「就活に喝」という内田樹に喝
神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。
http://blog.tatsuru.com/2010/04/14_1233.php(就活に喝)
>ゼミに行くと欠席が9名。
ほとんどの四年生は最終学年はゼミしか授業がないはずであるので、ゼミに来ないということは、フルタイムで就活に走り回っている、ということである。
気の毒である。
だが、浮き足立ってことをなして成功するということはあまりない。
>それに、私に「ろくな結果にならない」というようなことを言わせてはいけない。
私の言葉はたいへん遂行性が強いからである。
私が「そんなことをすると、ろくな結果にならない」とうっかり口走ってしまうと、それはきわめて高い確率で現実化するのである。
だから、君たちがわが身の安全をほんとうに案ずるなら、私を怒らせてはいけない。
>追伸:と書いたら、就活でゼミを休んだ学生から「先生の呪いのせいで、ものもらいができました」と泣訴してきた。「生き霊は先生のゼミのある日に試験なんかやる企業のほうに飛ばしてください」というので、了解する。「ものもらい」ぐらいで済んでよかったね。
現代の「学校の怪談」、あなおそろしや・・・
という話じゃないでしょうが。
こういうものの道理の分かっていない大学のセンセにこそ、日本学術会議の大学と職業の接続分科会の報告を読んでいただきたいのですが、残念ながらまだ調整中で正式発表に至っていないこともあり、その分科会でわたくしが喋った議事録から、内田樹氏にふさわしい部分を再度引用してみたいと思います。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/hamachan-20db.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会におけるhamachan発言録)
>濱口 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。
>濱口 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。
>濱口 おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。
内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論。
もちろん、そういう筋論で説明できるような大学と職業との接続状態になっていないから、こういう呪い騒ぎが起きるわけですが、そうであるからこそ、問題は表層ではなく根本に立ち返って議論されるべきでありましょう。
哲学者というのは、かくも表層でのみ社会問題を論ずる人々であったのか、というのが、この呪い騒ぎで得られた唯一の知見であるのかも知れません。
(参考)
ちなみに、報告書自体は未発表ですが、その内容は既に公開され、本ブログでも紹介しておりますので、ご参考までに
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)
また、最終会合に提出されたほぼ最終版に近いバージョンは:
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-17-1-1.pdf
(追記)
Tsuboshさんの「Random-Access Memory(ver.2.0)」で、内田氏の元エントリとわたくしの本エントリを取り上げて、
http://d.hatena.ne.jp/tsubosh/20100417
>内田さんの関心が、ミクロな人間関係にあり、
ミクロな人間関係の背後にある社会システムにはないことは、
昔からよく知っています。
だからこのエントリを批判する濱口さんとは、
全く議論の土俵が違っていてその食い違いからもいろいろ学べます。
と述べた上で、
>私はこのエントリを読んで感じたのは、まずは、
「ゼミ教授-ゼミ学生の関係は、全面的師弟関係なのか」
という点です。
>次に、「内田先生には、師弟関係であっても、
ゼミ内で、こういう感じで、ミクロな権力を行使してほしくないな」
という点を感じました。
と述べています。
おそらく、内田氏は自分とゼミ生の関係を、哲学者の師匠と哲学者たらんとする弟子との関係と捉えているのでしょう。それにしても、こういうミクロ権力の行使は嫌らしいものですが、まあそこは認めるとしても、そもそも現代産業社会の中で大学という高等教育機関がどういう位置づけをされ、その中で内田氏が給料をもらっているのかという社会システム論的認識が欠如したままのミクロ権力行使は、学生をどうしようもない窮地に追い込むだけなのですね。
もちろん、なぜそうなるかという理由もはっきりしていて、日本の企業が少なくとも文科系学部については「大学で勉強したことなんて全部忘れろ、これから全部仕込んでやる」という人材養成システムであったことが、大学で学ぶことに職業的レリバンスをほとんど不要とし、結果的に内田氏のように、卒業したら企業に就職するしかない学生たちをつかまえて、あたかも哲学者の師匠が哲学者たらんとする弟子たちを鍛える場所であると心得るような事態を放置してきたからであるわけです。
「大学に何にも期待しない企業行動の社会的帰結としての企業に役立たない大学教育」が、自己完結的な価値観に基づいて行動することによる矛盾は、企業でも大学教師でもなく、その狭間で苦悩する学生たちに押しつけられることになるわけですが。
