うえしんさんの「なぜ学校は職業を教えなかったのだろう」
先だって拙著を書評していただいた「うえしん」さんが、少し前に「なぜ学校は職業を教えなかったのだろう」という評論を書かれていました。
本ブログで何回となく取り上げてきたテーマを、現実と格闘する中の生々しい感覚で描き出されています。一部引用しますが、その迫力ある文章は是非リンク先にいってお読み下さい。
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-1379.html(なぜ学校は職業を教えなかったのだろう)
>この社会は学校にしろ、マスコミにしろ、職業をあまり教えてくれることはない。なんだか職業の知識が「秘匿」されているかのようだ。マスコミは消費や遊びの技能を教えてくれるが、職業やお金の稼ぎ方を教えてくれるわけではない。消費者のためのメディアであって、労働者のためのメディアではない。
学校も職業を教えてくれるわけでもない。いぜんは学校を卒業して職業知識がまるでなくて受験知識だけでも企業が職業訓練をしてくれた。戦後の学校というのは企業のそういう学生の職業無知を周知でうけいれた。高度成長、人手不足で、職業知識は不問にされる余裕があった。だから学生は大学まで勉強して大学では遊べばいいだけだった。といより、学校は職業知識より教養知識を教える機関になり、世間も職業校より普通科を上におく価値観をもっていた。学生は職業知識についてまるで無知であることが至上であるような二十年を生きてきたのだ。・・・
>一時期ニートが騒がれたことがあったが、若者は雇用の転換の犠牲者になったのだ。戦後の教育と職業のありかたと、90年代以降の企業と雇用の関係のはざまにおいて、うちすてられた波間の落し物のように若者は職業からほうっておかれたのだ。学校教育において職業能力がまったくない青年に育て上げられた彼が、どうやって採用を削減しはじめた企業と対等にわたりあるけるというのだ。学校において赤ん坊にされたままでどうやって職を見つければいいというのか。
高校の教師は就職が決まらなかったり、フリーターになるしかない卒業生をどのような気持ちで送り出すのだろうかと思う。自分が教えてきた教育がかれの将来に有益な保障や保険をあたえてやれなかったことについて悔恨の気持ちをいだかないのだろうか。・・・
>学校は教養科目をおおく捨てて職業教育に転換すべきなのだ。いぜんから大半がサラリーマン、労働者になるのにどうして学者や金持ちの教養人になるような教育がほどこされるのかふしぎだった。学校は学問や知識の価値を教えるところだ。まちがっても商売や金の稼ぎ方、労働者として生きるすべを教えるところではない。労働者は労働者の教育をほどこされるべきであって、学者のそれではない。価値観を転倒させられてしまうのだ。
学者ははっきりいえば、労働や労働者を軽蔑する価値観やヒエラルキーをつくりだす。知識や学問の価値観というのは世俗や現実の軽視をふくむ。知識は読書や書き物によって長時間動かないで熟考されるもので、したがって行動や実践を下位のヒエラルキーにおくものなのだ。戦後の学歴社会はいっそうの職業軽視の風潮を強めたのではないだろうか。
>これまでのお約束であった勉強しなくても企業がうけいれてくれる社会は終わった。そればかりか最初から稼ぐ能力や効率よく仕事をする能力がもとめられるのである。学校はいっさいそんなことは教えてくれない。いまのままの教育では企業がもとめない学生を大量に世間に放り出すだけである。まるで坊さんの学校にいって企業に就職するようなものである。教師も就職の決まらない学生に胸が痛いだろう。教育と学校の価値はがらりと変わってしまったのである。職業能力を教える学校に転換することが強くのぞまれるところだ。
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