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2010年8月

2010年8月31日 (火)

出所者向けハローワーク

法務省が「出所者向けハローワーク」を計画しているようです。朝日から、

http://www.asahi.com/national/update/0831/TKY201008310226.html

>法務省は31日、刑務所出所者の再犯防止に向けた社会復帰支援対策をとりまとめ、発表した。「刑務所に再入所する人の7割が無職」という現状をふまえ、出所後の住居と仕事を定着させる施策などを盛り込んだ。

 「更生保護就労センター(仮称)」は、出所者向けのハローワークとも言える施設だ。NPOなどの民間団体に委託して、服役中から受刑者と雇用先とのマッチングを図る拠点を各都道府県に設ける計画だ。同省は来年度予算の概算要求の「特別枠」として約7億円を要望する。

これはもちろん大切なことですが、アフターケアの性質などから考えると、むしろ労働者派遣システムを活用して、「ご心配かも知れませんが、何かあっても使用者責任は問われませんから、とにかく一度使ってみてください」というやり方が有効である分野なのではないかという気もします。もちろん、(医者以上に)公的な仕組みでやらないと危険ですが。

ナショナリズムと福祉国家

かつて拙著を丁寧に書評いただいたこともある毎週評論さんが、「ナショナリズムと福祉国家」というテーマを取り上げています。

http://maishuhyouron.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-aa63.html(ナショナリズムと福祉国家)

はじめにグンナー・ミュルダールなどを引きつつ、一般的にいわれるナショナリズムと福祉国家の関係を概観した上で、しかし、とこう続けます。

>しかし、上述のようなナショナリズムと福祉国家の積極的な関係は、現在においても果たして自明なのだろうか。

もちろん、ここで疑問を提起されるのは一般的なネーション共同体と福祉国家の関係というよりも、

>では「ナショナリズム」を、より一般的に用いられているように、「外国人」に対する嫌悪感や競争意識に基づく攻撃・排除という意味に限定すればどうであろうか。それは「場合による」としか言いようがないが、ここでは両者の密接な関係を強調してきた従来の左派系の学者の議論に対する批判の意味も込めて、あえて否定的な関係として理解しておきたい。その理由は以下の通りである。

と、いわゆるショービニズム、外国人憎悪的なイデオロギーの問題です。

とはいえ、例の「りふれは」論争(?)の出発点が、単なるナショナリズムというよりは特定の外国人に対する悪意の感じられる表現であったことを考えれば、やはりきちんと論じられるべき論点でしょう。

毎週評論さんが指摘するのは3点。

>第1に、日本を含めて現在の先進諸国の社会保障制度は、既にナショナリティは社会サービスの受給資格要件として機能していない。

>だから現在、社会保障の充実を政策課題として掲げる場合、それは必然的に外国人の社会的な統合・包摂を志向するものになる。

これは、半分正しいけれど、残りは正しくないと思います。労働に関連する形で設計された社会保障制度はまさに労働がサービス給付の根拠であるので、少なくとも正当に労働する外国人を排除するものではないといえますし、それがけしからんと非難するのはよほどのショービニストだけでしょう。

しかし、日本の生活保護に相当する無拠出の社会扶助は、給付根拠に労働が存在しないために、ナショナリティが資格要件として機能していないとはいえません。むしろ、外国人労働が引き連れてきた多くの親族が福祉受給者になるといった事態があるため、そこが福祉ショービニズムを引き起こす最大の理由になっている面もあります。

これを解決する道は、一つはワークフェアという形で事前ではないにしてもせめて事後的な労働とのつながりをつけることでしょう。ヨーロッパのワークフェアには、この移民対策という側面が裏にあると思います。

これに対して、労働とのつながりを一切断ち切る方向に向かえば、まさにわたくしがベーシックインカムについて論じたように、

>最後に、BI論が労働中心主義を排除することによって、無意識的に「“血”のナショナリズム」を増幅させる危険性を指摘しておきたい。給付の根拠を働くことや働こうとすることから切り離してしまったとき、残るのは日本人であるという「“血“の論理」しかないのではなかろうか。まさか、全世界のあらゆる人々に対し、日本に来ればいくらでも寛大にBIを給付しようというのではないであろう(そういう主張は論理的にはありうるが、政治的に実現可能性がないので論ずる必要はない)。もちろん、福祉給付はそもそもネーション共同体のメンバーシップを最終的な根拠としている以上、「“血“の論理」を完全に払拭することは不可能だ。しかし、日本人であるがゆえに働く気のない者にもBIを給付する一方で、日本で働いて税金を納めてきたのにBIの給付を、-BI論者の描く未来図においては他の社会保障制度はすべて廃止されているので、唯一の公的給付ということになるが-否定されるのであれば、それはあまりにも人間社会の公正さに反するのではなかろうか。

という帰結になりそうに思います。

次の

>第2に、世界各国で社会保障制度が整備されるようになれば、国境を超えた人の移動、特に従来のような富裕層や最貧困層以外の労働移動が促進される可能性が高い

というのは、むしろ社会保障制度が整備された国同士での話であって、そうでない途上国から(途上国には及びのつかない)高い社会保障を求めてやってくるという話とは若干ずれがあるように思います。

問題の第3ですが、

>第3に、社会保障制度の維持・強化を目指す過程でナショナリズムが語られているのか、それともあくまで福祉が、ナショナリズムが発露する(主要な)「舞台」の一つになっているに過ぎないのかは、慎重に区別して論じる必要がある。私の評価では、いわゆる「福祉ナショナリズム」というのは、基本的に後者のケースが大多数だと考えている。つまり、社会保障への利害関心から外国人へ反感が派生したというよりも、もともと外国人への反感を抱いていた人たちが、たとえば社会保障財政の逼迫が政治的な話題になった時に、「移民が国の福祉にただ乗りしている」という攻撃を繰り広げていると理解したほうがよい。

このこと自体、こう簡単に言えるかどうかは保留したいところがありますが、仮にそうだとしても、問題は福祉ショービニズムをあおっている政治家やイデオローグというよりも、それを聞いて「そうだ、そうだ、あいつらを追い出せ!」と唱和する人々のそのような行動をもたらす精神的メカニズムは必ずしもそうではないのではないか、という点です。唱和組がすべてもともと外国人憎しで、たまたま福祉に乗っかっただけという解釈は、かえって国民の意識構造として絶望的な結論を導くことになりますが、もちろんそれが事実ならばやむを得ませんが、その時代によって動きを変える唱和組については別の解釈をしておりた方が、現実をより適切に説明しうるように思われます。

いずれにせよ、毎週評論さんが指摘するように、

>特に現在の日本におけるナショナリズムでは、社会保障の問題はほとんど無関心である。

まさにその通りです。ただ、その危険性はあり得ると思っています。

ただ、何にせよ、このナショナリズムと福祉国家の関係という論説が、

>福祉国家の限界を語る、それ自体は真摯な問題意識に基づく議論が、「多様な生の自己決定」の名のもとに、福祉給付削減の論理と図らずも共振してしまったことも、反省しなければいけない問題である。

というのもまことにもっともであり、それこそ、わたくしがややペジョラティブに論じてきた「リベサヨとネオリベの野合」(ソーシャルはウヨクに近いからとリベラルなサヨクがソーシャルを嫌悪してネオリベ化する現象)の源泉でもありましょう。

今のところ、わたくしの処方箋は、無拠出の社会保障制度のできる限りのワークフェア化によって、悪しきショービニズムにつけ込まれないようにする、ということになるのですが。

大風呂敷を広げるのはエセ経済学者

また、野川先生のつぶやきに反応しますが・・・。

http://twitter.com/theophil21/status/22574090872

>経済学者はなぜ大風呂敷を広げたがるのだろう。社会を分析するのに、法律学は「規範」や「制度」という窓を通して見た場合にどうなるのか、を示している。同じように経済学は「経済」という窓を通してみたらこうなる、と言っているだけだ。それなのに「経済がわかれば世界がわかる」と言い募っている。

少なくとも、清家先生や樋口先生をはじめとするまっとうな労働経済学者でそんなことを言っている人はいないと思います。

そういう大風呂敷を広げているのは、インチキ商品を売りつけるのに忙しいエセ経済学者であると心得ればいいのではないでしょうか。

そういうのが世にはびこるのが困ったことではありますけど、いきなり「経済学者は・・・」と決めつけると、迷惑な方々がたくさんおられますので。

非正規労働問題についての「結論」

某方面用の非正規労働問題に関する論考の結論部分。全然「結論」になっていないけれども、それが日本の現状ということで。

>結論

 日本における非正規労働問題の在り方の最大の問題点は、ナショナルレベルの立法政策に対する期待や負荷があまりにも高く、ソーシャル・パートナーシップによる労使自治を通じた解決という道筋があまりにも細くかつ乏しい点にある。

 これは日本における労働問題の共通の悪弊ではない。むしろ、賃金や一般的な労働条件に関しては、全国的な立法は最低レベルのごく一部の労働者にのみ影響を及ぼし、多くの正規労働者の賃金・労働条件は企業レベルにおける労使交渉を通じて自主的に決定されるというのが、日本の労働市場の一般的な姿である。

 ところが、日本の企業別組合の大部分がその組合員資格を正規労働者に限定する傾向があることから、多くの非正規労働者はこういったミクロレベルの充実した労使自治によってカバーされず、結果的にラストリゾートであるはずの立法政策による救済が最初から求められるというパラドックスが生じることになる。本稿で見てきた非正規労働者に対する法政策の紆余曲折は、このことを雄弁に物語っているといえる。

 しかしながら、第3節で見たように、極めて限られた分野と団体によるものとはいえ、労働組合が非正規労働者を組織化し、それを踏まえて彼らの処遇改善を図っていくという道筋がわずかながらも見えてきた。この道を大きく守り育てていくことによって、立法政策とソーシャル・パートナーシップ双方に支えられた非正規労働者に対する対策が進んでいくことが期待される

2010年8月30日 (月)

「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由

金子良事さんが、わたくしのエントリ(というよりもそこで紹介した居神浩さんの論文)に触発されて、「「マージナル大学」ではない、大学がマージナルを抱えている」と書かれています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-a5af.html(「マージナル大学」の社会的意義)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-177.html(「マージナル大学」ではない、大学がマージナルを抱えている)

>今は昔ほど偏差値があんまり学力の能力分布の代理指標になってくれない。ノビシロはあるけど、そこそこしか勉強してこなかったという優秀な子たちはちゃんと方向付けされると「へぇ勉強ってこんなに面白いんだ」とそれなりに勉強します。ついでに上の学校みたいにプライドが高くないから、鼻もちならないなんてこともないですし、気持ちもいいです。そういう子たちが底辺の子たちと一緒にいるんですね。だからね、正確に表現すなら、中堅以下の、定員を集めるのに困っている大学は、マージナルな層を抱えていると見るべきではないでしょうか。そもそも、そんな数字を大学が出してくれるわけないですし、境界線上は判定が難しいですから、実証なんて望むべくもありませんよ。

それはまったくその通りだろうと思います。すくなくとも、現に高等教育機関で学生たちに対している方々にとっては、極めて重要な認識であることは確か。

ただ、その正しい「大学がマージナルを抱えている」というミクロ的認識が、マクロ的には「マージナル大学」という認識枠組みで認識されてしまう不可避性というのもまた、統計的差別などという手垢のついた議論を持ち出すまでもなく、社会学的必然性であるわけです。

おっしゃるとおりなのだが、だからそういう(「マージナル大学」というような入れ物で判断するのではなく)本人をきちんと見てくれ、というときの、その見るべき「本人」の能力の判断基準が、「人間力」ということになると、具体的な職務能力といったものに比べて大変深みを要求する手間のかかるものとなり、それゆえに丁寧に選抜するためには、それに値しない者が多く含まれると考えられる集団をあらかじめ足切りすることが統計的に合理的であり得てしまうようなものとなってしまうために、本人は決してここでいわれるような意味での「マージナル」ではない学生たちが、人間力をじっくり判定してもらうところにまで行き着けないという意味において、彼らにとって非常に過酷なものになってしまうというのが、(金子さんが口を極めて批判する)本田由紀説の、わたくしが理解するところの一つのコアであるように思われます。

「マージナル大学」(に限りませんが)という思考経済的レッテルが、あまり有効性を持たないようなやり方はないのか、というのが、(必ずしも表には現れていないにしても)現在の就職問題を論ずる上での一つの軸でありましょう。

経営権による労働者の人権・プライバシー等の制約の限界

経営法曹会議から『経営法曹会議研究会報』64号をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

今号の特集は「経営権による労働者の人権・プライバシー等の制約の限界」という、いろんな意味で刺激的なテーマです。先日取り上げたドイツの求職者の情報収集制限立法案の問題とも密接につながる話題でもあり、大変今日的でもありますが、取り上げられている設例をみると、まことに泥臭い感もこれあり、なかなか複雑な分野です。

さあ、頭を悩ましてください。現実感覚ゼロの空論はダメですよ。

事例1

(1)性犯罪の前科がある者が、その前科を隠して事務職に応募し採用内定に至った場合、前科のあることまたは前科を申告しなかったことを理由に内定を取り消しうるか。

(2)前問で、職種がア)訪問販売である場合、イ)トラックの運転手である場合にはどうか。

(3)前科が刑法34条の2により消滅していた場合にはどう考えるべきか。

(4)前科ではなく前歴である場合には相違はあるか。

事例2

(1)男性従業員がある日女装して出社し、自分は性同一性障害であるとしてその旨の診断書を示し、以降女子トイレ、女性用ロッカーの使用を要求した場合、会社はいかなる対応をとるべきか。

(2)バス等の運行を業とし、運航先では同僚との「雑魚寝」等が必要となる企業に、生物学的には女性である性同一性障害者が男性として就労することを求めてきた場合、会社としてはどのように対処すべきか。特に当該労働者が女性として個室を提供する等の特別扱いを拒否した場合、どのような対応が考えられるか。

この(2)は実際に相談を受けたケースだそうです。

事例3

新入社員の合宿研修中、入浴時に背中一面にいわゆる「倶利伽羅悶悶」の彫り物をした者が居ることが発覚し、他の新入社員が恐怖感を覚えているとの報告があった場合、会社としてどのように対処すべきか。

2010年8月29日 (日)

ひさしぶりにブログで長めの拙著書評

最近、拙著への言及もほとんどtwitter上のものが多く、ブログで長い書評というのはあんまり見かけなくなっていましたが、久しぶりに長編書評です。

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html(muse-A-muse 2nd 覆水梵に還る)

>労働法関連の本ということもあってかなんか読みにくくてけっこう気絶させられたけど、話題になってたとおりこの領域の構造的問題が分かりやすく見取り図になってるなあ、と思った。

ちなみに、この「m_um_u」さん、twitter上でも拙著についてかなりつぶやいておられました。

いちいち引きませんが、下記拙著書評リストのページの下の方を見てください。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/bookreviewlist.html

医師派遣はいいの悪いのどっちなの?

1週間前の朝日の記事で、

http://www.asahi.com/health/news/TKY201008210331.html(医師不足解消へ、都道府県に派遣センター 厚労省が構想)

>厚生労働省は医師不足に悩む病院に医師を派遣する「地域医療支援センター」(仮称)を各都道府県に設置する構想をまとめた。事業費約20億円を来年度予算の概算要求に盛り込む。医師不足の病院に医師を送る仕組みを国が全国的に整えるのは初めて。

 医師が不足している地方では、地元大学の医学部に、卒業後に地元で一定期間働く意思を示している人を対象にした「地域枠」を設ける動きが広がっている。そこでセンターは、地域枠出身の新卒の医師らを病院に派遣する。地域枠出身の医師に10年近く残ってもらう地方が多く、多数の若手医師を効果的に配置するには、派遣先を一元的に調整する必要があるためだ。

>都道府県によるセンター直営や外部委託が想定されている。派遣とは別に、地域での就職を希望する医師を病院に紹介する事業も手がける。

 医師不足は2004年に新卒医師に2年の臨床研修が義務づけられたのを機に深刻化した。様々な病気の患者を診療できて経験を積める都市部の総合病院が人気を集める一方、大学病院は敬遠され、周辺の病院に派遣していた医師を引き揚げて医師不足を招いた。(月舘彩子)

派遣法の歴史については末尾の資料をご覧頂きたいですが、派遣法制定当時はポジティブリストには入っていなかったけれど、ネガティブリストでもなかった医療業務が、1999年改正時に当時の厚生省医政局の要求でなぜか建設や港湾荷役なみのネガティブリストになってしまった由来を考えると、それほど「医師を派遣するのは許し難い!」と主張していた医政局が、医師の派遣事業を大々的にやろうというのは、どういう理論的整理を付けておられるのか、大変興味深いところではあります。

まさか、この記事でいう「派遣」が労働者派遣法で言う「派遣」じゃない、なんてことはありませんよね。下の方に出てくる「紹介」が職業安定法で言う「紹介」であることと同様、前提にしていい話ですよね。

どういう法制度を考えているのか分かりませんが、まさか一般事業主には依然として医師派遣は禁止業務だといっておいて、都道府県やその外部委託先にだけ医師派遣を認めるというような制度にするというのであれば、それは港湾荷役とまったく同じ仕組みですから、まったく同じ説明をしなければならないはずです。

つまり、医療界というのは港湾荷役の世界と同様、山口組のようなやくざやさんが横行する怖ーーーい世界なので、一般的には禁止しつつ、特別の団体にのみ認めるのだ、と。

まあ、そういいたければそれでもいいですけど、なんにせよ、チーム医療だから医師の派遣は駄目とか言ってたあの理屈は、もう封印するということなのでしょうね。

(参考)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/rengohakenukeoi.html(連合「労働者派遣・請負問題検討会」第1回講演メモ)

>もう一つ1999年改正の施行の際に適用除外業務に飛び込んできたのが医療関係業務である。もともと、医療関係業務は原始ネガティブリストには含まれておらず、1994年の高年齢者派遣特例で部分的ネガティブリスト方式が導入された際にも、医療関係業務は適用除外とはされなかった。当時の解説書にも堂々と医師、看護婦等の業務が例示されている。育児・介護休業取得者の代替要員派遣でも当然のように対象業務であった。また、1999年改正に至る審議会の議論や国会審議においても、医療関係業務を適用対象から外すといった議論がされた跡は窺えない。ところが、法施行時になって、政令で定める「その業務の実施の適正を確保する上で労働者派遣が不適切な業務」に、なぜか医療関係業務が追加されたのである。

 改正後の解説書によると、その理由は、医療はチームで行われ、また人の身体生命に関わるとのことであるが、言うまでもなく多くの業務はチームによって行われているし、人の身体生命に関わる業務も医療に限られるわけではない。そもそも、医療職はすぐれて専門技術的な性格を有しており、ポジティブリストで対象業務になっても不思議でなかったはずである

リバタリアンと児童虐待

kihamuこと松尾隆佑さんが「on the ground」で興味深いエントリを上げています。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100828/p1

蔵研也氏とanacap氏という二人のリバタリアンの児童虐待に対する「処方箋」を取り上げて論じたものですが、この二人の議論がある意味で対照的です。

蔵氏は児童保護警察NPOと警察の分割・民営化を唱えるのですが、松尾さんの批判するように、あまりにも多くの社会的不利益をもたらすことが明らかだし、そもそもなぜそんなことに血道を上げなければならないかがリバタリアン思想からしていっこうに明らかではない。

そもそも、「児童虐待」なる現象がなぜ「問題」であるのかという根本のところで、リバタリアンたる立場がきちんと意識されていないように思われます。もし「虐待」されている「児童」がかわいそうなどという愚劣にもコミュニタリアンな発想でものを考えているとしたら、それこそリバタリアンの風上にも置けないのでは?

それに対して、anacap氏の「子供(の親権)売買」という処方箋は、出発点からしてリバタリアン的です。つまり、「児童虐待」とは、当該児童が将来多くの収益を親にもたらすであろうとか、当該児童を養育すること自体が親にとって高い効用を与える快楽的行為であるといった正の効用が、当該児童養育にかかるコストを大幅に下回ることによって発生する現象であり、これを解決するためには、当該児童の養育の効用が高い者に当該児童の養育権を譲渡させることが有効であるという、まことに経済理論に則った解決策であるからです。ここには妙なコミュニタリアンな発想のしっぽはくっついていません。まことにすっきりとしています。

問題は、松尾さんのエントリにも指摘されているように、「児童養育」の高い効用ではなく、「児童への性的行為」の高い効用を求めて当該児童の養育権を購入しようという人間が多数続出する可能性ですが、リバタリアン的発想を徹底すれば、それのどこが悪い、ということになるのでしょう。すくなくとも、「効用が乏しい」ゆえに実の親に虐待されることに比べれば、(性的)「効用が高い」ゆえに他人に愛好されることはよりパレート最適であるから望ましいと平然と断言するのが、リバタリアンの鑑と言うべきでありましょう。

おそらくそこまでいくと、(隠しても隠しきれないコミュニタリアン的)感情から反発する向きが出てくると思われます。そう、そこまで問題を突き詰めて始めて、本来の議論が始まるのです。

2010年8月28日 (土)

ナショナリズムにかかる以前のエントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-d7e2.html(「ネーション共同体」をまともに論ずるのなら)

にかかわる過去のエントリを若干紹介しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-9819.html(ナショナリズムは国家を民衆のものにするか)

>戦前の労働運動史を読めば、官憲が経営者の味方をして労働者を弾圧する繰り返しです。それが初めてそうでなくなった時代-官憲が労働運動の味方をしてむしろ経営者を締め付けるようになった時代というのが、まさに大日本帝国がナショナリズムを振りかざして中国に侵略していった時代であるということの深刻さをまじめに考えたことがない人間だけが、脳天気に「自由も平等もnationがベースではないのは自明。《人は皆同じ》というコスモポリタン的平等主義こそ掲げるべき理念だろうに」なんて言えるんでしょうね。ネーションをベースにしないで、「人は皆同じ」をどのように実効あらしめることが可能であり得るのか、まじめに考えたことがあるのでしょうか。『蟹工船』のラストをハッピーエンドに変えたのは日中戦争、まさに「希望は戦争」であったわけで。

本ブログで何回も取り上げてきたテーマです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_a88b.html(超リベサヨなブッシュ大統領)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_642c.html(昭和8年の三菱航空機名古屋製作所争議)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/12_f1d9.html(昭和12年の愛知時計電機争議)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_f86f.html(日中戦争下の日本)

もちろん、その希望の戦争の果てに待っていたのは死屍累々の焼け野が原であったわけですが。

そして、それをすでに知っている我々は、戦争を希望としない、もっといいナショナリズムのあらわし方を知っていなければならないはずなのです。

<tari-Gさんのコメント>

>自由や平等を考える立脚点は、まずもって「同胞」ではなくて「人」でなくてはならないと私は思います。本来言うまでもないことですが。それは今に至るまでNationがさんざんやってきている暴虐からもそう思います。

もちろん、Stateから離れることはできません。しかしだからといって、「人」ではなく「同胞」に基盤を置こうというのは、それこそ懲りずにNationに過度の楽観を抱いている脳天気にしか、どうしても私には思えないんですよ。

だいたい、Nationから独立した内心の自由すら未だに確立できないこの国にいながら、Nationに期待するということ自体、歴史どころか現在も把握できていないのではかなろうかと思わずにはいられませんが。

<hamachanの応答>

>私は別に「懲りずにNationに過度の楽観を抱いている」つもりはなく、「自分の経験」からも「他人の経験」からも、ネーションは劇薬であることは重々承知しているつもりです。
しかし、この劇薬は、危ない危ないと言っていればそこから逃れられるものではなく、インターナショナリズムを掲げた共産主義運動がまさに最悪の形のナショナリズムの泥沼に陥ったごとく、自分は逃れていると思っている人間が一番その危険に近いところにいるという逆説をもたらすということも、我々が歴史的経験から学んだところでしょう。

実を言えば、我々が自分以外のものに何らかの同情(シンパシー)の念を感じるのは、その自分ではないものに自分と通じる何物か共通性を感じるからであり、その自我包絡をどの範囲までに及ぼし、どの範囲には及ぼさないかは、必ずしも一義的に決まるものではありません。かつては親族などの血のつながりがその範囲を決定していたわけですし、現在でもそれが重要な要素であることには変わりはないでしょう。ネーションというのはそういう自我包絡のきわめて近代的な一形態であり、リアルなシンパシーを通常感じないような人々にまでそれを及ぼすための心理的な装置であることも、ご承知の通りです。
そんなものに何の意味があるのか?自分の親戚でもなければ縁者でもない人々になんで同情なんて及ぼすの?たとえば、日比谷公園に勝手に集まってきた失業した派遣労働者を何とかしなければいけないなどと、なぜ感じるの?ということですね。
仮に、「何を馬鹿なことを言っているのだ。世界の貧しい人々のことを考えろ。日本の派遣切りなんて天国みたいなものだ」と、国際政治学的には適切なことを言われたら、「いやあ、もっともだ」と納得するだろうか、ということでもあります。「同胞」と同胞でないただの「人」に差別をつけないということは、つまり「同胞」であってもその「人」並みにしか扱わないということなわけで。

そういう言葉の上では限りなく美しく、現実の行為においては冷酷でしかあり得ないコスモポリタニズムに対し、「つまり俺たちを仲間として扱わないということだな」という反発がどういう形態をとるであろうかと考えると、(まさに歴史の実例が語るように)「同胞」ではない「人」を「敵」として描き出し、その敵への敵愾心を煽り立てることによって、その対照物である「同胞」を仲間として手厚く扱えと主張する、悪い意味におけるナショナリズム(あるいはむしろショービニズム)が噴出し、瀰漫することになるでしょう。
いや、最近の右翼雑誌などを見ていると、まさにそういうメカニズムが働いているように思われます。

リベサヨがソシウヨをもたらすというのは、そういうことを言っているつもりです。

(追記)

dojinさんの「研究メモ」に、スウェーデン民主党という極右政党のTVCMの話題が取り上げられていて(本ブログにトラバをいただいています)、そこで「福祉ショービニズム」が論じられています。

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20100830#p1(TV放映を拒否されたスウェーデン民主党の選挙CM)

>年金受給者用、移民用にそれぞれカウントされていく札束、そこによろよろと歩み寄るスウェーデン人のおばあさん。するとその横から、ブルカをかぶり、ベビーカーを引いた大量のムスリム系の女性が追い抜いていく。。。スウェーデンのテレビ局に放映を拒否されたこのスウェーデン民主党のCMは、ヨーロッパで台頭しつつある福祉ショービニズムを象徴的に描きだしている。

このエントリで、わたくしの過去のエントリがリンクされています。本エントリの参考として読まれてもいいと思われますので、ちょっと引用しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html(スウェーデンは「ナチ」か?)

