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2010年4月

ナチス観の大転換

東京大学出版会の広報誌『UP』5月号が届きました。これに載っている雨宮昭彦さんの「システム理論で読むナチズム(上)-ポランニー的課題とポスト大転換システム」という文章は、まだ「上」だけで未完なのですが、大変興味をそそる記述があります。

ひと言で言うと、ナチス像が変わりつつある。ナチス研究のパラダイムチェンジが起こっている、というのです。

>・・・今世紀に入って以降、ナチス期の企業史研究を積み重ねることにより、従来の見方を大きく覆しつつある。統制経済や国家の道具化された経済というナチス経済の見方は後退し、今や、企業など個々の経済的アクターの自由度の大きさが注目されるようになったのである。

この新たなパラダイムによると、ナチス経済はオルド自由主義思想に支えられたものであり、このオルド自由主義こそが

>戦後西ドイツ経済の別名となった「社会的市場経済」という論説連合の中でコアコンセプトを提供したオルド自由主義は世界恐慌からナチズムの時代に発展した

というのです。

「下」で、このインプリケーションが全面的に展開されるのでしょうが、これを見ると、日本における戦時体制、国家総動員体制が戦後体制に及ぼした影響とのアナロジーがどうしても浮かんできます。

実は、労働政策という観点からだけですが、ナチス労働戦線とかイタリアやフランス(ビシー政権)のファシズムの労働政策などが戦後のコーポラティズムにかなりのつながりをもっているという印象は、私はかなり強くもっており、ドイツの場合それが強くタブー化されていたのが、ようやくこういう議論が出てきたのか、という感じもしないではありません。

「上」では、まだポランニーもポスト大転換システムも出てきませんが、「下」が楽しみです。

(追記)

「on the ground」の松尾隆佑さんがtwittterで、

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/13214091373

>RT @M_A_Suslov: UP記事のネタ元は雨宮先生が編者のこの論文集ですねhttp://bit.ly/aEViyS QT @ryusukematsuo http://bit.ly/ag6IqHに章が割かれて>ナチス観の大転換 http://bit.ly/bnsjtY

とつぶやいているのを発見。その論文集とは

9784818820432 http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2043(雨宮昭彦/J・シュトレープ編著『管理された市場経済の生成 介入的自由主義の比較経済史』日本経済評論社)

で、

>大恐慌、ファシズム、世界戦争の中、資本主義は「管理された市場経済」へと進化し、経済的自由主義は〈統治のテクノロジー〉へと変容をとげる。比較経済史の可能性を追求。

>第1章 1930年代ドイツにおける〈経済的自由〉の法的再構築 雨宮 昭彦  
第2章 ナチス経済像の革新  J.シュトレープ/M.シュペーラー
第3章 ドイツ電力業における市場規制の展開  田野 慶子
第4章 ナチス期金融市場政策の展開と貯蓄銀行  三ツ石 郁夫
第5章 戦時BISにおける市場認識と戦後構想   矢後 和彦
第6章 戦前・戦時日本の統制的経済体制とナチス的方式の受容 柳澤 治
第7章 戦時日本における金融市場のリスク管理   山崎 志郎
第8章 戦後ドイツ経済制度における連続性の再建 W.アーベルスハウザー
第9章 現代ドイツにおける規制の体系と規制改革  加藤 浩平

というもののようです。

こういう本が出ているのを知らずに、迂闊に書いてしまったようですが、まあでも多くの人も知らなかったでしょうから、いい紹介記事になったかも。

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高井・宮里・千種『労使の視点で読む 最高裁重要労働判例』

Efa64cbbb21d6adcd811afa3045a86ac644 高井伸夫・宮里邦雄・千種秀夫3氏の『労使の視点で読む最高裁重要労働判例』(経営書院)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.e-sanro.net/sri/books/syoin/syj10/syj10_16.html

まえがきで、経営法曹の高井伸夫さんがこの本の由来が書かれていますので、そのまま引用します。

>本書は、「労働判例」916号(2006年9月1日号)~951号(2008年4月1日号)に隔号掲載された連載「最高裁労働判例の歩みと展望」がもとになっている。この度の単行本化のために、当時の原稿に大幅な加筆補正を施し、さらに昨2009年末に出された「パナソニックプラズマディスプレイ(パスコ)事件」最高裁判決(最二小平21.12.18判決、本書159頁参照)も加えて、1冊に取りまとめたものである。

この連載の企画は、私が千種秀夫先生と宮里邦雄先生に予め構想をご相談し、ご快諾頂いたうえで、2005年9月に「労働判例」飯田穣一郎編集長(当時)に提案の手紙をお出ししたことから実現し、飯田氏の定年退職後は、現在の石田克平編集長に引き継がれた。

私がなぜこうした構想を得たかといえば、最高裁労働判例が十分に蓄積され総点検すべき時期にきていると日頃から感じ、それらを労使でともに見直す作業を行うことによって、学者の解説とは別の角度から、労働法実務に些かなりとも裨益するのではないかと考えたからである。

・・・社会の様々な事象のひとつである労働事件が、労働側と使用者側からどのようにとらえられ、労働法の発展にどのように寄与してきたか、そして今後の労働判例の展望はどうなのか、労使の視点を念頭に、生きた勉強の材料を読者に提供できれば幸いである。

取り上げられている判例は、次の21判例です。

[1]労働基準法上の労働者 藤沢労基署長事件
[2]労働時間概念 三菱重工業長崎造船所事件
[3]時間外労働義務 日立製作所武蔵工場事件
[4]過労自殺 電通事件
[5]配転 東亜ペイント事件
[6]出向 新日本製鐵事件
[7]私傷病休職者の職場配置 片山組事件
[8]産後休業等と賞与算定の際の出勤率 東朋学園事件
[9]長期年次有給休暇の指定と時季変更権 時事通信社事件
[10]整理解雇 あさひ保育園事件
[11]有期労働契約の雇止め 日立メディコ事件
[12]偽装請負と黙示の雇用契約の成否 パナソニックプラズマディスプレイ事件
[13]懲戒事由の追加 山口観光事件
[14]就業規則の周知義務 フジ興産事件
[15]就業規則による労働条件の不利益変更 みちのく銀行事件
[16]労働組合法上の使用者 朝日放送事件
[17]労働組合法上の労働者 中日放送管弦楽団事件
[18]組合併存下の中立保持義務 日産自動車事件
[19]労働協約の書面性要件 都南自動車教習所事件
[20]労働協約の規範的効力 朝日火災海上保険事件
[21]労働委員会による救済命令制度の意義 第二鳩タクシー事件

最後のあとがきで、宮里邦雄さんが、

>判例の評価や意義付けについて、期せずして(?)一致していることもあるが、労働側弁護士、使用者側弁護士の立場の違いが現れていることも少なくない。

と述べておられますが、その「期せずして(?)一致」しているようなしていないようなところを一つ紹介しておきましょう。

有期労働契約の雇い止めに関する日立メディコ事件について、宮里さんが労働側からの視点で、

>本判決は、・・・本校の希望退職者募集に先立って臨時員の雇い止めが行われてもやむを得ないとして、雇い止めを有効と判断した。  しかしながら、このような差異が有期労働契約の雇い止めについて当然に許容されるかはきわめて疑問である。

と述べたのに対し、高井さんがひと言で、

>均等待遇になると、雇用関係の解消の場面でも同様に「均等待遇」が取り入れられるから、パートタイマー等の非正規社員であるがゆえに容易に雇い止めできるという構図は否定されることはいうまでもない。  また、正社員の解雇についてもしかるべき理由があれば解雇できる方向に行かざるを得なくなるだろう。

と述べ、また高井さんが使用者側からの視点で、

>現在では、基幹的労働を担う非正規社員がきわめて多く、雇用の安全弁としての性格は希薄化しているから、本判決の論理は、こうした今日的な有期労働契約の労働者には、そのままは妥当しないであろう。彼らには「同一労働同一処遇」の要請が働く結果、当初から雇用期間を限定する趣旨の契約でない限り、業績悪化による雇い止めの合理性は容易には認められないという方向に向かうのではないだろうか。・・・正規か非正規かという雇用の身分にとらわれず仕事の能力・成果で判断することは、「同一労働同一処遇」の理念に基本的に合致する。・・・そのような現代的視点から見ると、本判決の結論は、今となっては、社会的な納得観および適正さの面で大いに疑問があるといわざるを得ない。

と述べるのに対して、宮里さんがひと言で、

>「同一労働同一処遇」の考え方が今後強まるであろうとの指摘、さらに、本判決の結論に疑問を呈し、近い将来、見直されることが予想されるとの指摘には賛同したい。

と賛同しています。

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「協同労働の協同組合法案」への反対論

労働運動関係の旬刊誌『RJ 労働情報』の最新号(790+791号)に、白鴎大学の樋口兼次さんという方が、「「協同労働の協同組合法(仮称)」(ワーコレ法)案に反対!偽装法人、ワーキングプアの温床の危惧「地域主権」で脅かされる労働者の権利」という、かなり厳しい批判を書かれています。

http://www.rodojoho.org/

批判点は3つあり、第1の「既存の企業組合でもできるではないか」、第2の「脱税組合が横行する」というのも重要な論点でしょうが、やはり労働関係者としては、第3の「新しい働き方が劣悪労働の温床に」という批判が、最も重要でしょう。

ここでは、わたくしの判断は交えずに、樋口さんの批判を引用しておきます。この批判が正鵠を得ているのか、的外れなのか、正々堂々と議論されることが望ましいと思います。

>第3の問題は、協同労働に従事する組合員の地位が曖昧なことである。新法は労災や失業保険などでは労働者として全面適用させることを要求するのであるが、一方で組合員は経営者でもあるので労組法や最低賃金は適用されず、劣悪な労働環境の温床となりかねない。・・・は、新法は雇用以下の労働条件で働く根拠法となりかねない、と懸念を表明し、同時に労協内部で「雇われ者根性の克服」と称して、労協労働者の経営者的側面を過大に強調していることを指摘して、効率経営への奉仕の強要が行われているようだと労協法へ危惧を表明している。・・・

>ワーコレグループが主張する「新しい働き方」は賃労働を克服する理想としてデザインされているが、今日の社会において十分に検討されているとは言えない。それがフィクションのまま現実化されれば、労働者の味方のはずのワーコレ・労協が働き手に対し労働者以下の劣悪な労働環境を強制して労働搾取してはばからない愚行を演じることになる。議員立法による不十分な検討でこのような法律が成立することに嘆かざるを得ない。

51nhwbjw3ml ちなみに、この樋口さんは『労働資本とワーカーズコレクティブ』という本も出されているこの分野の研究者で、いい加減な批判というわけではないように思われます。

http://www.amazon.co.jp/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B4-%E6%A8%8B%E5%8F%A3-%E5%85%BC%E6%AC%A1/dp/4788805014/ref=sr_1_3?ie=UTF8&s=books&qid=1272590846&sr=1-3

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久本憲夫『日本の社会政策』

84dbef4d108ef146416f22affbc0decd50b 久本憲夫先生の新著『日本の社会政策』(ナカニシヤ出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=646

>失業・非正規雇用・貧困問題から、年金・医療・介護・少子化まで、わが国の直面する社会問題と政策の現状を包括的に解説。社会問題を考える人必携の一冊。

久本先生とは、連合総研の労働者参加の研究会と請負労働の研究会でお世話になって以来、最近でも日本学術会議の大学と職業との接続検討分科会でも、また現在進行中の連合の公正・公平な処遇プロジェクトでもご一緒させていただいており、この間ずっと学ばせていただいております。

本書は、最近の「社会政策」と銘打った書物としては、かなり労働中心の構成になっています。

序 章 社会政策とは何か
     1 社会政策のテーマ
     2 本書の構成

第1章 雇用関係と労働ルール
     1 雇用関係とは何か
     2 労働市場論
     3 公正な労働市場と差別
     小括

第2章 日本的雇用システム
     1 基本要素
     2 雇用関係からみたコーポレイトガバナンス
     3 長期安定雇用システムとは何か
     4 歴史
     小括

第3章 雇用形態の多様化
     1 国際比較
     2 正規雇用の画一化と非正規雇用の多様化
     3 主たる生計のための労働と家計補助労働
     4 派遣労働
     5 請負労働
     6 独立自営業
     小括

第4章 雇用政策
     1 量的雇用政策
     2 雇用平等政策
     3 職業能力開発
     4 外国人労働政策
     小括

第5章 労働時間
     1 労働時間の状況
     2 最低(最長)基準が最高(最短)基準?
     3 残業
     4 その他の労働時間法制
     5 労働時間の現状
     6 年次有給休暇
     小括

第6章 主要国の労働時間
     1 労働協約中心のドイツ
     2 法律による一律規制のフランス
     3 ほとんど規制のないアメリカ・イギリス
     小括

第7章 賃金決定
     1 賃金支払い形態
     2 標準的賃金決定
     3 最低基準=最低賃金
     小括

第8章 企業内賃金決定
     1 春闘
     2 企業内賃金決定の意味
     3 生活賃金
     4 年功賃金と職能給
     5 成果主義化とは何か
     小括

第9章 社会保障
     1 社会保障の種類
     2 社会保障の実際の区分
     3 日本の社会保障の特徴
     4 格差と貧困
     5 福祉国家の類型
     小括

第10章 公的年金
     1 公的老齢年金の歩み
     2 現状――国民基礎年金を中心に
     3 受給年齢引き上げと定年延長
     4 公的年金の課題
     5 主要国との比較
     小括

第11章 医療と介護
     1 公的医療制度の歴史
     2 公的医療制度の種類
     3 わが国の公的医療保険の種類
     4 公的医療制度の負担と社会的公正
     5 介護保険
     小括

第12章 社会福祉と生活保護
     1 障害者の雇用と福祉
     2 一人親の雇用と福祉
     3 生活保護
     小括

第13章 少子化対策とワーク・ライフ・バランス
     1 少子化の現状
     2 家族政策・少子化対策
     3 働き方への対応――ワーク・ライフ・バランス
     小括

おわりに

1章から8章までが労働市場における労働力取引ルールについて、9章から12章までが社会保障・福祉システムを扱い、最後の13章が社会保障から再び働き方の問題に戻るという、円環的構成になっています。

その最後の章の最後の節(ワーク・ライフ・バランス)の最後の項が「多様な正社員の実現」と題されて、

>ワーク・ライフ・バランスは、非正社員をベースに考えられていない。非正社員的働き方とは、雇用の不安定性と職務の限定性を基準としている。夫婦とも非正社員という働き方では、「仕事」による収入の不安定性や水準の低さが通例だからである。

夫婦とも正社員であるとすれば、「職務の包括性」に何らかの制約を課すことが必要である。残業の拒否権・転勤の拒否権などの実体的付与が必要である。現状ではこうした働き方は「非正規雇用」でしか成り立たなくなっている。しかし、こうした拒否権なくして「仕事と生活の両立」は成り立たない。もちろん、こうした実体的な拒否権を従業員に認めるとすれば、賃金水準がある程度低くなるのはやむを得ない。そうした選択肢を作ることは、企業にとっても決して悪いことではない。

>・・・こうして考えると、雇用関係において必要なことは、、多様な正社員像の獲得であることが分かる。ワーク・ライフ・バランスを実現するには、「限定的な正社員」の獲得による夫婦対等の共稼ぎモデルの主流化が必要である。・・・

このあたりの問題意識を、わたくしなりに書いたのが、先日の「ジョブ型正社員の構想」であるわけですが、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo0225.html

現在、連合の公正・公平プロジェクトで議論されているのも、まさにこのあたりの問題であるわけです。

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「コミュニケーション能力」論の罪

0283560 さて、先日ご案内した岩波書店の「自由への問い」シリーズの第6巻『労働』ですが、冒頭の佐藤俊樹・広田照幸対談が大変面白いので、是非お読みになることをお勧めいたします。

ここでは、そのうち、「コミュニケーション能力」論の罪と題する一節から、

>佐藤 この空白恐怖は、貴戸さんが描き出した、働くこととコミュニケーションスキルや社交性がなぜこれほどきつく結びつけられてしまうのか、という現在の問題につながってきます。もし働くことが特定の職務に強く結びついていれば、「ここでちゃんと働いているのだから、あとは関係ないでしょう」といえる。働く内容も「今はここまで」みたいに分割できる。それに対して日本型のメンバーシップでは、働くことと具体的な内容が直接結びついていない。だから、周囲の人とうまくやるとか円滑にこなすと行ったことが、まっとうな働き方の大事な要素とされてしまう。それぞれの仕事で本当に必要とされる以上に、過剰にコミュニケーションの良さが要求される。

広田 確かに、今の流れは個人の中にコミュニケーション能力とか社交性とかを読み込み、そこから組織や社会への適応を見ていくというものですね。これは当人たちが求めるよりも先に、制度や市場の側から要請されていることだと思います。今のように市場中心の議論になればなるほど、ある種の「働ける能力」をあらかじめ個人ベースでつけておけ、社交性もきちんと身につけておけ、と。

佐藤 まさにそれが、この十数年間で日本が市場社会へ強引に転換を図った結果、起きたことの一つですね。貴戸さんも三井さんも書いていることですが、コミュニケーションは主体の間で成立する出来事です。だから、そもそも個体化できない。かつての日本型の社会でも、そのことはかなり自明に理解されていた。

ところが、最近は「コミュニケーション能力」という言葉が盛んに言われます。コミュニケーションは本来、特定の誰かに個体化できないからこそコミュニケーションなのですが、それをあたかも個体の性能として特定できるかのように語る。コミュニケーション能力というのはそういう言葉です。

その言葉に乗って、あたかもそういう能力が実在し、それで人が選別できるかのような話まで出てきた。実在しない点では幽霊や亡霊みたいなものですが、実在しないからこそ、いったん「ある」ことになれば、みんながその影におびえたり、身につける努力をしなければならなくなる。そういう意味で、「コミュニケーション能力」や「ハイパー・メリトクラシー」の議論は、根本的に誤っていたと今は思っています。ないものはないとして、扱うべきだった。

・・・・・・

>佐藤 コミュニケーション能力という、職務よりももっと扱いにくくて限定できないものを空想し、それを基準に使って、ワークの位置づけを正社員からギルドへ、強引に切り替えようとした。でもそんなやり方で放り出される方はたまったものじゃない。ギルドにすること自体は、一つのやり方ですが、その時には、職務という形できちんと限定をかけてやらないといけない。

広田 よけいなものは測らない、と。

佐藤 よけいなものは測らない。それがとても重要な点です。ところが現実には、コミュニケーション能力みたいな、測れもしないものを選抜基準にしてギルドにするという、という方向に突っ走った。これは、社会学にとっても、この十数年でやった手痛い失敗の一つです。

広田 どういうことですか。

佐藤 社会学もコミュニケーション能力をめぐる変な幻想を作った共犯ではあるよな、と。

かつての集団主義的カルチャーの中でのメンバーシップ型雇用は、決して初めから完成したコミュニケーション能力なんてものを要求したりはしなかったですね。昔の新入社員なんかろくに口の利き方もしらねえのか、と上司や先輩からぶん殴られながら会社のコードを学んでいったので、そういう意味では今日の「コミュニケーション能力」要求というのは、ジョブが確立しないまま、メンバーシップ雇用が煮詰まってしまい集団で「うまくやる」すべが個人の所与の能力に押しつけられてしまった姿なのかも知れません。

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集団的労使関係の再構築@『月刊労委労協』

全国労働委員会労働者側委員連絡協議会、略称労委労協の機関誌『月刊労委労協』4月号に、わたくしが去る2月7日に関東ブロック労委労協総会で行った講演の記録が載っております。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roirokyokouen.html

実をいいますと、この後の質疑応答がとても面白いのですが、紙数の関係等で全部削除されております。

わたくしの講演録の前には、野田進先生の「労働委員会制度の再編に向けて」という論文が載っていまして、労働組合法から切り離して労働委員会法を作れという大胆な提言をしておられます。

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障がい者制度改革推進会議総合福祉部会

昨日開かれた「障がい者制度改革推進会議総合福祉部会」の第1回の資料が厚労省HPにアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/2010/04/0427-1.html

○○委員提出意見書というのが、53個もずらりと並び、これを読んでいくだけで、障害者政策の課題が浮き彫りになります。

さらに委員提出参考資料も充実しており、これらを全部合わせると量質ともに新書1冊を優に超えるリファレンスになりますね。

正直、私も主として雇用の方からしか障害者を見ていなかったので、大変勉強になります。

ちなみに、昨日紹介した駒村編『最低所得保障』(岩波書店)でも、第4章で百瀬優さんが「障害のある人に最低所得保障を」を書かれています。障害基礎年金が老齢基礎年金との形式的整合性で低く抑えられ、障害者加算を含む生活保護水準よりも低いことが常態化していることが指摘されています。

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駒村康平編『最低所得保障』

0230310 駒村康平先生編の『最低所得保障』(岩波書店)を、生活経済政策研究所よりお送りいただきました。というのは、この本は、あとがきにあるように、生活経済政策研究所の共同研究プロジェクト「最低所得保障のあり方に関する研究会」の成果としてまとめられたものなのです。

http://www.iwanami.co.jp/shinkan/index.html

>貧困問題が深刻化する今,現状に即した所得保障制度の再考が喫緊の課題である.生活保護,児童扶養手当,老齢・障害・遺族基礎年金,最低賃金,雇用保険の失業手当,課税最低限を取り上げ,社会保険,公的扶助,社会手当,最低賃金,税制の組合せによって最低限の所得保障をおこなう制度全体の実態と,これからのあり方を検討・提言する.

ということで、次の目次のような広範な領域をカバーして最低限の所得保障のあり方を論じています。

序章 なぜ,最低所得保障なのか   駒村康平
 1 はじめに
 2 日本の所得保障制度
 3 最低所得保障制度への視座
 4 最低所得保障の国際比較
 5 本書の課題

第1章 最低生活保障実現に向けた生活保護   岩永理恵
 1 複雑化した生活保護
 2 生活保護のしくみと議論の焦点
 3 生活保護の展開
 4 これからの課題

第2章 高齢者の最低所得保障――国民年金と生活保護について   四方理人
 1 はじめに
 2 国民年金の給付水準と生活保護制度との整合性
 3 国民年金と生活保護の受給状況――最低所得保障の包括性について
 4 最低保障年金についての考察

第3章 母子世帯の最低所得保障   田宮遊子
 1 はじめに
 2 母子世帯を対象とした所得保障制度の概要
 3 制度の変遷
 4 児童扶養手当と遺族基礎年金の包括性
 5 母子世帯の直面する固有のリスクを支えるしくみ

第4章 障害のある人に最低所得保障を   百瀬 優
 1 はじめに
 2 障害者に対する所得保障制度
 3 障害年金と,ほかの制度との関連性
 4 障害年金の制度設計
 5 新たな所得保障の構築に向けて

第5章 雇用保険制度における包括性――非正規労働者のセーフティネット  金井 郁
 1 はじめに
 2 包括性からみた雇用保険制度
 3 失業時の最低所得保障の観点から

第6章 最低賃金と生活保護の整合性の再検討   四方理人,金井 郁
 1 はじめに
 2 最低賃金制度の成立と地域別最低賃金・目安制度の確立
 3 最低賃金と生活保護の比較
 4 最低賃金と生活保護の整合性に関する課題
 5 最低賃金と生活保護のあり方について

第7章 課税最低限と社会保障――その役割分担   田中聡一郎
 1 なぜ課税最低限か
 2 復興期・高度成長期――1950年代~70年代
 3 安定成長期――1970年代~80年代
 4 課税最低限をどう考えるか――1990年代~2000年代

第8章 最低生活保障の理念を問う――「残余」の視点から   冨江直子
 1 はじめに
 2 「残余」の制度
 3 生活保護への排除
 4 生活保護からの排除
 5 「最低」であることをめぐって
 6 最低生活保障の「包括性」をめぐって
 7 包摂の制度の構想

終章 最低所得保障制度の確立   駒村康平

補論 生活扶助基準における「世帯規模の経済性」の検討   渡辺久里子

 あとがき

最近『労働市場のセーフティネット』という政策レポートを上梓したばかりのわたくしとしては、金井郁さんの書かれた第5章「雇用保険制度における包括性――非正規労働者のセーフティネット」が、まさに問題意識がぴたりと一致する論文になっています。

http://www.jil.go.jp/institute/rodo/2010/007.htm

「臨時内職的」とみなされたパートタイム労働者が適用除外され続けたことについて、金井さんは特に80年代における高梨昌氏の

>好きな時間帯に働きたいというのが圧倒的多数ですから、果たして好きな時間帯に休んでいる人を失業者と認定できるのかできないのか、これも大変問題があります。

>パートの場合は、離職者を直ちに失業者とみなして給付を行うべきかどうか問題があります。これは派遣労働者の場合にも言えることで、登録型の派遣労働者の場合には派遣期間に9か月の上限が法律上設けられていますが、9ヶ月間被保険者であった後離職した者に失業給付を行うと、9か月働いて3か月給付を受け、また9か月働いて、というような雇用保険法の目的から外れた給付を受ける者が出てくることが十分に予想されます

のような議論を引用し、

>あくまで「家計補助的」であり、通常労働者と同じ「労働者性」「失業者性」を与えることには大きな反発があったと捉えられる。

と評価しています。

その他の章も、最近のわたくしの関心に対応するものが多く、大変興味深く読みました。

たとえば、第3章「母子世帯の最低所得保障」では、最後のこの言葉がまさにその通りですし、

>ただ、危惧されるのは、母子加算の復活をもって低所得母子世帯への給付の重点化が十分行われたと位置づけられることである。母子世帯の大多数が受給している児童扶養手当の拡充が図られなければ、母子世帯の生活水準の底上げは期待できないことは、この章の分析で示したとおりである。

あと、ベーシックインカムについては駒村先生が終章で触れていますが、わたくしが『日本の論点2010』で指摘した「血のナショナリズムを増幅させる危険性」について、第8章の富江直子さんが生活保護と他の社会保障制度の違いに関わって次のように述べていることが大変示唆的です。

>保険料の拠出に対する対価としての給付という意味を持つ社会保険制度は、その仕組みに内在するものとして法の適用対象が限定される論理をもっている。しかし、現に困窮していることだけを基準として給付される公的扶助は、その仕組みに内在的なものとして適用対象を限定する論理をもっていない。そのため、保護の責任を負う国家は、保護への権利を持つものが「無制限に」膨らまないための、いわば歯止めとして、国籍要件を必要とするのである。困窮する誰もが入りうる「最後のセーフティネット」であるがゆえに、”最後の砦”としての国籍要件を必要とするという、逆説的な排除の論理がここにある。

今日ただいま大騒ぎになっている外国人の養子への子ども手当をめぐる問題も、ある意味ではこの普遍的給付であるがゆえに「血」が問題になるという構造を示していると言えるでしょう。

『ベーシックインカム』でわたくしを手厳しく批判された齊藤拓さんがいう「BI論壇で」「真摯に追求されている」「グローバルジャスティス」が、この(次元が低いと斬って捨てたいかも知れませんが、政治力学的には極めて重要な)「血の論理」を(論壇ではなく政治のアリーナで)克服することができるのだろうか、というのが、まさにわたくしが提起した問題であったわけです。

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日本生産技能労務協会と連合の共同宣言

昨日、製造請負関係の団体である日本生産技能労務協会と連合の間で協議が行われ、「派遣・請負労働者の処遇改善と派遣・請負事業の適正・健全な運営の促進に向けた共同宣言」が確認、調印されました。

http://www.fairwork-rengo.jp/modules/rengo_news/?page=article&storyid=215

共同宣言はこれです。

http://www.fairwork-rengo.jp/images/news/100426sengen.pdf

連合HPの表面に出ていないのでわかりにくいですが、非正規センターの方にアップされています。

本ブログでも何回も繰り返してきたように、労働問題の解決はまず何よりも当事者である労使の間で協議を尽くし、双方が納得できる道を見いだしていくことにあります。三者構成原則をめぐっていろいろ議論がありますが、別に審議会が偉いわけではなくて、労使が対等の立場で議論して決めるということに意味があるのです。

派遣請負問題は、不幸なことに、そういう労使自治原則を否定するような議論(奥谷禮子氏が派遣業界代表として活躍していたのですからね)によって先導されてきたために、労働問題の本筋である労使間の協議がこれまで不在でした。

今回の共同宣言は、まだまだ出発点に過ぎませんし、連合というナショナルセンター自体は労働組合ではないので、今後はむしろ連合の旗の下に、関係する産別が直接関わって、より実体的な協議に進んでいくことを期待したいと思います。

共同宣言冒頭の共通認識のところを引用します。

>労働者派遣および請負労働を巡っては、この間、一部の事業主により、いわゆる偽装請負や禁止業務派遣などの関係法令違反、雇用管理や労働安全衛生の不備により労働災害の増加といった問題が発生した。さらに世界的な景気悪化による生産調整によって、多くの派遣労働者の雇用が失われ、生活に困窮する労働者も続出し、労働者派遣制度や社会的セーフティネットのあり方が厳しく問われることとなった。これらの問題を踏まえ、雇用保険法の改正をはじめとする社会的セーフティネットの拡充が実施され、労働者派遣法の改正法案についても国会で論議が進められている。

しかし、これまでに生じた問題を繰り返さず、派遣・請負労働者の雇用の安定や処遇の改善と、業界の適正かつ健全な運営をはかるためには、単にコンプライアンスの徹底を図るだけでなく、派遣・請負労働者の権利保護の充実やスキルアップのための環境整備、取り組みの社会的波及による悪質業者の排除など、派遣元・派遣先双方における不断の努力が求められる。

こうした見地から、技能協と連合は率直に議論を重ね、各々の立場の違いを尊重しつつ、両者が取り組むべき課題を以下の通り確認した。今後、それぞれの傘下組織においてその実行をめざすとともに、社会的な波及をはかっていく。

技能協と連合は、今回の協議を契機として今後も適宜協議を行い、派遣・請負労働者が雇用と生活に不安を抱えることのないよう、その環境整備に向けて取り組んでいくこととする。

もう少し前の段階からこういうことを労使協同で言えていたならば、今のような事態にはならなかったのかも知れません。

共同宣言のポイントは以下の通りです。

■技能協の取り組み
・加盟各社における労働関係法令等の遵守徹底(研修会の定期実施等)
・加盟各社における派遣先での就業が終了する際の雇用機会確保努力
・職種、経験に応じた昇給・昇格制度に向けた検討

