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2010年4月 8日 (木)

日本学術会議大学と職業との接続検討分科会におけるhamachan発言録

さて、日本学術会議のHPに大学と職業との接続検討分科会の第3回から第5回までの議事録がアップされましたので、その中からわたくしの発言部分を紹介したいと思います。議事録は、報告者以外は「○」となっているのですが、まあ、わたくしの発言は「○」となっていてもわかるでしょう、とはいいながら、読者の皆様のために。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi03.pdf(第3回)(7月7日)

まずは田中萬年先生の「教育における職業的イレリバンスの十大要因」という報告がありまして、それを受けて、

>濱口 企業が「下手に専門能力をつけてもらっては困る」と言う、ということは始めからあったわけではない。50年代頃に当時の日経連は「もっと専門教育をやれ、基礎教育などやるな」という提案をした。これが60年代頃に途絶えていった。なぜそうなったかというと、おそらく教育が対応できなかったからである。ところが企業の方が企業内教育としてやってしまうと、逆にそれが言わば前提になってしまう。そこで改めて大学が専門的なものを作ったとしても、企業の方ではそんなものはいらないという話になってしまう。言わば一種の相互依存的な関係が作られてしまう。実はここがこの検討分科会の最大の難しさで、上から「正しい結論」を出すのはある意味簡単だが、社会の全てのものには、例えば教育がこうである、ということを前提にして企業システムができてしまうと、一方ではそれを前提にして教育のシステムができる。そして今のような状態になってしまうと、そう簡単に「正しい在り方」に変われるわけではない。

>濱口 二番目の徒弟制度の話も、話はもう少し複雑だと思う。終戦直後の段階では、確かに徒弟制度はよくないという話だった。徒弟制度がよくないということをどういうふうに是正するかというと、教育システムできちんと職業教育をやろう、ということである。少なくとも教育基本法を作った人の発想はそうで、今まで会社の中でやっていたものはよくないので、教育システムで職業教育をやるということだった、ということだった。ところがその受け皿ができたか、というとできなかった。その結果何が起こったかというと、本来徒弟というのは会社がやるのだが、中身自体は社会的に必要な人材を作る、ということである。ところが、現実に起こったのは、社員として入れて、会社にとって必要な人材を作るというものになっている。本来の徒弟とは違う形で、徒弟的な機能を企業が果たさなければならなくなった。本来の徒弟制度であればもっと社会的な性格を持ったものであったものが、そうではない形で発展してしまった、ということで、話自体が二重三重に入り組んでいる。

>濱口 ただ、今の本田先生の質問の趣旨からすると、課題解決能力や、学ぶ力、OS的能力というのは、何をしていれば、何をとっていれば、それがあると社会的に認定されるのか。少なくとも大学の法学部や経済学部のディプロマを持っていることが、問題解決能力を有していることの証明書になるか、というと社会的にはそうではない。このことのもっとも典型的な例が、以前外務省に出向していたことがあったが、昔の外務省は面白いことに、一番のエリートは大学中退だった。また、中退者の方が優秀だ、という考えがまかり通っていたということである。つまり専門教育は二年間しかなく、さらに最初の一年間しかやっていない人間の方が問題解決能力や学ぶ力がある、と認められていた。これはもちろん外交官試験という特別な試験があった、ということがある。しかし周りの世界からして非常に異常なことをやっているか、というとおそらくそうではないと思う。おそらくそこにあるのは、確かに企業はこういうものを求めている。それは何で判断されるか、というと、少なくともディプロマではないと思う。

続いて本田由紀先生の「日本の大卒就職の特殊性を問い直す―QOL問題に着目して」という報告。これは先日本ブログでご紹介した苅谷・本田編『大卒就職の社会学』の一章です。

ここで、矢野先生が就活を規制することをきちんと言うべきだと主張されたところからいろいろ議論になりました。わたしは、経済的合理性でそうなっているものをただ規制しろでは済まないと言っています。

