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2010年7月23日 (金)

松尾匡『不況は人災です』

03290688 筑摩書房より、松尾匡さんの『不況は人災です』をお送りいただきました。ありがとうございます。

ほんとうは先週なかばには東大の公共政策大学院の事務室に届いていたのですが、わたくしは今では週一こまの非常勤講師なので、なかなかほかに用事がないと取りに行く機会がなくて、今まで御礼が遅れてしまいました。申し訳ありません。わたくしの常勤先は労働政策研究・研修機構(JILPT)ですので、今後はそちらにお送りいただければ幸いです。

本書は松尾さんが今まで説いてこられた新しいケインズ経済学をわかりやすく一般向けに解説したもので、特にわたくしにとっては、「第6章・金融緩和は誰の味方?」が、本ブログでも何回となく取り上げてきたテーマを正面から書いています。

ていうか、欧州社会党とか、欧州左翼党といった「左派」が完全雇用を目指しているなどというのは、太陽が東から昇るに等しい当たり前のことで、それが逆転している極東の某国の異常性こそが問題なわけです。シバキ主義は右派の専売特許であって、左派が掲げるものではないという常識が逆転しているこのねじれを指摘することはもちろん重要です。

ただ、そのねじれが、松尾さんが考えているほど単純なねじれではない、という点こそが、この問題の(松尾さんの語らない次元における)怪奇性を示すものでもあります。

その点も、本ブログで何回か繰り返してきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_1560.html(欧州労連の経済政策要求)

>欧州中央銀行は頑固で何もせんから、各国の財務当局は一斉に財政拡大政策をとれ、と。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-45e1.html(欧州労連は欧州中銀の利下げせずとの決定を遺憾に思う)

>いつまでも過去のインフレにこだわるんじゃねえ、現実を見ろ、6月の利上げは間違いでしたと認めろ、と。

とまあ、ヨーロッパでは何の不思議もない光景なんですが、こなた極東の島国に持ってくると、なんだかねじれが・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-74bb.html(欧州労連 カジノ資本主義に終止符を)

>「ねじれ」ってなあに?

>こういう立場の人(組織)が「欧州労連は欧州中銀の利下げせずとの決定を遺憾に思う」と主張するのが「ヨーロッパでは何の不思議もない光景」なのですが、なぜか日本ではそれが入れ替わってしまうわけで、そのねじれの隙間に構造改革にリフレ粉を振りかけただけの自称リフレ派がはびこるわけです。

つまりねじれは二重構造です。

もともと社会党系である松尾さんが気にするのは、本来完全雇用を求めるべき左派がシバキ主義に走ってしまうことであるわけですが、それと裏腹の関係にあるのが、まさにシバキ主義むき出しの政治的志向をもつ人々が、なぜか金融政策においてのみ「りふれ」を掲げることによって、あたかも「りふれは」というのは片っ端から仕分けして公共サービスをことごとく叩き潰せと喚き散らす脱藩官僚(脱力官僚)率いる人々のことであると、良識ある多くの国民が考えるようになっているという実態があるわけです。

幸い、この松尾さんの本には「りふれ」などというおぞましい言葉は用いられていませんし、素直に読めばたいへんまっとうなことが書いてあると分かるからよいのですが、交友関係には細心の注意を払わないと、「卑小な仲間意識で正義感が鈍磨」したグループの一員とみなされかねません。気をつけていただければと思います。

(参考)

ちなみに、うえでのべた「ねじれ」が、ねっとりふれ派自身の神経の奥底に染みついたものであるということの、何よりも明白な証拠が、本ブログに残っています。

今回ネット上で血塗られた政治的殺人を平然と行った田中秀臣氏のところからたくさん飛び込んできたネットイナゴの一人ですが、多くのイナゴがただ罵詈讒謗を塗りたくるだけであるのに対して、理論的にものごとを語ろうとする人格が感じられただけに、その思考の根底に存在する「ねじれ」には気が遠くなるような絶望感を感じたものでした。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b2d6.html(構造改革ってなあに?)