■連合(派遣先労働組合等)の取り組み
・派遣労働者の受け入れ時における、法令遵守や社会・労働保険適用に関する労使協議の実施
・派遣料金の点検活動(法定最低賃金を下回らない賃金、社会・労働保険料、通勤費等の担保に向けて)
・職場での就業条件などの点検と、改善に向けた労使協議の実施、派遣先での福利厚生施設利用促進や健康診断の代行等

■共同の取り組み
・悪質な事業者を排除する観点からの派遣事業への参入要件・罰則強化の検討
・派遣・請負労働者のキャリア形成促進、福利厚生向上に向けた諸施策の検討
・派遣労働者と派遣先労働者の均等・均衡処遇を推進する上での政策課題の検討
・法令遵守に取り組む事業主が競争で劣後しないための、公正な取引環境のあり方の検討

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若者の就業への移行支援と我が国の社会的企業

こちらは、労働政策研究・研修機構を代表するベテラン研究員にして、ここ10年間の日本の若者対策を理論的にリードしてきた小杉礼子さんらによる資料シリーズ「若者の就業への移行支援と我が国の社会的企業」です。

http://www.jil.go.jp/institute/chosa/2010/10-068.htm

http://www.jil.go.jp/institute/chosa/2010/documents/068.pdf

若者就業支援を行なうNPOやワーカーズ・コレクティブ、ワーカーズ・コープなど「社会的企業」17団体へのヒアリング結果をまとめたものですが、若者支援という観点からも興味深いのはもちろんですが、労働者協同組合について正面から研究したものとしても注目に値します。

なんといっても、もうすぐ議員立法で「協同労働の協同組合法案」が提出されるという話もあり、どういうことをやっているのかという意味でも、読まれる値打ちはありましょう。

ヒアリング対象を目次からコピペすると、

1.ワーカーズ・コレクティブ編
(1)ワーカーズ・コレクティブ協会 ..................................................... 67
(2)企業組合ワーコレ・キャリー ........................................................ 70
(3)企業組合ワーカーズ・コレクティブ つどい ........................... 72
(4)ワーカーズ・コレクティブ 風車 .................................................... 75
(5)ワーカーズ・コレクティブ 轍グループ協議会 ...................... 78
2.ワーカーズコープ編
(6)日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合会/労協センター事業団 .. 82
(7)栗東事業所 ふくろうの家 .............................................................. 86
(8)FUSSA 地域福祉事業所 ............................................................... 90
(9)芝山地域福祉事業所(労協若者自立塾) ............................ 93
(10)自立支援センター まめの樹 ....................................................... 96
3.その他
(11)フレッシュステップ関西 ............................................................. 101
(12)きょうとNPO センター .................................................................104
(13)一般財団法人 地域公共人材開発機構 .........................107
(14)京都オレンジの会 ........................................................................111
(15)京都府府民生活部府民力推進課 ......................................115
(16)財団法人 京都市ユースサービス協会 .............................119
(17) 株式会社 パソナグループ仕事大学校 ............................123

となっています。

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契約社員の職域と正社員化の実態

労働政策研究・研修機構の新人研究員(といっても、研究者としてのキャリアは既にかなりありますが)の高橋康二さんのディスカッションペーパー「契約社員の職域と正社員化の実態」がアップされています。

http://www.jil.go.jp/institute/discussion/2010/10-03.htm

本文は

http://www.jil.go.jp/institute/discussion/2010/documents/DP10-03.pdf

>本稿では、日本企業においてにおいて契約社員が活用されている職域を、「職務の基幹性」と「職務の専門性」を軸として類型化するとともに、その類型によって企業内での正社員化の実態がどう異なるのかを、企業ヒアリング調査に基づいて明らかにした。

ものですが、運輸A社、卸売B社、ホテルC社、百貨店D社、情報通信E社、書店F社、の6社9職種への綿密なヒアリングによって、

>1 一般的・同水準型の職域で契約社員を活用する場合は、労使双方にとり不都合な事態がもたらされやすく、結果として希望者全員の正社員転換を迫られることになりやすい。

2 一般的・低水準型の職域の場合は、正社員の内部労働市場と同じではないが、それと接続しうる職域であることから、希望者に対して選抜を施した上で正社員に登用するケースが多く、それゆえ選抜の合理性が問われることになる。

3 専門的・同水準型の職域の場合は、外部労働市場と連続している職域であることから、正社員登用を希望する者が相対的に少ないという特徴がある。

4 他方、それらとは別に、試行雇用を目的として、一般的・部分同水準型の職域で契約社員制度を効果的に活用しているケースもある。

という事実を見いだしています。これを図にすると、

1003

となります。

最後に政策的含意として

>契約社員の正社員化という課題をめぐり労使が直面している状況は、契約社員がどのような職域で活用されているかによって異なる。政策的対応を講じる際にも、契約社員の職域の多様性に配慮する必要があると考えられる。

と述べています。

今日的課題に対応した優れた研究だと思われますので、関心のある向きはぜひリンク先をじっくりお読み下さい。

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使用者責任の性質

京都の塾講師の教え子殺人事件の民事損害賠償訴訟の地裁判決が最高裁のHPにアップされました。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100423104043.pdf

平成22年03月16日京都地方裁判所判決

>学習塾の教室内で,アスペルガー障害と幻覚妄想等の精神病様症状の影響により心神耗弱の状態にあった塾講師により,計画的に殺害された12歳の小学生の両親が,塾講師の使用者であった被告会社に損害賠償を求めた事件において,故意による犯罪行為を犯した塾講師の責任と,塾講師の選任・監督の過失に根拠がある被告会社の責任とは,別途に算定されるべきであるとの被告会社の主張を排斥して,使用者責任が代位責任であることを根拠に,塾講師と同額の責任が認められた事例。

原告の主張、被告の主張、裁判所の判断はそれぞれ次の通りです。

>原告らの主張

本件事件は,被告の経営する本件塾の教室内において,講師と生徒という関係の下で行われたものであるから,被告は使用者責任を負う。また,被告は,Jを漫然と雇用して小学生の指導担当とした上,JのCに対する異常な対応等があったにもかかわらずJの犯罪歴やアスペルガー障害について調査しないなど,本件を未然に防止できる機会を逸したのであり,単なる使用者責任にとどまらず,被告自身の過失責任も重大である。

>被告の主張

被告は,被告に法的責任があることについては争わない。ただし,被告が事前にJの殺害計画に気付くのは困難であったから,本件事件を未然に阻止できなくても,被告の責任が重大であったとはいえない。
被告は,被用者の過失による不法行為につき,使用者が被用者と同等の責任を負う場合があることを否定するものではないが,本件事件は,被用者の故意行為によるものであるという特殊性があるから,使用者の責任を考えるに当たっては,故意による犯罪行為を侵したJ(被用者)と,被用者に対する選任・監督を怠ったという過失に責任の根拠がある被告(使用者)では,その責任の根拠が異なること,被告においては,Cの死亡の結果までは予見可能性があるとしても,Jによる残忍悪質な行為までは予見不可能であることといった点を考慮する必要があり,行為態様の悪質性を殊更に強調して慰謝料を増額することは,予見可能性・法的安定性を害するものである。

>当裁判所の判断

なお,被告は,被用者の故意行為により使用者責任が生じる場合には,使用者が負うべき損害賠償額は,被用者と使用者の責任原因の違いや,使用者の予見可能性が限られることを考慮して別途算定されるべきであると主張するが,使用者責任の性質は,被用者の選任・監督につき帰責性のないことを免責事由とする代位責任と解することが相当であり,使用者は,被用者が負うべき損害賠償額と同額の責任を負うことはやむを得ないというべきであるから,被告の主張は採用できない。

12歳で殺された堀本紗也乃さんのご両親のお気持ちとしては、大変よく理解できるのですが、下手に精神障害者を雇ってしまったら、とんでもない責任を負わされるかも知れないというメッセージを企業側に与えることになるとすると、これは一方で精神障害者の雇用機会をますます狭めてしまうことになるとも言え、なかなか難しいところです。

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消費者が「いただく」のか、提供者が「させていただく」のか

黒川滋さんの心に残る一節、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/04/424-cb53.html(霞ヶ関の残業批判がネタ化)

>言うまでもないが、残業が増えるのは仕事をつくる側の責任である。
生活クラブ的な言い方になるが、生産者の都合も考えないで、「便利」に飛びつけば、夜間や残業で仕事をこなす人は増える一方である。アスクルとか、アマゾンのプライムサービスとか、きょうのあすみたいな仕事を減らさなくては、残業なんか減らない。このサービスを受ける、この物を手に入れるのに、背後にどんな人たちが動いているのか、考える洞察力がなければならない。
この私が珍しく保守的なこというが、かつてサービスを受ける側が「いただく」という言葉を使うはそういう洞察力を働かす言葉であったはず。しかし、今のようにサービスをする側がへりくだって「させていただく」というようになったとたんに、単なる需要と供給の力関係のサバサバした関係だけになり、物・サービスの購入と、労働が結びついているなんて面倒なこと考えなくて良くなっている。

>冗談的に使うならいいが、本気で使っている「させていただく」という言葉が好きにならない。言葉多くて軽薄、助平な印象。ぴりっと「します」「いたします」でなぜダメなんだろうか。

つまり、それが「消費者独裁国家」ということなんでしょう。同じ人間が、消費者のペルソナをかぶったとたんに万能の主権者、絶対の独裁者として権力を振るい尽くし、サービス提供者のペルソナをかぶったとたんに身は鴻毛よりも軽きやつこはしためのたぐいとなる。

自分自身自分の職場ではサービス提供者でありながら、消費者として王様になれる快楽ばかりを追求することによって、みんなお互いにお互いをサディスティックに、あるいはマゾヒスティックに叩き合っているようなもの。

サービス提供者が「させていただ」かなければならない社会をますます昂進させておいて、多くの者がサービス提供者として働かなければならない社会が良くなるはずもないのだが・・・。

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オビの台詞は岩波の編集者です

「miracleradio」さんのつぶやきで、拙著『新しい労働社会』について、

http://twitter.com/miracleradio/status/12613327600

>濱口桂一郎「新しい労働社会」(岩波新書)は、労働とか格差・貧困などに関心がある人は是非読んで欲しい本です。全部読むのがつらい人は序章と第一章だけでも読んでみて

http://twitter.com/miracleradio/status/12613490033

>極論というか感情論になりがちな(自戒を込めて)この手の議論ですが、そういったことに走るのではなく、しっかり地に足のついた現実的な議論を展開。まず、この本からスタートしてみては、という感じです。濱口「新しい労働社会」。

http://twitter.com/miracleradio/status/12613616762

>本のオビ「問われているのは民主主義の本分だ」ははじめ「何かな?」と唐突な感がしましたが、全部読んでみると「なるほど」と思います

と評価していただいています。ありがたいことです。

ただですね、例のオビの台詞「問われているのは民主主義の本分だ」というのは、わたくしじゃなくて、岩波書店の編集者が考えついたものです。わたしにはあそこまでケレン味たっぷりな言い方はさすがに出てきません(笑)。私は人様に「民主主義の本分」を説教するほどの人格かね・・・と、正直、出版されたときは、いささか居心地わるい気持ちもあったりしましたが。

でも、「なるほど」と思われているのですから、やっぱり新書のオビの台詞としては絶妙だったんでしょうね。

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拙著批判のつぶやきの続き

先日の

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-6beb.html(拙著批判のつぶやき)

以後、「togawa takundo」さんが、さらにわたくしの議論に対してつぶやき続けておられます。

http://twitter.com/togatogaunion

一点、事実認識というよりも概念の問題なのですが、

http://twitter.com/togatogaunion/status/12717840440

>そもそも地域合同労組、general unionが外国では主流だと聞いています。濱口桂一郎さんのご専門のEUもそうでしょう。

ヨーロッパの主流は産業別労組です。産業別でないゼネラルユニオンが主流ではありません。

日本にも産業別労組がありますが、基本的に企業別組合の連合体に過ぎないのに対して、ヨーロッパでは産業別組合がまずあって、企業レベルにあるのはその支部であったり従業員代表組織であったりしますが、いずれにしても交渉の主体は産業別組織です。

日本の地域合同労組というのは歴史的になかなか複雑なのですが、もともとはそういうヨーロッパ型の産別主体の労働運動を理念型に進められたと理解しています。つまり、中小企業の組織化を進めるために、ナショナルセンターが人と金を負担しつつ、地域レベルでオルグしていって、組織化を進めていったのでしょう。

その際、組織化を進めるためには、企業の中のいろいろな紛争を摘出して、それを解決していくというやり方が有効だったのでしょうが、あくまでも個別の紛争を解決すること自体を目的とするものではなかったと思います。それを契機に中小企業に恒常的な労働組合を結成し、恒常的に団体交渉をやっていく仕組みを作ることが目的であったはずです。

これに対して、拙著で取り上げた紛争解決型のコミュニティユニオンは、そういう組織化の橋頭堡を作るという考え方ではなく、個別紛争の解決それ自体が目的なので、個々の労働者にとっては問題が解決したらそれでさようなら、というケースがほとんどです。わたくしが労働組合法との関係でどうなんだろうかといっているのは、そこのところなのですが、とはいえ、それが有効に機能していることも確かなので、慎重に考える必要があるわけですが。

http://twitter.com/togatogaunion/status/12716195883

>濱口さんの議論からは我々のような「非正規労働者に限りなく近い正社員(派遣元に雇用されている常用型派遣労働者)」がこぼれおちてしまうのではないか。しかし派遣法が改正され常用雇用しか許されなくなると、我々の問題が大きく取り上げられることになるのではないかと思う。

「こぼれおちる」のではなく、むしろ派遣業界レベルで派遣労働者を(強制的に?)組織化し、産業別労組としての派遣労働者組合が派遣業界ときちんと団体交渉していく仕組みを作り上げていく必要があるという議論になるのではないかと思います。

わたくしは基本的に現実から出発するリアリストなので、現に企業別組合で物事が動いているのをむりやりに産別中心にしていくといっても無理だろうと思うわけですが、派遣の世界はまともに企業別組合もない世界ですから、はじめから産業別主体の労使関係を構築していく可能性も高いようにも考えています。ただ、それを本気で進めるためには、ナショナルセンターが相当のてこ入れをする必要があるでしょうが。

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『自由への問い6 労働』

0283560 本ブログで何回か予告してきた、岩波書店のシリーズ『自由への問い』第6巻『労働 働くことの自由と制度』が、いよいよ来週、4月27日に発売となります。

労働と自由は,それぞれ近代以降の社会を支える最も基幹的なしくみだが,二つをどう接続するかは曖昧にされてきた.日本では正社員体制が解体し,両者の関係はいっそう見通しにくくなっている.私たちの生活に大きく影響する,働くことと自由の複雑なからまりあいを,制度のあり方と労働現場の姿の両面から照らし出す.

【対論】
 働くことの自由と制度 佐藤俊樹・広田照幸

I 【考察】「働くこと」の二極化と自由
 現代の<労働・仕事・活動>――ハンナ・アレントの余白から 佐藤俊樹
 戦後日本における「会社からの自由」の両義性――「自由放任主義」「新自由主義」との相違を中心に 高原基彰
 正社員体制の制度論 濱口桂一郎

II 【問題状況】観念と制度の歴史的形成
 仕事と価値と運動と――1820年代におけるもう一つの抽象的労働 宇城輝人
 労働における自由とジェンダー――性秩序の新しい構想のために 金野美奈子
 就職空間の成立 福井康貴

III 【構想】現代的な「働くこと」の現場から
 コンビニエンスストアの自律と管理 居郷至伸
 ケア労働の組織――今後のあり方を考える 三井さよ
 学校に行かない子ども・働かない若者には「社会性」がないのか 貴戸理恵

まずはなにより、冒頭の佐藤俊樹・広田照幸対談をお読み下さい。「コミュニケーション能力」なる概念の「罪」が語られるなど、この対談だけで、一冊分の値打ちがあります。

それから、わたくしの正社員体制論と、高原基彰さんの戦後体制論は、この対談の言い方を借りれば、いわば同じ問題を対照的に扱っている様なところがありまして、ぜひセットで読まれることをお勧めします。

細かい話は、また発売後に、ということで。

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柴田徹平さんの拙著書評@『労働総研クォータリー』

労働運動総合研究所の機関誌『労働総研クォータリー』の78号に、わたくしの『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』(岩波新書)の書評が載っています。評者の柴田徹平さんは、中央大学の大学院生とのことです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/20100423141608908.pdf

この書評は3ページに及び、拙著の内容をかなり詳しく紹介していただいています。ありがたいことです。その最後に次のような批判的コメントが書かれています。それぞれに若干のコメントをしておきたいと思います。

>(1)著者の「労働組合の志向性」に対する希薄さに違和感を覚えた。・・・少なくとも以上のようにまったく志向の異なる労組があるとすれば、著者は企業別組合をベースに全労働者が加入できる再編と言うが、労働組合の志向性を抜きに組織論を考えることには疑問が残る。

ここで柴田さんが言われる「志向性」というのは、戦後長いこと組合運動で対立してきた様々な政治的潮流が念頭にあるのだと思うのですが、わたしはそういう政治的「労労対立」よりも、正社員組合に安住するのか、非正規も含めた職場の連帯を志向するのかという「志向性」の方が重要だと考えています。ただ、戦略論的に、正社員組合に安住しているのを断罪するよりも、非正規を含めた組織化を褒めていく方がいいと思っていますので、厳しさがないと受け取られるかも知れません。

>(2) 著者は個別的労使関係には個別的労使関係の法的枠組みを作るべきと主張するが、個別紛争の主体を労働組合員として組織していくという実態があり、・・・安易に法制度を変えるべきではない。

ここは、執筆時からそういうご批判をいただくことを予想していた点ですので、予想通りといえば予想通りです。本書にも書いたように、わたくしはそうしたコミュニティユニオンが寄る辺ない労働者の権利擁護のために大きく役立っていることを否定しているわけではありません。ただ、紛争解決機能としては有効であるとしても、紛争が終わった後もずっと組合員として活動し続けているというわけではないという実情からすると、それが「組織化」になっているということではないように思われます。この辺は、まさに拙著でも述べたように、「やり方によってはせっかく確立してきた純粋民間ベースの個別紛争処理システムに致命的な打撃を与えかねないだけに、慎重な対応が求められる」のですが、実態が労働NGOであるものは労働NGOとして生かしていく方がいいのではないか、そして、本来の労働組合はやはり職場の中から組織化していくのが本筋ではないかと思うわけです。納得はいただけないでしょうが。

>(3)著者は、今後職務給に日本の賃金制度が大きく舵を取っていくなら、年功賃金制度の生活給部分を公的に負担していく仕組みが不可欠になると言う。この点は認めるにしても、この公的負担の制度設計をする際、非正規の低賃金労働者への経済的負担を十分に考慮すべきであろう。例えばこの公的負担の財源確保のために消費税増税をするならそれは同意できない。生活給部分の公的負担化財源を消費税増税ではなく、大企業・資産家に対する増税によって実現すべきである。この点について、具体的に記していないことに違和感を覚える。

本書は税制自体を取り扱った本ではありませんし、「違和感を覚え」られても・・・というところですが、ヨーロッパ諸国の税制を見ても、消費税率はもっと高くてもおかしくないと考えています。資産課税の強化は賛成ですが、大企業増税論は疑問です。これはいわゆる「内部留保に課税を」という議論なのでしょうが、内部留保とは前に本ブログで書いたように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-84cf.html(賃金と配当と内部留保のこれ以上ない簡単な整理)

>賃金と内部留保、配当と内部留保の関係というのは、短期的にすぐに労働ないし資本に賃金ないし配当として渡してしまうか、それともとりあえず企業の中にとっておいて、さらなる生産活動を通じてより膨らませてから、賃金なり配当として配分するかという、短期対長期の問題

なので、賃金や配当として配分された先でどういう風に課税すべきかという形で論ずるべきでしょう。その際には労働課税よりも資産課税にシフトする方がいいと思いますが、総体的な負担増を賄う中心は消費税になるように思います。ちなみに、企業には非正規労働者の社会保険料をきちんと負担してもらうことの方がはるかに重要な課題ではないかと思っています。

(4)の労働時間の物理的規制のところについては「大いに賛同」していただいています。

最後に、

>細部にわたり検討を行えば違和感を覚えるところがあるものの、本書は混迷する現在の雇用政策に光を当てた問題提起の書である。

と評価していただいていることに、心より感謝申し上げたいと思います。

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石井・兵頭・鬼丸編著『現代労働問題分析』

Bpbookcoverimage 石井まこと・兵頭淳史・鬼丸朋子3氏の編著による『現代労働問題分析-労働社会の未来を拓くために』(法律文化社)をお送りいただきました。有り難うございます。この本の編者のうち、兵頭さんと鬼丸さんは、昨日紹介した『新自由主義と労働』でも論文を書かれていますし、さらに鷲谷徹さんと高橋祐吉さんも両方に執筆しています。その意味ではこの両書はかなり人的に重なるようです。

「はじめに」によると、

>今回集まった執筆陣は、編者の兵頭・鬼丸を中心にした関東社労研(巻頭社会労働問題研究会)のメンバーに九大時代の下山房雄ゼミの参加者や下山さんの旧友を加えた、日本の労働社会の改革について、忌憚なく議論できる仲間たち

だそうです。

本書の目的は、

>現代の若者が新自由主義経済の論理を是とするなかにあることを意識して、各人の教育経験を活かして、大学生が誤りがちな労働問題に関する「常識」の非常識を正すこと

にあるということで、

第1部 賃金・労働時間問題(賃金・労働時間問題の争点―いかに働き、稼ぎ、暮らすか;年功賃金を考える;労働組合と賃金―春闘とは何か ほか);
第2部 雇用問題(雇用問題の争点―雇用流動化政策批判;日本的雇用の変化と仕事・働き方;企業社会の変容と女性の働きにくさ ほか);
第3部 労働組合・労使関係問題(労働組合・労使関係問題の争点―労働組合の活路を拓くために;日本における新しい労働運動―非正規・個人加盟労働運動を中心に;労働の人間化と労使関係 ほか);
特別寄稿 「日本的低賃金」論の系譜

といった内容からなっています。

まさにテキストブックなので、記述を引くよりも執筆者紹介の中の「労働社会の未来を拓くためのメッセージ」というのをいくつか紹介しておきましょう。

まず編者の鬼丸朋子さん:

>日本で働く上で、知っておくべきことがたくさんあります。この本がみなさんの知見を広げる上で少しでも役立つことを祈っています

鹿島秀晃さん:

>消費の裏には必ず労働が潜んでいます。ものづくりやサービスを支える働き手を連想すれば、労働社会のあるべき姿が見えてきます

編者の兵頭淳史さん:

>「合理性」への懐疑、「連帯」の再認識、「歴史」との真摯な対話。労働社会の未来を拓く鍵はこんなところにあるのではないでしょうか

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山垣真浩「解雇規制の必要性」

昨日ちょっと言及した山垣真浩さんの「解雇規制の必要性-Authority Relationの見地から」は、世の経済学者の圧倒的大部分が整理解雇を念頭において解雇規制が失業を増やすという議論ばかりをやっているのに対し、労働契約が不完備契約であること、それも、よく言われるような企業特殊熟練が形成されるから云々という議論ではなく、別に企業特殊熟練があろうがなかろうが、労働契約それ自体の性質から、指揮命令型不完備契約にならざるを得ず、まさにこの雇用関係の下の労働者には諾否の自由がないということから、「俺の命令に服従しなければクビだ」という解雇の脅しが、労働者に不利な条件での労働を甘受させることになるがゆえに、解雇権が制限されなければならないことを説得的に論じています。

これに対して、経済学者は必ず「exit」を強調しますが、これに対して山垣さんは

>第二の反論として、労働市場における企業間競争を強調して、不合理な命令や短絡的な解雇をする企業は評判を下げて優秀な人材を失いやがて企業間競争によって淘汰されてしまうはずだから、解雇規制という司法的介入は不要である、という非現実的な主張をする人がいるかも知れないが、そう主張する人は、そういう企業が労働市場で淘汰されるまで一体何年かかるのか具体的に示してもらいたい。しかもこの議論は理論的に見てもおかしい。企業は労働市場だけでなく、商品・サービス市場においても競争している。商品・サービス市場における激しい競争は、現代の日本を一瞥すれば分かるように、労働条件を切り下げる圧力として働く。だから労働市場における企業間競争の存在は、解雇規制を否定する論拠には全然なりそうもない。企業間競争による機会主義的行動の抑止効果を期待するよりも、むしろ企業内部のvoiceによる抑止策(産業民主主義政策)を図る方がずっと望ましい選択ではないだろうか。そのためには解雇権が規制されなければならない。

と述べます。これはまさにわたくしが繰り返してきたことを、組織経済学の用語で見事に説明しているように思われます。(注参照)

なお、この論文では、マーチとサイモン、コース、ウィリアムソンなどの組織経済学を駆使して、使用者と労働者の効用関数がどうこうとかいろいろと議論を展開していますが、そこをわたくしが解説する能力もないので、興味を惹かれた方はこの本を読んでください。

「おわりに」の次の文章は、解雇規制にとどまらず、およそ労働規制なるものがなにゆえに必要であるのかを、きわめて端的に解説した名文だと思いますので、引用しておきます。こういう基礎的な認識が欠落した人が労働問題を論ずるのは困ったことです。

>雇用関係が不完備契約であるのは、企業特殊熟練の形成をめぐる問題よりむしろ本質的なことは雇用関係がauthority relationつまり指揮命令関係だということである。不完備契約問題としては、こちらの方がより本質的なテーマである。指揮命令関係では過度な「労働の従属性」を招く恐れがあるので、使用者が命令できる範囲の制限が必要である。もし命令権に対する私有権が明確化できて、労使間で自由に取引できる状況が想定できるならば、指揮命令関係という不完備契約の下でもコースの定理が成立し、当事者のみで効率的な労働契約が設計できるので、労働者保護法は不要である。しかしこのファーストベストの契約は非現実的である。すなわち当事者だけで使用者の命令権の範囲を効率的に定めることはできない。かくて法律による労働契約に対する規制の余地が出てくる。使用者に対する労働時間の管理義務や労災防止義務は、その例であるが、解雇権の規制も同様の意義がある。つまり解雇権は制裁手段つまり使用者の命令権を強化する装置となるので、「労働の従属性」を防止するためには一定の規制が必要となる。それは労働者の「生産性」「仕事能力」の不足とか人事評価を基準とする解雇を規制するという内容でなければならない。なぜなら指揮命令関係の下では、労働者の「生産性」「仕事能力」は技能水準と服従性という2つの異質な要素からなっているので、労働者の過度な従属(労働者の厚生の悪化)を防止するためには、使用者が評価するところの「生産性」基準による解雇を制限する必要があるからである。この見方は、現実の解雇紛争が使用者の権威(Authority)に背いたか否かという問題でよく起きている事実と整合的である。

これはもう、全くその通りです。わたくしがもうすぐまとめる労働局あっせん事案の内容分析でも、まさに「云うことを聞かない」からクビというのが大変多いのですね。

労働において「指揮命令関係」が有する枢要的性格が、経済学者の議論では欠落しているという点に、解雇規制がわけの分からない迷路にさ迷い込む最大の理由があるのでしょう。指揮命令関係がなければ、それは労働契約ではなくある種の請負契約と変わらないわけです。経済学者が雇用関係をプリンシパル・エージェント関係で捉えるとき、請負的プリンシパル・エージェント関係と一体区別が付いているのかどうか。もしついていないとすれば、経済学者に必要なのはまずは民法契約編の基本的知識なのかもしれません。

(追記)(注)

上記注に関連して、常夏島日記ブログで、こういう記述がありましたので、ご参考まで。

http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20100419/p1(ブラック企業がなくなるために必要なこと)

>ブラック企業の商品・サービスを買わないということです。が、難しいでしょう。ブラック企業の商品・サービス、安いんだもの。私は個人的にモンテローザが経営しているお店はできるだけ回避していますし、牛丼チェーンやハンバーガーチェーンやファミレスには積極的には行かないようにしていますが、会社とかの飲み会の幹事はモンテローザグループのお店が大好きです。そこにしとけば「高い」って文句言われることはないから。

当該エントリはそのほかにも興味深い指摘がいっぱいです。

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拙著批判のつぶやき

twitter上での拙著批判。

http://twitter.com/togatogaunion/status/12585122870

>特に中小は派遣元も派遣先も労働組合がないことが多く。どこに訴えたらよいかわからない状態。濱口桂一郎氏の『新しい労働社会』に納得がいかないのはそこで企業内組合さえない会社に派遣される労働者はどうすればいいのか。良い本だけど恵まれた人の議論だと言わざるを得ないです。

これは、事実認識としてはまさにその通り。

だからこそ、

>法的にはさまざまな無理があるにしても、現在の企業別組合をベースに正社員も非正規労働者もすべての労働者が加入する代表組織を構築していくことが唯一の可能性であるように思われます。実は、戦後日本の企業別組合の前身は戦時中の産業報国会であり、戦前は身分が隔絶していたホワイトカラー職員とブルーカラー工員を包括する労働者代表組織として上から強制的に作られたという歴史を持っています。その意味では、正社員と非正規労働者を包括する新たな労働者代表組織の基盤として企業別組合こそふさわしいということができるかも知れません。(p187)

と、労働組合の強制設立、強制加入に近いことまであえて言ったつもりなのですが。

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大原社会問題研究所編『新自由主義と労働』

9784275008817_2 法政大学大原社会問題研究所・鈴木玲編『新自由主義と労働』(お茶の水書房)をお送りいただきました。心よりお礼を申し上げます。

ただ、お礼を申し上げるのと、中身を批判的に論ずることとは何ら矛盾するものではありません。以下、少々厳しい言葉で批判させていただくところもありますが、それは感謝の気持ちゆえであるとご理解いただければと存じます。

取り上げるのは主として冒頭の兵頭淳史さんの「日本における新自由主義の起点に関する考察」です。

兵頭さんは、渡辺治氏の日本における新自由主義は1993年のバブル崩壊後の細川政権期に開始され、小泉政権下で本格化したという議論を批判し、むしろ70年代半ばの不況下の総需要抑制政策が新自由主義の出発点であると主張します。

