発達の「おくれ」」と捉えて、
>もう少し具体的にいうと。認識の遅れは例えば公共的な職業訓練を受けるのに最低限必要な学力水準に到達していないレベルにある。・・・学校を卒業しても改めて何か具体的な技能を身につけようとしても、公共の職業訓練さえも受けられなければ、それは社会生活上の自立にとって大きなハードルになるだろう。
>関係のおくれも深刻である。こちらはもっと卑近な例で、コンビニのアルバイトの面接で落とされてしまうレベルといえばわかりやすいか。要は非正規雇用でも対人接触を伴う業務の遂行は困難なほどの社会性やコミュニケーションの問題が見られるということである。
こういう記述を読むと、田中萬年さんの非「教育」論、職業訓練こそ真の学びという論すらも、職業能力開発総合大学校というそれなりに優秀な若者たちを集めたターシャリー教育機関の経験に基づくバイアスがあったのではないかという気がしてきます。
居神さんの「マージナル大学」はそんな生やさしいものではない、と。
では、そういうノンエリート大学生に何を伝えるべきなのか?
>ブラック企業の劣悪な労働環境をこれでもかと例示することによって、ノンエリート大学生がついつい陥ってしまう「楽勝就職」(事前の準備ゼロ、1回の面接で即内定)の末路が何らの仕事能力も身につかず「使い捨て」にされることを何となくでも分かってもらえば、さしあたりは成功である。
そして、ではブラックじゃない「まっとうな企業」に「雇用されうる能力」とは何か?
>まずは「初等教育レベルの教科書」を完璧にマスターしておくことをどうしても伝えておきたい。・・・要するに、「読み・書き・計算能力」こそが職業能力の土台であり、本当に「雇用されうる能力」を高めたければ、まずはそこからスタートしなければならない・・・
これは、まさしくヨーロッパの「エンプロイアビリティ」論が念頭に置いていたレベルです。日本はそうではない、ということを前提に今まで論じられてきたことが、なんだか全部ひっくり返る感じです。日本だって同じや。初等教育レベルのリテラシーとヌメラシーが大事や。まともなスキルはその先や。
世の「コミュニケーション能力」論は、実はやたらに高度な、並みの大人だってできないほどの、そのなんや、「はいぱあめりとくらしい」とやらの話と、こういうまさに小学生並みの、つまり2ちゃん用語でいえば「厨房」以下の話とが、相互に違うことを喋っているという認識すらないままごちゃごちゃになっていたのかもしれません。
それと同時に、彼らの就職先は総じてブラック職場だが、
>そこにとどまることで少しでも職業能力の成長が期待できるならば、とるべき方策は「退出」ではなく、自らの職場を改善・変革するための「異議申し立て」であろう。そのためには、労働者としての権利に関する知識が不可欠である。
と、「ボイス」の必要性と、そのための労働法教育の必要性を強調しています。ノンエリート大学生だからこそ、必要なのです。居神さんはこの点について、近く『もう一つのキャリア教育試論』(法律文化社)を出されるようです。
(参照)
このテーマについては、同じようにマージナルな大学に勤務していると思われる「日本経営学界を解脱した社会科学の研究家」氏の「社会科学者の時評」というブログ(かつて拙著の書評もありましたが)で、繰り返し論じられています。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?cat_id=71861
冒頭のエコノミスト誌の引用の「日本には2種類の大学がある。一つは学生のことを恥じている大学であり,もう1種類は学生のことを誇りにしている大学である」という一文からして強烈ですが、その長いエントリの連続をずっと読んでいくと、だんだん気が重くなってきます。
次の一文は、教育と職業訓練という議論の流れからも興味深いものがあります。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?cat_id=71861&page=3
>実は,〔A〕「職業教育を授ける大学」であったほうがいいはずの多くの大学が,まさに「二兎を追う者は一兎をもえず」ではないが,〔B〕「学術の中心である大学」の真似ごとをし,そのポーズだけは構えているから,非常に始末が悪い。〔A〕「職業教育を授ける大学」が,ほとんどできていないはずの,「目的=学術にもとづいた教授」をしているかのように偽っている。
〔B〕「学術の中心である大学」に任せるべき研究は,もっぱらこちらに重点的に任せておき,〔A〕「職業教育を授ける大学」は職業教育に専念すればよい。それなのに,なまじ「伝統的な従来型の〈大学の真似ごと〉」だけはしようとするから,結局どちらにもなりえていない。というよりは中途半端にもなりえていない,いわば共倒れのような,いいかえれば「一兎さえ捕まえられない〈似非高等教育機関〉」になり下がっているわけである。
>本来の伝統的な教育・研究をおこなう大学は,現在4年制だけでもうすぐ,800近くも存在するようになっている。この「諸大学すべてにその大学としての資格」があるかといえば,その答えは自明の理である。旧来型大学はせいぜい,18歳人口比で判断するに2割以内に抑えても十分過ぎるくらいである。
日本の大学の「3分の2」は不要・無用ではあるけれども,職業教育を教授・伝授する「高等教育機関」として変成させれば,これからも有用で意義ある教育機関になる。これを避けようとする非一流大学は,教育業界からただちに撤退したほうが得策である。
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なんだかこれではブラック企業が「必要悪」ん存在として承認されているような印象を受けてしまい複雑です。
もっと労働者教育を主体的に展開出来ないものでしょうか?
労働の社会的性格について展開出来るような論理展開はないのでしょうか?
労働の拒否とか賃労働=悪とか、労働=自己実現とか労働=生きがいとかという地平を超えて働くということをもっと積極的に語ることは出来ないものでしょうか?
自分でするしかないのですかね?
投稿: 赤いたぬき | 2010年8月24日 (火) 18時34分
最近ニュースで、あやしい派遣会社から「退出」しようとした青年が社長らに無理やり連れ戻されて、風呂の水に沈められて殺されたという事件が報じられてました。読み書き算盤や労働者の権利を問題を抱えた学生に教え身に付けさせるのは大賛成です。しかし先の例は特殊だとしても、ブラック企業にとどまり「発言」によって改善を図るのは困難なのでは?一人だと場合によっては危険ですらあると思います。そのような企業にはまともな労働組合は内部に無いと思うので、労基署や外部の信頼できる労働組合などと連携協力してやった方がいいと思います。それが難しいなら「退出」するのもアリだと思います。ブラック企業の定義はよく分かりませんが、その違法性が極度に悪質なら、それは必要悪ではなく端的に悪です。公権力による指導監督や市場圧力、労働運動などによって無くす(改善す)べきです。
投稿: トミオ | 2010年8月25日 (水) 05時14分