>稲葉さんの偉さは、一左翼であることがリフレ派であることと矛盾しないことを左翼として始めて示した点だと思う。それまでの左翼は、ある意味ネオリベ以上の構造派で、つまりはアンチ・リフレであったわけだから。それに対して、稲葉さんはそれが「ヘタレ」にすぎないことを左翼として始めて断言したわけで、これは実はとても勇気のあるすごいことだと思う。

投稿: 一観客改め一イナゴ | 2006年9月20日 (水) 14時46分

まともっぽい書き込みなので、まともにコメントしますが、その場合の「左翼」って、ケインジアン福祉国家を擁護する社会民主主義は入らない定義ですね。日本の知的世界の特殊事情を踏まえれば、そういう用語法は理解できますが、ヨーロッパで普通に「レフト」というと、こんなに失業があるのに欧州中銀はなぜ利率を引き上げるんだと文句をつける側です。
なんつうか、あたりまえのことを当たり前だと喝破したことが偉大だと言えばその通りかも知れませんが。

投稿: hamachan | 2006年9月20日 (水) 15時18分

そのことを「あたりまえ」といえるのなら、別にhamachanさんがリフレ派を敵視する必要はないな。リフレ派がいっているのは、構造は構造でゆっくり考えればいいから、とりあえず中銀はちゃんと仕事をしろ、それをしないで失業云々いってもしょうがないよといことだから。こういう「あたりまえ」のことを言っている左翼って、日本で稲葉さん以外にいたっけ?

投稿: 一イナゴ | 2006年9月20日 (水) 15時45分

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コメント

好意的なご紹介いただきまして、本当にありがとうございます。
送付先は、存じ上げておりませんでしたので、出版社に任せました。すみません。以後ご指示のようにいたします。
ご指摘へのお答えを書きました。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100723.html">http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__100723.html

松尾さんより、上記リンク先のような大変心のこもったお返事を頂きました。

人格の問題と政策の問題は分けるべきというご主旨はまことにその通りであります。わたくしのエントリにはややもするとその両者がごっちゃになる傾向があることは、大いに反省すべき点であると思います。

人格の卑劣低劣を批判することはきちんとしなければなりませんし、それをするべき立場にありながら「仲間意識による正義感の鈍磨」を露呈する人に対しても適切な批判が向けられるべきですが、それと政策論を安易に結びつけているかの如く受け取られかねない記述も厳に慎まれるべきものでありましょう。

この「仲間意識による正義感の鈍磨」と密接につながる問題が、最後に書かれている「ウチとソトを分けない=開放個人主義=経済学的発想=商人道」と「ウチとソトを区別する=身内集団主義=反経済学的発想=武士道」という二分法なのですが、何回かコメントしてきたように思いますが、わたしとしてはやはりこういう二分法には違和感があります。

本日アップした社会的企業についてのエントリでリンクした10年前の小文の末尾でこういうことをもそもそとつぶやいたことがありますが、このあたり。アソシエーションをどう位置づけるかという問題とも絡めて、一度じっくりと論じてみたいなと思っております。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chiikikoyou.html">
http://homepage3.nifty.com/hamachan/chiikikoyou.html


>そもそも近代社会は、中世封建社会の崩壊とともに成立してきたわけであるが、その特徴は、第1に政治的には、割拠する諸侯に私的に権力が分散していたのが主権を有する国家に権力が集中していくことに、第2に経済的には、主として共同体内の互酬と再配分によって資源配分していたのが市場を通じた交換に移行していくことにある。建前的にはこの両者が公法と私法という形で峻別され、現実には国家が市場を、市場が国家を支えるという関係が成立した。
 この両者の狭間にこぼれ落ちたのが、それまで共同体が担ってきた様々な社会的セーフティネットであった。貧困、失業、劣悪な労働環境といった「社会問題」が大きくクローズアップされ、それに対する近代国家の対応として福祉国家や労働者保護といった「社会政策」が形作られた。あまつさえ、国家に全権力を集中して社会を全て管理させようという「社会主義」まで産み出された。しかし、社会主義はその恐るべき実態をさらけ出して潰え、いま福祉国家も厳しい批判にさらされている。そして、現在、市場原理のみを金科玉条とするネオ・リベラリズムが世界中を風靡している。
 しかし、国家による社会政策を否定して市場原理を称揚することによって現実に地域社会が直面する諸問題が解決されていくわけではない。いま我々が応戦しなければならない文明史的挑戦とは、国家と市場という近代社会の二分法からこぼれ落ちた領域を無理矢理にそのいずれかに押し込めようとすることではなく、それにふさわしい第3の領域をしっかりと作り上げていくことにあるのではないだろうか。

これが決して共同体マンセー論ではないということはご理解いただけると思います。

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