>このように日本の新自由主義への移行は、70年代中葉に起点を持ち、80年代に本格化したという点で、新自由主義の世界的な展開の先駆と位置づけるべきなのであり、日本はむしろ新自由主義改革をいち早く経たことによって、80年代におけるつかの間の「成功」を収めた国と見るべきであろう。

この言い方は、70年代中葉に始まり、80年代に最盛期を迎え、90年代半ばに取って代わられていったあるレジームを「新自由主義」と定義するというのであれば、それはそれで間違いではありませんが、それではそのレジームを否定する形で90年代に登場し、2000年代に最盛期を迎えたレジームをなんと呼ぶのか、それを全く同じ「新自由主義」と呼んでしまうと、90年代の転換というのは存在しなかったということになるのか、という疑問が当然湧いてきます。そこのところが、実は必ずしも明確ではないように思われます。もし、両者は同じ「新自由主義」であって、70年代半ばから今に至るまで日本はずっと新自由主義だったんだと主張するということであれば、それは明確に間違いであると思います。

確かに80年代の中曽根首相は、レーガン大統領やサッチャー首相と「福祉国家はダメだよねえ」で意見が一致したかも知れませんが、それは国家のリーダーはそこだけいえばいいからで、社会のありようとしてはその叙述の前提となる条件節を補って言わなければなりません。

確かに兵頭さんの指摘するように、70年代初頭は日本でも福祉国家への道が強く論じられました。政府の各種政策文書でも、福祉国家(「日本型」なんかじゃなく、正真正銘のヨーロッパ型)をめざすという議論が盛んでした。それが、オイルショック後の激動をくぐり抜けてみると、「福祉国家はダメだ。英国病を見ろ。あんなになっていいのか」という議論が大変盛んにされるようになっていました。そこだけみれば新自由主義が先駆的に始まったように見えるかも知れません。しかし、このときの日本における福祉国家否定論の構造はこういうものでした

>会社が福祉をやるんだから、国が福祉をやる必要はない

より正確には「会社がその正社員とその家族に福祉をやるんだから、国が屋上屋を架して福祉をやる必要はない」ということになるでしょうが、これは条件節があってはじめて帰結節が意味をなすのであって、当時英米で力を持ち始めていた「会社が福祉をやるはずもないし、国が福祉をやる必要もない」という筋金入りの新自由主義とは別ものと理解すべきでしょう。

帰結節が同じだから、条件節を無視して同じ新自由主義であると言っていいわけではないとおもわれます。実際、70年代後半から80年代にかけて流行したのは、日本的経営がいかに優れているかという山のような議論であって、そのほとんどは今ではどこに行ったのか目にすることもなくなっていますが、そのこと自体がレジーム転換を語っているわけです。

渡辺治氏が90年代初頭を新自由主義の始まりと考えるのは、この「会社が福祉をやるんだから」という条件節がなくなって、「国が福祉をやる必要はない」という帰結節だけになっていったからだという判断でしょう。実のところ、その判断はおおむね正しいと思いますが、一点注意しておかなければならないのは、その新自由主義への移行は、英米流の新自由主義イデオロギーが原動力になって行われたものではないということです。

つまり、90年代初頭の転換は、当時の国民の主観的感覚からすると、「会社が福祉をやるんだから」というところに対する違和感が大きくなってきて、そこから脱却すべきだという思想が主導するものだったのではないかということです。当時の言葉で言えば、会社人間とか社畜とか、そういうあり方に対する進歩主義的感覚からする反発が中心で、「国が福祉をやる必要がない」という帰結節を明確に意識していたとは言い難いように思われます。

しかしながら、結果的にはそういう会社中心主義に対する個人主義的違和感をすくい上げる形でレジーム転換が進み、「国が福祉をやる必要はない」というところが残って、新自由主義的な方向に進んでいきました。その意味では、90年代初頭の転換も、新自由主義を意図して新自由主義を導入したわけではないのであって、むしろ意図せざる結果としての新自由主義化であったというべきではないでしょうか。もちろん、この20年間、筋金入りの新自由主義者が何人も登場してそれなりに流行したりもしましたが、国民の意識のレベルでは必ずしも主流ではなかったのではないかということです。

いま、その結果としての新自由主義がかなり急速に逆転しつつあるわけですが(「労働再規制」!)、なぜかくも急速に逆転してしまったのか、という点をきちんと分析する必要があるように思います。これはむしろ第2章の五十嵐仁さんの話になりますが、あれだけ新自由主義を謳歌していたように見えた小泉政権が、安倍政権以降格差社会論であっさりぐらついたということ自体、一部の極端な学者は別として、日本の新自由主義には全然筋金が入っていなかったことを問わず語りに示しているのではないでしょうか。

というところだけで結構の分量になりました。

本書の最後に載っている山垣真浩さんの「解雇規制の必要性」は、サイモンやバーナードの理論を駆使して、解雇規制の問題に斬り込んだ意欲的な論文なので、改めてエントリを起こして取り上げたいと思います。とかく整理解雇しか見えない経済学者の中にあって、「俺の命令に従わない労働者クビだ」という指揮命令関係に着目して解雇を論ずるというその姿勢が素晴らしいです。

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日経ビジネス特集「新卒採用で伸びる会社」

Hyoshi_s 日経ビジネスというと、先日の「「一般職に、男ですよ」」の印象が悪いのは確かですが、本誌では結構まっとうな記事が載ってます。

4月12日号の特集「新卒採用で伸びる会社」の後ろの方で、「若者雇用を生む3モデル ばらまき予算より絆」というなかなかいい記事が載っているので、ちょっと紹介しておきたいと思います。

ここで紹介されているのは、富山モデル、中京大学、ネクストステージ大阪の3つです。

富山モデルというと、その昔世間がみんな普通科普通科と流れていたときに、あえて職業高校中心の教育システムを打ち出して、その当時の進歩的な人々から「7・3教育のひずみ」とかいわれたわけですが、今や「就職最強県」として有名になっているようです。

景気回復が遅れている中で、「若者を地元ではぐくみ、地元で雇う」という大原則の下で、県、地元経済界、学校が連携して、成果を上げてきています。

>「富山の企業は景気が良くても悪くても、子どもたちの職場体験に熱心だ。職業教育の重要性を深く理解しているからだ。」

>富山県では2009年度には進学校を含めた全日制学校の生徒の64%が職場体験をした。これは全国でも突出した高さだ。

>教育への投資も半端ではない。現在は工業高校に対し、総額50億円強の大型投資計画が進行中だ。・・・工業高校は自治体負担額が大きく、定員削減に動く自治体も多いが、富山は違う。

>若い人材を育て、正社員として雇い、企業の未来を託す。都市圏に流出させては地元の損失になるから、企業は景気が悪くても採用する。県はそれを後押しする。地域経済の繁栄に県、企業、学校の強い絆が欠かせない

富山モデルとは、教育の職業的レリバンスをきちんと見据えて、迂闊な批判に流されずにやってきたことの成果なのでしょう。

第2は中京大学、あの浅田真央さんの大学ですが、「就職に強い文系大学」としても有名なのだそうです。

>偏差値40前後の私立大学の文系学生は就職活動で苦戦が続く。

>偏差値が低くても、「就職に強い」技術系大学はたくさんある。だが、文系大学は教育で差別化しにくく、偏差値ピラミッドで下克上がおきない。それを奇跡的に実現したのが中京大学なのである。

という記述を読むと、どんな魔法を使ったのか、と思われるかも知れませんが、これこそ教育の本流というべきやりかたなのですね。

>カゴメなど地元の有力企業の経営戦略をビジネススクール方式で研究する「エグゼクティブプログラム」。3年生までに選抜された100人が1チーム10人に分かれ、有力企業の人事担当者の前で研究成果を披露する。発表会後の懇親会も含めて、これは就職活動の一環であり、学生も必死で勉強する。

大学の勉強とは全然別の次元で、「人間力」とやらを磨いて就職活動にいそしむというのではなく、大学の勉強に必死で打ち込むことそれ自体が就職活動であるというのは、現実の文科系大学ではなかなか現実化できない姿ですが、それをこうして実現できているというのは、なかなか職業的レリバンスが見いだしにくい文科系大学教育としては一つのモデルであることは確かでしょう。

とかく、こういう文科系大学は、学生が学ぶ中身をそっちのけにして、小手先の就職テクニックに血道を上げがちですが、そういう邪道ではなく、大学で学ぶ中身自体に打ち込めば打ち込むほどそれが就職活動になるという本来の姿が実現すれば、授業やゼミと就活の板挟みなどという不合理極まる事態は自ずからなくなるはずだと思います。就活でゼミを休まざるを得ないかわいそうな学生に呪いをかける必要もなくなるわけで。

3つめは若者を協同で人材として育てる大阪府の中小企業ネットワークである「ネスクトステージ大阪」です。もともとは自閉症などの若者を職場体験させ、就職につなげることが狙いだったが、最近は就職活動に失敗した大学生たちの「駆け込み寺」になっているということです。

>若者が相談に訪れれば、矢野社長が中心になり、60社のメンバー企業に振り分け、就労体験やアルバイトをさせながら、育てていく。最後まで面倒を見るがモットーだ。受け入れる中小企業も、社員として戦力になるか見極められる利点がある。

このネクストステージ大阪については、実は別口で、若者雇用支援についての調査研究の関係で、報告書を読む機会があり、心に残っておりました。

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研修生は労働者に非ず?

『労基旬報』連載の「人事考現学」、今回のテーマは「研修生は労働者に非ず?」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo0425.html

外国人研修生の問題は、研修生を初めから労働者たる実習生にする入管法改正で一応の解決を見たとはいえ、なぜこういう事態になってしまったのかをきちんと振り返り、反省すべき点を反省しておかないと、また似たような過ちを犯すことになりかねません。

わたくしは昨年来、連合総研の外国人労働者問題研究委員会に参加してきていますが、この問題について過去をきちんとえぐり出すような報告をするつもりでいます。

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職場のメンタルヘルスとプライバシー

既に北岡大介さんの「人事労務をめぐる日々雑感」が取り上げていますが、

http://kitasharo.blogspot.com/2010/04/blog-post_20.html(うつ病チェック、企業健診で義務化へ)

朝日が

http://www.asahi.com/national/update/0419/TKY201004190466.html(うつ病チェック、企業健診で義務化へ 厚労相方針)

という記事を出しています。

>長妻昭厚生労働相は19日、企業が行う健康診断で、精神疾患に関する検査を義務づける方針を示した。労働安全衛生法の改正も検討する。増え続けるうつ病や自殺を防ぐ狙い。都内で記者団に述べた。

 労働安全衛生法は、原則として1年に最低1回、従業員の定期健康診断を行うことを事業主に義務づけている。違反すれば50万円以下の罰金となる。労働者にも受診義務があるが、罰則はない。同法規則が定めている検査項目には、血圧や肝機能、血糖などはあるが、問診も含めメンタルヘルスに関する項目は明示されていない。

 厚労省は1月に「自殺・うつ病等対策プロジェクトチーム」を設置しており、近く中間報告がまとまる予定。中間報告には精神疾患に関する検査の必要性を指摘する内容が盛り込まれる方向だ。同省安全衛生部の担当者は「法改正が必要か、省令改正で間に合うかも含めて検討することになる」と説明している。

 同省によると、2008年度のうつ病を含む精神障害などの労災請求件数は927件で、認定件数は269件。00年と比べると、請求件数は4倍以上、認定件数は7倍以上に増えている。

これは、安全配慮義務が大事かプライバシー保護が大事かという大問題に関わるテーマです。

かつて、『季刊労働法』でこの問題を取り上げたことがあります。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/karoushi.html(「過労死・過労自殺と個人情報」)

>6 労働者の何を保護すべきなのか?
 
 このように見てくると、労働者の健康と安全を保護するための過重労働・メンタルヘルス対策と、労働者のプライバシーを保護するための健康情報保護対策とは、必ずしも整合的であるとは言いきれないということがわかります。もちろん、労働者のプライバシーを最大限尊重しながら、その健康と安全に最大限配慮するのが望ましいことは言うまでもありませんが、限界的な事例では両者の矛盾が露わになることも否定できないのです。
 最初に見たように、脳・心疾患はもともと生活習慣病と呼ばれ、その意味では個人の問題でした。個人の問題である限り、それに関わる健康情報も個人のプライバシーに属すると簡単に整理することもできました。ところが、過労死が社会問題化する中で、それが業務によって著しく増悪した場合には労災補償の対象になったり、民事損害賠償の対象になったりするようになり、その意味ではもはや個人の問題とは言えなくなってきました。使用者にはきちんと労働者の健康管理を実施し、過重労働によって病変が増悪しないように配慮する義務が課せられるようになってきたのです。
 そうすると、労働者の側にも、使用者を労災補償や民事損害賠償の責任に追い込まないために、一定の健康情報を使用者に提供する義務があるのでなければ、バランスがとれなくなります。自分のプライバシーを使用者に明かすのはいやだが、その結果自分が脳・心疾患で倒れたらおまえの責任だから補償しろというのはいかにもおかしいでしょう。
 逆に個人のプライバシーを優先して考え、本人が受診を拒否すれば、使用者は民事上の安全配慮義務を免れるという考え方もあり得るでしょう。昨年10月の第108回日本労働法学会で砂押以久子氏はそういう考え方を打ち出しておられます。これはこれで整合性のある一貫した立場です。
 一方、労災補償は認定基準に基づいて客観的に行われますから、本人の受診拒否によって労働基準法上の補償責任を免れるということはありません。無過失責任とはいいながら、割り切れない感じが残ります。
 この問題をは、企業と労働者の関係をどう見るべきかという哲学的なものに至るのかも知れません。

脳心疾患よりも、メンタルヘルスの方が、はるかに個人のプライバシーのコアな部分に関わります。

やはり哲学的な議論が必要なのでしょう。

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ブロゴポリス

久しぶりに「ビジュアルブログ検索エンジン」のブロゴポリスを覗いてみました。

http://blogopolis.jp/view/http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

でっかーい「政治」と「経済」と「社会」のあいだに挟まれた芥子粒のような小国「労働」の真ん中あたりに、本「EU労働法政策雑記帳」があり、左手に旧「吐息の日々」の「労務屋ブログ」、右手に「マガジン9条」の雨宮処凜さんのブログ、その間にいろいろなブログがあります。でも、「労働」自体が小さくて、左隣の「政治」には「極東ブログ」という大国が、右隣の「経済」には、「労働」を睥睨するかのように「池田信夫blog」がでんと腰を据えておりますな。

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雇用システムとセーフティネットの再構築

本日、先端技術産業戦略推進機構において、「雇用システムとセーフティネットの再構築」というテーマでお話をして参りました。

http://www.hiia.or.jp/seminar/index_seminar.html#100420

中身は、拙著『新しい労働社会』のうち、序章と第3章を中心にお話したのですが、聴衆の中にヘイ・コンサルティングの田中滋さんがおられ、わたくしのジョブ型正社員というヒトコブラクダ型に、という話にたいへん共感していただきました。

ちなみに場所は一橋の如水会館とつながった学術総合センターというところで、大学関係のいろんな機関がはいっているところでした。

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蟹沢孝夫『ブラック企業世にはばかる』

9784334035600 蟹沢孝夫『ブラック企業世にはばかる』(光文社新書)をお送りいただきました。有り難うございます。「ご書評の機会がありましたよろしくお願い申し上げます」とのことなので、わたくしなりの立場から書評しようと思います。

表見返しには、

>外見はマトモなのに、内実はとんでもないブラック企業。
あなたの職場は、次のいずれかに該当するだろうか?

(1)「新卒使い捨て」の肉食系
(2)成長のチャンスを奪う草食系
(3)大手だけど「時給がマックやコンビニ以下!?」のグレーカラー

このような職場に苦しんでいるのは、決して若者だけではない。
いま勝ち組企業に勤める中高年も、いつ「明日はわが身、いやわが子の身」となるかもわからない……。
本書が描き出すブラック職場はフィクションではない。その実態は、600人以上の転職支援を行った著者の経験とキャリアカウンセラーとして内々に入手した情報にもとづくものである。後半では、転落者が再チャレンジできる方策について徹底的に検証する。

とありますが、これだけ読むと、「ブラック企業の実態を暴く」ルポみたいですが、おそらく著者の主眼は

第二部 脱・ブラック職場――日本の雇用はなぜ「理不尽」なのか?

の方にあるように思われます。

ここではまず第4章で「勝ち組大手企業は『加害者』だ』」と主張しますが、この『加害者』という表現は一般的に高給だから云々というようなものではなくもっと生々しいものです。第1部でもいくつも例示されているのですが、多重請負構造の中で、元請け側の大手企業が無茶苦茶な発注をしたり、それをまた途中で何回も変更したりして、そのわがままに下請け側が振り回され、結果的にブラック企業化せざるを得ない、まさに企業間の権力構造に基づく『加害者』であることが説得的に示されています。

次の第5章は「新卒採用中心主義にメスを」で、なぜブラック企業はなくならないかというと、新卒採用中心主義のために中途採用の道がなかなか開けず、勝ち組企業どころかまともな企業にも移れないからだと主張します。これもおおむねその通りでしょう。この章で、「新卒就職失敗組に一番門戸を開いている業界とは?」という節がありますが、さてどこの業界だと思いますか?答えはお役所。公務員試験に年齢制限はありますが、その範囲内であれば既卒者も受験できるのですから。

第6章の「転職35歳限界説が日本をダメにする」では、ブラック企業の実態を見続けてきた人としては、いささか単純な議論が展開されているように思われます。それは「正社員を解雇しやすくせよ」という表現に現れています。解雇というものの様々な面がいささか忘れられているようです。

企業経営上の整理解雇という面では、「解雇しやすくすることで、一度雇うと一生面倒見なきゃいけないのか、となりがちな採用側の慎重姿勢をゆるめさせようというのである」という論理には一理あり、とりわけ社会の病理に疎く生理のみを観察しがちな経済学者からは繰り返し説かれる議論です。

しかし、云うまでもなくこれは蟹沢氏の云う「勝ち組企業」、大企業正社員にのみ着目した議論で、本書で蟹沢氏が繰り返し例示しているブラック企業においては、「俺の云うことが聞けないようなやつはクビ」というのが日常の風景であり、解雇規制の緩和どころか、実態としては何ら機能していない解雇への制約を少しでも強め、ある程度の金銭賠償を勝ち取ることができるようにすることの方が遥かに重要であることは、重々承知のはずなんですが、なぜかその辺はあまり意識されていないようです

わたくしは、不当な解雇もひとまとめにして緩和するようなやり方は、ただでさえしんどい労働者の状況をかえって悪化させるだけであると思われます。むしろ、ジョブがある限りは雇用が守られるが、ジョブがなくなればそれ以上雇用責任はないジョブ型正社員という発想を広げていくことの方が、企業にとっても労働者にとっても受け入れやすい道ではないかと思いますが、これは書評を超えるので、これだけにしておきます。

書評は以上で終わりです。

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以下は書評ではありません。「反書評」でもありません(笑)。

本書の著者である蟹沢孝夫氏の発言についての、若干のコメントです。

http://blog.goo.ne.jp/kanisawatakao/e/7235549ca302b912803d192dc6dac797(労働政策での小競り合い…。)

>一方、旧労働省出身の濱口桂一郎氏はEU労働法政策雑記帳という火を噴いたブログで、やはり城氏をトンデモよばわり。

この濱口氏はアルファブロガーの
池田信夫氏とも一時期大げんか(子どもの喧嘩かも?)したことでも有名だが、なんつーかこういう人格攻撃は大人のやることではないように思うが、いかがだろう。

子どもの喧嘩とまで人を罵るのですから、それ相応の覚悟はあるのでしょうね(笑)。

労働問題について、きちんと論点を提示して批判したわたくしに、一切中身の議論はすることなく、もっぱら属性批判「のみ」を繰り広げたのが池田氏であることは、本ブログをお読みの方々には既に承知のことですが、蟹沢氏にとっては、属性批判しかしない方が「大人」で、きちんと論点を挙げて批判する方が「子ども」であるようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-5545.html(池田信夫氏の「書評」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/3_a7ad.html(池田信夫氏の3法則)

そういう価値判断基準をお持ちであるなら、「大人」らしく池田信夫氏流の「反書評」をしてさしあげるのも一興かとも思いましたが、そんなことをしても何の益もありませんし、読まれるべき書物を読まれるべき書物として世に紹介することは、下らぬコメントよりもはるかに重要ですので、そういう言葉の真の意味での「子ども」じみた所業は池田氏だけに委ねておきます。

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最後に再び書評モードに戻って

本書のあとがきに、ご自分の職業紹介業界について

>だがその実態は、とても「人生のアドバイザー」などではなく、ただの「人売り」商売人であった。

という一節があります。

おそらくこの一節には蟹沢氏の様々な思いが込められているのでしょうが、単純にシニカルな言葉と言うよりは、人材ビジネスが本当の意味での「人生のアドバイザー」になりうることをどこかで願っていることの表れであるように感じられました。

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大内伸哉『労働法学習帳<第二版>』

35460 大内伸哉先生から学生向けワークブック『労働法学習帳』の第二版をお送りいただきました。有り難うございます。

大内先生の神髄は、なんといってもそれ以上云うたら危ない・・・というぎりぎりのところで寸止めしながら労働法の常識を問い直すところにありますが、こういう至極まじめな顔つきのワークブックも大内先生のもう一つの顔なんですね。

>労働法を学んでいる学生、国家試験の受験生等が、基礎知識を確認するのに最適。穴埋め問題と答え・解説がセットになって2色刷りで赤シートにも対応。通勤・通学の電車の中で毎日20問、1カ月で1冊終了し、繰り返し学習することで、確実に実力がアップします。
 第2版では全体の見直しのほか、労基法・育児介護休業法等の改正に対応した設問・解説を追加。解説で引用された判例には、『最新重要判例200 労働法』・『ケースブック労働法』の該当頁も掲載し、判例学習の便宜もさらに充実。仕事の法的ルールを知りたい企業人にもお薦めの1冊です

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イギリスがうらやましい

いや、イギリスも決してうらやましい経済情勢ではありませんし、政治情勢もあんまり碌でもなさそうな感じですが、それにしても、それぞれがそれぞれにふさわしいことを主張しているという点で、うらやましいということであります。

http://www.asahi.com/international/update/0417/TKY201004170348.html(英総選挙、経営者と経済学者が代理戦争 財政再建で激論)

>【ロンドン=有田哲文】5月6日投票の総選挙を前に、英国で財政再建をめぐる論争が白熱している。与党・労働党が掲げる事実上の増税策に経営者がまとまって反対を表明したのに対し、15日には経済学者約50人が野党・保守党の歳出削減を批判する声明を明らかにした。2大政党の代理戦争の様相だ。

 英国の2009年の財政赤字は国内総生産(GDP)比で12%台になり、財政危機のギリシャと肩を並べる。どう圧縮するかが争点になっている。

 労働党は財源不足を補うために社会保険料の引き上げを提案している。これに対し、製薬大手グラクソ・スミスクラインのトップら経営者約20人が今月初め、「雇用への増税だ。タイミングが悪い」とする声明を英紙に出した。

 一方の保守党は、ムダをなくすことによる60億ポンド(8600億円)の歳出削減を掲げる。これについては逆に経済学者などが反発。元イングランド銀行政策委員のブランチフラワー氏らは「(歳出削減の)行動を急ぎすぎれば、雇用に悪い影響がある」との反対声明を出した。

 両党は応援団探しに必死になっており、「労働党は経営者に声明を書いてもらえず、経済学者に頼った」(デーリー・テレグラフ紙)などの見方が出ている。

ね、うらやましいでしょ?

保守党ではなく労働党が「財源不足を補うために社会保険料の引き上げを提案」する。

労働党ではなく保守党が「ムダをなくすことによる60億ポンド(8600億円)の歳出削減を掲げる」。

それに対して、経済学者が「(歳出削減の)行動を急ぎすぎれば、雇用に悪い影響がある」との反対声明を出」す。

経営者は労働党の味方をせず「雇用への増税だ。タイミングが悪い」と反対する。

何の不思議もない、ごくごく当たり前のことなのですが、それがひっくり返ったアリスのワンダーランドならぬあべこべの国から見ると、まことにうらやましいかぎりです。

それぞれがそういうまっとうな立場に立ってこそ、始めてまともな政策論議なるものが始まるのですが・・・。

まあ、政党にはそれぞれにしがらみもこれあるわけですので、まずは自らの学問的良心に従って行動するはずの経済学者のみなさんに、本来あるべき行動をとってもらうところから始めましょうか。

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いわゆるNTT偽装請負事件におけるhamachan製の「矛」と「盾」

いわゆるNTT偽装請負事件の京都地裁判決(2010年3月23日)が最高裁のHPにアップされています。パナソニックPDP事件最高裁判決以後に出されたいわゆる偽装請負関係の判決として興味深いものです。原告はNTT関係の請負会社で翻訳ソフトの開発のためのデータ処理を行っていたのですが、

判決文をよく読んでいくと、なんと原告と被告の両方が、わたくしの議論を事実上使っていることに気がつきました。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100416110421.pdf

まず被告側ですが、これは私がパナソニックPDP事件の高裁判決の評釈で指摘し、最高裁判決も取り入れた議論で、23頁から

>b 偽装請負については,労働者派遣法2条1号にいう労働者派遣に該当するものといえ,同法の諸規定に違反するとされる場合があるが,労働者派遣法は行政取締法規であり,一部の例外的規定を除き,同法の規定に違反する労働者派遣契約や労働契約が無効になるということはできない。
そして,偽装請負は,職安法44条が禁止する労働者供給事業に該当するものではない。同法は,「労働者供給」の定義から労働者派遣法2条1号に定められる「労働者派遣」を除外しており(職安法4条6項),かつ,労働者派遣法2条1号にいう「労働者派遣」とは,同法に適合した労働者派遣に限られていないから,同法に適合した労働者派遣であろうと,適合していない労働者派遣であろうと,職安法で規制される労働者供給の概念から等しく除外されることが明らかだからである。
したがって,偽装請負が職安法44条に違反することはあり得ず,それゆえに就業介入営利事業を原則として禁止する労基法6条に違反することもない。
よって,仮に,被告NTTが原告に対して指揮命令を行ったと判定されるとしても,Aが職安法44条で禁止している労働者供給事業を行ったとは認められず,被告NTTが労働者供給事業を行う者から労働者供給を受けたとみられる余地もない。また,被告NTT・AT及びB等は,原告を自己の支配下に置いたことはないから,労働者供給事業を行ったとも評価し得ない。
以上より,仮に,本件がいわゆる偽装請負に該当するとしても,職安法44条及び労基法6条に違反しているとはいえない。

と主張しています。

(参考)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/nblhyoushaku.html(「いわゆる偽装請負と黙示の雇用契約」――松下プラズマディスプレイ事件)

一方、原告側は、NTTによる事前面接について、8頁から、

>(オ) 厚生労働省職業安定局通達である「労働者派遣事業関係業務取扱要領」によれば,派遣元が企業としての人的物的な実体を有するが,労働者派遣の実態は,派遣先の労働者募集・賃金の支払の代行となっている場合その他これに準ずるような場合については,例外的に派遣先に労働者を雇用させることを約して行われるものと判断するものとされているところ,本件において,A,B等及び被告NTT・ATは,企業としての人的物的な実体は有するが,受入事業者たる被告NTTの労働者募集を代行し,原告の求職及び被告NTTの求人に関し職業紹介を行ったにすぎず,受入先である被告NTTが,原告と労働契約を締結したといえる。
なお,登録型派遣の場合,少なくとも派遣の注文を受けた段階では「自己の雇用する労働者」(労働者派遣法2条1号)ではない労働者が,労働者派遣が開始される時点から過去に遡らせることにより,まだ自己の雇用する労働者ではなかったはずの者を自己の雇用する労働者であったかのようにみなし,その配置行為として派遣が行われるという法的構成をとる。しかし,この場合でも,派遣元が,まだ自己の雇用する労働者になっていない者を派遣先が面接して就労を決定してしまった後で,派遣開始とともに派遣元が雇い入れたから過去に遡って面接の時点でも派遣元の自己の雇用する労働者であったことにするのは困難であるとされる。つまり,派遣先である受入事業者による事前面接があり,そこで当該労働者が受入事業者で就労することが決まり,その後実際に当該労働者が受入事業者の下で就労を開始したという事実関係が存在する場合,その事実関係においては,当該労働者と受入事業者との間で労働契約が成立したというほかない。
そして,本件においては,前記のとおり,被告NTTによる3度目の面接が行われていた段階で,原告は,受入事業者である被告NTTにも,供給元である被告NTT・ATにも,B等にも,Aにも雇用されていないし,原告がこれら供給元事業者の下で働いていたという事実はない。
よって,被告NTTによる事前面接によって甲・乙での業務への採用決定がなされ,その通知がなされた段階で,原告と被告NTTとの間の明示の労働契約が成立したというべきである。

と論じていますが、この「なお」から始まる段落はほとんど私の議論と表現までそっくりです。

(参考)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/21seiki02haken02.html(『時の法令』連載「21世紀の労働法政策」第3回 第1章 労働者派遣システムを再考する)

いわばhamachan製の「矛」と「盾」がぶつかりあうこの裁判、結論は

>いわゆる多重の偽装請負がなされ,注文者が請負人の労働者を指揮命令して作業に従事させていたとしても,注文者と当該労働者との間に使用従属関係が存しないことなどから,両者の間に労働契約が成立していたとはいえないとされ

ました。

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大学の2/3を職業訓練校にせよという議論

「日本経営学界を解脱した社会科学の研究家」が「現代社会・産業経営に関連する諸思想および諸問題を総合的に論究してい」るという「社会科学者の時評」なるブログがあり、先日、大学の2/3を職業訓練校化せよというエントリを書いていました。

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2857658

正直申し上げると、このブログの特に歴史関係のエントリには、いささか(というより相当程度)トンデモ系の匂いがぷんぷん漂い、あまり言及したくない気持ちもこれあったりするのですが、まあその辺はないことにして(もし万一興味があればリンク先をどうぞ)、当該エントリの中身だけ紹介します。

