「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由
金子良事さんが、わたくしのエントリ(というよりもそこで紹介した居神浩さんの論文)に触発されて、「「マージナル大学」ではない、大学がマージナルを抱えている」と書かれています。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-a5af.html(「マージナル大学」の社会的意義)
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-177.html(「マージナル大学」ではない、大学がマージナルを抱えている)
>今は昔ほど偏差値があんまり学力の能力分布の代理指標になってくれない。ノビシロはあるけど、そこそこしか勉強してこなかったという優秀な子たちはちゃんと方向付けされると「へぇ勉強ってこんなに面白いんだ」とそれなりに勉強します。ついでに上の学校みたいにプライドが高くないから、鼻もちならないなんてこともないですし、気持ちもいいです。そういう子たちが底辺の子たちと一緒にいるんですね。だからね、正確に表現すなら、中堅以下の、定員を集めるのに困っている大学は、マージナルな層を抱えていると見るべきではないでしょうか。そもそも、そんな数字を大学が出してくれるわけないですし、境界線上は判定が難しいですから、実証なんて望むべくもありませんよ。
それはまったくその通りだろうと思います。すくなくとも、現に高等教育機関で学生たちに対している方々にとっては、極めて重要な認識であることは確か。
ただ、その正しい「大学がマージナルを抱えている」というミクロ的認識が、マクロ的には「マージナル大学」という認識枠組みで認識されてしまう不可避性というのもまた、統計的差別などという手垢のついた議論を持ち出すまでもなく、社会学的必然性であるわけです。
おっしゃるとおりなのだが、だからそういう(「マージナル大学」というような入れ物で判断するのではなく)本人をきちんと見てくれ、というときの、その見るべき「本人」の能力の判断基準が、「人間力」ということになると、具体的な職務能力といったものに比べて大変深みを要求する手間のかかるものとなり、それゆえに丁寧に選抜するためには、それに値しない者が多く含まれると考えられる集団をあらかじめ足切りすることが統計的に合理的であり得てしまうようなものとなってしまうために、本人は決してここでいわれるような意味での「マージナル」ではない学生たちが、人間力をじっくり判定してもらうところにまで行き着けないという意味において、彼らにとって非常に過酷なものになってしまうというのが、(金子さんが口を極めて批判する)本田由紀説の、わたくしが理解するところの一つのコアであるように思われます。
「マージナル大学」(に限りませんが)という思考経済的レッテルが、あまり有効性を持たないようなやり方はないのか、というのが、(必ずしも表には現れていないにしても)現在の就職問題を論ずる上での一つの軸でありましょう。
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