雑誌『現代思想』の6月号が「ベーシックインカム」という特集を組んでいます。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%D9%A1%BC%A5%B7%A5%C3%A5%AF%A5%A4%A5%F3%A5%AB%A5%E0%A1%A1
>特集=ベーシックインカム 要求者たち
【BIの現在地】
ベーシック・インカムと社会サービス構想の新地平 社会サービス充実の財源はある / 小沢修司
【討議】
ベーシックインカムを要求する / 立岩真也+山森亮
【BIの思想】
バイオ資本主義とベーシック・インカム / アンドレア・フマガリ (訳=柴田努)
残余から隙間へ ベーシックインカムの社会福祉的社会防衛 / 小泉義之
ベーシックインカムの神話政治 / 白石嘉治
【要求者/共鳴者たち】
~シングルマザー~
母子家庭にとってのベーシックインカム / 中野冬美
内なるスティグマからの解放 「個」 の自律にむけて / 白崎朝子
~障害者~
障害者の所得保障とベーシックインカム 障害者が豊かに生活しつづけるために / 三澤了
~介助者~
ベーシックインカムがあったら、介助を続けますか?
介助者・介護者から見たベーシックインカム / 渡邉琢
~学生~
大学賭博論 債務奴隷化かベーシックインカムか / 栗原康
【労働/福祉の変容】
基本所得は福祉国家を超えるか / 新川敏光
就労支援・所得保障・ワークフェア アメリカの福祉政策をもとに / 小林勇人
貧困という全体性 「複合下層」 としての都市型部落から / 岸政彦
【BIと経済/社会】
ベーシック・インカムをめぐる本当に困難なこと / 関曠野
【「南」 のBI】
「道具主義」 と 「運動」 のはざまで 現金給付の拡大と 「南」 のBIの展望 / 牧野久美子
なかなか面白い議論を展開しているものや、何を言ってるんだかよく理解しがたいものや、気持ちは気持ちとして良く伝わってくるものや、いろいろと取り合わせられていて、買って読んで損はしないと思います。
私自身のものも含め、BIをネオリベラルな思想として批判する傾向が出てきていることへの危機感がいくつかの論文に出てきているのが興味深いところでした。たとえば、冒頭の小沢修司論文では、まず最初に「新自由主義的BI論への危惧」として、
>それは、近年の新自由主義的BI論の隆盛とそれに対する危惧の念が広がっていることについてである。BIJN設立集会の場でも新自由主義的BI論に対する懸念の声が多く聞かれた。なかには、BIがそういうものであるならBIへの期待は返上し反対の立場に立つとの超えも寄せられた。
という声を紹介し、
>このように、BI論と社会サービス解体論が手を結ぶ事態となると、それへの反発が生まれることは当然の道理である。・・・そこではBI(手当)支給か社会サービスの充実化という二者択一の論点が設定されることになる。
>しかし、それは大いに間違っている。筆者は、BIも社会サービスの充実も両方必要であると考える。
と述べて、「所得保障と社会サービスは車の両輪」だと主張します。
>BIは万能ではない。新自由主義的BI論が主張するような、BIを導入すれば従来の福祉は不要となる、公務員も不要となる、社会サービスは解体して市場からのサービス購入で事足りるという「BIは夢の特効薬」という議論は、BI論そのものではない。
そんなものをBI論だと思われて一緒に叩かれるのは嫌だ、という気持ちはよく伝わってきますが、とはいえ、アカデミズムや特殊なサークルを除けば、「そんなもの」しかBI論として世間に通用していかないという実情も、それはそれなりの理由があるのではないかと思います。
少なくとも現在ですら著しく低水準にある現物給付の社会サービスを抜本的に拡充しつつ、さらに加えて十分働ける人々にも無条件に毎月8万円なにがしを配るのです、というような議論が、財政的に実現可能性のある議論として、まっとうな実務論壇で相手にされにくいのは、あながちそこの人々の志が低いからだと罵れば済むというわけでもなかろうと思われます。
これに続く、山森亮氏と立岩真也氏の対談も、興味深い言葉がいくつも出てきます。
(追記)
ちなみに、同じ特集の中の栗原康氏の「大学賭博論 債務奴隷かベーシックインカムか」という文章が、なんというか、もう「へたれ人文系インテリ」(@稲葉振一郎)の発想そのものという感じで、大変楽しめます。
栗原氏にとって、大学とは、
>一つは予測可能な見返りのある大学、もう一つは予測できない知性の爆発としての大学、この二つである。
ところが、前者の大学において「就職活動のための授業カリキュラム」というのは、
>コミュニケーション能力、情報処理能力、シンボル生産能力、問題解決能力、自己管理能力、生涯学習能力・・・・・・・・
と、まさしくシューカツ産業が提示する人間力以外の何ものでもないようです。大学で本来学ぶことになっているはずの知的分野は、卒業後の職業とは何の関係もないというのが、絶対的な前提になっているわけですね。
つまり、栗原氏にとっては、大学が大学としてその掲げる学部や学科の看板の中身というのは、原理的に「予測可能な見返り」のあるものではなく、「予測できない知性の爆発」という賭博でしかない、というわけで、まあ典型的なへたれ人文系インテリの発想ということなんですが、なんでこれがベーシックインカム論の特集に入ってくるかというと、
>大学には、二つの道がある。一つは債務奴隷化、もう一つはベーシックインカムである。・・・・・・この賭に負けはない。自分の身を賭して、好きなことを好きなように表現してみること。・・・・・・・
と、好きなことを好きなようにやるんだから、その生活費をお前ら出せよ、という主張につながってくるからなんですね。
いうまでもなく、大学という高等教育機関はへたれ人文系の学問ばかりをやっているわけではなく、大学で学ぶ学問それ自体に職業的レリバンスが高い分野も多くあります。そういう高級職業訓練機関に学ぶ学生がきちんと訓練を修了し、高い技能を持った労働者として就職していけるように、その生活費の面倒を見ようというのは、別段ベーシックインカム論を持ち出さなくても、アクティベーションの考え方からも十分説明できますし、むしろより説得的に説明できるでしょう。
大学や大学院の授業が給付付き職業訓練であっていけないなどというのは、本質的に同じものである「教育」と「訓練」を勝手に役所の縦割りで区別しているからだけのことであって、その方が頭が歪んでいるのです。職業訓練を受けるために学生を債務奴隷にするなんて、(教育政策としてはともかく)労働社会政策としては歪んでいるわけですから。
ところが、栗原氏の議論には、そういう発想はないんですね。学生に生活費を支給すべき根拠は、その受講する職業訓練の社会的有用性ではなく、「好きなことを好きなように表現してみること」であるわけです。
まさに、好きなことをやるかわいい子どもに糸目を付けずに大盤振る舞いしてくれる豊かな親になってくれよ、それがあんたらの責任だ、というのがへたれ人文系ベーシックインカム論であるようです。それは、親の年功賃金によっていままで維持されてきた仮想空間を全面的に拡大しようという試みなのでしょうが、いうまでもなくそれが実現する見込みは乏しいでしょうね。
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