差別禁止法制は「私法の弔鐘」か?
『一橋法学』という立派な雑誌があります。一橋大学法学部の紀要なのですから立派なはずなのですが、その第8巻第3号(2009年11月)に掲載されている「EU共同大学院プレセミナー」ティルマン・レプゲン教授の講演「私法の弔鐘が聞こえる-EU差別禁止規則をめぐって」をよんで頭を抱えました。いや「規則」というのは「指令」の誤訳です。それは訳者の問題ですが、講演の中でこういうことを語っておられるのです。
>民法の二つの中心的制度について、レクイエムが歌われています。・・・もう一つの法制度は契約自由です。・・・我々が考察する対象は、EU諸規則の差別禁止計画-この災いの発端です。その際問題としたいのは、差別禁止と私法との不整合です。差別禁止計画に有効な批判を行うためには、まずそれが契約自由への介入であることを確認し、次にこの介入が不当であることを証明しなければなりません。
この後、EUの差別禁止諸指令の内容を概観して、批判にはいるのですが
>ある家族の父親が新聞広告で未成年の娘のためにピアノ教師を募集したとしましょう。ある応募者が確かにピアノは上手に演奏するとしても常習の小児性愛者であるならば、父親はそれを理由として当然に採用を拒否できます。父親は、それによって同時に当該人物の人格的尊厳を侵害することなく、この性的指向を採用拒否の根拠とすることができます。というのも、父親の行為の本質に照らして、そこには他者に対する軽蔑ではなく、自分の子どもの保護のための決定が表現されているからです。 このことは、差別禁止の議論がほとんど完全に主題を外していることを示します。
うーーむ。頭を抱えるでしょう。
そもそもペドフィルはEU指令が想定する性的指向じゃない、といいたいのですが、逆に明確にそう書いてあるものはないし、それこそスウェーデン海賊党がEU指令違反だと訴えるかも知れない。
それにしても、これとか、
>20歳の若者が「彼の年齢ゆえに」公に提供される老人ホームの住居施設の賃貸を要求し得ないことは、まったく明らかです。
とか、
>雇用者が不採用とした外国からの応募者に旅費を払い、近隣からの応募者に支払わなかった場合、それは差別でしょうか?
といった設例で差別禁止法制が私法の弔鐘だといわれてもなあ・・・という気がするのは、わたくしにものごとを本質的に考える能力がないからなのでしょうか?
« 就職活動ではなく入社活動だから | トップページ | それは大学だけの任務じゃない »
コメント