田中萬年「用語『普通教育』の生成と問題-『職業訓練』忌避観醸成の背景-」
田中萬年先生のHPに、「用語『普通教育』の生成と問題-『職業訓練』忌避観醸成の背景-」がアップされました。
http://www.geocities.jp/t11943nen/
http://www.geocities.jp/t11943nen/ronbun/1003FutuuEd.pdf
>職業訓練はその重要性が注目されるのに反し、正しく認識しようとする機運があるとはいえない。この大きな要因は、わが国のきわめて歪な教育観によると考える。
>職業教育への蔑視感があれば職業訓練が尊重されるわけはない。この職業教育蔑視の問題は、「普通教育」政策により生じていると考える。問題を明確化し、その打開なしに本質的な「職業訓練忌避感」を解消しえないといえる。
>職業教育が重視されない社会は、より以上に職業訓練が軽視される問題が派生する。
という問題意識から、教育界における用語法や憲法の規定などについて考察を進め、最後のところで
>戦後にアメリカの学校制度をモデルにしたが、わが国のような「普通高校」という考えはわが国独特であることを考慮すべきであろう。単位制=選択制という制度は同じであるにもかかわらず、アメリカではわが国のように職業(専門)高校と普通高校を明確に分離しない、いわゆる総合制高校である。そこではわが国のすべての高校の内容が修得可能なのである。
「普通」とは不思議な言葉である。人々は”普通”を求め、”普通”に安堵する。同様に教育に用いた「普通教育」を日本人は信奉している。しかしながら、「普通教育」には日本的な解釈が盛り込まれていたといえる。今日の日本人は「普通教育」の言葉を盲信し、結果として職業教育、特に職業訓練を人々が疎んできたのである。「普通教育」への正しい再評価がなされなければ、職業訓練のみでなく、職業教育への再認識はおぼつかないといえよう。
と述べています。
ちなみに、今から4年近く前に、本ブログのエントリでこれに関連する問題を取り上げ、コメント欄で若干の議論をしたことがありますのでご参考までに。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)
>本田先生自身がこれまで(朝日新聞的?)平等主義者ではないかと勘ぐられるような発言をしてきているのも確かではあるのですが、この問題についていえば、むしろ実務家的な中等教育の多様化論を主張していると解すれば済むことであって、文句をつけている人々の方が、一元的な普通教育至上主義に囚われているように思われます。
>本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。
>本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。
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コメント
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http://agora-web.jp/archives/1163205.html
就職難の「ボトルネック」はどこか ―解雇規制か教育問題か― 赤沢良太
まあアゴラというだけで先入観を抱いてしまわなくもないのですが
”私見としては、教育改革の失敗は、「ゆとり」教育ではなく、みんながみんな大学を目指す、つまり、普通高校に比べ、職業高校や専門学校が格下に見られるような意識を払拭できなかったことではないだろうか。”
投稿: 名無し | 2011年1月 4日 (火) 13時42分