ナショナリズムにかかる以前のエントリ
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-d7e2.html(「ネーション共同体」をまともに論ずるのなら)
にかかわる過去のエントリを若干紹介しておきます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-9819.html(ナショナリズムは国家を民衆のものにするか)
>戦前の労働運動史を読めば、官憲が経営者の味方をして労働者を弾圧する繰り返しです。それが初めてそうでなくなった時代-官憲が労働運動の味方をしてむしろ経営者を締め付けるようになった時代というのが、まさに大日本帝国がナショナリズムを振りかざして中国に侵略していった時代であるということの深刻さをまじめに考えたことがない人間だけが、脳天気に「自由も平等もnationがベースではないのは自明。《人は皆同じ》というコスモポリタン的平等主義こそ掲げるべき理念だろうに」なんて言えるんでしょうね。ネーションをベースにしないで、「人は皆同じ」をどのように実効あらしめることが可能であり得るのか、まじめに考えたことがあるのでしょうか。『蟹工船』のラストをハッピーエンドに変えたのは日中戦争、まさに「希望は戦争」であったわけで。
本ブログで何回も取り上げてきたテーマです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_a88b.html(超リベサヨなブッシュ大統領)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_642c.html(昭和8年の三菱航空機名古屋製作所争議)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/12_f1d9.html(昭和12年の愛知時計電機争議)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_f86f.html(日中戦争下の日本)
もちろん、その希望の戦争の果てに待っていたのは死屍累々の焼け野が原であったわけですが。
そして、それをすでに知っている我々は、戦争を希望としない、もっといいナショナリズムのあらわし方を知っていなければならないはずなのです。
<tari-Gさんのコメント>
>自由や平等を考える立脚点は、まずもって「同胞」ではなくて「人」でなくてはならないと私は思います。本来言うまでもないことですが。それは今に至るまでNationがさんざんやってきている暴虐からもそう思います。
もちろん、Stateから離れることはできません。しかしだからといって、「人」ではなく「同胞」に基盤を置こうというのは、それこそ懲りずにNationに過度の楽観を抱いている脳天気にしか、どうしても私には思えないんですよ。
だいたい、Nationから独立した内心の自由すら未だに確立できないこの国にいながら、Nationに期待するということ自体、歴史どころか現在も把握できていないのではかなろうかと思わずにはいられませんが。
<hamachanの応答>
>私は別に「懲りずにNationに過度の楽観を抱いている」つもりはなく、「自分の経験」からも「他人の経験」からも、ネーションは劇薬であることは重々承知しているつもりです。
しかし、この劇薬は、危ない危ないと言っていればそこから逃れられるものではなく、インターナショナリズムを掲げた共産主義運動がまさに最悪の形のナショナリズムの泥沼に陥ったごとく、自分は逃れていると思っている人間が一番その危険に近いところにいるという逆説をもたらすということも、我々が歴史的経験から学んだところでしょう。
実を言えば、我々が自分以外のものに何らかの同情(シンパシー)の念を感じるのは、その自分ではないものに自分と通じる何物か共通性を感じるからであり、その自我包絡をどの範囲までに及ぼし、どの範囲には及ぼさないかは、必ずしも一義的に決まるものではありません。かつては親族などの血のつながりがその範囲を決定していたわけですし、現在でもそれが重要な要素であることには変わりはないでしょう。ネーションというのはそういう自我包絡のきわめて近代的な一形態であり、リアルなシンパシーを通常感じないような人々にまでそれを及ぼすための心理的な装置であることも、ご承知の通りです。
そんなものに何の意味があるのか?自分の親戚でもなければ縁者でもない人々になんで同情なんて及ぼすの?たとえば、日比谷公園に勝手に集まってきた失業した派遣労働者を何とかしなければいけないなどと、なぜ感じるの?ということですね。
仮に、「何を馬鹿なことを言っているのだ。世界の貧しい人々のことを考えろ。日本の派遣切りなんて天国みたいなものだ」と、国際政治学的には適切なことを言われたら、「いやあ、もっともだ」と納得するだろうか、ということでもあります。「同胞」と同胞でないただの「人」に差別をつけないということは、つまり「同胞」であってもその「人」並みにしか扱わないということなわけで。
