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2010年7月18日 (日)

これでもかこれでもか ワーキングプア120連発

Workpoor 連合総研より、『ワーキングプアに関する連合・連合総研共同調査研究報告書Ⅰ―ケースレポート編― ~困難な時代を生きる120人の仕事と生活の経歴~』をお送りいただきました。

http://rengo-soken.or.jp/report_db/pub/detail.php?uid=208

ここに本文と概要が載っていますので、是非ざっとでも目を通してみてください。ここには、現代日本のもう一つの姿が、これでもか、これでもか、とばかりに120ケース連ねられています。

この報告書は、連合と連合総研が共同して行った働く貧困層への聞き取り調査120例のケースレポートです。もう一つ、アンケート調査も加えて分析した報告書は近日公表ということですが、この120ケース、一つ一つの事例が結構重いです。どれが、というのも難しいのですが、そうですね、最近の相撲部屋と暴力団の話題に引っかけてというわけでもないですが、調査番号:東京26を見てください。

http://rengo-soken.or.jp/report_db/file/1277259200_a.pdf

男、31歳、中卒、

おおまかな職歴:中学卒業→中華料理店・店員(正社員、4年)→相撲部屋・調理等(力士見習い、1年)→整体院・整体師見習い(アルバイト、1年)→暴力団事務所・組員(2年)→露天商(5年)→建設会社・作業員(正社員、数カ月)→建設会社・作業員(登録型派遣=違法派遣、2年)→路上生活→年越し派遣村→現在、生活保護受給中/糖尿病の治療中

>1978年、北海道生まれ。
 両親、弟1人、妹1人と自分の5人家族。兄2人は先天性疾患で乳児期に死亡したので、幼くして弟、妹を含む3人兄妹となった。民間賃貸住宅で暮らしていた。
 小学校就学中に両親が離婚した。父母ともに子どもの引き取りを拒んだため、子ども3人は祖父母の世話になることになった。以後、祖父母が事実上の親代わりとなった。
 中学校を卒業(1993年、15歳)して就職した後は、自分が弟、妹の生活の面倒を見ることになった。
 最後の学校時代(中学)は、両親が離婚していたので何も楽しかったことはなかった。強いて言えば不良仲間だけが唯一話せる相手だったこともあり、不良グループが自分の居場所だった。
 父親はアルコール依存でいつも家族に当たり散らし、家出して愛人のところに行っていた。また、母親は子どもを嫌い、面倒を見なかったため、自分にとっては祖父母だけが頼りであった。そのため、事実上の両親であった祖父母を父さん、母さんと呼んで暮らした。経済的には主に祖父母の年金などが頼りで生活は楽ではなかった。

