『労働法改革』大石玄さんの「場外戦」
先日本ブログでご紹介した『労働法改革』(日本経済新聞出版社)ですが、わたくしとともに執筆陣に加わっている大石玄さんが早速そのブログ「博物士」でとりあげ、「場外戦」をされています。
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20100209/p1
>日本における労働条件の決定システムは「労働協約」「労働契約」「就業規則」の3つが組み合わさって構築されています。しかしながら,労働組合活動の低迷によって「労働協約」の適用下にある労働者は少数になっているのが現状です。「労働契約」はというと,日本では雇入れの際に交わされる契約の条項がスカスカであることが多く,労働条件を決める機能が弱いのが実状です。昨今では有期雇用労働者については労働契約を交わすことも多くなっていることと思いますが,それにしても「契約書どおりに雇用は3年で終了して,その先の更新はありませんよ」というための便法に使われてしまうのがオチ。
結局,労働条件の多くは,使用者が一方的に定めることのできる「就業規則」に委ねられてしまうということになります。「対等の立場において,決定すべき」〔労働基準法2条1項〕労働条件が使用者の思うがままになるのは,法の理念からしても不適切です。実際,オイルショックの時期に就業規則を用いた労働条件の引き下げが相次いだことから,裁判所を通じて「就業規則の不利益変更法理」が打ち立てられました。現在では,労働契約法(2008年3月施行)の第9条ならびに第10条となっています(判例法理と法の条文が同じかどうかは議論あり)。法律の名称は「労働契約」法となっているものの,その実質からすれば「就業規則」法と呼ぶのが相応しい位置づけの立法であります。
こうした認識に立ちますと,集団的な労働条件決定システムが空白となっている現状に対して,どう対応するかが労使関係法制の課題だと言えます。これに対しては意見の分かれるところでありますが,今回の水町提言では「従業員代表制度の創設」を唱えております。比較法的にみると,すでに労働組合が存在しているところに従業員代表制を並立的にくっつけているのがスペインの制度だ,というわけで書いたのが今回の文章です。
が,水町先生から日本法についての示唆を書いて欲しいとのオーダーがありましたので,最後に少しばかり私見を書き加えました。それが,「従業員代表制に賛成なのか反対なのか,お前はどっちなんだ!?」というニュアンスになっている最後の一文。
昨日のエントリの労委労協でのお話しも、まさにこの「集団的な労働条件決定システムが空白となっている現状に対して,どう対応するかが労使関係法制の課題」という問題意識から発するものなのです。
問題意識も共通なら、それに対して単純な処方箋を書けないというアンビバレンツを感じているという点でも、わたくしと共通点があります。
>《法律学》の立場からすれば,従業員全員を強制加入させる形の労働者代表制を設けるのが最もスッキリします。しかし《労使関係論》からすると,たとえ制度というハードウェアを用意したところで,ソフトウェアを動かして運用できる人材がいなければ機能はしません。新たな労働者代表制度を設計するにしても,果たして職場ルールづくりに責任を持って関わってくれる労働者側の人材が揃うのかが不安なところ。下手をすれば,労使関係法制までもが使用者の一方的な権限行使の手段として使われるという事態も危惧されるところなのです。
考えあぐねたあげく,迷いもそのまま残した文章と相なりました。脱稿した後に濱口先生の『新しい労働社会』が上梓されたので今回の文章には反映できなかったのですが,その第4章で展開されている「労働者代表組織は労働組合であってはならないが,労働組合でなければならない」という提言も,私の考えているところと方向性は同じなのだろうと思っております。
労委労協の研修会の場で申し上げたことですが、拙著第1章から第3章までは、私はどんなに少数派でも多数派の方が間違っているんだと自信を持って喋れますが、こと第4章に関しては、現実可能性という観点からあえてすっきりしない議論を展開せざるを得ない感覚がつきまとうのですね。
大石さんがそういう感覚を持たれる一つの理由は、彼がスペイン労働法を専攻しており、現在のスペイン労使関係法制が、フランコ時代に由来する「全従業員を代表する者に、労働協約の締結と団体交渉を担当させる」という仕組みを受け継いでいることにあるように思われます。この点で、同じような国家社会主義的枠組みで作られた企業内従業員代表組織を戦後民主化することで形成された日本の企業別労働組合と、見えない赤い糸でつながっているような気がします。
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