話の糸口は、先日の『中央公論』に載った山田昌弘氏の「学歴を費用対効果で格付けする」を引用して、

>現在における日本の高等教育は「投資」ではなく「投機」ということばがふさわしい・・・。「教育の投機化」は,教育投資の結果の予測がつかず,利益を生むどころか教育に投じたお金や時間や努力が無駄になる可能性が高まる事態を指している。

 しかし,日本の現状をいえば,高等教育を受けなければヨリ悪い状態に陥る「可能性が高い」という意味で,
教育「投機」をせざるをえない状況にいまの若者は追いこまれている。

で、

>就職制度の大きな変革が必要である。つまり,教育投資のリスクを分散する仕組を作らねばならない。その大きな隘路が新卒一括採用が中心の雇用慣行である。・・・教育投資が無駄になれば本人もつらいが,社会的な損失でもある。いまくらい,学校と就職とのあいだをつなぐ新しい制度が必要になっている時はない。

と、論じていき、そこから(おそらくご自分の勤務する大学の惨状に対する憤懣の現れではないかと推察されますが)

>高等教育としての意味のみいだしにくい日本の大学が多い
 本ブログの筆者が,日本の教育制度それも,主に大学・大学院段階に関して論究してきたのは,大前提の話として,日本の大学
〔2009年度現在で 773校も存在する〕の「3分の2」を,高等教育機関」である「大学ではなくさせる」ことであった。

>日本にある大学〔大学院も含めて〕の「3分の2」を「大学ではなくさせる」という提案は,つまるところ,教育的な投資効率に関してもいえば制度上,それらの大学を抜本的に「費用対効果」が上げられる職業訓練学校に変更・改編させるほかないという提案である。

と主張していきます。

このあとの「解脱した社会科学者」氏の表現はなかなか激烈で、ここに引用するのもいささか憚られるので、関心のある向きはリンク先をどうぞ。

(追記)

「ふま」と思われる人物が、本論ではなく「トンデモ系」というところをコメント欄に書き込んだため、だいぶお怒りを買ってしまったようですね。

いうまでもなく、わたくしは本エントリで取り上げた「大学の2/3を職業訓練校にせよという議論」がトンデモだなんて全然いっておりませんで、むしろその方向性は共通しているのですが、とはいえ、「明治天皇は孝明天皇の子どもではなく、長州の何とかさんの子どもだ」みたいな陰謀論的「歴史秘話」にまともにおつきあいさせていただく気も全然ありませんので、あまりそこには触れたくもありません。

つまるところ、「解脱した社会科学者」氏のわたくしに対する批判は、

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2871132

>濱口は,昨今における「現実の教育システムの圧倒的大部分はなお職業への指向性がきわめて希薄なままで」あるから,「文部科学省管轄下の高校やとりわけ大学が職業指向型の教育システムに変化していくには,教師を少しずつ実業系に入れ替えることも含め,かなり長期にわたる移行期間が必要で」あると指摘している(145頁)

 さて,本ブログの筆者はそのように〈悠長な視点〉を構え,経済社会対策史的に「職業指向型の教育システムに変化」を待つようでは,21世紀の日本産業社会はよりいっそう低迷化への歩調を加速するほかない。文部科学省がいつも実行しているように急速に,「日本の大学のうち3分の2」を,いままでの「どちらかというといつまでも古典的・伝統的な教養型大学教育」から「職業訓練型大学教育」へと,一気に改編させる集中的な方策の実行が
〈火急の課題〉であると主張した。

という時間軸上の長期短期の問題に尽きるように思われます。

これと同様の批判は、たとえば松本孝行氏も、

http://matton.blog91.fc2.com/blog-entry-363.html

>ただ、最後の結論部分がいただけません。それでは遅すぎる、個人的にそう思います。

>著者の言うような方法は確かに民主的な手続きを経ており、制度としては非常にキレイです。ただ、民主的な手続きというのは時間がかかるものなのです。時間がかかる民主的な手続きをとることは、現在の労働諸問題においてはまったく非現実的なものであると言わざるを得ません。今必要なのはキレイな方法で労働問題を解決することではなく、なりふり構わず問題を解決する圧倒的パワーとスピードが必要なのです

という形でされています。

わたしは、こういう「遅すぎる」という批判が出てくるのは当然だろうと思っておりますし、それにはそれなりの理由があると思いますが、一方で、『POSSE』のインタビューでも述べたように、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/posse04.html(私は格差論壇マップをどう見たか)

>濱口:私がこうした評価を行うことが困難な理由があります。私自身を位置付けにくいからです。なぜ私自身を位置付けにくいのかというと、実は、これらとまったく別の軸があって、それは、理念と現実をどう考えるかということです。現実可能性の中で物事をどこまでいうかというまったく別の軸があるのですよ。

>・・・そうすると、中長期的な「あるべき論」と、「今現在なにをやるか」という議論が、いやおうなしに乖離せざるを得ません。場合によっては、中長期的にはこの方向が望ましいんだけれども、当面の議論としては、現在の制度的枠組みのもとでは、それに反する方向を強化する政策をとらなければならないということもありえるわけですね。

何でも全部今すぐやれるという発想には、実務者でありかつ研究者でもあるわたくしとしては肯うことができないものがあります。ここは、そこをすっ飛ばした議論のできる人とそうでない人の違いでしょうね。

(再追記)

「解脱した社会科学者」氏は、トンデモ呼ばわりされた怒りのあまり、3法則で有名な池田信夫氏の陣営に馳せ参じることにしたようです。

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2871132(付記)

>『池田信夫 blog(旧館)』a)「濱口桂一郎氏にはフリーターが見えないのか」b)「濱口桂一郎氏の家父長主義」c)「厚生労働者の家父長主義を解説したパンフレット」などの参照を薦めておきたい。

「天下り教授」「なんちゃって教授」=濱口桂一郎のつたない議論展開を,ボロクソに批判する池田の記述内容に関しては,数多くのコメントもぶら下がっている。これを全部読むのはシンドイが,池田はともかく本文中で,hamachan なる人物を,こう裁断している。東大法卒も各種各様:ピンキリということらしい。

 「一つの記事の中で矛盾したことを書くのは」「頭がおかしいと思われてもしょうがない」。
 「彼は日本語が読めないようだ」(以上 a) から)
 「〔池田信夫の〕ブログは,バカは相手にしないことにしているが・・・( b) から)


こういう池田氏の罵倒に、自らも大いに賛同するという趣旨のようでありますな。

それならそれでかまいません。ただ、池田氏が、「解脱した社会科学者」氏の次のような叙述に満腔の賛意を表してくれるかどうかは定かではありません。池田氏は労働問題にはトンデモな所がありますが、こういう歴史問題にはそれなりにまっとうな判断を下す可能性もあります。

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?daily_id=20090725(明治天皇は偽物か替え玉か)

>右側の大室寅之祐は大室寅之祐なのであって,けっしてもとの本物の明治天皇(第122代天皇「睦仁(むつひと)」1852年-1912年,称号は祐宮(さちのみや)ではなかったのである。けれども,本物の睦仁天皇が暗殺されたあと,この大室が明治天皇とすぐに入れ替わって,その後の明治天皇になった,ということなのである。「しかし,この史実は,絶対に日本国民に知られてはならない禁忌中の最高の禁忌(タブー)だった」

ちなみに、この記述のネタ本は、太田龍の『天皇破壊史』だそうであります。某阿久根市長とよく似た趣味をお持ちであります。

もし幸いにして、池田信夫氏がこの主張をトンデモではなく、大いに賛成だと言ってくれたら、「解脱した社会科学者」氏も、わたくしを罵倒した甲斐があったというものでありましょう。

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OECDの若者雇用ワーキングペーパー

4月14日付で、OECDが若者雇用に関するワーキングペーパー「Rising youth unemployment during the crisis: how to prevent negative long-term consequences on a generation」を公表しています。

http://www.olis.oecd.org/olis/2010doc.nsf/LinkTo/NT000028DE/$FILE/JT03281808.PDF

先日中島ゆりさんと一緒に、OECDの『日本の若者と雇用』を翻訳出版したところですが、OECDの若者雇用政策をざっと概観するのには最適です。英語ですけど、実質20頁ほどで、読みやすいと思います。ここではごく一部ですが、

最後の「危機は構造改革を推進する機会である」という章の中の次の一節をご紹介しておきます。

>An education system that helps children and youth from all backgrounds realise their full potential is vital for continued prosperity and for reducing labour market exclusion among youth. It is apparent in many countries that working while in school is becoming a more important and effective part of the school-to-work transition than the traditional model of school first, then work. The first policy objective ought to be to prevent young people from dropping out of school in the first place. Second, youth at risk of dropping out of school and low achievers should receive a second chance through apprenticeship (see e.g. the French emergency plan, Box 7) to acquire skills needed on the labour market. Third, students should receive financial incentives such as performance-based scholarships conditioned on combining work and study to facilitate their school-to-work transition and obtain the skills the economy will need in the near future.

・・・学校に在籍しながら働くことは、伝統的な「まず学校、それから仕事」モデルよりもずっと重要で効果的だと多くの国で明らかになってきた。第一の政策目標は学校からのドロップアウトを防ぐことだが、第二にドロップアウトの危険にある若者や成績不良者は労働市場で必要な技能を身につける徒弟制を通じてセカンドチャンスを得るべきだ。第三に、生徒たちは学校から仕事への移行を円滑にするために仕事を学習を結合することを条件とする成果に基づく奨学金のような金銭的インセンティブを受け、経済が近未来において必要とする技能を獲得するべきだ。

>Promote the combination of work and study. The experience of combining work and study through apprenticeships, internships and student jobs facilitates labour-market entry. School-based education and academic fields of study could be professionalised through the use of compulsory on-the-job internships. During the period of labour market slack, governments should at least prevent a drop in the number of these work-study options. In this context, the US government decision to provide additional funding for summer jobs programmes during the crisis and early phases of the recovery is welcome to facilitate access of youth to on-the-job training (Box 4).

労働と学習の結合を促進せよ。徒弟制、インターンシップ、学生仕事を通じた労働と学習の結合の経験は、労働市場への参入を容易にする。学校ベースの教育と学習の学問分野は、強制的なオンザジョブインターンシップの活用によって職業的なものにすることができる。労働市場が緩和している間は、政府は少なくともこういった労働-学習のオプションの数が減少するのを防ぐべきだ。この文脈で、アメリカ政府の経済危機と回復の初期段階における夏休みジョブプログラムを提供する決定は、若者のオンザジョブトレーニングへのアクセスを容易にするので歓迎すべきだ。

なお、上記翻訳書については、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0da2.html(OECD『日本の若者と雇用』ついに刊行!)

また、この本の翻訳者である中島ゆりさんのインタビュー記事は:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b5d0.html(ニッポンの「失われた20年」にもっとも失われたのは若者の雇用だった@『月刊連合』4月号)

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twitter上の拙著簡評

最近は、twitter上で拙著を簡潔に評していただく方が増えました。

まず14日の「kisa12012」さん。

http://twitter.com/kisa12012/status/12129888513

>日本の雇用環境の歴史的経緯について詳しく知りたい場合は、"新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)" http://bit.ly/aVCqSH がとてもよくまとまっていた。ベースは非正規労働・派遣社員の問題についての本だけど、基本的な日本型雇用システムも解説している。

そして16日の佐藤純さん

http://twitter.com/j_sato/status/12279463503

>濱口氏の「新しい労働社会」、非常に興味深い。バランスのとれた法学者の大学の授業のようだ。政策提言の論理は納得するものが多い。数字についての考察がないのが不満だが、新書だからなのか。

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「就活に喝」という内田樹に喝

神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。

http://blog.tatsuru.com/2010/04/14_1233.php(就活に喝)

>ゼミに行くと欠席が9名。
ほとんどの四年生は最終学年はゼミしか授業がないはずであるので、ゼミに来ないということは、フルタイムで就活に走り回っている、ということである。
気の毒である。
だが、浮き足立ってことをなして成功するということはあまりない。

>それに、私に「ろくな結果にならない」というようなことを言わせてはいけない。
私の言葉はたいへん遂行性が強いからである。
私が「そんなことをすると、ろくな結果にならない」とうっかり口走ってしまうと、それはきわめて高い確率で現実化するのである。
だから、君たちがわが身の安全をほんとうに案ずるなら、私を怒らせてはいけない。

>追伸:と書いたら、就活でゼミを休んだ学生から「先生の呪いのせいで、ものもらいができました」と泣訴してきた。「生き霊は先生のゼミのある日に試験なんかやる企業のほうに飛ばしてください」というので、了解する。「ものもらい」ぐらいで済んでよかったね。

現代の「学校の怪談」、あなおそろしや・・・

という話じゃないでしょうが。

こういうものの道理の分かっていない大学のセンセにこそ、日本学術会議の大学と職業の接続分科会の報告を読んでいただきたいのですが、残念ながらまだ調整中で正式発表に至っていないこともあり、その分科会でわたくしが喋った議事録から、内田樹氏にふさわしい部分を再度引用してみたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/hamachan-20db.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会におけるhamachan発言録)

>濱口 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。

>濱口 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。

>濱口 おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。

内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論。

もちろん、そういう筋論で説明できるような大学と職業との接続状態になっていないから、こういう呪い騒ぎが起きるわけですが、そうであるからこそ、問題は表層ではなく根本に立ち返って議論されるべきでありましょう。

哲学者というのは、かくも表層でのみ社会問題を論ずる人々であったのか、というのが、この呪い騒ぎで得られた唯一の知見であるのかも知れません。

(参考)

ちなみに、報告書自体は未発表ですが、その内容は既に公開され、本ブログでも紹介しておりますので、ご参考までに

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

また、最終会合に提出されたほぼ最終版に近いバージョンは:

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-17-1-1.pdf

(追記)

Tsuboshさんの「Random-Access Memory(ver.2.0)」で、内田氏の元エントリとわたくしの本エントリを取り上げて、

http://d.hatena.ne.jp/tsubosh/20100417

>内田さんの関心が、ミクロな人間関係にあり、

ミクロな人間関係の背後にある社会システムにはないことは、

昔からよく知っています。

だからこのエントリを批判する濱口さんとは、

全く議論の土俵が違っていてその食い違いからもいろいろ学べます。

と述べた上で、

>私はこのエントリを読んで感じたのは、まずは、

「ゼミ教授-ゼミ学生の関係は、全面的師弟関係なのか」

という点です。

>次に、「内田先生には、師弟関係であっても、

ゼミ内で、こういう感じで、ミクロな権力を行使してほしくないな」

という点を感じました。

と述べています。

おそらく、内田氏は自分とゼミ生の関係を、哲学者の師匠と哲学者たらんとする弟子との関係と捉えているのでしょう。それにしても、こういうミクロ権力の行使は嫌らしいものですが、まあそこは認めるとしても、そもそも現代産業社会の中で大学という高等教育機関がどういう位置づけをされ、その中で内田氏が給料をもらっているのかという社会システム論的認識が欠如したままのミクロ権力行使は、学生をどうしようもない窮地に追い込むだけなのですね。

もちろん、なぜそうなるかという理由もはっきりしていて、日本の企業が少なくとも文科系学部については「大学で勉強したことなんて全部忘れろ、これから全部仕込んでやる」という人材養成システムであったことが、大学で学ぶことに職業的レリバンスをほとんど不要とし、結果的に内田氏のように、卒業したら企業に就職するしかない学生たちをつかまえて、あたかも哲学者の師匠が哲学者たらんとする弟子たちを鍛える場所であると心得るような事態を放置してきたからであるわけです。

「大学に何にも期待しない企業行動の社会的帰結としての企業に役立たない大学教育」が、自己完結的な価値観に基づいて行動することによる矛盾は、企業でも大学教師でもなく、その狭間で苦悩する学生たちに押しつけられることになるわけですが。

(ついでに)もしこれが、内田氏のゼミ生が哲学教師の口を求めての就職活動でゼミをさぼったことに対し、「俺のゼミをさぼるような奴に哲学教師になる資格はない!」というのなら、そういうミクロ権力行使は、少なくとも職業的レリバンスの観点からは是認されましょうが。

(再追記)

これは哲学とかの人文系のことだよな・・・と安心しないでね、経済系の方々。

池尾和人氏が

http://twitter.com/kazikeo/status/12039641738

>しかし、就職の面接だといってゼミを欠席する4年生が少なくない。平日に大学生を呼びつける企業には、大学教育を批判する資格はない。そういう企業は大学での勉強を評価しないというシグナルを送っているわけで、こんな企業ばかりだから、いまの大学の惨状がある。

とつぶやいていますが、企業から「大学への勉強を評価しないというシグナル」を送られているということは、つまり大学の経済学教育に職業的レリバンスがないと判断されているわけで、そこをどうするかという問題意識もなく、ただ企業の責任を叫ぶだけでどうにかなると思うのは、少なくとも社会科学的思考にはふさわしくないと思いますよ。

もちろん、これは個別企業や個別大学、個別教師の問題ではなく、いわんや個別学生の問題などではなく、まさに職業的レリバンスなき教育とそれを前提とした企業社会が見事に噛み合って動いてきた社会システムの問題であるわけです。

(ちなみに)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います

(さらに追記)

世の中には問題をはき違えている人がいかに多いか・・・。

hyoro hyoro , , 難解でぼくにはよくわからんが、大学というものをどうにも履き違えているように思える。大学に行く目的が「就職に有利であるから」というなら、それこそ「表層でのみ社会システムを論」じているんじゃないの?

「就職に有利」という言い方が既にして、学ぶ内容のレリバンスではなく、表層の見せかけしか考えていないわけで。何のために大学に行くの?ただのカルチャーセンターなら、それにふさわしいやり方がある。

突き詰めると、大学が職業訓練校であるならば、教師には訓練を勝手に休んで就活する生徒を叱る権利がある。就活で訓練を休むような者を、ちゃんと訓練修了というディプロマを付けて送り出すわけにはいかない。大学がカルチャーセンターならば、就活と天秤にかけてより有利な方を選択する「お客様」を叱る権利はない。いや、叱ってもいいけど、それを社会的正義として自慢げに語られても困る。

たぶん、ある種の人にとって、大学はそのいずれでもなく、師匠と弟子が形作る理想のアカデミアであるべきという考え方があるのでしょうが、だったらそういう規模でやってくれという話でしょう。学生の圧倒的大部分が就職していってくれることを前提にして、今の大学システムは回っているのであって、それに受益している人が師匠・弟子モデルを振り回すのは単純に偽善です。それなら最後まで弟子の面倒みろよな。

(も一つさらに追記)

RIP-1202 RIP-1202 合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ。なにをえらそうに。

えらそうなのはどっちだろうか。自分は大学教授として安定した地位を楽しみつつ、就職できなかったら生活に困るかもしれない学生の身の上に思いをはせることもない方じゃないの?

会社と教授の板挟みで悩む自分のゼミ生をぎりぎりいじめ抜くのがそんなに楽しいのだろうか。

それなら初めから「就職希望の人はお断り」というべき。

・・・・・でも、考えてみると、神戸女学院文学部というのは、もともと就職なんていう下賤な進路じゃなく、花嫁修業としてお茶、お花と同列でお文学をやるお嬢様御用達のところだったのかも知れない。たしかに「合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ」って云いそう。

そういうお嬢様じゃない就職希望の女性がなまじ入ってしまったのが間違いだった、というのがオチ?まあ、いまどきそういうオチはないでしょうけど。

(まだまだ追記)

トラバを送られたようですが、失敗されたようなので、ここにリンクしておきます。

http://d.hatena.ne.jp/the_end-of_the-world/20100420(合成の誤謬)

>いや本当に昨今の就職事情はひどいことになっているという実感があって、それも単に「学生がシステムの犠牲になっていてかわいそう」などという話ではなく、この選抜の仕方では「馬鹿であることが合理的な社会」を作りかねないだろうという危惧があるからだ。

 そして、そのような社会こそ保守が懸念すべき未来予想図であるはずなのだが、内田氏の真意はどこにあるのだろうか。・・・

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EU労使が建設業の偽装自営業に取り組む

EirOnlineから、EUレベルの建設業労使団体が、偽装自営業問題に取り組む共同宣言を出したという記事。

http://www.eurofound.europa.eu/eiro/2010/03/articles/eu1003049i.htmEuropean social partners tackle bogus self-employment in construction sector

>The European social partners in the construction sector have issued a joint text to help tackle the prevalence of bogus self-employment in the sector – a problem which puts workers at risk as well as resulting in unfair competition in the market. They recommend actions such as establishing common European criteria on guidelines for determining the nature of workers’ employment status, and suggest creating a social security identity card that shows their employment status.

興味深いのは、偽装自営業が三者間関係から生み出されているらしいことです。

>However, they also state that bogus self-employment is a problem, often resulting from a trilateral relationship between the contractor, an intermediary (such as an agency or ‘gangmaster’) and the worker. Essentially, a gangmaster provides the contractor with workers who have a bogus self-employed status yet none of the legal, professional, financial, regulatory and administrative knowledge and skills of genuinely self-employed workers. This means that the workers are at risk as they are not adequately covered by social insurance. Moreover, unfair competition is created between genuine and bogus self-employed workers, thus distorting the market.

「ギャングマスター」(「組の親分」とでも訳しますか)が仲介する三者間関係で、法的、職業的、財務的、規制的、行政的知識もなければ純粋に自営業者としての技能も持たないような労働者を偽装自営業者に仕立て上げて、社会保険の適用を逃れ、不公正競争をしている、と。

建前上自営業者の紹介(、派遣、請負?)なので、労働法の規制もかぶらないということなのでしょう。

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『労働総研クォータリー』で拙著書評の模様

労働運動総合研究所(労働総研)の『労働総研クォータリー』という雑誌の2010年春季号で、拙著『新しい労働社会』を書評していただいているようであります。

http://www.yuiyuidori.net/soken/qua/2010/q_78.html

>書評
濱口桂一郎著『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)』  柴田徹平

どのように書評されているか、楽しみなような不安なような。

ちなみに、シバトラ風のかっこいいお名前だなあ、と、つまらんことを考えました。

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それはそもそも業務限定に根拠がないと言ってるのと同じ

本ブログでもおなじみの「さる」さんが褒めているのですが、これはいただけません。理屈がただの屁理屈になってしまっています。

http://ameblo.jp/monozukuri-service/entry-10508112248.html(木村大樹氏による「専門26業務派遣適正化プラン」への反論)

http://www.chosakai.co.jp/alacarte/a10-04-2.html(法令を遵守していても法的責任を問われるリスク)

本ブログや拙著の読者は既にご認識の通り、わたくしも専門26業務の適正化などということには意味がないと思っていますが、それをこういう理屈で言ってしまってはいけません。

>一見もっともらしいが、まず誤っているのは、専門26業務という言い方である。その根拠となる労働者派遣法第40条の2第1項第1号では、①その業務を迅速かつ的確に遂行するために専門的な知識、技術又は経験を必要とする業務、②その業務に従事する労働者について、就業形態、雇用形態等の特殊性により、特別の雇用管理を行う必要があると認められる業務、のいずれかに該当するもので、政令で定めるものと規定している。

 ①については、一見専門と読めるかも知れないが、その業務を遂行するために専門的な知識、技術又は経験を必要とする業務とは規定されておらず、その業務を迅速かつ的確に遂行するために専門的な知識、技術又は経験を必要とする業務としてあるのだから、専門的な業務であることを求めている訳ではない。加えて、②があり、たとえば、同施行令第4条第15号には「建築物における清掃の業務」がある。

 このことからも明らかなように、法律は専門的な業務であることなど要求していないのである。

残念ながら、これは典型的な「法匪」の論理になってしまっています。

ファイリングは別に専門的な業務じゃないんだよ。ファイリングを迅速かつ的確に遂行するためにには専門的な知識、技術、経験を必要とするかも知れないけれど、普通にファイリングするだけなら別に専門的な知識も技術も経験もいらないんだよ。そういう専門的な知識も技術も経験もいらないような迅速でも的確でもない普通のファイリングであっても、法律の条文では派遣をやってもいいことになっているからいいのだ。全く同じように専門的な知識も技術も経験もいらない一般事務は、それを迅速かつ的確に遂行する場合であってもやっぱり専門的な知識や技術や経験が要らないから派遣をやっちゃいけないんだよ、と。

そもそも、ある業務について派遣をやっていいかいけないかを説明するロジックとして、こんな説明で誰が納得するでしょうか。

みんな内心は嘘つけと思いながらも、「いやあ、ファイリングってのは専門的な業務なんだよね」という理屈で納得した振りをしていたのに、実は専門的な業務なんかじゃなかったんだよ、といわれて、じゃあ全く同じく専門的じゃない一般事務が派遣しては駄目である理屈を、ちゃんと分かるように説明してくれよな!といいたくなるのは自然でしょう。

もちろん、そんな理屈などあるはずはないのです。諸外国の派遣法には全く例を見ない万邦無比の我が国体に匹敵する日本の派遣法の根幹をなしている業務限定方式というやり方が、実のところ全く何の根拠もない代物であったということを、正直に認めることしかないのです。

このように、日本の派遣法は整合的な説明をしようとすればするほど、ぼろぼろと理屈が崩れていくのです。いい加減、もう少し正直ベースで本音の議論をした方がいいと思いますよ。

(参考)

業務限定論の虚妄については、『雇用・労働政策のあり方への提言』の「労働者派遣法改正論議で今検討すべき事」で、次のように論じておりまして、特に付け加えるべきことはありません。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/supportcenter.html

>業務限定論の虚妄

 日本の労働者派遣法制を最も特徴付けるのは、それが派遣対象業務の限定を規制の中核に置いてきたことである。1985 年の法制定から1999 年の改正まではポジティブリスト方式(政令で定める業務にのみ派遣可能)であったし、それ以後のネガティブリスト方式も禁止業務という形で業務限定を行っていた。また、ネガティブリスト方式に転換したと言いながら、旧ポジティブリスト業務については期間制限がなく、雇用契約の申込義務もきわめて緩やかである。
ところが、このような業務限定中心の規制方式はヨーロッパではほとんど例がないだけでなく、EUの派遣労働指令では明確に撤廃すべきものとされている。なぜ日本の労働者派遣法においてこの方式が採られたのか、若干歴史をさかのぼってみよう。
 日本で派遣法構想の当初は業務を限定するなどという発想はなく、雇用契約を期間の定めのないものに限るというドイツ型の制度設計で考えていた。これは、派遣労働者の雇用保護という観点を中心において派遣規制の在り方を打ち出したものであり、趣旨として一貫したものであったが、当時現実に事務処理請負業と称して派遣事業を行っていた企業の大部分がいわゆる登録型であったため、この方針は放棄されてしまった。
 これに代わって打ち出されたのは、労働者派遣事業の対象業務を限定するという国際的に見てきわめて特異なやり方であった。労働者派遣事業を認めても弊害の少ない業務についてのみ派遣を認めるのだという考え方である。1985 年の労働者派遣法は、この考え方を中核として構築されている。この根底にあるのは、労働者派遣法を派遣労働者の保護を中心に考えるのではなく、派遣労働者によってクラウディングアウトされてしまうおそれのある常用労働者の保護を中心に考えようとする発想であった。
 そこで、労働者派遣法においても「労働者の職業生活の全期間にわたるその能力の有効な発揮及びその雇用の安定に資すると認められる雇用慣行を考慮する」( 第25 条) ことが求められるとともに、そのような雇用慣行に影響を及ぼさないような業務、具体的には専門的な知識経験を要する業務と特別の雇用管理が行われている業務に限って労働者派遣事業を認めるという理屈が構築された。専門的な知識経験を要する業務であれば、日本的雇用慣行に縛られず個人の専門能力によって労働市場を泳ぎ渡っていけるであろうし、そもそも日本的雇用慣行の外側の外部労働市場にいるような人々は派遣就労でもかまわないということであろう。しかしながらそれを「業務」という切り口で制度設計することにはかなり無理があった。日本のように個々人の職務が不明確で、会社の命ずることが即ち職務であるような在り方が一般的な社会において、個々の作業を「業務」で切り分けてこちらは認めてこちらは禁止というのは、職場の現実からはかなり無理のある仕組みであった。
 その無理が特に露呈していたのが「ファイリング」なる専門業務であった。当時の産業分類にも職業分類にも、ファイリング業務なるものは見当たらないし、当時の事務系職場において、ファイリング業務が専門的な知識経験を要する業務として特定の専門職員によって遂行されていたという実態にもなかった。実態から言えば、既に事務処理請負業として行われていた労働者派遣事業のかなりの部分が、当時オフィスレディといわれていた事務系職場の女性労働者の行う「一般事務」であったにも関わらず、それでは上記の対象業務限定の理屈付けに合致しないので、現実社会に存在しない「ファイリング」なる独立の業務を法令上創出したのだと理解するのが、もっとも事実に即しているように思われる。これは、実態は一般事務であるものを「ファイリング」などと称して対象業務にしたのが間違っていたという意味ではない。派遣事業の対象にするべき一般事務を対象業務にできないような無理のある業務限定論に立脚したことに、その原因があるのである。この矛盾は、1999 年改正でそれまでのポジティブリスト方式からネガティブリスト方式に移行したことで、一応は決着したということもできるが、今なお法律上は旧ポジティブリスト業務とそれ以外の業務では規制に様々な差がつけられている。
 この「無理」は、その後事務系職場でOA 機器が一般的に使われるようになって徐々に解消していった。派遣法制定当時には「事務用機器操作」はかなり専門職的色彩が強かったが、次第にワープロや表計算、プレゼンテーション等のコンピュータソフトを使いこなすことが一般事務の基本スキルとなっていったからである。こうして、かつては「ファイリング」という架空の専門職を称していたものが、今では実際に行っている「事務用機器操作」を名乗って派遣されるようになった。ただし、24 年前と同様にそれが「専門職」の名に値する業務であるかどうかは別の話である。

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協同労働の協同組合法案

今朝の朝日に、「働く人が出資、経営も参加 「協同労働」法案提出へ」という記事が出ています。

http://www.asahi.com/politics/update/0414/TKY201004140319.html

>超党派の国会議員でつくる「協同出資・協同経営で働く協同組合法を考える議員連盟」(会長・坂口力衆院議員)は14日の総会で、「協同労働の協同組合法案」を了承した。議員立法で今国会に提出し、成立を目指す。

