就職活動ではなく入社活動だから
労働問題について内田樹氏を批判するなどという無粋なことを何回繰り返すのか?と顔をしかめる向きもあるかと思いますが、やはりここは一言。
http://blog.tatsuru.com/2010/08/06_1028.php
>私はいまの雇用システムでは、「きわだって優秀な人間がそれにふさわしい格付けを得られない」ことよりも、「ふつうの子どもたちが絶えず査定にさらされることによって組織的に壊されている」ことの危険の方を重く見る。
いうまでもなく、普通の子どもたちだって、ちゃんと能力を査定され、その査定結果に基づいて選抜される権利があります。それ以外の、自分では何ともならない要因によってそもそも選抜されない不条理に比べれば。内田氏の目には見えないかも知れませんが、そういう現実もまた社会には存在します。しかし、それは今は括弧に入れましょう。
問題は、その査定基準です。
就「職」活動が、言葉通り、ある「職」に就くための活動であるならば、学生は自分が当該職務を遂行するために求められるこれこれの能力を有しているということを適切に提示することがその活動内容となるはずです。そして、それを示すために一生懸命になることは、「人格を組織的に壊す」ようなものというべきではないでしょう。職務能力の劣る人間を優れた人間よりも優遇しなければならない理由はありません。
しかし、日本の正社員の雇用契約とは、「職」を定めない「空白の石版」ですから、能力を示すべき対象の職務も無限定です。従って、正社員になることは就「職」ではなく、入「社」(会社のメンバーになること)であり、その際における「査定」とは、会社の中に存在するあらゆる職務を、命じられれば的確にこなせる「能力」を査定されることになります。いわば、「空白の石版」自体の性能を査定されるわけで、そこに何を一生懸命書き込んでも、それは参考資料にしかなりません。
これこそが、
>面接で落とされた場合、本人には「どうして落ちたのか」がわからない。
採用する側は「どうして落ちたか」の理由を開示する責務を免ぜられているからである。
その結果、学生たちは、自分には自覚されていないけれど、ある種の社会的能力が致命的に欠如していて、それがこういう機会に露出しているのではないか・・・という不安を抱くようになる。
その不安が就活する学生たちをしだいに深く蝕んでゆく。
という事態の原因になるわけです。職務能力「ではなく」人間としての性能が劣っていると判断されるわけですから。
しかし、この最も重要なポイントを、内田氏が指摘できないのは当然です。なぜなら、もし大学と職業との接続が職業的レリバンスのある大学教育内容を企業が適切に評価して採用するというようなものであったなら、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html(「就活に喝」という内田樹に喝)
>内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論。
で済む話だからです。
企業が「空白の石版」自体の性能、言い換えれば「人間力」によって採用してくれていたからこそ、会社に入ってからの職務になんら関係のない内田氏の教育が単なる趣味活動ではなく、「人間力」養成のための活動として(それなりに)評価してもらっていたわけでしょう。それを批判するのは、まさに天に唾するたぐいといえます。
(追記)
判っている人には言わずもがなのことですが、いうまでもなくわたしは
http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-8f84.html
>なんか大学vs企業のケンカやられても俺ら困るだけなんですけど
大学さんの職業的レリバンスなき教育と企業側の「空白の石版」的雇用システムが隠微な共生関係にあったのじゃないの?と皮肉っているだけです。
職務能力に基づく採用・就職活動を嫌っているという点で、大学と企業はまったく同じ立場でしょう。ケンカですらない。本質を外した責任のなすりあいをしているだけ。
(さらに追記)
李怜香さんに、こういうぶくまを付けていただいていています。
>「自分では何ともならない要因によってそもそも選抜されない不条理」論旨そのものではないけど、こういう視点があるかどうかで、議論もかわってくる。
本エントリの本筋ではありませんよ、とわざと断りながら、当近の話題だけじゃなくここにちゃんと気がまわる人がいれば、と内心思っておりました。ありがとうございます。
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