大野正和『自己愛化する仕事』
本ブログにも何回かコメントしていただいている大野正和さんの『自己愛(わがまま)化する仕事-メランコからナルシスへ』(労働調査会)をお送りいただきました。ありがとうございます。表見返しに曰く:
>日本の職場の病理は、過労死やうつ病から自己愛的なパワハラや軽症うつ病が増加している。いまや、まじめで責任感の強いタイプよりも自己中心的で他者の視線に敏感な人々が、職場の主流を占めるようになった。かつての日本的経営は、他人を思いやる利他的行動に支えられていたが、現代の自己愛は利己的・他罰的な傾向を強め、職場の雰囲気そのものが変化しつつある。この傾向が、能力主義から成果主義への移行の深層にあった。
大野さんの問題意識は、「あとがき」の言葉を引用すれば、
>「ココロ系」と「シゴト系」は、なかなか相交わらないもどかしさがある。精神科医は労働現場に疎いし、労務屋さんは心理的な問題に弱い。過労死やうつ病にしても、両社が共同して課題の解決に当たればもっと心強いと思うのだが、いかんせん、アカデミズムでの交流はほとんどない
>そこで、仕方なく、私のような変わり者が冒険的試みをするしかない。
というところにあるのでしょう。確かに、正直言って、「ココロ系」の議論は、よく分からないまま参入するとやけどしそうな感じはあり、長時間労働が問題だよと云ってれば楽だよね、という面はあります。しかし、もちろん、本ブログでやりとりしたときにも述べたように、それだけの話じゃないという気持ちもあります。
私自身けっこう以前から職場のいじめ問題は根の深い大きな問題だろうという意識はあり、その観点からも「ココロ系」の議論を抜きには済まされないだろうね、とも感じています。本書の「第4章 派遣社員過労自殺事件」は、以前私が評釈したニコン(アテスト)事件を陳述書や口頭弁論などを駆使して追いかけたものですが、「今職場で何が起こっているか」を本気で追いかけようとすると、これくらいの取り組み方が必要なのかも知れません。
全体として云うと、メランコからナルシスへ、というのは分かるのですが、ナルシスの現れがホリエモン型のジコチュー的ナルシスと、引きこもりニート型のナルシスだけというのはさみしい気がします。
メランコがごく普通の日本の労働者たちであったような意味での、ごく普通のナルシスたちというイメージはあり得ないのかな、というのが薄っぺらな感想ですが。
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いつもながら素早いご感想に感謝します。
「ごく普通のナルシスたち」
そうですね、健全な自己愛をもって職場でがんばっている若者たちの姿が、なかなか見えてこないもどかしさもあります。
病理的現象としてではなく、積極面を持った自己愛型仕事倫理という切り口は、ぜひとも必要でしょうね。
ただ、それがともすれば新自由主義と自己責任論に親和的な「競争主義的労働者像」をイメージさせるのが、気になります。
ふううのナルシスというのは、是非ともさぐっていきたい姿です。
ありがとうございました。
投稿: 大野正和 | 2010年2月 2日 (火) 08時43分
ココロ系の議論を中心にそえてしまうと「ナルシズム」や「メランコ」という心理学用語が一人歩きしてしまうのも、また交流のなさなのかもしれませんね。学問自体が常にナルシズム傾向って話も否めないでしょう・・・。
制度として法として形をとる場合、ある程度のドグマを持たざる得ない以上、ナルシズムのような言葉ではなく、より多くの合意を得られる自尊心や尊厳というような普通の言葉で語られるべきでしょう。若い世代ではプライドって言葉の方が普及してたりしますけどね。
心理系の議論は問題を個人の心理に帰着させすぎる傾向が強いので、問題の政治性がつぶれる。ここにはまちゃん先生も興味はありつつもわずらわしいものを感じるのだと思います。
中途半端な哲学的な議論をしてる間に、経済や産業の論理は進んでいく。よりスムーズに、戦術的に対応できる学際、制度体制の方が余程求められてると思います。
周りでニート状態に陥ってる人で、病理的なナルシズム傾向を持つ人間なんて誰もいません。むしろ、逆のパターンの方が・・・。
精神分析の用語を安易に使うのは、結局、差別と普通に語れる政治性、そんな中で育つコモンセンスの剥奪にしかならないかと。ニートが、大衆的には社会問題としてよりも、差別用語として受け入れられたのと同じことになるかと。
レッテル張りにつぐレッテル張り、こんな子供じみた事をやってるほど、今の日本の労働市場って甘くないと思うんですよね。