 「協同労働」は、働く人々が出資し、経営にも参画する働き方のこと。民間企業とは違い、雇用する側と雇用される側を区別しない。70年代から公園の管理や清掃、介護・子育て、配食サービスなど地域に密着した分野で、労働者協同組合(ワーカーズコープ)として広がった。全国で3万~4万人が参加しているとみられる。

 ただ、これまでは法的根拠がなく、実際には企業組合やNPO法人の形をとることが多かった。企業組合では、出資だけする人や、出資せずに雇用される人もいる。NPO法人は、働く人が出資したり利益を分配したりできず、寄付や助成金に頼るため、財務基盤が弱いという面がある。

 法案では、組合員が協同で出資、経営、就労する団体に法人格を与える。組合員は最低3人。役員を除く組合員には労災保険や雇用保険が適用される。組合員全員で労働条件を決め、出資額にかかわらず、総会の議決権や役員の選挙権は1人に1票。

 協同労働が法制化されワーカーズコープなどが法人格を取得できれば、金融機関からの融資を受けたり、自治体の委託業務を請け負ったりすることもできるようになる。法制化を求める声の高まりを受け、2008年に議員連盟が設立された。

ワーカーズコープのホームページはこちらです。

http://www.roukyou.gr.jp/main/

また、その法制化をめざす市民会議というのがあって、

http://associated-work.jp/

そこに、法案骨子が載っています。

http://associated-work.jp/02point.html

これによると、「協同労働」というのは、

>働く意思のある者たちが協同で事業を行なうために出資をし、協同で経営を管理し、併せて協同で物を生産したり、サービスを提供する働き方です。
逆の言い方をすると、雇用関係(雇う、雇われる)が存在しません。働く人が、資金負担や経営責任も負うため、より自立した「働き方」が求められます。
また、個人事業主とも違い、お互い助け合いながら(共助)事業を起こし、人と地域に役立つ働き方をめざします。

であり、その「組合員」は、

> 「ワーカーズ協同組合」法人において協同労働に従事する者は原則として組合員 (=従事組合員) となり、組合員は組合の事業に原則として従事します。組合は、事業で働く者を<雇用者>として雇い入れるものではありません。

そして、労働法学的にもっとも関心の高い点である「従事組合員の労働者性」について、

「ワーカーズ協同組合」法人は、「バランスを持った人間らしい働き方」を理念としており、その最低保障のため、組合法人を<使用者>、従事組合員を<労働者>として、法の保護下におきます。
従事組合員は、雇用保険法及び労災保険法でいう<労働者>として保護され、かつ、組合の事業にボランティアとして協力する者も「労災給付」が受けられるものとします。

と書かれています。ここはいろんな議論があり得るところでしょう。

ちなみに、6年前に出した拙著『労働法政策』の中で、「労働者協同組合」についてこのように記述しておりました。

>(3) 労働者協同組合

 これは法制的には現行法上存在しない。労働者協同組合という名で活動している団体は、未だ法制化を求める運動の状態にある。
 この運動はもともと失業対策事業の就労者団体である全日自労が母体である。失業対策事業への新規流入がストップされ、終焉に向けて先細りになっていく中で、1970年代以来、失業者や中高年齢者の仕事作りを目指す中高年雇用福祉事業団の運動が起こった。しかしそれはなお失対就労者の色彩の強い公的就労事業を求める運動に過ぎなかった。
 しかしそのような運動に将来展望があるはずはなく、1980年代半ば以降特にヨーロッパ諸国における協同組合運動との交流を深める中で、労働者協同組合の形で運動を展開してきた。これが近年その法制化を求めて運動を展開している。
 そこでは「協同労働の協同組合法」という名称のもと法案要綱*22を提案しているが、内容的には現行の企業組合をさらに一歩進めたようなものとなっている。それによると、協同労働とは「働く意思のある者が協同で事業を行うために出資をし、これらの者が協同で経営を管理し、物を生産し、又はサービスを提供すること」をいうとされている。具体的には、社会に有用な物又はサービスを提供し、自発的に労働の機会を拡大する事業、組合員及び就労希望者の職業能力及び協同組合に関する知識の向上を図る事業、組合員の生活の共済に関する事業及び地域社会の福祉の向上を推進する事業等とされているが、法制化のポイントは法人格の取得という点にある。

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はだかの王様の労働法

下の「「一般職に、男ですよ」・・・でどこが悪いの?」の記事には、現在まで194件のブックマーク、

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-3cff.html

141件の「つぶやき」

http://tweetbuzz.jp/entry/20589372/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-3cff.html

がつけられていますが、改めてこの問題への関心の高さを感じました。

ただその中に、あれだけ皮肉に満ちた書き方をしているにもかかわらず、

chnpk chnpk とはいえ、一般職は主に女性がなるという常識は間違いなくあった。良い悪いは別にして、それがさもなかったかのように、またはあるべきではないといったべき論だけを話す人には違和感 2010/04/14 Add Starruletheworld

というような受け取られ方をすると、さすがに疲れます。まさか、わたくしがそんな「常識」も知らずに「べき論」だけで書いているとでも?

言うまでもなくそういう「常識」はありましたが、それがどういう存立構造の下の「常識」であったかが問題でしてね。

拙著『新しい労働社会-雇用システムの再構築へ』の中で、「女性労働者」という項目では、「総合職」だの「一般職」だのという偽装工作がされる以前の伝統モデルから説き起こしています。

>古典的な日本型雇用システムにおいては、非正規労働者ではない女性労働者(女性正社員)は、男性正社員と同様のフルメンバーシップを持っていたわけではなく、いくつかの点で制限のある準メンバーであったといえます。その特徴の第一は、新規採用から定年退職までの長期的メンバーシップではなく、新規採用から結婚退職までの短期的メンバーシップであったという点です。従って、正社員として年功的に昇給するといっても結婚退職までの若年期だけですから生活給ではありません。こういった事務職場の補助業務を中心とする女性労働モデルを、高度成長期まではビジネス・ガール(BG),その後はオフィス・レディ(OL)と呼びました。

 男性正社員が長期勤続を前提にして手厚い教育訓練を受け、配置転換を繰り返していくのに対して、短期勤続が前提の女性正社員はそういった雇用管理からは排除されていました。しかし、その間は正社員としてのメリットは十分享受できる仕組みになっており、それを男女差別と捉える考え方はほとんど見られませんでした。むしろ、家庭において妻が夫を支えるように、会社でも女性正社員が男性正社員を支えるのだという認識が一般的だったようです。

 短期勤続が前提とはいえ、ある程度の期間は勤続してもらわなければ、事務補助業務といえども円滑に回りません。そのため、結婚適齢期まである程度の勤続が見込まれる高卒女性が主としてその対象となりました。これがやがて学歴水準の上昇とともに短大卒に移行しましたが、四年制大学卒の女性は長らく排除されていました。これは、長期勤続を前提とした男性正社員並の処遇をすることは考慮の外であったためです。

 1985年男女雇用機会均等法の制定に対応するため、大企業を中心に導入されたのがコース別雇用管理です。これは通常、「総合職」と呼ばれる基幹的業務に従事する「職種」と、「一般職」と呼ばれる補助的な業務に従事する「職種」を区分し、それぞれに対応する人事制度を用意するというものです。「職種」といっても、いかなる意味でもジョブとは関係がなく、それまでの男性正社員の働き方と女性正社員の働き方をコースとして明確化したものに過ぎません。ただ、女性でも総合職になれるし、男性が一般職になることも(実際にはほとんどありませんが)あり得るという仕組みにすることで、男女平等法制に対応した人事制度という形を整えたわけです

 実際には、総合職の条件として転勤に応じられることといった条件が付けられることが多く、家庭責任を負った既婚女性にとってこれに応えることは困難でした。頻繁な配置転換が日本型雇用システムの重要な要素であることは確かですが、女性を総合職にしないために、企業がわざわざ転勤要件を要求したという面もありそうです。

太字のところが重要です。

王様が裸でない証拠に「男も一般職になれる」ことにしておいたのに、「一般職に、男ですよ・・・」と口走るのは、礼装していることになっている王様の前で「裸でどこが悪い」と叫ぶのに等しいのですよ。理論的には。

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「一般職に、男ですよ」・・・でどこが悪いの?

日経ビジネスオンラインの「時事深層」というコラム。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100408/213893/

タイトルが「ゆとり世代は男子も「一般職」」。

で、冒頭の文句が、これ。

>「一般職に、男ですよ」

 困惑を隠し切れないといった表情で、ある生命保険会社のベテラン採用担当者が話す。企業の採用活動が本格化する4月。その最前線では、一昔前なら考えられない事態が起きている。

はあ、男が一般職なんてとんでもないというご認識ですか。「一昔前」とか、一昔前以前から存在した男女均等やら男女共同参画なんてどこの世迷い言やらという世界ですなあ。

いや、その生命保険会社のベテランさんが、というよりも、なにやら最先端がどうたらこうたらいうてはる日経ビジネスさんが、という意味ですよ。

ビジネスの最先端の感覚は、「男たるもの、一般職なんて恥ずかしいと思え」という世界でありますか。

>この保険会社では、長らく一般職と総合職の2つの職種で学生を採用してきた。一般職は、社内の事務処理などの仕事が中心であり、キャリアを積み重ねていく総合職とは異なる。応募条件に男女の制限はないが、通常は女性が就く職種と考えられてきた。

社内の事務処理なんて云う「女房仕事」は女がやることで、一人前の男がやることではない、と。

>彼らはどんな理由で一般職に応募するのか。先の採用担当者によれば、ある男子学生の志望理由は、「遠方への転勤がないから」だった。「一般職は、勤務地が大きく変わることがないことから、自宅から通える仕事を安易に選んだ、というのが本音だったようだ」。

なるほど、ワークライフバランスなどと言う寝言をほざくふざけた男は、「安易に選んだ」と罵られるわけであります。

>だが、大企業の採用担当者は手厳しい。「一般職に応募する男性は、まず採用しない」と口を揃える。

男たるもの、24時間戦えるジャパニーズビジネスマンじゃなくっちゃいけません。

それが「ゆとり世代」批判として堂々とでてくるのですから、なかなか根は深うございますなあ。

まあ、なんにせよ、公式的な場で棒読み風に語られるのとはひと味違う本音が炸裂していて、なかなか興味深いものがあります。

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マシナリさんのコメント

ホリエモン氏の発言へのわたくしのコメントから始まった一連の記事について、マシナリさんがご自分のブログで興味深いコメントをされています。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-383.html(自発的労働)

>ここでhamachan先生が論じられていることが実体験として理解されていないことが、日本の労働問題を考えるときに一番のネックなのではないかと思います。実際、このコメントに対して「さすが机の上の世界しか知らない人の集まりって感じですね。「現場」のことを知らない人らしい論じられ方です。公務員的っていうか。この公務員的な発想が今のぼろぼろの日本を創ってきたような気がします。」といようなコメントがついていますし。

>・・・そういった現場に近い方々の話し合いの場を指して「机の上の世界」といえるかという点に、労働問題に対する距離感が表れるのかもしれません

実際、現実の経営者に一番悩まされていてボヤキがでるのは、実は経営団体の方なんですね。「そういうやり方をしてはいけません」と知恵を付けようとしても、聞く耳を持たない中小企業のオヤジさんたちと一番つきあわなければならないのは、じつは彼らなのですから。

>それよりも、「中小企業のオヤジさん」の心情を引用したhamachan先生のコメントに対する反応をみると、それにはあまり言及されることもなく、六本木で働いていた元社長の個人的な見解のほうにシンパシーが集まっているという状況のほうが、より深刻な問題に思われます。

たぶん、その方々の脳裏においては、最先端のかっこいい「ベンチャー企業」と、「中小企業のオヤジさん」とは全然別の領域を占めていて、なんでかっこいいベンチャーを「オヤジ」扱いするのだ、と感じているのではないかと思われます。

でもね、「ベンチャー」と褒め称えられる企業のかなりの部分は、こういう業界のベンチャーなんですよ。社長の年齢が「オヤジ」であるかどうかは本質的な問題ではありません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b066.html(決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!)

>>ところで、ベンチャー系チェーンの中には、経営者を崇拝する社員たちが、自らサービス残業を買って出るケースもあるようだ。

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カチンの悲劇とクビの圧力

カチンの森の虐殺から70年後に、その慰霊蔡に出席するカチンスキ大統領がカチンの森で墜落死するという因縁話めいた事故については、既に様々な報道がされていますので、本ブログはそれに関する記事から労働問題といえるかも知れない話を一つ紹介しておきます。例によって、ソースはEurActivです。

http://www.euractiv.com/en/central-europe/poland-stricken-second-katyn-tragedy-news-432484(Poland ‘stricken by second Katyn tragedy’)

出てくるビエレツキさんはポーランドのジャーナリスト。

>Pilot under pressure?

パイロットはプレッシャーを受けていた?

Bielecki said Polish citizens are now eager to know why the plane commander had attempted to land at Smolensk. Before it crashed, the plane had made three unsuccessful attempts to land at Smolensk airport, which was not fitted with modern navigation system, he said.

操縦士はなぜスモレンスクに着陸しようとしたのか。墜落前、この飛行機は3回も着陸に失敗している。スモレンスク空港は現代航空システムに適していなかったのだ。

The plane commander had been advised to land in Minsk, Belarus, 400 km from there, Bielecki said. "We expect the black boxes to reveal if there was pressure on the commander to land in Smolensk," he added.

操縦士は、ベラルーシのミンスク空港に着陸するようアドバイスを受けていた。ブラックボックスにより、操縦士がスモレンスク空港に着陸するよう圧力を受けていたかどうかが分かるだろう。

Bielecki has traveled several times with the presidential airplane. He said that on a previous occasion, when Kaczyński was travelling to Georgia in 2008, the commander refused to land in Tbilissi because the airport was not fitted with modern navigation systems.

ビエレツキは大統領専用機で何回も旅行したことがある。かつて2008年に、カチンスキ大統領がグルジアに旅行したとき、操縦士は現代航空システムに適していないトビリシ空港への着陸を拒否した。

"The pilot landed in Baku [in neighbouring Azerbaijan] and Kaczyński threatened to have him dismissed from his job," he said. Four years ago, Bielecki said one of the engines of the same plane took fire when he was accompanying finance minister Marek Belka to Vietnam.

パイロットは隣国アゼルバイジャンのバクー空港に着陸したが、カチンスキは彼に対し、クビにするぞと脅したことがある。4年前、ベルカ財務相に随行したとき、同じ飛行機のエンジンが火を噴いたという。

"The big question is: did the president urge the pilot to land in Smolensk. Was there such a pressure?"

大きな疑問は、大統領がパイロットにスモレンスクに着陸するよう強制したかということだ。そういう圧力があったのか?

ということで、ほんとうにカチンスキ大統領がパイロットに「云うこと聞かないとクビにするぞ」と無理矢理スモレンスクに着陸させようとして事故を引き起こしたのかどうかは、未だ分かりませんが、国内にそういう声があることは確かなようです。

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「もちつけblog(仮)」さんの拙著書評 その6

橋口昌治さんの拙著批判に対するレスポンスをわたくしが書いたとたんに、タイミング良く「もちつけblog(仮)」さんが、その分野に関する書評を第6弾として書かれています。

http://webrog.blog68.fc2.com/blog-entry-118.html

テーマは大きく二つ。

>労働組合再生のために -企業内への包摂か、業界・職種同士の連帯か

>利害を怖れないこと、あるいはポピュリズム批判について

です。

前者については、(おそらく橋口さんによる)アマゾンの「S/H」名義の書評を引用しつつ、

>このように【積年】ともいうべき対立に対して、どのように解決を見いだしていくべきなのか。企業内組合に包摂するとすれば、どうやっていけばいいのか。著者としては、漸近的にできるだけ多くの企業の組合に対して、「メンバーシップを企業内のすべての労働者に開く」よう働きかけていく事を提唱するのだろうと思います。(注1) 制度的にどうすべきかについては、後々触れる予定です。

と述べられています。

さらに、注で昨日の黒川滋さんのコメントを取り上げ、

>本稿についてはおそらく、前掲「橋口昌治さんの拙著批判について」での、「きょうも歩く」さんのコメントが重要な意味を持つはずです。

・・・・・・

首肯します

と述べられています。いかにもいいタイミングでした。

後者については、

>もし、「改革」することが「痛みを伴う」のならば、それは上から降ってくるのではなく、互いに利害をぶつけ合って、そしてその中で合意し、それに伴う痛みを、引き受けるべきだ。著者の述べるところはこれでありましょう。
 巷間に流行るベーシック・インカム論が、ともすれば、利害関係者同士による葛藤を忌避するためのものになってしまっている気味もあります。その点でも、著者がこの「BI論」に批判的なのは、無理なからぬことです。

と説明しつつ、

>ただし、著者はアクティベーションを支持されており、当然労働者の雇用は流動化する以上、企業内労働組合を社会的な枠組みとするならば、労働者はいくつもの労働組合を渡り歩くことになります。企業内労働組合に何度も入りなおすとなった場合、「新参/古参」の間での対立は懸念されないのでしょうか。

という疑問を提起されています。

ここはなかなかに深い問題をはらんでおり、きれいな議論としては職場に根ざした労働者代表システムとより広い労働市場レベルの(欧州的な意味での)労働組合の役割分担という形になるのですが、現実の日本ではその基盤がないため、そういう形で論じてみても嘘くさくなってしまうという問題があるのですね。「もちつけ」さんの慧眼の通り、ここは突っ込むといろいろと問題が湧いてくる領域です。

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菅野労働法の四半世紀

30445 菅野和夫先生より、定番の教科書『労働法』の第9版をお送りいただきました。いつもお心に掛けていただき有り難うございます。

思い返せば、私は駒場で石川吉右衛門先生の「法学」を聞き、本郷で若き菅野先生の「労働法」を聞いたという数少ない世代ですが(笑)、そのころはいうまでもなく本書は存在せず、一生懸命ノートをとっていた記憶がかすかにあります。

本書の初版が出たのは1985年。男女雇用機会均等法や労働者派遣法が成立した年です。以来25年間、四半世紀に渉って、本書は労働法の定番とされてきました。今でも思い出すのは、わたくしが衆議院事務局に勤務していた2003年の厚生労働委員会で労働基準法改正案が審議されていた委員会室で、当時野党だった民主党の城島正光(現光力)議員が、菅野先生の分厚い『労働法』を手にしながら、「ここにこう書いてあるではないか」と舌鋒鋭く政府委員に詰め寄る姿です。

やや楽屋落ちですが、初版のはしがきに、

>さらに、労働省の安藤信之氏には、第2編を中心として細部にわたる資料的なチェックをお願いした。

2003年の第6版のはしがきに、

>また、厚生労働省の山口高広氏は第2編を中心に資料やデータの行き届いた収集整理をしてくださった。

そして今回の第9版のはしがきに、

>今回の改訂に際しては、「労働市場の法」の箇所を中心に労働政策研究・研修機構の森實久美子氏が資料の収集整理や初校のチェック等のお世話をいただいた。

とあるのも、この25年の歳月の流れを感じさせます。

さて、今回の改訂で一番力が入っているように見えるのは、511頁から518頁まで、8頁を費やして論じられている「労組法上の労働者」の項目です。正直ここは教科書的記述を超えてものすごく力が入っているという感じです。

特にその冒頭、「労組法上の労働者の立法趣旨」の項では、注釈の中で旧労組法を審議する議会の議事録を引用して、

>「サウ云フ個々ノ請負業者ガ物ヲ作ッテ交渉スル場合ニハ團結権ヲ認メテ下サル、交渉権ヲ認メテ下サル、ソウ云フ工合ニハッキリ考エテ差支ヘゴザイマセンデセウネ」との質問に対し、「御解釈ノ通リデアリマス」と明言されている。つまり、時間的拘束性がなく、報酬も出来高払いであって、家族など本人以外の労務供給もなされる請負業者や家内労働者も同法の労働者に該当しうるとの立法者意思を明らかにした政府見解が述べられている。

と強調しています。

これはさらに、566頁から567頁にかけて「「労働者」と「雇用する労働者」との関係」として、団体交渉権との関係で論じられ、さらに668頁から669頁にかけて「「使用者」と「使用者が雇用する」との関係」として、不当労働行為との関係で論じられています。

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橋口昌治さんの拙著批判について

さて、ホリエモン騒ぎはそろそろおいといて、打ち掛けになっていた橋口昌治さんのわたくしに対する批判です。『生存学』第2号に掲載された橋口さんの「労働運動の社会運動化と社会運動の労働運動化の交差」という論文の最後の節が、まるまるわたくしの『新しい労働社会』の第4章に対する批判になっています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/20100406123153794_0001.pdf

>本書やブログなどの主張を読むと、濱口氏は「外で騒いでいるだけ」のユニオンより、企業別組合によって職場の民主主義が再構築されることを現実的だと考えているようである。確かに企業別組合の変化、職場における民主主義の実現は重要課題である。しかし、「民主主義は工場の面前で立ちすくむ」と言われて久しい中、主流の労働組合が自ら率先して民主的な組合運営、職場の民主化を進めていくと考えているのだとしたら、濱口氏を「リアリスト」だと評価することはできない。実際、今これほど労働問題への関心が高まっているのはユニオンが「騒いだ」からこそであり、主流の組合は腰が重いのが現状である。また、民主的な組合運営の模索を長年行ってきたのもユニオンなのであり、そうした活動を軽視して「新しい労働社会」を展望することはできない。濱口氏が本書で論じている均等待遇や派遣労働問題は、ユニオンなどが粘り強く取り上げてこなければ社会問題にはならなかったであろう。そうした運動の成果にフリーライドする一方で、ユニオンの存在を軽視し、複数組合主義に否定的な態度をとることはフェアではない。成果だけを取り上げ、それを生んだ運動を軽視しているため、本書の提言する諸施策を進めていく主体は、結局のところ濱口氏の理想の中にしか存在しないのではないだろうか。本稿で論じてきたような運動のダイナミクスを捉え切れていない濱口氏の議論は、運動なき運動論になってしまっている。

同様の批判がアマゾンレビューにありましたが、

http://www.amazon.co.jp/review/R20F822D3FCMJC/ref=cm_cr_rdp_permリアリストなのだろうか

おそらくこの「S/H」さんは橋口昌治さんではないかと思われます。

ここで言われていることは2点あります。「ユニオンが騒いだから関心が高まったんじゃないか」というのはある意味その通りです。そして、そのこと自体はわたくしは否定しておりませんし、その功績を評価することにやぶさかではありません。しかし、それはあくまでも、かつて『POSSE』のインタビューで述べた言葉を引用すれば、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/posse04.html

>要するにあれは「叫び」です。・・・叫びそのものに意味があるのだけれども

ユニオンが「叫」んだから多くの人が耳を傾けた、というのは、そのとおりですが、「叫び」だけで現実の職場における正規と非正規の格差が消滅するわけではありません。

現実の職場でそれを遂行するためには、「叫ぶ」ことに粘り強いユニオンではなく、使用者との交渉に、そして何より正社員組合員を説得することに粘り強い企業別組合が、粘り強く遂行しなければなりません。

最近よく取り上げられる広島電鉄の労働組合の事例は、まさにそのいい例だと思います。

ここではもともと、会社がコスト削減策として分社化を提案したのに対して、賃金引き下げを危惧した組合が反対し、その結果有期雇用で家族給のない定額賃金の契約社員制度が導入されました。まさに、池田信夫氏や城繁幸氏が鬼の首を取ったように喜ぶ「正社員組合のエゴ」の例だったわけです。

しかし、ここの組合は契約社員も組合員とし、その正社員化を要求し続けました。まず、正社員Ⅱという期間の定めがないが定額給の制度ができ、さらに労働条件の統一を要求しました。しかし、もともと労務コストから契約社員を導入したのですから、全員今までの正社員並みの賃金に統一することは困難です。

これに対し会社側は、すべて職種と職責に応じた職種別賃金制度の導入を提案し、組合はこれを受け入れたのです。その結果、高年齢、長期勤続の正社員の賃金、退職金は大きく引き下げられました。正社員と契約社員が不利益分配という連帯を実現したのです。これは「叫び」だけでは実現しえないことだと思います。

最終的に妥結する前の段階で書かれた報告書ですが、連合総研の「非正規労働者の組織化」報告書に収録された「第10章 ユニオン・ショップ協定を前提とした契約社員制度の導入 私鉄中国地方労働組合 広島電鉄支部」は、この事例を詳しく紹介しています。

http://rengo-soken.or.jp/report_db/file/1233737989_a.pdf

橋口さんは「本書の提言する諸施策を進めていく主体は、結局のところ濱口氏の理想の中にしか存在しないのではないだろうか」と言われるのですが、私は必ずしもそうではないと思います。そして、ある種の人々が目の仇にするユニオンショップを、わたくしがむしろ肯定的に捉えるのは、正規と非正規を同じ連帯の枠の中に入れていくためには、それが役に立つはずだと「リアリストとして」考えるからでもあります。

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決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!

ダイヤモンド・オンラインの「格差社会の中心で友愛を叫ぶ」から、「じつは派遣より悲惨!?“ブラック化”する外食・小売チェーンの正社員たち」というタイトルの、読んでいくうちに背筋が冷えてくるリポートを。筆者は西川敦子さん。

http://diamond.jp/articles/-/7843

>“交通事故を引き起こす社員がやたらと多い”。

 これが「外食産業の裏側」の管理人で、大手外食チェーンで働く大塚賢児さん(仮名・30代)の率直な感想だ。疲労と睡眠不足でハンドル操作を誤るのだろうか。車が全損するほどの大きな事故もまれではないそうだ。

 社員の悲劇はそれだけにとどまらない。

「寝床から起き上がれない」と電話をかけてきたきり、退職する社員。接客中に倒れる社員。突然、失踪してしまう社員。

 今までに大勢の同僚がこうして職場から消えて行った。

 大塚さん自身、危うい場面を何度も経験している。運転中、信号待ちの間に猛烈な睡魔が襲ってくることは数知れず。39度の熱に浮かされても仕事を休むことはできない。

“身近で格安”というイメージのある外食・小売チェーン。だがその裏では、一部の企業で過重労働問題が多発している、という声がある。

具体的な事例はぜひリンク先をじっくりお読みいただきたいところですが、雇われて従わざるを得ない側の

>なんだかんだで自宅に戻る時間がなく、控室の床に段ボールを敷いて寝ることも多い、と大塚さん。店の駐車場に停めた車で寝ることもしばしばだ。

 たまに帰宅すれば、ベッドに倒れこんで泥のように眠るだけ。アパートのポストは郵便やDMがいっぱいで、洗濯カゴからは汚れた衣服が溢れているが、どうすることもできない。

というような状態を、自分で好きに夜中まで働いているベンチャー経営者の感覚で

http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10428558374.html

>最近は新規上場する会社の元従業員とかがチクって労働基準法違反が見つかり上場審査で×を貰うことも多いらしい。ベンチャー企業の従業員の多くは好きで夜遅くまで働いている奴も多いのに、それができなくなる。なんて馬鹿馬鹿しい。きっと労働生産性が低く働きづらくなってやめた社員の僻みだったりするんだろうが。

と罵る神経はあまりいただけるものではありませんね。

もちろん、本ブログにも現れたように、そういうのを崇拝する人々もいるようで、

>ところで、ベンチャー系チェーンの中には、経営者を崇拝する社員たちが、自らサービス残業を買って出るケースもあるようだ。

 ブラック企業の問題に詳しいNPO法人若者就職支援協会の黒沢一樹さんは、自身もベンチャー系の飲食店チェーンで働いた経験を持つ。

「1日の平均勤務時間は16時間くらいでしたね。サービス残業はあたりまえで、泊まりもありました。みんなけっこう自分から長時間労働をしているので、おかしいなと思い、『どうしてこんなに働くんですか』って聞いたことがあるんです。そうしたら『決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!』と……。

 その店では社長が神様みたいに思われていて『あの人はすごい』『社長様さまです』ってみんな言い合っていた。たしかに店員は一生懸命接客していて、サービスの質は高かった。でも、それだけ働いて、正社員でも月20万円の給料って、どうなんだろう、と。結局、その会社は僕が辞めてまもなく潰れてしまいました」

なるほど、いかにも。「決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!」ですか。

そういえば、

>だいたいこのような起業家の元には、同じような価値観を持った人たちが集まり、自分の意思で夢を叶えるために必死に頑張っているだけです。努力しているだけです。

>努力している人、頑張っている人を批判するのはよくない。
あなたの頭のレベル、低いね。

と罵倒した人もいましたっけ。

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『JP総研Research』9号

Jp 日本郵政グループ労働組合のJP総合研究所から『JP総研Research』3月号(第9号)をお送りいただきました。

http://www.jprouso.or.jp/activity/lab/publish/index.html

特集●国民が求める郵政改革

3 標準化と地域特化の複合型金融サービスを― 人間は利己心のみでは行動しない、人間はコミュニティを求める(ピーター・ドラッカー) ―東京国際大学(TIU)学長 田尻 嗣夫

16 引き返せない「国策の蹉跌」― 市町村合併と地域社会 ―福島大学 行政政策学類 教授 今井 照

22 郵便局と自治体の連携・協働立正大学 法学部 教授 山口 道昭

28 郵便局を活用した地域コミュニティの再生― 郵政見直し後の郵便局の事業戦略 ―学習院大学 経済学部 講師 武井 孝介

という特集でして、わたくしはこの分野には詳しくないので郵政改革自体については特段のコメントはする能力はないのですが、最初の田尻さんの論文の中に「金融排除」(ファイナンシャル・エクスクルージョン)という言葉が出てきて、社会的排除の問題とつながってくるところがあり、いささか興味を惹かれました。

この田尻さんの論文は、リンク先に全文アップされていますので、読めます。

http://www.jprouso.or.jp/activity/lab/publish/pdf/09_1.pdf

その中で「欧米で広がる「金融排除」は日本も例外ではない」と述べ、

>世界的な市場経済化のなかで起きているこうした金融排除は、所得格差や教育格差の拡大などとともに社会的疎外を加速する重大な問題とみなされつつある。イギリスの国際金融学者A.ウオルターは、金融の市場経済化とそれによる金融革新が特定のグループ・階層にのみ利益を与える形で進行し、①小口預金者よりも洗練された金融資本に、②米国ではリテールバンキングを本業とする商業銀行よりも証券会社・投資銀行に、③国内定着型の企業・地場産業よりも国際的に移動可能な大企業・産業に、④製造業では、移動しない労働者よりも知的に熟練したホワイトカラーに――より大きな利益をもたらしていると分析している。