(ついでに)もしこれが、内田氏のゼミ生が哲学教師の口を求めての就職活動でゼミをさぼったことに対し、「俺のゼミをさぼるような奴に哲学教師になる資格はない!」というのなら、そういうミクロ権力行使は、少なくとも職業的レリバンスの観点からは是認されましょうが。
(再追記)
これは哲学とかの人文系のことだよな・・・と安心しないでね、経済系の方々。
池尾和人氏が
http://twitter.com/kazikeo/status/12039641738
>しかし、就職の面接だといってゼミを欠席する4年生が少なくない。平日に大学生を呼びつける企業には、大学教育を批判する資格はない。そういう企業は大学での勉強を評価しないというシグナルを送っているわけで、こんな企業ばかりだから、いまの大学の惨状がある。
とつぶやいていますが、企業から「大学への勉強を評価しないというシグナル」を送られているということは、つまり大学の経済学教育に職業的レリバンスがないと判断されているわけで、そこをどうするかという問題意識もなく、ただ企業の責任を叫ぶだけでどうにかなると思うのは、少なくとも社会科学的思考にはふさわしくないと思いますよ。
もちろん、これは個別企業や個別大学、個別教師の問題ではなく、いわんや個別学生の問題などではなく、まさに職業的レリバンスなき教育とそれを前提とした企業社会が見事に噛み合って動いてきた社会システムの問題であるわけです。
(ちなみに)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)
>ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。
何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。
(さらに追記)
世の中には問題をはき違えている人がいかに多いか・・・。
hyoro 難解でぼくにはよくわからんが、大学というものをどうにも履き違えているように思える。大学に行く目的が「就職に有利であるから」というなら、それこそ「表層でのみ社会システムを論」じているんじゃないの?
「就職に有利」という言い方が既にして、学ぶ内容のレリバンスではなく、表層の見せかけしか考えていないわけで。何のために大学に行くの?ただのカルチャーセンターなら、それにふさわしいやり方がある。
突き詰めると、大学が職業訓練校であるならば、教師には訓練を勝手に休んで就活する生徒を叱る権利がある。就活で訓練を休むような者を、ちゃんと訓練修了というディプロマを付けて送り出すわけにはいかない。大学がカルチャーセンターならば、就活と天秤にかけてより有利な方を選択する「お客様」を叱る権利はない。いや、叱ってもいいけど、それを社会的正義として自慢げに語られても困る。
たぶん、ある種の人にとって、大学はそのいずれでもなく、師匠と弟子が形作る理想のアカデミアであるべきという考え方があるのでしょうが、だったらそういう規模でやってくれという話でしょう。学生の圧倒的大部分が就職していってくれることを前提にして、今の大学システムは回っているのであって、それに受益している人が師匠・弟子モデルを振り回すのは単純に偽善です。それなら最後まで弟子の面倒みろよな。
(も一つさらに追記)
RIP-1202 合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ。なにをえらそうに。
えらそうなのはどっちだろうか。自分は大学教授として安定した地位を楽しみつつ、就職できなかったら生活に困るかもしれない学生の身の上に思いをはせることもない方じゃないの?
会社と教授の板挟みで悩む自分のゼミ生をぎりぎりいじめ抜くのがそんなに楽しいのだろうか。
それなら初めから「就職希望の人はお断り」というべき。
・・・・・でも、考えてみると、神戸女学院文学部というのは、もともと就職なんていう下賤な進路じゃなく、花嫁修業としてお茶、お花と同列でお文学をやるお嬢様御用達のところだったのかも知れない。たしかに「合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ」って云いそう。
そういうお嬢様じゃない就職希望の女性がなまじ入ってしまったのが間違いだった、というのがオチ?まあ、いまどきそういうオチはないでしょうけど。
(まだまだ追記)
トラバを送られたようですが、失敗されたようなので、ここにリンクしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/the_end-of_the-world/20100420(合成の誤謬)
>いや本当に昨今の就職事情はひどいことになっているという実感があって、それも単に「学生がシステムの犠牲になっていてかわいそう」などという話ではなく、この選抜の仕方では「馬鹿であることが合理的な社会」を作りかねないだろうという危惧があるからだ。
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なぜ「学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く」なくてはいけないのかがわかりません。
大学は就職予備校ではないのですから、職業とのレリバンスが高かろうが低かろうが、学問を学問としてやるべきだと思います。
そもそも、様々な業種があるにせよ、一般的に学問と職業とのレリバンスは元々高くないと思うのです。
僕はまだ大学生で職業を実感した事がありませんが、hamachanさんは社会人としてどう考えますか?