投稿: たろ | 2010年2月 2日 (火) 08時43分
子供じみたレッテル張りですか。
なかなか厳しいですね。
一度誰かが「心理主義」を克服したココロ系の制度論を打ち立てなくてはなりませんね。
あるいは、「心理」はまったく排除してしまうか・・・
もっと実際的に言うと、労働現場のわかる精神科医のような存在が必要なのかもしれません。
ぎゃくに職場心理に配慮した制度設計も必要かと。
とにかく、「対話」をはじめることでしょうか。
投稿: 大野正和 | 2010年2月 2日 (火) 12時54分
>>なかなか厳しいですね。
誤解を与えましたらすみません、一般的な兆候に向かっていったもので、大野さんの著書にむけていったものではありません。
心理学用語が持つ病理とするようなコノテーションを意識せずに、無作為に乱用する傾向に対しての嫌悪感を発してしまっただけです。著者の側がこのイデオロギー性を故意に利用して興味を持たせるようにヴァイアスをかけてる場合が多すぎますよね。
こういった言葉で、相手を病理として退ける傾向が逆に増大してるのではないかと。それこそ、「不潔」といって排撃するような子どものいじめに良く見られる傾向に装飾を施してしまうだけになる。人が人を排撃する方便になってしまいかねない。
大野さんがこんなことを望むわけが無いのは重々承知しております。
精神科医に任せてそれでよしでは、場が病院化、制度化されてるがままになってしまう恐れもあります。抗不安剤を飲みながら、仕事をしてるなんて風景もかなり見るようになってます。
しかし、そうした方向性が、おっしゃられる「対話」を逆に裏切るハメになってしまいますよね。
今閉じられている(つつある)対話の可能性をどう開くか、どう制度がそれをサポートできるのか、そこには非常に興味があります。
「~をさせない」ではなく、
万人にとって、自由をどれだけ保障できる法制度を作れるか、それが、学問、制度設計者の良心だと思うのです。
不遜な意見失礼しました。御著書の方、ぜひ拝読させていただきたいと思います!
投稿: たろ | 2010年2月 3日 (水) 03時28分
おっしゃられるように、「メランコ」や「ナルシス」という言葉は、マスコミ流通させるための用語ととられかねない危険性はあります。
それでも、それなりに流通すれば議論を巻き起こすきっかけになるかもしれないと期待しますが、やはり甘いのかもしれません。
問題は、「抗不安剤を飲みながら仕事をしている」人々が増えているのは事実で、そこを精神科医まかせにするのではなく、「職場」や「制度」や「管理」でどう対応できるのかということです。
そして、危惧される「心理主義」のもつ「排除」「排撃」の論理には十分注意しなくてはなりませんね。
障害者の歴史がそれをいやというほど、示していますから。
わたしの最終的な戦略は、心を病んで排除されかねない人たちが、そのままの姿で生きる場所を獲得できるようにすることです。
むしろ、そういう人たちの方が真実の生き方に近いのだということを示すことです。
しかし、これがいまだ「哲学的な」議論にとどまっていて具体的制度設計になっていなのが、わたしの弱点ですが。
投稿: 大野正和 | 2010年2月 3日 (水) 08時28分
心理学用語のマスコミ商品化といえば、その昔「スキゾ」と「パラノ」なんていうのもありましたね。
それはともかく、私自身はアカデミックな「心理学」はともかく、臨床心理関係の知識というか技能というか、そのあたりの土地勘が、労働関係に関わる者にますます必要になりつつあるんじゃないか、という感じはとても強く感じるのです。
本ブログで何回か述べたように、今個別労使紛争の内容分析をしているのですが、いじめ・嫌がらせ事案を中心に、しかしそれに限らず、様々な紛争の中に職場の社会心理がとてもうまくいかない状況が浮かび上がってきていて、それがあちらこちらに噴出しているんですね。相談に来る労働者のかなりの部分がなんらかのメンタルな問題を抱えてくるというのは、やはりきちんと腰を据えて分析しなければならない事態であることは間違いないと思っています。
大野さんのおやりになっていることにはとても期待感を持ってみているんですよ。
投稿: hamachan | 2010年2月 3日 (水) 16時26分
はじめまして。これまでずっとROMしていた者です。エントリとコメント欄を読み興味を持ったので、大野氏のリンク先サイトへ行ってみました。新刊は読んでみたいです。
投稿: 月齢 | 2010年2月 4日 (木) 15時50分