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ソーシャルなベーシックインカム論

生活経済政策研究所から送られてきた『生活経済政策』5月号は、特集2として「国際シンポジウム報告:アクティベーションか、ベーシックインカムか?-持続可能な社会構想へ」の第1回目として、宮本太郎先生によるまとめ報告と、ベーシックインカム派のベルギーのルーベン大学のヤニク・ヴァンデルホルヒトさんの講演録を載せています。アクティベーション派のデンマークのアンデルセンさんの講演録は次号回しということなので、ここではヴァンデルホルヒトさんの言い分を見ていきます。

ベーシックインカム派といっても、生活研が企画して宮本太郎先生が司会するシンポに出てくるのですから、ホリエモン式の「無能な奴は働かずにすっこんでろ」的な捨て扶持ベーシックインカム論ではなく、逆にベーシックインカムこそが労働供給を促進するのだというロジックになります。

>最後に、普遍主義か選別主義かという問題を労働政策、労働力供給、つまり本日の論題であるアクティベーションと直結させて論じようと思います。

宮本教授が指摘するように、就労義務を課さない無条件ベーシックインカムと雇用とは直結していません。そうではあるのですが、ベーシックインカムと雇用との関係を貧困の罠や失業の罠、ここでは活力を奪う罠(inactivity trap)と呼びますが、その点から考察したいと思います。

たとえば、日本が普遍的児童手当ではなく、選別主義に基づいた児童手当、つまり一定の所得以下の層を対象とする児童手当の導入を選択したとします。しかし、それは同時に罠を作り出します。受給者が就職し所得が改善したら、給付の一部ないし全額を失うことになるからです。もし公営住宅など資力調査を伴う別の給付を同時に受けていた場合、雇用へのアクセスは家計にとって全く魅力的ではなくなってしまいます。・・・

その解決策の一つが選別的なスキームを普遍的なスキームへと転換することです。普遍的給付であれば就職後も給付を受け取れます。低賃金であっても、失業時よりは確実に高い純所得となり、家計は改善する。働けば報われることになります。

ベーシックインカムは完全雇用に対する理想的なオルタナティブだといわれますが、私は逆ではないかと思います。労働権、効力ある仕事へのアクセス権を持つためには、所得の権利がまずもって必要だからです。その観点からいえば、ベーシックインカムは就労しようとする人々への直接的補助(job subsidy)です。無条件ベーシックインカムは完全雇用のオルタナティブではなく、完全雇用を達成するための方法だといえます。

拙著『新しい労働社会』をお読みいただいた皆様にはおわかりの通り、このロジックはかなりな程度わたくしの議論と共通しています。

実際、わたくしは拙著153頁以下で、

>教育費や住宅費を支える仕組み
 とはいえ、現実に日本型雇用システムに入らない家計維持的な非正規労働者が増大している以上、彼らに対して家族の生計を維持できるような収入を何らかの形で確保する必要があります。最低賃金自体に家族の生計費を考慮することが交換の正義に反するのであるならば、賃金以外の形でそれを確保しなければなりません。それは端的に公的な給付であっていいのではないでしょうか。
 本人以外の家族の生計費、子女の教育費、家族で暮らすための住宅費など、労働者の提供する労務自体とは直接関係はないにしても、彼/彼女が家族を養いながら生きていくために必要な費用は、企業が長期的決済システムの中で賄わないのであれば、社会的な連帯の思想に基づいて公的に賄う必要があるはずです。
 生活保護であれば生活扶助に加えてかなり手厚い教育扶助や住宅扶助が存在し、この必要に対応しています。しかし、多くの非正規労働者や非正規労働者であった失業者にはそのような仕組みはありません。これは、考えようによっては大変なモラルハザードの原因をつくりだしていることになります。なぜなら、雇用からこぼれ落ちて福祉に依存すれば教育費や住宅費の面倒を見てもらえるのに、わざわざそこから這い上がって雇用に就くとそれらに相当する収入が失われてしまうのであれば、就労に対する大きな負のインセンティブになってしまうからです。
 実際、日本のような過度に年功的な賃金制度を持たない欧州諸国では、ある時期以降フラットな賃金カーブと家族の必要生計費の隙間を埋めるために、手厚い児童手当や住宅手当が支給され、また教育費の公費負担や公営住宅が充実しています。社会のどこかが支えなければならない以上、企業がやらない部分は公的に対応せざるを得ないはずでしょう。
 それは、当面は家族生計費や子女の教育費や住宅費が本人賃金の中に含まれる生活給制度の下にある正社員層と、それらを賃金という形ではなく公的給付として受給する低賃金の非正規労働者層という労働市場の二重構造を前提とするものとの批判を免れないかも知れません。
 しかしながら、そうした生計費のセーフティネットが徐々に張り巡らされていくことによって、これまで生活給制度の下にあった正社員層についてもある時期以降フラットな職務給に移行していく社会的条件が整っていくはずです。逆に、そうした条件整備抜きに短兵急に職務給の導入を唱道してみても、社会に無用の亀裂を生み出すだけでしょう。

