自動車の自由と歩行者の自由
yellowbellさんの「背後からハミング」が、ポエム風の「秋葉通りの信号機」というエントリで、いろいろ応用可能な大事なことを書いています。
http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20100317
ざっくり筋だけ書きますと、信号機のない秋葉通り。信号機の嫌いなドライバーがびゅんびゅんすっ飛ばす。おばあさんはいつまでたっても渡れない。
>自由、自由、自由。
自由じゃなければ、自動車を走らせる価値がない。
歩行者が待っていても、信号機がなければ停まることはないさ。だって僕以外の誰かがきっと止まるもの。
で、秋葉通りに信号機ができてしまった。それもびっしりと。そうすると、
>信号機嫌いのドライバーは、もう、秋葉通りを走らない。
信号機のない道を探して、くねくねと細い道をかきわけている。
走りにくい、事故のリスクも高い、細くて人の多い道を、くねくねと自由であることを求めて走っている。
自分が停まらないことが、交差点に信号機を増やしているとも知らずに、今日も。
自由を探して、自分が不自由になっているとも知らずに、
自分の自由で、社会に不自由を作っている。
このエントリの最後の所まで読むと、これが例の「非実在青少年」がらみで書かれたということがわかるけれども、この「自分の自由で、社会に不自由を作っている」というのは、いろんなことに応用可能です。
だいたいにおいて、サヨクな方々はこういう非実在青少年だとかいうたぐいのことについては自由至上主義の極地で、ちょっとでも信号機をとりつけようなんていうと悪逆の極みみたいに思う一方で、派遣労働とかになるとちょっとでも自由を認めたら世界が終わるみたいに考える傾向にあるようですし、逆にウヨクな方々は企業という自動車をびゅんびゅんすっ飛ばす自由を小指の爪の先の垢ほどでも制限しようものならこの世は闇の中に堕ちていくような金切り声を上げる一方で、表現の自由とかには大変冷ややかという傾向がありますが、どっちも、「自分の自由で、社会に不自由を作っている」というメカニズムには盲目という共通した傾向があるようです。
そういう人々ばかりが互いに金切り声を張り上げ続けると、世の中はますます住みにくくなる一方なんですがね。
時々信号機に止められながらもそこそこスムーズに自動車を走らせることができる自由と、時々信号機に止められながらもそこそこスムーズに横断歩道を渡ることのできる自由を、ほどほどのところでバランスをとりながらうまくやっていくという知恵を、この金切り声ばかりの社会に取り戻すことができるのはいつのことなのでしょうか。
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