>ま、与党も野党も、公務員叩けば人気が出ると思い、実際その方が人気が出るような国に「フレクシキュリティ」は無理というのが本日の「ナチ」ならぬ「オチ」ということで。

>多くの方はご理解いただいているようですが、念のため一言だけ。上で市野川さんやそれを受けてわたしが言ってる「ナチ」ってのは、もちろんドイツの国家社会主義労働者党とわざとイメージを重ねることをねらってそういう言い方をしているのですが、文脈から判るように、あくまでも「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムという普通名詞の意味で言ってるわけで、ここでホロコーストだの南京虐殺だのといった話とは(根っこにさかのぼればもちろんつながりがないとは言えませんが)とりあえずは別次元の話です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-d56b.html(「不寛容なリベラル」というパラドクス)

>人権を守るようなふりをしてかっこよさげにイスラム移民を擁護する「多文化共生主義者」こそ自由と人権と民主主義と男女平等の敵である、と。

>このロジックがそのまま日本に応用できるかというと、日本で排外主義をあおっている右翼な人々の国内政策における主張が自由と人権と民主主義と男女平等と政教分離を断固守れと強調しているとはいささか言いがたい面があるので(むしろ逆のケースが多い)、そのまま持ってこれるとは到底いえませんが、一般市民レベルにおける隠微な支持感情の背後には、中国やとりわけ北朝鮮の非民主性や人権レベルの低さが働いている面もあるかも知れません。ただ、韓国も一緒にして「特定アジア」への敵意をあおっているのを見ると、それは意識的なものではないのでしょうが。

ニセ経済学の見分け方

池田信夫blogに、あまりにも正しすぎることが書いてあったので、思わず引用してしまいます。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51472821.html(ニセ経済学の見分け方)

>血液型やマイナスイオンからホメオパシーまで、世の中にニセ科学の種は尽きない。経済学は科学といえるかどうかあやしいが、ニセ経済学の類は多い。ニセ科学には、次のような特徴がある:

•複雑な現象を一つの原因で簡単に説明する

•「**さえやればすべて直る」と万能の治療法を宣伝する

•一見もっともらしい科学用語を使い、学界の権威を利用する

特殊日本的「りふれは」がこれに該当することについては、池田信夫氏に異論があるわけではありませんが、それよりなによりこの3特徴に該当するのは、

>>解雇を自由化しさえすれば、世の中の矛盾はことごとく解消するぞよ!

というたぐいの「れめでぃー」ではありませんかね?

もっとも、池田信夫氏自身は、ご自分の痛切な体験から、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b14a.html(3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!)

><両者を混同して、私が「正当な理由があろうがなかろうが、およそ解雇は自由でなければならないと主張している」などとばかげた主張を行なうのは、小倉弁護士と天下り学者に共通の特徴である。このような虚偽にもとづいて、まともな議論をすることはできない。彼らは、まず私がそういう主張をしたことを具体的な引用で示してみよ

それほど単純な話ではないということを理解しているようなのですが、依然として使用者の権力を利用した不当解雇に対する解雇権濫用法理と、ジョブの喪失という経済現象をどう解決すべきかという整理解雇法理の区別が付かないまま、解雇自由という「あめ玉」を万能の治療法としてもてはやす向きが絶えません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-739f.html(解雇自由と解雇規制と解雇禁止)

いずれにしても、「複雑な現象を一つの原因で簡単に説明する」ような手合いのいうことをうかつに信用してろくな結果になったためしはない、ということをもっと多くの皆さんに広めていくことが必要でしょう。それこそが、日本学術会議会長のいう「非科学を排除して正しい科学を広める」ということであるはずです。

(追記)

本エントリの本筋ではまったくありませんが、一応念のため、

> BUNTEN 「特殊日本的「りふれは」がこれに該当する」少なくとも俺はリフレで全部解決と言ってはいない。

そういう意味では、つまり「りふれ【も】合わせ技でやった方がいい」という考え方も含めるのであれば、わたしも「リフレ派」です。

しかし、リフレがトッププライオリティでないような奴は許さないなどと言われたら、マクロ経済だけで頭の中がいっぱいになっている奇矯な人以外はみんな排除されるでしょう。

「汝りふれ以外を神とすべからず」という妬む神様にはつきあいきれないのが、この世で生きる普通の人間たちの生きざまであるわけで。

自治労委員長「正規職員と非正規職員が賃金をシェアすべきだ」

自治労の徳永委員長が、定期大会の挨拶で「正規職員と非正規職員が賃金をシェアすべきだ」と述べたと報じられています。

http://mainichi.jp/select/wadai/archive/news/2010/08/26/20100826dde041040019000c.html(徳永・自治労委員長:「非正規と賃金シェア」 勧告で削減分を転用)

>自治労(全日本自治団体労組)の徳永秀昭委員長は26日、徳島市で開かれた定期大会のあいさつで、「正規職員と非正規職員が賃金をシェアすべきだ」と述べた。一例として、人事院勧告に準じて地方公務員の正規職員の給与が削減された場合、削減分を非正規職員に配分する方向で労使交渉を進めることを提案。正規と非正規の格差解消に向け、産別労組のトップが具体的な提案をするのは極めて異例で、労働界全体に影響を与えそうだ。

 徳永委員長は、一部の正社員が賃下げを受け入れて非正規雇用をなくした広島電鉄の例を挙げ、「正規・非正規の均等待遇を実現するためには、もう一歩進んだ運動展開が必要な時期に来ている」との考えを示した。

自治労の委員長がここまではっきりと言うまでに至ったか、というのが正直なところです。

そして、二重三重の意味で既得権の象徴であるかのように見られている自治労だからこそ、これを明確に打ち出す必要性が最も高いのでしょう。

黒川滋さんがこの件について、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/08/827.html(徳島で開かれた定期大会の用務)

>毎日新聞等で報道されていた、人事院勧告による賃金カット分については非正規労働者の底上げに、というあいさつのくだりについては、うちが正規職員中心の労働組合であった経験が長いため、大会の参加者にとまどいも多く、のちの討論でそのくだりを後退戦だと批判する意見も少なくなかった。しかし、同じ仕事をしていながら低賃金労働者がいることをいつまでも具体論なく放置すればどういうことになるのか、という問題意識と、制度として公務員制度改革によって公務員に労働協約権が認められ、それぞれの自治体での労使合意で賃金が決まるようなことになっていけば、おのずと今回の委員長の言ったことが、労働運動での敵や伏兵を減らし、必ずしも正規職員にとっての不利益な話ではない、とよくわかってもらえるのではないかと思う。

と述べています。

本ブログで、橋口昌治さんの拙著批判に対して、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8ec8.html(橋口昌治さんの拙著批判について)

>>主流の労働組合が自ら率先して民主的な組合運営、職場の民主化を進めていくと考えているのだとしたら、濱口氏を「リアリスト」だと評価することはできない。実際、今これほど労働問題への関心が高まっているのはユニオンが「騒いだ」からこそであり、主流の組合は腰が重いのが現状である。

>「叫び」だけで現実の職場における正規と非正規の格差が消滅するわけではありません。

現実の職場でそれを遂行するためには、「叫ぶ」ことに粘り強いユニオンではなく、使用者との交渉に、そして何より正社員組合員を説得することに粘り強い企業別組合が、粘り強く遂行しなければなりません。

最近よく取り上げられる広島電鉄の労働組合の事例は、まさにそのいい例だと思います

と申し上げたのは、まさにこういう動きを企業別組合自身が始めるのでない限り、本当に世の中が動くということはないのだ、という趣旨であります。

事務処理派遣とは何だったか?

『労務事情』9月1日号に、「事務処理派遣とは何だったか?」を寄稿しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roumujijo0901.html

中身は、最近あちこちで喋っていることですが、分かっている人は分かっているけど全然語らず、分かってない人は全然分かってないけどやたらに語るという、ねじれの最たる領域でもありますので、わたくしがちゃんと語ることに意義があると思っています。

>25年前に労働者派遣法が制定されて以来、誰もが分かっていながら分からないふりをしてきた虚構が、ここにきて一気に崩壊しつつある。いうまでもなく、一般事務職を「ファイリング」とか「事務用機器操作」といった専門職であるという建前で認めてきた虚構である。今年2月には長妻昭厚生労働大臣の指示により、厚生労働省が「期間制限を免れるために専門26業務と称した違法派遣への厳正な対応」(専門26業務派遣適正化プラン)として集中的に指導監督を行い、さらに引き続き厳正な指導監督を行うとしている。

 しかし、派遣法が制定される前に事務処理請負業と称して行われていた事業は、ほんとうに厚生労働省がQ&Aでいうような専門職であったのだろうか。派遣法施行直前に行われた雇用職業総合研究所*1の調査では、それとはまったく異なる姿が浮かび上がってくる。 1985年12月の「業務処理請負事業の実態に関する統計的調査結果総括報告書」*2によれば、ユーザー調査において、事務処理業務のうち現在利用している業務は、単純事務7.9%、データ入力7.0%、経理5.8%、営業事務4.4%・・・であり、今後利用したい業務としてはデータ入力17.3%、単純事務11.1%、営業事務10.0%、経理9.9%・・・となっている。また事務処理業務を処理するために必要な知識経験の程度を聞くと、「知識経験はほとんどいらない」が27.4%、「知識経験がある程度必要」が36.2%、「知識経験はかなり必要」が34.4%と、決して専門職といえる状況ではなかった(情報処理業務ではそれぞれ2.4%、30.8%、64.8%)。

 1986年4月の「人材派遣業(事務処理)の女子労働者の仕事と生活に関する調査研究報告書」*3によれば、派遣中の派遣業務は、多い順に一般事務44.9%、タイプ・ワープロ28.4%、情報処理18.2%、通信13.5%、経理事務11.6%となっている。もっともこの調査では情報処理の大部分はデータ入力のことであり、システム設計・プログラミングはごくわずかである。また平均月収は15~20万円が38.0%、10~15万円が26.4%であり、また時間給でみると1000~1200円が43.7%、1200~1500円が31.8%と、パート・アルバイトのような非正規労働者よりははるかに高いが、一般正社員よりも高いとはいえず、少なくとも専門職賃金といえるような水準ではない。

 派遣法制定に力を尽くした高梨昌氏は「もともと専門職の業務は、相対的に高賃金の紙上を形成しており、・・・良好かつ健全な派遣市場の形成に役立つと考え、ポジティブリスト方式を提案し」*4たと述べているが、はじめからそうでないことは皆分かっていたはずである。中途採用の道のない一般職の女性たちに派遣という形で働く機会を提供することこそがその目的だったのではないのか。にもかかわらず真実を隠して、専門職だからという虚構を続けてきたことこそが今日の破滅的な事態の根源にあるのではなかろうか。

(参考)

『人材ビジネス』誌8月号に寄稿した「労働者派遣法自体の問題点を直視せよ」の最後のところで述べているのも、この点です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jinzai1008.html

>業務限定論の虚妄から論じよ
 
 今回の改正案は、派遣労働者の低賃金、不安定雇用、技能向上機会の欠乏といったさまざまな問題点が一昨年のリーマンショックを契機として噴出したことから、それに対処しようとして検討されたものであることは間違いない。しかしながら、上記三者構成原則の問題を抜きにしても、その基本的な改正方針自体に大きな問題が存していたこともまた否定できない。それは、ILO条約やEU指令といった今日の国際基準が事業規制を緩和しつつ労働者保護を強化するという方向を目指しているにも関わらず、そのような世界の流れに背を向け、労働者保護の強化はなおきわめて不十分なものにとどまる一方で、古めかしい事業規制ばかりを追い求めようとしている点である。ここには、日本における議論の流れに棹さすことばかりを考え、規制緩和派は労働者保護の流れを無視し、規制強化派は事業規制緩和の流れにだんまりを決め込むという、労働法に関わる者の悪しき政治的配慮が露呈している。

 しかしそれだけではなく、25年前に作られた日本の労働者派遣法が、「専門的業務であるからわざわざ派遣労働者保護をする必要はない」という虚構の上に作られた砂上の楼閣であるという根本問題に根ざす問題でもある。今回の改正法案において、製造業派遣の禁止にせよ、登録型派遣の禁止にせよ、「専門業務」と称する26業務を例外とするという世界的にまったく説明のつかない形で行われていることに、(わたし以外には)誰も正面から異議を唱えないという奇妙な事態にこそ、日本の労働者派遣システムの最大の病理が潜んでいる。その病理がもっとも奇怪な形で噴出しているのが、現在猛威を振るっているファイリングと事務用機器操作業務の「適正化」なのであってみれば、今こそ労働者派遣法自体の問題点を直視すべき時期であるはずである*1

2010年8月27日 (金)

ドイツが求職者のフェースブック詮索を禁止へ

ロマ追放の騒ぎは依然として連日の報道ですが、ちょっと目先を変えて、ドイツ政府が国会に提出しようとしている労働者の個人情報保護法案の話題を。例によってEUobserver紙から。

http://euobserver.com/9/30685Germany to ban employers from snooping on Facebook)

>The German government has tabled a draft bill that would ban employers from profiling job applicants on social networks such as Facebook and prevent clandestine video surveillance at work.

採用しようとしている求職者がどんな奴かちょっと調べてやろう、と、フェースブックのようなソーシャルネットワークを使ってプロファイリングするのは禁止だよ、と。

>Under the envisaged law, employers would still be able to run Internet searches on the names on the persons they want to hire, as long as the information is publicly accessible or present on professional websites, such as LinkedIn.

もっとも、求職者の名前をインターネット上でサーチするのはかまわない。

>But becoming friends with the prospective employee or even hacking their Facebook account in order to get personal information will be illegal and punishable with a fine of up to €300,000.

でも、個人情報を得る目的で友だちになったりハッキングするのは30万ユーロの罰金。

>Presented by interior minister Thomas de Maiziere, the draft bill also includes a ban on secret video surveillance at work, after a series of scandals with big companies spying on their employees.

秘密ビデオカメラで従業員をスパイするのも禁止。

>Discount-supermarket chain Lidl, car manufacturer Daimler, as well as the state-owned railway operator Deutsche Bahn have been criticised in the media for having installed secret cameras at the cash-desks, in the fitting rooms and in toilets, and for having snooped on employee's emails and private accounts.

着替え室やトイレに隠しカメラを設置してた企業があるんですね。特に小売業の場合、商品を勝手に持ち出すのを見張りたいという気持ちは大きいようです。

『POSSE』第8号のベーカム賛成派

坂倉さんが『POSSE』第8号「マジでベーシックインカム!?」のベーカム賛成派の3人を明らかにしています。

http://twitter.com/magazine_posse

>東浩紀「情報公開型のBIで誰もがチェックできる生存保障を」……多様な「生」を認める社会の「究極のサービスプラットホーム」とは

>飯田泰之「経済成長とBIで規制のない労働市場をつくる」……ルールに基づいた最低限のセーフティネットで「結果の平等」を保障するために

>小沢修司「BIと社会サービス充実の戦略を」……新自由主義のBI論を警戒しつつ、共闘するための方法とは

ふむふむ、同じベーカム賛成派といっても、賛成する理由はお互いにだいぶかけ離れていそうですね。

なんにせよ、読むのが楽しみです。

あなたのジョブを解除します!

「駿台 スーパー ビジネス就職 コース のブログ」で、拙著が引用されておりました。駿台って、受験だけでなく、就職にも手を伸ばしていたんですね。

キャッチコピーは、もちろん、

Sundai100623 >就職でも第一志望は、ゆずれない。

だそうです。納得。

それはともかく、そのエントリは

http://sundaisbs.seesaa.net/article/160407537.htmlあなたのジョブを解除します!

>とある外資系証券会社に勤務していた先輩は、リーマンショック後のある日、「あなたのジョブを解除します」と通告され、クビになりました。

の「ジョブを解除」とはなんぞや?というところから、

>外資系企業の「ジョブ型雇用」と日本的大企業の「メンバーシップ型雇用」の違いです。

と説明していきます。

スーパービジネス就職コースとしては、

>自分が受ける企業がジョブ型かメンバーシップ型かで、そもそも面接の内容も変わってくることはわかりますでしょうか?

 メンバーとして末永くこの企業で活躍して下さいという雇用を前提として採用で重視されることと、固定のジョブに対してバリバリやって下さいという雇用を前提として採用で重視されることは違います。

というアドバイスになるわけです。

最後に、拙著に過分のお褒めをいただいております。

>「新しい労働社会」は日本という職場環境での雇用を知る上で新社会人は必読です。自己分析をする暇があったら、こういった本を読み、企業の仕組み、社会のあり方について考えを深めていくことが、内定を獲得するにも、入社後もビジネスマンとして活躍するために必要なことだと思います。是非、ご一読を。

これにはさらに続きがありまして、

http://sundaisbs.seesaa.net/article/160505822.htmlやりたいことがやれないので、辞めます

では、

>こういう人は、前回述べたメンバーシップ型雇用というものがわかっていません。そして、「自己分析」の弊害が出ているかもしれません。

>その企業に入っておきながら、希望するジョブがやれないなら辞めるというのは、そもそも筋が違います。もし、特定のジョブがやりたいなら、ジョブ型雇用をしている外資系企業に行けばいいのです。特定ジョブについての募集をしています。

とかなり辛口のアドバイスがあり、

http://sundaisbs.seesaa.net/article/160676379.html格差社会が悪だったとしても

では、

>これは社会問題です。その問題は社会制度を設計する人たちがなんとかしないといけません。それはそうです。しかし、もしも自分が就職するとなったら、条件の良い企業に入ったほうがメリットがあることになります。

>そうすると、いかに難関と言われる企業のメンバーシップを獲得しに行くか、にみんなが動いてしまうのは仕方のないことです。歴史的な背景や社会的にどうということを深く考えなかったとしても、ブランドのある企業を受けようとしている人は、こういうことを本能的に感じているのだと思います。

>格差社会が悪であるにせよ、なんらかの解決策が施されなくてはならないにせよ、みなさんはその社会の中で就職をせざるを得ないのです。そうであれば、自分にメリットのある企業に入ろうとすることは、その社会の中で生きていかなくてはならない個人の選択としては自然だと思います。(そして、社会制度はそのような個人を前提として設計されるべきです。)

と、いささか露悪的なまでのリアリズムを説いています。

このシリーズ、今後の展開が楽しみです。

科学・技術、教育・訓練、技術・技能・・・

日本学術会議の「科学技術」じゃなくて「科学・技術」にしろという提言をネタに、田中萬年さんが「たかが「・」(ナカポツ)、されど「・」(ナカポツ)」というエントリを書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/t1mannen/20100827/1282861606

田中さんが論ずるのは「教育訓練」と「教育・訓練」。

もともと、

>それは、1960(昭和35)の「国民所得倍増計画」においてであった。つまり、教育と職業訓練を別のものとしてではなく、経済成長を果たすための人材の育成としては両者を一体的に捉え、「教育訓練」として論ずべきとした判断であったと窺われる。

と、両者一体の言葉として生み出されながら、

>しかし、「一体」とした判断は僭越だ、と考える人は出てくるものである。2年後ころより「教育訓練」という言葉が明確な主張や定義もなく使用され始めたのである。

と、高邁至極な「教育」様と下賤な「訓練」ごときを一体視するのは僭越であろう!という教育ゴーマニズムが猛威を振るい、その挙げ句の果てに、いかなるマージナル大学であろうとも、

>教育は仕分けせずとも、訓練は仕分けの対象となっているのである。

という事態になっているわけです。

さて、これで思い出したのが、ちょっと文脈は違いますが「技術」と「技能」。こちらはそもそも「技術技能」と一体化した言い方になったこともありません。どこで問題になったかというと、労働者の職業訓練はあくまで「技能」の向上なのであって、「技術」の向上ではない、という通商産業省(現経済産業省)のオフリミット・ラインの設定において。

多分、通産官僚の皆様方にとっては、「技術」というのは自分たちが所管すべき高度なものであり、「技能」というのは労働行政に委ねてもいいような低級なものだったのでしょう。法令におけるこの両用語の神経症的な使い分けは社会言語学的に興味ある素材ではあります。

2010年8月26日 (木)

有期契約法制見直し先送り

北朝鮮でも新左翼でもない、経営・人事・労務の専門情報紙である「労働新聞」(しつこい!)の8月30日号の1面トップに、「有期契約法制見直し先送り」という記事が大きく出ています。「さらに1年程度審議」「改正法案上程は24年以降」「労使への影響が多大と」という見出しからだいたい窺えるでしょう。

>当初、早ければ今年末ごろまでに審議会の議論を終結させ、平成23年に開催する時期通常国会へ改正法案を上程する方向だったが、これが先送りされる見通しとなった。審議会において、1年程度以上の議論が必要との見方が強まったためで、結果的に有期契約法制見直しは、24年開催の通常国会以降に持ち越されることになった。

>有期労働契約法制の見直しが、労使双方へ重大な影響を及ぼしかねないため、より慎重な議論が必要になっているのが理由だ。

9月ごろ出される予定の研究会報告がかなり規制的な内容になると、当然審議会での議論がそれだけ一層必要になります。

ひとによっては、「労使双方へ重大な影響」という言葉が理解できない向きもあるかも知れません。有期契約労働を規制するというのは使用者側にとっては大変かも知れないけれど、労働側にとってはいやがる話ではないだろうと。

それがそうではありません。有期契約法制の見直しは、論理必然的に無期契約における解雇規制の問題とつながってくるからです。この問題は素朴な頭で分かったつもりになれるほど単純ではありません。

有期契約の規制強化を荒唐無稽などと悪口並べている方々は、そうすることによって無期契約の解雇規制の見直しの可能性をますます遠ざけているわけですが、まあ、そういう複雑な頭の働きができるようなら、はじめからもう少しまともなことを言っているでしょうから、こんなこと言ってもムダですね。

OECD『日本の大学改革』から再掲

マージナル大学の話題がけっこう評判のようですが、本ブログで前にとりあげたOECDの『日本の大学改革』の文章を若干再掲しておきます。

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http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/oecd-64fa.html(OECD『日本の大学改革』からいくつかの引用)

>>しかし、過去40年にわたって、日本と、北米及びヨーロッパにおいて、教員あるいは学生として、大学の当事者としての経験のある人々が口をそろえるのは、日本の高等教育は、平均的に言って、教員も学生も教室内の教育と学習や教室外での学習指導を比較的軽視していると言うことである。

>多くの大学教員は、主として専門家集団に属する研究者としての業績をもとに自分自身を評価しており、学部で学生に勉強を教える人としての側面は軽視されている。さらに、大学と職業社会の間の人材の交流の度合いは、国際水準から見ると低く、そのため高等教育、特に大学教育は職業生活から切り離されてしまっている。このような、大学教員とは研究者であるという文化が、短期大学の講師も含むほぼすべての大学の教員に共有されているという傾向は、他の国の高等教育には見られないことである。

>学生の多くが、授業への出席率が低かったり課外活動にばかり熱心だったりと、教室での学習に対する意欲が低いことは、二つの意味で当然のことともいえる。まず企業が、大学で何を学んだかではなく入学試験の成績がどれだけだったかということを基準に学生を採用するからであり、そして授業の内容が職業生活に役立つような能力や理解力を伸ばすものではなく、教員が研究している内容に基づくものになっているからである。

日本学術会議の社会的役割

昨年6月から今年3月まで、大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会 大学と職業との接続検討分科会の一員としてずっと乃木坂の日本学術会議ビルに月1回以上通ったのですが、この会議がそのほかにどういうことをしているのか、ほとんど知らないままでしたので、ここ最近、その日本学術会議が世間の注目を集めているのを見て、あらためて認識を新たにしています。などというと怒られそうですが・・・。

http://www.scj.go.jp/

私たちの議論の結果が盛り込まれた「大学教育の分野別質保証の在り方について」の文部科学大臣宛の回答の次に、世を騒がしているホメオパシーに対する会長談話があり、その次に「総合的な科学・技術政策の確立による科学・技術研究の持続的振興に向けて」という、科学と技術の間に「・」(ナカポツ)を入れよという勧告がくるのですね。

ちなみに、この手の疑似科学問題については、かつて本ブログ(コメント欄)で大坂さんとの間でこんなことを書いたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_1199.html(モダン屋さんの労働価値説?)