>濱口) 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。

二番目に、システムの問題といってもそう簡単ではない。そのシステムを前提に色々なものができている。大学の教育の職業的レリバンスをより高めるという議論はそれだけ言っていると非常にもっともな理論である。しかし、それは現に職業レリバンスのない教育を行っている大学教員たちの労働市場の問題を発生させ、今大学で禄を食んでいる人のかなりの部分の職を奪うことになると思う。なぜかというと、そのシステムを前提としてそういう職業レリバンスのない教育をしてきたからである。それでもさらにオーバードクターの問題が発生してきたわけで、それを逆方向に向けたりすると、おそらく大変な事態が起こる。そうするとシステムの問題はシステムとしてしか解決できないが、システムの解決は漸進的にしかできない。そうすると、格好良い結論というのは、相当の代償のある話となる。そのため、たいてい何か書かれている割に、最後はあまり内容のないものになってしまう。これはたぶん仕方がないと思う。それ以上に格好良いことを言えば、それはおそらく空論に終わってしまう。何が必要かというと、やはり枠組みの議論をきちんとした上で、中長期的な、将来的な姿に向けて短期的に何ができるか、という議論を分けてしていくしかないのではないかと思う。せっかくこういう場なので、いきなりマスコミ受けする結論が出た方が格好良くはなるけれども、それは逆にアクチュアリティーをなくしてしまうのではないか。一部の有力企業や有力大学についてはおっしゃるとおりかもしれないが、それをもとに色々なシステムができて皆が動いているときに、逆にそこから降りられるか、というと、一人では降りられないと思う。

これに矢野先生が「私は合理的に考えて言っている」、「大学教育を語るときに、授業やゼミが成り立たないという状況を放置していて、これが競争合理的な方法だから、システムがそうなっているからという説明でおいておくのか」と反論され、以下、

>濱口 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。

矢野 世の中には規制があるのは普通である。

濱口 私はまさに規制は必要だと考えている。しかし、不合理な規制は結局意味がないと思う。

矢野 平日の授業をやっているときに就職ガイダンスを行うような企業を規制することはどこも不合理ではないと思う。

というやりとりになります。金子良事さんには長いおあずけでしたが、こういうやりとりでありました。

次に、

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi04.pdf(第4回)(7月21日)

はじめはわたくしの「日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行」という報告。質問に答える形で、

>濱口 そもそも理工系のことはあまり知らないので、まとめて書いてしまった。いわゆる理学部の純粋科学的な所になればなるほどそうではない、ということはそうだと思う。しかし、工学や農学、薬学という所では基本的に不可分だろうし、法律や経済も上層部分になればそうだと思う。だが、実態として何が問題かというと、日本には山のように法学部や経済学部があるが、そこを出た人の圧倒的大部分は、そこで先生方が一生懸命教えたことを、学術ではなく、職業的な意味でも使うか、というと使わないことが非常に多いということだと思う。そういう意味では理工系というのは色々なグラデーションがあるだろうし、そこを言い出すと色々あると思うが、いい意味で不可分ではないかと思う。

>濱口 主体・アクターによって色々違いがあると思う。ある意味では先程の説明はやや割り切りすぎである。単純化した言い方をすると、90年代は、「企業に全部お任せ」という所から、「公的にやりましょう」とはならずに(合理的にはそう言ってもおかしくなかったが)、ありとあらゆることが「それは個人の自己啓発だ」となった。「雇用契約は、労働者個人が主体的に結ぶものだ」というように集団性を否定した。90年代は、「集団(企業)から個人へ」ということがトレンドとして非常にうたわれた。しかし、そこから零れ落ちる人が出てくることや、個人が全部できるのか、という話が本格的に議論されてくるのは、むしろ2000年代だろう。98年の山田洋次監督の映画はたぶんやや先駆的すぎたのだと思う。映画は出たが、政策としてそういう方向に行ったというわけではない。労働行政の能力開発審議会の中では、「『自己啓発』と言われるが、そのようなものでできるのはごく一部だ。結局若者や女性など、そこから零れ落ちている者についてしっかりと対応する、ということをもっと公的にやるべきだ」という議論が出てくるのは2004、2005年頃である。ただ、労働行政の中でそういう議論が出だした、ということであって、社会全体としてそうかというと、なかなかそこまで行っていないということだろうと思う。

