「地域」に主権はないはず
生活経済政策研究所から送られてくるメールマガジン、3月15日付けの第215号のコラム「ひとこと」に、次のような一節がありました。
>阿久根市政が混乱しています。竹原信一市長の議会軽視と専横ぶりは、ちょっと度が過ぎているようですね。まあご本人は大阪府の橋下知事を見習ってリーダーシップを発揮しているつもりのようなのですが、マナーもルールも無視した専横ぶりをリーダーシップと勘違いする竹原市長や選挙で選んだ市民の民度の問題でもありますね。こうした事例を観ると、地方分権や「地域主権」に反対する皆さんが、地方に権限移譲するのは問題だと騒ぐ気持ちがわかるような気がします。こうしただめな首長や議員による混乱も経験しながら、それを乗り越えて住民が自己決定する努力を積み上げなければ、いつまでたっても国依存体質は変わらないのですが。与えられた民主主義を本当の民主主義にするためにも、鳩山政権が本気で「地域主権改革」を推進することを期待します。もっとも、憲法上、主権は国民にあり、連邦制ではないので「地域」に主権はないはず。そもそも「地域」をどのように定義するのかもわかりませんが、統治機構としての都道府県や市町村といった行政単位でもないとすれば、具体的な意志決定の仕組みを持たない「地域」に主権があるはずはありません。「地域主権」という言葉はまずくないですか?
生活研はかつての平和経済計画会議で、系譜的には社民右派、いわゆる「進歩派」系なので、思想的には「地方分権」推進派のはずなんですが、こういう目に余る「地方分権」「地域主権」ぶりには頭が痛いことでしょう。
ちなみに、立法・司法・行政の3権のうち、立法で決まったことを実施する行政については、理論的には相当程度の地方分権が可能ですが(それが望ましいかどうかはまた別ですが)、立法についてはそもそも地方自治体の条例制定権は国家の法律の範囲内に限定されますし(違法な条例はそもそも許されない)、司法については日本は連邦国家ではない以上いかなる意味でも地方分権はあり得ないのですから(だから某市長が裁判所の命令に従わなければ内乱罪です)、統治機構としての都道府県や市町村であっても、「地方主権」という表現自体がおかしいというべきでしょう。
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