郵便と小口・個人の金融機会は、現代の経済社会において人間的な暮らしを営むことを可能にする必要不可欠のパスポートである。また、こうしたリテールバンキングをめぐる国際的な情勢からも、郵政三事業は国家の権力的な介入を排除し個人の自由を保障する「自由権」概念からではなく、生存権や勤労の権利、教育を受ける権利等と同じく国家が国民に保障すべき「社会権」概念に基づくナショナル・ミニマムとして制度設計されるべきは当然である。

と論じています。実際、EUの社会的排除の議論では金融排除が大きく取り上げられてきていますし、「小口・個人の金融機会」が「生存権や勤労の権利、教育を受ける権利等と同じく国家が国民に保障すべき「社会権」概念に基づくナショナル・ミニマムとして制度設計されるべき」というのはもっともだと思うのですが、それが郵便局でなければならないかどうかは、また別の議論のような気もします。

このあたり、協同金融をどう考えるかとか、金融のセーフティネットはどう張り巡らされるべきか、といった議論とつながると思うのですが、現時点ではわたくしに論ずるだけの素養がないので、とりあえず紹介にとどめておきます。

欧州委員会の金融排除に関する政策文書では、マイクロファイナンスなどのオルタナティブな商業金融機関や非営利金融機関の役割を強調するとともに、すべての市民が銀行口座を持てるようにする法規制(「ベーシック銀行口座」)などが取り上げられていて、郵便局を金融セーフティネットに使おうという考え方は出てこないのですが、これは両国の風土の違いなのかも知れません。

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労働政策レポート『労働市場のセーフティネット』

Repo 労働政策研究・研修機構(JILPT)から、労働政策レポートNo.7として、『労働市場のセーフティネット』が出ました。わたくしが書いております。

http://www.jil.go.jp/institute/rodo/2010/007.htm

本文とサマリーがPDFファイルで入っていますので、ダウンロードしてお読みいただけます。

概要は、「研究の目的と方法」「主な事実発見」「政策的含意・提言」を書けといわれたので、もっともらしく次のように書いておりますが、要するに政策の歴史であります。

>研究の目的と方法

近年、労働市場のセーフティネットに対する関心が高まっている。これまでは、労働研究の分野においては、就業している間の雇用労働条件やその変更に関心が集中し、失業した際のセーフティネットのあり方についてはほとんど議論がされてこなかった。一方、社会保障研究の分野においては、年金や医療保険、最近は介護保険といった分野が主たる関心の対象となり、やはり失業時のセーフティネットは二の次、三の次のテーマであった。

しかしながら、2008年のリーマンショック以来の不況の中で、とりわけ派遣労働者をはじめとする非正規労働者のためのセーフティネットの不備が大きく取り上げられるようになる中で、雇用保険制度と生活保護制度を労働市場のセーフティネットとして一体的に捉える観点の重要性が浮かび上がってきた。2008年末から雇用保険制度と生活保護制度の間に整備されるべきいわゆる「第2層のセーフティネット」が労使団体から提起され、短期間の間に政策として形成されてきたが、その意味を的確に理解するためには、第1層(雇用保険制度)と第3層(生活保護制度)との関係を総合的に把握する必要がある。

本書では、こういった領域の諸問題を考える上で有用と思われる諸制度の歴史的展開と最近の動向についての解説を行う。それらを踏まえて、今後の制度設計の議論が進められていくことを期待したい。

主な事実発見

厳密な意味での新たな事実の発見はないが、これまであまり知られていなかった雇用保険制度における非正規労働者の扱いの原点やその経緯、生活保護制度におけるワークフェア的契機など、政策論を進める上で有用な事実が指摘されている。

政策的含意・提言

適用拡大された雇用保険制度と、職業訓練受講を前提とする求職者支援制度と、様々な自立支援やセラピーなど自立支援を伴った生活保護制度を組み合わせながら、誰もこぼれ落ちることのない切れ目のない労働市場のセーフティネットを構築する必要がある。

中身は、

第1部 雇用保険制度の展開

第2部 新たなセーフティネットの提案と実現

第3部 公的扶助制度の展開

となっています。やや長めですが、今日的問題を考える上で何かのご参考にしていただければ。

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日本学術会議大学と職業との接続検討分科会におけるhamachan発言録

さて、日本学術会議のHPに大学と職業との接続検討分科会の第3回から第5回までの議事録がアップされましたので、その中からわたくしの発言部分を紹介したいと思います。議事録は、報告者以外は「○」となっているのですが、まあ、わたくしの発言は「○」となっていてもわかるでしょう、とはいいながら、読者の皆様のために。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi03.pdf(第3回)(7月7日)

まずは田中萬年先生の「教育における職業的イレリバンスの十大要因」という報告がありまして、それを受けて、

>濱口 企業が「下手に専門能力をつけてもらっては困る」と言う、ということは始めからあったわけではない。50年代頃に当時の日経連は「もっと専門教育をやれ、基礎教育などやるな」という提案をした。これが60年代頃に途絶えていった。なぜそうなったかというと、おそらく教育が対応できなかったからである。ところが企業の方が企業内教育としてやってしまうと、逆にそれが言わば前提になってしまう。そこで改めて大学が専門的なものを作ったとしても、企業の方ではそんなものはいらないという話になってしまう。言わば一種の相互依存的な関係が作られてしまう。実はここがこの検討分科会の最大の難しさで、上から「正しい結論」を出すのはある意味簡単だが、社会の全てのものには、例えば教育がこうである、ということを前提にして企業システムができてしまうと、一方ではそれを前提にして教育のシステムができる。そして今のような状態になってしまうと、そう簡単に「正しい在り方」に変われるわけではない。

>濱口 二番目の徒弟制度の話も、話はもう少し複雑だと思う。終戦直後の段階では、確かに徒弟制度はよくないという話だった。徒弟制度がよくないということをどういうふうに是正するかというと、教育システムできちんと職業教育をやろう、ということである。少なくとも教育基本法を作った人の発想はそうで、今まで会社の中でやっていたものはよくないので、教育システムで職業教育をやるということだった、ということだった。ところがその受け皿ができたか、というとできなかった。その結果何が起こったかというと、本来徒弟というのは会社がやるのだが、中身自体は社会的に必要な人材を作る、ということである。ところが、現実に起こったのは、社員として入れて、会社にとって必要な人材を作るというものになっている。本来の徒弟とは違う形で、徒弟的な機能を企業が果たさなければならなくなった。本来の徒弟制度であればもっと社会的な性格を持ったものであったものが、そうではない形で発展してしまった、ということで、話自体が二重三重に入り組んでいる。

>濱口 ただ、今の本田先生の質問の趣旨からすると、課題解決能力や、学ぶ力、OS的能力というのは、何をしていれば、何をとっていれば、それがあると社会的に認定されるのか。少なくとも大学の法学部や経済学部のディプロマを持っていることが、問題解決能力を有していることの証明書になるか、というと社会的にはそうではない。このことのもっとも典型的な例が、以前外務省に出向していたことがあったが、昔の外務省は面白いことに、一番のエリートは大学中退だった。また、中退者の方が優秀だ、という考えがまかり通っていたということである。つまり専門教育は二年間しかなく、さらに最初の一年間しかやっていない人間の方が問題解決能力や学ぶ力がある、と認められていた。これはもちろん外交官試験という特別な試験があった、ということがある。しかし周りの世界からして非常に異常なことをやっているか、というとおそらくそうではないと思う。おそらくそこにあるのは、確かに企業はこういうものを求めている。それは何で判断されるか、というと、少なくともディプロマではないと思う。

続いて本田由紀先生の「日本の大卒就職の特殊性を問い直す―QOL問題に着目して」という報告。これは先日本ブログでご紹介した苅谷・本田編『大卒就職の社会学』の一章です。

ここで、矢野先生が就活を規制することをきちんと言うべきだと主張されたところからいろいろ議論になりました。わたしは、経済的合理性でそうなっているものをただ規制しろでは済まないと言っています。

>濱口) 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。

二番目に、システムの問題といってもそう簡単ではない。そのシステムを前提に色々なものができている。大学の教育の職業的レリバンスをより高めるという議論はそれだけ言っていると非常にもっともな理論である。しかし、それは現に職業レリバンスのない教育を行っている大学教員たちの労働市場の問題を発生させ、今大学で禄を食んでいる人のかなりの部分の職を奪うことになると思う。なぜかというと、そのシステムを前提としてそういう職業レリバンスのない教育をしてきたからである。それでもさらにオーバードクターの問題が発生してきたわけで、それを逆方向に向けたりすると、おそらく大変な事態が起こる。そうするとシステムの問題はシステムとしてしか解決できないが、システムの解決は漸進的にしかできない。そうすると、格好良い結論というのは、相当の代償のある話となる。そのため、たいてい何か書かれている割に、最後はあまり内容のないものになってしまう。これはたぶん仕方がないと思う。それ以上に格好良いことを言えば、それはおそらく空論に終わってしまう。何が必要かというと、やはり枠組みの議論をきちんとした上で、中長期的な、将来的な姿に向けて短期的に何ができるか、という議論を分けてしていくしかないのではないかと思う。せっかくこういう場なので、いきなりマスコミ受けする結論が出た方が格好良くはなるけれども、それは逆にアクチュアリティーをなくしてしまうのではないか。一部の有力企業や有力大学についてはおっしゃるとおりかもしれないが、それをもとに色々なシステムができて皆が動いているときに、逆にそこから降りられるか、というと、一人では降りられないと思う。

これに矢野先生が「私は合理的に考えて言っている」、「大学教育を語るときに、授業やゼミが成り立たないという状況を放置していて、これが競争合理的な方法だから、システムがそうなっているからという説明でおいておくのか」と反論され、以下、

>濱口 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。

矢野 世の中には規制があるのは普通である。

濱口 私はまさに規制は必要だと考えている。しかし、不合理な規制は結局意味がないと思う。

矢野 平日の授業をやっているときに就職ガイダンスを行うような企業を規制することはどこも不合理ではないと思う。

というやりとりになります。金子良事さんには長いおあずけでしたが、こういうやりとりでありました。

次に、

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi04.pdf(第4回)(7月21日)

はじめはわたくしの「日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行」という報告。質問に答える形で、

>濱口 そもそも理工系のことはあまり知らないので、まとめて書いてしまった。いわゆる理学部の純粋科学的な所になればなるほどそうではない、ということはそうだと思う。しかし、工学や農学、薬学という所では基本的に不可分だろうし、法律や経済も上層部分になればそうだと思う。だが、実態として何が問題かというと、日本には山のように法学部や経済学部があるが、そこを出た人の圧倒的大部分は、そこで先生方が一生懸命教えたことを、学術ではなく、職業的な意味でも使うか、というと使わないことが非常に多いということだと思う。そういう意味では理工系というのは色々なグラデーションがあるだろうし、そこを言い出すと色々あると思うが、いい意味で不可分ではないかと思う。

>濱口 主体・アクターによって色々違いがあると思う。ある意味では先程の説明はやや割り切りすぎである。単純化した言い方をすると、90年代は、「企業に全部お任せ」という所から、「公的にやりましょう」とはならずに(合理的にはそう言ってもおかしくなかったが)、ありとあらゆることが「それは個人の自己啓発だ」となった。「雇用契約は、労働者個人が主体的に結ぶものだ」というように集団性を否定した。90年代は、「集団(企業)から個人へ」ということがトレンドとして非常にうたわれた。しかし、そこから零れ落ちる人が出てくることや、個人が全部できるのか、という話が本格的に議論されてくるのは、むしろ2000年代だろう。98年の山田洋次監督の映画はたぶんやや先駆的すぎたのだと思う。映画は出たが、政策としてそういう方向に行ったというわけではない。労働行政の能力開発審議会の中では、「『自己啓発』と言われるが、そのようなものでできるのはごく一部だ。結局若者や女性など、そこから零れ落ちている者についてしっかりと対応する、ということをもっと公的にやるべきだ」という議論が出てくるのは2004、2005年頃である。ただ、労働行政の中でそういう議論が出だした、ということであって、社会全体としてそうかというと、なかなかそこまで行っていないということだろうと思う。

続いて矢野先生の「教育と労働と社会―教育効果の視点から」という報告。私はまたしてもこうやってケチをつけます。

>濱口 そこはたぶんそうなのだろうと思う。そうすると、経済学部で、経済学を一生懸命勉強して、就活をせずに卒業してきた人間と、経済学はほったらかしたが、非常に広範な分野で本を読んでいる人間とどちらがいいのか。そもそも企業がなぜ就活に力を入れるか、というと人間を見ているからである。逆に、私はそういうロジックに導かないようにした方がいいのではないかと思う。そういう形にするとあまり意味がない、つまり、就活論との関係で言うと、むしろ相反する議論になってしまわないか。私は就活について、高校は職安ではなくて高校が主導しているが、中学校並みに職安化されていいではないか、というのは一つの極論として思っている。それは、戦後日本が大学というものをどう位置付けているか、ということそのものを180度根本的にひっくり返す話である。私はそういう定義をしてみる価値があると思うが、たぶん今日の話ではないと思う。

ここから矢野先生とわたくしの掛け合い漫才が始まります。

>矢野 今の無法状態ではだめだ、無法状態を放置していて就活に意味があるか、ということを、自ら大学人が教育を放棄するような状況にさらされていることを放っておくことは大学人の見識からして変だ、ということを言っている。

濱口 中高生は大人ではない。では大学生は大人なのかという根本的な話で、一個の自立した市民であるという前提なのだと思う。だとすると、一個の自立した市民は、「自分の教養のためなり今後のキャリアのために、自らの意思に基づいて自発的に受けている教育を受ける」か、それとも「企業との1対1の関係において、そちらに必要な活動に移る」か、実はそれは無法ではなくて、ただの選択の問題になる。それを選択の問題と考えず、前提が今も大学生に成り立っていたということが本当に問題だと思う。そこをスルーしたまま、あたかも知的で成熟した大人であるということを前提とした大学生が自らの判断で、物事に選考順位をつけること自体、いかなる観点からそれが善か悪かと言えるのか。あえて挑戦的な言い方をしたが、私はこれが正しいと言っているわけではない。これが正しいと言わないためには、そもそも大学生はそのような存在ではないのではないか、という議論をしないと、その議論はできないのではないか。

矢野 私は大学生だけの問題だとは思わない。授業をやっていても、授業を受けていなくてもいい、出席も欠席も個人の自由だ、というふうになってきている。その状態が放置されているにもかかわらず、質の保証と言っている。質の保証を誰がするのか。大学の教師が大学に対して、この学生は○○力があると言い、それを教えるのは教師の責任だと言われる。私は○○力というのは分かったようでよく分からない議論だと思う。なぜかというとそのような力はディシプリンをきちんとやっていれば身に付くからである。そういうことを質の保証を考える時に、教える側が教育しなくても勝手に学生が身に付けなさいと言っている。これはおかしいと思う。

濱口 おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。

以下、

>濱口 個人の選択がフィクションであるのは当然である。大人の世界というのはフィクションであっても、ある程度フィクションで成り立っている。大学というものをどのように位置付けるか。フィクションであるけれども、ある程度個人は自立して判断するという前提の上で今の大学ができてしまっている。しかし、それが事実ではないとすれば、ある意味で端的に、公的な規制の下に置く、ということはあると思う。

>濱口 たぶんいくつかのレベルがあって、自立した大人であっても、社会的に完全に自立した意志決定をできるわけではない。このような形で大人に対する規制はある。しかし、企業と個人がどうつながるか、というところに入る規制は、日本は非常に弱いというか、自由に委ねられている。大人の判断というものに対しては自由であるというのが大原則で、それに対して子どもはそうではない。それでは大学生はどっちなのか、という話である。つまり大人であるということは、大学教育が個々のゼミ・授業を就活と比較して、出る価値があるか・ないか、自分の人生にとってどちらが大事か、ということを一人ひとりが判断してやるものだ、という前提になっている。しかしそれは現実的ではない。現実的にない、という話を抜きにして、大学教育というものを学校教育法のきれいごとの世界の延長線上で描きながら、出口のところだけ急に昔の中卒・高卒の話に持ってくるのは、議論として非常に整合性に欠けるのではないか、という話をむしろしたい。

>濱口 大学は社会的にどういう存在なのか、ということだと思う。能力がつかなかったらどんどん追い出す、というのは、今までの、エリートが大学に行くことを前提とした発想だと思う。逆に、今は50年代の中学校並みが今の大学なのだ、と割り切ってしまうと、少しできが悪くてもきちんと大学卒業生として社会に送り出すことが務めである。学校教育法はエリート主義を書きながら、そういう部分だけ限りなく中学校的なやり方をしているために、こういう矛盾が出てくる。決着をつけるには、どちらかにする必要があると思う。個々の所で、二つの間にはさまれるというか、がけに落ちる状況にならないようにするためには、A大学とE大学では基準が違ってもいい。A大学にはこの基準、E大学にはこの基準というものがないと、それぞれの所でがけから落ちてしまう。

そして第5回です。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi05.pdf(第5回)(7月28日)

北村先生の「専門分野別評価と職業教育」という報告について、わたくしは一言だけ、

>濱口 技術者教育と工学教育が微妙に異なる、という話だが、「微妙に異なる」というのは「大体同じ」ということになると思う。逆に言うと、こういう議論ができていること自体がある意味で素晴らしい話で、先程から色々な問題が上がっているが、問題のレベルがだいぶ違うと思う。例えば事務屋の教育と法学系の大学教育が微妙に異なると言ったら鼻の先で笑われると思う。リーガルマインドや経済的思考が役に立つとか世の中で言われているには言われているが、「それは本当か?」と突き詰めていくとそのような主張はどこかに行ってしまう。微妙に異なるというレベルで議論できていることの方がむしろ特異であるように見えるという印象だ。

続いて連合の逢見副事務局長が「労働教育と就職活動について」。

ここは、ほんとうはわたくしは労働教育についてもきちんとコメントすべきだったと思うのですが、話の流れでもっぱら就職活動についてのみ発言しています。

>濱口 協定という言葉の定義で、協定というものがアンバインディングな紳士協定であるという意味で使われているのであれば外資であろうがなかろうが、抜け駆けするものに対する規制能力がないものというのは本質的に同じ話である。どんなものでもアウトサイダーがいる。アウトサイダーをどうするか、というと、公権力を持って強制するかという話になる。なぜこういういう話をするかというと、労使協定はどのように担保されるかというと、公権力で強制するか労働組合が強制するかである。秩序を守らせるためには、やり方としては集団的な力でやるか、国家権力でやるか、である。就職協定はそのいずれでもない、ということは「守らない人はどうぞ破ってください」と差し出している訳なので、もともと最初から強制力はないのだろうと思う。

>濱口 たとえば、高校生に対する求人は職安を通さなければいけない。どうしてもやるのならばそこまでする必要がある。なぜそんな規制が正当化されるかというと、高校生はまだ子どもだからである。子どもには教育を受ける権利がある。それを大人の論理で奪ってはいけない。では、なぜ大学生には許されているかというと、大学生は立派な大人だとみなされているからだ。40歳や50歳で大学に入っても全然問題ない。にもかかわらず、なぜ就職協定が社会的に問題になるか、というと、建前はそうかもしれないが、実際はそうではないからである。今の大学生は、実は昔の中高生レベルである。昔の中高生レベルの者に大人であることを前提にした仕組みが適用されている。その、建前と現実の狭間が問題を生じさせている。今や、大学であるかは別にして、中等後教育を受ける人の方が同世代の過半数である、という時代において、確かに民法の成人年齢は超えているが、昔の10代後半くらいに相当するような人に対してどういう仕組みでやるべきか、ということを議論しなければいけない。その一方で、建前的な学術の中心として20歳でも30歳でも40歳でも学びたい人が大学に入って学問をするのだという建前の議論と、無媒体的にくっつけてしまうと、話がおかしくなってしまう。どこにスタンスを置いて、どの視角から、どういう大学生をイメージ・念頭において議論するか、ということをきちんとしないといけないと思う。

>濱口 労働者であることと学生であることはなんら二律背反ではない。そういう意味では、大学に入る前から就職していて、実際に仕事に就くまでに大学で4年間研修してこい、ということも制度的にはありうる。しかし法律的には問題ないが、どの人を会社に採用するか、という判断基準において大学教育が何も関係ないことがあまりにもあからさまになる、ということである。

>濱口 今まではそうだったが、それではおかしい、ということで議論している。もちろん理科系と文科系で違いがあるが、企業からすると、法学部であることと経済学部であることには差がなく、その学部に対する印象によってその学生の人間性を判断する程度であった。本当にリーガルマインドや経済的思考を求めているか、ということは、突き詰めていくとなかなか難しい。今までそうだったからそれでいいのではないか、というのも一つの答えである。しかしここで求められているのは、そこをもう少し踏み込んだところで議論をしよう、という話である。

3回分まとめてなので、いささか量が多くなりましたが、どういう議論をしていたか、ある程度ご理解いただけたか、と。

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RIETIの『労働時間改革』

05263 経済産業研究所(RIETI)の『労働時間改革-日本の働き方をいかに変えるか』(日本評論社)をお送りいただきました。ありがとうございます。編者は、鶴 光太郎 , 樋口 美雄 , 水町 勇一郎の3人の方々です。

http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/10030008.html

目次は

第1章 日本の労働時間改革
第2章 経済学からみた労働時間政策
第3章 日本人の労働時間
第4章 常勤者の過剰就業とワーク・ファミリー・コンフリクト
第5章 労働時間、企業経営、そして働く人
第6章 ホワイトカラー・エクゼンプションの働き方への影響
第7章 ワークシェアリングは機能するか
第8章 労働時間法制の課題と改革の方向性
第9章 ホワイトカラーの労働時間制度の立法的課題
第10章 現場からみた労働時間制度改革

ですが、実は、本書を読みながら、「いやあ、ここまできたか!」としばし感慨にふける思いでありました。

本ブログの長い読者であればご承知の通り、本ブログを始めた2006年から2007年にかけて、ホワイトカラーエグゼンプションが話題になりましたが、世間ではとかく「残業代ゼロ法案」などというフレームアップがまかり通る中で、その中で、「ゼニカネが問題なんじゃない」「物理的労働時間こそが問題なのだ」と何回となく主張しながらも、なかなかそれが通じない実情に、「一人荒野に呼ばわる」思いであったものでありました。

当時、その声を聞きつけて、『世界』や『エコノミスト』、あるいは日経ビジネスオンラインなどが私の主張を載せてくれましたが、なおしばらくは、「ゼニカネよりも時間そのものだ」という主張は、いささか奇異なものでもあるかのように見られていたように思います。

しかし、それから3年以上が過ぎ、世の中の感覚は確実にわたくしが主張していた方向に近づいてきたのだ、と、この本を読みながら感じた次第です。

第1章でRIETIの鶴光太郎氏は、

>第2の柱は、政府が規制を行う場合でも、実労働時間、賃金制度への直接的な規制よりも、肉体的・精神的健康維持・確保の観点からの労働解放時間(休息・休日)への規制を重視することである。労働時間に対する政府の規制・介入のあり方を考えると、健康確保目的の規制は理論的考察や現実的ニーズという視点からももっともよく正当化しうるし、また、EU指令が労働者の健康・安全を労働時間規制の主要な目的として位置づけていることは再度強調されるべき点であろう。

と、まさにわたくしの意を100%表現し、

さらに、これを雇用システムとの関係から次のように正社員の働き方の見直しを提起しています。

>例えば、90年代以降顕著になった(比較的労働時間の短い)非正規雇用の増大については、実は、先行きの不確実性と並んで、「バッファー確保」のための常態的長時間労働をさらに増加させたことは否めない。このように正規・非正規の二極化が進行する裏側で、長時間労働が進行してきた面もあろう。そうであれば、いかなる業務、転勤でも受け入れることが期待されているという意味で「無限定社員」とも揶揄される正規労働者の働き方全般にメスを入れる必要がある。

>例えば、正規労働者の働き方について柔軟性を損ねないようにしながらも何らかの「限定」をつけていくことである。具体的には、職務(ジョブ・ディスクリプション)の明確化である。職務が明確化されていけば、綿密な事後的コーディネーションが必要な「すり合わせ型」の働き方から、そのようなコーディネーションを必要としないように事前に業務をうまく切り分け、自律的な働き方を可能にする「モジュール型」の働き方への転換も可能となる。「モジュール型」の働き方導入は、企業レベルで行うべき労働時間改革の重要な柱となる。

わたくしの言い方に微修正すると、「メンバーシップ型」の無限定正社員から「ジョブ型」の限定正社員に転換することで、ゼニカネではない物理的時間の意味での労働時間を限定することが可能になるということなのでしょう。

本書の各章で、わたくしの著書や論文が何回もリファーされている点から見ても、この領域については、わたくしの議論はもはや孤立した「荒野に呼ばわる」ものではなくなってきていることを感じます。

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本日から「労働法政策」の講義開始

本日から公共政策大学院の「労働法政策」の講義が始まりました。最初に始めたのは2004年4月ですから、もう6年になりますね。

http://www.pp.u-tokyo.ac.jp/courses/2010/21080.htm

今日は全体のオリエンテーションですが、受講者の関心を聞くと、結構「就活問題」というのが多かったので、急遽予定を変えて、例の学術会議の大学と職業との接続検討分科会の報告の話をしました。

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ホリエモン氏が自分でそのように行動することを労働法は何ら規制していません。ただし・・・

いうまでもなく、雇用される労働者ではなく自営業者であるホリエモン氏が自営業者たる自分の行動様式として、以下のように行動することを労働法は何ら規制していません。

また、このエントリに感動した若者が自ら企業を興し、自分についてはそのように行動しようとすることを、労働法は何ら規制していません。

http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10500476221.html(起業してほぼ確実に成功する方法)

>どうもたまに上手くいかない人がいるみたいだ。
なぜだろう?と疑問に思って考えてみた。

で、これなんじゃないか?と思ったことが一つだけあった。
それは睡眠時間以外のほぼ全てを仕事に使っていないということじゃないかと。

>土日も勿論ない。旅行も年に1度行くか行かないか。盆も正月も無い。ずっと仕事であった。デートもしないので、プロセスが省略できるという理由で一時期風俗にはまっていたこともある。風呂に入る時間や髪を切りに行く時間など完全に勿体無いと思って、ほとんど行っていなかった。
果ては家に帰る時間すら勿体無くなって、ずっと会社のベッドで寝ていたこともある。一時期は会社の仮眠室にシャワーまでつけていた。

それくらいやったらほぼ確実に成功すると思うんだよなあ。。。

自営業者が土日も盆も正月もなく、デートもなく風俗で済まし、風呂も散髪もなく、家にも帰らず、会社のベッドで寝ようが、それは本人の勝手であって、労働法が介入すべき筋合いではありません。

問題は、ホリエモン氏であれ誰であれ、とかくこういうタイプの企業家は、自分が雇用する労働者に対しても、あたかも自分と同じ自営業者であるかのように、あるいはあるべきであるかのように、「土日も盆も正月もなく、デートもなく風俗で済まし、風呂も散髪もなく、家にも帰らず、会社のベッドで寝」ることを要求しがちであるということです。

そして、それに対してささやかな抗議をしようとすると、

http://twitter.com/takapon_jp/status/7501328812

>曲解ブログ発見。どうやったら、「労働基準法守るなんて馬鹿馬鹿しい」って読めるんだろうね?今の労働基準法が馬鹿馬鹿しいんであって法令順守は当たり前。でも改正の必要ありといってるんだよ。頭わるいのか?こいつは。

と罵倒される仕儀に相成ります。やれやれ。

(ついでに)

たぶん、ホリエモン式ベーシック・インカムの世界というのは、「土日も盆も正月もなく、デートもなく風俗で済まし、風呂も散髪もなく、家にも帰らず、会社のベッドで寝」られる人間がフルに働いて稼ぎ、残りのそれに耐えられない人間はさっさと市場から退場してベーシック・インカムという名の捨て扶持で生活する(できるかどうかは知りませんが)社会なのではないかと思われます。それを素晴らしき新世界と感じられるかどうかが、判断の分かれ目になるのでしょう。

(追記)

こういうベンチャー経営者とそれを崇拝する人々が作る社会がどのようなものになるかは、ダイヤモンドオンラインの秀逸なリポートをどうぞ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b066.html(決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!)

