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2010年7月19日 (月)

積み立て方式って、一体何が積み立てられると思っているんだろうか?

黒川滋さんが、鈴木亘氏のトンデモ本を批判して、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/07/717-be9e.html(ちくま新書「年金は本当にだいじょうぶか?」を信じてはいけない)

>ちょっとでも若者よりの言論をしたがる人にとって、積立方式が少子化社会にたえられる魔法の杖のように言われがち。しかし、少子化社会という前提のもとでは、どんな方式であっても同じ問題にぶちあたる。

>問題は、鈴木氏のような言説が、若手の武者震いしているような政治家やその予備軍たちに浸透して、たえず政党の年金改革談義に悪影響を与えていること。そのことで年金が政争の具となって、事態は混乱している。

と書かれています。なんだかすごくデジャビュを感じたのですが、昨年同じように黒川さんの記事をネタに、こういうエントリを書いていたのですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9649.html(財・サービスは積み立てられない)

ここで言ってたことも本質的にはまったく同じこと。今から10年前に正村公宏先生がひと言ですぱっと言われたこの真理に尽きるわけなんですが。

>この問題は、いまから10年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、積み立て方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。

財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積み立て方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。

「積み立て方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想がにょきにょきと頭の中に生え茂ってしまうのでしょうね。

非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なんですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。

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コメント

> その時に生産された財やサービスを移転する

「その時に」ではなく、「既に」生産された財というものが存在しないとでもお考えなのですか?

因みに「既に生産された財」はありふれていますが、但し、「経年劣化」の問題はありますね。経年劣化しない財として「(物質としての)金」が、良くイメージされる傾向にあります

しかし、いつも取り上げられる度に思うのですがね、
この「黒川滋」というお方。本当に駄目ですね。

まあ、濱口先生の一番駄目なところを良く表しているのでしょうね。

あっ、鈴木氏の議論を別に擁護している訳ではありませんよ。

鈴木氏の議論が駄目という結論が正しかったとしても、「黒川氏の議論がデタラメでない」ということが保証されるわけではありませんのでね。

POSSEにおける後藤氏の例の連載で俎上に乗せられ、適切な分析がなされるとよいなぁと願います。


ネオリベのはずがぐるっと一周してマルクス(労働価値説)に!!

http://amiens.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-3622.html

”西沢和彦「年金制度は誰のものか」”

「標題の本は08年に出たもので少し古いが鈴木亘や小黒の主張が西沢とそっくりなところがあったので、批判をしておく。」

「彼らの論理の笑止千万なところは、経済全体を語る論理が、いつの間にか個別の雇用者の賃金の話しに横滑りしていることに、気がつかないのか気がつかないふりをしているのかしらないが、そういうことになっていることだ。例えば、」

「それはつまり「個別企業の雇用者」が「社会全体」に置き換わっているのですがね。これがおかしくなけりゃ、世の中の何がおかしいのかということになるでしょう。
 こうした話しを聞いていると、昔のマルクス経済学に似ているような気がするんですが?「商品の価値は労働者が作り出す」というヤツです。何でも労働者の価値創造力に帰着するはず、というわけですが、そういうわけではないんですよね。きっと。」

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