山口浩一郎先生の有期契約無期転化論
厚生労働省の有期労働契約研究会は、いよいよ論点の集約に入り、
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/01/s0119-7.html
本年夏頃までに最終とりまとめをする予定ということです。
さて、ひょんなことから、有期契約の無期転化問題について、若き日の山口浩一郎先生が判例評釈の中で論じておられたことに気がつきました。『ジュリスト』の1966年5月1日号(345号)で、ちょうど東大の社研の助手をしておられた最後ごろに報告されたんですね。
「濱口くん、そんな昔のものをほじくり返すなよ」と言われそうですが、論理は十分今でも通用すると思いますし、こういう問題はあんまり今現在の判例通説ばかりとらわれていてもしょうがないので、紹介してみます。
ケースは、長崎地判昭39/6/12。休職制度のない臨時従業員が組合専従者となり欠勤を続けたことを理由に労働契約の更新を拒絶することができるか、といういろいろ絡み合ったものですが、有期契約の更新拒絶については、
>期間の定めのある労働契約が反復更新されることにより期間の定めなき労働契約に転化する法的根拠は見いだしがたいところであり・・・雇用契約が更新を重ねたことにより、X1とYとの間に当然雇用契約を更新する旨の暗黙の合意が成立したものとも断定することができない。
>・・・が、期間の定めのある労働契約においても、雇用期間が反復更新され期間満了後も使用者が雇用を継続すべきものと期待することに作業内容並びに過去の実績から見て合理性が認められる場合には、使用者が更新を拒絶することは実質上解雇と同視すべきであり、このような場合には解雇に関する諸法則を類推適用するのが相当である。
と、転化はしないけれども、期待による解雇法理の類推適用という後に最高裁が認めた立場に立っています。
若き山口先生は、敢然とこれに挑みます。
>けれども、それでは期間の定めのある労働契約の明示の更新は、当事者の全くの任意に委ねられ、永遠にそのようなものとして継続されていくのであろうか。この点に疑問がある。労基法21条但し書きは同各号に所定の期間を超えて「引き続き使用されるに至った場合」には、期間の定めのある契約についても解雇予告が必要であるとしているが、このことは、とりもなおさず、その前提として、所定の期間を超えて雇用関係が存続しているときは、その関係は少なくとも終了については期間の定めのない契約として取り扱うべしとの規範命題を内包しているものと解される。けだし、そのように解しないと、もともと期間の定めがある契約に解雇予告を必要とした論理は理解されないからである。そして、「引き続き使用されるに至った」という関係は事実として雇用関係が存続していればよく、それが明示の更新によったか黙示の更新によったかによって結論を異にするわけではない。・・・この意味では、決して期間の定めのない労働契約に「転換」する法的根拠がないとは言えない。
>ところで、このように解するとしてもさらに問題となるのは、本件のような労基法21条但し書き各号に該当しない場合の法的取扱いである。本件の期間の定めは3か月であるから同条但し書き各号のいずれにも直接は該当しない。私は、このような場合、季節的業務に関する同4号の類推適用を肯定すべきではないか、と考える。同号は業務の目的はいささか異なるとはいえ、すでに4か月以内の期間の定めのある契約について右の構成を肯定しているからである。
山口先生がこういう論理を展開される理由は、後に最高裁が採用した類推適用論は論理的に矛盾しているからです。これはまさしくその通りで、結果オーライのアクロバティックなロジックとしか言いようがないんですが、みんな仕方がないから使っているんでしょう。しかし、若き山口先生は棍棒を振り下ろします。
>(1)期間の定めのある契約はいくら更新を重ねても期間の定めのある契約にとどまるという判旨第2点の命題と、第3点の更新拒絶即ち解雇であるという命題は論理的に一貫しない。
>(2)更新拒絶は以後新たな契約は締結しないという意思の表明に過ぎないから、当該期間の定めのある労働契約の解約とは言えない。強いて言えば、法的には、満了期日を確認的に通知した観念通知と見るほかないであろう。したがって、性質の異なる両者を同視する実質的根拠はない。
>(3)実際的にも難点がある。それは、本件のように使用者がわざわざ更新を拒絶したら解雇と同視され、解雇保護の法原則が適用されるが、もし使用者が何も言わなかったらどうなるのか、という点である。判旨によれば、期間満了により労働契約は終了するというほかないであろう。このように、使用者がたまたま更新拒絶の意思を明らかにしたか、しなかったかによって結論を異にするのはおかしい。また、使用者にとっては、わざわざ親切に更新の意思がないことを明らかにし事態を明確にすると不利に扱われ、ずるく事態を曖昧にしておけば有利に扱われるというようなことは、到底納得できないであろう。
いちいちごもっとも、というか、なんでこんな欠陥だらけの「法理」がまかり通ってきているのか、という気もします。
ここで突然我田引水すると、労働契約の問題を政策立法たる労働法の論理ではなく、親しみ慣れた民法の論理でもって何が何でも扱おうとする「契約論的発想の弊害」が、ここに現れているのではないか、と私は思うのですが、それはまた別のところで。
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