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2010年2月13日 (土)

「職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる」はずがない

なんだか、金子良事さんにケチばかり付けているようで、気が重いのですが、「職業教育についての論点整理(1)」というエントリが正直よく分からないので、感じたことを述べておきます。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-112.html

>あまりにも危うい職業教育待望論、それから、それに便乗するという向きが多いので

ま、たしかに私も「便乗するという向き」の一人ですし、

>職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論の多くに対してはかなり疑問に思っています。

「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」を展開しているのも確かですので、批判されるのはやぶさかではないのですが、

それにしても、職業教育訓練重視派が主張していることになっている、

>命題1 職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる

なんてのは、一体、どこのどなたがそんな馬鹿げたことを申し上げておるんでごぜえましょうか、という感じではあります。

もちろん、金子さんの言うとおり、

>職業教育ならびに職業訓練はある特定のスキルを習得することを前提としています。つまり、ある職業教育を受けるということはその時点でもう既に選択を行っているのです。すなわち、選択が前倒しされるだけなのです。この世の中に無数にある職業の大半に接するなどということは実務的に絶対不可能です。ということは、職業教育はその内容を必ずどこかで限定せざるを得ない。

職業教育訓練とは、それを受ける前には「どんな職業でも(仮想的には)なれたはず」の幼児的全能感から、特定の職業しかできない方向への醒めた大人の自己限定以外の何者でもありません。

職業教育訓練は、

>この意見が人々を惹きつけるのは「選択の自由」という言葉に酔っているからです。

などという「ボクちゃんは何でも出来るはずだったのに」という幼児的全能感に充ち満ちた「選択の自由」マンセー派の感覚とは全く対極にあります。

職業教育訓練とは、今更確認するまでもなく、

>選択を強制されるのはそれはそれなりに暴力的、すなわち、権力的だということは確認しておきましょう。

幼児的全能感を特定の職業分野に限定するという暴力的行為です。

だからこそ、そういう暴力的限定が必要なのだというが、私の考えるところでは、職業教育訓練重視論の哲学的基軸であると、私は何の疑いもなく考えていたのですが、どうしてそれが、まったく180度反対の思想に描かれてしまうのか、そのあたりが大変興味があります。

まあ、正直言って、初等教育段階でそういう暴力的自己限定を押しつけることには私自身忸怩たるものはありますが、少なくとも後期中等教育段階になってまで、同世代者の圧倒的多数を、普通科教育という名の下に、(あるいは、いささか挑発的に云えば、高等教育段階においてすら、たとえば経済学部教育という名の下に)何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷さについては、いささか再検討の余地があるだろうとは思っています。

もしかしたら、「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」という言葉で想定している中身が、金子さんとわたくしとでは全然違うのかも知れませんね。

(追記)

そういえば、マックス・ウェーバーが、「職業」としての学問を論じた中でも、似たようなことを云ってませんでしたっけ。

(再追記)

黒川滋さんが、本エントリに対して、「職業教育に関するいろいろな思い出」というエントリで、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/02/213-3150.html

>その意見の違いを見て、いろいろ葛藤した14~5歳のときのことの人生選択を思い出してしまった。

と、ご自分の若い頃の思い出を綴っておられます。

黒川さんは、

>自分の中では、能力なんて大したものではないのではないかとずっと怯え続けていたこともあって、早く社会に役立つ能力を身につけたいと思っていたし、自宅の近所に県の肝いりで作った職業科総合高校もあったため、職業科に進学したかったのだが、やめなさい、普通科行きなさい、大学行きなさい、と言われ続けて断念し、結局、自棄気味に選んだ普通科高校に進学した。

のだそうです。そのとき、

>その時の周囲のおとなたちの言い分は金子良事さんの論旨とほとんど同じ。労働者天国をめざすマルクス経済学の影響を受けた若者時代を送った親ほど、強く言われた。将来を固定するものではない、と普通科進学を強く言われた。

そうだったろうな、と、その情景が浮かびます。

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コメント

この黒川さんの希望に反対した大人の議論、どこが私の論旨と同じなのかまったく意味が分かりません。

私の論旨は、一般教育に全部職業教育的要素を組み込めというのは暴力的であるという、制度全般に関わる論点であり、個人の進路の話とは次元が違います。

黒川さんが個人的思いを吐露されて、その思いを解放される分には別になんでも構わないですが、この文脈でここから引用されるのは悪意を感じます。

なぜなら、濱口さんご自身が私を論じている箇所では、私が制度全般の話をしているのを精確にご理解された上で、ご意見を書かれているからです。読み比べれば、その違いは明らかだと思います。

一応、お答えしましたので、お読みになってください。
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-114.html

黒川さんの記述がもっぱら個人の進路選択に係るものであり、私と金子さんの議論が制度設計に係るものであることはいうまでもありません。ただ、制度設計は個々人の進路選択に大きな影響を与えますので、無関係とも言いがたいと思います。