そういう言葉の上では限りなく美しく、現実の行為においては冷酷でしかあり得ないコスモポリタニズムに対し、「つまり俺たちを仲間として扱わないということだな」という反発がどういう形態をとるであろうかと考えると、(まさに歴史の実例が語るように)「同胞」ではない「人」を「敵」として描き出し、その敵への敵愾心を煽り立てることによって、その対照物である「同胞」を仲間として手厚く扱えと主張する、悪い意味におけるナショナリズム(あるいはむしろショービニズム)が噴出し、瀰漫することになるでしょう。
いや、最近の右翼雑誌などを見ていると、まさにそういうメカニズムが働いているように思われます。
リベサヨがソシウヨをもたらすというのは、そういうことを言っているつもりです。
(追記)
dojinさんの「研究メモ」に、スウェーデン民主党という極右政党のTVCMの話題が取り上げられていて(本ブログにトラバをいただいています)、そこで「福祉ショービニズム」が論じられています。
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20100830#p1(TV放映を拒否されたスウェーデン民主党の選挙CM)
>年金受給者用、移民用にそれぞれカウントされていく札束、そこによろよろと歩み寄るスウェーデン人のおばあさん。するとその横から、ブルカをかぶり、ベビーカーを引いた大量のムスリム系の女性が追い抜いていく。。。スウェーデンのテレビ局に放映を拒否されたこのスウェーデン民主党のCMは、ヨーロッパで台頭しつつある福祉ショービニズムを象徴的に描きだしている。
このエントリで、わたくしの過去のエントリがリンクされています。本エントリの参考として読まれてもいいと思われますので、ちょっと引用しておきます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html(スウェーデンは「ナチ」か?)
>ま、与党も野党も、公務員叩けば人気が出ると思い、実際その方が人気が出るような国に「フレクシキュリティ」は無理というのが本日の「ナチ」ならぬ「オチ」ということで。
>多くの方はご理解いただいているようですが、念のため一言だけ。上で市野川さんやそれを受けてわたしが言ってる「ナチ」ってのは、もちろんドイツの国家社会主義労働者党とわざとイメージを重ねることをねらってそういう言い方をしているのですが、文脈から判るように、あくまでも「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムという普通名詞の意味で言ってるわけで、ここでホロコーストだの南京虐殺だのといった話とは(根っこにさかのぼればもちろんつながりがないとは言えませんが)とりあえずは別次元の話です。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-d56b.html(「不寛容なリベラル」というパラドクス)
>人権を守るようなふりをしてかっこよさげにイスラム移民を擁護する「多文化共生主義者」こそ自由と人権と民主主義と男女平等の敵である、と。
>このロジックがそのまま日本に応用できるかというと、日本で排外主義をあおっている右翼な人々の国内政策における主張が自由と人権と民主主義と男女平等と政教分離を断固守れと強調しているとはいささか言いがたい面があるので(むしろ逆のケースが多い)、そのまま持ってこれるとは到底いえませんが、一般市民レベルにおける隠微な支持感情の背後には、中国やとりわけ北朝鮮の非民主性や人権レベルの低さが働いている面もあるかも知れません。ただ、韓国も一緒にして「特定アジア」への敵意をあおっているのを見ると、それは意識的なものではないのでしょうが。
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こんばんは。
社会政策がおもに国家によって遂行されている以上社会政策が国家の範囲に規定されることは事実ですが、それでもやはり労働者には祖国はないと思います。
たまたま日本に生まれたことにより非常に多くの恩恵を得ているのは事実ですが、その日本社会のなかで国際的にも労働者のモデルとなるような社会を形成する努力は可能ですしまた目指すべきであると考えます。
優れた社会システムは参考になると思いますし、それは一つの社会変革の輸出にもなると思います。
労働者階級が社会の中核を形成しているという事実に基づくなら、社会政策や安全保障を遂行する上で便宜的に国民国家を利用することは大切なことだと思いますが、多分国民国家の利用方法はそれ以上でもそれ以下でもないと思います。
国家社会主義という弊害はもちろん危険ですが、それでもインターナショナリズムはソーシャルを媒介とすれば未だ有効な概念だと思います。
草々
投稿: 赤いたぬき | 2010年8月29日 (日) 19時57分