と論じました。

ヴァンデルホルヒトさんがいう子ども手当や住宅手当については、わたくしはまさに普遍的給付派なのであり、それをベーシックインカムと呼ぶならば、まさにベーシックインカム派でありましょう。

このことは、ベーシックインカム批判として書かれた『日本の論点2010』所収の論文でも、冒頭、

>筆者に与えられた課題はワークフェアの立場からBI論を批判することであるが、あらかじめある種のBI的政策には反対ではなく、むしろ賛成であることを断っておきたい。それは子どもや老人のように、労働を通じて社会参加することを要求すべきでない人々については、その生活維持を社会成員みんなの連帯によって支えるべきであると考えるからだ。とりわけ子どもについては、親の財力によって教育機会や将来展望に格差が生じることをできるだけ避けるためにも、子ども手当や高校教育費無償化といった政策は望ましいと考える。老人については「アリとキリギリス」論から反発があり得るが、働けない老人に就労を強制するわけにもいかない以上、拠出にかかわらない一律最低保障年金には一定の合理性がある。ここで批判の対象とするBI論は、働く能力が十分ありながらあえて働かない者にも働く者と一律の給付が与えられるべきという考え方に限定される。

と断っておりました。

問題は、そういう「労働者の提供する労務自体とは直接関係はないにしても、彼/彼女が家族を養いながら生きていくために必要な費用」ではなく、労働者の提供する労務の対価に相当する部分を無条件給付化してしまうことの是非であって、それが「就労しようとする人々への直接的補助(job subsidy)」となるのか、それとも「就労しないことに対する報酬」になってしまうのか、ということこそが問題であると私は考えるわけですし、その際、問題は(世間の単純なベーカム批判論の如く)単に「働きたくないといって働こうとしないこと」への報酬の是非というだけでなく、むしろ「働きたい人を無能だからといって働かせないことに対する報酬」(いわば人間に対する「減反奨励金」!)の問題であるということが、すっぽり抜け落ちてしまうと思うわけです。

現代日本でベーシックインカムを声高に論じる人々が、ホリエモンとか、山崎元氏とか池田信夫氏といった、「無能な奴には捨て扶持を与えろ、下手に働かせない方が効率的」という思想にもとづいているだけに、ヴァンデルホルヒトさんのようなソーシャルなベーシックインカム論にはかなりの共感を感じつつも、なかなかそのまま受け入れられない面があるわけです。

とはいえ、彼のいう

>無条件ベーシックインカムによって、労働者は将来のない仕事、本人にはあわない仕事を拒否する力、権利を得ます。

というポイントはきわめて重要です。アクティベーション派は、この機能を(上記の欠点のある無条件ベーシックインカムではない形で)きちんと担保する必要があります。いわば、労働者のエンパワメントをいかなる回路で確立するかという課題です。

ここは、ソーシャルなアクティベーション派が、ソーシャルなベーシックインカム派と真剣に論じあうべき点でしょう。

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コメント

『ホリエモン式の「無能な奴は働かずにすっこんでろ」的な捨て扶持ベーシックインカム論』というのは具体的にどの発言の事でしょうか?私が知っている限り、堀江氏がBIについて語ったのは本人のブログとJ-CASTの記事とニコ生の発言だけなのですが、そのような趣旨の発言を彼がしたとは思えないのですが・・・

私を含めて30代以下の人達の間でBIがそれなりに支持される理由の1つに、高度成長を終えて供給過剰によるデフレが引き起こされている状況で「今やってる仕事に何の意味があるのか?」という労働に対する本源的な疑問を持つからだと思います。

例えば、まだ使えるテレビを無理やり政府の政策で使えなくして買い替えさせる事でメーカーから販売店に至るまでの雇用を生み出してるのですが、人々が手にした新しいテレビが日々の生活を向上させているのでなければ、そこに関わる業務というのは仕事の為の仕事に過ぎず本末転倒という気がするのです。

これは、テレビに限らず日常品から社会インフラまで至る所に見られる事象かと思います。そのような本末転倒的な労働で人々が時間と資源を浪費する位ならカネにはならないが社会に役立つ活動、例えば芸術やボランティアに従事してもらう方が本人にとっても社会にとっても望ましいと考えます。

また、社会活動もせずBIの範囲内で気ままな生活を送る人が登場したとしても本末転倒的な労働で時間と資源を浪費するより本人にとっても社会にとってもマシと考えます。

なお、カネには色がついてないので「ホリエモン式」だろうが「ソーシャル」だろうが、どっちでもいいです。

そこを区別する意義がありますか?

投稿: あひる | 2010年5月 2日 (日) 11時37分

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