>なにやらお水商売関係でいろいろと揉めておられたようですが、ひとまず解決されたみたいでなによりです。
こういう自然科学的知識と社会的価値判断が絡む領域というのは、なかなか難しいところがありますね。
ホントはこの手の問題で一番重大なのは、アメリカで流行ってる例の創造科学って奴だと思うのですが、日本の保守派は進化論マンセーだからあんまり関係ないのかしら。
も一つ、私はこの手の議論を聞くとすぐに反デューリングや自然弁証法の心霊学批判を思い出すのですが、心霊学批判が正しいことが、エンゲルス君の「科学的」社会主義を正当化するわけではないわけで。

>私は、理科系の人が疑似科学を叩くのは全然問題ない、というか、むしろ大いに応援したいのです。
問題は、文科系の妙な連中がそれに乗っかって、いかにも自分の言っていることが「科学的」みたいなレトリックを振り回すことですね。
今回の「お水」騒動も、詰まるところそういうことでしょう。自分らのなんら検証もされてない特定のケーザイ教説に反対する輩は「お水」と一緒と言わんばかりのもの言いが反発を買ったということじゃないですか。

ちょっと違う話みたいですが、昔駒場で中沢騒動なるものがあったでしょう。自然科学の人が「なんだこのわけの分からんトンデモは」というのはある意味当然。問題は、これが人文社会系の政治的対立構造に利用されたことでしょう。特に、どこぞで気流が鳴ってた人は、ご自分のトンデモを棚に上げて反対したわけでね。そういううさんくささが、常につきまとうわけですよ。

>インフルエンザとタミフルという疫学上の問題に関していえば、マスコミだけで活躍しているような人ではなく専門分野で専門家からきちんと評価されている方のご意見を聞いた方が適切であるのは明らかだと思いますよ。
自然科学においては、よほど最先端の分野にいかなければ、エセ科学とまともな科学とは適切に区別できるはずだと思いますが。私は左巻さんの本がその通りだと思いますね。
そうではない分野において、いかにもそうであるかのように言葉巧みに操って、(必ずしも専門分野で専門家からきちんと評価されているとは言い難いような人が)特定の考え方を売りつけることがいかがなものかということなのであって、お水商売の仲間に入れられるのは大変心外です。

>私の立場(労働政策)からすれば、リフレ虫さんは別に有害でもないので(政策論としてはむしろ賛成)、歴史に無知なくせに生意気なことを書く莫迦をたしなめる以外に、特にとやかく口を出す気はありません。
むしろ、大変有害なのは、「法と経済学」などと称しながら、実のところは組織の経済理論の成果なぞ歯牙にもかけず、「大学一年生向け初等ミクロ経済学教科書嫁」でしかないような理屈で、解雇規制や最低賃金問題に知った風なことを口走り、それが一国の政策決定に影響を与えていくという事態の方で、私としては百万倍深刻に受け止めています。
トンデモといえば、そっちの方が遥かにトンデモ経済学なんですよ。実務的にはね。ネットで跳ねてるイナゴさんだけ見ていたら間違います。

というわけですから、お水やらタミフルやらのヨタ話はこの辺で打ち止めにします。
エンゲルス君の科学的社会主義を暴くのに、心霊学を持ち出す必要はないでしょう。

2010年8月25日 (水)

フランスはEU反ロマサミットを提唱

42dc4746c7c7 フランスから始まったロマ追放の動きの続報。例によってEUobserverより。

http://euobserver.com/9/30668Prospect of French 'anti-Roma' summit disturbs EU presidency

>France's immigration minister, Eric Besson, has invited his counterparts from four of the EU's other "Big Six" major economies - Italy, Spain, Germany and the UK - to an informal meeting on immigration in Paris on 6 September.

フランスのベッソン移民相がイタリア、スペイン、ドイツ、イギリスの担当大臣を集めて、9月6日に非公式会合を提唱したようです。

これに対して、現在EU議長国のベルギーは、

>Belgium, which currently holds the EU's six-month rotating presidency, may reject France's invitation to a ministerial meeting for fear that Paris wants to use the event to legitimise its policy of rounding up and expelling Roma.

"If it begins to be apparent that the meeting is only a meeting on the Roma and for France with their policy to give the impression that other EU countries approve of what they are doing, Belgium will not be keen to attend," an EU diplomatic source told EUobserver.

招かれたけど断った。EUとしてフランスの政策を認めたような印象を与えたくない、と。

>Bucharest is hoping to be asked. But so far Romania and Bulgaria are also not invited, despite the fact that many of the Roma arriving in other EU cities in the last few years hail from these two poorest of European Union nations.

ロマを出している側のルーマニアとブルガリアはお呼びじゃない、と。

>Berlin, for its part, has decided not to send its interior minister - "due to his busy schedule" - and may send a secretary of state instead.

ドイツは忙しいので、という見え透いた理由で内務大臣は出席せず、副大臣をだします、と、政治的にちょっとだけ距離を置きつつ賢明なな対応。そりゃ、ロマについては前科のあるドイツとしてはフランスさんのお手並み拝見というスタンスしかあり得ないでしょう。

JIL雑誌9月号その3

New ようやく、JILPTのHPにJIL雑誌9月号の広告がアップされました。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/new/

ということで、まずは目次を、

提言20年を振り返る
苅谷 剛彦(オックスフォード大学教授)

解題若者の『雇用問題』:20年を振り返る
編集委員会

論文若者と雇用の保護――「内定切り」・「有期切り」・「派遣切り」に関する裁判例の分析
竹内(奥野) 寿(立教大学法学部国際ビジネス法学科准教授)

「若者自立・挑戦プラン」以降の若者支援策の動向と課題――キャリア教育政策を中心に
児美川 孝一郎(法政大学キャリアデザイン学部教授)

ノンエリート大学生に伝えるべきこと――「マージナル大学」の社会的意義
居神 浩(神戸国際大学経済学部教授)

日本企業の生産部門における採用行動の変化――製造業2社の事例研究
朴 弘文(神戸大学博士研究員)

非正規雇用からのキャリア形成――登用を含めた正社員への移行の規定要因分析から
小杉 礼子(JILPT統括研究員)

紹介「若者の労働運動」の活動実態と問題意識の射程
橋口 昌治(関西非正規等労働組合・ユニオンぼちぼち執行委員長)

論文(投稿)大学生のアルバイト経験とキャリア形成
関口 倫紀(大阪大学大学院経済学研究科准教授)

連載書評小杉 礼子 著 『若者と初期キャリア――「非典型」からの出発のために』
熊沢 誠(甲南大学名誉教授)

山口 一男 著 『ワークライフバランス――実証と政策提言』
川口 章(同志社大学政策学部教授)

久保 克行 著 『コーポレート・ガバナンス――経営者の交代と報酬はどうあるべきか』
吉村 典久(和歌山大学経済学部教授)

読書ノート宮本 太郎 著 『生活保障――排除しない社会へ』
菊池 馨実(早稲田大学法学学術院教授)

本田 一成 著 『主婦パート 最大の非正規雇用』
安井 豪(イオンリテール株式会社教育訓練部)

論文Today「ヨーロッパの有期雇用規制――有期雇用は労働市場の柔軟化へのステップなのか?」
本庄 淳志(大阪経済法科大学講師)

フィールド・アイ最近の労働経済学の学会の様子
神林 龍(一橋大学経済研究所准教授)

やはり、興味を惹かれるのは、小杉礼子さんの『若者と初期キャリア』に対して、熊沢誠先生がどういうコメントをされているかでしょう。

>総括的な不満は、小杉が結局、工場や事務所や販売店や飲食店に必要とされる膨大な下位職務を昇格の許されない非正社員に専担させるという企業の「キャリア分断」の論理を、動かせない予見としているかに見えることに帰着する。

>例えば「職業能力を獲得することがキャリアを拓くことになる」という命題は、やや辛辣に過ぎる表現ながら、ある意味でむなしくないか。・・・

>働きすぎによる心身の消耗に見る現在の正社員の厳しい状況をさておいて、正社員をキャリアを達成する政策目標としているように感じられることも気になる。

といった批判は、『格差社会ニッポンで働くということ』に書かれた熊沢先生の思想が顕れているのだと思います。職業能力開発に対する考え方のように、まさにそこが違うのよ、というところもありますが、研究者として自分の専担分野以外に対して禁欲である小杉さんに対して、やや決めつけ的に感じられる面もあります。少なくとも、

>ここでも、正規・非正規を横断する従業員の働かせ方についての企業倫理は与件とされるべきではない

死に至るまで働かせるような企業倫理を与件としていないと思います。

さらに、次の言い方は、「第3法則」的とまでは申し上げませんが、いささか誤解を招くように感じられます。

>おそらくは所属研究機関の立場もあって本書が考察の外においている、労使関係や労働組合の批判的検討にどうしても導かれるのである。

それは小杉さんの研究者としての自己矜恃としての対象限定なのであって、所属云々とは切り離して論ずべきでしょう。

わたくしのように、労働に関わる限りなんでもかんでも論じようという方が特殊なのですから。

野川忍先生のつぶやき

ついに、野川忍先生がついった界に登場されました。

http://twitter.com/theophil21/status/21361186210

>政府は若者の雇用対策のために新たな予算措置を盛り込むという。この問題には世間の目が向いているが、就職後の若者たちの置かれた立場のほうがひどい。「就職できただけでありがたく思え」という扱いが横行し、労基法上は「犯罪」である「年休剥奪」など当たり前のように行われている。

いや、ですから、労働法教育を・・・。

http://twitter.com/theophil21/status/21532695107

>政府の雇用政策で最も混乱しているのが外国人労働者政策、次が非正規労働者政策でしょう。過去20年間、一貫して「不法滞在」の「単純作業・重筋労働」労働者に頼りつつ「単純作業労働者は入れない」と言い続けた労働政策の愚劣。未だに非正規労働者のための総合的法制度を創設できない体たらく。

いや、ですから、それは雇用許可制の敗北以来の・・・。「愚劣」な労働政策が、そもそも外国人分野では存在を許されなかったのです。

http://twitter.com/theophil21/status/21955229083

>日本の解雇規制が厳しいというのは大嘘。解雇権濫用法理は、使用者側の「強大な人事権」と労働者側の「雇用保障」とが取引されてできた慣行であって企業社会自身が作り上げたもの。言い換えれば、解雇を自由にしたければ、企業は人事権を放棄すればよい。「いいとこ取り」はできない。

これはとっても重要です。大企業正社員の場合、職務、時間、空間に限定がないという労働のフレクシビリティと経営が悪化しても雇用が維持されるという雇用のセキュリティの社会的交換。

それゆえに、労働のフレクシビリティを縮小する法規制は(雇用に悪影響を与えるからと)手控えられてきたのですが、そういう対価関係にあるという認識のない人々が解雇自由を唱える。

一方、中小企業では昔から事実上解雇自由。といって、(中小企業であることから来る事実上の限定を除けば)権利として労働のフレクシビリティに限定があるわけではない。むしろ、取引先や親会社から無理無体な要求が来れば従うしかないので、時間はむしろ無限定になりがち。それで雇用が安定しているわけでもない。

http://twitter.com/theophil21/status/22047893152

>派遣法改正や有期雇用契約の規制を「かえって弱者を苦しめる」と、したり顔で批判する人々にぜひお奨めしたい。ご自分で、弱小派遣会社の派遣労働者になって5年勤めてみてください。規制から自由な雇用を味わってみてくださいな。現場の本人を自分もやってみたいと思わせる改革が本物です。

その通りですが、ただ現在の派遣法改正案が「現場の本人を自分もやってみたいと思わせる」ような内容になっているかどうかは大変疑問です。派遣制度の問題の本質には手をつけないまま、騒ぎになっているところだけないことにしてしまうだけで、間違いなく数年後には、マスコミが「偽装請負」「偽装紹介」を糾弾するキャンペーンを張ることになっているとおもいます。

JIL雑誌9月号「若者の雇用問題:20年を振り返る」その2

昨日は、居神さんの論文を紹介しましたが、その他をいくつか。

児美川孝一郎さんの「「若者自立・挑戦プラン」以降の若者支援策の動向と課題」は、冒頭に新自由主義との関係についてのややマクロ社会的な議論、次にキャリア教育をめぐる動向で、最後にややマクロ的な問題提起となっています。

枠組みとしては、第1ステージの新自由主義が市場原理主義で、それが生み出した諸矛盾に対応すべく第2ステージの新自由主義として「排除」から「包摂」へという中で若者政策が出てきたということです。とはいえ、

>日本における第2ステージ新自由主義が採択したのは、同じ時期の欧米諸国における「ワークフェア」の路線よりも素朴で、いってしまえば”腰の引けた”政策展開だった

>日本では、そもそも若者手当などは存在せず、就労して雇用保険に加入していない限りは、失業手当が給付されることもない。ワークフェアをやりたくても「義務」とトレードオフすべき「権利」が存在していないのである。

この点は、一昨年末にOECDのアクティベーション政策調査団が来日したときに、わたくしが説明した点でもあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/oecd-dd50.html(OECDアクティベーション政策レビュー)

その背景について、児美川さんは

>一定の財政支出を覚悟してでも、「社会的包摂」を回復しなくてはいけないという点への国民的コンセンサスが得られないからでもある。このあたりは、労働組合や社会民主主義政党をバックに、国家を”壁”にして福祉国家を作り上げてきた伝統を持つ西欧諸国と、そうした経験がなく、企業の経済成長と社員への福利厚生を頼りにして”擬似的”な福祉国家(的体制)を実現してきた日本との落差が、大きな影を落としているということができるかも知れない。

と語っていますが、ここは大変重要です。日本の「さよく」な方々(「社会」とか「民主」とかいうタイトルを掲げている方々も含む)は、「国家を”壁”にして福祉国家を作り上げる」どころか、企業福祉体制にどっぷりつかりながら、そのことに無自覚なまま、”国家”にちょっとでも関わり合いがありそうなものを片っ端から蹴っ飛ばして、「ああ、自分は清らかだ」と脳内のみの精神の安らぎを得てきたわけです。

そして、こういう「さよく」的反国家イデオロギーがそのままずるりと(笠井潔風の新左翼的アナルコ・キャピタリズムを経て)新自由主義への熱狂に流れ込んでいったのが、この「失われた20年」の社会思想史的素描なのであってみれば、この問題は根深いのですよ。

2010年8月24日 (火)

第2法則の培養器

最近第3法則第2号氏の活躍が激しくて、元祖3法則氏を忘れがちになってしまいますが、属性しか批判できない品性下衆な第3法則もいいですが、知ったかぶりが露呈する第2法則も捨てがたい味わいがあります。

たまたま藤沢和希氏の「金融日記」に、こういうことをやっていると第2法則が生み出されるなあ、という絶妙な好事例が載っていたので、第2法則を実践したい皆様方のためにご紹介しておきたいと思います。

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51735937.html(まんがで読破シリーズ、イーストプレス)

>それでも、文学作品とか、有名な哲学書とか、昔の心理学の大御所なんていうのは、知っているとものすごく教養の高い人、頭のイイ人、上流の人に「みられる」ので何かと得します。

ワインなんか飲みながら「それってディケンズの小説みたいだね」とかいって淑女と会話をはずませるもよし。
経営者とちょっと飲む機会があったら「なるほど時にはマキャベリのように振舞うことも大切なんですね」とかいって相槌を打つもよし。
経済の話になったら「資本主義が洗練されてきた結果、結局マルクスのいっていた矛盾につきあたったわけですね」みたいにわけのわからないことをいってみるのもいいです。
どうせ相手も自分が何をしゃべっているのかわかっていないのだから。

で、こういう教養の話をする人は、だいたい社会的地位の高いけどどことなく不幸な人や、金持ちだけどちょっと憂鬱なんて人が多いので、自分のことをいろいろと聞いて欲しいだけだから、特に詳しい知識を持っている必要はありません。
大まかなあらすじだけ知っとけばいいのです

そんなことで通用するのか、とご心配なあなた、大丈夫です。

>金融やコンサルティング業界は、昨日寝る前にはじめて勉強したことを、あたかも10年前から知っていたように話すような人ばかりです。
でも、それでなんの問題もありません。

なるほど、金融やコンサル業界はこれで全然問題ないみたいです。

この業界には、知ったかぶりして、だれぞの本にはこんなことが書いてあったといえば、それをわざわざ確認して、「どこにそんなことが書いてあるんだ、この嘘つきめ」と追求するような暇人はいないということなのでしょう。

ただ、すべての業界でそれが通用するわけではありません。

通用しない業界で、通用するだろうと思ってそれをやると、「第2法則」になってしまいますので、ご注意あれ。

(参考)

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/87a589c70b31090d1f7557c9855d9d2bフリーターを「正規雇用」に

>天下り役人 (池田信夫)

2007-12-18 09:10:16

ちなみに、彼の自慢の『世界』論文も、あまりにお粗末な知識に唖然とします:

http://homepage3.nifty.com/hamachan/koyounokakusa.html

<日本でも戦前や戦後のある時期に至るまでは、臨時工と呼ばれる低賃金かつ有期契約の労働者層が多かった。[・・・]彼らの待遇は不当なものとして学界や労働運動の関心を惹いた。>

というように、戦前の雇用形態について問題を取り違え、「臨時工」は昔からかわいそうな存在だったと信じている。そんな事実がないことは、たとえば小野旭『日本的雇用慣行と労働市場』のような基本的な文献にも書いてあります。こんな「なんちゃって学者」が公務員に間違った教育をするのは困ったものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_c013.html(一知半解ではなく無知蒙昧)

>尊敬する小野旭先生が『日本的雇用慣行と労働市場』のどこで、昭和初期に臨時工は何ら社会問題でなかったなどと馬鹿げたことをいっているのか、池田氏は小野先生の名誉を傷つけて平気のようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/3_a7ad.html(池田信夫氏の3法則)

>池田信夫氏の第2法則:池田信夫氏がもっともらしく引用する高名な学者の著書は、確かに存在するが、その中には池田氏の議論を根拠づけるような記述は存在しない蓋然性が高い

もしそういう記述があるのであれば、何頁にあるとすぐに答えればいいことですからね

「マージナル大学」の社会的意義

JILPTの『日本労働研究雑誌』9月号が出ました。まだJILPTのHPにアップされていないのですが、特集は「若者の『雇用問題』:20年を振り返る」です。

この特集とくれば当然小杉礼子とくるわけですが、その他にも苅谷剛彦さんの提言、奥野寿、児美川孝一郎、居神浩、朴弘文の諸氏の論文、橋口昌治さんの紹介、関口倫紀さんの投稿論文がならんでおり、書評まで熊沢誠氏による小杉礼子『若者と初期キャリア』ととり揃えています。

順次紹介していきたいと思いますが、読んで一番ショッキングだったのが(といいながら、実はこれはかなりの程度紹介用の修辞ですが)、居神浩さんの「ノンエリート大学生に伝えるべきこと-「マージナル大学」の社会的意義」という論文です。

居神さんは本田由紀流の「レリバンス」論に対して、

>現在「マージナル大学」の教育現場を覆っているのは、教育内容のレリバンス性を根本的に無意味化する構造的圧力である。・・・「マージナル大学」におけるそれは想像の範囲をはるかに超えるものがある。

と述べ、続く「ノンエリート大学生の実態の本質」というところでは、それは「学力低下」論とも「ゆとり教育の弊害」とも関わりなく、

>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。

と述べ、その多様性を「認識と関係の発達の「おくれ」」と捉えて、

>もう少し具体的にいうと。認識の遅れは例えば公共的な職業訓練を受けるのに最低限必要な学力水準に到達していないレベルにある。・・・学校を卒業しても改めて何か具体的な技能を身につけようとしても、公共の職業訓練さえも受けられなければ、それは社会生活上の自立にとって大きなハードルになるだろう。

>関係のおくれも深刻である。こちらはもっと卑近な例で、コンビニのアルバイトの面接で落とされてしまうレベルといえばわかりやすいか。要は非正規雇用でも対人接触を伴う業務の遂行は困難なほどの社会性やコミュニケーションの問題が見られるということである

こういう記述を読むと、田中萬年さんの非「教育」論、職業訓練こそ真の学びという論すらも、職業能力開発総合大学校というそれなりに優秀な若者たちを集めたターシャリー教育機関の経験に基づくバイアスがあったのではないかという気がしてきます。

居神さんの「マージナル大学」はそんな生やさしいものではない、と。

では、そういうノンエリート大学生に何を伝えるべきなのか?

>ブラック企業の劣悪な労働環境をこれでもかと例示することによって、ノンエリート大学生がついつい陥ってしまう「楽勝就職」(事前の準備ゼロ、1回の面接で即内定)の末路が何らの仕事能力も身につかず「使い捨て」にされることを何となくでも分かってもらえば、さしあたりは成功である。

そして、ではブラックじゃない「まっとうな企業」に「雇用されうる能力」とは何か?

>まずは「初等教育レベルの教科書」を完璧にマスターしておくことをどうしても伝えておきたい。・・・要するに、「読み・書き・計算能力」こそが職業能力の土台であり、本当に「雇用されうる能力」を高めたければ、まずはそこからスタートしなければならない・・・

これは、まさしくヨーロッパの「エンプロイアビリティ」論が念頭に置いていたレベルです。日本はそうではない、ということを前提に今まで論じられてきたことが、なんだか全部ひっくり返る感じです。日本だって同じや。初等教育レベルのリテラシーとヌメラシーが大事や。まともなスキルはその先や。

世の「コミュニケーション能力」論は、実はやたらに高度な、並みの大人だってできないほどの、そのなんや、「はいぱあめりとくらしい」とやらの話と、こういうまさに小学生並みの、つまり2ちゃん用語でいえば「厨房」以下の話とが、相互に違うことを喋っているという認識すらないままごちゃごちゃになっていたのかもしれません。

それと同時に、彼らの就職先は総じてブラック職場だが、

>そこにとどまることで少しでも職業能力の成長が期待できるならば、とるべき方策は「退出」ではなく、自らの職場を改善・変革するための「異議申し立て」であろう。そのためには、労働者としての権利に関する知識が不可欠である。

と、「ボイス」の必要性と、そのための労働法教育の必要性を強調しています。ノンエリート大学生だからこそ、必要なのです。居神さんはこの点について、近く『もう一つのキャリア教育試論』(法律文化社)を出されるようです。

(参照)

このテーマについては、同じようにマージナルな大学に勤務していると思われる「日本経営学界を解脱した社会科学の研究家」氏の「社会科学者の時評」というブログ(かつて拙著の書評もありましたが)で、繰り返し論じられています。

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?cat_id=71861

冒頭のエコノミスト誌の引用の「日本には2種類の大学がある。一つは学生のことを恥じている大学であり,もう1種類は学生のことを誇りにしている大学である」という一文からして強烈ですが、その長いエントリの連続をずっと読んでいくと、だんだん気が重くなってきます。

次の一文は、教育と職業訓練という議論の流れからも興味深いものがあります。

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?cat_id=71861&page=3

>実は,〔A〕「職業教育を授ける大学」であったほうがいいはずの多くの大学が,まさに「二兎を追う者は一兎をもえず」ではないが,〔B〕「学術の中心である大学」の真似ごとをし,そのポーズだけは構えているから,非常に始末が悪い。〔A〕「職業教育を授ける大学」が,ほとんどできていないはずの,「目的=学術にもとづいた教授」をしているかのように偽っている。

 〔B〕「学術の中心である大学」に任せるべき研究は,もっぱらこちらに重点的に任せておき,〔A〕「職業教育を授ける大学」は職業教育に専念すればよい。それなのに,なまじ「伝統的な従来型の〈大学の真似ごと〉」だけはしようとするから,結局どちらにもなりえていない。というよりは中途半端にもなりえていない,いわば共倒れのような,いいかえれば「一兎さえ捕まえられない〈似非高等教育機関〉」になり下がっているわけである。

>本来の伝統的な教育・研究をおこなう大学は,現在4年制だけでもうすぐ,800近くも存在するようになっている。この「諸大学すべてにその大学としての資格」があるかといえば,その答えは自明の理である。旧来型大学はせいぜい,18歳人口比で判断するに2割以内に抑えても十分過ぎるくらいである。

 日本の大学の「3分の2」は不要・無用
ではあるけれども,職業教育を教授・伝授する「高等教育機関」として変成させれば,これからも有用で意義ある教育機関になる。これを避けようとする非一流大学は,教育業界からただちに撤退したほうが得策である。

EU市民権の行方

フランスのサルコジ大統領のロマ追放令は、イタリア政府のより深刻な提案につながっていっているようです。例によってEUobserverから。

http://euobserver.com/9/30657Italy to raise EU citizen expulsion policy at September meeting

いうまでもなく、EUの大原則はヒト、モノ、カネの自由移動。世界中どこでも自由移動という話ではなく、あくまでもEUというスーパー国家の範囲内での自由移動。言い換えれば、フランスやイタリアという枠の代わりにEUが新たなスーパーネーション国家になるようなもの。EUのよそ者(第3国民)は、自由移動の保護下にはない。

当初のEECはドイツが一国ナショナリズムを我慢してフランスを立てるところから始まったけれど、うまくいっていたのはそれなりに同じような生活水準の先進国のグループだったからというのが大きい。

ところが、政治的な動因で東欧諸国がどやどやと入ってきた。とりわけ、最後に入ってきたルーマニアとブルガリアが、ロマたちを立派な「EU市民」として自由に旧来の加盟国に送り込んできた。アフリカや中東から来ている「第3国民」はEU法とは関係がないので、各国が自らの主権で追放できる。ところが、いまや立派な「EU市民権」を手に入れたロマたちはそうではない。

この問題の背景は、こういうところから見ていかないといけない。ある種の「スーパーネーション共同体」として展開しつつあったはずのEUが、政治的意図から拡大を急ぎすぎたために、今までのEU市民たちが「あんなヤツラ、俺たちの同胞として入れたつもりはないぞ!」という意識を強烈に持つに至ったということ。

しかし、その排外主義がこういう形をとるようになれば、そもそもEUの原点であったはずの「EU市民権」自体が揺るがされてしまう。

EUは岐路に立っているのだなあ、と思います。

>Italy has said it intends to expel citizens from other EU states if they are not able to support themselves, in a move apparently inspired by France's current crackdown on Roma.