続いて矢野先生の「教育と労働と社会―教育効果の視点から」という報告。私はまたしてもこうやってケチをつけます。

>濱口 そこはたぶんそうなのだろうと思う。そうすると、経済学部で、経済学を一生懸命勉強して、就活をせずに卒業してきた人間と、経済学はほったらかしたが、非常に広範な分野で本を読んでいる人間とどちらがいいのか。そもそも企業がなぜ就活に力を入れるか、というと人間を見ているからである。逆に、私はそういうロジックに導かないようにした方がいいのではないかと思う。そういう形にするとあまり意味がない、つまり、就活論との関係で言うと、むしろ相反する議論になってしまわないか。私は就活について、高校は職安ではなくて高校が主導しているが、中学校並みに職安化されていいではないか、というのは一つの極論として思っている。それは、戦後日本が大学というものをどう位置付けているか、ということそのものを180度根本的にひっくり返す話である。私はそういう定義をしてみる価値があると思うが、たぶん今日の話ではないと思う。

ここから矢野先生とわたくしの掛け合い漫才が始まります。

>矢野 今の無法状態ではだめだ、無法状態を放置していて就活に意味があるか、ということを、自ら大学人が教育を放棄するような状況にさらされていることを放っておくことは大学人の見識からして変だ、ということを言っている。

濱口 中高生は大人ではない。では大学生は大人なのかという根本的な話で、一個の自立した市民であるという前提なのだと思う。だとすると、一個の自立した市民は、「自分の教養のためなり今後のキャリアのために、自らの意思に基づいて自発的に受けている教育を受ける」か、それとも「企業との1対1の関係において、そちらに必要な活動に移る」か、実はそれは無法ではなくて、ただの選択の問題になる。それを選択の問題と考えず、前提が今も大学生に成り立っていたということが本当に問題だと思う。そこをスルーしたまま、あたかも知的で成熟した大人であるということを前提とした大学生が自らの判断で、物事に選考順位をつけること自体、いかなる観点からそれが善か悪かと言えるのか。あえて挑戦的な言い方をしたが、私はこれが正しいと言っているわけではない。これが正しいと言わないためには、そもそも大学生はそのような存在ではないのではないか、という議論をしないと、その議論はできないのではないか。

矢野 私は大学生だけの問題だとは思わない。授業をやっていても、授業を受けていなくてもいい、出席も欠席も個人の自由だ、というふうになってきている。その状態が放置されているにもかかわらず、質の保証と言っている。質の保証を誰がするのか。大学の教師が大学に対して、この学生は○○力があると言い、それを教えるのは教師の責任だと言われる。私は○○力というのは分かったようでよく分からない議論だと思う。なぜかというとそのような力はディシプリンをきちんとやっていれば身に付くからである。そういうことを質の保証を考える時に、教える側が教育しなくても勝手に学生が身に付けなさいと言っている。これはおかしいと思う。

濱口 おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。

以下、

>濱口 個人の選択がフィクションであるのは当然である。大人の世界というのはフィクションであっても、ある程度フィクションで成り立っている。大学というものをどのように位置付けるか。フィクションであるけれども、ある程度個人は自立して判断するという前提の上で今の大学ができてしまっている。しかし、それが事実ではないとすれば、ある意味で端的に、公的な規制の下に置く、ということはあると思う。

>濱口 たぶんいくつかのレベルがあって、自立した大人であっても、社会的に完全に自立した意志決定をできるわけではない。このような形で大人に対する規制はある。しかし、企業と個人がどうつながるか、というところに入る規制は、日本は非常に弱いというか、自由に委ねられている。大人の判断というものに対しては自由であるというのが大原則で、それに対して子どもはそうではない。それでは大学生はどっちなのか、という話である。つまり大人であるということは、大学教育が個々のゼミ・授業を就活と比較して、出る価値があるか・ないか、自分の人生にとってどちらが大事か、ということを一人ひとりが判断してやるものだ、という前提になっている。しかしそれは現実的ではない。現実的にない、という話を抜きにして、大学教育というものを学校教育法のきれいごとの世界の延長線上で描きながら、出口のところだけ急に昔の中卒・高卒の話に持ってくるのは、議論として非常に整合性に欠けるのではないか、という話をむしろしたい。

>濱口 大学は社会的にどういう存在なのか、ということだと思う。能力がつかなかったらどんどん追い出す、というのは、今までの、エリートが大学に行くことを前提とした発想だと思う。逆に、今は50年代の中学校並みが今の大学なのだ、と割り切ってしまうと、少しできが悪くてもきちんと大学卒業生として社会に送り出すことが務めである。学校教育法はエリート主義を書きながら、そういう部分だけ限りなく中学校的なやり方をしているために、こういう矛盾が出てくる。決着をつけるには、どちらかにする必要があると思う。個々の所で、二つの間にはさまれるというか、がけに落ちる状況にならないようにするためには、A大学とE大学では基準が違ってもいい。A大学にはこの基準、E大学にはこの基準というものがないと、それぞれの所でがけから落ちてしまう。