<初職からの経験>
 1993年(15歳)、両親が離婚しており、生活が苦しかったため中学卒業後に、中学校による紹介で道内の中華料理店に就職した。常連の出前先に暴力団事務所があり、そこの組長から執拗に組員への勧誘を受けた。
 1997年(19歳)、暴力団加入から逃れるため、恵まれた体格を活かして相撲部屋に入門した。部屋では飲食店員の経験を買われて調理を担当した。ところが入門の動機が暴力団から逃れるためであったので、長続きせず1年ほどで辞めてしまった。
 1998年(20歳)から1年ほど、友人(暴力団員)の紹介で、整体院でアルバイトとして働いた。住み込みであった相撲部屋を辞めて以来住居がなく、友人のアパートに同居していた。
 1999年(21歳)、いつまでも友人のところに同居していては迷惑をかけると思い、その友人の紹介で暴力団事務所で住み込みのアルバイト(留守番係)として働き始めた(この時整体院は退職)。それを2年ほど続けた。アルバイトの留守番係でも暴力団の構成員としての活動は拒めず、軽犯罪に関わったり、右翼団体の運動員として働いた。
 2001年(23歳)、暴力団の活動には良心が痛み馴染むことができなかったので、転職を希望して組を辞めた。暴力団員を辞めるために小指を切断し、正式な離脱を図った。
 同年、暴力団を辞めてから、愛媛県にあった暴力団系列のテキ屋(露天商)の元締めのもとで、露天商に転職した。
この当時、「刺青師」の知人にお金を貸したが返済不能となり、借金返済の代わりに自分の体に刺青を入れてもらうことで解決をはかった。
 露天商として5年程度働いたが、暴力団員であった友人の自殺を機に 暴力団関係との絶縁を決意して露天商を辞め、北海道に帰省した。この時点で手持ち資金は5万円だけで、帰省の費用に充てた。
 2006年(28歳)、帰省後、北海道のハローワークで、埼玉県にある建設会社を紹介され、正社員として採用された。
地元にいた母親を訪ね、上京のための費用を工面してもらった。
 ところが、就職した建設会社で「指詰めと刺青」が発覚して居づらくなり、数カ月で自主退職することとなった。
 同年(28歳)、派遣会社に派遣社員として登録(28歳)し、建設現場に派遣された。ところが、2008年(30歳)に派遣先の建設現場での違法派遣が発覚して、事件になった。
この当時、未払い賃金の支給を求めて派遣会社とトラブルとなった。個人で交渉のうえわずかな賃金を受け取り、会社を辞めた。その後、ホームレスに近い状態にまでなった。
 2008年末の「年越し派遣村」に参加した。派遣村で、支援に来ていたある産業別労働組合の執行委員と出会い、NPOの生活困窮者支援グループを紹介され、支援を受けるためその会員になった。

女性はやはりDVがらみのケースが多いですが、こういう高学歴ワーキングプアの事例もあります。調査番号:東京50。

女、37歳、博士課程中退。

> 1972年、京都府生まれ。
 両親と妹を含め4人家族。
 家族関係は幼少期よりずっと良好。父親はメーカーのエンジニア、母親は事務職で共働き。実家の生活水準はごく普通で姉妹ともに大学に進学した。両親とも組合員であったので労働組合の必要性や役割については若い頃から聞かされてきた。
 小、中学校とも成績は上位でいつも学級委員をつとめ、友人も多く交友関係は良好であった。高校は地元の有名進学校に進んだ。両親と同じような平穏な家庭をつくろうと思っていた普通の女の子だった。
 1991年(19歳)、地方の大学に進学、海洋生物学を専攻。
大学の海洋調査実習では女子であるという理由で調査船の航海には参加できずフィールドワークを積むことができなかった。
 1995年(23歳)、東京の大学の大学院に入学。博士課程に進み、研究者を目指すも専門分野の就職の機会に恵まれず、2000年(28歳)で博士課程を中退した。

<初職からの経験>
 1999年(27歳)9月、大学院在学中に専門学校の講師のアルバイトを開始した。
 2000年(28歳)3月、専門学校は春、夏、冬季の3期の休校期間があり、収入不足を補うため、情報通信会社に契約社員として就職した。
 2006年(34歳)に入り、情報通信会社の都合で担当業務が数年後に廃止されることが決まったことがきっかけで、個人加盟できる労働組合に相談した。
 同年、仲間とともに自分たちで労働組合を結成し、業務の廃止撤回を求めて団体交渉を開始した(現在も団体交渉を継続中)。
 2007年(35歳)3月、専門学校のアルバイトを退職。情報通信会社の契約社員専業となり現在に至る

実は、この調査はサンプルが偏っています。報告書のはじめの方に書いてあるように、

>今回のアンケートおよび聞き取り調査では、調査対象者は、労働組合、支援団体を通じて紹介していただいたケースが圧倒的に多いことから、回答者の属性に偏りがある。とりわけ、聞き取り調査対象者には、アンケート調査回答者以上に偏りがあると思われる

のですが、しかし、

>とはいえ、ここで示された各ケースは、まちがいなくワーキングプアの具体的な存在の一つひとつであり、その考察から彼らの抱える問題を明らかにできるものと考えている

のもまた、確かであると思われます。

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