Interior Minister Roberto Maroni told daily newspaper Corriere della Sera on Saturday (21 August) that French president Nicolas Sarkozy - whose recent actions include closing down Roma camps and deporting around 200 Roma to date - is "right."

サルコジは正しい!自分で生計を立てられないような他のEU加盟国の国民は追放できるようにしよう、と。

>"Yes, expulsions just like those for illegal immigrants, not assisted or voluntary repatriations. Of course only for those who violate rules on requirements for living in another member state: a minimum level of income, adequate housing and not being a burden on the social welfare system of the country hosting them."

"Many Roma are EU citizens but do not respect any of these requirements," he said. But added, when asked if this would be discriminatory, that the policy should apply to all EU citizens and not just Roma.

確かに、ロマだけ追放するというのは人種差別でしょう。しかし、すべてのEU市民にそれを適用するというのは、もはや第3国民と区別されたEU市民権って何?というはなしになります。

「ネーション共同体」をまともに論ずるのなら

松尾匡さんが、そのエッセイで、わたくしと田中秀臣氏を「ナショナリズム容認度高」に分類したことについて、わざわざ撤回しておられます。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100821.html

わたくしは、そもそもナショナリズムという、簡単に論ずるためだけにでも三重か四重の理論的道具立てを必要とするような代物を安易にウンコ投げゲームの道具に持ち出すこと自体に疑問を感じますが、現在のこの問題をめぐる議論の水準があまりにも低すぎることもあり、渦中の松尾さんがこういう対応をされること自体については、諒と致します。

ウンコ投げゲームにのみ関心をお持ちの諸氏は、以下の記述は極めて面白くないと思われますので、お読みにならないことをお薦めいたします。

040720 わたくしなりに、近代社会システムにおけるナショナリズムの意味を簡単にまとめた記述が、6年前に出版した『労働法政策』の冒頭の章にあります。ちなみに、柄谷公人行人の『世界共和国』より2年前です。

>4 社会主義と社会政策

(3) 社会政策

 社会政策はいうまでもなく近代国家の行うものである。近代国家とは何だろうか。発生論的には、それは中世封建社会の武士団が成長して形成された権力体的共同体である。戦争と征服を繰り返して巨大化した近世王権は、かつての古代王権が巨大化して血縁幻想に頼り切れなくなったように、中世的な地域に密着した共同体意識から乖離してくる。王権が共同体意識から乖離するとともに、都市商人と結び、その貨幣増殖の保護者として立ち現れてくる。自らの暴力装置をもって商人資本の循環を容易にするとともにその分け前を取得しようとする近世国家の登場である。
 しかし、共同体意識から乖離したとはいえ、近世国家は未だ村落共同体とその中で自己労働による生産活動に従事する家族共同体に立脚している。これを破壊するようなことは許されない。初期社会政策と呼ばれる一連の政策は、労働組織を規制する職人条例にせよ、余剰労働力を国家が吸収しようとする救貧法にせよ、労働力の商品化を防止することに主眼がおかれていた。
 自己労働による家族的生産とこれと問屋制で接合した商人資本が、産業革命の怒濤の中で自己増殖を目指す産業資本と主体性を奪われた他人労働に転化していくのと並行して、封建社会の地域共同体に立脚しながらそれから乖離していた近世国家も大きな変動を被る。立脚基盤としての新たな共同体として「ネーション」が発明され、この想像の共同体と近世国家から受け継いだ権力体が結合して近代国家が誕生するのである。この背景には、村落共同体から自立して独立独歩の存在となりつつあった家族共同体が、より強力な上位の共同体を求めようとしたことがあろう。都市商人と結んだ近世国家ではなく、独立生産販売者のための近代国家が求められた。
 ここで、歴史の最大の皮肉は、自己労働による家族的生産が産業資本に進化するとともに、近代国家の任務はそのためにそれまで抑制されてきた労働力の商品化を全面的に推進する役回りを演じることになったことである。上で述べた初期社会政策立法の廃止が、労働力の全面的商品化を、そして社会の全面的市場化をもたらすことになった。この意味において、近代国家は市場社会の形成者である。しかしながら、近代国家はネーション共同体として、商品化され他人労働化した労働者をもその成員とする。ネーション共同体としての成員保護の要請が、失業と飢えの恐怖から奴隷と変わらぬ労働に従事する「同胞」にも寄せられる。こうして、近代国家は労働力の商品化を実行すると同時に、労働力の商品化を制約する措置を執らねばならなくなる。初期社会立法の廃止と同時に近代的社会立法、すなわち労働者保護立法が開始される。近代国家は市場社会の形成者であると同時にその修正者として立ち現れる。
 近代国家のこの二面性からすれば、市場社会はその登場の時から純粋な市場社会として登場したわけではないことがわかる。いや、純粋な市場社会などというものが存在したことはなかったというべきであろう。社会政策は近代国家とともにあったのであり、やや極端な言い方をすれば、近代国家の本質は社会政策という形で現れる共同体性にあった。

>5 19世紀システムとその機能不全

(2) ネーション国家と家族共同体

 ところが、19世紀は自由主義の時代であるだけではなく、ネーションの時代でもあった。もはやかなり希薄化していたとはいえ、それまで所属していた封建社会の村落共同体から投げ出された家族共同体は、ネーションという巨大な想像の共同体に自らを投げ入れることでその安定を図ろうとしたのである。
 そこで、ネーション国家による権力的介入は狭い意味での市場のルール確保を超えて、ネーション国家の細胞としての家族共同体の維持にも向けられる。具体的には、家族共同体を破壊する恐れのある労働力商品の個人化の抑止が、労働保護立法という名の下に開始されるのである。擬制的労務サービス業の主体はあくまでも家族共同体(「家計」)なのであって、その首長たる成人男子労働者については自己調整的労働市場にゆだねてあえて介入は行わないが、その妻や子どもについては就業制限や労働時間規制によって労働力供給を制約するという政策が試みられた。生産活動を行う家族共同体における家族労働は何ら規制されないのであるから、これはバラバラの個人としての他人労働化を抑止することが目的であったといえる。
 労働保護立法に続いてネーション国家が家族共同体維持のために採った政策は、社会保険制度である。これは成人男子労働者が一時的(疾病、失業)または恒常的(障害、老衰)に労働不能に陥った場合に、その家族共同体成員の生活を維持するための給付を成人男子労働者の強制拠出によって行おうとするものであって、自由主義国家の考え方とはかなりの程度矛盾するものであり、19世紀システムにおいては部分的、周辺的にしか取り入れられなかった。この制度が全面化するのは20世紀システムのもとにおいてである。

(3) ネーション国家とバランス・オブ・パワー

 ネーション国家は帝国ほど普遍的、世界的ではなく、封建武士団ほど特殊的、地域的でもない。複数のネーション国家が作る国際社会は、古代の氏族社会後期の王権国家と類比的な武力のバランスによって成り立つ社会であった。ネーション国家は領土や特に植民地をめぐって互いに戦争を繰り返し、ネーション共同体はその成員に名誉ある義務として兵士として戦うことを要求する。近代は徴兵制の時代でもある。
 だが、成員に死をすら要求する共同体は、成員からその死に値する待遇を要求されざるをえない。失業と飢えの恐怖から奴隷と変わらぬ労働を強制される「戦友」の姿は怒りを呼び起こし、労働力の商品化は糾弾される。
 しかし、このメカニズムが大きく動き出すのは20世紀に入ってからである。19世紀にはまだそこまではいかない。総じて、ネーション国家同士のパワーゲームは近世国家同士のそれの延長線上に貴族風外交術をもって行われ、十分に「ネーション外交」化していない。国際経済は自己調整的市場の延長線上に自由貿易と金本位制を機軸に動かされ、ネーション経済同士の利害対立はこの原理を否定するにはいたらない。
 19世紀末から20世紀初頭にかけてのいわゆる帝国主義時代は、以上のシステムが機能不全に陥った時代である。繊維を中心とした軽工業から鉄鋼造船等の重工業へと産業構造がシフトし、それとともに自己調整的市場に対する疑問の声は社会の中でいよいよ高まった。社会主義運動は激しさを増し、これに対応するために各国とも帝国主義的対外膨張政策に訴えた。その帰結が第1次世界大戦であり、大戦下の戦時体制において、自由主義国家に代わるべき新たな国家原理が模索された。それまでなお2等国民であった労働者階級を正規のネーション成員として組み入れる20世紀システムの出発点である

>6 20世紀システムの形成と動揺

(3) ケインジアン福祉国家と完全雇用政策

 程度の差はあれ、20世紀システムを19世紀システムから区別する最大の外面的特徴は国家のあり方であろう。19世紀に誕生したネーション国家が大きく成長し、自己調整的市場にほとんどをゆだねる自由主義国家から、民間経済に介入しつつ自ら経済主体として活動する新たな国家のあり方が登場してきた。国家の活動をその不可分の一部として組み込んだ経済システムとして、混合経済という呼び名が用いられる。
 国家の介入を大きく分類すれば次の3つになろう。第1は、ミクロの経済活動に介入する産業政策である。これは個別企業ではやりにくい産業の近代化を促進するためのものと、衰退産業を下支えする社会政策的色彩の強いものがあった。第2は、マクロの経済運営を、人的資源が有効活用され、非自発的失業が発生しないようにコントロールしていこうとする完全雇用政策である。第3は、労働者保護とともに社会保障を充実し、失業や疾病という一時的労働不能にも、障害や老衰という恒常的労働不能にも、労働者とその家族が生活を維持することができるようにしようとする本来的意味の社会政策である。
 これに応じて、国際経済においても金本位制は放棄され、アメリカのドルを基軸通貨とする固定相場制がとられた。これは国際収支の圧力によって国内における財政政策が制約されることなく、上の完全雇用政策を十分に実施できるための枠組みとなった。これはネーション的労働本位制と呼ばれる。
 こういった20世紀的な国家のあり方をケインジアン福祉国家と呼ぶことができる。それは一言でいえば、19世紀には未だ社会の全面を覆うにいたらなかったネーション共同体の原理が、さまざまな社会主義の模索の中を勝ち残った民主的社会主義の原理と結合し、フォーディズムが要請する労使妥協システムをその中に組み込みながら作り上げられたものであり、失業と飢えの恐怖におびえる労働者像を豊かさを享受する労働者像に転換させた。労働力商品化の害悪は遂に解消されたかのように見えた。
 しかし、その豊かな労働者は労働の現場においては決して実質的な自己労働性を取り戻していたわけではない。労務サービス業たる自己労働者は決して生産者たる自己労働者ではなかった。この矛盾がやがて20世紀システムの基盤を揺るがしていくことになる

「ネーション共同体原理」は近代社会が「悪魔の挽き臼」から守るために創設せざるを得なかった危険有害な取扱注意の必須不可欠な器具であるという認識を抜きに平べったい議論をしていては、ものごとの真の姿は見えてこないということです。

田中萬年懇談会資料集アップ

本ブログで既に紹介していますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6fae.html(非「教育」を考える資料集)

>田中萬年さんより、明日の懇談会用の『非「教育」を考える資料集』をお送りいただきました。

既に一部ネット上にアップされていますが、金子良事さんや森直人さんの鋭く本質をえぐるような批評は、まことにスリリングです。

この資料集が全編ネット上にアップされています。

http://d.hatena.ne.jp/t1mannen/201008248/7懇談会『非「教育」を考える資料集』がアップされました

>「非教育」については、経験豊富な先生からはやんわりと、若い研究者からは厳しく批判されています。

これらの批判を受け、私も「非教育」の補足を2本掲載しています。

やはり、「それでも教育はおかしい」というのが私の思いであり、「やはり職業訓練は重要だ」と確信を深めているところです。

資料集はこちらです。

http://jssvte.org/kanto/hikyouiku.pdf

100頁を超える大冊ですが、じっくり読めば、現代の「教育」と「職業訓練」をめぐる混迷した問題状況が浮き彫りになってくるでしょう。

まあ、役にも立たない「教育」をしている方面に限って、「職業訓練」を目の敵にして「ムダ」だのなんのと言いつのりたがるわけですが。

2010年8月23日 (月)

『自由への問い6 労働』への書評

ようやく、『自由への問い6 労働』へのネット書評がアップされました。「sugiちゃんの自♨人(じゆうじん)ノート」というブログです。

http://sugi.blogzine.jp/blog/2010/08/6_cf18.html

>この巻の骨格は、前半の高原基彰氏と濱口桂一郎氏の2論文が形作っているように思います。

特に濱口氏が指摘する、戦後日本の「正社員」体制を基本とした社会保障についての考察が、問題状況をよく捉えています。

単に「正社員」であることの価値や利点を感じ難くなりつつある現状を考えながら、複雑な思いで読みました。

ありがとうございます。

>さらに、私自身のここ10年余を振り返ると、就職活動/新卒採用の歴史的位相を扱った福井康貴氏、ひきこもりと「社会性」について論じた貴戸理恵氏、そして介護労働を取り上げた三井さよ氏の論考主題が、その順番で自分に重なってきます。

本当に他人事でないと感じたし、問題意識を少なからず共有できました

ここは、是非そういう「我が身」の観点で読んでいただきたいところです。

本ブログの読者の皆様にも、是非じっくりとお読みいただければ幸いに存じます。

日本経団連の同一価値労働同一賃金

『労基旬報』8月25日号に、「日本経団連の同一価値労働同一賃金」を書きました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo100825.html

週刊ダイヤモンド誌の解雇特集におけるhamachan発言

Dw_m_2 ということで、今朝ようやく週刊ダイヤモンド誌を読んで、わたくしの発言を確認できました。

はじめに言っておくと、「解雇解禁」という鬼面人を驚かす特集タイトルに比べると、特集記事の内容はかなりまともです。特集の一番はじめのリード部分にその問題意識が書かれていますが、

>日本の働き手たちの行く先には、処遇格差の厚い壁がいくつも待ちかまえている。正社員と非正規社員、中高年と若年層、男性と女性-これらの間にある壁は容易に壊れず、時に圧倒的不平等を生み出す。例えば、世界的に有名な日本の厳格な解雇規制は正社員と非正規をわけ隔てる元凶であり、さらに、その解雇規制が適用されるのは大企業だけで、中小企業では事実上、正社員も解雇自由といういびつさを生んでいる。格差を縮小し、労働市場の流動性を高め、生産性向上を図るために、今こそ「解雇解禁」に踏み出すときである。

その問題意識は非常によく分かりますが、だからといって結論が「解雇解禁」ではないだろう、と思いますが、そこは雑誌販売上の戦略の問題ですので、それ以上申し上げることは致しません。

わたくしの発言が出てくるのは、48頁以下の「中小企業編 解雇規制が有名無実化 労働市場に潜む二重基準の罠」というところです。

>日本は先進国の中でも解雇規制が厳格で、容易に解雇はできない-それは事実だが、あくまでも大手企業に限った話でしかない。

>中小企業においては解雇規制は有名無実化し、クビ切りが横行しているのが労働市場の実態なのだ。

ということで、NPO法人労働相談センターに持ち込まれた相談と、私たちJILPTが行った労働局あっせん事案の研究との内容が紹介されていきます。「不当解雇のオンパレード 解雇理由のトンデモ事例」という表と、「半数が20万円足らず」という解雇事案の和解金額をグラフ化したものが載っています。

>独立行政法人の労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員は、「解雇を厳格化した日本の判例法理は、典型的な大企業モデルだ。なぜなら、裁判を起こせるだけの時間とコストをかけられるのは、資金力が豊富な労働組合の支援が受けられる大企業の社員に限られるからだ」と説明する。

>大企業の場合はいまや、経営者側も訴訟のレピュテーション(リスク)を警戒して、法に触れかねない解雇はほとんど行わない。

>だが、中小企業の実情はまったく違う。・・・

>大手企業という解雇規制に守られた”既得権益”の枠から一歩はずれたところには、不当解雇が横行する、まったく別の世界が併存しているのだ。

>「労働法学者は、判例集に掲載されているケースでしか解雇事例を知らないため、中小企業で解雇が横行していることに対する議論が行われていない」と、濱口統括研究員は不当解雇に関する専門家の事実認識にこそ問題があると指摘する

わたくしが申し上げた趣旨がほぼ適切に反映されている記事になっていると思います。

ちなみに、全くの余談ですが、わたくしのところに取材にいらしたのは山口圭介さんという記者の方でしたが、この山口さんがこの号の巻末の「From Editors」というところでこんなことを・・・、

>労働組合の存在意義とは何なのでしょうか-。のっけから小難しい議論をふっかけましたが、じつは私、労組の執行委員に選ばれたんです。まあ、あみだくじで決まっただけなのですが。

>はい、本特集でいう典型的な”タダ乗り”組合員です。しかも、「解雇解禁」という一見、労組の存在意義を全否定するかの如き特集の担当者、ああ、完全に労組の敵役です。

>とはいえ、執行部入りは冒頭の疑問を解く絶好の機会でもあります。ならば、まずは執行部に溶け込まないと。デスク、しばらく特集班から離れてもいいですよね?

デスクの回答は書かれておりませんでした。

(追記)

ついでに、以上のような重要なことには一切思考が回らず、ただただ「解雇解禁」という大見出しに脊髄反射して喜んでいるおなじみの方:

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51470391.html(最悪の時はこれからだ)

>来週の週刊ダイヤモンドの特集は「解雇解禁」。といっても解雇が解禁されたわけではなく、解雇規制を解禁せよというキャンペーンだ

そう思われたいからああいうタイトルをつけたんでしょうが、みごとに自分の脳内だけで思考が完結しています。記事を読みもしないで、自分の都合のいいことばかりが書いてあると思い込める性格は、デマゴーグとして生きていく上で大変有用なのでしょう。

2010年8月22日 (日)

労働法学者は判例集に掲載されているケースでしか解雇の実態を知らない

Dw_m ある弁護士の方のつぶやきに、わたくしの『週刊ダイヤモンド』最新号の記事における発言が引用されているのですが、

http://twitter.com/kamatatylaw/status/21800761860

>濱口桂一郎氏は「労働法学者は判例集に掲載されているケースでしか解雇の実態を知らない」と。有給休暇をとろうとしたら「うちには有給はない」と言われて解雇された人や「女性らしい笑顔が足りない」として解雇された人の話もでている。中小企業の実態はそんなものだろう。

悲しいことに、当の私はまだその(公式には明日発売の)記事を読めていないのです。

トッププライオリティはもちろん雇用創出です@OECD

いうまでもなく、日本の一部のローカルな議論ではなく、OECDという世界的な議論のアリーナにおいては、トッププライオリティが雇用の創出にあることは常識です。

http://www.oecd.org/document/9/0,3343,en_21571361_44315115_45602953_1_1_1_1,00.html

>Employment: Job creation must be a top priority in months ahead, says OECD’s Gurria

これは去る7月7日とちょっと前の記事ですが、今必要な政策がいかなるものであるかについての、先進国の共通認識を示すものとして、猛暑でぼけた頭を冷やすのにちょうどいいと思われます。グリア事務局長の発言から。

>“Creating jobs has to be a top priority for governments,” said OECD Secretary-General Angel Gurría, launching the report in Paris

「雇用の創出が政府にとってのトッププライオリティであるべきだ」

>“A strong case can be made to ensure that labour market policies remain adequately funded,” the report argues.

「労働市場政策に十分な資金をつぎ込むべきだという主張には十分な根拠がある」

稲葉先生は玄田先生に釈明すべきでしょう

稲葉振一郎先生が、とんでもないことをつぶやかれています。

いや、これではありません。

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/21750879620

>いうたら悪いがキャラは似てると思う。hamachan先生ってあのブログ通りのキャラとしたら組織人としては浮きまくりで嫌われ者で出世しないと思うし。

確かに、人によってはそういう風に感じる人はいるでしょうね、というのが正直な自己省察ではあります。

もちろん、田中秀臣氏の「下衆」ぶりではなく、(自分ではそのつもりはなくてもにじみ出る)好戦性みたいなものですかね。これだけ多くの方からそう指摘されるということはそういう面があるのは事実なのでしょう。

実際、全然出世していませんしね(笑)。

しかし、その次のつぶやきは、そうやって笑って済ませられるような話ではないように思われます。

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/21751166026

>ところで田中秀臣も玄田有史も「自覚した覚悟あるデマゴーグ」だと思っている。彼らはたぶんどちらも自らの信じる公益を実現すべく頑張っている。その意味では世を欺いているわけではない。ただし手段は選ばない。理性的な討論や説得にはそれほど期待していない。つまり「デマゴーグ」。

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/21751347493

>かつてぼくは玄田の「ニート」論を評して「地獄行きの所業」と言った。つまりそれは世を欺くデマゴギーである、との趣旨であった。ただしそれはおそらく、玄田にはそうしてでも実現すべき善が見えていた、ということなのだろう

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/21751535205

>「そういうデマゴーグは、たとえ自覚的であろうとも長期的には有害だ」という批判は確かに相当程度正しいとは思うのだが、昨今は「原則には例外がつきもの」との悪魔のささやきがよく聞こえる

玄田先生の業績について、同じ労働研究者内部から様々な批判があるのは事実です。

しかし、bewaardさんやわたくしとの間で田中秀臣氏が引き起こしているこの「下衆」な騒ぎに引きつけて、玄田先生を持ち出すのは、ミスリーディングを遥かに通り越して、失礼極まる、もっといえば侮辱に相当する非礼行為ではないでしょうか。

わたくしが知る限り、玄田先生が同じ政策的志向を有する人に対して、その議論の中身ではなくその所属や属性を取り上げて誹謗中傷をしたというような事実は承知しておりません。

稲葉先生の発言は、本件の一連の文脈からして、玄田先生がそのような行為を行ったかのような印象を与える可能性が高いように思われます。

玄田先生に対して、きちんとした釈明が必要ではないでしょうか。

それとも、稲葉先生は、(リフレ政策という方向性では相互の異論がそれほどない)bewaardさんやわたくしに対する田中秀臣氏の一連の発言が、(玄田先生のニート論と同様)リフレという善を実現するために敢えて行う値打ちのあるデマゴギーであったとでも仰るつもりでしょうか。

真摯なご回答をいただければと存じます。

(念のため)わたくしに対する軽口につきましては、特段のコメントは不要です。

『POSSE』第8号のBI反対・慎重派

『POSSE』の坂倉さんが、もうじき出る第8号のベーシックインカム特集の中身をちらちら覗かせています。

http://twitter.com/magazine_posse/status/21743889001

>『POSSE vol.8』特集「マジでベーシックインカム!?」、BI反対・慎重派の執筆陣は以下のとおり。萱野稔人(津田塾大学准教授)/後藤道夫(都留文科大学教授)/竹信三恵子(朝日新聞編集委員)http://bit.ly/a2YuV0

http://twitter.com/magazine_posse/status/21743914025

>萱野稔人「ベーシックインカムがもたらす社会的排除と強迫観念」/「労働からの解放」?「パターナリズムの克服」?BI論者が露呈した国家と資本主義への無理解とは

http://twitter.com/magazine_posse/status/21743923208

>後藤道夫「「必要」判定排除の危険──ベーシックインカムについてのメモ」/「無条件」の所得保障こそが生存をおびやかす―そして、多様化する時代の新しい福祉国家とは

http://twitter.com/magazine_posse/status/21743932160

>竹信三恵子「なぜ「働けない仕組み」を問わないのか ~BIと日本の土壌の奇妙な接合」/女性の職場は「いまのままでいい」!?共感を呼ぶ「現状肯定」のメッセージ

これは読み応えがありそうです。

2010年8月21日 (土)

OECD若者雇用ハイレベルフォーラム

OECD(経済協力開発機構)は、来る9月20,21日に、ノルウェーのオスロで「若者雇用ハイレベルフォーラム」を開催します。

http://www.oecd.org/document/10/0,3343,en_21571361_44283129_44826122_1_1_1_1,00.html

>What are the main barriers to employment for young people in 16 OECD countries?

The global economic crisis has hit youth very hard. But even in good times youth are more vulnerable to unemployment than adults. A High Level Policy Forum on Jobs for Youth: Addressing Policy Challenges in OECD Countries jointly organised by the Norwegian Ministry of Labour and the OECD will discuss what decisive actions governments should take to improve job prospects for young people.

詳しいことはリンク先に情報がありますのでそれをご覧下さい。

わたくしにとって重要なのは、

>The OECD launched in 2006 a review on Jobs for Youth in 16 countries (Australia, Belgium, Canada, Denmark, France, Greece, Japan, Korea, the Netherlands, New Zealand, Norway, Poland, the Slovak Republic, Spain, the United Kingdom and the United States). A synthesis report is now in preparation and will be presented at the High Level Policy Forum.