投稿: Glass_saga | 2010年4月17日 (土) 15時32分
職業人生という視点を一つのみ持つ人間とは、小さくか弱く生きにくいでしょうね。
「学問を学問としてやるべき」共感。
投稿: mio | 2010年6月24日 (木) 17時37分
この文章には、ビジネス優位のヒエラルキーが見られますね。
大学と就職の関係について述べられている文章で、「カルチャーセンター」という言葉が複数回使われているのは何故でしょうか?
それは「カルチャーセンター」がビジネスの視点から見ると、あまり利益をもたらさないからです。
文章の構成を見ると、「カルチャーセンター<大学の人文系学部<大学の経済系学部<ビジネス社会」というような分かりやすいビジネス優位の構造が発見できます。
大学の社会的な意義をビジネスタームで語ることは有意義だと思いますが、大学は長い社会人人生への橋渡しの役目を担っており、その意義は職業的レリバンスだけに回収されるものではないと思います。
この文章を読み、問題点があると感じたために、僭越ながら指摘させていただきました。
投稿: ka | 2010年7月13日 (火) 19時46分
私はしばらく前まではこのブログから離れておりましたので、少し前に自分でコメントした教育の記事の関係者、内田樹さんの記事と関係あるらしい、そして「人気記事」になっているこの記事に来て、いささかの疑問が。ここでも、内田先生に、ですが。
就活の議論よりも、なんだか、内田「先生」はとてもエラそうなのに驚きました。
そもそも、大学と職業世界とをなぜ対立的にとらえている(と思いましたがが)のかがよくわかりません。普通の学生にとっては、この二つの世界は連続的なものですし(で、hamachanはその接続の現状に沿って議論していると思います)、教員にとっては大学が自分の職業世界に過ぎないはずです。もっとも大学という業界への就活、って通常のものよりもはるかに非合理的という、変わった世界ではあるようですが。
で、そのように対立的にとらえたうえで、大学を、というより、大学での教育を行う大学教員をですかね、通常の職業社会に優越したものと思っておられるようなのが、すごいな、と。以前に、有名な大学教員が、職業人のことを「社畜」と書いているのを見て、ひどいなと思ったことがあります。企業に縛られているかもしれないけれど、家族の生活を支えて営々と働いている人間にそれはないだろう、と。そうして稼いで子女を大学に送っている、その学費で暮らしている人が言う言葉か、と腹が立ちましたが、大学にいるものは、そういう職業世界を超越していると思っているんでしょうか。
もちろん、そうでない教員はいっぱいいますし(私の恩師も、内田先生と同じ学校の出身の、研究一筋の方でしたが、学生の就職についてはとても心配してくれました。それ、もう数十年前のことですが)、現在の大学は生き残るためにむしろ、就職の実績をあげるために必死のはずですね。
それと、ついでに、感じたのは、これは内田先生のブログに限らないようですが、学者のブログであるのに、論議が成立しないブログってけっこう多いように思いますね。内田先生のブログはそもそも、コメントをつけられないようなので、この批判自体がお門違いかもしれませんし、内田先生のお話を「ご託宣」として受け取る人達がいるとしたら(いるらしいですが)それは内田先生だけでなく、その人達の責任でもあるわけですね。ほかに有名な先生のブログというのも見てみましたが、コメント可能でも、なんだかプチ神様というかナンチャッテ神様を中心とした新興宗教のようなブログがありますね。大学教員としてエラくて、ブログ教団で神様でエラいと、どうしようもないのでしょうかね。
少なくとも、濱口先生、ではなく、hamachanのブログは、意見や分野が違っても、あるべき日本の労働政策について、いろんな人が自由に論議できる、と思っています。そういうブログが多いといいんですけどね。
投稿: 哲学の味方 | 2010年11月 1日 (月) 10時18分