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日本学術会議大学と職業との接続検討分科会報告書案最終版

さて、先日のエントリでは、朝日の報告を矮小化した記事とそれを矮小だと批判する朝日の社説を、薄っぺらな評論家諸氏のおっちょこちょいなヒョーロンと並べて批評したわけですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

その時には日本学術会議のHPへのアップが遅れていたので、文部科学省のHPから中教審での資料を引っ張って説明しましたが、その後、日本学術会議のHPの方にも、最後の会合である3月23日付けの最新の報告書案がアップされたようです。これにもなお若干の修正が入る予定ですが、とりあえず最終報告書とみていいでしょう。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/d-shidai17.html

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-17-1-1.pdf

本文は中教審提示版とほぼ同じですが、最後に「おわりに」というあとがきが付けられていますので、せっかくですのでそれを引用します。

>若者の教育は世界の変革といわれる。現代の「若者を取り巻く困難」から説き起こした本稿は、「大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会」のもとに設置された「大学と職業との接続の在り方検討分科会」での審議を基に取りまとめられたものである。同分科会は、今後の日本という観点からばかりでなく、グローバル時代の世界的通用性という観点からも火急に求められている大学教育の分野別質保証を実質的、具体的に図っていくに当たり、現状において大学と職業とが必ずしも適切に接続していない状況を直視し、この問題状況に関して現実的な改善策を提案する必要があるとの認識に立って設置されたものである。発足以来、のべ17 回にわたる会合を開いて精力的に審議を重ねてきたが、必要に応じて外部の有識者を講師に招いて意見を聴取し、多様な分野から参加した委員が学びと内省を深めながら協働する作業を積み重ねて来た。

近年、教育を職業や雇用との関わりから議論し、若者の学校から職業世界への移行を、個人任せにするのでなく、産業構造や社会システムの変化に応じた重層的な対応策を提示することの重要性が広く認識されるようになってきた。個別的にはそうした変革への芽生えも散見されるが、同分科会のように、両者の関わりについて、「新しい教育の姿」に軸足を置きながらも、戦後の経済社会の構造的な変化からその将来展望まで踏まえて、なおかつ現在の就職活動と採用活動の実態まで含めて論じた例は、学術会議においてはもちろんのこと、他の団体を見渡しても今回が初めての試みではないかと思われる。しかし、現在の日本社会が直面している問題状況と、そこで若者が置かれている厳しい状況に鑑みれば、教育と職業・雇用と産業とを一体的かつリアリティの伴う形で検討し、早急に適切な対応をとることが喫緊の課題であるという認識は、多くの人に共有していただけるのではないだろうか。

本稿の内容については、おもに人文社会科学系の分野を念頭において「大学と職業の接続のあり方について」論じていることもあって、まだまだ不十分な面があろう。しかし、これを一つの契機として、大学や、学協会など大学団体、企業・産業界、政府、そして就職支援会社、さらには広く社会一般の人々において、この問題に対する関心が高まり、手を携えて、大学と職業との望ましい接続の在り方にむけた具体的な取組みを進展させることを念願するものである

多様な分野から参加した委員」とは、次のような面々です。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/kousei3.pdf

委員長 高祖 敏明 学校法人上智学院理事長 特任連携会員
副委員長 久本 憲夫 京都大学大学院経済学研究科教授 連携会員
幹事 児美川孝一郎 法政大学キャリアデザイン学部教授 特任連携会員
幹事 本田 由紀 東京大学大学院教育学研究科教授 特任連携会員
樋口 美雄 慶應義塾大学商学部教授 第一部会員
逢見 直人 日本労働組合総連合会副事務局長 特任連携会員
駒村 康平 慶應義塾大学経済学部教授 特任連携会員
田中 萬年 職業能力開発大学校名誉教授 特任連携会員
濱口 桂一郎 労働政策研究・研修機構労使関係・労使コミュニケーション部門統括研究員 特任連携会員
籾井 勝人 日本ユニシス株式会社代表取締役社長 特任連携会員
矢野 眞和 昭和女子大学人間社会学部教授 特任連携会員
唐木 英明 東京大学名誉教授 第二部会員
室伏 きみ子 お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科教授 第二部会員
唐木 幸子 オリンパス株式会社研究開発センター研究開発本部基礎技術部部長 特任連携会員
北村 隆行 京都大学大学院工学研究科教授 第三部会員

このうち幹事の本田由紀先生と児美川孝一郎先生が報告書の起案作業に当たられました。

なお、議事要旨も第3回から第5回までの分が公開されました。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi03.pdf第3回(7月7日)

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi04.pdf第4回(7月21日)

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi05.pdf第5回(7月28日)

いずれもわたくしは出席し、発言しています。報告者以外は「○」となっていますが、読んでいけば、どれがわたくしの発言かは一目瞭然でしょう(笑)。

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水町勇一郎『労働法 第3版』

L14394 水町勇一郎先生の教科書『労働法』の第3版をお送りいただきました。ありがとうございます。

初版が2007年9月、第2版が2008年3月、そして第3版が2010年3月と、ハイテンポの更新です。

はじめに──労働法の性格を知り,その根底にあるものを考える
第1編 労働法の歴史と機能──労働法の背景や基盤を知り,その意味を探る
 第1章 労働法の歴史
 第2章 労働法の機能
第2編 労働法総論──労働法の全体像と枠組みを知る
 第1章 労働法の基本構造
 第2章 労働法上の当事者
 第3章 労働法の法源
第3編 雇用関係法──労働者と使用者の個別の関係を規律する法
 第1章 雇用関係の変遷
 第2章 雇用関係の内容
第4編 労使関係法──労働者,使用者と労働組合との集団的な関係を規律する法
 第1章 労使関係の基本的枠組み
 第2章 団体交渉促進のためのルール
第5編 労働市場法──求職者と求人者との取引に関する法
 第1章 雇用仲介事業の規制
 第2章 雇用政策法
第6編 労働紛争解決法──労働紛争を解決するための法
 第1章 日本の労働紛争の特徴
 第2章 労働紛争解決システム
むすび──日本の労働法の特徴と課題について,もう一度考える

これはもう初版からの水町名著の特色ですが、単なる労働法の教科書じゃない、という点は特筆しておく必要があります。

第1編第2章の「労働法の機能」は、

1 労働法の背景にある社会システム
2 社会システムと労働法

ですし、最後のむすびの「2 考察-これからの雇用社会と労働法のあり方」では、

1 「国家」か「個人」か「集団」か?
2 「労働」は「喜び」か「苦しみ」か?

なんていう問いかけも出てきます。

あと、まったくどうでもいいことですが、252ページの「事例47」で、

>小沢システム開発研究所で研究員をしている鳩山さんは、新製品を開発しその製品がそこそこ売れ始めているにもかかわらず、社内での自分の評価が低くなっており、来年度の年俸額が今年度より200万円低い1000万円と打診されたことに不満を持っている。・・・

いや、別に他意はないとおもいますが。その上の「事例46」では

>集団再生銀行で支店営業を10年やってきた水町さんは、本社人事部に配転になったところ、人事課長から、「水町君は人事の経験はゼロだから、また新人の給料から頑張ってもらうからね」といわれた。・・・

とあるし・・・。

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苅谷剛彦・本田由紀編『大卒就職の社会学』

9784130511315 苅谷剛彦先生、本田由紀先生、筒井美紀先生より、『大卒就職の社会学 データからみる変化』(東京大学出版会)をお送りいただきました。ありがとうございます。

本書は、

>日本の大卒就職はどのような特徴をもち,過去20年にわたっていかなる変化を遂げてきたのか.そしていま,それはどのような問題を抱えるにいたっているのか.大卒就職のプロセスと帰結について,気鋭の教育社会学者による詳細なデータ分析を通じて実態に迫る.

もので、内容は以下の通りですが、

はじめに(本田由紀)
序章 大卒就職の何が問題なのか――歴史的・理論的検討(苅谷剛彦)
1章 日本の大卒就職の特殊性を問い直す――QOL問題に着目して(本田由紀)
2章 大卒就職機会に関する諸仮説の検討(平沢和司)
3章 1990年代以降の大卒労働市場――就職活動の3時点比較(濱中義隆)
4章 中堅女子大生の就職活動プロセス――活動期間と内定獲得時期の規定要因(筒井美紀)
5章 大学就職部の斡旋機能とその効果(大島真夫)
6章 「OB・OG訪問」とは何だったのか――90年代初期の大卒就職と現代(中村高康)
7章 「自己分析」を分析する――就職情報誌に見るその変容過程(香川めい)
8章 なぜ企業の採用基準は不明確になるのか――大卒事務系総合職の面接に着目して(小山 治)
あとがき(苅谷剛彦)

もちろん、苅谷先生の手際よい通史的なまとめも、本田先生のいかにも本田先生らしい総括的モノグラフ(これのゲラ段階の原稿は、学術会議の大学と職業の接続検討分科会ですでに見せていただいておりましたが)も、是非読んでいただきたいものですが、個別調査モノグラフにいくつか記憶に残る記述がありました。

筒井美紀さんの「中堅女子大生の就職活動プロセス」で興味深かったのは、

>「下宿・寮→独居・寮から通勤」の学生が、活動機関が最も短く、最初の内定獲得時期も最も早いという知見は、すでに親元を離れて暮らしていること自体も、企業から高く評価されているということを意味していると考えられよう。・・・企業からすれば、現時点ですでに親元を離れて生活しているということは、彼女たちが「企業人」としてやっていけるか否かの、一つの格好のシグナルなのである。

>だが男子学生であれば、一般にこうした評価にはさらされまい。男子学生であれば、実家を出て暮らしているかどうかが、どの大学ランクであれ、評価の重要ポイントとはなるまい。

という記述でした。一世代昔の感覚と180度変わりながら、ジェンダーバイアスがあるという点では継続しているという不思議な面白さがあります。男なら関係ないという点では同じながら、かつては女性については(特に中堅女子大生がいくような一般職では)自宅通勤できることが条件であったことと重ね合わせると、いろんなインプリケーションを引き出せそうです。

全体の中で、最後の2つは最若手の方々が書かれていて、いずれも就職における人間力というか「官能」のミクロ分析をしているのも興味を惹かれました。

香川めいさんの「「自己分析」を分析する」は、就職情報誌の言説分析により、やりたいことにこだわることを強制されるという逆説的状況を見事に描き出しています。

>一つ目として、就職時の自己の重要性の拡大は、自己を確定しなければならないという強制に転じてしまう危険を孕んでいる点が上げられる。就職・採用が選抜を伴うものである以上、有効な戦略をとらないという選択をすることは難しいからである。就職する際に、必ず労働市場に迎合的な形に自己を更新することが強制されるようになったのではないだろうか。若者の「やりたいこと」に対する過剰ともいえるこだわりは、それがないと就職できないという状況の反映だとも捉えられる。つまり、若者たちが「やりたいこと」にこだわるから就職できないのではなく、「やりたいこと」にこだわることが選抜の段階で強制されるから、就職が難しくなるという逆のベクトルの存在が示唆できるのである。・・・

>二つ目として、自己に対する志向性が過剰に加熱されることにより、仕事とのミスマッチが生じるという逆説的な帰結の可能性も指摘できよう。・・・

>働くことに「自己実現」を求めること、「やりたいこと」を仕事にすることが望ましい価値を持っていることを否定することは困難である。そして、自己実現の達成には自己を省みることも必要とされるだろう。しかし、「やりたいこと」の尊重を否定する有効な論理がないゆえに、「やりたいこと」を見つけることに対する志向、自己実現を求めることをよしとする志向は無限に拡大してしまい、ある時点から強制されるものに変貌する。・・・

このあたりを思いっきり下世話に表現すると、村上龍氏に対して労務屋さんが

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20100401小説『13歳のハローワーク』改訂新版出来

>改訂前の『13歳のハローワーク』は、「好きで好きでしょうがないことを仕事にしたほうがいいと思いませんか?」というキャッチコピーで127万部だか売ったんじゃないのかよ。

という捨て台詞になるのかも知れませんが、それはともかく、

>我々に突きつけられているのは、自己を准拠点とし、無限に拡張する自己と向き合い、その弊害を認識しながらも、自己に頼るしか方法がないという閉塞的な状況なのかも知れない。

という最後の言葉はなかなか重いです。

小山治さんの「なぜ企業の採用基準は不明確になるのか」は、企業の新卒採用担当者へのヒアリングにより、当初の評価用紙にない部分にまで評価が及ぶ採用基準の拡張が起こることを示しています。

>3人、私を含めて面談員がいたんですけど、質問すると非常にいい答が返ってくるんですね。論理性もあるし、それからすごくはきはきして、表情も豊かで、いわゆるコミュニケーション能力あるかっていったら、ありそうだ。で、いろんなことをやっているので、向上心もありそうだねっていうようなところでいうと、丸が付いちゃう。で、ストレスにも強そうだっていうような学生がいたんです。どうもですね、この人って何か信用できないなっていう、この人は本当にそう思っていっているのかなっていうことが、非常に疑義が出てきた学生がいたんですね。やりとりしている間で、それって、こんなところ(評価項目)に入っていないですし、ここだけでみると丸なんですよ。私だけなのかなと思ってみて、同僚の面談員2人に確認したらですね、私も同感ですっていうんですね。・・・優秀なのかも知れないけれど、採れないねっていうようなことってあるんですね。

能力のごまかしはある程度客観的な手法で曝露することができるでしょうが、こういう人間性のごまかし(じゃないかという印象)は主観的なものでしかありえず、このケースはそれが共同主観的なものであったわけですが、とはいえこの学生のどこがどういけないのかを言語化することは面談員の誰にもできていないという、まさに究極の「官能」選択の状況であるわけです。

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「卒業イコール失業者 就活、もう限界です」@『週刊金曜日』

100402_793 『週刊金曜日』の4月2日号が、「卒業イコール失業者 就活、もう限界です」という特集。

http://www.kinyobi.co.jp/backnum/tokushu/tokushu_kiji.php?no=1045

>今春の大卒内定率は史上最低を記録、高卒内定率も低迷した。
このままでは第二のロスジェネ世代を生み出しかねない。
解決策はどこにある? 就職活動の現状と問題を探った。

■就活貯金、保護者向け説明会
 労働市場で最も好条件のはずなのに
 瀬下美和

◆高井美穂・文部科学大臣政務官に聞く
 未就職卒業生に職業訓練と生活支援を制度化

◆怪しい身元調査の実態
 尾仲 丙太

■セクハラ、パワハラ、契約違反……
 企業が別の顔を現すとき
 小林 蓮実

このご時世に、入社が決まったその企業、手に入れた正社員の椅子。
でも、入社までは本性を隠すような企業も存在する。そこで、企業が別の顔を
現した事例と、被害にあっても泣き寝入りしないで済む方法を紹介する。

■弊害が顕著な新卒一括採用
 ルール自体が有効期限切れの「大卒就職」
 本田 由紀

学生・企業・大学が「就活」に払っているコストは、バカ高くないか。
それに見合うだけのベネフィットは?
耐えるだけじゃ、もう立ちゆかない。いまこそ構造転換を提起する。

さらに、編集部が「就活を考えるための6冊」というのを挙げています。

『就活のバカヤロー』『これから就活を始める君たちへ』『就活って何だ』『就活廃止論』『大卒就職の社会学』『教育の職業的意義』の6冊です。

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CIETTの厚労相宛書簡

国際人材派遣協会連合(CIETT)が、日本国厚生労働大臣および副大臣宛に、労働者派遣法改正案への懸念を表明する書簡を送っています。

http://www.ciett.org/index.php?id=110&tx_ttnews[tt_news]=107&tx_ttnews[backPid]=1&cHash=2bb9ab0e39(Ciett President writes to the Japanese government on its plan to reform TAW regulation)

>In his letter sent to the Japanese Minister of Labour and three other high governmental officials, Horacio De Martini states that Ciett is very much concerned with potential amendments of the Worker Dispatch Law that the Japanese Government is willing to put forward. Indeed, some measures being discussed at the moment might be counterproductive and might not reach the objective of the reform to improve the functioning of the labour market in Japan and to ensure a better protection of temporary agency workers.

「非常に憂慮しています」と、日本人材派遣協会HPに掲載された邦訳では訳しています。

ここから先は、この邦訳版で見ていきますが、基本的に、CIETTの本拠であるヨーロッパ諸国における派遣事業を前提に書かれているので、読んでいくと違和感を感じられるかも知れません。

http://www.jassa.jp/admin/info/upload_image/100331letter(j).pdf

>派遣契約の利用は正社員契約の代用ではないので、製造部門における派遣の禁止は、より多くの正社員雇用には結びつかないでしょう。
派遣先が派遣を使う理由は、季節的な要因や予定外の繁忙期による生産活動のコントロール及び病欠や退職に対する労働力の充足や欠員補充としての受け入れ、新製品や新企画への対応のためです。

じゃあいよぎん事件は何なんだよ、という突っ込みがすぐに入りそうですが、逆にそういう使い方があるがゆえに派遣を全否定すべきでないのも明らかであるわけで、きちんとした仕分けと、派遣という働き方を適切な場合に向けていく政策こそが求められるのだと思いますが、なかなかそういう風には物事が動いていかないのですね。

>派遣会社は失業から雇用に至るまでを助ける仲介者です。多くの国で、失業者が派遣で働くことによって、雇用に結びつきました。派遣で12 ヵ月働いたあとの就職率はフランスでは6%→75%、ベルギーでは44%→77%です。

このあたりも、日本における派遣事業の使い方が適切でなかった点なのでしょう。

さらに、これは本ブログで繰り返し強調してきたことですが、

>日本の労働市場のためにしなければならない主なことは、労働側の要望する派遣労働者保護の必要性と使用者側の要望する労働力の柔軟性を調整することです。世界の多くの地域で、政府は派遣に関する重要な規制を定義するために、ソーシャルパートナー(労働組合)と協働しました。

ソーシャル・パートナーとは労働組合だけじゃなく、使用者団体、つまり人材派遣協会自らのことでもあるんですけど・・・。というか、まさに派遣に関わる労使協議がいまようやく始まったところであるという点に、このCIETTの書簡がまことに正しいことを言っていながら日本で読むとなんだか嘘くさく見えてしまう理由であるわけです。

>EU では、派遣労働指令が2008 年に採用されて、現在、EU 加盟国レベルで実行されています。指令の序文では、「(中略) 労働市場において雇用創出と、労働市場への参加と統合に貢献します。」という一文にある通り、労働市場がより良く機能するためには派遣が有用な役割を果たすことを認めています。
指令はフレキシビリティ(加盟国は派遣の使用に不正な制限(例えばある分野での禁止)があれば取り上げる義務がある)を提供することと、セキュリティ(一部分を除き同一賃金に基づく賃金水準を派遣労働者に保証する)のバランスを取りました。

これは、わたくし自身がいくつかの論文で紹介してきたとおりです。(ちなみに「不正な制限」というのは意味不明ですね。”unjustified restrictions”は「正当化できない制限」です。)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/ooharahaken.html(『大原社会問題研究所雑誌』2009年2月号「EU労働者派遣指令と日本の労働者派遣法」)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/euhaken.html(『季刊労働法』225号「EU派遣労働指令の成立過程とEU諸国の派遣法制」)

>Ciett は、日本政府から派遣労働者のためにフレキシビリティとセキュリティのバランスをうまくとった国の事例等を提供し、そして、相談を受けることを光栄に思うことでしょう。また、そのことで、労働市場における正社員雇用と派遣労働者間の否定的な分裂を避けることができます。

そう、わたくしもそれができるはずだと思います。そのためにも、こういうCIETTの主張が嘘くさく見えてしまう日本の今までの現状への反省と、それを踏まえた望ましい派遣労働市場の確立への決意表明が求められるのでしょう。

しつこいようですが、派遣業界を代表して規制改革会議や労働政策審議会に出ていた方が、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_e152.html(雇用融解または奥谷禮子氏インタビュー完全再現版)

>-社長は審議会の席上でもILO(国際労働機構)に対して、かなり厳しいご見解をおっしゃっていますね。

>あれは後進国が入っているところで、ドイツにしてもアメリカにしても、先進国はほとんど脱退しているわけですよ。。何で労働側はILO、ILOと金科玉条の如くILOを出してくるかというと、それしかよりどころがないわけです。先進国は先進国なりのオリジナルなものを作っていくべきですよ。

というようなことを言っておいて、今になって、

>日本が批准した ILO181 号条約で規定されているように、労働市場でうまく機能していると思われる派遣労働については、認めるべきであり、そして、法による規制は以下の諸点を考慮に入れるべきです。

という文字通り100%正しいことを言ってみてもなあ、という感情的次元を拭い去るには、やはりそれ相応の行動が必要になるのであろうということでしょう。

(4月7日追記)

本ブログをご覧頂いた人材派遣協会の方が、早速「不正な制限」を

http://www.jassa.jp/admin/info/upload_image/100331letter(j).pdf

>指令はフレキシビリティ(加盟国は派遣の使用に正当化できない制限(例えばある分野での禁止)があれば取り上げる義務がある)を提供することと、セキュリティ(一部分を除き同一賃金に基づく賃金水準を派遣労働者に保証する)のバランスを取りました。

と修正されたのですが、それだったらもっとちゃんと言っておいた方が良かったな、と思いました。

http://www.ciett.org/fileadmin/templates/ciett/docs/Public_Affairs/Letter_to_Japanese_Government_-_March_2010.pdf

>The Directive has reached the right balance between, on the one hand, the need to provide flexibility (with an obligation for Member States to lift unjustified restrictions to the use of TAW, like sectoral bans) and, on the other hand, security (by guaranteeing agency workers a wage level based on equal pay but with a certain number of derogations).

「lift」は「取り上げる」じゃなくて、「撤廃する」です。正当化できないような派遣事業に対する制限は撤廃せよ、という、まさに人材派遣協会としては最も重要な、政治家やマスコミに対してもっとも強調すべき点を表現する最重要のキーワードでありますので、ここはちゃんと修正しておいた方が宜しいかと思います。

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ニッポンの「失われた20年」にもっとも失われたのは若者の雇用だった@『月刊連合』4月号

201004cover 『月刊連合』4月号が、「ニッポンの「失われた20年」にもっとも失われたのは若者の雇用だった」という特集を組んでいます。

連合のHPが最近月刊連合のアップデートをしていないので、リンクを張れないのですが、こういうメンツによるこういうインタビュー記事です。

1 日本の若者と雇用-OECDの分析と提言から   中島ゆり

2 若者の雇用を取り戻すために(キャリアラダー戦略に学ぶ)  筒井美紀

3 若者の雇用を取り戻すために(経済政策の視点から)  飯田泰之

4 連合のアプローチ  團野久茂

201004tobira 1の中島ゆりさんは、わたくしも監訳として関わったOECD『日本の若者と雇用』の翻訳者です。彼女の大きな顔写真がどーんと載っていますので、翻訳を読みながらどんな方だろうと思っていた方は、是非ご一覧を。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ce0b.html(日本は若者が安定した仕事につけるよう、もっとやれることがある)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/oecd-1901.html(OECD『日本の若者と仕事』翻訳刊行のお知らせ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0da2.html(OECD『日本の若者と雇用』ついに刊行!)

インタビューは同訳書の内容の説明ですが、こういう考え方が連合の月刊誌にきちんと載ることには意義があると思います。

>問題は、若者の意欲ではなく、労働市場の二重構造の拡大。フレクシキュリティ政策で正規と非正規のギャップ解消を

このフレクシキュリティ政策について、中島さんは

>こうした課題は、明らかに労使間でのコンセンサス作りを必要とする。雇用保護規制の見直しというと、労働組合は抵抗があるだろうが、生活保障システムをつくったうえでの見直しであり、目的は正規と非正規のギャップを埋めていくということだと理解してほしい。

と述べ、さらに

>そして労働組合には、「組合員を守る」だけでなく、その周囲で困難な立場にある人たちに目を向け、労働組合の仲間にしていくということをもっと考えてほしい。

と述べています。

2の筒井美紀さんについては、本ブログでも何回か取り上げてきましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-4371.html(高学歴代替の戻り現象)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-1409.html(「事実漬け」に勝るものなし)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/posse-207e.html(POSSE第3号)

今回はキャリアラダーがテーマです。

>就労支援はグッド・ジョブがあってこそ。失われた中間的な仕事とそれに至るハシゴの再構築を

ここでも最後に労働組合への要望が述べられています。

>ぜひ、労働組合のメンバーが地域で活躍するきっかけを作ってほしい。たとえば、学校に呼ばれて身近な労働問題について討論する。そこから、行政や学校との連携に広げていければ、地域で本当に必要な若年雇用対策、就労支援が具体的に見えてくるはずだ。

3の飯田泰之さんは「2%以上の経済成長を」というもっともな経済政策論ですが、最後のところで労働市場制度についても若干言及しています。

>その上で、労働組合に求められるのは、非正規労働者も含めた、雇用と解雇のルールや生活保障の仕組みを整備し、労働者が動きやすい、若者が参入しやすい条件を作っていくことだ。

最後の團野副事務局長は、

>雇用さえ守れば生活が保障される時代ではなくなった。すべての働く人を支えるシステムを作り直すときだ

と述べ、現在わたくしも参加して議論が進められている「公平・公正な待遇プロジェクト」の議論にも若干言及しています。

>今年6月の中央委員会には、論点と方向性を提起して、連合内の議論をスタートさせ、2011春期生活闘争につなげたい。

ということですので、乞うご期待です。

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ベルギーでブルカは禁止!

De0b96153a79_2 「労働」かどうかはともかく、かつて3年住んでいたベルギーの社会問題ということで、エントリを上げます。ソースはEUobserverです。

http://euobserver.com/9/29809(Belgium moves towards banning the burka)

上の写真でムスリム女性のかぶっているブルカというかぶり物ですが、ベルギー国会の内政委員会は3月31日、満場一致でブルカとニカブというムスリム女性のかぶり物を禁止する法律を採択しました。これらをかぶると、15-25ユーロの罰金または7日間以内の禁固が科せられます。立派な刑事犯罪です。

厳密に言うと、職業上の必要がない限り、顔をすべて覆ってはならず、例外はカーニバルやその他の祭りで仮面をかぶることを警察が許可した場合だけです。イーペルの猫祭りでは猫のお面をかぶって行列してもいいけど、ブルカはいかん、と。

フランスでも同様の動きがありますが、人権問題の懸念からストップしています。人権といえば、この法律を推進する側の看板がまさに抑圧されたムスリム女性の解放という人権問題であり、個人としての女性の人権を尊重するヨーロッパ的価値観と、ムスリムとしてのアイデンティティを強調する価値観とが、それぞれの人権観の価値をかけて対決しているわけですね。

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「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい

先日(3月29日)、朝日が「卒業後3年は新卒扱いに 大学生の就職、学術会議提案」という、報告書のごく一部だけ取り上げた記事を書いたのを受けて、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-a8ee.html

昨日の朝日の社説が

http://www.asahi.com/paper/editorial20100403.html#Edit1

>さらに進めるべきは、大企業が実施してきた新卒一括採用という方式の見直しである。日本学術会議の分科会が、大学生を卒業後3年間は新卒と同様に扱うよう提案した。だが、新卒以外の若者が「既卒」として不利に扱われる現状を抜本的に改善する道を考える時ではあるまいか。

などと、いかにもこの検討会が「卒後3年新卒扱い」という枝葉末節的対策だけを主張しているようなことを書いていますが、そればっかり強調しているのは朝日の記事なのであって、当の検討会の報告書はまさに「現状を抜本的に改善する道」を縷々書いているんですけど。

薄っぺらな評論家諸氏が、新聞記事だけで

http://news.livedoor.com/article/detail/4691109/(【赤木智弘の眼光紙背】1年でダメなら、3年間新卒ということにすればいいだって!?)

>現状を考えれば無理なのは理解するが、せっかく国のお金でやっていることなんだから、現状に合わせるだけの場当たり的な提言ではなく、根源的に就職システムを捉え直すような、意欲ある提言を行って欲しい。現状認識もできておらず、意欲的なことも書けないというのでは、ガッカリと言う他ない。

とか、

http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/96aeeb34f6e0be8df8e6c5582d982a57対症療法で問題は解決しない

>こちらはまだ最終報告書として出されたわけではないので現段階で失敗例として取り上げるのは酷な気もするが、どう考えても実のある政策は出てきそうにないのでピックアップした。
これも構造は上記とまったく同じ。構造上の課題にメスを入れずにスローガンを掲げたところで、何も変わりはしない。

とか書き散らすのはまあ仕方がないとはいえ、報告書のおまけの部分だけ取り上げた記事を書いた新聞が、それを前提に社説を書くのはちょっといかがなものか、と。

確かに現時点ではまだ最終報告書としてはとりまとめられていないし(注)、日本学術会議のHPには最新の原案も掲載されていないので、上記記事だけであれこれ勝手なことを言われるのもしかたがないのかも知れませんが、自分で勝手に切り縮めた矮小な玩具相手にあれこれケチを付けるという商売もいささか阿漕な感じもします。

(注)分科会は既に終了し、文案もほぼ固まっていますが、上部委員会との関係で、なお文言の調整中ということです。

そこで、現時点で最新のバージョンが掲載されている中央教育審議会キャリア教育・職業教育特別部会の3月9日の資料を紹介しておきます。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo10/shiryo/1291485.htm

ここでは、大学と職業との接続検討分科会の高祖座長から、次のパワポ資料と、その時点の報告書をもとに、審議状況の説明がされています。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo10/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2010/03/25/1291485_1.pdf

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo10/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2010/03/25/1291485_2.pdf

パワポ資料が良くできているので、それを引用していきます。当検討会に関わっては、

まず、「問題状況の構造(特に「文系就職」において顕著な問題)」として、

>右肩上がり経済の下での「接続していない接続」
・職業能力形成に無関心な大学教育
・大学教育の成果を殆ど問うこと無しに、企業内で能力開発を行う日本的雇用システム
・・・それでも殆どの学生が就職できた

日本的雇用システムの動揺と縮減
・しかし学生は、大学教育で身に付けた職業能力を殆ど主張できない状況で、セーフティネットもないまま、就職活動に臨むことを余儀なくされている。
(一種のジェネラリスト的能力の突出した強調:万能人材?)
・・・「ロストジェネレーション」を生んだ構造は手つかずのまま

という認識を示し、続いて「これまでの対応について」として、

>問題状況の構造を踏まえた総合的な対策の欠落
大学、企業、政府の何れにおいても、問題状況の構造を踏まえ、3つの要素の相互依存的な関係を理解して、従来の大学と職業との接続を変革しようとする動きは未だ見られない。
・大学教育
・労働市場・企業の人事制度
・両者をつなぐ就職・採用活動

若者の移行問題についての発想転換の必要性
経済環境の変化に伴う「移行」の恒常的な困難性:若者の「勤労観・職業観の醸成」を企図した対応だけでは限界

と整理した上で、「大学と職業との新しい接続の在り方」として、「「専門性」の持つ可能性に注目して」次のように提示します。

>日本的雇用システムの動揺と縮減→正社員と非正規労働者の二極分化を超えて、多様な局面で人々が自らの力を発揮し高めていくことのできる社会を目指す必要性

雇用の一定の流動性と、専門性を要する業務を担う人材の確保を両立させる、新しい社会システムの設計と、それを支えるセーフティネット(職業訓練の付与を含む)の構築

地域におけるディーセントワーク拡大につながる専門職業の発掘・育成と、そのための雇用・教育・産業の連携

大学でも、教育の出口である職業との対応性が意識され、専門教育の職業的意義がより高められることが重要
専門性を媒介とした新しい「接続」の在り方

これこそが当検討会が提示している最も重要なメッセージなのですが、残念ながら上記記事でも社説でも、また上記記事だけで書き散らされた評論でも、何の関心も向けられていないのですね。

次が就活問題ですが、これも、記事が注目する卒後3年新卒よりもずっと重要な論点がきちんと提起されています。

まず「現状をどう理解すべきか」

>早期に開始しているにもかかわらず、なかなか決まらない→学生は精神的に疲弊し、企業も徒労感

無駄の拡大:大勢集まるが大勢ふるい落とされる
・学生の側: エントリー件数の増大
・企業の側: 選考対象とする母集団の拡大

では単純に規制すればよいのか?
・学生の側: 現実の就職・雇用環境の厳しさから来る不安
・企業の側: グローバル経済の下での競争の激化
規制のみで対処しようとする手法には大きな限界

これに対して、「「就活問題」への対策枠組みの抜本的な拡大」が必要だと提起します。

>専ら「早期化」だけを問題にしていればよい時代ではない

学生が意義の乏しいエントリーの多発に走らずにすむよう、適切なキャリアガイダンスを充実

徒な「就活の早期化」は抑制する一方で、企業を含めた「外の世界」を知る機会は、むしろ早期から整備

学事日程と就職活動の両立のために、土日祝日や長期休暇の有効活用などを折り込んだ具体的なルールやプロセスを大学と産業界とが協働して整備

「就活」に伴う学生の負担の軽減と、就職できない若者に対するセーフティーネットの構築

大学教育の職業的意義の向上と企業による適切な評価

このうち、「学生に対する支援の充実」として、

>大学におけるキャリアガイダンスの在り方
・就職活動に役立つスキル形成やノウハウの伝授、資格取得の促進等に取組みが集中してしまう傾向
学生の生涯にわたるキャリア発達や職業的自立への主体的準備のプロセスを見通し、幅広い視点に立つべき
・大学の教育課程全体の中での有機的位置付け、とりわけ専門課程との連携の重要性

就職活動に伴う負担の軽減
・地方の学生が大都市圏で就職活動を行う際の宿舎支援
・学生のストレスや企業の負担の軽減に寄与する今日的な行動倫理の形成

また「就職できない若者に対するセーフティーネット」として、

>第2の「ロストジェネレーション」を作らないための包括的なセーフティーネットの構築

大学は、卒業後最低3年程度は在学生と同様に就職支援の対象とし、ハローワークや民間の職業紹介・派遣事業等とも協力してマッチング機能を充実

現在政府で取組まれている「第2のセーフティネット」(緊急人材育成・就職支援基金による訓練・生活支援給付制度)の恒久化

「ジョブカード制度」を活用した職業能力開発・評価制度等を活用し、企業の側も安定した雇用機会の提供に努める

企業の採用における「新卒」要件の緩和

大学を卒業して直ちに採用されなければ、その後に正社員となる可能性は非常に狭いものとなる採用慣行

新卒要件が厳格に運用される場合、個人のライフコースの特定の時期にリスクを集中させるとともに、景気の変動を通じて、世代間でも特定の世代にリスクを集中させる効果

卒業後最低3年間は、若年既卒者に対しても新卒一括採用の門戸が開かれることを当面達成すべき目標だとして
倫理指針や法的措置による一律の規制が有効か?
「新卒」にこだわらない方針の企業の公表が有効か?