既に日本を含む16カ国についての国別報告書はすべて公表されており、このハイレベルフォーラムで統合報告書が提出されるということです。

Youth_3 本ブログでも今まで何回もご紹介してきましたが、このうち日本編の報告書は、中島ゆりさんが翻訳、わたくしが監訳ということで、今年初めに刊行されております。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ce0b.html(日本は若者が安定した仕事につけるよう、もっとやれることがある)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/oecd-1901.html (OECD『日本の若者と仕事』翻訳刊行のお知らせ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0da2.html(OECD『日本の若者と雇用』ついに刊行

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b5d0.html(ニッポンの「失われた20年」にもっとも失われたのは若者の雇用だった@『月刊連合』4月号)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/oecd-71f6.html(OECDの若者雇用ワーキングペーパー)

統合報告書は、世界の先進諸国で若者がどのような状況にあり、どのような対策がとられているかをわかりやすく要約しているものと思います。

フォーラムに提出され、OECDのサイトにアップされたら、また中身を紹介したいと思います。

松尾匡さんの人格と田中秀臣氏の人格

松尾匡さんが、リフレ派をめぐるドタバタ劇を一生懸命収拾しようとしておられます。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100820.html(10年8月20日 小野善康さんからお電話をいただいた件ほか)

>でも、リフレ派の中にはいろんな立場の人がいて、中にはけしからぬ言動をする人もいるでしょうけど、その責任を全部負わさせたらかなわないという気はしますね。

>Apemanさんや、コメント欄にお書き込みの仲間のみなさんのような方々にこそ、是非拙著を読んでいただきたいと思っております。私がそこで主張しておりますのは、左翼的価値観の望むことを実現するためには、不況の脱却は必要条件だということです。十分条件ではないかもしれないが、必要条件。

>ともかく、リフレ派は組織でも派閥でもない上に、金子議員はリフレ派の中でもただの一ユーザーで、リーダーでもなんでもないのですから、リフレ政策に賛同することが金子議員の主張を許容することになるわけでは全くありません。

これをbewaardさんの用語法を用いて言えば、「あなたにとってリフレはトッププライオリティではないでしょうし、トッププライオリティにしろともいうつもりはないけれども、少なくともあなたのトッププライオリティと矛盾しない共通の目的として共有することができるのではないですか?」という呼びかけでしょう。

まことに人格篤実にしていかなる罵倒誹謗中傷にも完爾と笑みを浮かべつつ粘り強く真摯に説得し続けようとする松尾さんの高潔な人格が浮かび上がるような文章です。

こういう共有目標を、一般政治用語で「最大公約数」といいます。政治的同盟関係というのは、それぞれが有するトッププライオリティをお互いに(共有はしなくても)尊重しつつ、最大公約数において共闘しようとする行動です。

これを読んで、おもわずその国民会議なるものに入ろうかと心が動いた方も一人や二人ではないと思われます。

ところが、そのひとときぬくもった心が、たぎるような悪意の充満したこういうつぶやきを一瞥すると、とたんに絶対零度にまで冷却するのですから、リフレ方面のパス回しの技は見事と申し上げるよりほかにはありません。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20100821/p1[アホ文化人を退場させられない理由]リフレ派(ネットリフレ派)の「トッププライオリティ」とは?)

つまり、リフレなるものをトッププライオリティとして共有しないような奴は許さない。とりわけ、労働問題の労働政策による解決をトッププライオリティと考え、そのためにどこにどういう問題があるのかを真剣に考えようとするような輩は、たとえ最大公約数としてリフレーション政策を共有できたとしても断然撃滅するぞ!ということを公言するような人格の持ち主が、(ただの一ユーザーなどではなく)その国民会議なるものの中軸的存在であるわけです。

まことに、素晴らしい役割分担と申し上げざるを得ません。労働研究者や労使関係者には内心リフレーション政策にシンパシーを持っている人が結構いると思っているのですが、ここまで言われれば、公然とその国民会議なるものに近づくなどという利敵行為に手を染めることは不可能でしょう。

風間直樹さんのつぶやきから

東洋経済の風間直樹さんの昨夜のつぶやきから始まった一連のやりとりを見つけました。

http://togetter.com/li/43518

>巷間言われている「非正社員が報われないのは、正社員が恵まれすぎているから」→「正社員の解雇を自由化すれば格差、貧困問題はすべて解決」という主張に、『東洋経済』の風間直樹記者(@naokikazama)が抜け落ちている点を指摘。加えてその反応も。

風間さんとは数年前に取材を受けて以来、御著書を頂いたりお送りしたりという関係ですが、このつぶやきも、まさしく今の学者やマスコミ人の多くが忘れている重要な点を指摘しています。

その論点は、本ブログで繰り返し取り上げてきたことと重なりますし、最近のわたくしたちJILPTの報告書のテーマでもあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d97a.html(個別労働関係紛争処理事案の内容分析―雇用終了、いじめ・嫌がらせ、労働条件引下げ及び三者間労務提供関係―)

ちなみに、風間さんとは、「○○さんはどうしようもなく●●ですねえ」という人物評価で一致率が高いのもうれしいところです。

2010年8月20日 (金)

解雇解禁-タダ乗り正社員をクビにせよ

Dw_m 来週発売される『週刊ダイヤモンド』が「解雇解禁-タダ乗り正社員をクビにせよ」という特集をしているようです。

http://dw.diamond.ne.jp/

目次をみると、

Part 1正社員がクビになる日
解雇規制がもたらす”不平等”
Diagram 六つの対立構図の全貌
Illustration あなたの隣のタダ乗り社員
フリーライダーを見過ごせば企業は衰退
Check フリーライダー度 セルフチェック

Part 2派遣規制は誰のため?
迷走する派遣法改正の行方
Interview 水町勇一郎●東京大学教授
Interview 山田 久●日本総合研究所調査部ビジネス戦略研究センター長
Column 最低賃金1000円の本気度
Interview 湯浅 誠●内閣府本府参与
Diagram 正社員と非正規社員の生涯賃金格差、年金格差

Part 3犠牲にされる”雇用弱者”
新卒編 派遣法改正案が就職戦線を悪化させた
中小企業編 解雇規制が有名無実化

Part 4崩れる正規・非正規の”壁”
雇用先進企業の覚醒と苦闘
Column 雇用吸収力1000万人割れ

Part 5解雇解禁のはじめの一歩
解雇解禁の前提は安全網整備
Interview 八代尚宏●国際基督教大学教授
Table 主要155社 雇用実態調査データ一覧

となっています。必ずしも解雇規制だけの特集ではないようですが、表紙のインパクトの強烈さで「解雇解禁」ということになったのでしょうか。もちろん、本ブログで何回も繰り返しているように、日本の判例法理はなんら解雇を「禁止」していないので、解雇「解禁」というのはナンセンスなのですけどね。

先日わたくしのところにも同誌の記者が取材に来られましたが、それが反映されているかどうかは判りません。ただ、「中小企業編 解雇規制が有名無実化」というのは、まさにわたくしがお話ししたことなのであり、中小零細企業では解雇解禁どころか、とっくに限りなく解雇自由に近い世界であるということを忘れて議論すると、あらぬ方向に行きがちです。

これはもちろん、労働問題全般にいえることではありますが。

欧州技能・職能・職業分類

欧州委員会のホームページに、欧州技能・職能・職業分類(European Skills, Competences and Occupations taxonomy (ESCO))の紹介記事が載っています。

http://ec.europa.eu/social/main.jsp?langId=en&catId=89&newsId=852&furtherNews=yes(Contribute to the development of a European multilingual classification of jobs and skills)

>The European Commission is developing a European Skills, Competences and Occupations taxonomy (ESCO), which will describe the most relevant skills, competences and qualifications needed for several thousand occupations.

欧州委員会は何千もの職業に必要な技能、職能、資格を示すESCOを開発中だ。

>Aimed at institutions and stakeholders in the labour market and education sector, this new tool will be progressively developed over the coming years to include as many occupations as possible. Once finalised, ESCO will be the first classification of its kind available in all EU languages.

労働市場関係者や教育関係者のために、できるだけ多くの職業を盛り込み、EUの全言語で利用できるようにする。

>ESCO will be made available to all institutions in the labour market and within the education sector for use in their respective systems. The detailed picture of job profiles provided through ESCO has the potential to bring benefits to both jobseekers and employers. For example, it could be used to help jobseekers better describe their skill sets, or to develop new training initiatives adapted to the needs of the labour market and improved career guidance services.

ESCOの職務記述は、自分の技能を示し、訓練やキャリアガイダンスにも使えるので、求職者、求人企業双方に有益だ。

>At European level, ESCO will contribute to improving the services provided by EURES, the European Job Mobility Portal and make it possible to develop new services such as Match & Map which aims to improve the matching of jobseekers to available jobs.

EURESというのは、全欧ハローワークシステムです。どの国のハローワークでもEU全体の求人・求職情報が得られます。そこで活用できるようにしたいと。

ヨーロッパの場合、各国レベルでは企業を超えた職業や技能の定義が確立していますが、国境を越えると共通性が必ずしもないので、それを共通化しようという取り組みですね。その目的は「労働力の自由移動」の障壁をなくするということにあります。

日本の場合、職能の定義が各企業ごとになっているので、それをどうするかが先ですが、キャリアマトリックスに対する冷たい視線からも窺われるように、そういうことにはあまり関心はなさそうです。

大学は教育をするところではなく、職業訓練をするところなのだ

全新聞が3年新卒扱いを見出しに掲げ、その見出ししか読まないうかつなヒョーロンカがうかつなことを書く、例の日本学術会議の大学と職業との接続検討分科会でずっとご一緒させていただいた田中萬年さんが、ご自分のブログで、教育と職業訓練をめぐるドイツ語と英語と日本語の対応関係について書かれています。

教育と社会についてなにがしか考える人は必読。

http://d.hatena.ne.jp/t1mannen/20100820/1282262325日本人の「訓練」嫌いとTrainingの重要性)

>小原氏によると、Erziehung は主として義務教育段階、せいぜい中等教育までを対象に使用し、生徒の能力を引き出す、という意味で使っている。これは他動詞である。一方、Bildungはより上の段階の大学等の学生を対象に使い、学生自身が能力を積み上げていく、という意味で使っているという。これは自動詞である。それらの関係はBildungの大きな概念の中にErziehungが含まれると言うのだ。

 私は訓練にBildungを当てるのは教育ではないからという意味で使うのだろう、と引け目に感じていたが、そうではなかったのだ。

>考えて見れば、最終的に職に就くためにはどのような形態かは別にして何らかの職業訓練を受け、職業能力を修得しなければならないのである。それが大学であっても、訓練校であっても同じであるはずだ。義務教育を終える時から、次第に上級学校に進むほどその重要性は高まるはずだ。

 このような事を考えると、最近喧伝している「キャリア教育」がいかにまやかしかということをさらに確信したのである。

 職業訓練の重要性は、英語、ドイツ語では明確だったのだ。大学は教育をするところではなく、職業訓練をするところなのだ

そういえば、ビルドゥングス・ロマンとか言いますよねえ。立派な職業人(マイスター!)になるべく研鑽を積む若者の物語。

直訳すれば「訓練小説」のはずなのに、そうするとすごくランク落ちするように感じる日本人の感覚こそが問題なのでしょう。

2010年8月19日 (木)

昔の岩波新書みたいであった

さる方のつぶやきから、

http://twitter.com/yeuxqui/status/21539768165

>「新しい労働社会」は(学生に読ませるには)意外に難しかった。岩波新書だから大丈夫だろうと思ったら、昔の岩波新書みたいであった

はあ、すみません、というべきか・・・。

自分としては、大事なことを抜きにすることで過度にわかりやすくされすぎているものごとを、できる限りわかりやすく、しかしきちんと本質を捉えつつ丁寧に腑分けする考え方の道筋を示そうと思ったのですが、それは「昔の岩波新書」なんですね。

とりあえず、褒め言葉半分、貶し言葉半分という風に、受け取っておくべきでしょうか。

渋谷望『ミドルクラスを問いなおす-格差社会の盲点』

Bpbookcoverimage 戦後日本の労働史から住宅問題、アメリカのノワール映画、シカゴ学派による軍事的暴力等々と、さまざまな道具立てを使った格差社会論ですが、正直な感想としては、いささか平板な左翼史観になっているのではないか、もう少し、「ミドルクラス化した労働者たち」の共同主観に踏みいった分析が必要なのではないか、というものでした。

いや、その萌芽はけっこうあちこちに書かれています。とりわけ、最後のコモンズ論は、うまく使えば前半の議論を立体化する最適の道具立てだったはずです。しかしながら、渋谷氏は、「第6章 コモンズを取り戻せ!-ミドルクラス社会からの離脱」というコンテクストでしかこれを使っていません。大変もったいない!

渋谷氏の「ミドルクラス化した労働者たち」のイメージは、ブルデューだのホガートだのといった舶来社会学に基づき、「出身階級から切り離され「ヤツラ」の側にいった者」であり、連帯を求めず孤立して出世競争にはげむ人々です。それがまったく間違っているわけではありませんが、戦後日本で進んだ労働者のミドルクラス化のイメージとしては非常にミスリーディングだと思われます。

むしろ(ここはほんとうはきちんと細かい歴史的分析がされるべきところですが)日本の労働者たちの「人格」希求、「メンバーシップ」希求をベースとして、労働運動が主導する形で「正社員」という形でのミドルクラス化が進んだという職場のミクロ社会学が必要で、その多数派の共同主観に踏みいらないで、排除された少数派組合の側から「ヤツラ」を罵っているだけでは何が起こったのかは見えてこないでしょう。

これを別の観点からいえば、本書の最後で出てくる「コモンズ」が市場経済のただ中の企業に重ね合わされたということもできます。実際、そこにおいてはまさに「能力の共同性」「能力はコモンズ(共同体)からの借り物」という実践感覚が根付き、『ゴータ綱領批判』のとおり、若いうちは能力に応じて猛烈に働き、中高年になったら必要に応じて受け取るのです。

208頁で、渋谷氏は「孤立する労働者たち」という項で、「個人のノルマや職務の厳格な遂行のみが求められ、個人間の自律的な共同やコミュニケーション-たとえば誰かがノルマを手伝ったり、私語やカンニングをするといった横断的回路は断ち切られる」と述べていますが、日本の企業で労働者に求められるのはまさに逆で、個人のノルマや職務の厳格な遂行にこだわり、個人間の自律的な共同を拒絶するような労働者が「ヤツラ」として排除の対象となるのです。

「孤立するミドルクラス労働者」は自分一人が出世するために抜け駆け的に長時間労働するのに対し、このコモンズ型ミドルクラス労働者はみんなが長時間労働しているのに一人だけ抜け駆け的に先に帰るヤツを憎むのです。

そして、それを「社畜」と罵った議論が90年代にネオリベラリズムと同調していったという特殊日本的労働の歴史を踏まえれば、ミドルクラス社会とコモンズを安直に対立させて「コモンズ万歳」で話が終わりというのは、あまりにも平板ではないか、と思うわけです。

2010年8月18日 (水)

リフレがトッププライオリティなんて人は存在し得ない

田中秀臣氏に闇討ちされたbewaard氏の議論、半分賛成だけど、半分疑問。

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20100818/p1(リフレ政策を巡る政治的な話に関してちょっと脱線)

>BUNTENさんが「リフレ派の実体なんてねーよ、ただの呉越同舟に過ぎない。」とおっしゃっているわけですが、それで済むのはリフレ政策の実現がトッププライオリティだからこそ。小異を捨てて大同につく、とは大(=トッププライオリティ)を同じくするから成立する話で、大が同じでない人には当てはまらないわけです。BUNTENさんのご認識を言い換えれば、「リフレ派」とはリフレ政策の実現をトッププライオリティとすることが実体なわけで、セカンド以下のプライオリティは様々(=呉越同舟)だということでしょう。

>リフレ政策の実現がセカンドプライオリティである人を想定します。トッププライオリティは、たとえば所得再分配の強化だとしましょう。これが逆の人であれば、リフレ政策が実現さえすれば、所得再分配が実現しなくても究極的には仕方がない、ということになりますが、所得再分配の強化がトッププライオリティであれば、リフレ政策が実現したところで、所得再分配の強化が実現しなければ、かなりの程度残念な思いをすることになります。

>大同団結せよ、との呼びかけは、数多くの賛同者がいるという状況を現出させるために政治的リソースをよこせ、ということと同じです。リフレ政策の実現がセカンドプライオリティの人にとって、では、その政治的リソースを与えることの見返りは何なのでしょうか? リフレ政策の実現が所得再分配の強化につながるのであれば、ギブ&テイクだということになりますが、何ら無関係というのであればまだしも(それにしても、リソースの機会費用が生じます)、リフレ政策の実現がかえって所得再分配の強化の妨げになるならば、リソースを自らの望まぬ方向に費やされるわけで、踏んだり蹴ったりです。

>そうした懸念を有している人々に、そもそも呉越同舟なんだよ、小異を捨てて大同につこうという説得が効かないのは、当然ではないでしょうか。そもそも、ある人にとって「大」であることを、捨てることが可能な「小」だとみなすこと自体、反感を買いこそすれ、賛同を集めることに貢献するはずもないのです。

論理的にはその通り。

ただ、問題はそもそも現実の社会的存在として本当に「リフレ政策の実現がトッププライオリティ」であるような人が、この現実社会において存在するのか?ということです。

敢えて言えばそんな奇怪な人間は(後に述べるように、それすらも現実にはそうではないはずですが)大学でマクロ経済学を担当している教授くらいしかあり得ないと思われます。

それ以外の、現実社会でそれぞれの社会的役割を担っている人々は、その自らの社会的役割自体を平然と否定するような議論とワンセットで持ち出されたら、リフレ政策はセカンドプライオリティになるはずです。自分の社会的任務を否定する人々と和やかに手をつなげるだけのトッププライオリティをリフレ政策に与えられる人はたぶん存在しない。

いや実のところ、大学でマクロ経済学を教えている人だって、「大学でマクロ経済学なんて学生にとってクソの役にも立たないものを教えるのは全くの無駄だから、全部お釈迦にしよう」という主張をする人と、無邪気にリフレ政策で共闘はできないはずでしょう。もしできるというのなら、是非やってみてください。

(東日本大地震を受けての追記)

私は昨年、

>ただ、問題はそもそも現実の社会的存在として本当に「リフレ政策の実現がトッププライオリティ」であるような人が、この現実社会において存在するのか?ということです。

敢えて言えばそんな奇怪な人間は(後に述べるように、それすらも現実にはそうではないはずですが)大学でマクロ経済学を担当している教授くらいしかあり得ないと思われます。

と書きましたが、千年の一度の大地震と大津波に原発事故が襲いかかってきているこの期に及んで、まさに「リフレがトッププライオリティ」と叫び続け、リフレ以外のことにちょっとでも関心を向けようとする者に対して目を覆いたくなるような罵声を浴びせかけている姿を見ると、我が身の不明をお詫びしなければならなかったようです。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20110320

いやはや・・・。

外国人労働者政策の失われた20年

4月から7月まで東大の公共政策大学院で「労働法政策」の授業をしましたが、その最後の時間に「何かほかに聞きたいことは?」という問いに対して注文があったのは、外国人労働政策でした。

040720 拙著『労働法政策』では、外国人労働者に関する政策にはまったく触れていません。それはなぜかというところからお話ししたのですが、それをごく簡単に要約したエッセイを、『労務事情』という雑誌に書きました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roumujijo0801.html(『労務事情』2010年8月1/15日号 巻頭エッセイ「Talk&Talk」 「外国人労働者政策の失われた20年」 )

>日本の外国人政策の最大の問題は、それが労働政策として位置づけられることなく、もっぱら出入国管理上の問題として20年間扱われ続けたことである。実際には、日系南米人にしても、アジアからの研修生にしても、日本の労働市場が求める労働力として移入され続けてきたにもかかわらず、少なくとも公的な建前としてはそのような位置づけはまったくなされなかった。

 その最大の原因は、20年前に当時の労働省と法務省の間で外国人労働者をめぐって激しい縄張り争いがあり、外国人問題を労働政策と位置づけて雇用許可制を打ち出した労働省が敗れ、労働政策であることを徹底的に否定した法務省が入管法の改正を実現したことに遡る。法務省は、他の官庁が入管政策に介入する余地を極小化することを目指した。その結果、日系南米人は「血の論理」に基づき「定住者」としての在留資格で導入されたため、その労働力需給調整システムはまったく公的規制を受けることなく、派遣・請負型のブローカーの手で流入していった。リーマンショック以来の景気後退により発生した大量の日系人失業者は、失業して初めて地元のハローワークに向かうこととなったのである。

 最大の矛盾は研修・技能実習制度にあった。もともとこれは、正面から外国人単純労働力の導入できない中で、OJTにより働きながら技能を学ぶという形で外国人労働力を導入しようという経営側の要望に発する。したがって、研修生を(低賃金であっても)労働者として扱うことは当然であって、「労働者を労働者ではないことにして与えられるべき保護を奪う」ことを期待していたわけではなかった。ところが上記入管法の改正により、法務省は研修は労働ではないことを法律に明記しており、とりわけ実務研修(OJT)といえども労働ではないという労働法上信じがたい立場を貫いた。その結果、技能実習に移行後は労働者と認められるが、それまでの研修生は労働者ではないことにされてしまったのである。これがいわゆる「時給300円の労働者」を生み出し、多くの事件や裁判などで研修・技能実習制度のイメージを悪化させたことは記憶に新しい。ようやく2009年の入管法改正により、実務研修もすべて労働者として扱われる技能実習という資格に移行することとなり、労働者性に関する一応の問題解決はなされたが、団体監理型という民間ブローカー任せの仕組みをわざわざ法律上に明記するなど、労働政策としての問題解決に近づこうとする姿勢はあまり見られない。

 最近法務省は、日系人についても就職先の確保や日本語能力を要求する政策を考えているが、そのような外国人労働者としての適格性基準の導入と対象を「血の論理」による日系人に限定する理屈はもはや両立しがたい。外国人「労働者」政策を否定する20年の帰結が現状である以上、その転換は外国人「労働者」政策の存在を正面から認めること以外にはあり得ないはずである。いまこそ、外国人問題が労働政策でなかった「失われた20年」に終止符を打つべき時期であろう。

ということです。つまり、「労働政策として位置づけられることなく、もっぱら出入国管理上の問題として20年間扱われ続けた」から、『労働法政策』の中に他の政策と並べて書くことができなかったわけです。

このエッセイでごく簡単に要約したことを、そのうち発表される論文ではかなり詳しく論述しております。

非正規雇用問題に関する労働法政策の方向

労働問題リサーチセンターの調査研究報告書『非正規雇用問題に関する労働法政策の方向-有期労働契約を中心に』は、まさに今ホットなテーマとなりつつある有期労働契約を中心に、非正規問題の比較法的研究を行っています。

http://lrc.gr.jp/research/r_2101.html

主査は東大の荒木尚志先生で、各章の執筆者は、

序章 非正規雇用問題と法政策の方向性(荒木尚志)
第1章 交渉代表選出手続における非正規労働者の位置づけ(竹内(奥野)寿)
第2章 フランスにおける集団的労働条件決定と非正規従業員(桑村裕美子)
第3章 ドイツ事業所組織法における労働条件設定システムと非正規労働者(成田史子)
第4章 非正規労働者と正規労働者の処遇格差と差別禁止法理(富永晃一)
第5章 英仏における最低賃金法制の役割(神吉知郁子)
第6章 「ワーキングプア」の現状及び法的課題(石崎由希子)
第7章 フランスの有期労働契約法制(奥田香子)
第8章 ドイツにおける有期労働契約規制(石崎由希子)
第9章 オランダの解雇規制と有期労働法制(本庄淳志)
第10章 イギリスの有期契約法制(櫻庭涼子)
第11章 韓国における期間制法の施行と対応(崔碩桓)

となっています。

この報告書の特色は、なんといっても、非正規労働問題に対する法規制として、実態規範を直接規制する均等待遇や更新規制のようなアプローチと並んで、「非正規労働者に労働条件決定の公正なプロセスを保障する手続規制アプローチ」を正面から取り上げ、第1章から第3章までで詳しく検討しているところです。奥野さんのアメリカ、桑村さんのフランス、成田さんのドイツなど、いずれも大変役に立ちます。

非正規労働問題から「集団的労使関係の再構築」へ、というのは拙著『新しい労働社会』のアプローチでもありましただけに、わたくしには大変興味深い報告書でありました。

2010年8月17日 (火)

日本学術会議「大学教育の分野別質保証の在り方について」

今までじらしにじらされてきた日本学術会議の「回答」が、本日ようやく公開されました。

>日本学術会議会則第2条に基づき表出する政府及び関係機関への回答として、大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会において審議の上、第100回幹事会において、その発表を了承されましたので、回答を公表します

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-k100-1.pdf

冒頭に「作成の背景」が書かれていますので、どういう経緯でこういう議論をすることになったのかを知っていただくためにも、引用しておきます。

>平成20 年5月、日本学術会議は、文部科学省高等教育局長から学術会議会長宛に、「大学教育の分野別質保証の在り方に関する審議について」と題する依頼を受けた。依頼を受けて日本学術会議では、同年6月に課題別委員会「大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会」を設置し、9月に第1回の委員会を開催し具体的な審議を開始したが、同年12 月まで計4回の審議を行う中で、以下の理由から、委員会の下に3つの分科会を設置し、さらに具体的な審議を進めることとした。
分野別の質保証の在り方について検討するということは、基本的に各分野の専門教育を対象とすることになる。しかし一方で教養教育・共通教育も行われており、これらと専門教育との関連についても同時に検討がなされなければ、大学教育における専門教育の在り方についての議論が一面的なものにならざるを得ない。また、学生が職業生活に移行する際に、とりわけ文系の分野を中心に、大学教育の成果が殆ど顧みられないということに加え、むしろ早期化、肥大化する就職活動によって、分野を問わず大学教育自体の円滑な実施に困難を来している状況が起こっている。このような現実から目をそらしては、説得力を持つ議論にはならないであろう
このため、文科省からの依頼を直接的に検討するために「質保証枠組み検討分科会」を設置するとともに、教養教育・共通教育の在り方に関して検討するために「教養教育・共通教育検討分科会」を、大学と職業との接続に関わる問題に関して検討するために「大学と職業との接続検討分科会」をそれぞれ設置し、平成21 年以降は、3つの分科会が相互に緊密な連携を保持しつつ、それぞれの課題について審議を進めてきた。

