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2010年5月24日 (月)

価値観を支える支配的な言説の構造

そなたんパパの備忘録」というブログの、「<政治・社会>デフレ不況」というエントリの「(追記)」に、興味深い指摘がありました(本論はbewaard氏と田中秀臣氏の「論」争についてなので、特段コメントしませんが)。

http://seutaro.exblog.jp/13344708/

>ブログ論壇を見ていてもそうなのだが、社会問題を論じるときに、非常に単純化された説明を目にすることがある。たとえば、「子どもたちの学力が低下しているのは日教組が悪いからだ」、「経済格差が広がっているのは小泉改革が悪いのだ」、「日本の景気回復の足を引っ張っているのは労組だ」、「政府財政が悪化しているのは官僚が悪い」、「若者がフリーターや派遣になるのは若者自身に原因がある」といった類の話だ。

 こういう話を聞いて「いやいや、ちょっと待ちなよ」と思うのは、僕だけではないだろう。つまり、それらの問題の根底にはもっと幅広い社会的、経済的あるいは言説的な要因があって、単純に単一の要因に起因させることはできない、と考えるわけだ。リフレ派と呼ばれる人たちにもそう考える人はいるんじゃないだろうか。「世の中、もっと複雑だぜ」、と。

 ところが、その経済的要因について考えようとするときだけ、「日銀が悪い!」という論法に依拠するというのは、どうにも居心地が悪いのだ。もちろん、責任者というのは責任をとるためにいるのであって、物価に責任を持つ日銀が責めを負うのは当然だ。ただ、上で述べた「幅広い社会・経済的な要因」を論じることに慣れた身からすれば、日銀がリフレ政策に否定的なのは、実は組織内的な要因だけではなくて、もっと幅広い要因があるのではないか、という疑念がどうしても浮かんでくる。

 つまり、日銀の組織内部の話のみならず、その日銀の価値観を支える支配的な言説の構造がそこにあるのではないか…、だとすれば対決すべきはそうした言説の構造ではあるまいか…というような話になってしまうのだ

これは、マクロ経済政策よりも労働社会政策においてより顕著に見られるように思われます。

一方で、格差社会がどうのこうのという議論が騒がれながら、それを是正すべきさまざまな労働社会政策手段が(相対的に必要性が低かった今までよりも、必要性が高まってきた今になってより一層)否定的に描かれ、ひたすら叩き潰すべきものと糾弾されるという奇妙な現象は、(とかく多くのサヨク系論者が描き出すように)階級的利害に基づく陰謀説によって説明することも、(労働社会政策の専門家が内心考えているように)政治家やマスコミの無知蒙昧ゆえの無能説によって説明することも、必ずしも妥当ではなく、むしろ知的世界よりももっと大きな広がりをもった「社会的気分」の次元において、国民がそれを望んでいるから、そういう価値観が瀰漫しているから、そして、知的エリートと大衆感覚が融合気味な日本社会においては、そのような大衆感覚に沿って言説を撒き散らすことが、言説営業上有利であるから、そのような気分の拡大再生産が行われ、結果的に、政府の一方で「これは必要だからもっともっと拡充しよう」といっているまさにその政策が、政府のもう一方で「無駄だから叩き潰せ」という人民裁判の素材となるという事態が現出するのではないかと思います。

その意味では、どこかに悪者がいるということではなく、我々現代日本人の大衆的精神構造それ自体の中に、結果的に我々自身の利益に反することを選好するある種の破壊衝動が潜んでいて、日本のひ弱な知的エリートにはそれを制御するだけの力量がないということであるのかも知れません。

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コメント

御意。知的エリート層のひ弱さは丸山真男以来、いや文明開化以来の課題です。

追記です。
日本の知的エリートがひ弱な理由として
・知のバックボーンである学問が輸入学問であること
・エリートが試験エリートであること
・日本社会の特質(ムラ社会、空気重視)
が挙げられると思います。
エリート官僚や学者が何を言っても、どこか空気の上っ面を滑るだけになってしまう。 これを解決する方策を公務員研修でぜひとも追求していただきたく。

テレビ局のやる世論調査って意味ないよねというのに関して
世論を作ってるのはテレビだし(政治家○○叩き)
テレビは世論に流され世論はテレビの論調を作る…
共犯というにはあまりにあまりな

という話を連想しました。

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