ここでようやく「卒後3年新卒扱い」がでてきます。

しかし、いうまでもなく本当に重要なのは「就職・採用活動の実質化」です。

>無駄が多い現状の就職・採用活動

学生も企業もお互いに、ある種の表面的な魅力や特性をアピールし、評価し合っているという面が強すぎるのではないか。

もっと実際の「仕事」と強く結びついた、基本的で実質的な事柄をめぐって就職・採用活動が行われるような在り方はないのか。

という問題意識から、「職種別採用の持つ可能性」を論じていきます。

>一括採用方式(従来一般的な方式)
・採用段階では配属先は分からない
・ジェネラリスト的な資質の重視

職種別採用方式(近年すこしずつ拡大)
仕事に対する目的意識の高い学生を採用できる可能性
・仕事の内容がある程度予見できることから、早期離職率の
低下
にも一定の効果
・特定の仕事内容への対応性という観点から、大学教育、
とりわけ専門教育の意義に対する評価が高まる可能性

大学と職業との新しい接続のかたを担う可能性

報告書が「大学と職業との新しい接続のかたち」として提起しているのは、まさにこういう大学教育のあり方、雇用システムのあり方に関わる問題なのであって、それをたかだか「卒後3年新卒扱い」という当面のセーフティネットの一部だけで捉えられるべきものではありません。

>今後目指すべき方向 大学と職業との新しい接続のかたち

大学教育の職業的意義の向上

大学で学んだ内容と求める人材像との適合性を重視した志望動機・採用基準に基づいて、大学教育の概ねの課程を修了した段階で開始される就職・採用活動

卒業後も求職活動や適職探索を行う余地が幅広く認められる初期職業キャリア

専門性を重視した職業上の知識・技能に応じて正規雇用・非正規雇用間で均衡した処遇がなされる労働市場

必要に応じて何度でも学び直せるリカレント学習の拡大

生活支援と職業訓練機会の付与、就職支援とが一体となったセーフティーネットの構築

その詳しい説明は、報告書案の方をじっくり読んでいただければと思います。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo10/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2010/03/25/1291485_2.pdf

(参考)

報告書案の最後に付いている図解がわかりやすいと思いますので、ここに貼り付けておきます。

Voc

(追記)

その後、さらに最新のバージョンがアップされていますので、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-aa46.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会報告書案最終版)

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-17-1-1.pdf

も参照下さい。

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『生存学』第2号

Sz002 『ベーシック・インカム』をお送りいただいた立岩真也さんのHPに出ていたので、『生存学』第2号を買いに行きました。拙著への批評も含め、興味深い発言がいろいろとされていました。

http://www.arsvi.com/m/sz002.htm

特集1 労働、その思想地図と行動地図

1 座談会 生産/労働/分配/差別について
天田 城介+小林 勇人・齊藤 拓・橋口 昌治・村上 潔・山本 崇記 附:文献
2 橋口 昌治 「労働運動の社会運動化」と「社会運動の労働運動化」の交差――「若者の労働運動」の歴史的位置づけ
3 村上 潔 「主婦性」は切り捨てられない――女性の労働と生活の桎梏にあえて向き合う
4 山本 崇記 同和行政が提起する差別是正の政策的条件――差別と貧困を射程にした社会政策に関する予備的考察

このうち、橋口さんの論文の最後では、一節を割いて拙著への書評が書かれているので、それは改めてエントリを起こすこととしますが、冒頭の座談会でも拙著が取り上げられていて、

>山本 濱口さんは、正社員の労働組合にもっと頑張れっていうようなことを言っているわけですが、土台無理な話ですよ。非正規労働者の運動が突き上げない限りは。もしくは、正規労働者を適切な形で引きずり下ろす。そういうことが大事。・・・

>橋口 これは濱口さんと重なる部分ですが、「既得権益」によっていろいろ支えられてきたものがあるし、それがために過労死までおきるぐらいやってきたところがあって、そういうところに対する社会的負担をしないと正社員組合の「武装解除」ってできないと思うんですよね。そういうことを全体でコンセンサスをとって勧めていく必要があるという部分では、濱口さんと似たようなところはあるんですよ。僕は、そこはオーソドックスな部分だと思う。ただ、濱口さんが言うように、正規の労働組合が何も言われずにやるかと言えば、やらないだろうなと思う。だから、濱口さんみたいに「なんかようわからん扇情的なことばっかり言うとる非正規労働者の組合じゃなくて、格式ある連合がきちんとしないと駄目です」というような分け方、分けて議論するやり方は現実的ではない。

山本 岩波書店自体に節操がない。湯浅誠に書かせて、濱口に書かせてみたいな。それが岩波かって言われるとそうなんだけど(笑)

だそうです(笑)

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「労働政策審議会による答申等の尊重に関する意見」及び「出先機関改革に関する意見」

すでに新聞等でも報じられていますが、昨日開催された労働政策審議会において、標記2つの意見書が公労使三者一致で採択され、厚生労働大臣に手渡されたと言うことです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000005i7q.html

>厚生労働省としては、これらの意見を踏まえ、適切に対応してまいります。

いやもちろん、厚生労働省としてははじめからそういうつもりなんでしょうけど、政治的にその・・・なかなか適切に対処しがたい状況等もこれあり・・・。

ということで、以下にその意見書を引用いたします。

なお、三者構成問題については、ちょうど労働政策研究・研修機構において昨年度実施してきました「政労使三者構成の政策検討に係る制度・慣行に関する調査-ILO・仏・独・蘭・英・EU調査」の報告書がまとまったところであり、もうすぐJILPTのHPにも掲載されると思いますので、その際に今までの経緯等も含め、本ブログ上で改めて取り上げてみたいと思います。

まず、「労働政策審議会による答申等の尊重に関する意見」

>昨年12月28日、本審議会が、厚生労働大臣に答申した「今後の労働者派遣制度の在り方について」を踏まえた「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律等の一部を改正する法律案」の要綱について、本審議会は、本年2月17日に厚生労働大臣から諮問を受け、同24日に、全会一致で答申した。
しかしながら、今般、政府は、この法律案について、3月19日に本審議会の答申とは異なる形で閣議決定を行い、3月29日に、国会に提出した。このような取扱いは、本審議会の答申が、公労使三者により真摯な議論を積み重ね、ぎりぎりの調整を行った結果であることにかんがみれば、遺憾である。
本審議会が雇用・労働政策の企画立案に不可欠であり、ILOの三者構成原則に基づく非常に重要な意義を有するものであることを踏まえ、本審議会は、政府に対し、労働政策審議会の意見を尊重するよう、強く求める。

次に「出先機関改革に関する意見」

>現在、政府は地域主権改革の一環として出先機関の抜本的改革に取り組んでいる。
これに関し、去る3月23日には、全国知事会に設置された国の出先機関原則廃止プロジェクトチームは、労働局並びに労働基準監督署及びハローワークを地方移管すべき旨を示したとりまとめを行った。今後、内閣府に設置された地域主権戦略会議において、出先機関の抜本的改革について検討するとされているが、これらの点についての、当審議会の意見は以下のとおりである。
1 ハローワークの地方移管について
ハローワークの地方移管に関する当審議会の意見は、平成21年2月5日付け「地方分権改革に関する意見」に記したとおりであり、改めて以下のことを確認する。
ハローワークは、憲法第27条に基づく勤労権を保障するため、ナショナルミニマムとしての職業紹介、雇用保険、雇用対策を全国ネットワークにより一体的に実施しており、障害者、母子家庭の母、年長フリーター、中高年齢者などの就職困難な人に対する雇用の最後のセーフティネットである。
ハローワークの業務は、以下のような理由から、都道府県に移管することは適当でなく、国が責任をもって直接実施する必要があり、これは先進諸国における国際標準である。
① 都道府県域を超えた労働者の就職への対応や、都道府県域に限定されない企業の人
材確保ニーズへの対応を効果的・効率的に実施する必要があること。
② 雇用状況の悪化や大型倒産に対し、迅速・機動的な対応を行い、離職者の再就職を進め、失業率の急激な悪化を防ぐ必要があること。
③ 雇用保険については、雇用失業情勢が時期や地域等により大きく異なるため、保険集団を可能な限り大きくしてリスク分散を図らないと、保険制度として成り立たないこと。
④ 地方移管は我が国の批准するILO第88号条約に明白に違反すること。
したがって、国の様々な雇用対策の基盤であるハローワークは地方移管すべきでなく、引き続き、国による全国ネットワークのサービス推進体制を堅持すべきである。
一方、地方自治体が独自に地域の実情に応じた雇用対策をこれまで以上に積極的に進めることは望ましいことであり、国と地方自治体が一体となって、その地域における雇用対策を一層強化する必要がある。また、我が国のハローワークは主要先進国と比べても少ない組織・人員により効率的に運営しているところであるが、さらに、ハローワーク自身も雇用状況の変化に応じて、業務内容を適切に見直し、機能の強化や効率的な運営を心がけるべきである。
2 労働基準行政、雇用均等行政、個別労働紛争対策等について
労働基準法、労働安全衛生法、労働者災害補償保険法、男女雇用機会均等法、労働者派遣法等の基準の設定及び履行確保のための監督や指導、労災保険における認定業務は、現在国並びに労働局及び労働基準監督署において直接実施している。このような業務については、地域の状況等によらず全国統一的に労働者を保護する必要があること、全国的な問題事案に一斉に対応する必要があること、公正競争の確保の観点からも労働関係の規制の適用には厳密な全国統一性が求められること等から、国の責任によりそれらを担保する形で実施される必要がある。
また、個別労働紛争対策については、国は労働基準監督署をはじめ労働法令の施行機関を有し、都道府県は三者構成の労働委員会を有しており、国と都道府県のそれぞれに特長があるので、現在の複線型の仕組みを活かし、両者がそれぞれの特長を最大限に発揮しつつ連携協力することが重要である。
なお、政府において、事業仕分け的な手法も用いて出先機関の仕分けを行うことを検討しているとも聞くが、労働局並びに労働基準監督署及びハローワークに係る出先機関改革は、労働政策の実施体制の在り方そのものにもかかわるものであり、労働政策に関する重要事項として当審議会において審議されるべきものである。今後、政府においては、このことを踏まえた適切な対処を要望する。

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立岩真也・齊藤拓『ベーシックインカム』

519drsdlgl__ss400_ 立岩真也・齊藤拓『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(青土社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.arsvi.com/ts2000/2010b1.htm

立岩さんの生存学の上記サイトに詳しい説明がありますので、リンク先に書いてあることは改めて引用しません。

ただ、そこのあとがきの最後の所にもちらと触れていますが、立岩さんと齋藤さんのBIに対するスタンスは相当に異なるという読後の印象があります。そして、正直言って、わたくしにとって鮮烈な印象を与えたのは齋藤さんの担当した第2部、第3部の方でした。その意味で、つまらないことのようですが、表紙の著者名が

立岩真也+齋藤拓

となっているのは(出版社のビッグネームに頼りたいという気持ちは分かるものの)いささかミスリーディングのような気がします。正確には、

立岩真也×齋藤拓

とでもあるべきではなかったでしょうか。

まあ、それはともかく、第1部第5章の冒頭で、

>基本的には、労働の義務はあるとしかいいようがない。それに対する「自由」を根拠とする反論は効かない。・・・

と述べる福祉多元主義者の立岩さんと、第2部の最後で

>個人主義的で市場主義的でなければ、原理的には、BI論者として整合性を欠くのだ。

と主張するかなりピュアなリバタリアンの齋藤さんとの間には、相当の隔絶があります。

そして、その齋藤さんが第3部「日本のBIをめぐる言説」で、様々な論者のBI論をそのリバタリアン的BI論の立場からばっさばっさと切りまくる姿は、見ていてほれぼれするものがあります。いやほんとです。何しろ、そこでBI批判論者として詳細に批判の対象とされている3人とは、堀田義太郎、萱野稔人、そして濱口桂一郎の3人なんですから。

このうち、堀田さんはケア労働に関わる問題はBIでは解決できないという論点に関わるものなので、BIの根本哲学に関わって齋藤さんから真正面の攻撃を受けているのは、萱野さんとわたくしということになります。いやあ、わくわくしますね。思わず読みたくなるでしょう?

わたくしに関わっては、①資産としてのジョブ、②働くことの「承認」としての意義、③「血」のナショナリズム論が批判の論点ですが、萱野さんへの批判点でもある②がやはり中心的論点なのだと思います。

この点について、次の齋藤さんの批判は、ピュアなリバタリアンとしてのその立場をよく示しています。

>筆者が萱野氏や濱口氏のような主張をする論者に対して指摘しておきたいのは、資本主義社会においてディーセントな雇用を要求するということは、それを用意してくれる雇用主の存在を前提している、ないし、具体的な誰かにそのような雇用主であることを期待しているのだ、ということである。そのような雇用主が存在しない場合こそ最後の雇用者としての政府の出番であると考えるのは大きな間違いである。そうすることによって、政府は需要のないサービスに対して無駄金を払い、さもなければBIとして分配されていたはずの財源を縮小させたことになるのである。または、政府によって雇用されることを望む「高価な嗜好」の持ち主たちに「労働」という名の賃金付き暇つぶしを提供したことになるのである。

もうすこし激越な表現が、萱野さん批判の所に出てきます。

>最後に、公共事業で雇用を増やした方がマシだという点について。そんな「ママゴト労働」で承認を得られる人はむしろ少数派であり、給付と引き替えにそのママゴト労働に従事させられたと恥辱を感じるのが普通である。

いやあ、「ママゴト労働」ですか。正直言って、障害者に何とか雇用就労の場を提供しようとして創り出した障害者向け職場などは、確かに補助金のおかげで何とかもっているママゴト労働といわれれば、その通りという気もしますが、それが「恥辱」という感覚は、ピュアなリバタリアンにとってはそうなのでしょうけど、多くの人々にとっては必ずしもそうではないのではないかと思うのですがね。

ここは、たぶん人間観のもっとも根本のところの違いが顔を覗かせているのだろうな、と思われます。わたくしにとっては、リバタリアンが「恥辱」と感じる「ママゴト労働」よりも、「お前のような無能な奴は働いてもらう必要はない、じゃまだからとっとと職場から出て行って、BIでももらって消費だけしてろ!」といわれることこそが最大の恥辱なのではないか、と感じられるのですが、これはもう感覚の問題ですから、お互いに説得可能な論点ではありません。

この点は、本書では引用されていませんが、『日本の論点2010』では、わたくしが一番読者の心に響いてほしいと思った「捨て扶持」という表現の背後にある感覚でもあります。「ママゴト労働」が恥辱なのか、「捨て扶持」が恥辱なのか、人間観の問題ですね。

>なるほど、BIとは働いてもお荷物になるような生産性の低い人間に対する「捨て扶持」である。人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかも知れないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。

①については、まともに議論を展開し始めるとかなりの広がりになるので、ここではとりあえず省略しておきますが、③については、政策論としてリアルな実現可能性を前提に議論する立場からすると、

>濱口氏はBI論壇においてグローバル・ジャスティスが真摯に追求されていることを知らないのだろうか。

という批判は、そのBI論壇が現実の政治に影響を及ぼす様なレベルのものでない限り、あまり意味がないように思われます。現代日本で、現実政治に影響を及ぼすようなレベルでBIを論じている人々にとって関心があるのは、そういう高邁きわまるグローバル・ジャスティスであるとはあまり思えません。そして、現代日本で公共サービスを削減するための補償金としてBIを考えている人々が、『日本の論点2010』で述べた

>全世界のあらゆる人々に対し、日本に来ればいくらでも寛大にBIを給付しよう

という高邁きわまる思想に賛同しているとはなかなか思いがたいところがあります。

それに、リアルな政策としてBIを論じるのであれば、それは現在日本で外国人に対する給付に対してどのような議論がされているかという実態を抜きにして、どこか空中のラピュタ国の議論を展開してみてもあまり有益ではないのではないかというのが正直なところです。

前に本ブログで書いたことですが、失業した外国人労働者が雇用保険が切れたあと生活保護を受給しようとすることに対して、現実の住民たちがどういう反応をしているかという話ともつながるものがあります。だからこそ、わたしは、

>日本人であるがゆえに働く気のない者にもBIを給付する一方で、日本で働いて税金を納めてきたのにBIの給付を、-BI論者の描く未来図においては他の社会保障制度はすべて廃止されているので、唯一の公的給付ということになるが-否定されるのであれば、それはあまりにも人間社会の公正さに反するのではなかろうか。

とも書いたわけなのですが、この点については齋藤さんの琴線には触れなかったようです。

最後に、ちょっといやらしい言い方をしますが、萱野さんやわたくしの議論に対して激烈な批判をされるのは、少なくともわたくしとしては大変ありがたく、いかなる人格攻撃をも伴わない言論の戦いは、正直申し上げて大変すがしがしさを感じていますが、その直後の宮本太郎先生に対する妙に遠慮したような物言いは、真理に仕えることを志す研究者として、いかがななのかな、という感想を持ちました。それ以上は申しませんが。

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四月馬鹿でなければ池田信夫氏は回心したようです

もし、これが四月馬鹿ではなく、池田信夫氏の本心からの声であるならば、つまり、これまで「フリードマンは地域や年齢に依存する福祉システムを廃止して、福祉を負の所得税のような所得再分配に一元化すべきだと主張した」という考え方を自らも強力に主張してきた池田信夫氏が本心からこういう考え方に改まったというのであれば、それは言葉の正確な意味における「回心」というべきでありましょう。

慎重を期するのであれば、本日4月1日が暦日として終了するまで様子を見るというのが研究者としてのあるべき態度なのかも知れませんが、せっかくですのでここに引用しておきます。もしかしたら、明日になったら四月馬鹿を真に受けてフライングしたと笑いものになっているかも知れませんが、まあその程度のリスクは覚悟の上で・・・。

http://agora-web.jp/archives/972545.html(無縁社会と福祉システム)

>しかし原子的な「無縁」の個人が、最低所得だけ保障される社会は幸福なのだろうか。過疎化する地方とともに失われてゆく伝統文化は、消えるにまかせてよいのだろうか。日本の所得は高いのに、「幸福度」は世界で90位だ。自殺率は主要国で最悪の状態が10年以上続いている。単なる所得保障ではなく、人々の「縁」を再建する工夫が必要なのではないだろうか。

すぐ下で紹介した宮本太郎先生編集の『社会保障』の中にはいっていても、ほとんど違和感のない文章であるのが、却って空恐ろしさを感じさせたりしますが・・・。

(追記)

4月4日になりましたが、池田信夫氏の「回心」は四月馬鹿どころか筋金入りのようです。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51401727.html(日本人は何を失ったのか)

>これは「小泉改革の市場原理主義」のせいではなく、資本主義の本来そなえている暴力性が一挙に顕在化したためだと考えられる。つまり80年代までは、人々は「会社」という繭にくるまれて資本主義の脱コード化メカニズムから身を守っていたのだが、90年代後半以降、会社が破綻すると、裸の個人が絶えず変化するコードなき社会に、いきなり放り出されたわけだ。

>今の日本が豊かな国であることは事実だとしても、「幸福度」は世界で第90位であり、自殺率は主要国で断然トップだ。こうした広義の福祉を考える上で、従来の「厚生経済学」は何の役にも立たない。・・・資本主義の暴力が伝統的共同体を破壊し尽くした「無縁社会」で、どんなコミュニティが再建できるのか(あるいはできないのか)という問題が、日本人の真の幸福を考える上で重要だと思う。

一瞬中谷巌氏の「回心」を思い出しますね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-3779.html(中谷巌氏の転向と回心)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-2350.html(中谷巌氏の「回心」再論)

なにしろ、中谷巌氏とは違った意味で、池田信夫氏もかつて「転向」してるわけですから。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-3ac0.html(悪しき権力に向かって闘っていきたい)

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宮本太郎編『自由への問い 第2巻 社会保障』

0283520 ということで、順序が後先になってしまいましたが、その岩波書店の強力シリーズ『自由への問い』の中で、内容的に『労働』の巻と密接な関係にある『社会保障』の巻が、宮本太郎先生の責任編集ということで先日刊行されております。

http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-028352-6

>新自由主義的な諸政策のもと,社会保障の抑制と信頼の衰退は社会に不安とリスクを増大させた.監視や安全保障によるセキュリティ強化から,人々のライフチャンスと自由を拡げる社会保障としてのセキュリティへの構造転換はいかに可能か.20世紀型の福祉国家の限界をふまえ,より広い合意にもとづく具体的な制度構想を探る.

目次は以下の通りです。

対論 セキュリティの構造転換へ 宮本太郎・齋藤純一

I 【考察】社会保障理念の再構築
 生活保障としての安全保障へ 山口二郎(北海道大学)
 社会保障法の基本理念としての自由 菊池馨実(早稲田大学)

II 【問題状況】矛盾はどこに,いかにあるか
 自由と生存をひきかえにするな! 雨宮処凛(作家)
 最低保障改革の動向と自由――包摂の名による排除 布川日佐史(静岡大学)

III 【構想】自由のための社会保障制度
 財政は信頼をつくり出せるか? 井手英策(慶應義塾大学)
 ベーシック・インカム,自由,政治的実現可能性 田村哲樹(名古屋大学)
 「二つの自由」への福祉国家改革 宮本太郎(北海道大学)

宮本太郎先生については、本ブログでも今まで『福祉政治』や『生活保障』を紹介しつつ、繰り返し取り上げてきましたので、今さらという感じもしますが、やはり、

>大事なポイントは、生活保障というのは社会保障と雇用の連携に加えて、再配分と承認の連携でもあるということです。これまでも社会保障と雇用が、ある方法で連携することで人々の生活が支えられた。その場合、生活が支えられるということの意味合いは何か。それは生活の資源が行き渡るということに加えて、その資源を基礎に、人々が「生きる場」、即ち社会的に意味のある生を生きていく相互的な帰属の場を持つことができていたわけです。・・・

>ところが今、そうしたもろもろのコミュニティが急速に解体して、多くの人々が寄る辺のない生を生きざるを得ない状況がある。このことを考えると、生活保障という場合、単に生活資源の提供にとどまらず、そうした資源をてこに、他の人々と認め認められる豊穣な関係を形作っていく回路のようなものも実現していかなければいけない。つまり生活保障というのは、雇用と社会保障を連携させることで、資源配分と社会的な相互承認をともに実現することである。そのように考えています。(p4~p5)

というような一節はできるだけ多くの人々に読まれて欲しいなあ、と感じることしきりです。この「承認」の契機をめぐって、宮本先生は「自分がどうやらカント派ではなくヘーゲル派らしいということがわかった(笑)」と冗談めかしつつ、

>あえて言うならば、カント的な構想に従って例えばBIという形をとれば、そこで確かにある種の隠れ家を確保することはできるかも知れません。しかし、そのことで現実の価値システムが変わっていくという展望がどこまで開けるのか。そこを逆に問い返したいわけです。むしろBIだけを元手に生きている人々に対してB級市民としての烙印が押されたり、あるいは今の新自由主義的なBI構想の流れに窺えるように、それだけで社会的責任はこと足れりとして、あとはその給付水準を引き下げていくような流れに帰着しないとも限りません。

と、ある種のリバタリアン型ベーシックインカム論をやんわりと批判し、

>大事なことは、ヘーゲル的に現実の関係から出発しつつ、その現実の価値システム、あるいは承認/非承認関係の歪みを正していく道筋をどう確保するかだと思います。

と、社会問題にアプローチするスタンスを明確にします。いやあ、まさにそうなんだよなあ。

そして、次の「職場に限定してお話しすれば」というのが、まさに今日の労働問題に対する正しいアプローチを示しています。

>脱商品化という構想は、一方では現実の職場から離脱する自由を確保する。イグジット(退出)の自由ですね。そのことで現実の職場に対するボイス(発言)をも増大させていくという戦略でもあるわけです。もちろん、そういう意味では脱商品化は、現実の労使関係や職場関係から距離を置く制度が前提になります。その一部としてBI的な制度が入ってくるのは当然だろうと思います。・・・

>ここで大事になるのがアクティベーションの政策で、それが職業訓練であったり、保育サービスであったりする。実は、仕事の場からいったん距離を置き、またそこに入ってもらうという相互的な回路が準備されることで、職場の承認/非承認関係、あるいはそれを従来支えてきた価値システムそのものの変容が起こりうる。・・・その意味でも、私はBIよりアクティベーションの流れこそが、既存の承認/非承認関係を変えていくことにつながると考えています。

このあたり、最後の宮本論文でも、ルームの言葉を借りて、

>脱商品化は、雇用の外で消費生活を維持できるという意味での「消費としての脱商品化」にとどまらず、雇用の場が自己実現と承認の場に近づくという「自己実現としての脱商品化」に転化して初めて意味をなすのである。

と述べているところです。

なんだか宮本先生の引用ばかりになってしまいましたが、他にもとりわけ菊池馨実先生や布川日佐史先生の文章は読まれるべき値打ちがあります。特に布川先生のは「包摂の名による排除」という刺激的な副題が付いていますが、あらためて生活保護制度の役割を強調し、その改革を主張するとても重要な内容です。

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『自由への問い 第6巻 労働』のいささか気の早いお知らせ

新年度になりましたが、今月27日ですからまだだいぶ先ではありますが、岩波書店から毎月1冊ずつ刊行されている『自由への問い』というシリーズの第6巻、佐藤俊樹編集『労働―― 働くことの自由と制度 ――』がいよいよ発行まで秒読み段階に入りましたので、いささか気が早いとのそしりは覚悟の上、ここにお知らせいたします。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/1/0283560.html

労働と自由は,それぞれ近代以降の社会を支える最も基幹的なしくみだが,二つをどう接続するかは曖昧にされてきた.日本では正社員体制が解体し,両者の関係はいっそう見通しにくくなっている.私たちの生活に大きく影響する,働くことと自由の複雑なからまりあいを,制度のあり方と労働現場の姿の両面から照らし出す.

内容は次の通りであります。

I 【対論】
 働くことの自由と制度 佐藤俊樹・広田照幸

II 【考察】「働くこと」と自由
 働くことと自由――異質なものの異質な接続 佐藤俊樹(東京大学)
 「会社からの自由」の両義性 高原基彰(日本学術振興会特別研究員)
 正社員体制の制度論 濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構)

III 【問題状況】労働と自由の歴史的編制
 仕事と価値と運動と――1830年代における「労働」の誕生 宇城輝人(福井県立大学)
 労働における自由とジェンダー 金野美奈子(神戸大学)
 就職空間の成立 福井康貴(東京大学大学院博士課程)

IV 【構想】現代的な労働の現場から
 コンビニエンスストアの自律と管理 居郷至伸(横浜国立大学)
 ケア労働の組織――今後のあり方を考える 三井さよ(法政大学)
 社会に「出る」/「出ない」――学校と社会の間で 貴戸理恵(関西学院大学)

わたくしの「正社員体制の制度論」は、拙著『新しい労働社会』序章をベースにしながら、それを超えて、そもそも正社員とはなんぞやを会社の原初形態から考え、さらに20世紀システムにおける正社員体制の位置づけを考察し、その戦前、戦中そして戦後における動態を歴史的に見つめながら、改めて雇用システムの再構築を論じるという、いささか風呂敷を広げた展開となっております。刊行の暁には、是非ともご笑覧いただけますれば幸いです。

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