まず、第一部の「分野別の質保証の枠組みについて」では、

>分野別の質保証の核となる課題は、学士課程において、一体学生は何を身に付けることが期待されるのかという問いに対して、専門分野の教育という側面から一定の答えを与えることにあるが、その検討の際には、以下の点に十分留意すべきである。
・ 大学教育の多様性を損なわず、教育課程編成に係る各大学の自主性・自律性が尊重される枠組みを維持すること
・ 学生の立場から、将来職業人として、あるいは市民として生きていくための基礎・基本となる、真に意義あるものをしっかり身に付けられることが意図されていること
・ 各学問分野に固有の特性に対する本質的な理解を基盤とし、それに根差した教育の内容が明示されること
以上を踏まえ、具体的な分野別の質保証の枠組みとして、以下を主要な内容とする「分野別の教育課程編成上の参照基準」についての考え方を取りまとめた。
① 各学問分野に固有の特性
従来多くの場合暗黙知とされてきた、分野に固有の「世界の認識の仕方」・「世界への関与の仕方」について、学問的な観点から同定する。
② すべての学生が身に付けるべき基本的な素養
当該分野に固有の特性を踏まえて、学生が身に付けるべき基本的な知識・理解と能力について、現実に人が生きていく上での有用性(短期的・直接的なものだけでなく、価値や倫理等も含む)という観点に照らして中核となるものに絞り込み、それらの意義を明確化した上で、一定の抽象性と包括性を備えた形で記述する。
③ 学習方法及び学習成果の評価方法に関する基本的な考え方
単に知識や理解を付与するだけでなく、それを実際に活用できる力を培うための学習方法や、その成果の評価方法が重要であることから、これらについての基本的な考え方を述べる。

と言うことで、今後学術会議において各分野の参照基準を順次策定していくことになります。

第二部の「学士課程の教養教育の在り方について」では、

>まず、現在の大学で行われている教養教育の多様性を認めつつ、その原点が民主主義社会を支える市民の育成にあることを再確認することが必要である。大学においては、各分野の学士課程教育において、専門教育と教養教育、それぞれの教育理念とのバランスに配慮した学習目標を定めて、それを実現するカリキュラムを編成すべきである。科目区分としての専門教育と教養教育とがどのように組み合わされるのかは、あくまで学習目標を達成する上での最適化という観点から判断されるべきことであり、そこにおいて教養教育が常に専門教育に先行して行われるべき必然性はない。
一方、市民的教養自体が、戦後から現在にいたる時代の変遷の中で大きく変容してきており、大学がユニバーサル化した現代にあっては、かつての「豊かな人生」へのパスポートとしての教養概念は既に失効して久しい。市民性を、社会の公共的課題に対して立場や背景の異なる他者と連帯して取り組む姿勢と行動として再定義した上で、現状の課題や困難を、未来において作り変え、改善されるべき対象と考えるような想像力、構想力を培うことが教養教育の重要な内容となる。
市民としての連帯の背骨となる新たな知の共通基盤を形成する上で、例えば、現代社会の諸問題を、一義的な正解の存在しない問題として徹底的に思考させることや、新たな科学技術リテラシー教育を含む、分断されている文系と理系の橋渡しに寄与する取組みは重要な意義を持つであろう。
コミュニケーション能力の育成に関しては、一方的な情報伝達ではない「対話」という視点を重視すべきである。そこでは、自らとは異なる意見、感覚を持つ人々と出会い、「聴く」能力の育成が課題となる。同時に、合意できないものは合意できないままに協働の可能性を探る、あるいは意見の対立を残しつつ決定する、といった「賢慮」を培うことも忘れてはならない。また、特に言語能力ということで言えば、日本語のしっかりした運用能力を鍛えることがすべての基本となることを認識し、教育方法の開発を含めて、そのための取り組みを充実すべきである。
この他、英語教育・外国語教育の在り方や、インターネットの可能性と問題点、芸術や体育の持つ意義等について述べるとともに、教養教育を担う教員の資質自体が危機的な状況にあることに警鐘を鳴らし、最後に、社交空間でもある大学の存在自体が、「隠れたカリキュラム」として学生の人間的な成長に重要な役割を果たすものであることを指摘する。

そして、いよいよ注目の的の第三部「大学と職業との接続の在り方について」です。

ここは、本ブログでも今まで何回も紹介してきたところですが、要約すると、

>かつての日本社会においては、若者が学校から職業へのスムースな移行を遂げていくことが自明視されてきた。しかしそうした状況は既に過去のものであり、「移行」に恒常的に大きな困難が伴うようになった現状を直視し、状況の打開に向けた道筋を抜本的に構築しなければならない。
その根幹をなすことの一つが、文字通り「大学と職業との接続の在り方」を改善することであり、端的にそれは大学教育の職業的意義を向上させ、社会がそれを適切に評価することに他ならない。第一部で述べた分野別の参照基準の策定は、職業人として求められる能力と、分野の哲学・理念とを統合するものとして、各大学での教育改善の支援に重要な役割を果たすと考える。参照基準の策定に際しては、分野によって職業的な能力形成に寄与する在り方も多様であることについて適切に整理し、学生がありのままの姿を理解できるようにすることも重要である。
また、今後の産業社会の在り方を構想すれば、経済のグローバル化に対応しつつ、多様な局面で人々が自らの力を発揮し高めていけるようにするという視点が重要である。このため、例えば正社員と非正社員の二極分化がもたらす社会的な行き詰まりに対する手当として、職業上の専門性を媒介に、均衡した処遇がなされる労働市場を形成していく等の取組みが求められるが、そこで大学が担う役割は大きい。今後の大学は、さらに専門分野の編成の在り方の変革や、大学以外の教育訓練機関との連携などについても積極的に取り組んでいくことが期待される。
最後に就職・採用活動の在り方に関して、まずは対策の枠組みを大きく広げることが重要である。早期化・長期化する現在の就職・採用活動の在り方は改善されるべきであるが、企業を含めた「外の世界」を知る機会はむしろ早期から整備していく必要がある。大学のキャリアガイダンスも、就活スキルの形成にのみ注力するのではなく、専門教育とも連携して、学生の職業的自立への主体的準備の支援を重視すべきである。また企業においても、実際の「仕事」とより強く結びついた採用方式を検討することが望まれるが、緩やかな職種別採用は、そのための一つの有力な選択肢であると考える。他方で、就職できない若者のための公的なセーフティネットの整備や、企業の採用における「新卒」要件の緩和も求めたい。

「3年間新卒扱い」ばかりにしか関心を向けないマスコミの先走り報道が、いかに本報告書の本筋を外したものであるかが、窺われるでしょう。

全部で100頁に及ぶ大部の報告書ですが、およそこの問題に関心を持つ方々は是非じっくりとお読みいただかなければならないと思います。

こうして報告書が正式に公開されたのにかかわらず、この期に及んで未だになお新聞記事だけ読みかじって薄っぺらな批判もどきをするような手合いは、それだけでこの問題を論ずる資格のない人間であるということを、自ら黙示しているというべきでしょうね。

(追記)

朝日と読売に続き、日本の新聞のレベルを露呈するのが大好きと見えます。

http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819695E3E5E2E6848DE3E5E2EAE0E2E3E29180EAE2E2E2(日本経済新聞 大卒後3年間は新卒扱いを 日本学術会議が提言 )

http://mainichi.jp/life/today/news/20100818k0000m020054000c.html(毎日新聞 就職:大卒後3年は新卒扱いを 日本学術会議が提言書)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010081701000672.html(東京新聞 大学卒業後、数年は新卒扱いを 学術会議が就活で提言)

あーあ。全滅。

(再追記)

そして、新聞記事の見出しだけで脊髄反射してもっともらしい文章を書き殴ってもつとまる人事コンサルタント氏も・・・。

http://www.j-cast.com/kaisha/2010/08/19073775.html(こうなったら「みんな新卒」にしちゃえばどうか)

いやはや、朝日の記事に脊髄反射したときに忠告しておいたんですけど・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

>薄っぺらな評論家諸氏が、新聞記事だけで

http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/96aeeb34f6e0be8df8e6c5582d982a57

・・・・・・・

>とか書き散らすのはまあ仕方がないとはいえ、・・・

とね。

きわめて穏和な人間ですが・・・

某つぶやきで、こう評されていたようです。

http://twitter.com/mellowconsultan/status/21310819687

>新しい労働社会の濱口さん。本はすごく丁寧に丁寧に書いてあるが、Web上の言動を見るに、ご本人は強烈な感じだ。すさまじい。Twitterデビューしたら、相当炎上を誘いそうだ。

いえ、本人も本と同様、いやそれ以上にきわめて穏和な人間ですよ。

本ブログ上でも、拙著への批判には、できるだけ丁寧に丁寧に説明するよう心がけております。

ただ、世の中には、議論の中身には一切言及しないで、もっぱら所属とか属性への罵倒のみを繰り広げる低劣な手合いがたまにいるものでして、そういう第3法則型人間には、若干穏和さがセーブされることがあります。

地方公務員に対する不当労働行為法制

阿久根市の仙波副市長が「労組脱退しなければ異動」と言ってるそうです。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100816-OYT1T00848.htm?from=top

政治学的には、警察の内部告発で「正義の味方」となった仙波氏が、「実態を相当超えるかたちで、社会の悪役にさせられている。一歩誤ればウヨクからもリベサヨからも非国民扱いである」(@黒川滋氏)自治労叩きという「正義」芝居に乗り出したということになるのでしょうが、各論なしの総論だけでものを考える政治学者や政治評論家や政治部記者程度の知性だけで事態が進むかどうかは、もう少し法務担当者(が阿久根市にいるかどうか知りませんが)と相談された方がよいようにも思われます。

ここでは、とりあえず法制的な観点から。

公務員には労働基本権がないといわれますが、それでも警察と消防を除けば団結権はあるわけで、仙波氏の所属していた警察みたいに団結権がないのがデフォルトルールというわけではありません。

ただ、民間労働者及び現業公務員の場合には、労働組合法が適用されるので、使用者が団結権に反する行為をした場合には不当労働行為となり、労働委員会に訴えると救済命令が出されることになります。

ところが非現業公務員の場合には労働組合法は適用されません。

しかし、第56条には、労組法第7条の第1号に類する規定があります。

http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%bf&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S25HO261&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

(不利益取扱の禁止)
第五十六条  職員は、職員団体の構成員であること、職員団体を結成しようとしたこと、若しくはこれに加入しようとしたこと又は職員団体のために正当な行為をしたことの故をもつて不利益な取扱を受けることはない。

もっとも、「受けることはない」といいながら、そういう違法なことをやった地方公共団体の当局に対して、労組法の不当労働行為制度のような制裁措置はないのですね。

まあ、総務省あたりの人に解説させれば、地方公共団体は「公共」なんだから、そんな違法なことを平然とやるような馬鹿なことがあるはずがないから、そういう措置はおいていないんだということになるのでしょうが、あに図らんや、そういうことを平然とやっちゃう地方公共団体が出てきたわけですから、法律上「受けることはない」はずなんだけど「受けちゃった」場合にどうするかを、まじめに考えないといけなくなるということになるのでしょう。

実は、これは現在公務員制度改革において議論されるべくしてされていないところであり、立派な法律学者や立派な法律実務家からすれば「法律でちゃんと団結権は十全に認めているんだから、それ以上何を論ずることがあろうか」と思われていたところなんですが、世の中それほど立派にできていないというどろどろの現実に近い立場の人間からすれば、そこに落とし穴があったということになるのでしょう。

まあ、何にせよ、公務員制度改革の問題は団体交渉権(労働協約締結権)の問題だけではなく、(消防等を除けば)解決済みのはずの団結権にも実は問題がはらまれていた、ということを、世に広く知らしめたという意味において、仙波副市長の功績は大いなるものがあると思うところです。

(追記)

その後、昨年12月に国家公務員制度改革推進本部労使関係制度検討委員会がとりまとめた「自律的労使関係制度の措置に向けて」という大部の報告書を改めてじっくり読むと、不当労働行為制度の必要性についての議論もちゃんと書いてありました。「第三者機関のあり方」というところです。先生方、スミマセン。

http://www.gyoukaku.go.jp/koumuin/kentou/houkokusyo.pdf

ただ、そこで取り上げられているのは、あくまでも団体交渉制度を新たに導入することを前提に、労組法第7条第3号の団交拒否という不当労働行為をどうするかという論点でして、現行法で認められている団結権を地方公共団体自身が否定するという自体が発生しうるという発想はさすがにないようです。

(参考)

上の「総務省あたりの人に解説させれば」を、橋本勇『逐条地方公務員法』から若干引用。

>使用者が勤労者の団結に不当な勧奨を行ってはならないことは、近代国家における基本原則であり、まして地方公共団体の当局は法令を実施し、公益を実現する立場にあるものであるから、なおさらそのようなことがあってはならないものである。本条について、不当労働行為制度のように所定の機関による行政命令や罰則の制度がないのは、地方公共団体の当局は悪をなさずという前提があるからであるといってよいであろう。しかしながら、公共部門を含め、労使関係全体において、使用者が時として勤労者が団結し行動することを嫌い、これを妨害しようとする傾向も絶無とはいえない。法律があえて明文の規定を設けたのは、こうしたことの絶無を期するようさらに当局を戒めたものといってよいであろう

>当局と職員団体との関係は、このような消極的禁止の範囲にとどまるべきものではなく、当局は進んで職員団体の持つ意義を積極的に評価しなければならないものである。・・・職員は団体活動を通じて、あるいは団体の力を背景として従来よりも自由かつ率直にその意見を表明するようになり、当局はその意見を知ることによって相互の意思疎通が一層円滑に行われることとなるのであって、このことが職場の民主化と公務能率の増進に少なからず寄与することは疑いないところである。成熟した労使関係の下においては、正常な労働運動とともに使用者の労働団体に対する積極的な姿勢が確立されており、地方公共団体においてもこうした関係が樹立されるよう労使双方が努力すべきものといえよう

本書は、一家に一冊どころか、地方自治体には必ず何冊も備え付けられ、毎日のように読まれ、活用されている定番のリファレンスブックですから、まともな自治体である限り、何かしようというときには必ず参照されているはずです。まともな自治体であれば、ですが。

(念のため追記)

コメント欄に、変なイナゴさんが沸いているので、念のため、地方自治体の人事委員会や公平委員会が法律のどの規定に基づいて規則を作ることができるのかを挙げておきます。

「総務、企画調整、財政の3課の職員」がすべてこの「管理職員等」に該当すると日本国の裁判所が認めてくれるとでも思いこんでいるのかどうか。

市長はともかく、副市長は、阿久根市も日本国の司法権のもとにあるということを認識しているはずなので。

というか、そもそも記事ではわざわざ規則を作るという話にもなっていませんでしたが、どこまで法律の仕組みを判って喋っているのか、よく分かりかねるところはありますね。

第五十二条  ・・・
 職員は、職員団体を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる。ただし、重要な行政上の決定を行う職員、重要な行政上の決定に参画する管理的地位にある職員、職員の任免に関して直接の権限を持つ監督的地位にある職員、職員の任免、分限、懲戒若しくは服務、職員の給与その他の勤務条件又は職員団体との関係についての当局の計画及び方針に関する機密の事項に接し、そのためにその職務上の義務と責任とが職員団体の構成員としての誠意と責任とに直接に抵触すると認められる監督的地位にある職員その他職員団体との関係において当局の立場に立つて遂行すべき職務を担当する職員(以下「管理職員等」という。)と管理職員等以外の職員とは、同一の職員団体を組織することができず、管理職員等と管理職員等以外の職員とが組織する団体は、この法律にいう「職員団体」ではない

2010年8月16日 (月)

橋口昌治・肥下彰男・伊田広行『<働く>ときの完全装備─15歳から学ぶ労働者の権利』解放出版社

伊田広行さんのブログで、わたくしがかつて書いた労働教育に関するコラムが引用されています。

http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1537/

>解放出版社から2010年8月末に
『<働く>ときの完全装備──15歳から学ぶ労働者の権利』
という本を出します。(1600円)

執筆者は、橋口昌治・肥下彰男・伊田広行の3人です。

>以下にあるように、政府・行政側も労働教育が必要といい始めています。
しかし、本当に非正規労働者や排除される労働者、「負け組」の人の立場に立った「労働者の権利、闘い方、身の守り方を学ぶもの」が、ほうっておいて提供されるとは思えません。事実、私が見渡しても、そのような教材はありません。

濱口桂一郎氏は「労働教育の復活」というコラムで、以下のように述べています。

・・・・・・(http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0119.htm

>さて、今度の僕たちの本が、濱口桂一郎氏に気に入ってもらえるだろうか。
多分、過激すぎる、偏っていると思われるだろう。

まだ出ていない本について、過激すぎるとか偏っているとか、論評することはそもそも不可能ですが、でも15歳から働くルールや労働者の権利についての知識が必要だという問題意識は、上記コラムで述べたことと変わりはないと思います(道幸哲也先生の本も『15歳のワークルール』でした)。

ただ、伊田さんはかつて拙著『新しい労働社会』について、

http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1064/(「同一価値労働同一賃金」への賛否、その手前)

>濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書)みたいな、中立を装った現状肯定論者(=財界が喜ぶことをいう人)などがはびこっているので、まあ、若くて元気な人にどんどん正面から全部潰していくような批判・言論活動をしてほしいです。

と論評されているので、こういう風にいわれるのでしょうね。

共著者の橋口さんも拙著への批判を書かれています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/20100406123153794_0001.pdf

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8ec8.html(橋口昌治さんの拙著批判について)

こういう率直な批判はとてもありがたいものです。

2010年8月15日 (日)

日本学術会議の提言がようやく出るようです

本ブログでも何回も紹介してきた日本学術会議大学と職業との接続検討分科会の報告書が、ようやく正式に出されることになったようです。

読売新聞より

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100814-OYT1T00945.htm(卒業後数年は新卒扱いに…日本学術会議提言へ)

>日本学術会議の検討委員会(委員長=北原和夫・国際基督教大教授)は、深刻な大学生の就職難が大学教育にも影響を与えているとして、地方の大学生が大都市で“就活”する際の宿泊・交通費の補助制度など緊急的な対策も含んだ提言をまとめた。

 17日に文部科学省に提出する。企業側が、卒業して数年の「若年既卒者」を新卒と同様に扱うことや、早い時期からの就業体験も提唱。学業との両立のためのルール作りも提案している。文科省は、産業界の協力も得て、提言を現状改善につなげる考えだ

またまた見出しは「卒後新卒扱い」なので、かつて朝日がリークしたときと同じ反応が出ることが予想されます.。というか、既に、その時とまったく同様の脊髄反射がいっぱい湧いているようです。記事も記事なら、それに釣られる連中も連中ですな。

ということで、その時の本ブログの記事をリンクしておきます。予想される反応には、まずこんなところで宜しいかと。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

>いかにもこの検討会が「卒後3年新卒扱い」という枝葉末節的対策だけを主張しているようなことを書いていますが、そればっかり強調しているのは朝日の記事なのであって、当の検討会の報告書はまさに「現状を抜本的に改善する道」を縷々書いているんですけど。

さらに詳しくこの大学と職業との接続検討分科会について述べた主なエントリは次のとおりです。ご関心のある向きはゆっくりとご覧いただければと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-edd3.html(大学と職業との接続検討分科会)

>本日は、田中萬年先生と本田由紀先生の報告と討論。

>最後のあたりで、矢野先生が就活を断固規制せよ、と発言され、わたしが経済合理性に反する規制をしても脱法されるだけ、と応える一幕が。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-55ad.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会資料)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c4dd.html(大学と職業との接続検討分科会報告書骨子案)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0817.html(日本学術会議大学と職業の接続検討分科会議事要旨その1)

>社会システムは相互依存的、相互補完的な関係にある。教育は今の日本の雇用システムを前提として、それに合うように3世代にわたって構築されてきている。逆に言うと、そのように教育システムが構築されてきたことによって、企業の方もそれに合うように雇用システムを作り上げてきた。お互いに依存し合っているので、ある部分だけを取り出して、「この部分はけしからん、だからこの部分だけこのように変えよう」といっても、それで物事が動くはずがない。日本の雇用システムは基本的にjob ではなくて、会社の一員になるということである。会社の一員というのは、会社がこれをやれと言ったことを必死の努力をしてやる、ということが最大の課題である。

>就活のシステムを問題にした時に、就活のところだけが問題だからといって、それをけしからんと言って何か解決するだろうか。自分が企業の人事採用者になった時にそのことで対応できるのか。これから40 年間自分の企業のために頑張ってくれる人を何で評価するのか、といった時に、4 年生で先生のゼミに全部出た人間ということだけをもって社会に出てやっていけるのかといったら、それはできるはずがない。その中で一つでも二つでもできることがあるとすれば、それは教育システムそのものの中に何か、ある種の職業に向けた指向性を注入していくことでしかないのではないか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-d1fd.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会一応終了)

>職業能力形成に無関心な大学教育と、大学教育の成果を殆ど問うことなしに、企業特殊的な訓練を施して「会社人間」に染め上げる日本的雇用システムとの間での「大学と職業との接続」は、本来は相反するものの間に成立した逆説的な親和性の上に、長期にわたって一見順調に機能してきたが、それはあくまでも経済の持続的な拡大という恵まれた環境を前提としたものだった。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c4bb.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会報告書案の続き)

>もう1点は、過熱し早期化した「就活」に学生が巻き込まれることによって、大学の授業が多大な影響を受けることであ。多くの大学教員がこのことを深刻な問題と感じており、大学団体を通じて経済団体に対して就職活動の早期化の是正を求める要望書が提出される等の対応がなされている。

しかしながら、こうしたことは、どちらかと言えば問題の現象面に着目した対応であり、現在の大学と職業との接続の在り方自体の変革につなげようとする対応、すなわち、学士課程教育の本体部分において、職業能力形成の機能を高めようとする取組みは少ないように見受けられる6。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-aa46.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会報告書案最終版)

>さて、先日のエントリでは、朝日の報告を矮小化した記事とそれを矮小だと批判する朝日の社説を、薄っぺらな評論家諸氏のおっちょこちょいなヒョーロンと並べて批評したわけですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/hamachan-20db.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会におけるhamachan発言録)

>なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。

>システムの問題といってもそう簡単ではない。そのシステムを前提に色々なものができている。大学の教育の職業的レリバンスをより高めるという議論はそれだけ言っていると非常にもっともな理論である。しかし、それは現に職業レリバンスのない教育を行っている大学教員たちの労働市場の問題を発生させ、今大学で禄を食んでいる人のかなりの部分の職を奪うことになると思う。なぜかというと、そのシステムを前提としてそういう職業レリバンスのない教育をしてきたからである。それでもさらにオーバードクターの問題が発生してきたわけで、それを逆方向に向けたりすると、おそらく大変な事態が起こる。そうするとシステムの問題はシステムとしてしか解決できないが、システムの解決は漸進的にしかできない。

>システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。

>実態として何が問題かというと、日本には山のように法学部や経済学部があるが、そこを出た人の圧倒的大部分は、そこで先生方が一生懸命教えたことを、学術ではなく、職業的な意味でも使うか、というと使わないことが非常に多いということだと思う。

>そうすると、経済学部で、経済学を一生懸命勉強して、就活をせずに卒業してきた人間と、経済学はほったらかしたが、非常に広範な分野で本を読んでいる人間とどちらがいいのか。そもそも企業がなぜ就活に力を入れるか、というと人間を見ているからである。逆に、私はそういうロジックに導かないようにした方がいいのではないかと思う。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/78-3805.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会議事録(第7回・第8回))

>なぜ雇用システムがそう簡単に変わらずに、縮減という形で対応しているのか。それは他のシステムと対応しているからである。つまり、他のシステムと相互補完性があるため、他のシステムが変わらないと、雇用システムだけ勝手に変わるわけにはいかない、ということである。

>システムというものがそう簡単に変えることができないがゆえに、例えば賃金カーブのフラット化や成果主義といった方向も出す。それだけではなく、今まで暗黙に言われていなかった、ありとあらゆる状況に機敏に対応できるような人間力、コミュニケーション能力をより明示的に出す。そのことだけで言うと、今までの日本的雇用システムの性格がより強化されていく、という現象が出ているということではないか。
ますますこれから企業に就職するためには、どんな長時間労働にも耐え、ありとあらゆる状況に機敏に対応できる万能な能力を身に付けなければいけないというように、今まではそうはいってもそれほど多くなかったものが、ある意味では別の方向に向かっている面もありながら、企業の外に対するメッセージとしては強化する方向が出されているために、大学がそのようなメッセージを受けて混乱しているのだと思う。

>ただ大学教育との関係でいうと、今までの日本的な考えでは、将来的に言えば、何かしらそういう人間力は身に付いていくけれども、入社したときからそんなものはあるはずがなく、むしろ入社してから上司や先輩が鍛えて身に付けていく、という話だった。しかし、変容しつつ縮減しているために、かえって最初から人間力をもって入ってきてほしい、というような話になっていて、それで変なことになっている。

(追記)

凡百のベタコメとは違い、趣旨をちゃんと読み取った上で、さらにその先を行くコメントの例:

http://twitter.com/bassism/status/21239501036

>この提言は地味だが、大学教育をかなり変えてしまうかもしれない。学部の4年間が職業教育であると規定される可能性を含んでいる

2010年8月14日 (土)

簡裁の労使調停機能強化

本日の日経の記事から(ネット上は最初のパラグラフだけですが)、

http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C889DE3E0E5EBE2E3EBE2E3E6E2EAE0E2E3E29180EAE2E2E2