大学生になった子どもと、その保護者の最大の関心事は、4年後の就職のことで、学ぶ内容ではありません。入学式の日に就職担当の先生が、学生と保護者の前で大学の就活への支援体制と就職状況をしっかりアピールしなければならないのが、当今の状況です。
ちなみに身内に何人か大学教員がいますが、内田氏のようにエラそうに言える先生は珍しい存在で、個人的事情の欠席でも学生にタメグチで承認させられる風景が一般的なようです。
以前、池田清彦先生が、馬鹿な学生相手にまともな授業をしても疲れるだけで、自分は仕事と割り切って授業時間をやり過ごしている、なんて意味のことを述べていたと思います。
どっちにしてもあまり愉快な状況には見えません。
今回の批判はちょっと揚げ足取りのような気もしますが、内田先生も自分のブログを学生への伝言板と共用しているような書き方は、不用意と言えば不用意ですね。
投稿: トミー | 2011年2月12日 (土) 00時20分
内田先生の他の文章を見ればすぐにわかりますが、内田先生は大学と企業を対立的に捉えているのではなくて、単純に昨今の日本の、日本人の民族性にそぐわない(と彼が考える)「競争主義」とか「自己責任主義」とかが基本理念になっている企業が気に食わないんでしょう。
日本人が欧米主義の仕事観のままだと日本がおかしくなっちゃうから(とゆうかもうなっちゃってるから)、一人の発信者として、ブログも一つの発信源として利用しつつ時代の流れに必死に抵抗しようとしているんじゃないですかね。
もちろん上記でみなさんご指摘の通り、彼は「大学4年間の学び」はお金という物理的なレスポンスによって回収されるべきだとは全く思っておらず、個人の人生を精神的に豊かにしたり、また、それを学んだ学生の子供のそのまた子供の…くらいの世代の社会をよりよくしてゆく為にあると考えているのではないでしょうか。
そこにビジネスマインドな立場からの「学び」の捉え方と、教育者としての立場からの「学び」の捉え方の大きな違いが見えますね。
やはり教育は中、長期的な視点で見ないとその価値が見えてこないのでは?
まぁ、その彼が自らの理念を権力者として学生に押し付けてどーすんだって話なんでしょうけど、ビジネス社会的な「自己責任主義」的観点から言えば、内田先生がどんな先生か学生だって入学前とか、せめてゼミに入る前にに調べればいいんだし(あんなに著作があるんだから)、それで「就活が…」て言って内田先生に文句言われようが自業自得なんじゃないですかね。
投稿: spiround | 2011年4月19日 (火) 03時08分
内田樹という人はほとほと嫉妬深く、従って猜疑心の強い粘着な性格なんだなと、
あらためて得心した次第。
かれがむかし自分のブログで某高校の生徒と先生を非難していたことがある。
どうしてかというと、かれが講演に訪れた高校のなかで唯一、
話にあまり乗ってこなく、シーンとして生徒も教師もかれの語りに
あまり関心を示さなかったからだ。
ふつうなら自分の講演の仕方になにか落ち度があったか、
内容があまりぱっとしなかったかと内省してみるものだが、
内田氏は逆に、理由のない怒りを、その高校の生徒と教師に表明していた。
自分の面白い講演をしらっとした態度で聞くような奴らはどうしょうもない
劣等人間だというような内容だった。
わたしはそのとき、自信過剰なあきれた大学教師が世の中には
いるものだとびっくりしたのですが、もっとびっくりしたのが
こういう人がいまはもてはやされているのですねえ。
いやはや。
投稿: イカフライ | 2011年4月26日 (火) 16時13分
神戸女学院大学と、神戸女学院大学の教授でいらっしゃった内田樹先生を侮辱しないでいただけますでしょうか。
まあ、そもそも、大学の在り方を忘れているのは各大学そのものであり企業でもあるのではないでしょうか。
大学4年目が就職活動の1年間とするのであれば、大学は3年制で構わないのでは、と私は思います。
働く企業は1社です、またまともに学生をできないような学生を企業は求めているのでしょうか?
投稿: 08 | 2011年11月 7日 (月) 23時26分
2年も経とうとしていますが、いまだコメントが頂けないのはどういうことでしょうか?