わたしの本エントリの問題意識はむしろ、上にも書いたように、職業教育訓練の強調は将来の選択肢を狭めるものであり、一般教育の強調は(黒川さんの周囲の人の言うように)いつまでも自由な選択を可能にするものであるというのが通常の認識であり、私もそれを前提とした上でその利害得失を論じているつもりなのに、なぜ金子さんは

>>命題1 職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる

というような誰も主張していない議論を批判されるのであろうか、という点にありました。その点については、未だに良く理解できておりません。

社会における教育訓練機能の制度設計として、どの時期にどの程度の職業教育訓練要素を入れるべきかというのは、それによる選択の自由の制約をどこまで容認しうるかという観点から検討されるべきことであり、なんでもかんでも職業教育にすればいいなどといっているつもりはまったくありません。

(追記)

ちなみに、社労士の李怜香さんからは、

>相変わらず身も蓋もなく現実的だ。/

というお褒め(?)をいただいております。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post.html">http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post.html

たしかに。読み返すと、おかしいですね。すみません。

私が言いたかったのは、職業的意義のある教育を行うことで、よくよく職業を分かった上で自らの意思で生徒が選択できる、というのは幻想だということでした。選択はどこかでエイっといわなきゃならない。それは仰るとおりです。

黒川さんの件については、個人的には一般教育の強調が自由な選択を可能にするというのは建前というか方便で、本音では大学を出てホワイトカラーとして就職(就社というべきでしょうか)するなどのルートが最初から想定されていただろうと思ってます。もちろん、その選択幅は広いでしょうが、それでも無限であったとは思えません。本気で言ってるかどうかを判定するポイントは、大学を出た後でもその道に進めると、アドバイスした人が言ったかどうかです。本当に原理的に自由な選択を重んじる人たちであれば、黒川さんの選択をその時点で尊重したでしょう。個人的な憶測では、黒川さんが最後にご指摘されているように、学歴差別と職業間差別が背後にセットであるんじゃないかと考えてます。

話題がずれますが(?)、正味のところ、濱口先生はどれくらい本気で「一般教育はいつまでも自由な選択を可能にする」説が唱えられているとお考えですか。ここだけの秘密で教えていただければ幸いです。私は上に書いた理由で、そこに問題の核心があるとは考えていませんでした。

それにしても、お手数をお掛けしました。これに懲りず、今後ともご指導ください。よろしくお願いします。

>正味のところ、濱口先生はどれくらい本気で「一般教育はいつまでも自由な選択を可能にする」説が唱えられているとお考えですか。

「誰の本気」のことを問うているのかによって、答えは全く異なってくると思います。

教育学者や教育関係者で職業教育を排撃し一般教育を主唱する人々は、たぶんこの上なく本気でそれが当該子どもの自由な選択を可能にすると思っているのだろうと思います。ただ、教育学者や教育関係者の現実感覚については、いろいろと感じるところがあることはご承知の通りです。

産業界や企業関係者が職業教育よりも一般教育を求めているとすれば、それは訓練可能性、可塑性ということに重点を置いているからでしょう。一言で言えば、その教育を受けた子どもを雇い入れる企業にとって「いつまでも自由な選択を可能にする」から望ましいという判断であって、これはこれで根拠のある現実感覚に裏打ちされたものであることはもちろんです。ただし、そこには、企業の自由な選択によって選択されなかった「何でも出来る可能性はあるけれど現実には何にもできない」子どもを誰が面倒見るかという観点はありません。もちろん、ミクロの企業にそんな観点を要求すべきでもありませんが、マクロ的には必要になる観点でもあります。

子どもに一般教育を勧める親や親戚の人々の「本音」は、おそらく金子さんが指摘するような面がかなりあるだろうと思われます。これまた、ミクロの最適化戦略という観点からすると批判すべきことではありませんが、そうやって社会的に必要とされるよりも多くの子どもがホワイトカラーになることを予定するコースに進み、いざ社会に出る段になって、そんなにたくさん要らないんだよなあ、という事態になったときに、どうするかという問題は残ります。
それをどうするかはもはやマクロ社会政策の問題であって、勧めた親や親戚の人の「本気」をどうこういってみても始まらないでしょう。わたしがミクロレベルの「本気」がどうであるかを追求することにあんまり関心がないのはそのためです。ミクロレベルの職業差別意識自体がいいとか悪いとか云ってみても仕方がないのであって、その親や親戚の差別意識のためにかえって人生行路を困難にしてしまったあまりできのよくない普通科高校生や選抜性の高くない文科系大学の学生をどうするかということの方が、政策的思考にはなじみます。

丁寧にお答え頂き、ありがとうございます。

私はミクロの差別意識はどうでもいいと思ってきましたが、世間知らずの私はようやく最近になって、現に専門学校は低く見られており、そのことが関係者各位の行動に影響を与えていることを感じるようになりました。そうなると、実際、望ましい職業教育を普及させるためには、その克服が実はもっとも重要な課題なのではないかと考えています。

コメント欄で長々とお邪魔しても申し訳ないので、また、別に考えて見て、そのうち、宿題を提出します。

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