>雇用や賃金を巡る労使間トラブルの増加に対応するため、最高裁は簡裁での民事調停の仕組みを見直す。労働問題に詳しい弁護士に調停委員として参加してもらい、紛争処理機能を強化する。地裁より少額の訴訟や調停を扱う簡裁でも労働紛争への対応を強化することで、幅広いニーズに応えるのが狙いだ。来春をメドに東京簡裁で試験的に始める。

現在、個別労働関係紛争は判定的解決が裁判所の労働審判へ、調整的解決が多くが都道府県労働局へ、一部が都道府県労働委員会(または労政事務所)へという形になっていますが、もともと裁判所がもっている民事調停という仕組みを、後者の仕組みの一つの軸として確立しようという考え方でしょうか。

実は個別労使紛争問題が議論されていた頃、民事調停を拡充して労働調停を、というのは経営側が主張していたことだったのですが、司法制度改革の流れの中では参審制との絡みの中で労働審判制の制度化へとすすみ、簡易裁判所の民事調停自体の拡充は取り残された形になっていました。

これがどういう形で進んでいくことになるか、注目していく必要があります。

(参考)拙著『労働法政策』より

 これに先立ち、日経連と連合もそれぞれ個別的労使紛争解決制度について提言を行った。
 まず日経連は1998年4月、「労働委員会制度の今後の在り方について」において、個別的労使紛争の処理機能を新たに労働委員会に持たせることについては、「公平性確保の観点から、またその解決の力量の点からも使用者としては危惧の念を拭い得ない」とし、「賛成できない」と明言している。また上記労働基準法改正案による労働基準局長の助言指導についても「使用者に対して強力な監督権限を持っている労働基準当局が個別的労使紛争に介入することには問題がある」と批判的である。
 紛争処理制度としては、第一義的には企業内の紛争処理機関により未然防止と自主解決を図るべきとしつつ、企業外部の機関としては「個別の権利義務の存否を判断するのを本分とする裁判制度が利用されるのが本則であり、当事者が調整的解決を求める場合には、既に同じ司法制度内に存置されている民事調停を活用することが適当」とし、必要があれば専門性を確保するために、民事調停制度の中に労使問題の特別調停である「雇用関係調停」の創設を考慮すれば足りるとした。

「解散で無給はごめんだ」への疑問

今日の産経の記事ですが、

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100814/plc1008140119000-n1.htm「解散で無給はごめんだ」民主秘書会が「日割り法案」に異議

>国会議員歳費や公設秘書給与を日割り支給にする歳費法などの抜本改正が秋の臨時国会で行われるのを前に、民主党の秘書会が、公設秘書給与については事実上の「適用除外」とするよう党三役に要請していたことが13日、分かった。公設秘書は特別職国家公務員で給与は国が支払うが、雇い主は国会議員。「衆院解散による議員失職で雇い主がいないのに、秘書だけ給与を払えというのはおかしい」との指摘もある。

>現行の国会法および議員秘書給与法では、衆院議員の公設秘書は、衆院が解散した時点で議員同様に秘書も失職。参院議員の公設秘書も、任期が満了すると失職する。だが、衆参どちらでも、在職期間の最後の月は、実働日数にかかわらず給与は満額支給されている。

>これが日割りになれば、衆院が解散して失職した公設秘書は、次の採用まで選挙をしながら、30~40日間も「無給」で秘書として働くことになりかねない。

>このため衆院議員の公設秘書からは「急な解散総選挙は議員の都合。失職して給与がない上に、選挙で仕事が増えるのでは割に合わない」との不満もある。

日割り法案自体の是非についてはここでは政治問題として一切論じませんが、そもそも「失職した公設秘書は、次の採用まで選挙をしながら、30~40日間も「無給」で秘書として働く」という言葉が、何の疑いもなく素直に記述されていることに、労働問題に関わるものとしては正直唖然とします。

一体、その「選挙の仕事」というのは、議員だったところの候補者の指揮命令下で労務を提供する行為なのでしょうか、それともボスの属する政党の政治理念に共感して無償でボランティア活動として行う行為なのでしょうか。前者であるなら、それは単なる賃金不払いですから、労働基準監督署に申告すべきでしょう。そうならないようにするためには、議員だったところの候補者は日割り法案により歳費をもらえなくなった上に、その期間の秘書(もはや公設秘書ではなく私設秘書)の賃金を自分のポケットマネーから払わなければならないはず。

なんだかどっちの側も労働法の基本に立ち戻って考えてみた方がいいのでは?

(参考)

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H02/H02HO049.html(国会議員の秘書の給与等に関する法律)

2010年8月13日 (金)

300万アクセス

ちなみに、本日、本ブログへの累積アクセス数が300万件を超えたようです。

いつもご愛読いただき、心より感謝申し上げます。

TopHatenarの部門別ランキングでは、

http://tophatenar.com/view/http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

労働部門で3位であり、

http://tophatenar.com/tag/%E5%8A%B4%E5%83%8D

その1位は匿名ダイアリーですので、実質的には「クソ仕事」氏の「ニートの海外就職日記」に次ぐ2位ということになります。(池田信夫部門の7位というのは名誉なのかどうなのかよく分かりませんが。)

なお、現在の状況は次の通りだそうです。

解雇自由と解雇規制と解雇禁止

昨年5月に、3法則氏のオレ流解雇論を整理してあげたことがありますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-782b.html(やっぱり無知蒙昧)

>論理的にあり得る3つの選択肢

(1)正当な理由があってもなくても解雇できる(解雇自由)

(2)正当な理由があれば解雇できるがなければ解雇できない(解雇規制)

(3) 正当な理由があってもなくても解雇できない(解雇禁止)

1年経っても、まだ整理してあげないと分からない人がいるようです。

http://mojix.org/2010/08/11/rikon-kinshi(解雇規制は「離婚禁止」のようなものだ)

>もし離婚が禁止されたら、どうなるだろうか?
結婚したら離婚できないとなれば、結婚するカップルは減るだろう。

>企業に解雇を禁じておいて人を採用しろというのは、離婚を禁じておいて結婚しろと言っているのと同じだ

いや、ですから、日本の民法が離婚を禁止していないように、労働法は解雇を禁止していません。

一方、日本の民法が(一方が離婚したくないと言っているのに、もう一方が一方的に離婚することが自由にできるという意味での)離婚自由ではないように、労働法も解雇自由ではありません。

解雇も離婚も、禁止されてもいなければ自由でもありません。

勝手に「解雇規制」を「解雇禁止」にすり替えて、脳内議論で勝利を宣言しない方がいいと思いますよ。

むしろ、日本社会の問題点は、この「解雇規制」の実際の適用が大企業正社員から中小零細企業にいたるスペクトラムの中できわめて偏った形で分布しているということです。そのため、大企業正社員の場合はもとより「解雇禁止」ではないですが「規制」の度合いがかなり強いのに対して、中小企業、零細企業になればなるほど「規制」が希薄になり、事実上「解雇自由」に近くなっていくという点でしょう。

中小零細企業における解雇の実態については、最近わたくしが中心になってまとめた『個別労働関係紛争処理事案の内容分析』を参照してください。

http://www.jil.go.jp/institute/reports/2010/0123.htm

(参考)

せっかくなので、本ブログにおける解雇規制関係のエントリをあらためて紹介しておきましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_6879.html(解雇規制と学歴差別)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_1cda.html(規制改革会議の大暴走)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_930e.html(解雇規制)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/wedge-2092.html(WEDGE大竹論文の問題点)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-ba7f.html(労働者を気分次第で簡単に解雇するような経営者はいる)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b14a.html(3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-7ba3.html(解雇規制とブラック会社の因果関係)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-142e.html(山垣真浩「解雇規制の必要性」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-e31c.html(その「解雇規制緩和」は不公正解雇の話ではないですね)

また、間違って解雇自由だと思われている諸国の解雇規制については

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-9ff0.html(北欧諸国は解雇自由ではない)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-26ec.html(これがスウェーデンの解雇規制法です)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-1311.html(これがノルウェーの解雇規制法です)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c511.html(デンマークの解雇規制はこうなっています)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2cd5.html(スウェーデンの解雇規制法見直しをめぐる労使対立)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-6bab.html(池田信夫氏の熱烈ファンによる3法則の実証 スウェーデンの解雇法制編)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-1678.html(デンマークの労組の解雇規制要求)

2010年8月12日 (木)

北海道はホントに最賃ギリギリが一番多い

厚生労働省のHPに、去る7月20日の中央最低賃金審議会目安小委員会の資料がアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000k6g0.html

この資料のうち、資料2 昨年と今年の賃金分布というグラフがなかなか衝撃的です。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000k6g0-att/2r9852000000k6kc.pdf

ここには、北海道、山梨、沖縄、佐賀の4道県の賃金分布が描かれているのですが、山梨や佐賀が最賃よりもはるかに高い水準に最頻値があるのに対して、北海道と沖縄は最賃すれすれに最頻値があるのです。

特に北海道。昨年の最頻値は昨年の最賃額の枠、今年の最頻値は今年の最賃額の枠。つまり、最賃ギリギリにべったりと張り付いている労働者があらゆる賃金階層の中で一番多いということですね。

沖縄も最賃ギリギリに二番目に多い賃金階層がいますが、最頻値は20円ほど上。佐賀は最賃付近はかなり少なくなって、90円ほど上に最頻値。一番ゆとりのある山梨は、130円も上で、しかも東京に近いため水準も高い。

これを見ると、沖縄やとりわけ北海道で最賃を上げるということがこの一番多い固まりをどうするかという大問題であるという実態が目の当たりによく分かります。

これで、資料1の生活保護と最賃の乖離額を見ると気を失いそうになります。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000k6g0-att/2r9852000000k6hh.pdf

北海道はまだあと50円も上げないと生活保護にすら追いつかないのですよ。

『Works』101号で拙著紹介

Works101 リクルートのワークス研究所から『Works』101号(2010年8/9月号)をお送りいただきました。

http://www.works-i.com/?action=repository_action_common_download&item_id=726&item_no=1&attribute_id=5&file_no=1

Naoko 特集は「モチベーションマネジメントの限界に挑む」ですが、後ろの方に「研究員の書棚から」という小さなコラムがあって、そこで主任研究員の石原直子さんが拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』(岩波新書)をご紹介いただいています。65頁です。

>著者の濱口桂一郎氏は、昨今の雇用・労働問題を考えるには、現在の諸問題からやや身を引いて、日本の労働社会のありよう(=日本型雇用システム)の根源に立ち返ってみる必要があると言います。著者によれば、日本型雇用の特徴としてよく挙げられる長期雇用・年功賃金・企業別組合のいわゆる「三種の神器」は、日本型雇用システムの本質ではなく、真に重要なのは、従業員と企業が「職務(ジョブ)」を明確にしないまま雇用契約を結ぶこと、すなわち契約の中身がジョブではなく「メンバーシップ」であることなのです。

雇用の本質がメンバーシップ契約なのだという前提に立つと、三種の神器をはじめとする日本企業の雇用慣行の数々が、システムに合致した非常に合理的な施策群であったことが理解できるわけですが、本書ではその論理がみごとに描き出されています。借り物の成果主義や職務給制度がいまひとつうまく機能しなかった理由にも、合点がいくようになるでしょう。

しかし、頑健だった日本型雇用システムは、ここにきて大きな変化にさらされています。たとえば、現在の企業の構成員にはメンバーシップで雇用される正社員だけでなく、ジョブで雇用される非正規労働者も含まれます。ぜひ本書を手に取って、異なる前提で働く多様な人々を内包できる雇用システムとはどのようなものであるべきか、考えていただきたいと思います。

簡にして要を得た見事なご紹介、ありがとうございます。

ちなみに、石原直子さん、本号の特集の中でも。「誌上研究会2 非正規人材のモチベーションをいかに向上させるか」に登場しています。

>非正規人材をよりうまく活用するといったとき、全員を正社員化する、無期雇用化するといった解が、特に政策的な議論では出てきがちです。しかし私は、それは万能の解なのかという疑問を持ってきました。確かに雇用の安定が、非正規人材の高いモチベーションにつながる可能性はあります。しかし、集まっていただいた3社は、全員を正社員化するという方向に向かっていないにもかかわらず、非正規人材が生き生きと働き、活躍されています。3社それぞれが、彼らが面白く働くために何を提供しているのか、ぜひ伺いたいと思います。

ソクハイ事件判決文

『労働経済判例速報』2076号に、本ブログでも何回か取り上げてきた例のソクハイ事件の東京地裁判決(平成22年4月28日)が収録されています。

新聞報道で?だったところを判決文できちんと読み直してみて、ますます???という状態です。

この裁判官によると、メッセンジャーというのは労働者じゃないと。ところがメッセンジャー所長は労働者だと。それゆえ、所長解任通告は解雇であるけれども、稼働停止通告は解雇じゃないと。

同一人物がこっちで労働者として働き、あっちで事業主として活動するということはもちろんありますが、本件の場合、メッセンジャーとしての労務提供活動とメッセンジャー所長としての労務提供活動を分けるなどというのはあまりにも技巧が過ぎて、わけが分からないですね。

、そもそも論としていえば、メッセンジャーが労働者じゃないという理屈があまりにもひどい。契約が請負契約だからとか、報酬が出来高払いだからとか、そんなのが労働者でない理屈になること自体がいささか・・・。

問題は事業者性のところで、服や自転車や携帯電話を自分の負担で賄っているというのは、事業者的であることは確かです。ただ、トラックの運転手とかであればまだしも、自転車が「事業者の有する財・サービス生産手段」なのかねという気もします。西尾末廣氏によれば、昔の職工は、道具一式自分で持ち込むのが当たり前であったわけで。一方、事業所得として確定申告しているとか、雇用保険や労災保険に加入していないとか、それは契約上労働者とされていないことの帰結であって、それ自体が労働者性の判断基準ではないでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_b0e1.html(バイク便ライダー)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_bc1c.html(ソクハイに労組)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_6ae7.html(ソクハイユニオン)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_57e9.html?no_prefetch=1(バイク便ライダーは労働者!)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-5512.html(バイク便:労働者としての地位確認など求め初提訴)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7067.html(『ノンエリート青年の社会空間 働くこと、生きること、「大人になる」ということ』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5140.html(初学者向け・・・じゃない「初学者に語る労働問題」)

この30年間に及ぶ反政府のレトリックの論理的帰結

Tskrugman190 本日の朝日新聞に載っているクルーグマンのコラムは、それ自体として正論であるのみならず、表面づらだけクルーグマンの側であるようなふりをしている特殊日本的「りふれは」(注)という反政府主義の徒輩の本質を見事にえぐり出す素晴らしいエッセイになっています。

>なぜ、私たちはこんな状況に至ってしまったのか。それはこの30年間に及ぶ反政府のレトリックの論理的帰結なのだ。このレトリックは、税金で徴収される1ドルは常に無駄に使われる1ドルであり、公共部門は何一つ正しいことが行えないのだと多くの有権者に信じ込ませてきた。

>そして、今やそのキャンペーンが実を結び、何が実際に非難の対象になっていたのかを私たちは目にしている。それはつまり、非常に裕福な人々を除くすべての国民が必要とするサービスであり、政府が提供しなければならず、政府以外には誰も提供しないサービスなのだ。

ちなみに、英語の原文はここ。

http://www.nytimes.com/2010/08/09/opinion/09krugman.html?_r=1&partner=rssnyt&emc=rss(America Goes Dark)

> It’s the logical consequence of three decades of antigovernment rhetoric, rhetoric that has convinced many voters that a dollar collected in taxes is always a dollar wasted, that the public sector can’t do anything right.

>And now that the campaign has reached fruition, we’re seeing what was actually in the firing line: services that everyone except the very rich need, services that government must provide or nobody will.

是非、心ある経済学部の英語の入試問題に使っていただきたいような名文です。

(注)ちなみに、これまた判っている人にはあまりにも当たり前のことですが、ここでいう「表面づらだけクルーグマンの側であるようなふりをしている特殊日本的「りふれは」」とは、まさに文字通りの意味であって、ひたすら公務員を叩き、公共サービスを破壊することを宣揚している一部の「りふれは」の徒輩のみを指し、そういう阿世の論とは無関係にまともな経済政策として「リフレーション政策」を唱えている方々はなんら含まれません。

なぜわたくしが「リフレ派」ではなく、わざわざ特殊日本的「りふれは」と呼んでいるかといえば、そういうあり得べき誤解を避けるためであることは、素直に読めば誰でも判るはずなのですが。

それを意識的にごっちゃにして、あたかもわたくしが「リフレ政策」に敵対しているかのような宣伝工作を仕掛ける「反政府のレトリック」の徒輩が後を絶たないのが現実ですけど。

2010年8月11日 (水)

それは大学だけの任務じゃない

趣旨自体は賛成。

http://sociologbook.net/log/201008.html#eid489大学で何を教えるか

ホメオパシーの話から

>親御さまたちから大事な子どもたちをお預かりしているわれわれのような人間はどうすべきかと考えると、これはやはりこういうことにならないようにするしかないのだが、そのために何を教えるべきかというと、これはもう「合理性」ということに尽きる。

>それは、自分が間違っていたときにあっさりを道を変更できるようにするためであり、根拠のないものに騙されて自分や家族を傷つけないようにするためであり、しょうもない男にひっかかって身も心もボロボロにしてかけがえのない青春を失ってしまうようなことがないようにするためである。

>社会学に限らない。大学では普通に合理性を教えて普通に合理的な人間を育てていくべきである。普通でええんや普通で。

もちろん、大学で「」それは必要です。

でも、この言い方では、大学に行ける「上等」な人間だけがそういう「合理性」を身につけてればいいみたいに受け取られかねない。いや、そういう趣旨ではないということは分かりすぎるくらい分かった上で、やはり言いたい。そういう本来的意味でのシティズンシップ教育こそが、義務教育において、そして後期中等教育においてこそ、きちんと身につけられるように教えられるべきなのではないか。そこでいきなり大学が出てきて、そして大学しか出てこないのはやはりおかしい、と思います。

だって、こういうたぐいの危険に一番さらされているのは、そういう人々なのですから。

差別禁止法制は「私法の弔鐘」か?

『一橋法学』という立派な雑誌があります。一橋大学法学部の紀要なのですから立派なはずなのですが、その第8巻第3号(2009年11月)に掲載されている「EU共同大学院プレセミナー」ティルマン・レプゲン教授の講演「私法の弔鐘が聞こえる-EU差別禁止規則をめぐって」をよんで頭を抱えました。いや「規則」というのは「指令」の誤訳です。それは訳者の問題ですが、講演の中でこういうことを語っておられるのです。

>民法の二つの中心的制度について、レクイエムが歌われています。・・・もう一つの法制度は契約自由です。・・・我々が考察する対象は、EU諸規則の差別禁止計画-この災いの発端です。その際問題としたいのは、差別禁止と私法との不整合です。差別禁止計画に有効な批判を行うためには、まずそれが契約自由への介入であることを確認し、次にこの介入が不当であることを証明しなければなりません。

この後、EUの差別禁止諸指令の内容を概観して、批判にはいるのですが

>ある家族の父親が新聞広告で未成年の娘のためにピアノ教師を募集したとしましょう。ある応募者が確かにピアノは上手に演奏するとしても常習の小児性愛者であるならば、父親はそれを理由として当然に採用を拒否できます。父親は、それによって同時に当該人物の人格的尊厳を侵害することなく、この性的指向を採用拒否の根拠とすることができます。というのも、父親の行為の本質に照らして、そこには他者に対する軽蔑ではなく、自分の子どもの保護のための決定が表現されているからです。 このことは、差別禁止の議論がほとんど完全に主題を外していることを示します。

うーーむ。頭を抱えるでしょう。

そもそもペドフィルはEU指令が想定する性的指向じゃない、といいたいのですが、逆に明確にそう書いてあるものはないし、それこそスウェーデン海賊党がEU指令違反だと訴えるかも知れない。

それにしても、これとか、

>20歳の若者が「彼の年齢ゆえに」公に提供される老人ホームの住居施設の賃貸を要求し得ないことは、まったく明らかです。

とか、

>雇用者が不採用とした外国からの応募者に旅費を払い、近隣からの応募者に支払わなかった場合、それは差別でしょうか?

といった設例で差別禁止法制が私法の弔鐘だといわれてもなあ・・・という気がするのは、わたくしにものごとを本質的に考える能力がないからなのでしょうか?

就職活動ではなく入社活動だから

労働問題について内田樹氏を批判するなどという無粋なことを何回繰り返すのか?と顔をしかめる向きもあるかと思いますが、やはりここは一言。

http://blog.tatsuru.com/2010/08/06_1028.php

>私はいまの雇用システムでは、「きわだって優秀な人間がそれにふさわしい格付けを得られない」ことよりも、「ふつうの子どもたちが絶えず査定にさらされることによって組織的に壊されている」ことの危険の方を重く見る。

いうまでもなく、普通の子どもたちだって、ちゃんと能力を査定され、その査定結果に基づいて選抜される権利があります。それ以外の、自分では何ともならない要因によってそもそも選抜されない不条理に比べれば。内田氏の目には見えないかも知れませんが、そういう現実もまた社会には存在します。しかし、それは今は括弧に入れましょう。

問題は、その査定基準です。

就「職」活動が、言葉通り、ある「職」に就くための活動であるならば、学生は自分が当該職務を遂行するために求められるこれこれの能力を有しているということを適切に提示することがその活動内容となるはずです。そして、それを示すために一生懸命になることは、「人格を組織的に壊す」ようなものというべきではないでしょう。職務能力の劣る人間を優れた人間よりも優遇しなければならない理由はありません。

しかし、日本の正社員の雇用契約とは、「職」を定めない「空白の石版」ですから、能力を示すべき対象の職務も無限定です。従って、正社員になることは就「職」ではなく、入「社」(会社のメンバーになること)であり、その際における「査定」とは、会社の中に存在するあらゆる職務を、命じられれば的確にこなせる「能力」を査定されることになります。いわば、「空白の石版」自体の性能を査定されるわけで、そこに何を一生懸命書き込んでも、それは参考資料にしかなりません。

これこそが、

>面接で落とされた場合、本人には「どうして落ちたのか」がわからない。
採用する側は「どうして落ちたか」の理由を開示する責務を免ぜられているからである。
その結果、学生たちは、自分には自覚されていないけれど、ある種の社会的能力が致命的に欠如していて、それがこういう機会に露出しているのではないか・・・という不安を抱くようになる。
その不安が就活する学生たちをしだいに深く蝕んでゆく

という事態の原因になるわけです。職務能力「ではなく」人間としての性能が劣っていると判断されるわけですから。

しかし、この最も重要なポイントを、内田氏が指摘できないのは当然です。なぜなら、もし大学と職業との接続が職業的レリバンスのある大学教育内容を企業が適切に評価して採用するというようなものであったなら、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html(「就活に喝」という内田樹に喝)

>内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論

で済む話だからです。

企業が「空白の石版」自体の性能、言い換えれば「人間力」によって採用してくれていたからこそ、会社に入ってからの職務になんら関係のない内田氏の教育が単なる趣味活動ではなく、「人間力」養成のための活動として(それなりに)評価してもらっていたわけでしょう。それを批判するのは、まさに天に唾するたぐいといえます。

(追記)

判っている人には言わずもがなのことですが、いうまでもなくわたしは

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-8f84.html

>なんか大学vs企業のケンカやられても俺ら困るだけなんですけど

大学さんの職業的レリバンスなき教育と企業側の「空白の石版」的雇用システムが隠微な共生関係にあったのじゃないの?と皮肉っているだけです。

職務能力に基づく採用・就職活動を嫌っているという点で、大学と企業はまったく同じ立場でしょう。ケンカですらない。本質を外した責任のなすりあいをしているだけ。

(さらに追記)

李怜香さんに、こういうぶくまを付けていただいていています。

>「自分では何ともならない要因によってそもそも選抜されない不条理」論旨そのものではないけど、こういう視点があるかどうかで、議論もかわってくる

本エントリの本筋ではありませんよ、とわざと断りながら、当近の話題だけじゃなくここにちゃんと気がまわる人がいれば、と内心思っておりました。ありがとうございます。

2010年8月 9日 (月)

『世界』8月号の座談会抄録

807 1ヶ月前に出た『世界』8月号に載った宮本太郎・白波瀬佐和子先生との座談会については、その時にご紹介いたしましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-9b98.html(明日発売の『世界』誌の座談会に出ています)

そのうち、わたくしの発言部分だけを拙ホームページに抄録いたしました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sekai1008.html座談会 民主党政権の社会保障政策をどう見るか

たった1ヶ月前とは思えないほど政治状況は激変しましたが、ここで語られていることの重要性はむしろますます高まってきているように思われます。

小林良暢さんの「檄」

『電機連合NAVI』7・8月号が送られてきました。特集は「今世界で何が起こっているか-世界の金属産業における労働事情」ですが、面白かった読み物は巻頭の「成」氏の「今月の論点」と、巻末のおなじみ小林良暢さんの「今月の先読み情報」。

まず「成」氏ですが、電機連合という産別組織の大変重要な特徴をさらりと書かれているので、労働問題研究者は改めてよく読んでください。

>電機連合の他産別と比べての最大の特徴は、意外に思われる方もいるかも知れないが、おそらく総合労働条件改善闘争における産別統一闘争であろう。

1990年代以前と違い、現在の日本で実効ある統一闘争を推進している産別は、電機をおいて他にはほとんど存在しなくなっている。中闘組合を主軸に、「統一日程」・「統一要求」・「統一妥結」・「統一行動」を旗印とする電機連合の産別統一闘争に対して、ほとんどの産別では、闘争は「同じ闘争時期にそれぞれの要求を持ち寄る」いわば単組の共闘という形態に移行していると思われる。この闘争形態の違いが、闘争における相場形成力では電機連合ないし電機産業労使の影響力が抜きんでることにつながっているのではないだろうか。・・・

これは、関係者と話をするとよく聞く話ではありますが、あまり世間的に広がっていないように思われます。

巻末の小林さんはいつもの良暢節ですが、「菅政権は消費税論議と社会保障の手筋を示せ」と題して、最後の方ではこう檄を飛ばしています。

>菅首相が今やるべきは、経団連を取り込み、連合を含めて政・労・使のトップを参集して、福祉社会拡充に向けた国家的な協議の場をつくることである。そこで、参院選の時に誤った手筋を元に戻して、「社会保障の拡充」すなわち年金、保育、介護の目玉となる具体的な施策を先に国民に指し示し、ついては財源として消費税の導入を提起することである。菅総理は政局や党内抗争にとらわれず、社会保障の拡充と消費税について国民の世論を味方につけた議論をリードすべきで、反対する輩は「反福祉勢力」だと決めつけたらいい

いやぁ、「反対する輩は「反福祉勢力」だと決めつけたらいい」とまではわたしはよういいまへんが、まあでも趣旨はまったくその通りでありますな。

政労使三者構成で社会保障の拡充戦略を確立しようというのは、まさにステークホルダー民主主義の理念にそったものでしょう。この後で小林さんがこう述べておられる点は、まさにわたしが昨年拙著の最後で述べたことと通じています。

>菅内閣は国家戦略局法案を見送った。・・・ならば法律上は未だ残っている経済財政諮問会議を使う手がある。・・・ただし、小泉改革の経済財政諮問会議が労働組合の代表を排除していたが、ここは菅・米倉・古賀のスリートップで、福祉国家日本の財政健全化に向かって突破するときである。

昨年7月に出された拙著『新しい労働社会』の本文の最後(210頁)で、わたしは次のように書きました。

>これに対し、経済財政諮問会議や規制改革会議を廃止せよという意見が政治家から出されていますが、むしろこういったマクロな政策決定の場に利害関係者の代表を送り出すことによってステークホルダー民主主義を確立していく方向こそが目指されるべきではないでしょうか。
 たとえば、現在経済財政諮問会議には民間議員として経済界の代表二人と経済学者二人のみが参加していますが、これはステークホルダーの均衡という観点からは大変いびつです。これに加えて、労働者代表と消費者代表を一人づつ参加させ、その間の真剣な議論を通じて日本の社会経済政策を立案していくことが考えられます。それは、選挙で勝利したという政治家のカリスマに依存して、特定の学識者のみが政策立案に関与するといった「哲人政治」に比べて、民主主義的正統性を有するだけでなく、ポピュリズムに走る恐れがないという点でもより望ましいものであるように思われます。

スウェーデン海賊党が児童ポルノ解禁を主張

27d033324af0 スウェーデン海賊党については、以前本ブログで取り上げたことがありますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-7f4c.html(スウェーデン海賊党人気急上昇)

>EUobserver紙の伝えるところによると、来る欧州議会選挙に向けて、スウェーデンでは海賊党が人気急上昇。特に、去る17日、ストックホルム地方裁判所が、音楽、映画、コンピュータソフトの違法ダウンロードサイトの「海賊湾」を運営していた若者たちに1年の懲役を宣告し、音楽や映画会社に3000万クローナの賠償金を払うよう命じたのを期に、海賊党の人気はますますうなぎのぼりで、緑の党を追い抜く勢いだとか。

と、3法則氏のような主張を掲げている政党ですが、同じEUobserver紙によると、最近もっときわどい主張に踏み込んできたようです。

http://euobserver.com/9/30589Pirate Party tackles ultimate taboo of child pornography

>The libertarian Pirate Party in Sweden has set off a storm of controversy by arguing that the country's current laws on child pornography should be done away with.