貴殿の考え方は別の方も仰っているとおり、企業の価値観によって学問を評価しようとする構えが強すぎます。
仮にそのような構えを取るとして、貴殿の著作がほとんど売れていないことは、どのように説明出来ますか?貴殿の著作の貧しい売上は、貴殿の仕事のレリバレンスの低さを端的に示しているのではないですか?とすれば、貴殿の仕事はより社会の価値観に向けて方向転換されるべきではありませんか?
私自身、貴殿の文章力も仕事も高く評価しております。貴殿の著作は必ず全て2冊購入しております(これは嘘ではありません。1冊は保存用として購入後、書架の奥深くに入れ、もう1冊は枕に使用させていただいております)。今後もご活躍期待しております。
投稿: 08 | 2013年1月28日 (月) 14時46分
spiroundさんにほぼ同感っすね。
たぶん、内田センセは学生には慕われてて、知らない人には暴言でも、彼らは和気藹々なんだと思いますよ。
有名人だし、著書で儲かってるし、言いたい放題だから、バッシングがないほうがおかしい。バッシングされてナンボな先生ですよ。
言ってることにはおかしなこともあるけど、全体的な思考というか、指向というか、この辺は私は支持してますね。こういうこと言う人がいなくなったら困る。
だいたい、企業も、大学で習うことなんかどうでもいいんだったら、大学合格通知だけで採用して、社内で教育してくださいよ。そうすりゃ奨学金の借金抱える学生も減るし、貧しい学生も合格通知で就職できて余計な学費がかかりません。大学でしか学べないことを学ぶ学生だけに奨学金を返済なしであげられるかもしれませんよ。
それにしても、ここ、後藤さんのtogetter見てきたんですが、後藤さんの粘着振りもすごいですね。
投稿: milcha | 2013年4月10日 (水) 15時36分
http://blogos.com/article/139666/
"大学の授業より「就活」の方が成長できる! もう「長期化」を問題視するのはやめよう"
ブロゴスのエントリです
投稿: FF | 2015年10月18日 (日) 23時16分
震災前からこれ十八番?・・・パンクだなあ
パンクチャもバーストも興味深いけど、2016までの軌跡を創造主はどのように考えているのだろう?
まさかではないが、ワタシは7.君たちは6だよ・・・じゃないとは思いますが、わざわざ診る努力を無駄だと思っているわたくしにはその機会費用は衝撃的な”過去”への支払いコストでした。
投稿: kohchan | 2016年9月 8日 (木) 18時44分
さらに進めて、内田先生のように
教育実習で、「ゼミなどの大学教育を欠席する」ことは、学生にとってデメリットである
という風にならないのですかね?何だか、不思議な話です。
> 教育実習の日程との兼ね合いで、前倒しは学生にとってデメリットにすらなる。
https://www.asahi.com/articles/ASS6K3DVPS6KUTIL029M.html?comment_id=26058
> 教育実習に行ってて、これ受験できないんだけど。文科省は何考えてるの?
https://x.com/kitaro_kyushu/status/1802573766469595622
教職免許の取得を卒業の要件とするような「専門職課程」に限れば、「教育自習は本課程の
本幹」を成す教育であり、選択科目のゼミなんぞより遥かに重要だ、とか、言えそうです。
投稿: わわ | 2024年6月18日 (火) 18時45分
「一般企業の就活」も、「教員採用試験」も、「教育自習」も
就職のために大学の授業を欠席するのであり、大差ないように
思いますが、本質的な違いがあるのであれば、知りたいです。
大学の他の授業のために(例えば、レポートの作成のために)
他の授業を欠席するのは構わないということなのでしょうか?
投稿: KK | 2024年6月20日 (木) 16時43分
オクスフォード大学の先生が内田先生と同じような事を仰っています。
バイトと就活容認しては教育の質など上がらない
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/81522?page=3
そもそも、レベルが高い大学教育というのは、1週間に4〜6コマの授業を大量のリーディングリストを
しっかりこなして、少人数のクラスで綿密にインテンシブに取り組むものです。
アルバイトや就活で授業を中断していたのでは、このように厳しい授業についていけないでしょう。
この先生の場合と内田先生の場合では状況はいろいろ異なると思いますが、一周回って結論は同じ という事でしょうか?
投稿: Aalberich | 2024年6月24日 (月) 21時52分