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2010年2月10日 (水)

身分関係に「契約の自由」はあるか?

中部産政研が出している『産政研フォーラム』の84号に、大内伸哉先生が「契約の自由をめぐる一考察」というエッセイを書かれています。

一読して、わたくしが昨今「労働法における契約論的発想の弊害」と言ってきていることと、まさに正面から関わるテーマであると感じました。

問題の本質を一言で言えば、現に身分関係によって構築されているシステムの正当性を契約のロジックで説明しようとすることの不適切さということになります

あらかじめ言っておく必要があるのは、ここで身分とか契約というのは特段価値判断は入っていないということです。身分システムにも契約システムにもメリット、デメリットがあります。

しかし、身分システムは一定のすでに社会的に構築された枠組みの中に当事者が入り込むものであって、そのあり方を当事者が勝手に決めていいわけのものではありません。マスターとサーバントの関係は、その時代の社会規範が決めるのであり、個々のマスターやサーバントはそれを受け入れてその通り振る舞わなければなりませんでした。

一方、契約システムは契約関係に入る前にはまったく対等の当事者が、自分たちの合致した意思に基づいて一定のトランザクションを行うものですから、そのトランザクションの中身自体は自治に委ねられますが、前提条件として当事者間の対等性が必要です。

世の中には身分システムに適した社会関係もあれば、契約関係に適した社会関係もあります。「身分法」という言葉もあるように、家族関係は契約自由に委ねることは極めて制限され、社会的に認められた枠組みを受け入れることが重要な分野です。一方、スポット的な売買関係は、一切身分関係なしにもっぱら契約原理で行われることがふさわしいでしょう。

しかし、世の中には、長期的な売買関係、長期的な賃貸借関係などすっぱりと割り切れない関係があります。そこで、契約原理を中心としながら、身分制的な修正を加える形で現実に適合した解決が図られてきたわけです。

ここまではいいですね。法学概論みたいな話ですが。

問題は労働関係の性質です。一方にはスポット的な労務賃貸借というローマ法的伝統があり、他方には主従の忠勤契約というゲルマン法的伝統がありますが、大きく近代の歴史を言えば、メーン流の「身分から契約へ」から現代的な「契約から身分へ」という大きな転回が、民法から労働法なる独立分野が生み出されてくる背後にあったといってよいでしょう。

問題はこの現代的「身分」であって、ヨーロッパの歴史的には、マスターとサーバントの関係が、実定労働法やとりわけ労働組合の労働協約によって外部から規定されるようになるとともに(それらに規定される分、契約の自由の度合いが少ない関係として)対等の使用者対労働者の関係に進化してきたというのが、今日の労働法学の知見であろうと思われます。

日本の場合も、それと類比的に進化のプロセスが進んだのですが、契約の自由の度合いを縮小する「身分」システムが、個々の企業のメンバーシップという形で形成されたという点が、ヨーロッパとの違いであると思われます。

これまた、いかなる意味でも価値判断を含みません。「正社員というのはこういうものだ」という社会規範によって、個々の使用者の恣意が縮小され、労働者が一定の身分を有する者として保護されるという仕組み自体は、それで社会がうまくいっている限り、大変良くできたシステムであったからです。

大事なのはここです。「正社員システム」とは、個々の使用者と労働者の契約の自由に立脚したものではありません。家族を養わなければならない成人男性労働者は、過重なくらいの労働義務を果たしながらも、家族の生活が維持できるだけの賃金を長期的にもらう。そうじゃない主婦パートや学生アルバイトは、小遣い稼ぎ程度の処遇で十分、という社会的に確立した規範に、個々の使用者と労働者が特段異議を唱えず、そのまま乗っかることによって成り立っていたのです。身分システムとはそういうことです。

身分システムは、みんながそのシステムでハッピーである限り、身分システムであるからといって批判されるべき筋合いはありません。現に、かつてはおおむねみんなハッピーだったわけです。

逆に、身分システムの正当性はその時代の社会規範にあるのですから、社会の側が「それっておかしいんじゃないか?」と感じだしたときに、立脚もしていない個人間の契約自由によって正当化すべきものでもありません。

ようやく大内先生の議論を批判する準備が整いました。

大内先生の議論はどこがおかしいのか。

21ページの最初のところに、こういう大変興味深い記述があります。

>このような方法で「契約の自由」を制限していくことについては、奇妙なことに、新自由主義派の論者と、均衡重視主義派のプロレーバーの間に、あまり差がない。

それは当たり前なのです。

ここで大内先生が「新自由主義」と呼んでいる八代先生の考え方は、まさに労働システム自体を「身分から契約へ」転換すべきだと考えているから、つまりいままでの企業メンバーシップ型の身分システムを解きほぐして、契約システムに再構成すべきだと考えているから、これまでの身分システムを前提とした正社員と非正規との差別的取扱いをなくそうとするわけです。

一方、大内先生の言う「プロレーバー」の方々が、ホントのところどこまで反契約主義的なのか、私は大変疑わしく思っていますが、それはともかく、身分システム的な発想からすれば、いままでは社会的に適切であった身分関係の割り振りがいろいろと問題を生ずるようになったので、違う身分システムに移行していかなくてはいけないのではないか、ということになるのは自然です。わたくしはどちらかといえば、そういう発想です。

何にせよ、現に存在する正社員システムが(六法全書の条文上というようなレベルは別にして)いかなる意味でも「契約の自由」に立脚したものではなく、これまでの社会規範に立脚していたにもかかわらず、それをいまになって「契約の自由」で正当化しようとすることには、議論の仕方として大変疑問を感じるところです。

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コメント

この記事と前回の記事が、『新しい労働社会』の補講を受けているような感じでありがたかったです。

なお、この記事の内容には共感するのですが、それをきちんと立法化するのであれば格別、現行の実定法の法解釈のレベルで実践していくことが適当かという疑問が払拭できません。
座視できない現状に対しては、思い切った解釈で切り込むしかないということになってくるのでしょうか。

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