スウェーデンのリバタリアンの海賊党は同国の児童ポルノに関する現行法を廃止すべきだと主張して、嵐のような議論を巻き起こした。

>In an interview with Swedish Radio out on Thursday (5 August) Pirate Party leader Rick Falkvinge described a 1999 child pornography law as "a battering-ram against the open society." The radio spot and an accompanying article noted how a policy plank in the party's election manifesto, published last week, would "make it legal to hold the image, text and sound with child pornography" on a computer.

ラジオインタビューによると、党首曰く「児童ポルノ禁止法は開かれた社会に対する破壊槌だ」「児童ポルノの画像、文章、音声をコンピュータ上に持つことを合法化する」と。

>Mr Falkvinge's remarks infuriated many of the party's own supporters just weeks ahead of Sweden's general election and drew a rebuke from Anders Ahlqvist, the deputy head of Sweden's cybercrime department.

それを聞いた同党の支持者は驚いたようです。総選挙が数週間後に迫っているのに。いや全面解禁しろといっているのではない、とあわてて弁明をしています。

ところが、その後を読んでいくと、なんと日本のマンガが出てきました。

>Mr Kindh gave the example of how a Swedish comic books translator, who specialised in translating Japanese manga, was last week arrested under the law: "From a collection of around 1,000 comics, the police found 51 images that they misread as child pornography."

The party does want all child pornography laws lifted in relation to any fictional content.

日本のマンガの翻訳者が先週スウェーデンの児童ポルノ禁止法違反で逮捕されるということがあったようです。実在の児童じゃないフィクションや絵はいいではないかという主張のようです。

>"No one is hurt when you draw a picture."

「絵を描いても誰も傷つかない」と。

かくして、北欧のワカモノ政党の話題は現下の日本社会における非実在青少年問題と密接につながっていることが判ってきました。

で、この海賊党、党員数では既に第2党で、目前に迫った総選挙で競り合っている左右の主要政党の間でキングメーカーになりそうだという観測もあるようです。

>The party, largely associated with its pro-internet-file-sharing stance, started out as a fringe movement but has grown in stature to become Sweden's second largest party by membership, with two MEPs allied to the Greens in the European Parliament, and offshoots in 14 EU countries.

Some analysts had pegged them as potential kingmakers between the main left and right parties, which stand neck-and-neck in the polls.

2010年8月 6日 (金)

「シューカツ」という理不尽

毎月東大出版会から送られてくる広報誌『UP』(「うぷ」じゃなく、「ゆーぴー」です)の8月号の冒頭に、本田由紀先生が『「シューカツ」という理不尽』というエッセイを書かれています。

読まなくてもだいたい中身は想像されるとおりですが、最後近くのところで、次のように述べています。

>・・・これらのすべてから、腐臭が立ち上る。こうした事態を放置しておくべきではないという認識は、かつてよりもずっと広がってきているが、具体的な動きは遅々としている。たとえば・・・

>それに対して、日本学術会議の「大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会」のもとに設置された「大学と職業との接続検討分科会」の最終報告においては、大学と職業との接続をめぐる構造的問題の指摘と、その変革に向けての包括的な提案が掲げられている。しかしこれも、どれほどの社会的影響力を持ちうるかは未だ未知数である。

ご承知の通り、この分科会には本田さん自身も幹事として参加してその見解を大幅に反映させているだけに、「未だ未知数」という表現はなかなか切ないものがあります。ちなみに、わたくしや田中萬年先生も参加しています。

>今の腐臭を断つ、少なくとも薄めるためには何が必要か。学生が「シューカツ」に振り回されず十分に大学での勉学に専念できた上で、より透明性と適合性のある基準で仕事に就いていけるようにするためには、企業も大学もどのように変わる必要があるのか。現下の「就職」から立ち上る腐臭は、すべての企業人、大学陣、為政者に対して、そう挑みかけているのだ

腐臭、腐臭と、本田先生、表現がだんだん過激になってきています。

(参考)

本田先生は「最終報告」と言っていますが、既にとっくに完成してはいますが、まだ正式な形で発表されていないので、かつて新聞報道について書いたエントリを参考にリンクしておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

ちなみに、この検討会の議事録も途中まで公開されています。本ブログでサーチするといっぱいエントリがヒットしますので、関心のある方々はどうぞ。

非「教育」を考える資料集

田中萬年さんより、明日の懇談会用の『非「教育」を考える資料集』をお送りいただきました。

既に一部ネット上にアップされていますが、金子良事さんや森直人さんの鋭く本質をえぐるような批評は、まことにスリリングです。

わたくしは残念ながらよんどころない家庭の事情で今晩から東京を離れなければならず、明日は出席できませんが、熱心な討論を期待しております。

また、おいおい彼らの批評を読んで感じたことどもについて覚書的になにがしか書いていくことになるかも知れません。

2010年8月 5日 (木)

最低賃金の「目安」

中央最低賃金審議会の目安小委員会が、今年度の引き上げ目安額を決めたと報じられています。まだ厚生労働省のHPには載っていないので、毎日新聞を引きますが、

http://mainichi.jp/select/biz/news/20100805dde001020024000c.html

>厚生労働相の諮問機関「中央最低賃金審議会」の小委員会は5日、最低賃金(現行時給平均713円)の引き上げ目安額について、全国平均を02年度以降では最高の15円とすることを決めた。引き上げ幅は最高の東京や神奈川で30円、最低でも青森など41県の10円となった。最も低い水準の沖縄や宮崎など16県では初の2ケタの引き上げで、使用者側は6日に予定されている審議会本審への報告に反対。20年の全国平均1000円を目指す労働側は「目標に向けた第一歩」と一定の評価を示した。

 同審議会は、都道府県をA~Dの4ランクに分けて検討。全ランクの引き上げ額を10円とし、生活保護の給付水準を下回る「逆転現象」の起きている12都道府県については別途考慮して決定した。最低賃金は目安を基に各地方で審議されるが、目安通りに引き上げられれば、青森、秋田、千葉、埼玉で今年度中に乖離(かいり)が解消されることになる。最低賃金の全国平均は728円となる見通し。今年度が生活保護との乖離解消の期限となっていた東京、神奈川、大阪など6都府県については期限を1年延長した

各都道府県の引き上げ額は、

東京都  30円
神奈川県 30円
京都府  15円
大阪府  14円
埼玉県  14円
北海道  13円
他41県 10円

です。

これに対して、さっそく連合と日商がコメントを出しています。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/danwa/2010/20100805_1280985642.html(連合事務局長談話)

>・・・以上の結果は、低所得層の増大、厳しい生活実態、雇用戦略対話の合意を踏まえると決して十分なものとはいえない。

>・・・しかし、地域における経済・雇用情勢のバラツキが大きい中で、時間額が単独表示(2002年)になって以降、Dランクで初めて2桁となったことの意義は大きい。

>今回の報告は、雇用戦略対話の合意である「できるだけ早期に全国最低800円、2020年までに平均1,000円」の達成に向けた道筋を示したとは言い難いものの、確実に一歩を進めたものと受け止める。

>連合は引き続き、生活できる最低賃金への引き上げをめざし、雇用戦略対話の合意の具体化や生活保護とのかい離を早期に解消するため、水準を重視した引き上げと最賃制度の抜本的な改革をめざして取り組みを強化する。

まあ、連合としてはこういう言い方になるでしょうねえ。

http://www.jcci.or.jp/recommend/comment/2010/0805155221.html(日商会頭コメント)

>・・・誠に遺憾である。

>・・・賃金上昇率は前年比でマイナスであり、・・・資本金1億円未満の企業の生産性は、低下もしくは停滞傾向にあって、大幅な引上げはこうした実態とかけ離れている。

>最低賃金近辺で雇用している小規模企業の半数が、「最低賃金が10円程度引き上げられると経営に影響が出る」と回答している。最低賃金の引上げについては、まず、こうした影響が出るという小規模企業に対してどのような対策を取るのかを真剣に議論した上で検討すべきである。

>雇用戦略対話における合意では、・・・中小企業の生産性向上の取り組みや、中小企業支援などが盛り込まれている。これら前提条件が実現せず、施策の実効性がないまま、最低賃金のみが大幅に引上げられれば、経営に影響し、雇用の喪失につながることを懸念している。

これまた大変切実な草の根の声であることは間違いありません。

この二つの声をいずれもきちんと吸い上げようとするならば、この目安に沿って地賃を引き上げるとともに、小規模企業支援をしっかりと講ずるという結論になりそうです。

それが具体的にどういう形をとることになるかは、これからの予算編成の中での腕の見せ所ということになるのでしょうね。

おもてに出てこない裏側では、「同じ厚生労働省なのに、何で生活保護は勝手にどんどん引き上げるんだよ、お蔭で追いつくためにこっちが大変になるのに」という声が聞こえてきたりしているかも知れません。

進化論生かじりの反福祉国家論

その筋で有名な藤沢数希氏ですが、また奇妙なことをいっています。どうも、福祉国家が必ず滅びるということを進化論で(!)証明したつもりのようです。

http://agora-web.jp/archives/1069245.html(福祉国家という危険な幻想)

>しかし筆者は福祉国家と言うのは非常に危険な幻想、あるいは妄想だと思っている。行き過ぎた福祉国家と言うのは必ず滅びるものだ。今日はそのことを示唆するためにいくつかの簡単な実験をしようと思う。実験と言ってもフラスコの中で化学反応を起こしたり、コンピュータで複雑な数値実験をするわけではない。簡単な思考実験。つまりいくつかのシチュエーションを思い描き、その結果どうなるか想像してみようと言うことだ。・・・・・・

これを読んで、なるほどその通りだと思ったあなた。最近の進化論の教科書をちゃんと読み直した方がいいです。19世紀に山のように出された社会ダーウィニズムの駄本じゃなくて。

ちなみに、社会現象については、自分に都合のいい特定の式だけ入れて脳内実験するよりも、現実世界をよく観察する方が百万倍役に立ちます。世界各国を比較して、福祉国家の度合いが高い国ほど現に滅びつつあるという客観的な事実が観察されれば、百万言費やさずとも万人が納得するでしょうが、さて・・・。

もっとも観察能力には、自分に都合の悪いことも虚心坦懐に観察できるという能力も含まれますから、これもなかなか難しいかも知れません。

いずれにせよ、藤沢氏の独自の信念が強固であることは勝手ですが、ここで進化論を持ち出すのはダーウィンに失礼でしょう。進化論とは、地球上で現に起こった事実を説明するためのエンピリカルな自然科学なのですから。

非実在高齢者問題(笑)についての労働実務家的感想

いやまあ、とっくに死んでる人間を生きてると称して年金を詐取するというのは、年金が拠出型社会保障制度として、マクロ的には国家的再配分であり、ミクロ的には国家からの贈与であることの論理的帰結でしょう。

同じように拠出型社会保障制度である雇用保険制度においても、失業していない人間が失業していると称して失業給付を詐取するというのは、誰でも考えつくことであり、現実に行われていることであり、それゆえにそういう不正受給を防止するために、毎月ハローワークに出頭させ、ちゃんと求職活動を行っているかどうかをチェックし、どこかで働いていたよというチクリがあれば早速調べて倍返しさせる、といったことをやっているわけです(それでもなかなか追いつきませんが)。

雇用保険の場合、失業したときにもらう失業給付は自分が積み立てた雇用保険料を返してもらっているだけだとはさすがに多くの人は考えませんが(中にはそういう人もいますが)、年金の場合、積み立てた金を返してもらっているという事実に反する考え方が牢固としてあるために、これが(雇用保険における「失業」リスクとまったく同じように)「長生きしている」というリスクを社会的に支えるための再配分システムであるということが意識されず、それゆえに、ほんとうにそういう「リスク」が継続しているのかを、(コスト負担者である国民の代表として)役所がきちんとチェックするということ自体を平然と拒否できるかのような、誤った行動様式が平然と是認されてきたということでしょう。

非実在高齢者問題(笑)には、日本社会の年金に対する歪んだ認識が露呈しているというべきではないでしょうかね。少なくとも、労働実務家の目にはそう見えます。

2010年8月 4日 (水)

中国人民大学の学生へのレクチャー

本日、中国人民大学の学生(学部生及び修士)のみなさん22名が、楊東准教授、林嘉教授に連れられて労働政策研究・研修機構に来訪され、2時間にわたってわたくしから日本の労働政策に関するレクチャーをいたしました。

正確に言うと、楊・林両先生は機構の人たちに中国の労働問題についてお話しをされ、意見交換し、その同じ時間に残りの学生・修士たちがわたくしのレクチャーを聞くという二部構成です。

中国人民大学は、去る6月29日に行われた日中労働政策セミナーで行ったところですが、この学生さんたちが同時通訳をはじめとして大変献身的に活動してくれました。その時に、今夏に日本を訪問する予定であるということを伺い、またお会いできるといいですね、と言っていたのですが、こんなに早く実現できて、大変嬉しく感じています。

彼らの日程表を見ると、約2週間にわたって立命館大学、青山学院大学、学習院大学、一橋大学を訪問し、さらにいろいろと各方面を見学するという日程がびっしり詰まっていて、上石神井の僻地までわざわざ足を伸ばしてもらって有り難いですねえ。

これが今後の日中労働交流の一環として発展していくことを念願しております。

(日中労働政策セミナーについては)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-01da.html(中日劳动政策和法律研讨会在中国人民大学法学院隆重举行)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-536e.html("中日劳动政策和法律研讨会"举行 多维对话平台)

2010年8月 3日 (火)

こういう求人にぴったりな組織形態

すでに1000件を超えるブックマークがついていることもあり、それ自体にコメントする必要はないと思います。

http://b.hatena.ne.jp/entry/gigazine.net/index.php?/news/comments/20100802_gigazine_job/(【求人募集】GIGAZINEのために働いてくれる記者・編集を募集します - GIGAZINE)

雇用契約とは指揮命令下の労務提供と報酬の支払いの交換契約であって・・・という民法の大原則からすれば、これだけの全面的献身を要求して労働条件はすべて不明という求人はブラック以外の何者でもないですが、政治結社や宗教結社と同列の同志的結束に基づく組織のメンバーを求めるという趣旨からはこういうものもありでしょう。一種の「党員募集広告」なわけで。ここでいう「解雇」も、まさに「除名」なのでしょう。

ただ、問題はそこから。日本型雇用システムにおける「正社員」とは、実定法上はそのように規定されていないにもかかわらず、現実社会においては(そして判例法理においても)なにがしかそういう「メンバー」的性格を有しているわけで、安易に批判すると自分の側に火の粉が飛んでくる。

さらにもっと話を複雑にするのは、じつはこういう経営者であるとともに労働者でもあるという二律背反を実現しようという制度的枠組みが「労働者協同組合」をはじめとした「アソシエーション」の思想系列であるということ。

もっとも聖なるものがもっともブラックでもあり得るというこのパラドックスを静かに味わうには、上記リンク先の騒ぎはあまり適当ではないのかも知れません。

やっと出た『労働経済白書』

諸般の事情で発表が遅れていた『労働経済白書』が、本日ようやく発表されました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000iqmv.html

ここ数年、経済財政白書の発表にぶつけて、「経財白書VS労働白書」で話題をつくるというのが定着しかかっていたのですが、今年はかなりずれてしまいました。

石水さんの白書執筆もこれで5冊目ですが、今回の異動でも動かなかったので、来年は前人未踏の6冊目でしょうか?

今年は、第2章が「産業社会の変化と勤労者生活」、第3章が「雇用・賃金の動向と勤労者生活」。前者が競争力を備えた産業構造と労働生産性向上の関係を分析しているのに対し、後者では非正規雇用の増加と賃金格差の拡大について分析するという構図になっています。

とりわけ第3章における次のような記述は、石水さんの基本的な考え方が非常に明確に打ち出されています。(「概要」よりコピペ)

>○規格化された商品を大量に生産し、流通させ、消費することが「豊か」であると感じられた「工業化」の時代が過ぎ、現代産業社会は、「ポスト工業化」の時代を進んでいる。

>○人的能力の形成は一朝一夕にはできない。企業の人事方針も「即戦力志向」から「じっくり育成型」へシフトしてきており、能力評価システムについても、長期雇用慣行を基本に、個々の労働者の取組を適正に評価できるよう設計することが目指されている。

>○日本型雇用システムには、知識や技能の継承、人材育成などのメリットがあるが、これらはポスト工業社会の人事・労務施策として有効なものであると言える。

『POSSE』次号は面白そう

『POSSE』編集部の坂倉さんが、次号の企画についてぼそぼそとつぶやいていますが、これは確かに面白そうです。

http://twitter.com/magazine_posse/status/19838456747

>『POSSE』第8号ベーシックインカム特集の執筆者を、8月上旬から少しずつ公開していきます。思想や経済、社会保障とさまざまな観点から賛否織り交ぜてBI論を寄せていただいていますので、乞うご期待。BI本の決定版になる…予定です!

で、たとえば、

http://twitter.com/magazine_posse/status/20143824670

>しかし、こういう国家のパターナリズム批判はベーシックインカム派の方が好きそうですよね。BI論者は労基署についてはどう考えてるんだろう。やっぱり「5万円でも支給されれば労働条件が改善する」から、全廃しろとかいう人が多いんだろうか。

http://twitter.com/magazine_posse/status/20144257915

>BI支持者がBI導入後の最低賃金や解雇規制に反対だったり慎重であるケースはよく見るけど(『現代思想』の山森・立岩対談しかり)、労基署に言及してるケースはあまりみないな。まあそもそも労基署の実態とかそこまで知らないのかもしれませんが…。

ふむ、ベーカム論者にとって、労基署とはなんぞや?

もひとつ、

http://twitter.com/magazine_posse/status/20144586498

>ちなみにBIと労働組合の規制は両立するのか?というのも次号BI特集の一つの論点ではあります。なお、今回取材していない某先生にかつて、BIよりもまず労働組合が…とか言った瞬間に「君は働けない人のことなんてどうでもいいんでしょ」とキレられたことが。

ぎゃ!

さらにこれ!

http://twitter.com/magazine_posse/status/20145415147

>一方『POSSE』次号では、スウェーデンの「解雇自由」を理想とされるBI支持の某経済学者さんに労働組合の規制の意義について質問してます。日本のBI派は立場問わず国家の介入を嫌悪することが多いですが、組合についてはあまり認識されてないのかも。

おお!なつかしきギルド論ですか!それにしても「スウェーデンの「解雇自由」を理想とされるBI支持の某経済学者さん」にまで取材したとは立派です!

2010年8月 2日 (月)

『労基旬報』の連載

昨年8月から月1回のペースで『労基旬報』に小コラムを連載して1年になりました。

わたくしのHPで今までのものもすべて読めますので、暑さしのぎに(かえって暑くなるかも知れませんが)ご一読を。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo.html『労基旬報』掲載論文

労働法教育の必要性(2009年8月25日号)

採用活動と大学教育の職業的レリバンス(2009年9月25日号)

中教審の職業大学構想(2009年10月25日号)

日本型雇用システムの複層的変容(2009年11月25日号)

雇用システムの再構築へ(2010年1月25日号)

ジョブ型正社員の構想(2010年2月25日号)

常用有期派遣労働者の雇止め(2010年3月25日号)

研修生は労働者に非ず?(2010年4月25日号)

労働局あっせん事案の内容分析(2010年5月25日号)

教育と労働の密接な無関係の行方(2010年6月25日号)

事務職派遣の虚構(2010年7月25日号)

日本の正社員は「外交官」なみ?

研究メモさん(http://d.hatena.ne.jp/dojin/20100801)経由で、「スウェーデンの今」というブログに面白いエントリがあるのを見つけました。

http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/cdbc790ffca47dd31455d6405ec6285c(スウェーデンでも専業主婦が多い職種とは?  )

>スウェーデンでは当然ながら共働き世帯が多い。・・・しかし、最近もう一つ別の例外がスウェーデンにもあることを耳にした。それは、外交官の配偶者だ。

>このことに関連して、日本の大企業などの従業員の転勤や地方勤務ローテーションを考えてみたい。問題を生み出している構造が、外交官の国外赴任とよく似ていると思うからだ。

日本の女性の社会進出が遅れている理由(少なくとも自分のキャリアを追及したいという意欲を持った人にとって働きにくい理由)は、一つには長い勤務時間があるだろう。・・・

しかし、もう一つの理由として、大企業で働く従業員の会社都合による転勤・地方勤務もあるのではないだろうか。・・・日本の転勤制度は専業主婦がいるから成り立っているシステムだと言えるのではないだろうか。


これは、日本型雇用システムの特徴として挙げられる職務、時間、空間の無限定性のうち、最後の空間的無限定性の本質を言い当てていると思われます。

日本の会社に於ける正社員というのは国家に於ける外交官のような存在である、と。少なくとも可能性としては常にそうであるということなのでしょうか。

逆に、外交官並みの責任を背負いたくなければ、低賃金不安定雇用の非正規労働に甘んじざるを得ない。

>いずれにしろ、企業の都合だけで無理やり定期的に勤務地を移動させられることがなく、自分から主体的に勤務地を選べるという点は、共働き世帯にとって非常に重要なことではないかと思う。

このあたりが、今後開発されるべき「多様な正社員」の一つのイメージになるのでしょう。

権丈先生のまじめな皮肉

先週の『東洋経済』の巻頭言を権丈先生が書かれていて、先生のHPにアップされたので、リンクを張っておきます。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/20100731TKW001.pdf(持続可能な中福祉という国家像)

やっぱり最後のこの一節がしびれます。

>過去長らく、政府にムダがあるといっては自分たち世代が受ける公共サービスにみあう負担をせず、目下、世界に前例のない超高齢社会にある日本で、「持続可能な中福祉」を実現するのに要するおおよその負担増分を知りながら、お茶の間を前に繰り広げられる政治の有様を眺めるのは一興ではある。この遊び、皆さんにも是非お勧めしたい

もちろん、それが「遊び」になるためにはそれなりの条件が必要なわけですが。

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