そして第5回です。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-youshi05.pdf(第5回)(7月28日)

北村先生の「専門分野別評価と職業教育」という報告について、わたくしは一言だけ、

>濱口 技術者教育と工学教育が微妙に異なる、という話だが、「微妙に異なる」というのは「大体同じ」ということになると思う。逆に言うと、こういう議論ができていること自体がある意味で素晴らしい話で、先程から色々な問題が上がっているが、問題のレベルがだいぶ違うと思う。例えば事務屋の教育と法学系の大学教育が微妙に異なると言ったら鼻の先で笑われると思う。リーガルマインドや経済的思考が役に立つとか世の中で言われているには言われているが、「それは本当か?」と突き詰めていくとそのような主張はどこかに行ってしまう。微妙に異なるというレベルで議論できていることの方がむしろ特異であるように見えるという印象だ。

続いて連合の逢見副事務局長が「労働教育と就職活動について」。

ここは、ほんとうはわたくしは労働教育についてもきちんとコメントすべきだったと思うのですが、話の流れでもっぱら就職活動についてのみ発言しています。

>濱口 協定という言葉の定義で、協定というものがアンバインディングな紳士協定であるという意味で使われているのであれば外資であろうがなかろうが、抜け駆けするものに対する規制能力がないものというのは本質的に同じ話である。どんなものでもアウトサイダーがいる。アウトサイダーをどうするか、というと、公権力を持って強制するかという話になる。なぜこういういう話をするかというと、労使協定はどのように担保されるかというと、公権力で強制するか労働組合が強制するかである。秩序を守らせるためには、やり方としては集団的な力でやるか、国家権力でやるか、である。就職協定はそのいずれでもない、ということは「守らない人はどうぞ破ってください」と差し出している訳なので、もともと最初から強制力はないのだろうと思う。

>濱口 たとえば、高校生に対する求人は職安を通さなければいけない。どうしてもやるのならばそこまでする必要がある。なぜそんな規制が正当化されるかというと、高校生はまだ子どもだからである。子どもには教育を受ける権利がある。それを大人の論理で奪ってはいけない。では、なぜ大学生には許されているかというと、大学生は立派な大人だとみなされているからだ。40歳や50歳で大学に入っても全然問題ない。にもかかわらず、なぜ就職協定が社会的に問題になるか、というと、建前はそうかもしれないが、実際はそうではないからである。今の大学生は、実は昔の中高生レベルである。昔の中高生レベルの者に大人であることを前提にした仕組みが適用されている。その、建前と現実の狭間が問題を生じさせている。今や、大学であるかは別にして、中等後教育を受ける人の方が同世代の過半数である、という時代において、確かに民法の成人年齢は超えているが、昔の10代後半くらいに相当するような人に対してどういう仕組みでやるべきか、ということを議論しなければいけない。その一方で、建前的な学術の中心として20歳でも30歳でも40歳でも学びたい人が大学に入って学問をするのだという建前の議論と、無媒体的にくっつけてしまうと、話がおかしくなってしまう。どこにスタンスを置いて、どの視角から、どういう大学生をイメージ・念頭において議論するか、ということをきちんとしないといけないと思う。

>濱口 労働者であることと学生であることはなんら二律背反ではない。そういう意味では、大学に入る前から就職していて、実際に仕事に就くまでに大学で4年間研修してこい、ということも制度的にはありうる。しかし法律的には問題ないが、どの人を会社に採用するか、という判断基準において大学教育が何も関係ないことがあまりにもあからさまになる、ということである。

>濱口 今まではそうだったが、それではおかしい、ということで議論している。もちろん理科系と文科系で違いがあるが、企業からすると、法学部であることと経済学部であることには差がなく、その学部に対する印象によってその学生の人間性を判断する程度であった。本当にリーガルマインドや経済的思考を求めているか、ということは、突き詰めていくとなかなか難しい。今までそうだったからそれでいいのではないか、というのも一つの答えである。しかしここで求められているのは、そこをもう少し踏み込んだところで議論をしよう、という話である。

3回分まとめてなので、いささか量が多くなりましたが、どういう議論をしていたか、ある程度ご理解いただけたか、と。

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